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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 3

置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗(むね)武(たけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう)(抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免(ひめん)。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、誠にありがたきお言葉、この田沼意誠、謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平伏したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭(意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭)意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉が誕生している。
「のう意誠、十代様には未(いま)だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意(おき)誠(もと)、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。

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