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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 5月


粟田口近江守国綱の末裔一竿子


天明四年三月二十四日、田沼主殿頭((とのものかみ)意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知(おきとも)は、江戸城内において旗本佐野政言(まさこと)により粟田口国綱の末裔一竿子(いっかんし)忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代               
(家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉(いなり)を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠(おきのぶ)の嫡男、田沼能登守意致(おきむね)のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致(おきむね)小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主殿頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。
池の底
「さてさて、かつて陸奥へ追いやった越中は使える、此奴を使って相良を追い出さねば儂の思い描く世が訪れぬ。まずは越中を老中格に据えてからの話だ」
こうして一橋治済(はるさだ)、徳川御三家、中でも筆頭格尾張大納言徳川宗睦(むねちか)は年上とあって、まずここを落とさねばならないと的を絞り、千代田城大廊下上之席に座している尾張大納言宗睦の座した上手に廻り、膝を詰めるようににじり寄り
「如何でございましょか尾張様、今、まだ上様は稚(おさの)うございます、そのためには上様お側近くにて補佐する者も必要(いろう)かと。そこで白河松平越中殿を老中に推挙致したいのでござりますが……白河殿は八代様お孫様に当たられるゆえ、御家門は妥当かと存じまする」
治済、そっと耳打ちするように尾張大納言宗睦に膝を進める。
(ふん、我ら御家門を蔑(ないがし)ろに、裏でこそこそと十代様に仕掛けておきながら、今になって我らを都合よぅ使うつもりか若造めが)宗睦、顔を背けつゝ、じろりとその細く顰(ひそ)めた目を流す、その先に一橋治済の蛇のように冷やゝかな策士の目が待ち構えていた。尾張大納言宗ね)睦、思わず顔に緊張が走ったものゝそこは流石に古狸、さっさと視線を戻し、横に座す水戸中納言治(はる)保(もり)へ無言の言葉を投げかけた。
それを見据えたまゝ治済、
「紀州殿はご承知くださりましょうな」
己より年下の、この若き当主をみやったその言葉には、有無を言わさぬという圧力がこもっている。
 「そ……それはそのぅ」
 言葉を濁しその場に居合わせる水戸・尾張両当主の顔色を窺う。
 (何処までも姑息な……)
そうは思うものゝ、この現状で詰め寄られては応えぬわけにもゆかず、尾張大納言宗睦
 「我等とて、上様をお支え致す立場なれば異存なぞあろうはずもございますまい、のう水戸殿」
水戸中納言治保(はるもり)を一瞥、小さく頷くそれを見届け、紀州大納言治寶(はるとみ)を見下すようにじろりと眺める。いくら石高が百万石を越え、尾張を凌ぐと言えど、年の開きは序列に如実に現れてくる。
 「大納言殿、我らに異存はござらぬ、越中殿の事、承知にござる」
忌々しげな口調に尾張大納言宗(むね)睦(ちか)、ボソリとつぶやき、もうその話、よろしかろうと言わんばかりに目を閉じた。
この大一手は、かつて自分が画策し、久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗(むね)武(たけ)の七男松平越中守定信(幼名賢(よし)丸(まる))を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼主殿頭意次一派包囲網の策謀が完成を見たのであった。

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