忍者ブログ

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 1月号


置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗武(むねたけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう・抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹(むねただ)を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、真にありがたきお言葉、この田沼意誠謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平服したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹(むねただ)薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠(おきのぶ)、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済(はるさだ)様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉が誕生している。
「のう意誠、十代様には未だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。
「そこだ意誠、どうだ、田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる)(後の老中松平定信)であろう。これを取り除けば田安には十一代様に成る者がおらぬようになろう」
大名武鑑をめくりながら一橋治済、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸様のお二人。お世継ぎは治察様と言う事となるものゝ、万が一治察様になんぞ異変が生じました折には賢丸様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉立ち上がる。
外濠
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた帝(てい)鑑(かん)の間がある。
一橋治斉、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦(さだくに)に
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋治斉様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐守様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(ためずめ)(祗候席(しこうせき)と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。もしも越中殿が、同じ田安家七男賢丸様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿治(はる)斉(さだ)
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿治斉の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安田安徳川賢丸との養子縁組を上奏したのである。
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察薨去に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの判断で、一度決定されたものを反古ほごにすることは認められないと却下。田安徳川賢丸は陸奥白河に封じ込められ
る状態に置かれたのである。後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(賢丸)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの屋敷を訪れた。奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣のぶため、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒主との殿頭ものかみ様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐへ進物を上納したのである。その中には閣僚への推挙願いが認したためられていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。

 

拍手[0回]

PR