忍者ブログ

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平犯科帳  鬼平まかり通る  4月

「そこだ(おき)(もと)、どうだ、田安家で唯一の厄介は宗武の七男(まさ)(まる)(後の老中松平定信)であろう。これを取り除けば田安には十一代様に成る者がおらぬようになろう」
大名武鑑をめくりながら一橋治済(はるさだ)、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様とまさまる)様のお二人。お世継ぎは治察(はるさと)様と言う事となるものゝ、万が一治察(はるさと)様になんぞ異変が生じました折にはまさまる様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に(はる)(さだ)立ち上がる。
 
外濠
 
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた(てい)(かん)の間がある。
一橋(はる)(さだ)、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦(さだくに)
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋(はる)(さだ)様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦(さだくに)に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐(いきの)(かみ)様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、(ため)(ずめ)祗候席(しこうせき)と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。もしも越中殿が、同じ田安家七男まさまる)様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿(はる)(さだ)
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿(はる)(さだ)の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安徳川(まさまるとの養子縁組を上奏したのである。
 
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川まさまるの養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守(おき)(もと)、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察(はるさと)薨去(こうきょ)に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居たまさまる)は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)の判断で、一度決定されたものを反古(ほご)にすることは認められないと却下。田安徳川(よし)(まる)は陸奥白河に封じ込められる状態に置かれたのである。
後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(まさまる)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)の屋敷を訪れた。奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣(のぶため)、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒(との)殿頭(ものかみ)様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)へ進物を上納したのである。その中には閣僚への推挙願いが(したた)められていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)の暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。
 
 
青い果実
 
安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。
この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)
念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋(はる)(さだ)は、一橋家家老田沼能登守意致(おきむね)
「どうであろうか、ご老中(との)殿頭(ものかみ)様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍(いえ)(なり))を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致(おきむね)
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」
そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川(よし)(まる)を田安家から排除する相談があった事を実父田沼能登守(おき)(のぶ)より聞かされていた田沼能登守意致(おきむね)
(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼(おじ)()()様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。そう踏んだ田沼能登守意致(おきむね)
「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済(はるさだ)からの申請を受け、田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)、早速登城し、()せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済(はるさだ)の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川(いえ)(なり))を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致(おきむね)は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼(との)殿頭(ものかみ)意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川(いえ)(なり)近衛寔子(このえただこ)は一橋家へ引き取られ(いえ)(なり)と一緒に育てられる。
この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済(はるさだ)、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様は(との)殿頭(ものかみ)殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」
傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。
突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。

拍手[0回]

PR

鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 3

置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗(むね)武(たけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう)(抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免(ひめん)。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、誠にありがたきお言葉、この田沼意誠、謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平伏したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭(意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭)意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉が誕生している。
「のう意誠、十代様には未(いま)だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意(おき)誠(もと)、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。

拍手[0回]


鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 2月号




青い果実

安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)


念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年閏(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田沼能登守意致に「どうであろうか、ご老中主殿頭様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家斉)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川賢丸を田安家から排除する相談があった事を実父田沼能登守意誠より聞かされていた田沼能登守意致(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼意次様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。そう踏んだ田沼能登守意致「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済からの申請を受け、田沼主殿頭意次、早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川家斉))を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼主殿頭意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川家斉と近衛寔子は一橋家へ引き取られ家斉と一緒に育てられる。この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基様は主)殿頭殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼主殿頭意次を疎んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼主殿頭意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明四年三月二十四日、田沼主殿頭意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知は、江戸城内において旗本佐野政言により粟田口国綱の末裔一竿子忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代    (家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠の嫡男、田沼能登守意致のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。

拍手[0回]


鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 1月号


置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗武(むねたけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう・抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹(むねただ)を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、真にありがたきお言葉、この田沼意誠謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平服したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹(むねただ)薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠(おきのぶ)、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済(はるさだ)様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉が誕生している。
「のう意誠、十代様には未だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。
「そこだ意誠、どうだ、田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる)(後の老中松平定信)であろう。これを取り除けば田安には十一代様に成る者がおらぬようになろう」
大名武鑑をめくりながら一橋治済、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸様のお二人。お世継ぎは治察様と言う事となるものゝ、万が一治察様になんぞ異変が生じました折には賢丸様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉立ち上がる。
外濠
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた帝(てい)鑑(かん)の間がある。
一橋治斉、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦(さだくに)に
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋治斉様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐守様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(ためずめ)(祗候席(しこうせき)と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。もしも越中殿が、同じ田安家七男賢丸様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿治(はる)斉(さだ)
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿治斉の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安田安徳川賢丸との養子縁組を上奏したのである。
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察薨去に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの判断で、一度決定されたものを反古ほごにすることは認められないと却下。田安徳川賢丸は陸奥白河に封じ込められ
る状態に置かれたのである。後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(賢丸)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの屋敷を訪れた。奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣のぶため、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒主との殿頭ものかみ様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐへ進物を上納したのである。その中には閣僚への推挙願いが認したためられていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。

 

拍手[0回]


鬼平犯科帳 鬼平まかり通る  12月

粟田口国綱

この数年後十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様はご老中の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか、お聞き及びではござりませぬか?」
と告げた。
十八歳の若さで突然奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂し、疑心暗鬼に陥ったまま、懐刀であった田沼意次を疎(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明4年3月24日、田沼意次嫡男にして老中であった田沼意知(おきとも)は江戸城内において佐野政言により粟田口国綱(長谷川平蔵愛刀)の末裔一竿子忠綱の大脇差で殺害されている。
天明6年(1786)8月25日第10代将軍徳川家治が五十歳で没し、一橋徳川豊千代(家斉・いえなり)が晴れて第十一代将軍の座についたのである。
我が子一橋家斉(いえなり)を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永3年以来13年に亘って費やして以後、残るは田沼意次の実弟、家老田沼意誠(おきのぶ)である。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった田沼意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼意次一人に押し付ける工作が始まったのである。
その大一手が罪滅ぼしのつもりもあってか、かつて自分が画策して久松松平家陸奥国白河郡白河松平家二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗武の七男松平定信(幼名賢丸・まさまる)を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼意次一派の包囲網が完成を見たのであった。
白河の水も恋しや
こうして白河松平家松平定信は、若干十五歳で第十一大将軍に就いた一橋徳川家斉(いえなり・豊千代)の後見役となり老中の席に就き、この自分を田安家におかず辺境の白河藩に追いやった田沼意次や弟意誠(おきのぶ)、甥の意致(おきとも)が家老を務めていた一橋治済(はるなり)と田沼一派、それに組みした政権に関わる者達に対し憎悪を燃やし、これを機に田沼一派の排除が本格化していった。
天明6年(1786)8月27日田沼意次は老中を解かれ雁の間詰に降格され、10月5日2万石を没収。
大阪の蔵屋敷の財産も没収。江戸屋敷の明け渡しも行われ、蟄居(ちっきょ)の後再び減封を命じられ、居城であった相良城は微塵の痕跡もないほどに打ち壊された。
老中首座についた松平定信が定めた寛政の改革(1787~1793)には、賄賂を禁じる項があり、盆暮れのお礼など、本来支払うべきこれらのものまでも差し出さなくなったため、寛政4年(1792)皮肉な事に付届けを義務付ける御触出しを出さざるを得なくなったのである。
田沼時代に幕府財政の収入が増えていたものを、定信が掲げた改革によって逆に百万両(1兆円)もの借財が出来てしまった。
{田や沼や よごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水}と落首にのぼったものの、太田南畝により
{白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき}と狂歌に詠まれる始末となり、わずか6年で老中首座を失脚したのである。
この若き老中首座の松平定信も、したたかな一橋治済にかかっては手持ちの駒でしかなかったようで、定信が主導した寛政の改革は財政の立て直しのために厳格すぎ、将軍家斉や他の幕臣から批判が上るようになった。
長谷川平蔵亡き後の寛政5年(1793)7月、第十一代将軍徳川家斉と、その実父一橋治済の目論見に嵌められ、此処に松平定信は老中首座を罷免されるのである。
鬼平誕生
天明3年(1783)浅間山の大噴火が起こり、その被害は甚大なもので後に天明の飢饉と呼ばれ、これにより田畑を失ったり禄を離れた浪人などが江戸に大挙して流れ込み、これらにより天明7年(1787)江戸・大阪を中心に地方30箇所あまりでも打ち壊しや暴動、盗賊事件が頻発。
時の老中田沼意次の政策であった囲米も放出を余儀なくされた。
これを鎮圧するには南町奉行山村信濃守良旺・北町奉行曲渕甲斐守景漸だけでは手が足りず、このため先手弓組一番の盗賊火付御改(火付盗賊改方)堀帯刀秀隆も打つ手なしという体たらくに、実戦部隊である御先手弓組十組に鎮圧の命が下った。
この時加わったのは西之丸先手筒組奥村忠太郎を組頭に以下、筒組(つつ・鉄砲隊)7・6・19・17・2・9弓組2・6弓組。
弓二組頭であった長谷川平蔵は与力75騎・同心300名を率い出動した。
その働きぶりには目をみはるものがあったとある。
この時、老中牧野越中守忠精は
「手に余れば切り捨ててよし」
と下知を下した。
天明6年(1786)老中首座に就いた松平定信は、田沼政権下での西之丸仮進物徒(賂受付係)であった田沼意次一派の一人、長谷川平蔵も忘却しておらず。これにも憎しみは向けられ、翌天明7年、御先手(おさきて)弓組二組頭である長谷川平蔵は老中の命により、火付盗賊改方助役を加役される。まさに絶妙の好機であった。
すなわち、天明7年(1787)5月20日夕刻より始まった天明の打ちこわし事件が勃発したのである。
5月15日過ぎより両国橋・永代橋・新大橋から大川へ身を投げるものが続出し、渡し船からさえも身を投げる者が出た。このために18日以降は渡し船の運行を禁じた。
時の奉行は南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら) 北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげゆき)火付盗賊改方堀帯刀秀隆(ひでたか)であった。
だが堀帯刀は役職にあまり乗り気でなく、鎮圧に消極的であった。暴徒と化した者の中には無宿人も見受けられ、これらに扇動されて更に油を注ぐ事となり、20日夕刻赤坂の米屋2~30軒を皮切りに、夜には深川でも打ちこわしが勃発。
鐘や太鼓、半鐘、拍子木など音の出るものは何でも抱え、打ち鳴らしを合図に乱入。
こうなると群集心理の凄まじさで、あらゆるもので押し入り、家財から調度品まで破壊し、米、味噌、醤油、酒とありとあらゆるものを路上や川にぶち撒いた。
だが、これも鳴り物で合図されると一旦取りやめ、休息を取るなどかなり組織化されていたことが伺える。
こうして次第に押し買い(買い手が値段を決める)が頻発、これを拒否する場合はそこを打ち壊した。
この最中にも商人は賂を贈って武家屋敷に米を隠匿した。そんな中で火付盗賊改方堀帯刀の屋敷へも運び込まれた。
5月23日これを鎮圧するために、御先手組に出動命令が出たのである。
24日芝・田町を最後に、翌25日さしもの打ち壊しも、やっと終止符を打ったのであった。
江戸の打ち壊しにあった家屋500軒あまり、その内の400軒は米屋、米搗き屋、酒屋など飲食関係であった。
中では大阪城代下総国佐倉堀田相模守御用の米蔵が警護の厚いさなか打ち壊され、油問屋の丸屋又兵衛も打ち壊されてしまった。
老中よりのご注進にも関わらず、その実情を将軍徳川家斉に問い正されたものの、田沼意次の懐刀御用御取次横田準松(のりとし)
「市井はこれ平穏無事にござります」
と答えた。
だが、これは隠密の調べで膨大な被害があったことと判明しており、この事件で横田準松は罷免。田沼意次の屋台骨が一気に崩れた事件でもあった。
これを機に御三家を後ろ盾に擁立して松平定信が老中に躍り出たのである。
この時松平定信、将軍補佐という役柄から、家斉に
「御心得之箇条」より、
「60余州は禁廷より御預りいたしたものの故に、これを統治することこそ武家の棟梁の本分であり、それがひいては朝廷に対する最大の崇敬でござります。
故に、たとえ朝廷とあれども将軍の政に口を挟むことは許されるものではござりません」
と断じた。
しかし当時この「大勢委任論」は、幕府が認めたものではなかった。後にこの考えが存在した為、黒船来航以後その責任を幕府が負わされることとなり、結果的に徳川慶喜によって大政の奉還に発展したのである。
これを機に翌8年、田沼政権の残党老中が一掃され、松平定信の老中首座の地位が堅固となり、時を同じくして長谷川平蔵へ火付盗賊改方本役が下知されたのであった。
老中奉書
本所菊川町の火附盗賊改方長谷川平蔵役宅に下野国壬生老中鳥居丹波守忠意(ただおき)より呼び出しがかかった。
(はていつもなら気軽にお招きあるものを、此度はまたどのようなおつもりなのか、思い当たる事と言えば、これまで幾度も差し出すものの全くなしのつぶてとなっておる加役方人足寄場の建議書……なればよいのだが。ご老中直々ということならば、さてさて)
翌日指定された西之丸下の鳥居丹波守役宅を訪れた。
接見の間に祗候(しこう)すると長谷川平蔵、そこにはすでに鳥居丹波守忠意の姿があった。
平蔵低頭し言葉を待つ。
この鳥居丹波守忠意とは平蔵が水谷伊勢守勝久によって西之丸書院番4組に取り立てられた頃より昵懇(じっこん)の間柄であり、水谷伊勢守勝久とともに平蔵の後ろ盾となっている人物である。
「長谷川平蔵、此度辰ノ口評定所(和田倉門内)への人足寄場建議に付、少々尋ねたき議これあり返答いたせ。そこ元はいかなる所存にて此度人足寄場を建議致した」
低頭して控える長谷川平蔵の心底を確かめる如く丹波守、柔和な面持ちの中にも眼光は鋭さを持って臨んでいた。
「ははっ!!」
平蔵低頭し、
「されば…人はこの世に生まれしおりより悪事を為す者はござりませぬ。なれど生きてゆく上においてやむなく悪事に手を染めることもござりましょう」
「うむ 確かにのぉ」
「さすれば、罪を憎みしも、人までその憎しみで計るのは御政道の致すことにあらずと存じまする。
まずは罪を犯させぬよう致すことこそが寛容かと、そのために初犯に至らぬ者においてはこれをまっとうなる道に戻す方策も必要と存じまする」
丹波守忠意、このきっぱりと持論を述べる長谷川平蔵をよく解っていた。
(なるほど確かに一理ある、なれど一介の旗本が政に口出すことは罷りならぬ事、それを此奴は想ぅても居らぬ風)
「黙れ長谷川平蔵!そこ元はお上の政を批判致すつもりか!」
「ははっ!もとより然様なことは微塵も想うてはおりませぬ、が…」
「が、如何致した」
「はい、たとえ強請(ゆす)り集(たか)りであろうと、ただの物乞いであろうと、これもまた物乞いに変わりはござりませぬが、為すことはおおいに違いまする。
御法は人を守るためのものでなければなりませぬ。これを政で賄えるものであるならばそれを致すことも大事の一つと心得まする」
丹波守、政事を預かる身としては幕府批判とも受け取られかねないこの言葉は聞き捨てならない。
「そこ元は政事も手落ちがあると申すか」
「滅相もござりませぬ、なれど何事も用い方一つではなきかと存じまする。
悪事をひと所に纏めたとて、それで罪が消えるわけでもなくば、再び悪に走ることを止める手立てにもならぬかと存じます。
更に申せば、これで終わるわけでもござりませぬし、益々これらは増えるばかりのご時世、虞犯者(ぐはんしゃ・法に触れてはいないが法を犯す恐れのあるもの)なども何がしかの方策を持ってこれに当たらねば、やがては罪を犯す事になりかねませぬ。これでは江戸の庶民は安心して暮らすこともままなりませぬ」
(丹波守様が此処で剛力下されば、この建議お聞き届けいただけるかも知れぬ、ならば儂にとって百万の味方を得たのも同然)
平蔵、丹波守の心底が視えてきたのでふと口元が緩んだ。
「うむ、それが授産の方策と申すのだな?」
丹波守、平蔵の口元の緩みを逃さず認め、にやりと口元に笑みを浮かべる。
「はい 真然様に存じまする」
(儂の生涯をかけた賽は振られた、あとは御沙汰を待つのみ)
「ふむ、そちの申すこといちいちもっとも……あい判った!しばし待て、追っての沙汰を待つが良い」
丹波守、長谷川平蔵の熱い思いを確かめたことへの安堵の思いがその顔に出ている。
「ははあっ!!」
平蔵低頭する間に丹波守退座した。
(ふぅ~さて、此度こそお許しをいただけるやも知れぬ)平蔵の心のなかに爽やかな一迅(じん)の風が吹き抜けた思いであった。

拍手[0回]


鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 11月


オットセイ将軍と呼ばれた徳川家斉 確認できる範囲でも、本妻に16名の側妾を持ち、女27名、男26名を授かっている。中でも特筆すべき?は、当時精力剤として知られていた津軽名物オットセイの睾丸の燻製を飲んでいたとか……。


安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸(まさまる)の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠(おきもと)、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察(はるさと)薨去(こうきょ)に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸(まさまる)は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼主殿頭意次((とのものかみおきつぐ)の判断で、一度決定されたものを反古(ほご)にすることは認められないと却下。
田安徳川賢丸(まさまる)は陸奥白河に封じ込められる状態に置かれたのである。
後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(賢丸(まさまる)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼主殿頭意次の屋敷を訪れた。
奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣(のぶため)、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒主殿頭様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼主殿頭意次へ進物を上納したのである。
その中には閣僚への推挙願いが認められていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼主殿頭意次の暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。
青い果実
安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。
この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)
念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年閏(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋治斉(はるさだ)は、一橋家家老田沼能登守意致(おきむね)に
「どうであろうか、ご老中主殿頭様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家斉(いえなり))を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致(おきむね)
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」
そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川賢丸を田安家から排除する相談があった事を、実父田沼能登守意誠(おきのぶ)より聞かされていた田沼能登守意致(おきむね)
(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼意次様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。
そう踏んだ田沼能登守意致
「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済からの申請を受け、田沼主殿頭意次、早速登城し、臥(ふ)せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川家斉を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼主殿頭意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川家斉と近衛寔子(寧姫・篤姫・このえただこ・あつひめ)は一橋家へ引き取られ家斉と一緒に育てられる。
この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様は主殿頭殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」
傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。
突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
こう激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼主殿頭意次を疎(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼主殿頭意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明四年三月二十四日、田沼主殿頭意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知は、江戸城内において旗本佐野政言により粟田口国綱の末裔一竿子(いっかんし)忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代        (家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠の嫡男、田沼能登守意致のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致、小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主殿頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。
池の底
「さてさて、かつて陸奥へ追いやった越中は使える、此奴を使って相良を追い出さねば儂の思い描く世が訪れぬ。まずは越中を老中格に据えてからの話だ」
こうして一橋治済、徳川御三家、中でも筆頭格尾張大納言徳川宗睦(むねちか)は年上とあって、まずここを落とさねばならないと的を絞り、千代田城大廊下上之席に座している尾張大納言宗睦の座した上手に廻り、膝を詰めるようににじり寄り
「如何でございましょか尾張様、今、まだ上様は稚(おさの)うございます、そのためには上様お側近くにて補佐する者も必要(いろう)かと。そこで白河松平越中殿を老中に推挙致したいのでござりますが……白河殿は八代様お孫様に当たられるゆえ、御家門は妥当かと存じまする」
治済、そっと耳打ちするように尾張大納言宗睦に膝を進める。
(ふん、我ら御家門を蔑(ないがし)ろに、裏でこそこそと十代様に仕掛けておきながら、今になって我らを都合よぅ使うつもりか若造めが)宗睦、顔を背けつゝ、じろりとその細く顰(ひそ)めた目を流す、その先に一橋治済の蛇のように冷やゝかな策士の目が待ち構えていた。
尾張大納言宗睦、思わず顔に緊張が走ったものゝそこは流石に古狸、さっさと視線を戻し、横に座す水戸中納言治保(はるもり)へ無言の言葉を投げかけた。
それを見据えたまゝ治済、
「紀州殿はご承知くださりましょうな」
己より年下の、この若き当主をみやったその言葉には、有無を言わさぬという圧力がこもっている。
 「そ……それはそのぅ」
言葉を濁しその場に居合わせる水戸・尾張両当主の顔色を窺う。
 (何処までも姑息な……)
そうは思うものゝ、この現状で詰め寄られては応えぬわけにもゆかず、尾張大納言宗睦
「我等とて、上様をお支え致す立場なれば異存なぞあろうはずもございますまい、のう水戸殿」
水戸中納言治保(はるもり)を一瞥、小さく頷くそれを見届け、紀州大納言治寶(はるとみ)を見下すようにじろりと眺める。
いくら石高が百万石を越え、尾張を凌ぐと言えど、年の開きは序列に如実に現れてくる。
「大納言殿、我らに異存はござらぬ、越中殿の事、承知にござる」
忌々しげな口調に尾張大納言宗睦、ボソリとつぶやき、もうその話、よろしかろうと言わんばかりに目を閉じた。
この大一手は、かつて自分が画策し、久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗武(むねたけ)の七男松平越中守定信(幼名賢丸(まさまる))を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼主殿頭意次一派包囲網の策謀が完成を見たのであった。

拍手[0回]


鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 10月


一橋治済

置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗(むね)武(たけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう)(抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免(ひめん)。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹(むねただ)を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、誠にありがたきお言葉、この田沼意誠謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平服したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹(むねただ)薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉(いえなり)が誕生している。
「のう意誠、十代様には未(いま)だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱(ひじ)をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。
「そこだ意誠、どうだ、田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる)(後の老中松平定信)であろう。これを取り除けば田安には十一代様に成る者がおらぬようになろう」
大名武鑑をめくりながら一橋治済、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸様のお二人。お世継ぎは治察様と言う事となるものゝ、万が一治察様になんぞ異変が生じました折には賢丸様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉立ち上がる。
外濠
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた帝(てい)鑑(かん)の間がある。
一橋治斉、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦(さだくに)に
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋治斉様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐守(いきかみ)様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(ためずめ)(祗候席(しこうせき)と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。                 もしも越中殿が、同じ田安家七男賢丸様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿治斉
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿治斉の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安徳川賢丸との養子縁組を上奏したのである。
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察薨去(こうきょ)に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸 は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。

拍手[0回]


鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 9月


松平越中守定信  筆頭老中着任時 29歳であった。

鬼平誕生
天明三年浅間山の大噴火が起こり、その被害は甚大なもので、後に天明の飢饉と呼ばれ、これにより田畑を失ったり禄を離れた浪人などが江戸に大挙して流れ込み、これらにより天明七年江戸・大阪を中心に地方三十箇所あまりでも打ち壊しや暴動、盗賊事件が頻発。
時の老中田沼主(との)殿頭(ものかみ)意次の政策であった囲米も放出を余儀なくされた。
これを鎮圧するには南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら)・北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)だけでは手が足りず、このため先手弓組一番の盗賊火付御改(火付盗賊改方)堀帯刀秀隆(ひでたか)も打つ手なしという体たらくに、実戦部隊である御先手弓組十組に鎮圧の命が下った。
この時加わったのは西之丸先手筒組奥村忠太郎を組頭に以下、鉄炮(つつ)組(鉄炮隊)七・六・十九・十七・二・九。弓の二・六弓組。
弓の二組頭であった長谷川平蔵は与力七十五騎・同心三百名を率い出動した。
その働きぶりには目をみはるものがあったとある。
当時、老中牧野越中守忠精(ただきよ)は
「手に余れば切り捨てゝよし」
と下知を下した。
これが後に盗賊改の伝家の宝刀となる始まりでもあった。
町御役所はその大半が文官であるが、盗賊改は実戦部隊の武官であった。
今で言えば奉行所は東大。盗賊改は防衛大と言う感じだろう。
盗賊改は捕り方はおらず、その全てが同心である。
出張るおりは、与力が騎馬で出張り、長官(おかしら)は出張ることはなかった。
天明六年、老中首座に就いた松平定信は、田沼政権下での西之丸仮進物徒であった田沼意次一派の一人、長谷川平蔵も忘却しておらず。これにも憎しみは向けられ、翌天明七年、御先手(おさきて)弓組二組頭である長谷川平蔵は老中の命により、火付盗賊改方助役(すけやく)を加役される。まさに絶妙の好機であった。
この御先手弓の二組は長谷川平蔵が着任する一年半ほど以前、当時火付盗賊改として名を馳せた横田源太郎松房であり、その前は豪腕贄(にえ)越前守正寿が当たっていた。
すなわち、天明七年五月二十日夕刻より始まった天明の打ちこわし事件が勃発したのである。
五月十五日過ぎより、両国橋・永代橋・新大橋から大川へ身を投げるものが続出し、渡し船からさえも身を投げる者が出た。このために十八日以降は渡し船の運行を禁じた。
時の奉行は南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら)。北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)。火付盗賊改方堀帯刀秀隆(ひでたか)であった。
だが堀帯刀は役職にあまり乗り気でなく、鎮圧に消極的であった。暴徒と化した者の中には無宿人も見受けられ、これらに扇動されて更に油を注ぐ事となり、二十日夕刻赤坂の米屋二~三十軒を皮切りに、夜には深川でも打ちこわしが勃発。
鐘や太鼓、半鐘、拍子木など、音の出るものは何でも抱え、打ち鳴らしを合図に乱入。
こうなると群集心理の凄まじさで、あらゆるもので押し入り、家財から調度品まで破壊し、米、味噌、醤油、酒とありとあらゆるものを路上や川にぶち撒いた。
だが、これも鳴り物で合図されると一旦取りやめ、休息を取るなどかなり組織化されていたことが伺える。
こうして次第に押し買い(買い手が値段を決める)が頻発。これを拒否する場合はそこを打ち壊した。
この最中にも、商人は賂(まいない)を贈って武家屋敷に米を隠匿した。
そんな中で火付盗賊改方堀帯刀の屋敷へも運び込まれた。
五月二十三日、これを鎮圧するために御先手組に出動命令が出たのである。
二十四日、芝・田町を最後に、翌二十五日、さしもの打ち壊しも、やっと終止符を打ったのであった。
江戸の打ち壊しにあった家屋五百軒あまり、その内の四百軒は米屋、米搗(ひ)き屋、酒屋など飲食関係であった。
中では大阪城代下総(しもうさ)佐倉堀田相模守御用の米蔵が警護の厚いさなか打ち壊され、油問屋の丸屋又兵衛も打ち壊されてしまった。
老中よりのご注進にも関わらず、その実情を将軍徳川家斉(いえなり)に問い正された田沼意次の懐刀御用御取次横田準松(のりとし)
「市井(しせい)はこれ平穏無事にござります」
と答えた。
だが、これは隠密の調べで膨大な被害があったことと判明しており、この事件で横田筑後守準松(のりとし)は罷免。田沼意次の屋台骨が一気に崩れた事件でもあった。
これを機に御三家を後ろ盾に擁立して松平定信が老中に躍り出たのである。
この時松平越中守定信、将軍補佐という役柄から、将軍家斉(いえなり)に
「御心得之箇条」より、
「六十余州は禁廷(きんてい)より御預りいたしたものの故に、これを統治することこそ武家の棟梁(とうりょう)の本分であり、それがひいては朝廷に対する最大の崇敬でござります。
故に、たとえ朝廷とあれども将軍の政(まつりごと)に口を挟むことは許されるものではござりません」
と断じた。
しかし当時この「大勢委任論」は、幕府が認めたものではなかった。
後にこの考えが存在した為、黒船来航以後、その責任を幕府が負わされることとなり、結果的に一橋徳川慶喜(よしのぶ)によって大政の奉還に発展したのである。
これを機に翌八年、田沼政権の残党老中が一掃され、松平越中守定信の老中首座の地位が堅固となり、時を同じくして長谷川平蔵へ火付盗賊改方本役が下知されたのであった。

拍手[0回]


鬼平まかり通る  8月号


田沼主殿守意次 たぬまとのものかみおくつぐ

平蔵見参


京より戻った平蔵、老中板倉佐渡守勝清より小普請支配長田越中守元鋪組配下の 沙汰がある。                                     小普請組は小普請金を納めさえすれば何もすることはなく、千代田城や寺社など の修繕が担当の非常勤であった。                         京での思慕の情に耐えきれず、これを忘却しようと思ったのか大通(だいつう)と呼ばれる洒落た格好で郭(くるわ)に通いつめるも、それは虚しさを増すばか    りで、いに父宣雄が蓄えまでも使い果たしていた                                  これを嘆いた西之丸書院番頭であった水谷(みずのや)伊勢守勝久、老中筆頭 松平武元に、自分の先祖が平蔵の父宣雄と同じ備前岡山藩藩主であったところ        から、長谷川平蔵宣以を西之丸書院番士に推薦したのである。                          もとよりこの長谷川平蔵宣以の父長谷川平蔵宣雄は自身が抜擢して盗賊改に加役 し、京都西町奉行に任命した経緯もあり、この嫡男平蔵宣以も見知り置きの者で     あっため、これを快諾したのである。                                         長谷川平蔵に西之丸書院番頭水谷伊勢守勝久より呼び出しがあり、西之丸御用部 屋に祗候する平蔵へ                                      「平蔵!そなたの祖母は、我が曾祖父備中松山藩馬廻り役藩士三原七郎兵衛の娘御であるが、藩改易の折三原殿は浪々の身となられた。                   西之丸御小姓組であったそなたの祖父長谷川権十郎宣尹(のぶただ)殿は病弱の 由、その手伝いに上がっていた折見初められ、やがてそなたの父宣雄殿が生まれたそうな。                                    儂の曾祖父は備中松山藩藩主であった故、まぁそなたとは同郷のよしみとでも申すかのぅ。                                    松山藩改易の折、城明け渡しを受取に参ったのが赤穂藩家老大石内蔵助良雄殿、当時水谷家家老は鶴見内蔵助であったと言う事で、話し合いもこじれることなく    無血開城に終わったのだと親爺殿によぅ聞かされたものだ」                            平蔵初めて父宣雄の出生をここに知ったのであった。                             こうして長谷川平蔵は父長谷川宣雄と同じ西ノ丸御書院番番士から新たな一歩を 進む事になった。西ノ丸御書院4組水谷組番士となった平蔵、同年に水谷勝久より田沼意次を紹介され、これを機に長谷川平蔵の通常ならば2年ほどで栄転・昇 進するお役の盗賊火付御改(火付盗賊改方)長官の重責を8年も続けるという苦難 が始まったのである。                                                     江戸幕府は御三家と呼ばれる紀伊・尾張・水戸であったが、八代将軍吉宗は自分の四人の子の長男家重を九代将軍に任命 。                                   身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗武は、父吉宗に諫奏(かんそう・抗議文)を送り、これに怒った吉宗は次男宗武を3年の    登城停止とし、これを推した老中松平乗邑(のりさと)も罷免。                次男宗武(むねたけ)と4男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、一橋徳川家も三男    は死没の為四男宗尹(むねただ)を就かせた。                           その後長男家重の次男にも新たに清水家を創設しこれに就かせ、これを御三卿と呼んだ。                                                こうして将軍家に世継ぎがない折はこの御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのであ る。         宝暦10年(1760)徳川吉宗長男九代将軍家重の嫡男家治(いえはる)は十代将軍の座につき田沼意次を側用人として起用、後、老中に任命した。           こうして田沼 意次の権勢が確立したの


 機転


長谷川平蔵は田沼意次の忠節・孝行・身分の上下にかかわらず(遺訓7箇条の  内3箇条)などの気配りや、倹約令のさなかにありながら{息抜きも必要であ        ろう}と遊芸を認めたこと、これまで無税であった商家からの納税や海外との貿     易による増収に主眼を置く重商主義にも傾倒していた。                                      田沼意次は、御対客日や御逢日は公式日程を明けの6ツ(午前6時)から朝4ツ(午前10時)の登城前までの間と定めたために、田沼邸の前には身分の差別を       してはならないという田沼家の家訓のため、身分の低い者などの陳情者もつめか    け列をなしたという。                                     時は安永3年(1774)火事と喧嘩は江戸の花と言われるように、紙と木でできた   町家はよく火事が起こった。いや起こしたと言ったほうが良い。                    この頃神田橋御門内の田沼邸近くで火事騒ぎがあった。                     これをいち早く知った長谷川平蔵は江戸城西の丸への登城を取りやめ、そのまま     馬で田沼邸に走り、下屋敷に移るよう奨め引率、その半刻後(1時間)には田沼    邸下屋敷に餅菓子が届くように手配、夕刻には食事までも届くという気配りが田     沼意次の意に沿い、翌、安永4年長谷川平蔵は西の丸仮御進物番(田沼意次への    届け物)に取り立てられたのである。                             何時の世も同じだが、この時代も盆・暮れやお世話になったり、何かを頼む時は     お礼をするのは普通のたしなみで、ごく当たり前の事である。


 謀(はかりごと)


宝暦11年(1761)春


「のう意誠(おきもと)、十代様には未だもってお子が居られぬ、このままなれば次の将軍は田安家となろう」                                     一橋家では田沼意次の弟田沼意誠(おきもと)それと甥の田沼意致(おきともが家老を務めていた。こう意誠(おきのぶ)に問いかけたのは一橋家当主徳川治斉(はるなり)であった。                             「それは順序からしてそうなりましょう」                        (さてさて殿は次が田安家と思うて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもりか)       「うむ、面白うないのぅ……」                             脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ不満そうに治斉(はるなり)            「と申されましても……」                                (やはりそこであったか)と内心思いつつも少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠(おきもと)素早く顔を庭の方に眼をかわす。                             「そこじゃぁ、のう意誠(おきのぶ)、どうであろう田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる・後の老中松平定信)であろう、これを取り除けば十 一代将軍に成る者がおらぬようになろう」                                        大名武鑑をめくりながら一橋治済(はるなり)横目に移し、後ろに控える次家老へ言葉をなげた。                                「確かに、仰せの通りに御座いますが、まずもって然様なことは……」           と次家老で田沼意次の甥田沼意致(おきとも)を見る。                 「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸(まさまる)様のお二人、お世継ぎは治察(はるさと)様と言う事となるものの、万が一治察(はるさと)様になんぞ異変が生じました折には賢丸(まさまる)様が跡目相続という事になります  る。                                                                                      それを摘み取ることは間違いなく時期将軍はこの一橋と言うことにはなりましょう」と田沼意致(おきとも)ちらっと意誠(おきのぶ)の方に視線を投げ、反応を伺う。             そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬの」               大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉(はるなり)立ち上がる。            千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下と     なっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合    わせをしていた帝鑑(ていかん)の間がある。                                    一橋治斉(はるなり)はこの前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥国白河郡     白河藩二代藩主松平定邦(さだくに)に                                「白河殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、ご同道願えますかな」         と切り出したのは安永3年(1774)のことであった。                   「これはまた一橋様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで    一言も交した覚えのない一橋治斉(はるなり)様が一体どの様な話しがあると云     うのか?訝る松平定邦くさだくに)に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと 耳打ちしたのである。                                    のう松平殿、同じ久松松平家伊豫松平藩も田安家から御実兄定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(たまりずめ・祗候席・しこうせきと言い将軍拝謁の順を待    つ大名が詰める部屋)に昇格しておられるので、もしご貴殿が同じ田安家の七男     賢丸(まさまる)様を養子にお迎えなされば御貴殿の溜詰も夢ではござりますまい、何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからなぁ。                                         その折には及ばずながらこの一橋もお力添えを致しましょうぞ               意味深な顔で一橋治斉(はるなり)                            「一橋様、それはまことにござりましょうや!」                     徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋治斉(はるなり)の甘言はまことに心地よい響きを持っていた    のである。                                   「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵などござらぬ」                        と持ちかけられた松平定邦、まんまとこの策略に乗り田安徳川賢丸(まさまる)との養子縁組を上奏したのである。                                   安永3年(1774)3月15日幕府より命が下り、松平定邦と田安徳川賢丸(まさ まる)の養子縁組が決まった。                                     想いかえせば、一橋治斉(はるなり)が、この策略を自家の2家老田沼意次の弟田沼意誠(おきのぶ)と田沼意次の甥の田沼意致(おきとも)と談義したのは13年も前のことである。                                  久松松平家は徳川家康の異父弟の松平康元・勝俊・定勝に与えられた家柄。         この3男定勝には6名の男子が有り、嫡男は早世。次男定行がこれを継ぎ、伊豫松山藩15万石の礎を築いた。                                      この定勝の3男が陸奥国白河郡白河藩二代藩主松平定邦であった。              16歳になっていた賢丸(まさまる・後の定信)もこのまま田安家の冷や飯食いで終わるのも考えものと渋々承知。                                   ところがこの安永3年(1774)9月田安家の嫡男治察(はるさと)急の死去に伴 い田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸(まさまる・定信)はこの度の養子縁組解消を幕府に願い出る。                                     しかし、時の老中松平越智守武元・板倉勝清・田沼意次の判断で、一度決定されたものを反古にすることは認められないと却下。賢丸(まさまる・定信)は白河    藩に封じ込められた状態に置かれたのである。                                  後、やむなく白河藩藩主となっていた松平定信も幕閣への未練を捨てきれず、幕閣推挙を画策し、田沼意次の屋敷を訪れた。                             時の西の丸仮御進物番士は長谷川平蔵であった。                    「何卒田沼様によしなに……」                             白河藩藩主松平定信、進物を上納したのである。その中には幕閣への推挙願いが認められていた。                                         だが残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、田沼意次の暗殺も企てるに至ったほどである。                          奇しくもこの時の御進物番士(受付係)が長谷川平蔵であったため、この男への執念もただならぬ物があったと言えよう。                               それは通年ならば2~3年で町奉行などへ栄転する火付盗賊改方を8年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、50歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。


 青い果実


十代将軍家治は、跡取りに恵まれず、田沼意次の推挙により側室となるお知保の     方との間に生まれた世継ぎ家基(いえもと)を授かった。時に宝暦12年(1762)   十月25日のことである。                              安永8年(177922118歳になった徳川家基は新井宿での鷹狩の帰り、品川の   東海寺で体調不良を訴えた。この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲む    も症状は変わらず、田沼意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出される     もこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。                  その3日後、十八歳(満16)で薨去(こうきょ・急死)             念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。           世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は     徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の4男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家      の何れかから立てることになっている。                        天明元年(1781)閏(うるう年)5月、御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田      沼意誠(おきのぶ)と田沼意致(おきとも)に                   「どうであろうかのぉ、ご老中田沼様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家  斉・いえなり)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」           と切り出した。                               それに応えて田沼意致(おきとも)                        「次番の田安家に跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じ     ます」                                    そう答えるしかなかった。                          今にして思えば20年前、この一橋家当主一橋治済(はるなり)に田安家徳川         賢丸(まさまる)を田安家から排除する相談があったことすら、当の治済は忘れ    去っているほどに長い時の流れである。                       何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの兄上(田沼意次)も此処までは     読まれなかったやも知れぬ)                           田沼意致(おきとも)と眼を見合わせた出来事であった。            しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰……そう踏     んだ田沼意致(おきとも)                           「では早速にご老中に進言為されますよう」                  と奨めたのであった。                            一橋治済からの申請を受け、田沼意次早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を     説得し、一橋家当主の徳川治済(はるなり)の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川    家斉・いえなり)を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。


時は天明元年(1781)のことである。

拍手[0回]


鬼平まかり通る


教授先から戻り、黙したまま今日も夕餉を済ませ、茶を入れるかすみに銕三郎
「本日烏丸(からすま)に行って参りました。専純殿に、心に石を置かず在るがままにある事を教わりました。かすみどの、何一つおそれる物はない、全て私が受止めます」
かすみに向い銕三郎そう説き話した。
その言葉を聞いたかすみ、あふれ来るものを押えきれず、見る見る大粒の涙が堰を切って双眸(りょうめ)を伝い、かすみの手を取った銕三郎の掌にあふれ落ちた。
「銕三郎さま──'かすみは、かすみは銕三郎さまを裏切りました」
「何と、この私を、どうして─」
かすみの言葉の真意が汲めず、戸惑いをかくせない銕三郎を。赤く腫らした眸(ひとみ)で瞶(みつめ){わあぁっ──}と、その腕に慟哭(どうこく)した。
「お泣きなさい、心ゆくまでお泣きなさい。その涙、総べて私が受け止めますから、涙が果てたらいつものかすみどのに戻って下さい」
銕三郎、激しく嗚咽(おえつ)をもらせ、肩を震わせ泣き続けるかすみを両手一杯に抱きかかえる。
堪えていた物を吐き出すかの様に泣き乱れたかすみ、しゃくり上げながらやっと銕三郎の顔を見た。
「銕三郎はん、うちを拾ぅてくれはったんは地下人の進藤様やけど、ずっと後知ったんやけどな、こん人は赤兎馬言うお人の配下で、うちを理由あって祇園の狛のに入れはったんえ。
「赤兎馬??なんですそれは?これまで一度も聞いたこともありません。その理由とは」
「お茶屋はんはいろんなお人が出入りされはりますやろ?そんな中で話されることに耳を傍立てますんや。それからつなぎのお人に大事なことはお知らせするそれがうちに与えられた仕事どす」
「何と──魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の世界ですね」
銕三郎、江戸でも探索方には様々なやり方があると知ってはいたものの、ここまで根深いものは初めて聞いた。
「うちが十八になったおり、壬生のご隠居はんに見初められ、襟替(が)えしてもろうて、ご隠居はんの後見でここに店を設けさせて頂き、ご隠居はんの密命を帯びて六角堂のお師匠はんに引き合わされたんどす」
「では専純殿は壬生のご隠居の──」
「へぇそうどす、お師匠はんはお公家衆の方々に立華をご教授されはりますのんや、そこで出入りのおり、うちもお供で参ります。そこいらでいろいろな話耳に挟んでいましたんや」
「では一体かすみどのはどちらのお味方を──」
銕三郎このかすみの謎めいた返答に戸惑っていた。
「はじめは壬生のご隠居はんのお指図で動いておりました。けどある時地下人の進藤はんが現れ、そこで初めてうちが赤兎馬いうお人の肝いりで 駒のに預けられたこと知りました。
うちにとって命の恩人どす。どちらもうちには恩人どすえ」
「確かに─、しかし…」
「はじめは両方から言われるままに動いておったんやけど、そのうち赤兎馬と云うお人は赤入道言われたゆかりのお人とか、おまけにその後ろには吉野のお館様と呼ばれる小倉宮はんがおいやすのんや。
赤兎馬のお頭はんらは、今の御門(みかど)はんを引きずり降ろし、自分らが御門はんになる為に裏で地下官人を操ってますんや。
そのからくりが先の西町奉行隠密同心に知られ、地下侍に殺されはったんや、その隠密同心の後を──」
「私が引き継いだ──」
「そうどす、それがまさか銕三郎はんと思いもせなんだんや。そん上粟田口でおかしな出遭いがおましたやろ。
けど、うち銕三郎はんにおあいする度、指図の事忘れてしもたんえ。
銕三郎はんと一緒におる事が倖せで、毎日が夢んようどした。
尾州屋はんの事知らせた後、何や虚しゅうなって、そん後あないな事になってしもぅて……。うち銕三郎はんの事だまって隠しておりましたんや。
うち!うち!銕三郎はんを失くしとぅおへんのどす!」
泣き腫らして訴えるかすみの一途さに銕三郎、ただただその細い身体を見つめて抱き締めるしかなかった。
 
翌朝かすみは、久しぶりに銕三郎の温もりに埋れた歓びを躰一杯に溢れさせ、溌溂とした面持ちで台所に立っていた。
下りて来た銕三郎を見返り
「あっ銕三郎はん、お早ようさんどす」
零(こぼ)れんばかりの笑顔で迎える。
「おっこれは又かすみどの、一段と─」
「へぇ一段と何どすえ?」
かすみの意味深な含み笑顔が眩しい。
「あっいや何!一段と耀いて観えます」
「うふっ銕三郎はんのいけず、そない見詰められたらうち恥しゅうてあきまへん」
その応える姿は初々しい中にもをんなの匂いが溢れている。
 
朝五ッ半、ちよが背篭に花や野菜をつめて下りて来た。
出迎えたかすみを一目観るなり
「いやぁどないかされたんどすかお師匠はん!もん無茶美しゅうおすぇ」
瞳を輝かせて見入る。
「うふふ……何んかええ事おしたんどすなぁ」
「何んあほな事云うとるのどすえ、お子たちんくせに」
かすみ、急に頬を朱らめ、きっとちよをにらむ。
「ほらやっぱり当りや当りや─ええなぁ」
意味ありげに銕三郎の方をちらり…。
銕三郎親指を立て、メッと眼で叱る。
「鉄はんおおきに」
ちよは大きな瞳を瞬かせて笑っている銕三郎を見つめた。
 
夕刻ちよが里に戻って行った後しばらくして、表戸を半ば閉め、後片付をしているところに入って来た男の姿を視て、かすみの眸が驚きと恐れに固まった。
「やはりここに居ったか」
「ちゃいます!このお人はちゃいます」
観ればかすみ、蒼ざめた顔を強張らせ小刻みに震えている。
「違う?何が─」
男はゆっくりと二人の間に割って入る様に身構える。
「このお人はお客はんどす、間違えんといておくれやす」
かすみ、ゆっくりと銕三郎から離れ二階へ上がる階段の方へと移動する。(銕三郎はんの刀を取りに上がらなければ……)と言う思いがとっさに働いたのであろう。
「ほぅ、では鉄とか云う者はいずこに居る」
「今使いに行ってはります」
刺客を挟んでかすみと銕三郎が対峙する恰好で、眼で合図を送れる状態に持ち込めた。
「でたらめを申すな!すでにちよから聞いておる」
刺客は背後に気を飛ばしながら、かすみの眼の動きを読もうとかすみの正面に向いた。
「何んでやて!」
かすみの凍りつく双眸(りょうめ)を確信したように
「お前の動きが怪しいと睨まれ、お頭がちよに指図され、ちよはこの男が密かに役所に入るのを見届けておる」
「まままさか──」
あれ程気を配り、用心しつつ向った所を……。銕三郎この相手が尋常でない事を初めて思い知ったのである。
「左様、スズメ蜂の巣を見つけるには、そいつに蜜を舐めさせておき、その間に尻尾に赤い糸を結んでおけば、あとはそいつの後を尾行(つけ)るだけ─。尾州屋を襲ってこいつの尻尾にちよと云う糸を付けた。それでこいつの身元も割れた」
せせら笑う唇のねじれた男を見据えたまま、何か獲物をと見渡すが、それらしき物はない。
花を整理するための大きな台の上に藤刀が転がっているのを認めた銕三郎
「かすみ逃げろ!」
銕三郎そう叫びざま右に飛び、藤刀を掴んだ。
銕三郎の叫びを聞き、かすみは反射的に二階へ駈け上ろうとするそれへ男が抜刀し、追いかけようと足をふみ出す。それへ銕三郎の放った藤刀が右の太ももに突き刺さった。
ぐわっ!!と低く声を漏らし、前のめりによろめき、左に刀を持ち、かろうじて倒れるのをこらえ(うっ!むっむっ!──)と右手で藤刀を引き抜き銕三郎の方へ振り返る。
「きっさまぁ!」
刺客はその藤刀を近くまで掛けよっていた銕三郎めがけ投げ返す。銕三郎かろうじてこれを躱し、それは背後の戸板へドッと鈍い音を立て突き刺さる。
その時二階から駆け降りて来たかすみ
「銕はん!」
と叫び、銕三郎の刀を宙に投じた。
その声に振り向きざま、刺客が左下段から斜め上段に逆袈裟斬りに切り上げた。
かすみの身体は右脚から左の胸元へ切り抜かれ、薄紅色の袋帯が真二つに裂けてばらりと捌(さば)け、白群(びゃくぐん)の地に小菊が染め抜かれた着物の伊達締めも切り抜かれて大きくはだけ、雪の様に真っ白な肌と、こぼれた胸乳(むなじ)からおびただしい血が噴き出し、かすみ(ぎやぁ)と大きな悲鳴と共にまっ逆様に刺客の肩ロへ覆い被さる様に崩れ落ちた。
「うをっ!己がぁ!!!」
飛んで来た刀をつかみ銕三郎、飛び込みざま抜き打ちに胴払いを放つ。
 (ぐへっ!)足元に絡(から)むかすみの躰を躱(かわ)しきれず、左背後から食い込んだ刃は、背骨を打ち砕き、右脇へと抜ける一閃を喰らって、二つに折れた躯がドウッ!と蹴込へ転がった。
「かすみどの!」
銕三郎かけより、鮮血に染まったかすみの身体をだきかかえ顔を起こす。
「てつさぶ…さま……さぶい…抱いて……」
「かすみ!すまぬ!」
「嬉しい……」
うっすらと開いたかすみの双眸(りょうめ)から涙が茜色の夕映えに染まり、つっ!と血の気を失った頬を伝い、銕三郎の指先にとどまり、あふれて行く。
このわずかの時を過ごしたかすみは双眸(りょうめ)を見開いたまま、ふっと呼吸(いき)を引き込む。
これを銕三郎まぶたを押さえ閉じさせ、かすみのおだやかな顔をただ抱きしめる。それが救い切れなかった無念の思いと共に、銕三郎が初めて心から愛しいと思った女との今生の別離
 
銕三郎、かすみの珊瑚玉の簪(かんざし)を抜き、懐紙に包み懐の奥へ納め、かすみの亡骸を作業台に載せ、着衣を脱がせ、傷口を清水で洗い清め、傷口をしっかりと晒しで巻き止めて清拭した後、二階へと運び上げ、衣服を着がえさせた。
それは
「夏になったら祇園さんへ山鉾いっしょに観に行きましょな!そん時銕三郎はんとこれ着るんや」
と、嬉しそうにあつらえた、おそろいの小千谷(おぢや)の浴衣である。
 
刻はいつの間にか初々しい夏の陽ざしがゆっくりと東から昇りはじめ、まだ思い出の温もりも残っている部屋を何事もなかったかのように包んでいた。
戸締まりを終えたその日から銕三郎の姿がこの界隈からぷつりと切れた。
 
銕三郎の姿を見かけたのは三日程過ぎていた。
あの時以来、身の危険を覚え何処に身を潜めていたのでろうか。
その夕刻、六角堂に酷い格好の浮浪者が訪れ、小坊主が仰天した。
煤(すす)けたその顔から
「長谷川銕三郎だ!すまぬが専純殿に至急取次を頼む」
と言われ、よくよく見ればあの長谷川さま
「ちびっとお待ちを!」
小僧、慌てて奥へ取次に駆け込んだ。
奥の院より専順が慌てた様子で駆けつけて来、銕三郎の異常な様子に気づき
「なんかおましたんやな!」
と転げるように座するのも待たず問いただした。
銕三郎事の次第を事細かに専純に告げたのであった。
哀しみにくれる専純のその眸(ひとみ)を背に感じつつ銕三郎、西町役所に戻って行った。
「かすみはんはこれでよろしかったんや、一生懸命添い遂げはったんや、長谷川はんに出遭ぅて、生まれて来た理由と、生きて行く意味があったんと想います」
淡々と告げる専純の言葉は沈み切った銕三郎の心を拭いはらってくれる。
 
役所に辿りついた銕三郎、常に探索に関する事は結び文を介して時折報告していたが、この十日程はそれもなく、身を案ずる妻女久栄の訴えかける眸(ひとみ)をじっと受け止めつつ、事の経緯(いきさつ)を話し、即刻役人を伴い現場にかけつけたが、かすみの亡骸も刺客の死体も、そこには何らの痕跡も残されていなかった。
ただ銕三郎の放った藤刀が突き刺さった表の戸板に喰い込んだ刃の痕跡に、血を吸い尽くして黒々と染まった土間が夢幻(ゆめまぼろし)ではなかった事を語っている。
「まこと恐しい敵だ」
銕三郎この視えざる敵の計り知れない正体に、初めて戦慄というものを知った想いであった。
銕三郎の報告を聞いた宣雄
「銕三郎!それは真に無念であったろう。だが今は江戸表よりご老中のお指図を待つのみ。儂もそなたもそれまで気を抜いてはならぬぞ」
宣雄、この事件発覚以来も激務に苛(さいな)まれた身体に鞭打つ如く、このひと
月あまりを過ごしていた。
その二日後の六月十二日、突如長谷川平蔵宣雄は身罷った。享年五十五歳の初夏の事であった。
葬儀は京都千本通り出水「華光寺。戒名{泰雲院殿夏山晴大居士}
いかにも宣雄らしい戒名である。
現在では長谷川平蔵宣雄の墓所である京都市上京区の華光寺には久しい時の流れの中、無縁墓群に埋もれ、長谷川宣雄の墓を見つけることはかなわない。
 
これがきっかけで、長谷川平蔵宣雄の卒した翌・安永三年(一七七四)奉行兼務の御所向御取扱掛が設けられる事となる。
 
銕三郎は末期願いの手続きを相役である東町奉行酒井丹波守忠高に願い出、目付酒井丹州が判元を見届け。
所司代土井大炊頭利里へ届け、これが受理された。
銕三郎、江戸表の老中へ報告後、早々に身の回りの後片付けを済ませ、妻子共々急ぎ江戸に戻った。
西町御役所の責務は宣雄が西町奉行を拝命したのであるから、卒し後は、なんの関わりも持たない。
従って宣雄の後任者山村十郎右衛門良旺が着任する迄待つ事もなく、諸事は残留する与力達に任せればよかった。
 
急ぎ江戸に戻った銕三郎、旅支度を解く間もなく千代田城西之丸に、上洛の準備を整え、出立目前の山村十郎右衛門良旺を訪ね、これまでの探索経過の中で御開帳に御戸張の寄進を拒否したために一家が惨殺された尾州屋の話を報告した。
「想われますには、今後禁裏・口向けより騒擾(騒動)が持ち上がるかと、その前に所司代様より先に山村様係にてこれらをお取り調べなされる方がよろしいかと存じます」
と進言した。
「流石備中殿の嗣子(しし)、万事抜かりがござらぬな」
山村良旺(たかあきら)驚きをもって銕三郎を見やった。
こうして西町奉行山村十郎右衛門良旺(たかあきら)、時を逃さず七月十八日、上洛するや、口向役田村肥後守らを呼び出し、即刻吟味が開始されたのである。
その翌年一年余り吟味の経過した八月二十七日、田村肥後守・他、津田能登守・飯室左衛門大尉は死罪。西池主鈴、吟味中に卒。
仙洞御所取次の高屋遠江守康昆・藤木修理・山本左兵衛・山口日向守・関目貢の五名は中追放(遠島)。
渡邊右近・本庄角之丞・世続右衛門・久保田利兵衛・佐藤友之進・小野内匠其の外、洛中洛外江戸構余多(追放)。京都代官小堀邦直は謹慎。
侍身分の者六十六名遠島、それ以下の役員八十八名も処罰された。
京都代官小堀邦直は謹慎処分となり、関係者八百名余りが処分された。ここに安永の御所騒動は結末を迎えたのである。

拍手[0回]


鬼平まかり通る 五月


過日銕三郎の寝床に寒いと、寝夜衣のまましのび込んで来た時と又別の恥じらいがをんなの美しさを増して観え、銕三郎
「まぶしい程に美しゅうございます」
と、見とれながら皿を置いた。
「ほんまどすか?銕三郎はん、そないなてんご云ぅて、うちをいじめんといておくれやす」
云い乍らかすみ、耳朶(みみたぶ)にふれる仕草が初々しい色香を添える。
「何で、どうして私がかすみどのを虐(いじ)めておりますので」
「銕三郎はんのいけず!うちもう知らしまへん」
かすみ、銕三郎にもたれかかる様に身体をあずけて来た。
「うちな、こうしてる時、何んも忘れていれますねんぇ、そらあかん事どすやろか、女が男を好きになるんはあかんのどすか?うちわ銕三郎はんに命かける値打ちある思うとりますねん、運命(さだめ)以上の繋がりがあるんと違いますやろか」
銕三郎、よりかかった腕に過日の夜触れたかすみの柔らかな胸の温もりを思い出していた。
(自分もこうして誕生(うまれ)たのだろうか──)
その二日後、呉服太物商尾州屋に押込が乱入、主人夫婦・奉公人など、合せて十名を惨殺。銀二十貫(三千四百万円)を強奪と云う事件が発覚。
これを糸口に長谷川平蔵宣雄、勘定奉行に詰問し、明和の末頃より御取替の辻褄が御料のみにては間に合わず、苦肉の策として補填の名目で賂(まいない)を求める事が日常となっていた事が判明したのである。
あまりの事の奥深さに宣雄、急ぎ江戸表へ報告の早飛脚を立てたのである。
この事は二人で出掛けた先の狛ので女将の登勢から聞かされた。
「かすみ(はん、えらい事おすえ、屋州屋はんが押込に入られはって、お店の奉公人まで皆んな殺されはったやて、 ほんまにあないお人柄の出来はったお方やのになぁ」
登勢は眉を潜めそっと小声で囁いた。
その言葉を聞いたかすみは、顔から見る見る血の気の引いてゆくのが判った。
それを視た女将の
登勢
「かすみはんどないしたんえ?まっ青な顔して、なんぞあったんかいな鉄はん?」
後ろで聞いていた銕三郎へ登勢は救いを求めるような眼差しを送ってきた。
じっと考え込んでいた銕三郎、登勢の言葉にこまった顔つきで首を横に振る。
「そないでっしゃろなぁ─。うちもお役人はんに聞かれても、よう応えられまへんかったわぁ」
蒼ざめたかすみの顔をうかがう銕三郎の眼差しを打消すように
「お女将(かぁ)はん、又なんぞあったら教ておくれやす」
かすみ、銕三郎をうながし
「鉄はん、そんなら戻りまひょ」
先に立って店を出る。
この日の店回りを終え、建仁町通りの百花苑に戻った銕三郎
「かすみどの一体何が─、何かご存知の事でも、お心当りもなくばあそこ迄…」
すでに銕三郎は密偵の顔に戻っていた。
「かんにん、銕三郎はん、かんにんどすえ、うち何んも知りまへんし、理解(わか)りまへんよってかんにんぇ」
かすみは心の動揺をどう取り繕ってよいのやら、なかば放心した風にとり乱している。
それはかすみにとってこれまでこの様な心の痛みを感じた事がなかったからである。
そこへちよが使いから戻って来、
「お師匠はんえらい顔してどないしはりましたん?」
怪訝な顔を銕三郎の方に向け
「鉄はん!お師匠はんに何やしたのどすか?」
と、諌める顔つきに、銕三郎慌てて両手を振った。
「おちよ!違うんどす、鉄はんには何も関係あらしまへんのどすぇ」
「それやったら何んで──。うち心配やわ、鉄はん何んとかしておくれやすなぁ」
ちよも心配顔をかくせないでいる。
そんな事件のあった二日後、小用で出掛たかすみの後をつかず離れず付いて来る事を見とめたかすみ、泉式部屋敷に入り、その後を一人の男が入って来るのを待った。
「あのお方からだ」
そう云って赤い馬の印が押された結び文を手渡した。
「一つ教ぇてもらえまへんか」
「何をだ」
「尾洲屋はんどす」
「尾州屋がどうしたと云うのだ」
「どないして尾州屋はんは殺されなあかんかったんどす」
「それはあのお方の下された事、我らに判るものではない。
だがお指図では云う事をきかなかったからだとか、其のくらいしか知らぬ、我らは所詮駒だ、指図通り動けばよい。他に迷いがあれば西尾の様になる。
お前もあの方の怖ろしさは充分存じておろう」
そう云うと誓願寺の庫裡の方へ立去って行く。
かすみは赤い馬の印が押されている結文を開く。
そこには西町奉行裏同心を更に深くさぐる様指図があった。
それを読んだかすみの指は慄(おのの)き震えている。
何処からどうやって戻って来たのか判らない程かすみの心は乱れていた。
「お師匠はんどないしはりましたんぇ」
店番をしていたちよ)が、蒼白な顔で入って来たかすみを観、飛び出て来た。
「何んでんあらしまへん」
かすみはちよの手をふり切るように奥へ
「おかしぅどす、ここんとこずっとお師匠はんおかしわ!」
くい下るちよの眼をさけるようにかすみは二階へ駆け上ってしまった。
半刻ほどして銕三郎が戻って来たのをつかまえてちよ
「鉄はん!お師匠はんがお師匠はんがおかしおす、どないかしておくれやす」
なにかに追い詰められたような必死の眸(ひとみ)で見上げた。
銕三郎あわてて二階へ駈け上るそこには泣き崩れるかすみの姿があった。
その姿を認めたかすみ、ぶつかる様に銕三郎の胸に飛び込んで来る。とめどもなく溢れるかすみの涙を指先でぬぐい乍ら銕三郎、抱きしめるしか術はない。
だがその理由(わけ)は、後でいくら問い正しても、かすみの口からもれる事はなかったのであった。
頃はすでに六月に入り、まさに野山は夏草の繁る盛りを感じさせる頃となってきた。
花々はその綺羅(きら)びやかさや質素なものなど、万華鏡を覗くように目を楽しませてくれ、遅い京の盆地にも、ときめきを想わせるようになってきた。
呼び出しを受けたかすみの姿が和泉式部屋敷にあった。
「忘れておるのか、それとも隠し立てしておるのか!」
それは香山左門であった。
「忘れていてしまへん、せやけどあの同心の後釜は居りはらしまへん」
「真だな」
「へぇそうどす。東町にも移ってこっち別におかしな動きもおへん」
「で、お前の所に居る男だが、何者だ」
「あぁ鉄はんどすな、うちの仕事が力仕事もあって大事やろ云わはって、烏丸のお師匠はんがお弟子はん付けてくれはりましたんや、それがどないかしたのどすぇ、何んなら六角はんに聞いてみはったらどないだす」
と突っぱねた。
「よし、では引続き様子を探れ、あのお方には然様伝へておく。よいな!呉々もお頭の御恩を忘れるでないぞ」
そう言い残し、寺の向うへと消えて行った。
このところいつものかすみではない事に銕三郎
「かすみどの、何が安ずる事あらば話して下さいませんか」
銕三郎二階に上ろうとするかすみの手を取ったが、力なくするりと躱し上って行く。
翌日銕三郎は一人六角堂へ足を向けた。
「さて─かすみはんがなぁ……。なぁ長谷川はん、輪廻(りんね)云うもんをご存知でっしゃろか、この輪廻と云う六道は天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道から成ります物を申しますのんや。
これは心の道を説いたもんでおますのや。
たとえ天道に身を置いても、煩悩から解き放たれず、そこに御佛(みほとけ)はなく、解脱も叶いまへん。天人が死を迎えるおり、天人五衰と云いますのんやけどな、体に垢が塗(まみ)れて悪い臭いがします。
腋汗に己の居場所を嫌い、頭上の華が萎縮(ちじむ)そうにございますのや」
「はぁ──。私にはさっぱり……」
「そらそうや。なぁ長谷川はん、聖徳太子はんがどないしてこの寺を六角に造らはったと想います?六角はな、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つから生じる欲に囚われず、円満になるという願いがこめられておますのや」
「眼・耳・鼻・舌・身・意の六つから生じる欲にございますか」
「そうどす、拙僧はな、六道に身を置くよりも大師はんの願わはった我欲を捨て、それに因われない心を願うておりますのんや」
「我欲で──」
「そうや、ああなりたい、こうしたい、そんなもん皆捨てて鑑(かんが)(反省する)みる事や、長谷川はんは真(ま)経津(ふつの)鏡(かがみ)をご存知どすか?」
「否、恥し乍ら─」
「そうどっしゃろなぁ、八百万の神はんが天(あめ)の安河(やすかわ)に集まりはって、川上の堅(かた)石(しは)を金敷に造らはったもんどす。この鏡に我を映し、そん姿から我(が)を抜きますのや、(かがみ)から、が(、)を抜けば、何が残りますやろな」
「か・み──、神にございますね、なる程然様な事がこめられておりましたか」
「野に咲く花を見てみよし、誰かの為に咲こうと思ぅて咲いておへん。与えられた場所(ところ)で精一杯咲いておます。花はそこに似合ぅて咲きますのんや、決して百合は牡丹になろうと思ぅておりまへん」
「あるがまま………にございますか」
「そや、拙僧が長谷川はんに教えて差し上げられるんはそんなとこどすな」
「理解(わか)りました。ご教示まことにかたじけのうございました」
銕三郎深々と頭を垂れその場を辞した。
銕三郎を見送る専純の眼差しが、心なし哀しさをたたえていたことを知る由もなかった。
誘われた先の道場に専純の姿があった。
「おお長谷川はん─、おめずらしゅうおすな。今日はお一人でお越しやすか?」
かすみの同伴でない事に何かを察したようで
「もう京はすっかり馴れはりましたか?」
さりげない言葉をかける眸(ひとみ)は、別の物を読み取ろうとしていた。
銕三郎、このところのかすみの行動に腑に落ちないものがあり、その理由(わけ)を専純が知ってはないか──、と想ったのである。

拍手[0回]


鬼平まかり通る  新年号


「ちびっと出て来ます」
云い残して出掛たかすの姿は、京極通三条小橋下、誓願寺横和泉式部屋敷にあった。
「お頭への言伝だな」
薄闇に物影から声がした。
「へぇ、そうどす」
「で相手は判ったのか」
「へぇ、呉服太物商尾州屋どす」
「よし、お伝へしておく、もう戻ってもよいぞ」
かすみが振り返った時、その声も足音も砂に水の引くごとく闇の中に浸み込んで行った。
「お戻りなさい」
銕三郎は少し沈んだ面持ちのかすみを迎え入れる。
「銕三郎はん──」
「どうされましたかすみどの、何か気になる事でもありましたか?いつものかすみどのらしからぬ─」
「おちよは?」
気を取り直しかすみ、小女の姿を追う。
「遅くなるので戻しました。夕餉を支度してくれましたよ。今夜は少し冷え込むゆえ風呂吹き大根のようで、大根を程々の厚さに切り、面取りして煮崩れを防ぐそうで、その片面にかくし包丁を入れると良いとか。いやなかなか面白うて、その後米のとぎ汁で下茹でし、大根が透き通ったら鰹の出汁に酒、味淋に塩で煮込み、味噌と味醂を合せ、これに鰹節を入れ火にかけて溶き、わさび少々をすりおろしこれを混ぜ、熱々の大根に載せて頂くようにとおちよが申しておりました。
いやそれにしてもおちよ、仲々手際もよく良き嫁になりますよ」
「なら銕三郎はんお嫁にしはったらよろしゅうおす」
かすみ、銕三郎の感心する事に焼いたのかツンと横を向いた。
「やっこれはしたり、おちよはこれを見て、私をからかいましたよ」
と睦揃えの湯飲をとった。
「銕三郎はんはどないな風に思いはったんどすか?」
「それは嬉しいに決っております」
「ほんまどすか?」
「無論ですよ、かすみどのの気持、まこと嬉しぅございます」
「ほんまどすな!嘘やおへんやろな」
「嘘ではありませんよ」
「ならよろしゅうおす、ほな早速いただきまひょ」
かすみ、機嫌直して皿に大根を取り味噌あんをかけ、箸を添えて銕三郎に差し出す。
「うん、これは旨い、大根の甘み、それに出汁味噌に山葵(わさび)の香りが何とも、それに……」
「それに……?」
かすみ、銕三郎が一旦言葉を止めたことに何やら思ったのか促がす。
「あっいやっ─、その何です」
「何ですのぇ?」
「美しいかすみどのと戴けるのが何とも─」
「へぇ何ともどないやのでございますのんえ?」
銕三郎、かすみに問い詰められ、持った箸を皿に戻ししどろもどろ。
「嬉しゅうおすか?」
「はい」
銕三郎照れながら鬢を掻く。
「うちも嬉しゅうおすえ、銕三郎はんとこうして二人だけでまんま戴けるのん、ほんまに幸せどす」
少し恥じらいを見せながらかすみ、つっと上眼づかいに銕三郎を視る。
「うち小さい時から二親とも居てへんよって、──こないなん倖せ云うんかいなぁ……」
「かすみどのもそのような」
「いやぁ銕三郎はんもそないな事おましたのんぇ?」
「はい、私は妾腹の子として生まれました。でもどちらも大事にしてくれました。ですが……」
「ですが何どすのん?」
「私の育ちましたところは大川の向う、ゆえ気ままな者も多く、随い荒くれ者や無頼の者も多々、その様な中、伸び伸びと育ててくれました。
本所の銕と呼ばれ、悪さのし放題、それを親父殿はじっと視てくれておりました。
親父殿も同じ外腹の子であったゆえ、私の気持ちが理解(わかっ)ていたのでしょう」
「へえぇ、そうどすのんか。うちは捨て子らしゅうて、辻堂で泣いてたのんを進藤様に拾われ、十の折に狛やに奉公に上り、歌舞音曲を仕込まれましてんぇ。そん頃壬生のご隠居はんが襟替えしてくれはり、ここに店かまえてくれはったんどす。
うちも銕三郎はんも、ほんによう似ておますねんなぁ。うちな!銕三郎はんがお傍においやるだけで、もんむちゃ倖せどすえ」
かすみは目元をうっすら朱(あけ)に染めた眸(ひとみ)をまっすぐ銕三郎に向けた。

拍手[0回]


鬼平まかり通る  11月号



翌日の朝早く


「人が死んどるぅ」


遠くからバタバ夕駈けまわる音がせわしく往き来している。


おしま(、、、)はん!あんたはん家ん人が死んでますえ!」


向いの()が表戸をけやぶる勢いで駆け込んで来た。


昨夜は悶々として一睡も出来なかったのであろうおしま(、、、)は、まるで兎のようなまっ赤な(ひとみ)を腫れ上らせ、座したまま出口を見た。


早朝のぼんやりとかすむ陽光を背に、はぁはぁ息をせわしげに(、たき)が戸を掴んで立っていた。


「?……」


おしま(、、、)はん!あんたん旦那はんえ」


「へっ?─」                             


「さっきからお役人はんが調べてはるえ」


おしま(、、、)その言葉を背にからめる様に素足のまま駆けだして行った。


孫橋の向う、鴨川側には黒山の人だかりがあり、戸板に乗せられ番太が前後で提げ、三条大橋に向き歩き出しているそれへ


「待っとおくれやす!」


素足で髪を振り乱し、血相変えて駆けつけ、九十郎の骸にすがるおしま(、、、)のただならない風体を視る。


「見知りおきの者か?」


役人が訝しそうに観る。


「あっ──


()え……」


「ならば邪魔立ていたすでない、皆早々に立ち去れ」


役人は群がる人垣を棒六尺で払い除け、去って行くそれを見送るしま(、、)双眸(りょうめ)に、もはや涙はなかった。


 


()()の話し以来銕三郎、前にも増して探索は多方面に拡げざるを得なくなっていた。だが、その甲斐も日々徒労に終る始末である。


何しろ言葉を話せば他国のものと判ってしまう、勢い視聴覚に頼らざるをえないのが現実であったからだ。


 


時季(とき)はすでに月を越し五月に入っていった。


かすみ(、、、)の奔走によって、安永元年(一七七二)新造営になった仙洞御所へ、後桜町天皇が御移りになった。その慶賀の際、諸大名からの慶賀の授受なども当然あった。


このどさくさに紛れ不正が横行したのではないか、と言う話が噂されているという事であった。


このことに関し、銕三郎の詰問にもかすみ(、、、)はその出処を口にしない。


その理由は、いくら間い正しても堅く口を閉ざし語ろうとしなかった。


(一体どうしたというのだ()すみ(、、)どのは?これまではなんでも話してくれたのに妙すぎる)


銕三郎意を決し、翌日この事を父宣雄に報告すべく、かすみ(、、、)ちよ(、、)を残し、市井(しせい)の者にまぎれ、西町御役所に向った。


父信雄に、これまでの経緯(いきさつ)を全て話し、


「家族の身に危険が及ぶ恐れあり、御役所には近づかなかったものの、此度の事は書面のみにては伝へる事叶わずと危険を冒し参上致しました」


と銕三郎。


この報告を聞いた宣雄


「銕!御苦労であったな!どうにも踏み込めぬ暗所の扉が開いた思持ちがする」


信雄、少しやつれた顔を悦びであふれさせる。


 


「ちびっと出て来ます」

拍手[0回]


鬼平まかり通る 10


木屋町を流れる高瀬川

木屋町の旅人宿すずや(、、、)の女中おしま(、、、)、このところ気重なのか、いつもと違い


おしま(、、、)はんどないしたんぇ、こんとこ達者におへんなぁ」


女将の安ずるのも無理はない。


この月に入って青白い顔のままやって来るようになっていたからである。


「お女将はん、もしかしておしま(、、、)はん、 やや(、、)()出来はったんやおへんか?」


「そないな事云うても─、あっ…けどなぁ、そやろか」


(これはこまった事になる。この働き手が使えなくなると、たちまちそのとばっちりが自分の方にふりかかる、それだけはかんべんして欲しい)そんな顔つきで


おしま(、、、)はん、あんたもしかして、やや(、、)()出来はったんとちがいますのんか」


探る眼つきに女将繁s義解とおしま(、、、)の腹を眺めやる。。


「そないな事──」


と云ったものの、身に覚えのあること。ため息ももれようものだ。


おしま(、、、)はん、無理せんかてええんどすえ、少し休んでいよし」


女将はしま(、、)の顔をのぞき込み、不安げなしま(、、)の背をたたく。


夜五つ(午後七時)三条大橋を越えた仁王門通りにある若竹町の長屋に戻ったしま(、、)、中に九十郎の姿がないのを認め


「どこ行かはったんやろ」


小声でボソボソ云い乍ら表通りまで出てみた。


孫橋を戻り、大橋に向った所で九十郎が孫橋に向って歩いて来るのが見えた。


「九十郎はん─」


おしま(、、、)は小走りに駆け寄り九十郎の後ろに従った。


「何だおしま(、、、)気重な顔は」


少し気になったのかおしま(、、、)の方へ振り向き足を止めた。


「うち出来たみたい─」


「?……何?」


「やや子が─」


「……」


「嬉しせゃあらへんね」


「……」


「うち授かりもんどすさかい、産もう思うてますのんや」


不安を打消す様にしま(、、)


 「俺が親父になぁ─」


九十郎何かを含む様に口角を歪める。


「あんたはんに迷惑かける気ぃあらしまへんよってに」


愛しそうに帯の上から撫ぜるおしま(、、、)の姿を一瞥して九十郎、つ と立つ。


「あれ、今からどこへおいやすのん」


おしま(、、、)の声を背に聞きつつ九十郎戸口を開け出て行った。


 


その半刻後、戸が勢いよく開かれた。


観れば刀の柄に手を掛けた浪人態の者。部屋の中を伺い


「女!九十郎は何処だ」


周りに気を配りつつ眼で目的の者を捜している。


「どなたはんどすあんたはん」


おしま(、、、)は気丈に間い返した。


目的の者がいないと見た男、踵を返し闇に消えて行った。


(何んやの!あんおかしな人は、それにしても九十郎はん一体何所行かはったんやろ)うつ向きかげんにため息。


入れ違いに九十郎戻って来、青ざめた顔を行灯の灯がゆらりと揺れて戸口に影を映す。


「たった今あんたはん捜してお侍はんが来ましたえ、どなたはんどすねん。えらい血相してはったわ」


おしま(、、、)は刀に手をかけた様子におびえた眸で訴えた。


「何!侍だ!………。とうとうここも嗅ぎつけられたか・・・」


「何どす?」


蒼ざめるおしま(、、、)の前に坐り


おしま(、、、)、俺も元は地下人西尾九十郎、だが無役のゆえに世をすね、いつの間にか人殺しの片棒を業としてしまった。


あるお方の指図で先に御役所の役人を切った。だが二人目をしくじり、このような体になってしまった─」


「御役所?まさか西町御役所?」


「うむ、確かそう聞いた──」


そう言った九十郎、いきなりおしま(、、、)に突き放された。


「嘘や嘘や嘘やぁ───」


「おいおしま(、、、)、いかが致した──」


左腕しか動かせず、その場に倒れた九十郎、やっと体勢を戻しつつおしま(、、、)の急の変り身に戸惑いをかくせずに面喰っている。


「確かに西町御役所と…」


「おお言った」


「それはうちのお父はんや!」


「何だと!──」


「そんなんそんなん嫌やぁ」


おしま(、、、)はとり乱し、戸を引き開き、暗い表へ駈け出して行った。


「おしま─、どこへ行く──。まさかまさかお前の(てて)ごとは何たる事」


九十郎その場に膝をついて動く事も出来ず、おしま(、、、)の駈け去った闇を凝視するのみ。


 


さわやかな夜風が、通りにそって鴨川から吹き上って来る。


九十郎、おしま(、、、)を案じ孫橋近くまで出たものの、心の乱れを抑え切れないまま淡い月明りの下、つっ立っていた。


「西尾九十郎だな」


ふいに九十郎の後で人の気配がし、低く押し殺した声がした。


「誰だ俺の名を知っておるとは」


九十郎、薄明かりの中の声を確かめつつゆっくりと左手を刀の柄に懸けつつ振り返った。


「俺だ香山左門だよ。探したぜ、しくじったあと姿を眩ますとはのぉ…。あのお方の眼がある事を忘れるわけもあるまいに」


低く重たく押しかぶせる様な声が一歩前に踏み出る。


「左門!お前か─。俺はてっきり─」


「てっきり誰だと想った。ふん!多分な、そいつは外れてはおらぬよ」


「判っておる、だが今は待ってくれ!必ず次は仕留めるから、あのお方にそうお伝へしてはくれぬか」


九十郎、柄にかけた片手を前に懇願する様に小首を(うな)()れる。


「助けてはやれぬ、あのお方の命だ!」


九十郎、あわてて刀を抜こうにも、その腕は鞘半ばで伸び切っていた。


その胸には左門の繰り出す刀が深々と突き刺さっていたからである。


(ぶはっ!!)口から一気に血を吹き出し九十郎、堪らずその抜きかけた刀の柄を離し、己の胸に打込まれた剣を掴み(こら)える。


「しくじりは許されぬ、それはよく承知いたしておろう」


左門、そのまま欄干に九十郎の体を押しつけ、その腹に左足をかける。


「待ってくれ!俺には子が出来た、だからもう少しだけ待ってくれとあのお方に」


突き刺さった刃を左手に掴み、ドクドクと噴き出す血潮が下帯まで伝わり、脚元に流れる激痛を堪えながら九十郎、顔を歪めて懇願するも、


「そのような話しなら地獄(むこう)で致せ」


背を貫いている刃をえぐる様に右にひねりながら胸から刃が引き抜かれ、一気に鮮血が吹き出し、九十郎はその場に崩れ落ちる。風は止めどもなく溢れ出る九十郎の血を舐めて生臭く辺りに漂う。


香山佐門、九十郎にとどめを刺し、それを確め{ビユッ}と刀に血振りをくれて鞘に納め、足音も立てず闇に消えた。


あれから一刻(二時間)を過ぎたであろうか──、ふらふらと幽霊のような足どりもおぼつかないおしま(、、、)の姿が三条大橋から左に折れ、孫橋に進み、よろよろよろめきつつ仁王門前通りから若竹町の長屋にたどりついた。


家には明りもなく、ただ漆黒の冷えびえとした空気だけが待っていた。



 

拍手[0回]


鬼平まかり通る  9月号



店に戻ったかすみ
「銕三郎はん、うちのこん恰好どないだす?かいらしどすやろ」
双眸(りょうめ)をきらきら輝せ、両長袖をすくってくるりと一回り、ちょんと腰を落してしなをつくる。
「う~ん一晩で崩すのは少々もったいないなぁ」
銕三郎いたずらっぽい目でかすみを視る。
「あん!銕三郎はんのいけず!どないな理由(わけ)どすねん」
すねて魅せるかすみの初々しさを銕三郎眩く眺めた。
翌朝、店を手伝いのちよに預け、烏丸六角堂に専純を訪ねた。
専純は太子堂前に腰掛け二人を迎える。
「これはまたお揃いでようおこしやす。長谷川はんもお忙しいようでよろしゅうおますな」
専純、銕三郎がかすみをよく助け、都の中を駆け回っていることをよく承知している。
それが何を意味するかは専純と銕三郎・かすみ以外だれも知らないことである。
「なんやかすみはんすっかり落ち着いたようやなぁ、何かええことでもあったんとちゃいますかいな、なぁ長谷川はん?」
柔和な笑顔で二人を代わる代わる見比べる。
辺りは門弟たちも居らず、参拝者の声も届いてこず、ただ静けさだけがそこに横たわり、傍耳を立ている。
人の気配に気を配る銕三郎に、
「誰も居てしまへんよって心配御無用どす、それより何かあったんどすな!?」
専純、先程の好々爺の顔はすで其処にはなく、研ぎ澄まされた剣を視る面持ちであった。
「お師匠はん、ゆんべ狛やのお女将(かあ)はんとこに尾州屋の旦那さんがおいやって、うち上げてもらいましたんえ。旦那さんお戻りになりはる時、口向役の手先が、〔お薬師はんの御開帳に御戸張を寄進せよ〕て、云わはったついでに、納書も添えろ云われはって、えらい腹立ててはったわ、なぁ銕三郎はん」
かすみ、銕三郎に同意を促す。
「何んやて!平等寺はんの御戸張やて──。それを口向衆が……」
専純きっとかすみの眸(ひとみ)を射抜く眼差しで視、銕三郎が肯(うなず)くのを確め
「ご苦労はんやったなあ、よぉ聞いて来てくれはって、おおきにどす」
専純深くため息をもらす。
「専純様、これは一体どの様な事なので御座いましょうか」
銕三郎、この専純の動揺した瞬間を視逃してはいなかった。
「やはり長谷川はんやなぁ、ようお気づきにならはりましたなぁ。
平等寺はんの御開帳なら手前で身繕うものどすやろ、それを口向役から御用商人に寄進させるはずおへん」
厳しい専純の語気に銕三郎(これは!)と感じ、かすみの顔を見る。
「銕三郎はんの探しとられたもんと違いますのん」
と眸を輝せた。
「長谷川はん、こん事は御役所へは云うたらあかんのどすえ」
専純するどい眼差しで銕三郎を制する。
「それは又何故でございましょうか?」
銕三郎それを調べるのが役所の仕事のはずと思ったからである。
「お奉行はんは大丈夫でおますけども、囲りんお方は地下侍どす。こん事が囲りに万一漏れたら大事どす。今から早速壬生の隠居はんに御報告しますよって後ん事はおまかせしておくれやす」
専純そう云い残し、慌ただしく奥の坊へ戻って行く。
店に戻ったかすみ、
「銕三郎はんうちにご褒美おくれやす」
銕三郎の袖を掴みかすみ、瞳を閉じ、頤(おとがい)を上に向けた。ほのかに鬢付け油の薫りと誰が袖の甘い薫りが、銕三郎の五感を誘う。
その翌日から銕三郎は専純の戒めを守り、口向役人の出入りする仙洞御所や女院御所・禁裏を中心に地下官人の動きをさらに探る日々が続いたのである。
五月もようよう半ばとなり、比叡降ろしに冷え切った京の都にも華やいだ季節が訪れて来る様になった。
この日、銕三郎とかすみは四条烏丸仏光寺通り仏光寺に花木を届けた後、建仁町通りの百花苑に戻りかけていた。
松原橋を渡った処で商人風の男とすれ違った。
それはただすれ違った、それだけの事で、銕三郎も何か!を感じるものもない。
店に戻り、手押車を納めた銕三郎が戻って来た。
「えらかったやろ、今茶(ぶぶ)でも入れますよって」
かすみは七輪の上でシュンシュンと白い湯気を立ている土瓶に袖をからめ急須に注ぐ。
銕三郎、手拭いでパタパタと着物を叩き入って来、
「おちよは?」
と声をかけた。
「おちよなら最前まで表におったんやけどなぁ……おかしな娘(こ)や」
少々訝る感じに上って来
「ぶぶどす」
銕三郎の手元に湯飲みを差し出し、かすみはふっと小さなため息をこぼした。
「おっ!かすみどのにも然様なものが」
銕三郎湯飲みを受取りつつ、冷やかし半分、にやにやとかすみの顔を覗き込む。
「何んにもあらしまへん」
気を悟られまいとかすみ、横に向き直り、もう一つの湯飲みに茶をそそぐ。
その時表の方で物音がする。
「戻ったんや─」
かすみは表へ出て行つた。
(ふむ……) 銕三郎、何か胸に小骨の刺さった風である。
「鉄はん、ちょい出掛て来ます」
そう奥に声をかけ、
「ほなおちよ、後ん事たのんだぇ」
「へぇほなお師匠はん気ぃつけてお早ようお戻りやす」
ちよは奥座敷にやって来、かすみの湯飲みを下げつつ
「あれぇお揃いやわぁ、お師匠はん、いつの間にこんなん─、なぁ鉄はん!うちちいとも知らへんかったわぁ」
銕三郎の飲んでいる湯飲と同じ模様の少し小振りな湯飲を取り上げ、銕三郎の顔をまじまじと眺める。
「それにしてもどないしはったんやろなぁ今のお師匠はん、ちびっとけもじいわ(変)」と小首を傾げた。
むろんちよは鉄はんが言葉が云えると想ってもいないものだから、ニコニコと意味あり気に大人びた顔になり、銕三郎の顔の変りようを愉しんでいる風である。

拍手[0回]


鬼平まかり通る  8月



しまは九十郎の肩に身を預けたままねっとりと纏わりつくような眸で見上げる。
九十郎、ほのかに昨夜の名残の香りを包んだ寝夜衣の、しまの華奢な肉体を引き寄せ、左手に持った盃を置いたその手を身八ツ口から差し込み、ふくよかなしまの胸乳に触れた。
しまはそれが普通のように九十郎の指先の遊ぶに任せ、目蓋を閉じ、身を委ねている。
「お前はいい女だ──」
「うふふふ……。九十郎はんだって─ねぇ」
しまは胸乳に置かれた九十郎の手を、着衣の上から包むように手を重ね、ねっとりと流し目を送る。
室咲きの桜の一件で六角堂住職池坊専純をたずねて五日後、狛やに呉服太物商尾州屋から奥座敷を用意するよう云われたと、女将より知らせを受けたかすみと銕三郎、呉服商尾州屋の話しを聞こうと、
「お女将はん、壬生のご隠居はんのお指図どすによって、うちもそのお座敷に上げておくれやす」
と切り出した。
「そらかすみはんは壬生の御隠居はんが襟替えさせはった元々芸妓、尾州屋はんから春駒はんの御名指しなんやけど、小染はんならお馴染みやさかい、うちからそないお断りしまひょ」
軽く胸の前を叩き、心安く引受けてくれる。
当日かすみは髷を鳥田に結い上げ、久し振りに振袖を引き出し、
「ねえねえ銕三郎はん、うちどれが似合うと思はります」
銕三郎の反応を試すようにしっとりとした眸を流した。
その瞳はをんなのそれであった。
狛やの控座敷には地方(じかた)も入り、もう一人の立方染丸も先に来ていた。
「こんばんわぁ、姐はんよろしゅうおたのみします」
裾を捌き、舞扇を前に指をそえ深々と挨拶する。
「へぇよろしゅうに──小染はん、戻りはったんかいな」
「ちゃいますのえ、尾州屋の旦那はんにお目にかかりとぅて」
「なんや、そやったんかいな、小染はんの器量やし、そら尾州屋の旦那さんも喜びはるやろな」
そんな話しをしていると、
「おたのします」
外から中居の声が掛った。
半刻(一時間)して、酒宴もひとしきり終い、
「ちぃと席空けてくれまへんやろか」
尾州屋は地方の姐さんに耳打ちした。
「へぇ、なら又お声かけておくれやす」
周りに目配りし、皆そろって部屋を出た。
それから小半刻過した後、口向役はぞんざいな態度で戻って行った。
「屋州屋の旦那はん、よろしぅおすか?」
かすみは宴席の隣の部屋から声をかける。
しばらくして
「ああ小染はんかいな、お入り─」
弱々しい尾収屋の声が漏れた。
「へぇほんなら──」
かすみは静かに襖を開け部屋の中を一瞥、そこにはじっと座したまま考え込んでいる尾州屋の姿があった。
「あれあれ、あんまり進んでへぇへんに、えげつないお姿どすなぁ」
かすみ、尾州屋の手にした盃を外し、後へ回り、乱れた羽織を掛け直す。
「あかんお酒や、ちいとも飲んでへんに酔うてしもた」
尾州屋は吐き捨てるふうにつぶやく。
「旦那さんをこないな目に遭わすお人、どんお人やろ、ほんまいけずやわぁ」
かいがいしく尾州屋の身繕いに手を添えつつつぶやく様にかすみ。
「口向役の手先や!お薬師はんの御開帳に御戸張を寄進せよ、ついでに納書も添えろやて──」
「そんなんあほくさ」
「せやろ、品もんはよこせ、納書も添えろ、それだけや、お銭払うつもりなっとへん。どんだけ懐肥さはるおつもりやろか……。見てみなはれ小染はん、ほんまあの金魚(きんとと)や、いかい魚にはいかい糞(ばば)がつくもんや、なんぼ綺麗にしたかて、すぐ水汚れますんや」
尾州屋、いかにも腹に据え兼ねる風に、優雅に泳ぐ金魚に目をやる。
「なんや金魚(きんとと)のばば(、、)かいなぁ、それもぎようさんおりますねんなぁ」
そこへ女将が入って来
「お上りはんも手ぇ貸して、うちの店の以外(ほか)かてや、あちこち呼びつけて、ほんま貉(むじな)と狸の化かし合いや」
「そうどすなぁ──旦那さん、ちぃと待っとおくれやすえ、今駕篭寄せてますさかい」
かすみは一旦賄いに行き、銕三郎を座敷外まで呼び込み、尾州屋をかかえる様に
「鉄はんお頼み申します」
と銕三郎を招き入れ、
「ほな旦那さん!はばかりさんどした、気ぃつけてお戻りやす」
居ずまいを正し、顔は尾州屋を見たまま腰を折った。
「へぇおおきに、ごっそぉはんどした」
尾州屋、銕三郎に脇をかかえら、れゆっくりと玄関口へ進み、待っていた町駕篭に乗った。
「お女将(かあ)はんおおきに、おかげはんでご隠居はんにええ話し出来ます、なあ鉄はん」
何であれ一つ前に進むものが掴めたのである。

拍手[0回]


鬼平まかり通る 7月



十五日は八坂神社でどんど焼が執り行われる。


ちよを店に残し、揃って去年戴いた破魔矢も添えて神飾りの炊き上げに向った。


新しく破魔矢を戴き、それを神棚へ飾り、三人そろって柏手を打ち、今年一年の願をかけた。


銕三郎とかすみ、店廻りをすませ植木屋を訪ね、室咲きの桜を探す。


室に桜の若枝を入れ、炉火を入れて暖め、早咲きさせる物で、その分いのちも儚いものの、目出度い席には好まれるもので、中々程の良い物はみつからない。


狛(こま)やの女将にたのまれたものである。


「銕三郎はんこまったなぁ……」


しょんぼりと肩を落すかすみは、か細い肩がよけいに小さく見え、落胆の程が伺える。


「専純殿に相談してみるのもよいかと思いますが。あのお方ならお顔も広ぅございましょう」


「そやなぁ…。お師匠はんならええ知恵貸してもらえるかも知れへんもんなぁ」


かすみの顔に少し精気が戻ったようで、銕三郎ほっとした面持ちに


「銕三郎はんかんにんえ」


とつぶらな瞳で見上げた。


 


かって知ったる紫雲山頂法寺である。案内も乞わず奥へと進む。


道場に専弘の姿があり、二人を見つけ


「おやかすみはん、それに長谷川はんどしたな」


と笑顔で迎え入れてくれる。


「専弘様、御住職は御在宅でございましょうか?突然の訪門で真に恐れ入るのでございますが」


銕三郎一礼して専弘の返事を待った。


「へぇ在宅中でございますさかい、ちびっと待っておくれやす」


と奥の方に去って行き、暫らくして専純が出て来、


「よう越しで──」


と二人を交互に見やり、


「何んぞこまった事でもあったんかいな、かすみはん (さて本日はどちらの方が問題なのか) と問いつつ二人を見る。


「お師匠はん狛ののお女将はんが、室の桜欲しい云われはって、うちの行ってるとこ、皆、今はまだて──」


しょんぼりしたかすみの顔を眺めつつ専純、


「よっぽど大事なお客はん来やはるんやろな」


専純腕を組み、しばし何かに思いを巡していたが、


「そや!伏見の花(はな)清(せい)が時折高瀬川を上って来るによって聞いてみよし、ここにも持って来るよって明日にでも言うてみまひょ!心配いりまへんよって、にっこりお笑いよし、長谷川はんも辛そうどすえ」


と銕三郎の面もちを案ずる。


専純の言葉に背を押され、かすみ


「お師匠はんおおきにどすえ、ほんまこれで肩が軽ぅなったわ!なあ銕三郎はん」横に並ぶ銕三郎に微笑みを見せた。


「ところで長谷川はん、あれから何か判らはりましたやろか?」


過日の禁裏附の事を尋ねているようであった。


「いえ、江戸表よりの周りを色々と廻っては見ておりますが、今一つこれと云うものは」


銕三郎深い溜め息を洩らす。


「そうどすやろなぁ……。禁裏附と賄頭だけでは内向に長じた地下官人相手の相撲はおお事やろな」


専純両眼をつむり思案にくれる。


 


専純に暇を乞い、戻りかけに高瀬川へ廻ってみる事にした。


高瀬川は、かって京と伏見を結ぶ主要な運河で、この川を行き来する高瀬船から名付けられたと云う。二条大橋南にあり、鴨川西岸に添って流れるみそぎ川から取水して枝分れしている。


ニ条から木屋町通りに添って流れ、十条の上で再び鴨川に戻る、鴨川までを高瀬川、鴨川以南を東高瀬川と呼ぶ。


このあたりは桜の頃ともなると曳船道に植えられた桜が咲き乱れ、花界にさらに華を添える所でもある。


戻り道の四条烏間の上の九之船入りに立寄って見る。


その四日後、六角堂の小僧より知らせを受け、次の朝早く銕三郎とかすみ、九之船入りに向う。


すでに船は曳き子によって到着しており、"花清"の主人が待っていてくれた。


「お早ょうございます」


かすみは主人に声を掛け、


「烏間のお師匠はんの使いのもんやけど」


と頭を垂れる。


船主と思しき気の善さそうな、小柄だが赤銅色に焼けた笑顔で


「おお!六角はんの所んお人どすな、へい託っておます、重とぅどすえ」


一束の花筵(はなむしろ)に包んだ物を持って来てくれる。


「けんど男はんがおるよし、どうでもあらへんやろう」


と銕三郎を認め、大切に手渡してくれる。代価一分銀二つを渡し


「おおきにお世話さんどした」


と頭を下げるそれへ


「美人ん嫁さんがけなり(羨ましい)どすなぁ!大事にしとぉくれやす」


首にかけた手拭いを取って銕三郎にペコリと頭を下げる。


手押車に花筵を積む銕三郎にかすみ


「聞いた?聞いたやろ銕三郎はん!美人の嫁はんてうちの事や!なぁ銕三郎はん?」


満面の笑みをたたえ、大はしゃぎで銕三郎の袖をひっぱる。


「さぁ誰の事でしょうね!」


銕三郎かすみのほころぶ顔を見やる。


「あん、もう銕三郎はんのいけず!うちぐれちゃる!」


とすねて見せる。その顔をながめつつ銕三郎


「いや怒った顔がまた可愛いですね」


と茶々入れる。


「うちもう知りまへん!」


、かすみ完全におかんむりである。


 


一方、腕に深傷を負った侍、あれからすでにふた月が流れ、年も変って安永二年一月下旬。


おしまはこれまで通り、毎日木屋町の高瀬川沿いにある旅人宿{すずや}に出掛けている。


夕刻にはいそいそと戻って行くそれへ


「ここんところおしまはん何んやうきうきしてはりますな」


賄いの徳二が前掛けはずし乍ら女将に言葉を投げた。


「そやなぁ、今までやったら早う戻ってもしゃあないよって─云うてたのになぁ…あぁ!もしかしたらええ人でも出来たんちゃうやろか」


「へぇ、もしかしてあん時の侍──そんなわけおへんな」


云いつつ終いにかかる。


「そやなぁうちもそんな気ぃしたんやけど、まさかなぁ」


そんなうわさ話しになっていようとはおしま、想ってもいなかった。


「今戻りましたぇ、ちょと待っとくれやす、じきにおばんざい作りますよって」


軽く奥に声をかけ、いそいそと前垂れをつけ、片たすきをかけて夕食の仕度に取りかかる。


その後ろから男が近より、おしまの身体に左腕を巻きつけるように引き寄せる。


「あかん、包丁持ってますんや─」


と云いつつもその腕にしなだれかかるおしま。


おそ目の食事も終り、おしまは酒の仕度をして奥の部屋にやって来た。


九十郎はんのお父 はんも、お家の皆はんもお近くに居られへんのどすか?」


「うむ──いずれもそばに居る」


盃を受取り乍らボソリとつぶやく。


「ほな、どないしてこんように市中(まち)に出はられますのや」


おしま不審そうにそう言葉を繋いだ。


「うん それだ──心が遠い……」



「いやぁかなんわぁ!…けどそん気持ち、よぉ解るような気ぃします」

拍手[0回]


鬼平まかり通る  6月

あきれ顔にかすみ銕三郎と交互に見やる。
銕三郎が餅を割っている間に七輪が用意され、かすみは次々と網に乗せ、菜箸で器用に焦げ目をつけ、昨夜から仕度していた鍋に入れ、餅を全て焼き終えると今度はこちらを七輪に架け、パタパタと火口に団扇の風をくれる。餡が湯気をたて始め小豆の香りが立ち始める。
「あ~ん、むっちゃおいしそやなぁ」
ちよ、鼻をひくひく蠢(うごめ)かせ
「お師匠はんしあわせどっしゃろ!なぁ鉄はん」
ちよ、目をくりくりと輝かせ銕三郎を探ぐる目でのぞき込む。
「やめなはれちよ!鉄はんがえぞくろしぃ (気持悪い)思わはるやないか」
「えっほんまやの?」
真顔に戻るその顔に、ぷっと吹き出すかすみ。
「何んゃ!からこうたんどすな!お師匠はんもいけずやぁ!なぁ鉄はん!」
確かめる顔に銕三郎の同意を促す。
銕三郎、二人の会話の結末が、まさか自分に振ってこられようとは思ってもいず、思わず苦笑い。
「ほれ見とぅみぃ!鉄はん困ってはるやないか!」
かすみ、ちよの方に甘睨みする。
ちよ前垂れをたくし上げ
「かんにんどすえ」
チラと上目づかいに銕三郎を見やり、ペロリと小さく舌を覗かせる。卓袱台(ちゃぶだい)を囲み、ちよのさげて来た香物を肴に善哉に箸を進める。
「おいしゅうおすなあお師匠はん!鉄はんと一緒に食べたら、もん!むっちゃおいしおすなぁ……」
ちよ、今度はかすみの反応を覗う。
(ここで負けたら示しがつかない!)とばかり
「そら美味しいに決ってるやろなぁ鉄はん!」
と反り討ち。
「あっ痛ぁ!降参降参!どうぞお好きにしておくれやす!」
 
そうこうしている内に七日がやって来た。
今日日、小豆(あずき)粥(かゆ)になりますのんえ」
朝餉の仕度を整えつつかすみ、
「銕三郎はん、お江戸の松の内はいつどすねん?京では小正月の十五日まで門松は下げまへんえ」
「そうですか、江戸は七日が松の内ですよ」
と銕三郎
「へぇ~江戸は七日どすか、ほな、どんど焼きも七日なんや」
云いつつ
「お待ちとぉはんどす」
利休鼠の無地袷に朱の襷(たすき)がよく似合うかすみ、框(かまち)上りにちらと朱(あけ)の裾(すそ)除(よ)けの下、白く締まった小股が観え、くるりと身をひるがえして膳を捧げて来る。朱塗りの椀に小豆(あずき)が白粥の中に艶やかに乳白色の衣を纏い、湯気が立昇っている。
かすかな塩味が、より新春の初々しさを覚えさせてくれ、
「美しい!いや実に美しゅうございますね」
銕三郎、向かいに座したかすみに問いかけた。
「かなんわ、恥ずかし!」
かすみ顔を朱に染め、両袖で顔を覆う。
(しまった!俺は小豆粥の事を云ったつもりだったのだが─) 銕三郎あわてて心を打消し、
「かすみどのは無論の事、この粥も又負けず劣らず──」
と思わす口がすべった。
「あっそうどすか!うち小豆粥とおんなじどすねんな!」
ツンと横を向いてしまった。
「めめめっ滅相もありません!かすみどのは別格!比べる物なぞござりません!」慌てて手をバタつかせて冷汗百斗の想いの銕三郎。
「嘘やろ?嘘に決っとるわ!」
云いつつも、かすみの双眸(りょうめ)は否定を希んでいる眼差し。
「かすみどのに比べる物なぞこの世にありませんよ」
銕三郎本心であった。
「ほんま?ほんまに?」
途端にかすみ、頬をうっすら桜色に染めつつ、歓びが満たされて行くのを銕三郎嬉しくながめる。
何処までも純なままの心根が、早春の風のごと、穏やかなひと時の中包み込んでくれる。
そこへちよがやって来
「お二人はんお早ょうおます」
背負子の荷を降し乍ら障子を開け、向い合って膳を囲む二人の姿を認め
「はぁけなりぃなぁ、あほらしゅうて見てられまへんわぁ」
呆れた目付で目元も口元を緩める。
「なぁお師匠はん、昼に羹(あつもの)(とろみのある粥)いただきまへんか?」
と七草粥の素材を詰めた飯行李を開けてみせる。
「わあ綺麗やなぁ!こないにさぶいのんに、採って来てくれはったんやなぁ、おちよ!。
そないやなぁ。おちよと三人で戴きましょかいなぁ」
一寸首かしげ、もったいつけてかすみ。
「ほんまやの?うそや!」
宣以の方を見るちよの顔に、銕三郎にこりと笑む。
「ほんまやの?鉄はんと一緒に戴けるのや!ちよ、モンむっちゃ嬉しい!なぁ鉄はん!」
手放しのよろこび様にかすみ
「あかんあかん鉄はんとうち!それからあんたどす」
と釘を刺す。
「へぇ─」
赤い舌をチョロッとのぞかせ、小亀の様に首をすくめるのであった。
ひと通り花草木を選別し終え、生け込の仕度を終え、少し早目の昼餉とした。
「お粥は御上(天皇)はんが、朝は加湯(かゆ)云うて濃(こ)湯(ゆ)より薄い煮飯戴きはったんて、そこから粥って云われる様になったて、その項は若菜の節(七草)は羹(あつもの) 云うて米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みこ・胡麻・小豆の桜粥でおましたんやそうや。そない御師匠はんから聞きましたえ」
かすみ、銕三郎を見やる。
昆布出汁と、うすい塩味とで味を整え、七種の色の褪めないように火の通りの良い物は、膳に乗せる寸前に湯通ししておき、椀にかざり付る。
米のとろけた艶やかな中に七種が適度に混り、青々とした若草が色鮮やかに目を引く。
箸を持ったまゝ二人、じっと銕三郎の表情を探る。
掻き込んだ口の中に早春の息吹が拡がり、銕三郎目を閉じて五感の隅々まで楽しみ尽くすその表情に見合せて二人(やったね!)と云わんばかり。
ふっと我に戻った銕三郎(どないだす!)と期待の眸(ひとみ)四つに
箸を持ったまま腕をバタバタ……
「美味しゅうおますやろ!」
と、かすみの声に宣以コックリコックリ!
「やったぁ!」
と大嬉びの態である。
昼から店をちよに任せ、銕三郎、手押車に幾つも桶を並べ、これを縄で結わえて動きを止め、藁を束ねて仕込み、その中に水を張り、そこへ花材を挿し、花への気配りをした物を押し、かすみと生け替えに出達する。これはかすみの工夫であった。
かすみ達が廻る界隈は坂が多く、かなりの肉体労働である。
「しんきくそうおへんか?」
かすみ、労わりの声をかけつつ銕三郎後を押す。
小料理屋と云っても大店ともなるとその部屋数も多く、従い大量の花を持ち歩かねばならない。
花を積んだ手押車を賄い処に置き、そこからかすみの指図にしたがって材を篭に入れ持込むのが銕三郎の主だった仕事になる。
いわむらの大広間にいつもの様に花を生けていると、女将のたかがやって来、
「お師匠はんごくろうはんどすなぁ、ゆんべ時々来はるお侍はんが、となりの座敷でいさかい起しはって壷ひっくり返さはったんえ、もうかんにんや。えばってからに灘屋を呼べぇ!言いはって大騒ぎ」
「へえ?そら大ごとどしたなぁ……。そんお人どこのお方どっしゃろなぁ」
「何んでも口向役のお人とか──」
銕三郎かすみ同時に互いの眸を見交す。
「へえ口向役云うたらあのお年寄の?そらまた御酒が過ぎたんとちがいますのんか」
「そやない!そやない!まだ若ぅおしたえ」
「何んや下っぱかいな、そらあほくさや、うふふふふふ……。
女将はん、ついでにそこんとこも、壷持ってますさかい生け替えときまひょ。鉄はんお頼みします」
銕三郎こっくりうなづき、賄い場に置いてある手押車に行き、替壷を持って来た。
「お師匠はん、えらい心強いお人が付いてくれてはって、よぉおましたなぁ」
女将のたか、銕三郎の力作業目をやり、かすみをみる。
「へぇおおきに、みぃんな烏丸のお師匠はんのおかげどす」
「何んゃ六角はんの肝入りかいな、ほな安心どすなぁ」
他愛もないこのやり取りを銕三郎聞き乍ら、先程の口向役の配下の者が誰なのか思いを巡らせていた。
裏同心鳥海彦四郎の手控帳には、その当たりの事は記されていなかったからである。

拍手[0回]


鬼平まかり通る   5月号


水仙一式  「陰の花水仙に限る」




お見世は三元日を過ぎた頃から年の瀬に生けた花の挿し替えが必要になって来る。


松・竹・梅・水仙・寒梅・柳・千両・椿・南天・葉牡丹・()()()・葉蘭と云った材料の花類はちよ(、、)が背負って来る物や、近郊の植木屋より仕入れる。


これらを手押車に載せて得意先の見世見世を廻り、挿し替えるのが銕三郎・かすみ(、、、)の商いである。


四日の朝早く、ちよ(、、)が早摘みの草花を背負ってやって来、


「お師匠はんおめっとうさんで……」


と、迎えたかすみ(、、、)を一目見、


「あっ──お師匠はん!んっもうむっちゃ綺麗やおへんか!何んかいい事がおましたんやぁ」


と、確める風にかすみ(、、、)の瞳を覗き込み、


「なぁ鉄はん!ええことおましたんやろ?」


前垂れを目の(そば)まで上げたちよ(、、)の目元もほころんでいる。


ちよ(、、)のいけず!そんなんちゃう!ちゃいますえ!」


耳朶(みみたぶ)までまっ()に染めたそれを悟られまいと片袖に包むかすみ(、、、)


「怪しいなぁ──。お師匠はんほんまに綺麗どすえ。(、、)よも嬉しゅうおすえ」


と真顔で見つめたものである。


ちよ(、、)の持参した花を仕分け終え、植木屋で仕入れた花木を揃え、銕三郎に抱えてもらうと、


「ほんなら行って来ます。後はよろしゅうたのみますえ。ほな鉄はんぼちぼち行ままひょか?」


銕三郎を促し、手押車に寄り添う。


それを見送ってちよ(、、)


「鉄はんおきばりやすえ」


と冷かし半分、うらやまし半分の顔で見送った。


祗園のお茶屋は様々な人々が出入りするし、芸子の前でも商談や相談事が平気で行われており、そんな奥向きの話も、かすみ(、、、)ならそっと(こぼ)してくれるのである。


だが銕三郎が傍に寄ると、急に口をつぐみ、怪訝な眼で銕三郎に視線を投げる。


それを察しかすみ(、、、)


「お母ぁはん、こん人はどもないねん、御師匠はんのお墨付きどすえ」


と銕三郎を引き合せてくれるのである。


 


翌日少し遅めの朝餉をすませ、


「ほなおちよ(、、、)、あとん事よろしゅうたのみますえ」


お揃いの晴着に袖を通し、烏間六角堂に専純を訪ねた。


道場の縁側に腰を下ろし、思いを巡らせていた風な専純、二人の姿を認め


「おゝこれは又御揃いでおめでとうはんどす」


いつもの笑顔で迎えてくれる。


銕三郎の後に添うように控え


「お師匠はんおめっとうはんどす」


初々しい恥じらいを見せるかすみ(、、、)の姿に専純をんな(、、、)を視た。


「専純様、本年も何卒よしなにお願い申し上げます」


銕三郎両掌を腹前に添え合わせ頭を垂れる。


「これは又長谷川様、商人姿もよう似合うて─。ははは!どこから観てもこら町衆におますな」


「お師匠はん今年ん花は何の あっ──。花生けはられましたんどすか!」


道場で一人想いを巡らせていた姿にかすみ(、、、)、すなおに心を述べる。


「今な、杜若(かきつばた)エ夫しょったんや。こん花は、在原業平はんが三河国八橋で{から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う}と詠まはれましたんや。


こん花はいつ見ても観あきまへんのや。浅き春、盛りの夏、侘びの秋、霜枯るゝ冬それぞれに、葉にも風情がありましてな──」


専純、眼を細め。ふっと遠くを見つめる。


「おおそゃ!かすみ(、、、)はん、松飾りはちゃんと出来たんかいな」


「へぇ銕三郎はんに手伝ぅてもろて、お師匠はんに教わったとおりに、竹の底節残して、あとは皆抜いてもらいました。おかげさんで小笹もしっかり水が上ってます」


(なぁ銕三郎はん)と云いたげに銕三郎を見つめる。


「そらなんよりどしたな。ところで長谷川はん何んゃ変った事はおへんか」


専純、気に懸かっていたらしく真顔に戻り話しを変えた。


「年の瀬よりこちら、これと云った様なものは……」


「そうどすか──仙洞御所で公文(くもん)はんの動きが近ごろなんや妙や云うとったさかい、その(、、)きどうやろかておもてな、あはは……」


「姉小路様が──」


銕三郎、この陰の仕事を始めて以来、公家の名を知る様になっていた。


「さすがに長谷川はんどすな!よぅお判りでございますなぁ」


と、かすみ(、、、)の方に目を移し、にこやかに笑んだ。


三人並んで縁側に腰を下し、暫らく談笑の後、二人は専純に暇を乞い、六角通りへと歩を進める。


 


「お師匠はんおもどりやす」


ちよ(、、)が笑顔で出迎える。


「お昼も近いし、ほなちよ(、、)!木槌持ってきておくれやす」


と、ちよ(、、)を奥へ追い払い


「鉄はん善哉はお好きどすか?お鏡はんをカリッと焼いて、粒あんで仕立てますのや」


かすみ(、、、)ちよ(、、)から木槌を受取り


「鉄はんおたのしますえ」


と銕三郎に手渡す。


俎板に下げた鏡餅を置き、銕三郎一気に打ち下す。


「待ってやぁ!……。綺麗に割れたやおへんか、なあ“おちよ”!割れ方で運気が判るんどすえ」


と講釈がつく。


「けんどなぁ…何で善哉なんやろか?」


素朴なちよ(、、)の間いに


「六角堂のお師匠はんから聞いたんやけど、昔一休はんが食べはって、善き哉善き哉と云わはったそうや。そいからこっち善哉っ云うようになったんや」


「へぇ、やっぱり和尚(おっさん)、物知りやなあ」


「あたり前や…。なあ鉄はん」

拍手[0回]


鬼平まかり通る  3月 


着替えを済ませ、おこたの火を継ぎ足し、火鉢の灰を被せた所を火箸で掘り返し、蕩(とろ)けるほどに燃えきっている火種へ追い炭を足し、暖を整えて茶釜を掛けてかすみ、銕三郎の炬燵(こたつ)へ潜り込む。
中の火鉢の上に冷え切った手をかざし、
「温めておくれやす」
と銕三郎の双眸(りょうめ)を見つめ、手をまさぐる。
「冷たい………」
銕三郎は水仕事を終えたかすみの凍えるような手をそっと包んで見つめ直す。
「あったかぁ──」
うっとりとかすみ双眸(りょうめ)を閉じ、その温もりを体の隅々まで吸い取るように顔を布団の上にかぶせ、細い吐息を漏らす。
「せや!銕三郎はん、どないお願いしはったんどす?」
突然そう言うと、伏せていた顔を上げて銕三郎を見つめた。
──。突然の問に銕三郎一瞬詰まる。
「なぁ何お願いしはったのどす!白状しなはれなぁ」
と手にギュッと力を込めた。
「かすみどのと、共に白髪の生えるまで縁がありますようにと……」
それをきいたかすみ
「一緒やぁほんまに?」
手に力を込めて問い直した。
「嘘など言いません」
銕三郎、正直にそう答えた。
「かすみ、もんむっちゃ嬉しゅうおすえ」
うっとりと目を閉じ、溢れんばかりに幸せな面持ちを見せる。だが軽かったか?とは聞かなかった、当然軽いと想っているのであろう。
銕三郎もそれを訪ねなかった、一瞬訝(いぶか)ったかすみの顔を思い出したからである。
茶釜がシュンシュンと鳴り、やがて怒涛から松風へと変わったのを聞いて
「酒々の支度しますよって」
と、おこたから離れ、夕餉の支度に取り掛かる。緋色の前垂れが、しんと冷え込み始めた部屋をぱっと明るくする。
暫くしてお盆に重ね重箱を載せ、布団の横に置き、次に酒肴を膳に乗せて銕三郎の向かいに座し、朱盃を捧げる。
「また三杯ですか?」
と軽口を言うそれを受け
「何度でもええもんやなぁ銕三郎はんとなら……うふふふ」
首筋まで朱に染めてお節(せち)の方へ視線を向けた。その初々しい恥じらいの顔を銕三郎飽きもせず眺めやった。
チリチリと茶釜のつまみの鳴る音ばかりが静けさの中、今の現実を語っている。
お節重を肴に差しつ差されつ、酒宴はまったりとしたまま時の流れを京の夜へと引き継いでいった。
粟田口の下、知恩院の夜の四ツ(午後八時)の鐘を聞きながら、そろそろ酒宴も終わりにかかって、
「鉄はんお床延べまひょか?」
と、目の下をほのか朱に染めてかすみ尋ねてきた。
「そうですね、明日のこともあるし──」
冬の京は比叡降ろしが吹き荒れ、その底冷えは盆地特有の物がある事を、この正月、銕三郎初めて味わった。
そんな夜半、そっとかすみが銕三郎の寝床に入って来た。
「さぶい──」
寝夜着から普段着に換え、ねんねこ半纏(はんてん)に袖を通し、火鉢の右に座蒲団を敷いて間を少し空け、もう一枚座蒲団を置いた。
「四日の朝のお雑煮は、おすまし仕立に壬生菜を添えるのどすえ。これをお箸で持ち上げ 名を残す言うて菜を残しますのんえ、銕三郎はん早ぅ残しておくれやす」
と、物めずらし気な銕三郎の顔を楽しんでいる。
年の暮からこっち、初めての体験があまりに多く、銕三郎、異国へでも行った面持ちで、全てが興味深々であった。
鰹と昆布でしっかり造った出汁に、かくし醤油、それにもみじ麩(ふ)、湯葉と壬生菜で仕立てゝある。
銕三郎、壬生菜を箸ですくい上げ、湯気の立昇るそれを口に運ぶ。
まったりとした出汁の旨味にすくい上げた壬生菜の若々しい香りが口の中いっぱいに拡がる。
「味噌仕立てとは又違ぅて、いやはや京と云う所は一つ一つにこだわりますね」
左隣りのかすみに応える。
かすみ顔を曇らせ
「美味しゅうおへんか?」
不安気に持った箸を止め、銕三郎の口元を見やる。
(しまった!そんな事ではない。あまりにこの数日間、未体験の事ばかりに少々とまどっているだけ、それをかすみどのは不安に想ぅてしもぅた)
「すみませぬ!そのような事なぞ一瞬(つい)にも想ぅた事はございません。いやそれどころか、この過ぐる刻々が私には楽しく嬉しくそればかりのみ」
銕三郎箸を桜のあしらわれた清水焼の箸置に預け、不安気にみつめるかすみに返した。
「あゝよかった!うち銕三郎はんに味ない!て云れれたらどないひょて……。ほんま?ほんまに美味しおすか?美味しおすねんな!嬉しゅうおすえ、これで案心や」 瞳がぱっと煌(きら)めき、両手で頬を挟み、恥じらいをみせる姿には艶やかさが加わっている。
「六角堂のお師匠はんとこ、ご挨拶に行かなあかんのどすけど、お師匠はんも二日の正月元三(がんざん)の花(初生)もすまされはった事やし、明日あたり伺ぅて見まへんか?」
と同意を求めてきた。
こうする中にも銕三郎やかすみは禁裏侍や商人の動きに、又江戸より上っている武家の動静にも注視をおこたってはいない。

拍手[0回]


鬼平まかり通る 2月号

 

伏見稲荷まで一里半(六キロ)通常ならば一時間半ほどの距離ではあるが、急ぐものでもなく二人並んでそぞろ歩きを楽しむ。
伏見稲荷は伏見山の麓に祀られている。
かつてこの京を河と湿地の中から開いた秦氏が伊那利三ケ峰に神を祀ったものが大社である。
やはり参詣の人々で行列をなしている。だがかすみにとってはそれが又嬉しいのであろうか、身体を寄せて銕三郎の左腕に手を回し、誰はばからんとした面持ちで並んでいる。
差したる会話もなく、唯、人波みにもまれながら第一鳥居をくぐり、東へ進んで第二の鳥居をくぐったその奥に、朱塗りの桜門が見えてきた。
通常ならば狛犬(こまいぬ)のあるべき所に狐像が置かれているのが目につく。
稲荷はもとを正せば稲生(いねなり)であったものが、時代とともに稲荷に変わっていったと言われている。
外拝殿の奥に本殿があり、屋根が拝殿のほうへと伸びている。かすみの説明によると、これを稲荷造りと呼んでいるそうである。
本殿左側にあるご祈祷受付所に進んで、二人揃ってご祈祷願いを済ませたかすみは、我が庭とばかり銕三郎を連れ回し、参拝をすませたあと、本殿の左手奥にある権殿(かりどの)が控えている所を差し、
「こん横にお稲荷山へ登る石段があるんどすえ、お山巡りはここから始めるんえ、すんだら千本鳥居へ行きまひょ」
と、参道の朱塗りに鳥居が奥まで並んでいる道へといざない、御神蹟参拝参道を上がり、千本鳥居をくぐり抜け、二股の別れたところで右へと進み、命婦谷(みょうぶだに)の奥社奉拝所へと案内したかすみ、
「銕三郎はん、あの灯籠を持ち上げておくれやす」
と奥の院横の小さな祠を指し示した。
「何ですかあれは、それに灯籠を持ち上げるとは一体どう言うことです?」
「うん、あれはおもかる石言ぅて、お願いして持ち上げ、軽ければ願いが叶い、重ければ願いは叶いまへんのや、早う早う!」
と急き立てる。
銕三郎、急き立てられながら石灯籠の前で願掛けをした後、灯籠の上の空輸(頭の丸い石)を持ち上げた。
(ふむ、軽いと思えば軽いが、重いと想えば重たいような気もする……)と複雑な気持ちを抑えかすみを振り返る。
「うちも上げて見よ!」
と、かすみ進み出て──{よいしょ!}と持ち上げた。
戻ってきたかすみは少し顔が曇っているように銕三郎には見て取れたが
「次は御神蹟参拝や、早ぅ行きまひょ」
銕三郎を急かして途中の熊野社なども巡り、四ツ辻までの一本道を上がった。
そこからは人の流れに同調するように右回りに一の峰上社神蹟に上って一息入れる。
ここがもっとも高い場所となり、京の街が見渡せる最高の場所でもある。
そこから少し下がって御劔(つるぎ)社・御膳谷奉拝所から元の四ッ辻へ戻り、三徳社から三ツ辻まで戻った。
本殿に戻り、社務所で
「銕三郎はん縁起が欲しい!」
とかすみ、鶴亀の稲穂飾りをねだる。
人の波を避け、少し外れてところへ離れたかすみ
「付けておくれやす」
と目を閉じ、銕三郎の前に立ち、細い顎を少し傾(かし)ぐように上げる。
稲穂の先に鶴亀の飾りの付いたそれを銕三郎、かすみの艶やかな髪に挿す。
「うち綺麗?」
ほっそりと瞳を開け頤(おとがい)をつっ─と差し出す。
「はい!とても──」
「そんだけ?」
「いや、その……」
「その?なんどすえ?」
かすみの目尻が笑っている。
「とても可愛らしゅうございます」
まじまじと見つめられ、少々照れ気味の銕三郎
「うち、そないにかいらしぃ?ほんまどすなぁ?うふふふふっ」
お稲荷さん詣では、通常ならば一刻(いっとき)ほどで回れる道も、混雑で二刻(ふたとき)(四時間)近くを要した。
建仁町の百花苑に戻った時はすでに夕刻に近づいていた。

拍手[0回]


鬼平まかり通る  1月号


大晦日もあけ、うたた寝の銕三郎、唇にかすかな温もりを覚え、それから両の目に温か手のぬくもりを感じた。目を開けるとかすみの手で目が塞がれ、その耳元へ
「銕三郎はんおめでとうさんどす」
と、かすみのさわやかな声を聞いて銕三郎、うっすら双眸(りょうめ)を開くそこには、溌剌としたかすみの微笑が見おろしている。
「しまったいつの間にやら寝てしもぅた。これぁいけません、百も覚えておりませぬゆえ年を越し損ねました」
銕三郎鬢(びん)をぽりぽり掻きつつかすみを見上げた。
「うふふっ」
すでに化粧もすませ、立仕事の恰好(なり)でかすみ、銕三郎の背に手を添えて引き起す。
いそいそと祝い膳を運び
「おめでとうさんどす。今年もよろしゅうおたのみします」
と、水引で祝い飾りを施された酒器を差し出す。
「お屠蘇どすえ、今年も銕三郎はんがまめでありますように……」
左横に座して並び、もう一つ朱盃を取り出し、お屠蘇を注いでみつめ合い、口元に運ぶ。京紅の紅(あか)さが色白のかすみの口元をさらに引き立てて見え、艶やかで仄かな色気と言えばよいのか言葉にならない雅な姿であった。
「美味しい……。銕三郎はんと戴くお屠蘇はこないに美味しいんやなぁ」
しみじみとしたかすみの言葉はそのまま銕三郎の思いでもあった。
箸は柳の両細(片方は神様用)重箱用は箸紙に組重と書いてある物を使うのだそうだ。
質素ではあるものの、何れも心のこもった品々が用意されてあり、一つ一つ取り上げるたびにかすみ
「銕三郎はん!あ~ん!」
と催促する。
(俺が裸になれるのはこのかすみと居る時だけかも知れぬ)銕三郎、目の前の初々しいかすみの姿を見つめながら、ふとそう想ったものであった。
それ感じたのかかすみ、
「お雑煮が延びたらあかん!」
と、小走りに台所へ立った。やがてお盆に椀を2つ並べて捧げ持って来、
「こっちは銕三郎はんの!こっちはうちのんや!」
と雑煮用の椀を差し出した。
「外は朱塗りで中が金は男はん用、外が黒で内が朱塗りは女用どすねん」
と湯通ししたばかりの真新しい器に両細箸を添えてすすめる。
箸は三十日(みそか)にかすみに乞われて、銕三郎・かすみ、それぞれの名を箸袋に書き、神棚へ供えたもので、漆器の僅かな漆の香りが初正月のめでたさを教えてくれるようである。
丸餅にお祝清白(すずしろ)(小振大根)・金時人参・里芋に柚子の皮の角切りと三つ葉に糸かきを添えてあり、その真ん中に拳ほどもある頭芋がどんと座っている。
「おほっ!これでございますか、否(いや)まさに聞きしに勝る─。う~ん強敵にございますね」
銕三郎つくづく眺め(さてどうしたものかと思案橋。何しろこいつを食べ尽くさねばせっかくのお重に箸が付けれられないと来たものだから{う~んう~ん}と唸るばかり。
白味噌の甘い味に、控えめの昆布だけの出汁、それへ真っ白な小餅と金時人参の真っ赤な色目、色も煮る前の青々とした青菜に三つ葉、ちらりと柚子の角切りが絶妙な色合いを魅せて飾り付けてあり、金色の椀の中に湯気を立てている。
抱え込んで{すっ}と汁をすする──。とろけるようなその味わいに銕三郎目を閉じ深く息を吸い込む。
ふっと柚子の薫りに三つ葉の香りが絡み、しびれるような快感さえ覚えたものであった。
その表情を確かめるようにかすみ
「うふふ銕三郎はん幸せそうや……。かすみも嬉しゅうおすえ」
一口済ませたそこでかすみ、置き晒した寒酒を銚釐(ちろり)に入れて来
「おひとつ─」
と言葉を掛けて盃を促す。
「おおっ これは──」
銕三郎慌てて朱盃を取り上げ、注がれる新酒の杉の香に喉の奥を開き嗅ぐ。
まったりとふくよかな薫りとともに、下り酒の清らかな薫りが喉を越す。
「嗚呼美味い!」
それを確かめかすみ
「ほなうちにもおひとつ注いでおくれやす」
と、銕三郎の盃を取り上げ差し出した。
「これはまた!お過ごしなさいまするか!」
銕三郎銚釐(ちろり)を取り上げて注ぐ。
軽く頂いてかすみ
「なんや三三九度みたいやなぁ、うふふふふっ」
と飲み干す。
盃の紅を懐紙で拭い、袖を押さえて差し出してきた。
「返杯ですか?」
と銕三郎
「もう二杯戴くねん、だって三度飲まなあかんのんどすえ」
と悪戯っぽく双眸(りょうめ)を輝かせる。
炬燵(こたつ)は火鉢を囲んだ櫓の上に布団を載せるだけのもの。手を伸ばせばお互いの身体に触れる程度のものであったから、その上に置くなぞと言うことはできなかった。
かすみ、銕三郎の手を取り三杯目を注がせてそれを飲み干し
「今度は銕三郎はんの番」
と盃を受け取らせ、白魚のような腕を伸ばして盃に注ぎ、
「あと一杯どすえ」
と銕三郎の眸(ひとみ)を見つめる。
何がどうということではない、ただかすみの心のなかに描かれている絵草紙がそこに儚い一瞬(ひととき)の幻として存在(ある)だけであったろう。
二人だけの時間を久々にゆっくりと寛(くつろ)いだあと
「ねぇねぇ銕三郎はん、初詣にいこ!いつもお雑煮すませたら参るんよ、なっ!行こ」
もう少しゆっくりしたいと目で訴える銕三郎を急き立ててかすみ、銕三郎の為に内緒で誂えた晴れ着を持ち出した。
鉄紺の紬(つむぎ)は銕三郎の背に当てるとぴったりと収まる。
「やっぱりよう似合うてはりますなぁ──。うふふふっ」
この処かすみはよくこの含み笑いをする。それ程かすみにとって銕三郎の出現は新鮮なものであった。
同じ色目の髭紬の羽織を着せかけられる。その仕草はまるで初々しい新妻のそれである。
少々てれながら銕三郎、まんざらでもない顔に、これも真新しい白足袋を差し出した。
「お師匠はんから貰ぅたんやえ、お正月に履きなはれいぅて」
いそいそと自分も支度をすませ、框(かまち)に真新しいおそろいの真(しん)塗り下駄を並べる。
「うちのんは裏が紅なんや」
と下駄を返してみせる、そこは京紅色に塗られ、黒と朱の対比がまばゆいほどに美しく思えたものであった。
何もかもこの日のためにかすみが取り揃えた品々である。
いじらしいほど一生懸命銕三郎に尽くそうとするかすみの心根が痛いほど銕三郎に伝わって来、
「これで私もいっちょ前の旦那衆ですねぇ」
と両袖を摘んで引っ張り、かすみを見やる。
素早くかすみ銕三郎の左側に寄り添い
「どこから観ても揃い雛やぁ、なぁ銕三郎はん」
上機嫌でかすみ銕三郎の腕を取り戸口へと導いた。
外は薄っすらと雪化粧に覆われ、そこを行き交う人のそれぞれの表情は新しい願いに満たされているように思えた。

拍手[0回]


鬼平まかり通る 12月号



「あれぇ若奥はん、ようお揃いで!もうお飾りすませたんどすか」
愛想の良い顔で二人を眺めるのへかすみコックリ小首を下げた。
「ほな、もう白朮(しろおけら)祭だけどすな!うちももうちびっとしたら店閉めて支度しまひょ」
「そやな、うちらも蓬来頂いたら八坂はんで火鑽(ひきり)頂いて、あとはおこたで除夜の鐘聞くだけや、なぁ鉄はん!」
と銕三郎の袖を引っ張る。
「へぇお待ち遠さんどした」
熱々の蓬来が運ばれて来た。
蕎麦の上に蒲鉾(かまぼこ)・青菜(ほうれん草)・海苔・湯葉・それに香りの柚子が添えられている。
ふうふう云い乍ら食し終え、支払いをすませて後から出て来、
「若奥はん!て、うふふっ」
かすみ思い出し笑いは、よほど嬉しかった様であった。
「なぁ銕三郎はん!若奥はんやて!うちそないに見える?」
と銕三郎の袖に手をくぐらせ、ぶらぶらと左右にゆらす。
「そう見えたのかも知れませんねぇ」
銕三郎まんざらでもない顔に
「そやろ!そないに決っとるわぁ」
と嬉々として声をはずませている。
晦日も夜の四ッを回った頃から
「銕三郎はん!おけら詣りに行きまひょ!」
とかすみはそそくさと出掛る仕度を始めた。
連れ立ってぶらぶら八坂神社へ上がり、社務所で願い事を書いたおけら板を納め、三尺の火伏せ厄除けの吉兆縄をもらい、これを輪にして神殿脇に移されたおけら火を移し、くるくる廻しながら持ち帰るのである。
「銕三郎はん知りはらしまへんやろけど、八坂はんでは悪垂(あくた)れ祭り言うのんがあるんやで」
「悪垂れ?もしかして悪口のことですか?」
「そや!日頃言えへんこと、こん暗闇でうっぷんを晴らしますねんえ、それぞれ勝手に悪垂れを吐くんや。暗闇やから、どなたはんが言わはったか判れへんよって好きな事言えますねん。銕三郎はん行ってみまへんか」
銕三郎の袖を引き気味に顔を見、反応を待つ。
「私ですか?私は別にそのようなものはありませんので──。かすみどのは如何です?」
「うちかてあらしまへん、ほな、おけら火もらいに行きまひょ」
と、先に進んだ。
社務所でおけら板を戴き、それぞれ願い事を書いて納め、桃の小枝に挟まれたお札を頂いて持ち帰り、小正月にお粥を炊き、その小枝で混ぜると邪気を払うと云われている。それを銕三郎に持たせ、戻って行く。
参道に灯されたぼんぼりの仄かな明かりの下、くるくる廻る吉兆縄の赤い輪と、かすかな竹の燃える匂いと共に、僅かな煙が白く弧を描いて宙に舞う。
「うふふふふっ」
意味深なかすみの含み笑いに銕三郎
「何ですかその含み笑いは?」
銕三郎の右の袖に手を通し、右手でおけら火をくるくる廻し乍ら
「ないしょ!うふふっ」
「ああそうですか内緒ですか!」
銕三郎さも不愉快と云わんばかりにプィと横を向く。
「あれ銕三郎はん怒らはったんどすか?かんにんどすえ」
「ならば白状なさりなさい」
きっと睨む。
「嫌ゃ!かんにんやぁ!」
と目を細めて銕三郎を見つめる。
どこまでも碧(あお)く澄んだ満天の星空の下、かすみのつぶらな瞳に星がキラキラと映っていた。
かすみと寄り添って歩く事なぞ想いもしなかった銕三郎、隠密探索中の身である事を忘れてしまいそうであった。
時折の風が辺りの木々をすり抜け{びゅう}と鳴り、遠くに人々の声や子供の叫び声が聞こえてくる。
建仁通りの百花苑に戻り、戸締まりを終えた後、おけら火を神棚の蝋燭に移し、置火燵(こたつ)にも移し、燃え残った火縄は消して火伏のお守りに竈に祀った。
「おこたに入っておいておくれやす」
かすみはそそくさと何やら仕度をして戻って来、銕三郎の座った左隣りに座り、竹篭に入れた蜜柑を一つ取り上げて皮をむき乍ら
「銕三郎はんは何お願いしはりましたんえ」
とのぞき込んでくる。
「その前にかすみどのは……」
とやりかえすのへ
「云いまへん、へんしょ(恥ずかしい)やから」
悪戯っぽい瞳を輝かせて
「銕三郎はんは?」
魅入るように再び間うた。
「ようし白状させてやる!覚悟はよろしいかな」
銕三郎、両の指をかすみの目の前に出し、コチョコチョと仕草をして見せる。
「いやぁん、かんにんやぁ」
と大げさに銕三郎に身を預けて来る。
炬燵(こたつ)の上にむきかけの蜜柑が転がり、銕三郎の胸にかすみの右腕が懸り、そのまま後方へ押し倒された。その耳元へ
「うちな!このまんま銕三郎はんとずっとずっと一緒に居させて欲しいって書いたんえ」
しっとりと濡れたかすみの唇が銕三郎の耳朶(みみたぶ)にふれる。
静かに穏やかに忍び香の薫りがこぼれて来る中、除夜の鐘が二つ三つと鳴り始めたのを意識の遠くに聞いた。
しばらくして身を起こしたかすみ
「そや!銕三郎はん二人(ににん)羽織(はおり)しょ!」
と銕三郎のねんねこ半纏(はんてん)を脱がせ、後ろから覆いかぶさる。
「なんですかそれは?」
これから先に起こる出来事が読めず銕三郎、首を後ろにひねるそこへかすみ、
「銕三郎はんは両手を膝におあずけや」
と言いつつ、手に持っていた蜜柑を銕三郎の両腕の外側から、ねんねこ半纏を着せるように覆いかぶさる。
「ねっ!こうやってお蜜柑食べさせるんや」
と銕三郎の口元を指先に探す。
やっと理解した銕三郎
「あああっそこは鼻っ 鼻ですよ!もっと下──。ああっそこは顎─・とととっ、もっと右右!あうっ!今度は左──。もう少し手前へ──」
と、口を前に突き出し蜜柑を捉えようとした。
かすみのはだけた両の脚が…胸の膨らみの柔らかな感触が銕三郎の体に触れる。
そのままかすみは銕三郎を包み込み、背中に顔を押し付けて……。熱い吐息が銕三郎の首筋に懸かる。
(こんな穏やかな時を俺は知らぬ、心に小石の一つ置くでもない、言葉はいらぬ、唯そこにいるそれだけでいい、気持ちの赴くまま─、飾りも恥じらいも捨てた充足感は何と言うのだろうか……)あるがままの心地よさを銕三郎、初めて覚えた。

拍手[0回]


鬼平まかり通る  11月号



「あれぇ若奥はん、ようお揃いで!もうお飾りすませたんどすか」
愛想の良い顔で二人を眺めるのへかすみコックリ小首を下げた。
「ほな、もう白朮(しろおけら)祭だけどすな!うちももうちびっとしたら店閉めて支度しまひょ」
「そやな、うちらも蓬来頂いたら八坂はんで火鑽(ひきり)頂いて、あとはおこたで除夜の鐘聞くだけや、なぁ鉄はん!」
と銕三郎の袖を引っ張る。
「へぇお待ち遠さんどした」
熱々の蓬来が運ばれて来た。
蕎麦の上に蒲鉾(かまぼこ)・青菜(ほうれん草)・海苔・湯葉・それに香りの柚子が添えられている。
ふうふう云い乍ら食し終え、支払いをすませて後から出て来、
「若奥はん!て、うふふっ」
かすみ思い出し笑いは、よほど嬉しかった様であった。
「なぁ銕三郎はん!若奥はんやて!うちそないに見える?」
と銕三郎の袖に手をくぐらせ、ぶらぶらと左右にゆらす。
「そう見えたのかも知れませんねぇ」
銕三郎まんざらでもない顔に
「そやろ!そないに決っとるわぁ」
と嬉々として声をはずませている。
晦日も夜の四ッを回った頃から
「銕三郎はん!おけら詣りに行きまひょ!」
とかすみはそそくさと出掛る仕度を始めた。
連れ立ってぶらぶら八坂神社へ上がり、社務所で願い事を書いたおけら板を納め、三尺の火伏せ厄除けの吉兆縄をもらい、これを輪にして神殿脇に移されたおけら火を移し、くるくる廻しながら持ち帰るのである。
「銕三郎はん知りはらしまへんやろけど、八坂はんでは悪垂(あくた)れ祭り言うのんがあるんやで」
「悪垂れ?もしかして悪口のことですか?」
「そや!日頃言えへんこと、こん暗闇でうっぷんを晴らしますねんえ、それぞれ勝手に悪垂れを吐くんや。暗闇やから、どなたはんが言わはったか判れへんよって好きな事言えますねん。銕三郎はん行ってみまへんか」
銕三郎の袖を引き気味に顔を見、反応(こたえ)を待つ。
「私ですか?私は別にそのようなものはありませんので──。かすみどのは如何です?」
「うちかてあらしまへん、ほな、おけら火もらいに行きまひょ」
と、先に進んだ。
社務所でおけら板を戴き、それぞれ願い事を書いて納め、桃の小枝に挟まれたお札を頂いて持ち帰り、小正月(十四・十五日)にお粥(かゆ)を炊き、その小枝で混ぜると邪気を払うと云われている。それを銕三郎に持たせ、戻って行く。
参道に灯されたぼんぼりの仄かな明かりの下、くるくる廻る吉兆縄の赤い輪と、かすかな竹の燃える匂いと共に、僅かな煙が白く弧を描いて宙に舞う。
「うふふふふっ」
意味深なかすみの含み笑いに銕三郎
「何ですかその含み笑いは?」
銕三郎の右の袖に手を通し、右手でおけら火をくるくる廻し乍ら
「ないしょ!うふふっ」
「ああそうですか内緒ですか!」
銕三郎さも不愉快と云わんばかりにプィと横を向く。
「あれ銕三郎はん怒らはったんどすか?かんにんどすえ」
「ならば白状なさりなさい」
きっと睨む。
「嫌ゃ!かんにんやぁ!」
と目を細めて銕三郎を見つめる。
どこまでも碧く澄んだ満天の星空の下、かすみのつぶらな瞳に星がキラキラと映っていた。
かすみと寄り添って歩く事なぞ想いもしなかった銕三郎、隠密探索中の身である事を忘れてしまいそうであった。
時折の風が辺りの木々をすり抜け{びゅう}と鳴り、遠くに人々の声や子供の叫び声が聞こえてくる。
建仁通りの百花苑に戻り、戸締まりを終えた後、おけら火を神棚の蝋燭に移し、置火燵(こたつ)にも移し、燃え残った火縄は消して火伏のお守りに竈に祀った。
「おこたに入っておいておくれやす」
かすみはそそくさと何やら仕度をして戻って来、銕三郎の座った左隣りに座り、竹篭に入れた蜜柑を一つ取り上げて皮をむき乍ら
「銕三郎はんは何お願いしはりましたんえ」
とのぞき込んでくる。
「その前にかすみどのは……」
とやりかえすのへ
「云いまへん、へんしょ(恥ずかしい)やから」
悪戯っぽい瞳を輝かせて
「銕三郎はんは?」
魅入るように再び間うた。
「ようし白状させてやる!覚悟はよろしいかな」
銕三郎、両の指をかすみの目の前に出し、コチョコチョと仕草をして見せる。
「いやぁん、かんにんやぁ」
と大げさに銕三郎に身を預けて来る。
炬燵(こたつ)の上にむきかけの蜜柑が転がり、銕三郎の胸にかすみの右腕が懸り、そのまま後方へ押し倒された。その耳元へ
「うちな!このまんま銕三郎はんとずっとずっと一緒に居させて欲しいって書いたんえ」
しっとりと濡れたかすみの唇が銕三郎の耳朶(みみたぶ)にふれる。
静かに穏やかに忍び香の薫りがこぼれて来る中、除夜の鐘が二つ三つと鳴り始めたのを意識の遠くに聞いた。
しばらくして身を起こしたかすみ
「そや!銕三郎はん二人羽織しょ!」
と銕三郎のねんねこ半纏(はんてん)を脱がせ、後ろから覆いかぶさる。
「なんですかそれは?」
これから先に起こる出来事が読めず銕三郎、首を後ろにひねるそこへかすみ、
「銕三郎はんは両手を膝におあずけや」
と言いつつ、手に持っていた蜜柑を銕三郎の両腕の外側から、ねんねこ半纏を着せるように覆いかぶさる。
「ねっ!こうやってお蜜柑(みかん)食べさせるんや」
と銕三郎の口元を指先に探す。
やっと理解した銕三郎
「あああっそこは鼻っ 鼻ですよ!もっと下──。ああっそこは顎─。とととっ、もっと右右!あうっ!今度は左──。もう少し手前へ──」
と、口を前に突き出し蜜柑を捉えようとした。
かすみのはだけた両の脚が…胸の膨らみの柔らかな感触が銕三郎の体に触れる。
そのままかすみは銕三郎を包み込み、背中に顔を押し付けて……。
熱い吐息が銕三郎の首筋に懸かる。
(こんな穏やかな時を俺は知らぬ、心に小石の一つ置くでもない、言葉はいらぬ、唯そこにいるそれだけでいい、気持ちの赴くまま─、飾りも恥じらいも捨てた充足感は何と言うのだろうか……)あるがままの心地よさを銕三郎、初めて覚えた。

拍手[0回]


鬼平罷り通る 10月号


どれほどだったかは覚えがないものの、然程でなかったことは確かである。
煮しめの得も言われない香りに
「おおっ─実に美味そうな─。見ればいずこも温泉気分で御座いますなぁ」
銕三郎、白出汁を吸って程よく色づいた鍋の中を覗き込む。
「銕三郎はん、後ろの水屋の真塗りのお鉢取っておくれやす」
と指図され、銕三郎水屋を開けて真塗りに中が金塗りの鉢を取り出し
「これでよろしいでしょうか?」
と向き直る、そこにはかすみが海老芋の煮付けを箸に挟み待ち構え
「銕三郎はん、はぃあ~~ん!」
と、自分も口を開けて促す。
突然の事で銕三郎驚いたそれに
「ほらぁ─あ~ん!」
先程よりもさらに大きな口を開けて箸を差し出すかすみの真顔に釣られ。
銕三郎おどけながらも小芋を口にする。
熱々小芋のとろろとした舌触りに、目を白黒させながら
(ほっほっほっ…ふぅふぅ)と口をもぐもぐ。
「美味しゅうどすか?」
にっこり笑って満足そうな顔は初々しい新妻のそれのよう。
「美味い!」
それは実に美味かった。
京野菜の持ち味というよりもかすみの気持ちが染み込んでいたからであろうか。
「ほんまどすか?」
口元をほころばせた笑顔に銕三郎、悪びれることもなく
「かすみどのの心がにじみ出てくるような深い味わいですよ」
と口を突いてでた。
「嬉しゅうおすえ」
初々しい恥じらいの表情を見せ、
いやいやをするその仕草に銕三郎思わず手に持っていた祝箸を取り落としそうになった。
(なんと言えば好いのだろう、心がときめくとはこのようなことを言うのであろうか)かすみのきらきら輝く瞳にぶつかると何もかも忘れてしまいそうになる自分に驚いている。
ひと通りの支度も済ませたかすみ、
「銕三郎はん、お鏡はんは、古老(ころ)柿(がき)は、外はにこにこ、中睦まじく云うて、外に二つ、中に六つ──。そいから三方(さんぼう)に裏白(うらじろ)乗せて、その上に四方(よほう)紅(べに)敷いてお鏡さん重ね、御幣(ごへい)を敷き、その上に橙(だいだい)載せますのや。これをお竈(くど)はんに飾りますのんえ、知っとおいやしたか?」
と三宝を前に。
「いやそれは知りませんでした。銕三郎、飾り物を添えつつ手際よくあしらうかすみの手元を眺めていると、
「銕三郎はんちびっと持っておくれやす」
と銕三郎にお飾りを預けると、竈(くど)の周りを掃き清め、手を清水で濯(すす)ぎ清め、竈(くど)に注連縄(しめなわ)を張り
「銕三郎はんおおきに!」
と、それを受取り飾り付ける。
そうして、もう一つの飾り付は三方の上に白米・熨斗(のし)鮑(あわび)・伊勢海老・勝栗・野)老(とろろ)・馬尾藻(ほ)んだわら)・橙を盛りつけた。
「やぁこれは食い積(つみ)ですね」
銕三郎(これなら俺も知っておる)とばかり先に口にした。
「あら!銕三郎はんとこはそない云いますのん?京(ここ)は蓬莱(ほうらい)飾り云いますのんえ、けったいなんやなぁ」
「へェ成程、さすが京は雅だなぁ、それに較べて江戸は武骨で土地柄が表れますね」鬢(びん)に手をやり情けなさそうにするそれへ
「出来た!銕三郎はんそれ持ってついて来ておくれやす」
と先に進み、部屋奥の神棚の前に立ち、パンパンと柏手を打ち、傍に置いてある踏み台を持って来、
「銕三郎はん!うち支えておくれやす」
と台に上り、銕三郎より棚飾りを受け取り、恐る恐ると背伸びする。
銕三郎あわててかすみの細い腰に手を添えて支える。
柔らかな腰の感触が手の内にしっとり感じられ、若い女性の柔肌の温もりが伝わって来た。
飾り終えて
「おおきに」
振り向こうとして、ゆらっと姿勢を崩し
「あかん!」
と叫び銕三郎の胸の中に倒れ込み、そのまま両腕を拡げ、銕三郎を包み込む、かすみの胸の膨らみが銕三郎の腕の中で大きく幾度も波打つのを感じる。
そのまま目を閉じ、顔を胸に埋めたまま時が止った。
どれ程の刻(とき)が過ぎたであろうか、かすみは恥じらいを包むようにうつむいたまま腕を解き、
「そや!銕三郎はん年越しそば食べなあかんなぁ、三十日(みそか)蕎麦いただきに行きまひょ。蕎麦は寶来いうて、塗椀の漆に貼り付ける金箔が作業場に散るのを三十日にそば粉撒いてそれを掃き集め、篩(ふるい)に懸けて集めたところから宝が来るて呼ぶのどすえ、可笑しゅうどすなぁ、これを幸せが細ぅ長ぅ続きますよう願ぅて戴くのどす」
屈託のない笑顔で銕三郎に微笑む。
「細く長くですか……そうありたいものですねぇ」
銕三郎しみじみとした面持ちでかすみに言葉を返す。
かすみ
「なぁ銕三郎はん、寶来頂いたあと、白朮(おけら)祭(さい)連れて行っとぉくれやすな」
銕三郎の藍色の袷の袖を引っぱり甘える目つきで仰ぎ見る。
おけら祭とは、八坂神社で毎年十二月二十八日に執り行われる鑽火式(さんかしき)・火鑽杵(ひきりきね)と火鑽臼(ひきりうす)で鑽(きり)出した御神火が本殿内の白朮(けら)灯籠に移される。
これを大晦日夜七時から始まる除夜祭の終焉後、境内三箇所にある白朮火授与所に設けられた灯籠に白朮火が移され、願い事を書いた白木の{をけら木}が元日早朝まで焚かれる。
これを竹で作られた吉兆縄(きっちょうなわ)(火縄)に移して持ち帰り、無病息災を願い神棚に上げたり雑煮を煮る火種にした。 
火種の白朮(おけら)は生薬として知られている植物で、この根を混ぜて燃やすために特有の匂いが立ち込める。正月の屠蘇散(とそさん)にも入っているあの匂いであり、吉兆縄は火縄作りで知られた三重の名張で作られている。
正月の支度も終え、戸締まりをした後、連れ添って近くの蕎麦屋に向かった。
祇園町の蕎麦屋寶(ほう)来(らい)に入ったかすみ
「おこんばんは蓬来二つくださいな」
と声をかける。

拍手[0回]