鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 4月
大名武鑑をめくりながら一橋治済、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察様と賢丸様のお二人。お世継ぎは治察様と言う事となるものゝ、万が一治察様になんぞ異変が生じました折には賢丸様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉立ち上がる。
外濠
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた帝鑑の間がある。
一橋治斉、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦に
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋治斉様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐守様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(祗候席と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。もしも越中殿が、同じ田安家七男賢丸様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿治斉
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿治斉の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安徳川賢賢丸との養子縁組を上奏したのである。
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察薨去に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元・板倉佐渡守勝清・田沼主殿頭意次の判断で、一度決定されたものを反古にすることは認められないと却下。田安徳川賢丸は陸奥白河に封じ込められる状態に置かれたのである。
後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(賢丸)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼主殿頭意次の屋敷を訪れた。奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒主殿頭様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼主殿頭意次へ進物を上納したのである。その中には閣僚への推挙願いが認められていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼主殿頭意次の暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。
青い果実
安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。
この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(急死)
念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年閏五月、三十歳になった御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田沼能登守意致に
「どうであろうか、ご老中主殿頭様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家斉)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」
そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川賢丸を田安家から排除する相談があった事を実父田沼能登守意誠より聞かされていた田沼能登守意致
(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼意次様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。そう踏んだ田沼能登守意致
「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済からの申請を受け、田沼主殿頭意次、早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川家斉)を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼主殿頭意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川家斉と近衛寔子は一橋家へ引き取られ家斉と一緒に育てられる。
この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃かなる噂にござりますが、家基様は主殿頭殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」
傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。
突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼主殿頭意次を疎んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼主殿頭意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
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