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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 11月


オットセイ将軍と呼ばれた徳川家斉 確認できる範囲でも、本妻に16名の側妾を持ち、女27名、男26名を授かっている。中でも特筆すべき?は、当時精力剤として知られていた津軽名物オットセイの睾丸の燻製を飲んでいたとか……。


安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸(まさまる)の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠(おきもと)、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察(はるさと)薨去(こうきょ)に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸(まさまる)は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼主殿頭意次((とのものかみおきつぐ)の判断で、一度決定されたものを反古(ほご)にすることは認められないと却下。
田安徳川賢丸(まさまる)は陸奥白河に封じ込められる状態に置かれたのである。
後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(賢丸(まさまる)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼主殿頭意次の屋敷を訪れた。
奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣(のぶため)、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒主殿頭様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼主殿頭意次へ進物を上納したのである。
その中には閣僚への推挙願いが認められていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼主殿頭意次の暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。
青い果実
安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。
この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)
念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年閏(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋治斉(はるさだ)は、一橋家家老田沼能登守意致(おきむね)に
「どうであろうか、ご老中主殿頭様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家斉(いえなり))を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致(おきむね)
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」
そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川賢丸を田安家から排除する相談があった事を、実父田沼能登守意誠(おきのぶ)より聞かされていた田沼能登守意致(おきむね)
(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼意次様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。
そう踏んだ田沼能登守意致
「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済からの申請を受け、田沼主殿頭意次、早速登城し、臥(ふ)せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川家斉を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼主殿頭意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川家斉と近衛寔子(寧姫・篤姫・このえただこ・あつひめ)は一橋家へ引き取られ家斉と一緒に育てられる。
この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様は主殿頭殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」
傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。
突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
こう激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼主殿頭意次を疎(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼主殿頭意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明四年三月二十四日、田沼主殿頭意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知は、江戸城内において旗本佐野政言により粟田口国綱の末裔一竿子(いっかんし)忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代        (家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠の嫡男、田沼能登守意致のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致、小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主殿頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。
池の底
「さてさて、かつて陸奥へ追いやった越中は使える、此奴を使って相良を追い出さねば儂の思い描く世が訪れぬ。まずは越中を老中格に据えてからの話だ」
こうして一橋治済、徳川御三家、中でも筆頭格尾張大納言徳川宗睦(むねちか)は年上とあって、まずここを落とさねばならないと的を絞り、千代田城大廊下上之席に座している尾張大納言宗睦の座した上手に廻り、膝を詰めるようににじり寄り
「如何でございましょか尾張様、今、まだ上様は稚(おさの)うございます、そのためには上様お側近くにて補佐する者も必要(いろう)かと。そこで白河松平越中殿を老中に推挙致したいのでござりますが……白河殿は八代様お孫様に当たられるゆえ、御家門は妥当かと存じまする」
治済、そっと耳打ちするように尾張大納言宗睦に膝を進める。
(ふん、我ら御家門を蔑(ないがし)ろに、裏でこそこそと十代様に仕掛けておきながら、今になって我らを都合よぅ使うつもりか若造めが)宗睦、顔を背けつゝ、じろりとその細く顰(ひそ)めた目を流す、その先に一橋治済の蛇のように冷やゝかな策士の目が待ち構えていた。
尾張大納言宗睦、思わず顔に緊張が走ったものゝそこは流石に古狸、さっさと視線を戻し、横に座す水戸中納言治保(はるもり)へ無言の言葉を投げかけた。
それを見据えたまゝ治済、
「紀州殿はご承知くださりましょうな」
己より年下の、この若き当主をみやったその言葉には、有無を言わさぬという圧力がこもっている。
 「そ……それはそのぅ」
言葉を濁しその場に居合わせる水戸・尾張両当主の顔色を窺う。
 (何処までも姑息な……)
そうは思うものゝ、この現状で詰め寄られては応えぬわけにもゆかず、尾張大納言宗睦
「我等とて、上様をお支え致す立場なれば異存なぞあろうはずもございますまい、のう水戸殿」
水戸中納言治保(はるもり)を一瞥、小さく頷くそれを見届け、紀州大納言治寶(はるとみ)を見下すようにじろりと眺める。
いくら石高が百万石を越え、尾張を凌ぐと言えど、年の開きは序列に如実に現れてくる。
「大納言殿、我らに異存はござらぬ、越中殿の事、承知にござる」
忌々しげな口調に尾張大納言宗睦、ボソリとつぶやき、もうその話、よろしかろうと言わんばかりに目を閉じた。
この大一手は、かつて自分が画策し、久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗武(むねたけ)の七男松平越中守定信(幼名賢丸(まさまる))を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼主殿頭意次一派包囲網の策謀が完成を見たのであった。

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