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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

3月号 生きるも地獄 その1



徳川家幕臣の最下位は、知行1万石以下直参家臣の中で将軍お目見のあった者を旗本と言い、
お目見以下の家格のものを御家人と呼んだ。

戦時には徒歩(歩兵)身分,平時には与力・同心の職務・警備に当たった。
御家人の家格は譜代・二半場・抱席に分かれており、
譜代とは徳川家康以来4代徳川家綱の時代に留守居・与力・同心として仕えた経験者の子孫。

二半場はその中間的な身分で、四代の間に西之丸留守居同心等に抱えられたもの。

抱席・抱入は、それ以降に新たに御家人身分に登用されたもの。

抱席は四代の間に五番方=小姓組・書院番=(小姓組)・新番・大番・小十人組)
与力などに召し抱えられたものと、五代以後に召し抱えられたお目見以下の幕臣の中で
最も古い役が大番。
現代の町名にも〇〇番町とあるのはこの名残である。

譜代と二半場は無役であっても俸祿の支給があったが、
抱席は一代限りの奉公であったものの、新規お抱えと言う形をとって世襲制が普通であった。
また時代とともに名目上の養子として、これを御家人株と称し商家の間で売買された。


二半場(にはんば)の御家人で三十俵二人扶持は御家人でありながら武士の最低身分であり、
一年に主従合わせて支給される扶持米は本人分三十俵、家来一名五俵?2の十俵。
総計四十俵 
一両が4千文 1文=25円 で10万円程度
米1升百文=2千5百円 1俵35升と決められていたために、1俵8万7千5百円 
だと年間350万円

これで(妻・両親・子供その他何人いても)この1家と家来2名が暮らすわけだから、
かなり苦しいと言わねばならない。

おまけに将軍様お目見えの叶わない御家人(与力・同心格)や
無役などは蔵取米という決まりなので年間四十俵 2月と5月に四分の一を支給された。

2月が春借米(はるかしまい)5月が夏借米冬は冬切米と呼ばれた。

これを受け取るには蔵前に出向き米を受け取り、
これを更の米屋に売却しなければ実質の暮らしはできない。
だがこの米を金子に交換する際に米屋から手数料を取られる。

が、これが1俵につき1分の手数料を取られる、この仕事を請け負ったのが札差。
これを運搬、売却する際には更に手数料を2分割増した。
1分は小判の4分の1で、4朱・2、5万円つまり5万円である。
今も昔も銀行(かねかし)業は大した作業ではないのに、手数料は大きかったといえる。


二半場(にはんば)の御家人で蔵前取り三十俵二人扶持の小田祐継(すけつぐ)の娘
さとは下働きの五助を伴って肴町行願寺前の紙問屋相馬屋へ傘に張る紙を求めるため
出向いていた。
この先を更に東に進めば神楽坂、その先は牛込御門に出る。

相馬屋とはすでに馴染みとなっており、
番頭の愛想もよく手代が求めた紙を手際よくまとめてくれたものを風呂敷に包み店を出た。
この行願寺、天明三年(1783年)百姓の身である冨吉が神道無念流の戸賀崎熊太郎の手ほどきで
居合を学び、この寺の境内にて無事親の敵甚内を遺恨の末討ったところでもある。

寺の門前は兵庫町であったが、三代将軍家光が鷹狩に訪れ、
その度にこの街の肴屋が肴を献上した所から肴町と呼ばれるようになった。

肴町の辻を左に折れて御?笥町に差し掛かって後を付いてくる五助に

「先程の肴町も面白いけれど御簞笥町も変わっている名前だわね」
と話しかけた。

五助は急いでさとの横に並び
「そりゃぁもうお嬢様この辺りは昔からお侍様の武具甲冑などを総じて
簞笥と呼んだものでございますからその具足奉行、弓矢鎧奉行の組屋敷がある所から
左様に呼ばれているのでございますよ」」
と応えた。

「まぁ五助は何でもよく知っているわね」
と感心している。

その歩む先は山伏町である、この程度であればさとにもなんとなく判断が行く
「ねぇ五助、この辺りは山伏町と呼ぶけれどそれは修験者の山伏が住んでいたからでしょう?」と確かめた。

「よくご存知で!昔もこの辺りは険しい場所だったようで
この通りの両側の道も山伏町と呼ばれております」
と返事が返ってきた。

「でもこの焼餅坂はわからないわ!」
と辻番所を左に見ながら過ぎ越しつつ、くったくのない笑顔で尋ねた。

「あれま お嬢様この坂は元々染め物に使う茜を作っていたとかで
茜坂と言うものが赤根坂となったのでございますよ、
しかし周りに焼餅を売る店があった所から今もこうして呼ばれているのでございましょうね」
と解りやすい答えが返ってきた。

「まぁ 私は又どこぞの殿御にどこぞの女子衆が焼餅でも焼いたのかと・・・・・・
うふふふふ」と恥ずかしげに笑った。

焼餅坂を下って西に取り御籏組の広大な屋敷前を牛込原町に入り突き当たると
建物修繕奉行のある牛込破損町、その奥に戸山尾張藩の広大な下屋敷が控えている。

元々この尾張藩邸は尾張藩徳川家下屋敷であり、二代藩主徳川光友によって回遊式庭園
「戸山山荘」として造られた。
敷地内には箱根山を模した築山の玉圓峰や東海道小田原宿を模した建物など
二十五景が設けられ、水戸徳川家の小石川上屋敷と並ぶ広大な名園である。

この屋敷の少し手前を北に上がり二丁ほど入って左に曲がると、
正面には亀井隠岐守下屋敷の背後に正覚寺の大屋根が見える辺である。
近くには穴八幡社や宝泉院もあり、子供のころは父母と連れ立って
6月ともなれば宝泉院の高さ十丈(33メートル)の高田富士に登るのが
楽しみの一つでもあった。
二人は門とてない質素な長屋の一つに入った。

「母上只今戻りました」
と、さとは奥に声をかけた。

襖が開いて初老の女が顔をのぞかせ

「ご苦労様でした」
とねぎらいの言葉が返ってきた。

「父上は?」
さとの問に

「お前が出かけてすぐに何処かへお出かけなさいましたが、
いまはまだ何処におられるのやら・・・」

「まぁ 行く先も遂げずにお出かけとは・・うふふふふふ」

「何時もの事だもの、それより何か変わったことでもなかったのですか?」
と、日当たりの良い縁側に出て座りながら娘の様子を伺った。

二半場の御家人である為に定職もなく、かと言って商いをすることはならず、
父小田祐継は傘張りを内職としており、母のりきは仕立てなどの受け仕事をし、
娘のさとは父の傘張りを手伝い糊口(ここう=粥の食事)をしのいでいた。

りきが達者な頃はよく正覚寺の境内で鬱蒼(うっそう)と茂った榧(かや)の樹の下で
親子3人楽しくも穏やかなひと時を過ごしたものだった。

榧の木は六十尺(十八メートル)にもなる常盤樹(ときわぎ=いつも緑が絶えない樹木)
の巨木で、これらは将棋盤や碁盤に加工されるが、4月頃になると金茶色の花が咲き、
翌年には結実し紫褐色に熟する、これを採取し、水にさらしてアクを抜いたり、
銀杏のように土に埋めて表皮を腐らせその後洗って煎ったりもするが、

さとはこの実を灰を入れた湯でアク抜きして乾燥させたものを炒って中身を取り出し、
臼で挽いたものを餅にしたほのかに甘い香りを持つカヤ餅が好物であった。

夏場ともなればこの枝を採取していぶし、蚊遣りに使われたし、
相撲にも土俵の真ん中に穴を掘り米・塩・スルメ・昆布・栗と一緒に埋め込んである
縁起物として知られている。

少し前に起こった全国規模の天明の大飢饉(1782年~)はこの一家も例外ではなく、
棄損令(御家人が札差から借り受けている借金の債務免除し、利息も大幅に引き下げた)
で少しは救われたものの、その後の暮らし向きは松平定信の敷いた倹約令で、
仕立て物の新調なども激減し、日々の生活は何処も目を覆うものであった。

しかし賄い夫婦を養わなければならず、
さとは毎日朝早くから古傘の骨を集めに傘屋を廻っていた。

だがこれとて小田家だけのものではなく、いずれも苦しい浪人などが同じように
古傘の再生作業が生業となっている、仕事は最早飽和状態にあって、
だんだんと父親の小田祐継も酒に手を出す日が増えていった。

そんな四月のある日、さとは母を連れて久しぶりに内藤新宿柏木成子町にある常圓寺の
桜を見ようと出かけることにした。
この成子町の少し先には十二社権現横手の溜池から流れ出る川をまたぐ淀橋があり、
その先は青梅街道へと繋がっている。

陽光は輝きを伴って春の日差しを辺り一面に惜しげも無く降り注いでた。

場所は丁度内藤新宿と大久保通りの交差する場所に天満宮が有り、
そのとなりが常圓寺、常圓寺の門をくぐると左側に枝垂桜の古木があり、
小石川伝通院・広尾光林寺の桜とともに「江戸の三木」と呼ばれ、今に伝えられている。

季節ともなれば優美な姿を観ることが出来、徳川光圀寄贈の三宝諸尊も安置されている。

母を伴うのは久々である。

桜は昼八ツ(午後二時頃)が丁度見頃となる、
これは太陽が真上から西に少しだけ傾き半分逆光になるために花びらが日に照らされて
輝くところと花陰になるところが出来るために艶やかな花姿が楽しめるのである。

花見も終え、しばしの満ち足りた時を過ごした二人が本堂を出て門前の出店に差し掛かった時
母のりくがよろけて、床几に腰掛け酒を飲んでいた浪人の腕にぶつかり浪人の持つ盃が石畳に
弾き飛ばされ小さな音を立てて割れた。
浪人の袴や前身の当りにも酒が掛り、りくは驚いて
「誠にとんでもない粗相を致してしまいました。
何卒お許しの程をこれこの通りお詫び申し上げます」
と手提げ袋から手ぬぐいを取り出しこぼれた酒を拭おうと浪人に近づいた。

「何をする無礼であろう!」
と、浪人は立ち上がり母を突き飛ばした、なにぶんこの時間である、
かなり飲んでいたようで手加減が出来なかった。
りくは石畳に大きな音を立てて尻餅をつき右の袖が裂け、
あらわになった肘から血が滴り落ちている。

「お許しを!」
さとは急ぎ浪人の前に両手をつき何度も許しを懇願した。

「ならん!楽しき酒がお前達のお陰で台無しになってしもうたではないか!」
と、さとの顔を手で支え上げながらじっと濁った目を凝らした。

「うむ なかなかに美形と見える、ここは一つどうだな儂の傍に座り、酌など致さぬか?」
と腕を引き上げる

「お許しを、どうかお許しくださいませ」さとは必死に哀願する

「出来ぬか!出来ぬとあらばやむを得ん無理にでも酌をさせようぞ」
強引にさとの腕を引き上げ横に座らせようとした。

「いい加減に座興はやめぬか!」

網代笠を被った浪人が、さとと浪人の間に割って入ろうとした
見れば着流しに落し差しの痩せ浪人とみたのか、

「此奴!要らぬおせっかいを買うではない!」
とその男を突き飛ばそうと手を伸ばした

だが、その腕は宙を泳ぎ無様に石畳に転がったのは今度は酩酊した浪人であった。

「何しゃぁがる!」

急に言葉が伝法に変わり塵を払いつつ立ち上がったかと思うと、
床几に置いてある我が刀をひっつかみ抜刀しようと鯉口に手がかかった

「ほぉ まだ抜くだけの余力は残っておったか、ならば見事抜いてみせよ」
男は素早く浪人の元へ沿うように寄り、扇子で浪人の柄口を押えた。

(ぬっ!)浪人は手首の関節を捕らえられ抜くことも出来ない

(つっっ!)声にならない声を発し膝が徐々に開き、腰が沈み始めた

「おっ 己れ!」

それを見守っていた他の床几に腰掛けていた仲間らしき者共がバラバラと
素浪人の傍に駆け寄った。

「ほほぉ ご同輩という理由だな」
重々しい声で止めに入った浪人が腰を少し引き、体制を整えた。

「殺っちまえ!」中の誰かが叫んだ
無言で一斉に大刀を抜き放ち思い思いに構える

「やめておけ!怪我ぁするだけだぜぇ・・・・・・・」

「問答無用!殺れ!」
中でも筆頭らしきものが声を上げる

「ふん お前ぇが頭か!言っておくが儂が抜けばお前ぇ達の首は台から離れるぜぇ、
それでもよければ掛かってきな!」
言いざま扇子を離し、帯に手挟んだと観えた時には目の前で何やらキラリと陽光に光が走った
あとは鞘に刀の納まる軽い鍔鳴りが残っただけである。

(ばさり)

浪人の帯が断ち切られて足元に捌け、懐に入っていたと思わしき胴巻きが軽い音を残して
重なった。

(わわわわっ!)
一瞬の出来事は、まるで狐にでも化かされたかのようで皆抜刀したまま放心状態になっていた。

「まままっ 待ってくれ、儂が悪かった、これこの通り、御内儀誠に済まぬ許されよ、
少々酒が過ぎたようだ」

すっかり酔いも冷め蒼白の面持ちでりくの前に手をついて詫びを入れた。
浪人は刀で目の前に転がっている胴巻きを掬(すく)い上げ

「おいご亭主、ここから酒代を頂戴しろ」
と茶店の奥に声をかけた。

慌てて茶店の亭主が出て来、
「それでは・・・・・」
と酒代を胴巻きの中から取り出した。

「まだ残っておるか?」
「へぇ2朱と少々・・・・・・」

「さようか、では此方へ膏薬代として渡してもらおう、依存はあるまいな」

「まままっ 全く依存はござらぬ・・・・・・」

「行けぃ!」

その一言に脱兎のごとく男たちは刃を収めながら逃げ去っていった。

「やれやれ、無粋な奴ら共だ、せっかくの花が見ろぃ悲しげに散って行くではないか」
浪人は支えられながら床几に座っているりくの様子を伺った。

「なんとも危ういところをお助け頂きお礼の申し上げようもございません」
と母子が頭を下げた。

「なんのなんの、目に余ったゆえつい要らぬおせっかい、許して下されよ、
ところで御内儀どちらから見えられたのかの?」

「はい 牛込破損町でございます」
娘が母に変わって答えた

「何と!この足では無理であろう、おい誰か町籠を拾うてはくれぬか!」
声をかけながら懐から手ぬぐいを出し、
口に加えてピッ と裂き、りくの袖を捲(めく)り上げて軽く止血を施した。

「ここで医者を呼んでも仕方があるまい、まずは横になり、
傷口の手当と打ち身を冷やすことが肝要じゃ、おお籠が参ったぞ、
ささっ早ぅ乗るが良い、拙もその方向へ戻るゆえ道中送ってまいろう」

「あのぉ お武家様はどちらまでお戻りでございますか?」
娘のさとが不安げに尋ねた

「俺かえ?目白台じゃ、どうせ寄り道ついでに近くまで同道致そう、構うまいな?」

「それはもう 願ったり叶ったりではございますが・・・・・・」

「が?・・・・・おお案ずるな!送り狼なぞにはならぬゆえ心配いたすな、
こう見えても女房子供もおる身ゆえなぁあははははは」
とさとの不安を豪快に笑い飛ばした。

「決してそのような・・・・・・」

「よいよい そのくらいでのうてはいかん、遠慮はこの際無用だぜ」
網代笠を押し上げてさとの顔を見返った浪人の白い歯が爽やかな春風のように想えた。
道中ポツポツと身の上話を聞くともなしに聴きながら

「この儂とて縁がなかったならば先ほどの浪人の如き生き方であったやも知れぬ、
ただただそのようなめぐり合わせにならなんだと言うだけのこと、
人が生きてゆく上にどれほどの違いがあろうか、
何れをとっても所詮は阿弥陀の掌の上で踊るがごとしじゃ、違うかな?

陽の当たるときもあらば陰に埋もれることもある、
だが、真っ直ぐに向こうておらば雲も風に流され、やがて陽は又巡ってこよう、
正しく生きることは難儀であろうが正直に生きることは心のなかに重石を置くこともない、
拙は左様に想うておるがな・・・・・」

「旦那 ここでよろしゅうございやすか?」
と駕籠かきが歩みを止めた。

「おお 着きもうしたか、ささっ 早う母御を家の中に・・・・・・」

さとはりくを抱きかかえるように長屋の中へ運び込んで再び表に出ると、
駕籠屋も浪人の姿も無いので急ぎ道に走り出たがその姿は掻き消すように見当たらなかった。

その夕刻、主の小田祐継が酒の匂いをまき散らせながら家宅にたどり着いた
今日の出来事を報告するさとに

「世の中暇な奴も居るものよ、よほどお節介が好きとみえる、それよりも水!
さと水を持って参れ」
そう言いながら、ぐらりと横ざまに倒れこみ、そのまま高いびきで寝込んでしまった。

長谷川平蔵はこの日内藤新宿を周り、
「人に情けをかけるより、情けをかけられる者のほうが人として深うございます」
と平蔵を唸らせた大宗寺門前町の「だつえば」と言う一杯飲み屋のおしまの顔を見がてら
天竜寺に立ち寄った。
五代将軍徳川綱吉の側用人牧野成貞が寄進した時の鐘がある。

この鐘は上野寛永寺・市谷亀岡八幡宮の鐘とともに江戸三名鐘とよばれるものだが、
上野の寛永寺は江戸の鬼門と呼ばれ、この天竜寺は裏鬼門の役目を担っていた。

面白いのはこの天竜寺の鐘は普通の鐘よりも早めに時刻を告げる。
それは内藤新宿が江戸の外れにあり、侍たちが遅刻をしないようにという思い入れで突かれる、
これを人々は追い出しの鐘と呼んで親しんだ。
言わずと知れた宿場女郎の上がり客が急いで帰り支度をしたことであろう。

おしまの
「今どきは常圓寺の枝垂れ桜が見事でございますよ、
せっかく此方までお見えになられたんだから寄って行かれても無駄じゃぁございませんよ」
と勧められるままに立ち寄って時の出来事であった。


それから1年の時が流れ 二半場の御家人小田祐継の妻が長患いの末他界した。
小田祐継のやけ酒は日毎その量を増して行くばかりであった。

傘張りの商いもさと一人ではどうにもはかどらず、
日々の暮らしに従者の払いも滞ることになり、とうとう従者に暇を出さねばならなくなった。
それを聞いた小田祐継

「俺の知った事か!かような貧乏暮らしも元はといえばお上のご政道が間違ぅた為のこと、
文句があるならお上に訴えればよかろう、酒だ!酒を持ってこい」

「お父上何処にお酒を求める金子がございましょう、
あすの、いえ今夜の食を求める金子さえ事欠いておりますのに」

「それをどうにかするのがお前の仕事ではないのか!
どうでも良いから酒だ、おりくの着物でも何でもよろず屋に持ち込めばよかろう」

「左様なものはもうとっくに父上のお口に入ってしもうております」

「ほぉ 儂が皆飲んでしもうたとお前は申すのだな!」

「父上!いつそのようなことを申しました」

「何ときつい女だ、まるでおりくそっくりだ、ではお前が水茶屋へでも奉公に出るなり、
岡場所へ身を沈めてでもこの父に孝行致さぬか」
言いつつ、畳の上に大の字となり寝込んでしまった。

翌日さとの姿が牛込宗参寺門前町の水茶屋駒やにあった。
武家の出の奉公人など当時珍しくもなく、
生活に窮した武家の内儀が苦海に身を沈める話なぞ日常の出来事であったからだ。

慣れない仕事ではあっても赤い前掛けを締めてキビキビとよく働いた。
茶屋の女将おせんはそんなさとを気に入って一見の客に当たらせた。
何しろ愛想もよくほころぶような笑顔が又来ようと思わせる気立ての良さ

「流石お武家の娘だけのことはある、お陰で客が此方に流れてきだしたねぇ」
と、笑みを浮かべるほどであった。

この日長谷川平蔵久しぶりに目白台から嫡男辰蔵を供に駒込の穴八幡に向かった。

寛延十八年に幕府の弓持組頭がこの場所北の高田馬場に弓の的場を作り
射芸の守護神八幡を祭り、築地の北側には松が植え込まれ風よけも工夫されていた。


この騎射は、始まった当初は矢馳せ馬(やばせうま)であったが後に流鏑馬(やぶさめ)
となった。
この流鏑馬、鏃(矢尻=やじり)の傍に鏑を取り付けた特殊な矢を鏑矢(かぶらや)と呼び、
音が出るので戦場などで合図のために用いた。

大きさも5センチ程度から20センチほどのものもあり、その他に、神頭矢(じんとうや)
蟇目鏑矢(ひきめかぶらや)蟇目矢(ひきめや)なども存在する。

八代将軍徳川吉宗が小笠原流20代に命じ奥勤めの武士たちに流鏑馬・
笠懸(疾走する馬上から鏑矢を射掛ける技法)の稽古をさせるために制定させたものだ。

笠懸は流鏑馬よりも実践的なれど標的なども多彩を極め、
技術的な難易度は高いものの格式としては流鏑馬のほうが上であった。
この頃は流鏑馬・犬追い物・笠懸を騎射三物と呼ばれていた。

笠懸は群馬県新田郡笠懸町で、源頼朝が笠懸をおこなった由来がある。
笠懸の馬場は一町(109米)51杖(弦をかけない状態の弓の長さ)で、
進行方向から左手にスタート地点から33杖(71米)に的を設置。

射手は直垂(ひたたれ=鎌倉武士の装束でよく見かける正装)に行縢(むかばき)
鹿の皮を腰から足先まで覆った装束。

袖はそのままで射籠手(むねあて)も着けず烏帽子のままで、笠を標的に見立てた。
流鏑馬は射籠手を着け、笠をかぶる。

亨保13年(1728年)徳川家重世継ぎのために、疱瘡(天然痘)治療祈願として
穴八幡北側の高田馬場で流鏑馬神事が行われ現在に至っている。

流鏑馬は馬場2町(218米)進行方向に3つの的を設置、射位置から的までは5米、
魔都の高さ2米、射手化狩装束で、連続的に矢を射る。

他には犬追物(竹垣で囲んだ馬場の中犬を150匹放し、射手36騎が3手に分かれて
犬を射る。
この時犬を傷つけないように蟇目(ひきめ=桐や朴で作成した鏑に穴を開けて
音がよく鳴るようにした矢で、中身をくりぬいた中空で、割れないように数カ所糸で巻締め
漆が塗られているもの)
両側に木製で高さ2尺3寸(70センチ強)の埒(らち=柵)があり、
左を男埒、右は女埒と呼んだ。

1ノ的まで48杖(両手を広げた幅)そこから38杖が2の的、さらに37杖で3の的となる。
的の大きさは1尺8寸(36センチ弱)射手の服装は水干(すいかん)、
または鎧直垂(よろいひたたれ)を着て、裾および袖をくくり、腰には行縢(むかばき)
をつけ、あしに物射沓(ものいぐつ)をはき、左に射小手(いごて)をつけ、手袋をはめ、
右手に鞭をとり、頭には綾藺笠(あやいがさ)を戴く。太刀を負い、刀を差し、
鏑矢を五筋さした箙(えびら)を負い、弓並びに鏑矢一筋を左手に持つ。
流鏑馬では声を掛ける。

式には一の的手前で「インヨーイ」と短く太く掛け、二の的手前で「インヨーイインヨーイ」と
甲声でやや長く掛け、三の的手前では「インヨーイインヨーイインヨーーイ」と
甲を破って高く長く掛ける。略では「ヤアオ」「アララインヨーイ」「ヤーアアオ」
「アラアラアラアラーーッ」などと掛ける。
明らかに日本語ではない、古代ヘヴライの掛け声である。

少し諄(くど)くなったが、これを知って眺める時、時代背景が身近になると思う。


さて話を元に戻そう。
牛込高田馬場にさしかかったとき辰蔵が
「父上、少々歩きくたびれました、どこかで一休みはなされませんか?」
と口を切った。

「フム それもそうだのぉ、流鏑馬はまだ刻もある、まずは喉でも潤すと致すか」

「まさか父上お茶ではござりませんよねぇ」

「おいおい 辰蔵、お前いつからそのような口がきけるようになったんだえ」

平蔵はせがれの背伸びした姿が昔の自分を思い出させるようで苦笑しながら辰蔵を見上げた。
「あっ そのぉ安倍、市川両名とそれから・・・・・」

「それから?それからどうした」

「はぁいやぁまぁさほどお気になさることはないのでございますが・・・・・」

「何だこう歯の奥に物の挟まったような歯切れの悪い言いようは えっ!?」

「はぁ そのぉ 木村さんと・・・・・」

「木村?・・・・・・まさか・・・・・忠吾かえ?」

「はぁそのぉまさかの木村さんでございます」

「やれやれ かような話となるといつもあやつの名前が絡みおる、
で、忠ごと如何いたした?」
「はい 木村さんのお薦めで岡場所の提灯店に出陣いたし・・・・・」

「ほぉ そこで何と酒を学んだと言うわけか?」

「はぁ まさに・・・・・」

「嗚呼やんぬるかな・・・が、まぁこのオレも親父殿にそっちの手ほどきを受けたのが
丁度お前の年頃、小言も言えぬ立場ではあるがなぁ、
母上には決して漏らしてはならぬぞよいな!」
と、とどめを刺す程度と相成ってしまった。

「よし、それでは昼間からではあるがまぁ晩秋の色付きでも愛でると洒落こんで」

「それが誠に宜しゅうございますなぁ」
辰蔵そそくさと7~8軒ある茶屋の中の一つに腰を下ろす。

ここは馬場の北側に松並木が開け、徳川家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、
高田殿(茶阿局)の為に景色のよい遠望を楽しむ庭園を開いた風光明媚な場所である。

背後には10万石の清水徳川重好下屋敷が控えており、またの名を山吹の里とも呼ばれ
親しまれている。
文明年間(1469~86)、千代田城(江戸城)を作造した太田道灌がこの付近に鷹狩りに来た時、
急雨に降られ、近くの農家で蓑を借りようとした。

家の中から出てきた娘は、庭に咲く山吹の花を手折って道灌に捧げた。

道灌はその意味が理解できずに帰り、近臣に事の次第を話したところ、そのうちの一人が、
中務卿兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」
の歌を借りて、家に蓑がないから貸すことができないとの意を表したのだろうと話した。

これを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。

道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その西向天神(法善寺隣・大聖院)、
この天神社は棗(なつめ)の天神とも呼ばれ、三代将軍家光も鷹狩りで訪れ、
社殿の修理にと棗(なつめ)の茶器を下されたのが、その由来)に葬られたという。
その北には神田川が流れており、川には面影橋が架かっている。

この橋の由来は、戦国時代にこの地に来たという和田靱負という武士の娘
於戸姫が結婚を断った武士にさらわれ、気を失ったところを杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、
やがて近所の小川左衛門に嫁いだが、夫の友人に夫を殺され、この仇は伐ったものの、
我が身に次々と起こる不幸から、神田川の川辺でわが身を水に写し、
亡き夫を想いながら川に身を投げて夫の許に赴いた。
これを里人が於戸姫の心情を想い、面影橋・姿見橋と名付けたという。

両岸は頃ともなると桜が咲き競い、その艶やかさを川面に映し、人々を楽しませる所でもある。

「いらっしゃいませ!」
若い茶女が明るい声で出迎えた。

「これは又私好みの・・・」辰蔵相好を崩して女を見た。

平蔵もその若々しく弾んだ声の方を笠を取りながら見返し
(んっ?はてどこかで・・・・・)
女の方も何かを感じたのか
「あのぉ どこかで確かにお目にかかったお方のように存じますが?」

「おっ!」

「あっ!」
「あの時の」
同時であった。

「えっ 父上、このおなごをご存知でございましたので?」
今度は辰蔵が驚いた。

「ふむ 存じておると申せば存じておるが、まぁそれだけのことで」

「はぁ ただそれだけのことでございますか?母上には内緒にいたしますのでご安心を」

「馬鹿者 只存じておるそれだけの事、妙な気を回さずとも良い」
平蔵、辰蔵の心のなかを読んで苦笑した。

「それではこちらのお方がお武家様の・・・・・
1年ほど前に内藤新宿で私と母がお助けいただきました、まぁっ 
あの折のお駕籠の代金を・・・」

「何を申されるか、拙が勝手に送り届けたるもの、お気遣いご無用、おお 母御は達者かな?」
平蔵は浪人に突き飛ばされて転倒した母りくの身を案じて問うた。

「あっ はい・・・・・」
女の返事がすぐさま返ってこないことに

「ふむ 何があったと見ゆるな」
さとの反応が今ひとつに平蔵何かを感じ言葉を継いだ

「如何致した?母御の身の上にでも何かが起きたのかえ?」

「・・・・・母はついひと月ほど前に長の患いの末他界いたしました」
と平蔵の思いとは裏腹な気落ちしたさとの返事が返ってきた。

「ふむ、しかし何故・・・・・」

「このようなことを・・・でございましょう?」
奥から酒の支度を持って出ておかしそうに笑った。

「ふむ まぁな・・・・・」
隣から興味津々の眼で辰蔵が
「何が起きたのでございましょうや父上」と合いの手を入れる。

「あれから母上は床につく日が多くなり、その分お仕立て物も中々はかどらず、
父上の傘張りにも力が入らなくなりました。
間もなく母上が起きられなくなり間もなくみ罷りました」

「さようであったか・・・で、父御は如何なさっておられる?」
二半場の御家人身分とはいえ、武家の娘が茶屋などに働き内を求めるにはそれなりの
曰くがあって良いはずと平蔵は思ったのである。

「父上はひどくお力落としなさいまして、以来お酒に逃れるかのように・・・」

「ふむ 無理もあるまい心の隙間はそなた一人では背負いきれるものでもなかったという事だ
なぁ・・・・・・しかし」

「はい しかしなのでございます、お上より頂戴致します俸祿のみでは、
今の御時世暮らしが中々に立ち参りません、それで・・・」

「うむ 潔い心がけだが・・・のう 辰蔵」
と、さとの顔をじっと見つめている嫡男辰蔵の眸(ひとみ)を言葉で遮った。

「ま、まっ全くでございます、いかなる事情があろうとも痩せても枯れても
一家の主とならば何らかの手立てを講ずるのが責務かと」
辰蔵ここぞとばかりに売り込みに奔走する。

平蔵苦笑しながら
「で、そなたがこうして父御を見ておるというわけだな・・・・・」

「はい お恥ずかしいところをお目にかけまして申し訳もございません」

「うむ この辺りは戸塚村の在所だと思うが、なんせ人の賑わいも多かろう、
何かあらば儂のところへでも訪ねてくるがよかろう、多少の知恵も湧こうというものだ、
のぅ辰蔵」

「はい 誠にかたじけのう存じます、
ところでお武家様はどちらにお住まいなされて居られますので?」
無碍に断るのもという気遣いがその返事にこもっている。

「あっ 私は目白台に住んでおりますが、父上は清水門前に役宅も有り、
そちらにならば比較的捕まえやすうございますよ、何しろ日々出まわるのも御役目の事故に、
左様で御座いますな父上」
今度は辰蔵が平蔵にチクリと先ほどの仕返しに。

「あのぉ 清水御門前と申されますと・・・・」

「おお すまなんだ、まだ名前を申して居らなんだな、拙は長谷川平蔵、此奴は嫡男の辰蔵、
以後お見知りおきを、役宅は火付盗賊改方となっておる、遠慮のう参られよ」

それを聞いたさとは驚いた。
「あっ あのぉ盗賊方のお屋敷でございますか?」

「驚く事ではない、たまたま左様な御役目を務めることになったまでの事、
こうして御府内をブラつくのも儂の御役目、そうしてそなたに出遇ぅたのもこれまた縁じゃ、
そうであろう?袖すり合うも他生の縁と申すではないか、
それも儂の役目と想うて遠慮なぞ致すな、よいな」
平蔵は、どうもどこかが気がかりに思えそう念を押した。


居酒屋で酒に飲まれている浪人に
「旦那ぁ深酒はいけやせんぜぇ 
まぁ酔いたくなるご事情でもおありなさるんやぁござんしょうがね」
見るからに通り者(博打打ち)風体の小柄な男が隣の席に座り込んできた

「ううんっ 誰だ、お節介な奴は、俺は好き好んで酔っているのではないぞ」

「へぇ たいそうお飲みなすっているとお見受けいたしやしたがねぇ、
好きでなきゃぁそこまで飲めやせんよ」

「うるさい!お前にゃぁどうでも良いことであろう」

「へぇ さいでやすがね、まぁ世の中面白くねぇ時ぁ飲みたくもなる、
あっしにゃぁそんなところしか判りやせんが、ご浪人さんとなりゃぁ
もっと深ぇこともお有りなさるんでござんしょうね」
男は身を捩りながら酒卓に向き直って顔を近づけた

「どうでございやしょうねちょいとこのぉ小遣いでも稼いでみようなんてお気持ちは
ございやせんか?」

「小遣いだとぉ!」

「おっと こいつぁご無礼を、いえね!好きな酒をお飲みになるにゃぁ先立つ物が要る、
ですが膳の上は空の銚子だけ、こいつぁどうみたってあんまり懐も・・・・・
違ぇやすか?んでまぁちょいと気楽に小遣いでもとお声をおかけいたしやした次第で へぇ」

「貴様に何が判る、こうみえても譜代御家人のわしが貴様のような者の口車に乗って
小遣いをもらうなぞということが出来ると思ぅてか」

「おっと ごめんなすって!旦那ぁ・・・・・
そいつぁご無礼をいたしやした、ですがね只小遣いをと言うんじやぁございやせんぜ、
まぁそれなりの仕事はしていただきやす、
ですからそこまで思われることでも無ぇんじゃぁござんせんかねぇ、
そうすりゃぁ何の心配もなく好きな酒も飲め、
嫌なことも忘れられるってぇことで、へへへへっ」
両手をすりあわせながら下から小田祐継の酔眼を舐めるように見上げた

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