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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平犯科帳 鬼平まかり通る  12月

粟田口国綱

この数年後十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様はご老中の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか、お聞き及びではござりませぬか?」
と告げた。
十八歳の若さで突然奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂し、疑心暗鬼に陥ったまま、懐刀であった田沼意次を疎(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明4年3月24日、田沼意次嫡男にして老中であった田沼意知(おきとも)は江戸城内において佐野政言により粟田口国綱(長谷川平蔵愛刀)の末裔一竿子忠綱の大脇差で殺害されている。
天明6年(1786)8月25日第10代将軍徳川家治が五十歳で没し、一橋徳川豊千代(家斉・いえなり)が晴れて第十一代将軍の座についたのである。
我が子一橋家斉(いえなり)を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永3年以来13年に亘って費やして以後、残るは田沼意次の実弟、家老田沼意誠(おきのぶ)である。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった田沼意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼意次一人に押し付ける工作が始まったのである。
その大一手が罪滅ぼしのつもりもあってか、かつて自分が画策して久松松平家陸奥国白河郡白河松平家二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗武の七男松平定信(幼名賢丸・まさまる)を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼意次一派の包囲網が完成を見たのであった。
白河の水も恋しや
こうして白河松平家松平定信は、若干十五歳で第十一大将軍に就いた一橋徳川家斉(いえなり・豊千代)の後見役となり老中の席に就き、この自分を田安家におかず辺境の白河藩に追いやった田沼意次や弟意誠(おきのぶ)、甥の意致(おきとも)が家老を務めていた一橋治済(はるなり)と田沼一派、それに組みした政権に関わる者達に対し憎悪を燃やし、これを機に田沼一派の排除が本格化していった。
天明6年(1786)8月27日田沼意次は老中を解かれ雁の間詰に降格され、10月5日2万石を没収。
大阪の蔵屋敷の財産も没収。江戸屋敷の明け渡しも行われ、蟄居(ちっきょ)の後再び減封を命じられ、居城であった相良城は微塵の痕跡もないほどに打ち壊された。
老中首座についた松平定信が定めた寛政の改革(1787~1793)には、賄賂を禁じる項があり、盆暮れのお礼など、本来支払うべきこれらのものまでも差し出さなくなったため、寛政4年(1792)皮肉な事に付届けを義務付ける御触出しを出さざるを得なくなったのである。
田沼時代に幕府財政の収入が増えていたものを、定信が掲げた改革によって逆に百万両(1兆円)もの借財が出来てしまった。
{田や沼や よごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水}と落首にのぼったものの、太田南畝により
{白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき}と狂歌に詠まれる始末となり、わずか6年で老中首座を失脚したのである。
この若き老中首座の松平定信も、したたかな一橋治済にかかっては手持ちの駒でしかなかったようで、定信が主導した寛政の改革は財政の立て直しのために厳格すぎ、将軍家斉や他の幕臣から批判が上るようになった。
長谷川平蔵亡き後の寛政5年(1793)7月、第十一代将軍徳川家斉と、その実父一橋治済の目論見に嵌められ、此処に松平定信は老中首座を罷免されるのである。
鬼平誕生
天明3年(1783)浅間山の大噴火が起こり、その被害は甚大なもので後に天明の飢饉と呼ばれ、これにより田畑を失ったり禄を離れた浪人などが江戸に大挙して流れ込み、これらにより天明7年(1787)江戸・大阪を中心に地方30箇所あまりでも打ち壊しや暴動、盗賊事件が頻発。
時の老中田沼意次の政策であった囲米も放出を余儀なくされた。
これを鎮圧するには南町奉行山村信濃守良旺・北町奉行曲渕甲斐守景漸だけでは手が足りず、このため先手弓組一番の盗賊火付御改(火付盗賊改方)堀帯刀秀隆も打つ手なしという体たらくに、実戦部隊である御先手弓組十組に鎮圧の命が下った。
この時加わったのは西之丸先手筒組奥村忠太郎を組頭に以下、筒組(つつ・鉄砲隊)7・6・19・17・2・9弓組2・6弓組。
弓二組頭であった長谷川平蔵は与力75騎・同心300名を率い出動した。
その働きぶりには目をみはるものがあったとある。
この時、老中牧野越中守忠精は
「手に余れば切り捨ててよし」
と下知を下した。
天明6年(1786)老中首座に就いた松平定信は、田沼政権下での西之丸仮進物徒(賂受付係)であった田沼意次一派の一人、長谷川平蔵も忘却しておらず。これにも憎しみは向けられ、翌天明7年、御先手(おさきて)弓組二組頭である長谷川平蔵は老中の命により、火付盗賊改方助役を加役される。まさに絶妙の好機であった。
すなわち、天明7年(1787)5月20日夕刻より始まった天明の打ちこわし事件が勃発したのである。
5月15日過ぎより両国橋・永代橋・新大橋から大川へ身を投げるものが続出し、渡し船からさえも身を投げる者が出た。このために18日以降は渡し船の運行を禁じた。
時の奉行は南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら) 北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげゆき)火付盗賊改方堀帯刀秀隆(ひでたか)であった。
だが堀帯刀は役職にあまり乗り気でなく、鎮圧に消極的であった。暴徒と化した者の中には無宿人も見受けられ、これらに扇動されて更に油を注ぐ事となり、20日夕刻赤坂の米屋2~30軒を皮切りに、夜には深川でも打ちこわしが勃発。
鐘や太鼓、半鐘、拍子木など音の出るものは何でも抱え、打ち鳴らしを合図に乱入。
こうなると群集心理の凄まじさで、あらゆるもので押し入り、家財から調度品まで破壊し、米、味噌、醤油、酒とありとあらゆるものを路上や川にぶち撒いた。
だが、これも鳴り物で合図されると一旦取りやめ、休息を取るなどかなり組織化されていたことが伺える。
こうして次第に押し買い(買い手が値段を決める)が頻発、これを拒否する場合はそこを打ち壊した。
この最中にも商人は賂を贈って武家屋敷に米を隠匿した。そんな中で火付盗賊改方堀帯刀の屋敷へも運び込まれた。
5月23日これを鎮圧するために、御先手組に出動命令が出たのである。
24日芝・田町を最後に、翌25日さしもの打ち壊しも、やっと終止符を打ったのであった。
江戸の打ち壊しにあった家屋500軒あまり、その内の400軒は米屋、米搗き屋、酒屋など飲食関係であった。
中では大阪城代下総国佐倉堀田相模守御用の米蔵が警護の厚いさなか打ち壊され、油問屋の丸屋又兵衛も打ち壊されてしまった。
老中よりのご注進にも関わらず、その実情を将軍徳川家斉に問い正されたものの、田沼意次の懐刀御用御取次横田準松(のりとし)
「市井はこれ平穏無事にござります」
と答えた。
だが、これは隠密の調べで膨大な被害があったことと判明しており、この事件で横田準松は罷免。田沼意次の屋台骨が一気に崩れた事件でもあった。
これを機に御三家を後ろ盾に擁立して松平定信が老中に躍り出たのである。
この時松平定信、将軍補佐という役柄から、家斉に
「御心得之箇条」より、
「60余州は禁廷より御預りいたしたものの故に、これを統治することこそ武家の棟梁の本分であり、それがひいては朝廷に対する最大の崇敬でござります。
故に、たとえ朝廷とあれども将軍の政に口を挟むことは許されるものではござりません」
と断じた。
しかし当時この「大勢委任論」は、幕府が認めたものではなかった。後にこの考えが存在した為、黒船来航以後その責任を幕府が負わされることとなり、結果的に徳川慶喜によって大政の奉還に発展したのである。
これを機に翌8年、田沼政権の残党老中が一掃され、松平定信の老中首座の地位が堅固となり、時を同じくして長谷川平蔵へ火付盗賊改方本役が下知されたのであった。
老中奉書
本所菊川町の火附盗賊改方長谷川平蔵役宅に下野国壬生老中鳥居丹波守忠意(ただおき)より呼び出しがかかった。
(はていつもなら気軽にお招きあるものを、此度はまたどのようなおつもりなのか、思い当たる事と言えば、これまで幾度も差し出すものの全くなしのつぶてとなっておる加役方人足寄場の建議書……なればよいのだが。ご老中直々ということならば、さてさて)
翌日指定された西之丸下の鳥居丹波守役宅を訪れた。
接見の間に祗候(しこう)すると長谷川平蔵、そこにはすでに鳥居丹波守忠意の姿があった。
平蔵低頭し言葉を待つ。
この鳥居丹波守忠意とは平蔵が水谷伊勢守勝久によって西之丸書院番4組に取り立てられた頃より昵懇(じっこん)の間柄であり、水谷伊勢守勝久とともに平蔵の後ろ盾となっている人物である。
「長谷川平蔵、此度辰ノ口評定所(和田倉門内)への人足寄場建議に付、少々尋ねたき議これあり返答いたせ。そこ元はいかなる所存にて此度人足寄場を建議致した」
低頭して控える長谷川平蔵の心底を確かめる如く丹波守、柔和な面持ちの中にも眼光は鋭さを持って臨んでいた。
「ははっ!!」
平蔵低頭し、
「されば…人はこの世に生まれしおりより悪事を為す者はござりませぬ。なれど生きてゆく上においてやむなく悪事に手を染めることもござりましょう」
「うむ 確かにのぉ」
「さすれば、罪を憎みしも、人までその憎しみで計るのは御政道の致すことにあらずと存じまする。
まずは罪を犯させぬよう致すことこそが寛容かと、そのために初犯に至らぬ者においてはこれをまっとうなる道に戻す方策も必要と存じまする」
丹波守忠意、このきっぱりと持論を述べる長谷川平蔵をよく解っていた。
(なるほど確かに一理ある、なれど一介の旗本が政に口出すことは罷りならぬ事、それを此奴は想ぅても居らぬ風)
「黙れ長谷川平蔵!そこ元はお上の政を批判致すつもりか!」
「ははっ!もとより然様なことは微塵も想うてはおりませぬ、が…」
「が、如何致した」
「はい、たとえ強請(ゆす)り集(たか)りであろうと、ただの物乞いであろうと、これもまた物乞いに変わりはござりませぬが、為すことはおおいに違いまする。
御法は人を守るためのものでなければなりませぬ。これを政で賄えるものであるならばそれを致すことも大事の一つと心得まする」
丹波守、政事を預かる身としては幕府批判とも受け取られかねないこの言葉は聞き捨てならない。
「そこ元は政事も手落ちがあると申すか」
「滅相もござりませぬ、なれど何事も用い方一つではなきかと存じまする。
悪事をひと所に纏めたとて、それで罪が消えるわけでもなくば、再び悪に走ることを止める手立てにもならぬかと存じます。
更に申せば、これで終わるわけでもござりませぬし、益々これらは増えるばかりのご時世、虞犯者(ぐはんしゃ・法に触れてはいないが法を犯す恐れのあるもの)なども何がしかの方策を持ってこれに当たらねば、やがては罪を犯す事になりかねませぬ。これでは江戸の庶民は安心して暮らすこともままなりませぬ」
(丹波守様が此処で剛力下されば、この建議お聞き届けいただけるかも知れぬ、ならば儂にとって百万の味方を得たのも同然)
平蔵、丹波守の心底が視えてきたのでふと口元が緩んだ。
「うむ、それが授産の方策と申すのだな?」
丹波守、平蔵の口元の緩みを逃さず認め、にやりと口元に笑みを浮かべる。
「はい 真然様に存じまする」
(儂の生涯をかけた賽は振られた、あとは御沙汰を待つのみ)
「ふむ、そちの申すこといちいちもっとも……あい判った!しばし待て、追っての沙汰を待つが良い」
丹波守、長谷川平蔵の熱い思いを確かめたことへの安堵の思いがその顔に出ている。
「ははあっ!!」
平蔵低頭する間に丹波守退座した。
(ふぅ~さて、此度こそお許しをいただけるやも知れぬ)平蔵の心のなかに爽やかな一迅(じん)の風が吹き抜けた思いであった。

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