時代小説鬼平犯科帳 2015/10/31 11月第1号 杉田玄白と平賀源内 杉田玄白 平賀源内その日、平蔵はゆっくりと市中見回りに出かけた。昨夜は本所2つ目の軍鶏鍋や五鉄に寄ったものだから、そのまま菊川町の役宅に戻った。何しろ五鉄では例によって相模の彦十が相手ということで「おい彦 お前ぇちょいとフケちまったんじゃァねえのかい?」とまぁ酒の肴のつまみという気分でちょっかいを出す。懐盃をさり気なく出しながら彦十「冗談いっちゃぁいけませんやぁ長谷川様、ここんとこちょいと懐も世間様ご同様冷てぇ夜風に晒されて、遊び銭がお留守がちなだけでホレこの通り至って丈夫なもんでござんすよ!」と腕をまくって叩いてみせる。「おいおい その鳥ガラみてぇな腕でかい?ちいっとこっちの方で使い過ぎたってぇんじゃぁねえのかぃ、どうでぇい図星だろう」と 小指を立ててみせた。「あいたぁ さすが長谷川様にかかっちぁ相模の彦十 へいごもっともで・・・・・でね、あんときゃぁこっちの方でちょいと稼げて」、と壺を伏せる真似などして、「懐もそこそこ出ござんしてね、これなら岡場所に久しぶりに潜り込もうかぁなんて、へへへへへ」と鬢(びん)をポリポリ掻いた。「市ヶ谷柳町の店を覗いて冷やかしていたんでござんすがね、どこかで聞いたような声に振り返ってみやしたら、何と木村様のお姿が・・・・・・」「何ぃ 忠吾だぁ・・・・・」「へい その木村様がちょいと丸っこい引込み女郎につかまって・・・・・」「鼻の下が伸びていたと言うわけだな」「あっ さすが長谷川様、そこまでお見通しとはおっかねぇこって、くわばらくわばら」「おい 彦!それぐれぇは読めなけりゃぁアヤツの親父に申し訳が立たぬではないか」「まぁ仰るとおりではござんすがね、その時木村様の後ろからつけてきたような野郎がおりやした」「んんっ 其奴はどのような様子であった」平蔵少し興味が湧いてきたのか小鼻のあたりをヒクヒクさせながら膝を乗り出してきた。「へい ありゃぁどう見ても遊び人ふうで」、「で 、忠吾はそいつに気づいたのか?・・・・・・な わけはねぇな」「あっ 当たり~」彦十、平蔵の感に半ば呆れて「その通りでござんすよ、木村様はそのまま次の店にと流されて、それを付かず離れず付いていやしたから、まず間違いはござんせん」「で お前ぇはどうした」「どうしたもこうしたもござんせんよ、あっしはそのまま後ろ向きにやり過ごして野郎の後に周りやした」「おうおう お役が目覚めたかえ」「へい そりゃぁもう・・・で木村様はおなご共の手を適当に触っては・・・・・」「ますます鼻の下が伸びたと言うわけだな」「嫌だねぁ そこまで行きやすかぁ・・・・・まぁそのまんま柳町を抜けてお役宅の方へと向かわれました」「奴め お前ぇと同様懐の風通しが良かったんだろうぜ、で その後があるのだろうなぁ」平蔵少々目つきが座った。「へい 木村様が清水御門お役宅に入られるのを見届けて、野郎足を返して元の市ヶ谷の方へ」「ご苦労だったなぁ 彦十遊びも放ぉってよ」「その通りでさぁ で、野郎の帰ぇったところが馬場下町天神裏の百姓屋に入ぇっていきやして、暫く張ってたんでござんすがね、動きもねぇもんで、寂しく帰ぇって来やして、おときの眼を盗んでの」・・・・・・「燗冷めの盗み飲みと言うわけだな」「へへへへっ図星!と言うわけで寝過ごしちまっておときにばれちまった」「ほとほとお前ぇものんきだなぁ彦!」「其奴の顔は見覚えがねぇんだな」「へぇ・・・・・」「まぁ良い お前ぇがそういうのであれば、こいつは忠吾が目的の何かであろうが、役宅まで従けてきたなら忠吾の正体は知れたと見なければなるまい、よし本日からお前ぇすまねぇが忠吾の尻にくっついて張ってはくれぬか、こいつぁ脚代だとっときな」。「ありがてぇ これで一晩(夜桜へ 巣を架けて待つ女郎蜘蛛ぉ)と、いいねぇ銕っあん!」「おいおい 彦十そいつぁ遊び銭ではないんだぜ」「判っておりやす長谷川様ぁときたもんだ」「やれやれ」・・・・・さしもの平蔵も糸が空回りの枯葉である。それから二日間は何事も無く過ぎ去った。だが三日目の昼に事件は起こった。四ツ谷を抜けて市ヶ谷へと市中見回りに出かけた忠吾が牛込から浄泉寺谷町に歩を進めていた。牛込に入った頃から、密かに忠吾の後ろを張り付いてゆく男があった。相模の彦十はその男のずっと後から見え隠れに微行を続けた。忠吾が、穴八幡前の茶店で茶と団子を一皿食べて、さて!と腰を上げた時茶店の後陰から男が忠吾に沿うように寄った。「おめぇさん、ちょいとそこまで面かしてくれねぇかい」「誰だ!お前達は!」と忠吾「来りゃぁ判るよ、なぁにちょいとそこまで付き合ってくれりゃいいんだよぉ」と前後左右を挟むように忠吾を取り囲んだ。やむなく忠吾は言われるままに男どものあとに従った先は天神裏手の百姓屋。「おい!おメぇ懐に十手を飲んでいるだろう」「何ぃ!」忠吾の顔色が変わった。「おう やっぱりそうかい、おやじさん!やっぱりこいつでさぁ」声をかけられて家の中から顔をのぞかせた五十過ぎと想われる渋い顔の男が、忠吾の顔をのぞき込んだ。「らしい顔だぜ!」吐き捨てるように男は忠吾の顔を足の先から頭の先まで舐めるように眺め「奥に放り込んでおけ」と命じて引っ込んだ。彦十は事の顛末をすぐさま平蔵に伝えた。「何ぃ 忠吾が拉致されただと!で、場所はどこだ!」「へぇ 先の市ヶ谷馬場下町の百姓屋ございやした」「やはりそのようなところであったか、よし、あい判った、小柳はおるか!」「お頭 お呼びで」同心小柳安五郎が控えた。「おお 小柳、ご苦労だが市ヶ谷の馬場下町まで行ってはくれぬか」「ははっ で、ご用向きは」「うむ そこの天神裏の百姓屋を見張って欲しいのじゃ、忠吾がどうもそこに囚われておるやも知れぬ」はぁっ?木村様がでございますか・・・・?」「うむ どうもそのようであるらしい」「早速に出張ってまいります」その足で小柳は出て行った。そのあとを彦十がついていったのは言うまでもない。昼過ぎにはくだんの百姓屋の横にある穴八幡の塀の内側に小柳の姿があった。当然、それを彦十も見張るという念の入れようである。百姓屋は人の気配も感じられず、小柳は暫く時間をおいて草むらに身を低くしながら百姓屋に近づいてみた。(物音がない・・・・・木村さんはまだここにいるのだろうか?)それを確かめようと立ち上がろうとした時表の方で人の声がした。慌てて身を伏せ、様子を伺っていると貫禄のある面構えの男が手下風の男を三名ほど従えて家の中に入っていった。まもなく中からが聞こえてきた。小柳は日差しを避けて北側に回り込み、家の近くまで忍び寄った。中からの声も遠目ではあるがよく聞こえる。「お前ぇさんは盗賊改だよなぁ」「それがどうした!」木村忠吾の声が小柳安五郎の耳まで聞こえてきた。(木村さんはまだいきている)小柳はひとまず安心した。「お前さん名は何と言うんだね」柔らかいがドスの効いた低い声である。「名前を聞いてどうするつもりだ!」忠吾は威圧するように声を荒げた、が「まぁまぁそんなに強がらなくてもよろしゅうございますよ、何ね私の店の女郎を火付盗賊改方の斉藤市之輔というお侍ぇが足抜きさせるってぇ約束を交わしたってえんで、先夜から店を張っておりやしたらお前ぇさんが網に引っかかったてぇ訳で」「おい!お前ぇの名前ぇは斉藤市之輔っていうんだろう!」若いが気の荒そうな男の声がした。「馬鹿な!俺はそのような名前ではない!」「じゃぁ何という名前ぇなんだぁ!甘く見るんじゃぁねぇぜ、こう見えても背中に一つや二つの名前ぇは背負っているんだ、そんな甘っちょろい返答に、ハイ左様でございますかと首縦に振るほど軟かぁねえんだ」と脅しともとれる語気の粗さに、「まぁまぁ 待ちな!ねぇお侍れぇさん、取って食おうってぇ話じゃねぇんでござんすよ、本当のお名前を聞かせて下さりゃァそれで良うございますよ」と丁寧だが威圧のある声である。「俺は木村忠吾、火付盗賊改方同心だ!」「ほれ!やっぱり火盗じゃぁございやせんか」「お前様!嘘はよろしくございませんよ」おやじさんと呼ばれた男が忠吾をじっと見据える。その気迫は忠吾を圧倒するものであった。しかし忠吾とて盗賊改めの同心、けどられまいと腹をくくり「どうして俺が嘘をつく必要がある、俺はこの界隈が見回り区域、確かめたければ近くの番屋の誰かに確かめればよかろう、何なら俺の腰の印籠でも持ってゆけ、それで判るはずだ」憮然とした顔で忠吾が噛み付いた。「それもそうだ、よしではお腰しの物をお預かりして番屋で確かめてこい」それから小半時あまりの時間が流れた。慌ただしい足音がして、先ほど出かけて行った男が戻ってきた。「おやじさん 間違いございやせん、番屋の親父にこの印籠を見せやしたら間違いなく(こりゃぁ木村の旦那のものだ、どこで拾いなすった)と答えやぁがった。「ぬぅ こいつは大しくじりだ、すみません木村様、どうもこいつ共が木村様と斉藤市之輔を間違えたようで、誠に持って申し訳もござりません、早く木村様の縄をほどかねぇか」「それ見ろ、おいこの始末はどうつけてくれるつもりだ!えっ!!」忠吾は烈火のごとく怒りを爆発させた。仮にも軽輩とはいえ御家人の末裔である、このようなときは逆らえない身分の違いと言うものがある。「誠に誠に申し訳ございません、お前ェらも木村様に謝らねぇかバカ野郎どもが!」「となると(おせん)が嘘をついたことになるなぁ、早速帰っておせんを確かめねばなるまい木村様、こう言っちゃぁなんでございますが、この度の一件何卒水に流していただけないものでございましょうか?」と切り出した。「何をほざくか!俺を誰だと想って口を利いておるのだ、痩せても枯れても火付盗賊改方同心木村忠吾であるぞ、そうやすやすと水に流せると思うか、お上に対する愚弄、愚弄であり、おれの立場もある、それをだなぁ・・・・・」「おっと そのことでございますが・・・・」山城屋吉兵衛、忠吾の耳元に何やらぼそぼそ・・・・・次第に険しい忠吾の顔が緩んできた、無論外にいる小柳安五郎には見えない。「よし、判った!この度はそれで矛を収めようではないかなぁ吉兵衛ははははは」「そうとなればひとまず店に戻っておせんを詮議しなければなりませんので、ここはひとまずお先ということで・・・・・」と若いものを連れて山城屋吉兵衛が出て行った。小柳安五郎はその後をつけ、それを彦十が微行して、また元の振り出しまで戻ってきた。忠吾は何故かうきうきとした様子でそのまま市中見廻りに入った。ひとまず市ヶ谷柳町に返った山城屋吉兵衛は、その足で女郎のおせんを呼びつけた。「おせん、お前ぇの約束したってぇ盗賊改めの斉藤市之輔ってぇお侍は居ねぇぜ」「えっ だって確かに火付盗賊改方の斉藤市之輔と言う人です。十五日の夜に見回る時を狙って逃してやるって」「十五日だぁ、今日じゃァねぇか、よし今からそのつもりでお前ぇらぬかるんじゃぁねえぞ!いいな!!」吉兵衛は子分どもにそう命じ「ところでなぁおせん、お前ぇどうしてそんなことを漏らしたんだ、仮にもお前ぇをここから出してやろうというお方をよ」「だって旦那ぁ あたしゃぁあのお侍は好みじゃぁござんせんので、それにもう一年もすれば年季も明けるのに、何を今更無理して抜けることもありゃぁしませんよ」「たしかにそうだ、だがなその斉藤とやら言う侍ぇは本気なんだろう?」「旦那ぁ女郎の話を 真に受けるバカが居るもんですか」「まぁいい 今夜までに判ることだ、馬鹿な気を起こさねぇようにするこったなぁ」吉兵衛はそう言い残して出て行った。このやりとりは小柳も彦十知らないところで終わった。何も展開はなく、忠吾もあのまま見回りに戻ったことだし、一応報告にと小柳安五郎は役宅に戻った。小柳の報告を聞いた平蔵「ううむ 妙な話だなぁその何とか申したな山城屋であったな、そいつと忠吾の関係が今ひとつ読めぬ、それに忠吾もそのまま見回りに出かけたとは、どうしても俺には解らぬ、あの忠吾だぜ小柳!」「ははっ しかし私の知るかぎりでは中の様子や声から致しましても、何やら話の決着があった模様で、木村様はその後、何事もなかったようにウキウキと・・・・・」「そいつよ、そいつがどうも解せぬ・・・・・」そこへ木村忠吾が見回りから戻ってきたと報告が上がった。「忠吾を呼べ!」「おかしら 木村忠吾只今戻りました」「おお 忠吾ご苦労であった、で なにか変わったことはなかったかな?」「はっ? いえ 別に何事もなく市中見廻り相済みましてございます」「なんとな? 何事もなかったと?」「はぁ 別に取り立てて・・・・・・はて、何か?」「ふーむ どうも俺の聞きちがいかのう、のう小柳」「はぁ 左様でござりますなぁ」「あれ 小柳さんまで・・・・・なにかございましたので?」「おい 忠吾!お前ぇ市ヶ谷の馬場下町まで何を致しに参った!」「ええっっ!!何故そのようなことを・・・・・」忠吾目玉をまんまるにむいて驚きを隠せない。「だからよぉ 何の為に出向いたかと聞いておる、吉兵衛とはいかなる話が纏まった」平蔵は少々苦虫を噛み潰す面持ちで忠吾の返事を促した。「げっ!」忠吾は腰をストンと落として後ろにひっくり返った。「おおおお おかしら それはそのぉ・・・・・・」「おお何と致した!うさぎ!」「ははっ!!申し訳もござりませぬ」「何が申し訳ないか申してみよ、わしが直々判断いたしてつかわす!」「ははっっ!!この度は誠に持って申し訳なく」「おう 何が申し訳ないか申してみよ!」「へへっっ!!どうかお許しを!!」忠吾この場に居場所のないことをやっと悟った風である。その時酒井祐助が「お頭にお会いしたいと申しまして、市ケ谷柳町の山城屋吉兵衛と申すものがまかり越し、参っております」と引き継いできた。「げっ!」忠吾はその名前を聞いてブルブル震えだした。「おい うさぎ、何をお前ぇはそのように、どうした にわか痛風にぁ少し早ぇぜ、それとも何か?風邪でも引いたのか?」平蔵ニヤニヤ笑いながら「おう お通ししろ」と応えた。「長谷川様、市ヶ谷柳町にて商いを致しております山城屋吉兵衛でございます」「うんっ 吉兵衛とやら何と致した」「はい すでに木村様よりお聞き及びとは存じますが、この度は盗賊改めの木村様に手前どもがとんでもない間違いを致しまして、こうして山城屋吉兵衛改めて詫びに惨状いたしました」「ほー 何のことやら、のう忠吾!」「ははっ!ご報告が遅れ誠に申し訳もござりませぬ、実は・・・・・」「うん? 実は?」「ははっ そのぉ実は・・・・・」「早う申してみよ忠吾!」「あっ これわぁ・・・・まだご報告が済まれておりませなんだようで、これは失態を、長谷川様、大変ご無礼を申し上げました」「いや 構わぬ、ところで山城屋、いかようなる話かな?」「はい 実は私どもの女を足抜けさせるというお方がございまして、その御方は火付盗賊改方斉藤市之輔様と申されまして・・・」「左様か、だがなぁ山城屋、盗賊改方にはそのような者は在籍いたしておらぬ」「はい 先ほど手前どもの店に姿を現しましたるところを吟味いたしましたらば、それはすでに判明いたしました」「で その者は盗賊改めの名を騙ったのであろう」「誠に左様でござりました、なんでもよくあの界隈を廻られます火付盗賊のお方の名を使い、女の気を引こうといたしましたそうでございます」「犯人は判明いたしたのだな!」「はい そのまま番屋に連れて行き奉行所の方にお届けいたしました」「おう それはご苦労、で他に何か御用かな?」「はっ?」「おいおい山城屋、片付いたのならそれで良いではないか、これも我らが御役目の、やんごとなきものとでも申すか、まぁ左様なものよ気するでない、用がそれだけなら下がっても良いぞ」「ありがとうございました、これは誠にお恥ずかしいのではございますが、ほんのお詫びの気持ちで・・・・」「んっ まんじゅうならばおいてゆけ、それ以外は受け取るわけには参らぬ黙って持ち帰れ!」「長谷川様、それではあんまり・・・・・」「あんまりどうした? 良いではないか、我らとてお前達に何かと面倒をかけることもある、お互い助けおうてこそ町の治安も守られるってっぇもんだよ、なぁ忠吾!特に出会い茶屋などは」あははははは。「山城屋!どのような取引があったかは知らぬが、此奴との取引はなかったものと心得よ、よいな!」「ははっ!!それでは何のお咎めもなく・・・・・ありがとうございます」「うん ご苦労であった」「ところで忠吾、何か報告はないかのぅ、おうそうであった、明日よりお前ぇの見回りを小柳と替わって日本橋界隈といたす、しかと心得よ」「おかしらぁ、とほほほほ・・・・・」と まぁこのような事件であった。したがって本日は本所菊川町の役宅からの出立であった。供も従えず、相変わらずの気ままな見まわりであった・・・・・はずだが両国橋を渡り広小路から郡代屋敷を左に見ながら、ユラユラと懐手に網代笠を被って歩を進めていた。右手には神田川を挟んで浅草の町家遠くに広がっている。まもなく新橋にかかろうとした時「危ねぇ暴れ馬だ!」と後ろから声が飛んできた。それと同時にすさまじい勢いで荷を掛けたままの馬が平蔵の脇をかすめるように駆け去った。かろうじて身をかわせた平蔵であったが、「子供がやられた!」と後ろのほうで大声がした。振り返ってみると大勢の人だかりができている。平蔵は駆け寄ってその子供を抱き起こそうとしたが、すでに意識はなくぐったりとしていた。「誰か! おう そこの大八車を起こせ!医者はこの近くにおらぬか!?」医者を呼んでいては手遅れになると判断してのことである。近隣の物が慌てて大八車を起こして持って来た。「医者はこの近くに居らぬか!」再び大声を発した。「玄伯先生がおられるぜ!」どこからか声が聞こえた。「そこは遠いぃか!」平蔵は子供を両腕に抱え上げて声を飛ばした。「天真楼の先生なら近うござんす」と再び返事が戻ってきた。「すまぬがわしをその大八車に乗せて運んでくれぬか、急がねばこの子が危うい!」平蔵の語気に商家の中から若い者が飛び出してきて「お引き受けいたします」と荷車を走らせた。小半時の時間は平蔵にとって気の遠くなるほどにさえ感じられた。「先生!大変だぁ子供が馬に蹴られて危ねぇ」と、さきがけの若衆が飛び込んで知らせる。バラバラと駆け寄って戸が開かれたあいだを平蔵、両腕に抱えたまま駆け込む。「ひとまずそこへ置きなさい」品の良い老人が白衣をかぶりながら出てきた。手伝いの者が同じく白衣を着けて2本の天秤棒に張り渡した布の戸板のような物を持ち出してきた。素早く子供はそこに移され奥に運び込まれた。「衣服を取り患部を清拭しなさい」手短ではあるが的確に指示を出し、また受ける方も心得たもので乱れ一つなく事が進んでゆく。「むぅ これはひどい・・・・・・内蔵が危ういかも知れぬ、おそらく肋骨は幾本か折れているであろう、それにしてもよくこのままで運んで来れたものよのう、これはお手前が運ばれて参られたか?」と平蔵を見やる。「左様、医者を呼んでおっては間に合わぬと判断致し、少しでも身体に余分な動きを与えぬために、身共が抱えて荷車にて運び申した」と経緯(いきさつ)を説明した。その間にも医師の手は休むことなく動き、手当の方策を試みているようであった。熱い湯が運ばれ、身体はすでに清拭され、洗いざらしの浴衣に替えられていた。「お手前の判断が的確であったためにこの子は助かりそうじゃ、後は引き受けましたによって しばしあちらにてお待ち願えませぬかな?」と平蔵を隣室に促した。「よろしくお頼み申す」平蔵はこの医者の指示が子供の命を助けてくれると確信したのか促される隣室に移った。そこには多くの病人が詰めかけていた。そのほとんどが怪我人のようであった。「お武家様この玄白先生ならもう安心ですぜ、何しろ蘭方医で瘍医(外科)の名人だから任せておきなってぇもんで、こいつらも皆先生のお陰でこうしておれやすから、こいつは3日前ぇに足場を踏み外して落ちやして、足一本失くしちまうところを先生のお陰で何とか付いたまま・・・・・へへへ、あっしは母ぁといつもの、ほれ (犬もくわねぇ)と やじが飛んできた。そいつよ、そいつで母ぁが釜の蓋をブン投げやがって、お陰で頭が切れちまった。先生は、(その御蔭でちったぁ悪血が流れてお前もおとなしくなるだろう)って・・・・・そりゃぁねぇよなぁ、へへへへっ」誰かが合いの手を入れて「違ぇねぇ」これには居合わせた者一同大笑いに、平蔵も思わず苦笑した。これが庶民という絆なんだなぁ、人の上下や垣根を超えて同じ気持ちが通じ合う、人情とはこうも清々しい物なのかと荒みきっている昨今の気持ちが和らぐ思いだった。「お武家様先生がお呼びで御座います」と助手(すけて)の娘が平蔵を呼びに来た。「おお 先程は・・・・・お陰でこの子は助かり申した、後少し時が遅ければおそらくあの子の生命は危ういところでござった、誠にかたじけない、ご貴殿の判断があの子の命を救うたのでござる」と玄白は頭を下げた。「かたじけのうござった!しかしあちらで町衆の話を伺いましたが、中々の名医でおられるそうで、その自慢話で時のすぎるのを忘れており申した」平蔵はこの玄伯と呼ばれる蘭方医を驚きの目で見た。そう言いつつふと壁にはられた絵図面が目に入った。「おやこれは?」「おお それは人体を腑分けした絵図でござります」と玄白が説明する。「何と!腑分けと申さば、もしや山田浅右衛門殿をご承知ではあるまいか?」平蔵は以前山田浅右衛門から千寿骨ケ原の斬首実見の話を聞いていた。「またこれは!山田浅右衛門どのをご存知とは・・・・・いやはや!」と玄白も驚いた様子である。「申し遅れもうした、拙者長谷川平蔵ともうしまする、火付盗賊改方を預かり致しおり、山田浅右衛門どのともご縁がござって」「いやいやこちらこそ失礼を致しました、私は杉田玄白と申します。もう二十年ほどになりましょうか山田どのには千寿骨ケ原にて斬首のおり、身体実見をさせていただき、そののち盟友と共にその三年後に腑分けの草本(解体新書)を刊行いたしました」「いやぁ世間は狭いと申しまするが、まさかかようなところでその御大家杉田玄白先生にお目もじ叶うとはこの長谷川平蔵恐悦至極に存じまする」と礼を尽くした。「いやいや これは長谷川殿お手を上げてくだされ、私もこのような事で今をときめく火付盗賊改方の長谷川様にお会いできて驚いておりまする、今後共よしなにお願い致します」と平蔵の手をとって目を見た。清水御門前役宅に辿り着いた平蔵、この日の出来事を佐嶋忠介に聞かせた。「や 何な 以前山田浅右衛門どのと会うた折、小塚っ原で時折斬首の刑を行うが、二十年ほど昔、お上のお声がかりにて腑分けを実見された人物があったと聞き及んでおった、そのご本人に偶然にもお目もじが叶ぅたと言うわけだよ、こいつぁさすがの俺も驚いた、それにしても世間は広い、あのような名医が下野でお過ごしとは・・・・・・」平蔵は人の生き方が何であるか、その価値観を改めて考えさされていた。「殿様、夕餉の支度が整いました」と妻女の久栄が膳を運んできた。「うんっ こいつぁ何だ?」「はい なんでも伊予の鴨鍋とか・・・・・」そこへ同心の村松忠之進が酒肴を持ってやってきた。「猫どの、今宵はまた伊予の鴨鍋とか・・・・・・さてはまた一捻りあるのであろうのぅ」と誘い水を向けたつもりが、「はい それはもう・・・以前おかしらが岸井様に伴われてのお出かけにて、誠に鴨団子鍋が美味かったと申されましたそうで、忠吾より聞き呼び用意いたしました」「おいおいちょいとそのなんだ 言葉の端に小魚の小骨を忍ばせておるような物言いが気になるぜ」と平蔵頭を掻き掻き村松のふくれっ面を見やった。「どうせ私の作りし物は、料理屋には劣りまする、しかし、日々おかしらのお体を案じつつ塩梅いたしております、それなのに(いやぁどこそこの何やらがまた旨かった)などと聞かされましては、この村松の立場という物が立ち行きいたしませぬ」と、かなりのおかんむり。「あいや 猫どの、わしはそのようなつもりで申したのではないぞ」弁解する平蔵を流し目に睨みながら「ではいかようなるお気持ちで申されましたので」と絡んでくる。(あのおしゃべり忠吾め、ここで猫どのの機嫌を損ねたらばこの後の飯がどうなることやら、やれやれ)と、平蔵内心穏やかではない。「のう 猫どの、そちの腕は天下一品、格別じゃと言うことじゃぁ、なっ!したがって比ぶる物なし、どこぞの何かが旨いというても、こいつぁまたそれ別の世間のことでな!そのように難しい顔をいたすな、なっなっ!」グツグツ煮立つ鍋を前に平蔵箸を持ったまま手を付けかねている。「まぁそりゃぁおかしらがそこまで申されますならばこの村松一切の不服はござりませぬ、本日の鴨団子鍋は四国は伊予の名物にて、少々美食に飽きたる通人が工夫いたしたるものとか・・・・・」やっとご機嫌も治り、矛を収めての講釈が始まった。(やれやれ)平蔵は胸を撫で下ろして目の前の鴨団子鍋に箸を伸ばした。「アッ それでござります」と村松の注釈が伸ばした箸の間に挟まって平蔵の手を止めた。「おいおい 猫どのまだ食ってはならぬのかえ?」平蔵もはや口元から・・・・・・「この鴨団子、実はコノシロを用いるところがミソでござります」「何とコノシロかえ?」平蔵、少々驚いている。「はい 伊予ではコノシロが誠によく獲れまする、そこで松山藩ではコノシロを三枚におろし、縦に千切りに致し、これを更に細かく包丁にて刻み潰します。これによりて小骨も砕け、口当たりも良くなります」「ウンウン それで?」早く食したいものだから平蔵ヨイショを決め込む。「さればでござります、この中に味噌・酒・醤油を混ぜあわせ、それに卵と小麦粉を加えて更に混ぜ合わせ、これに玉ねぎ少々をみじん切りに致しましたるものを混ぜ込み団子を作ります」「ウンウンなるほどさすが美味そうじゃそれで?」と言いつつもうたまらんと箸を伸ばす。「いえいえまだまだでござります」と村松、中々箸つけを許してくれそうにない。「う~ん」平蔵はしびれを切らしてしかめ面「そこで油を煮立てて、その中に少量づつ落としこんで揚げます。揚げ上がりましたるものを昆布と鰹の出汁に酒・みりん・醤油で作り、好みの野菜に長ネギ人参などを煮込み、煮立ったところでここにコノシロ団子を入れて頂きます」その言葉の終わるか終わらないかに、平蔵の箸はすでにコノシロ団子を挟んでいた。「あっ!」村松の声が挟まったが、もう平蔵聞こえませぬとばかり口に運ぶ。「旨い!!旨い!旨いぞ猫どの!こいつぁ絶品じゃなぁ」と大満足の様子に村松「実はおかしら、これにショウガ団子が入らば・・・・・」「何ぃ!ショウガ団子だぁ、構わぬ!この次に致せこの次になぁへへへへへ!嗚呼旨ぇ旨ぇ。おい久栄!そなたも早ぅ頂かぬか!佐嶋そなたもつつかぬか!これは体の芯から温こぅなるぜ」平蔵大満足の様子に村松忠之進ほくほく顔でこのおかしらの満ち足りた様子を眺めている。数日後平蔵は過日の子供のことが気になり、濱町の杉田玄白の屋敷を尋ねた。「おお これは長谷川殿過日は大変お世話になりました、お陰であの子は大事に至らず、手術も無事終え、今は養生を致しております」と玄白が出迎えた。「いや 先生には誠にお骨折り頂戴致し、一つの生命が救われ申しました、かたじけのう御ざります」と述べた。「しかしこの絵図はよく描けておりますなぁ」と平蔵珍しいものを見るのも好きなものだから何にでも好奇心を持つ。「おう それは橋本町にお住まいの平賀源内先生のお手作りにございますよ」「平賀源内先生でござりますか?」あまり聞きなれない名前に、「長谷川様はうなぎはお召し上がりになられませぬかな?」と玄白が問いかけた。「いやぁ 大好物でござりますが、それが何か?」と応えを待つ。「うなぎはいつお食べになられます?」「左様 やはり土用でござりましょうか?」すると玄伯、「それはまたいかようなるわけでござる?」と 問い返してきた。「はぁまぁ世間ではうなぎは土用に限るとか申しますによって」と少々返事の語気が怪しい。玄白は「わははは」と腹を抱えて「それよそれ、その(土用はうなぎに限る)と 申されたのがその平賀源内先生でござりますよ」とまたしても腹を抱えて大笑い。「何と!」平蔵も呆れて口が開いたまま。「うむ 実はでござる この江戸ではうなぎが獲れすぎる、だが中々他にも旨い魚が多く捕れるのでうなぎ屋が困って源内先生に相談したと言うわけでござるよ、すると源内先生うなぎ屋の看板に(本日土用丑の日)と書かれたそうじゃ、ご存知のように丑の日はウの字の付くものを食すると言われておりますから、夏場にうなぎは食しませなんだゆえ、うなぎが大当たりであははははは」愉快そうに大声で笑った。呆れた平蔵「何とまたかような裏話があったとは、いやぁ恐れ入りもうした」と 兜を脱いだ。「して、その源内先生とやらは今も橋本町にお住いで・・・・・」「さよう 元々は木草学者でござりましたが、地学・蘭学・医学から浄瑠璃台本に俳句から蘭画までたしなまれ、まさに博学の権化のようなお方、私も知古を戴きました頃に木草学者の田村藍水先生にご紹介を戴き、腑分けの絵図を引き受けて頂きもうした、この源内先生エレキテルとか申す奇譚な物をお持ちのようで、なんでも長崎で入手いたしたる和蘭陀(オランダ)製のエレキテルなるものを工夫されたとか、いや中々面白きお方でござりますよ」玄伯は平蔵の好奇心に油を注ぐような口ぶりで口元を緩める。「エレキテルで御ざりますか、いやぁ 会ぅてみたいものでござりますなぁ」平蔵も半ば本気でそう想った。「ところで杉田先生、身共はお役目柄人をやむなく手に掛けることも多ぅござります、出来うれば左様に致したくはござらぬが、やむをえぬ場合身体の何処を断つのがよろしゅうござりましょうや」平蔵は日頃の悩みを玄伯に尋ねた。「長谷川殿、人に不要のものも所もござりませぬ、が しいて申さば両腕があれば何とか生きる手立ては残されますが、片手を失えば日常の暮らしも難しゅうござる。願わくば片脚程度で済みますれば、暮らす手立ても皆無ではござりますまい、だがしかし、辛いお役目でござりますなぁ」玄伯は平蔵の苦しい心中を察すると続く言葉を見つけきれない様子である。「少しでも厚生の光が見えれば、これを何とか活かしてやりたいと願ぅております、身体は救えても心を救うことが難しゅうござります」「長谷川殿はまこと仏の平蔵様でござりますな、町方のものは仏の平蔵様と左様に呼んでおると聞き及びます」この日の玄伯の言葉は平蔵の心の中に深くとどまってゆく。夜叉を滅じて仏を為す、そのためにはおのが心の中の夜叉を目覚めさせ、非情にならねば叶わぬ、罪を憎んで人を憎まず、咎人を生み出す仕組みそのものがすでに夜叉、佛と夜叉の彼岸を見つけることの難しさを噛みしめる平蔵であった。 [0回]PR