時代小説鬼平犯科帳 2016/02/27 3月号 氷雨 筆頭与力 佐嶋忠介その日平蔵は南町奉行池田筑後守からの呼び出しで、昼過ぎて筑後守の役宅に出かけていった。池田筑後守長恵は平蔵の父親長谷川宣雄が京都所司代の頃より親交があり、したがって平蔵とも昵懇の間柄でもあった。その配下の仙台堀の政七や鉄砲町の文治郎は時折平蔵の役宅に訪れ、奉行所の取り扱っている情報などを知らせてくれる、まぁ身内のような間柄である。その筑後守からの招きである、平蔵何かを想うところもあるのか歓んで出かけていった。外は真冬日の空、雲は重く薄墨色に垂れ込んで鈍く陽が滲んでいる。「うむ 今夜は冷え込むな・・・・・」袷の羽織に袖を通しながら妻女の久栄につぶやいた。「殿様お気をつけておでかけなされませ」と久栄も雲行きを案じながら送り出した。「筑後守様よりのお召によりまかりこしましたる身共は火付盗賊改方長谷川平蔵にござる、筑前守様にお取次ぎをお願い申す」平蔵は大刀を鞘ごと抜き、右手に提げた。「お刀をお預かり申します」と近習が平蔵の刀を受け取り先に立って筑前守の待つ居室に案内した。「筑後守様、長のご無沙汰をお詫び申し上げます」平蔵は深々と低頭した。「おお! これは平蔵殿 いやいやこちらこそ御用繁多でご無礼つかまつっておる、ささ!まずはこれに召されよ」とすでに整えられている酒肴の席に導いた。「これは痛み入ります」平蔵は遠慮無く筑後守の傍に寄った。町奉行は旗本三千石、平蔵は同じ旗本でも初めは四百石、盗賊改になって千五百石の立場であり、又奉行職は後に大目付に昇進する地位でもあった。大岡越前守忠相は、最終的には1万石の大名格になったのだからその権勢は大きかったといえる。平蔵も「何れは町奉行に・・・」と思った頃もあったという、まぁそれほどの立場に違いがあった。池田筑後守は平蔵の没した年に大目付に昇進、その五年後この筑後守長恵も死去している。年も平蔵より一歳上という親近感もあり、またその豪胆な性格は平蔵と似通って良い関係が保たれていた。「ところで筑後守様、この度のお召は又いかような?」と平蔵は招きの内容が気がかりであっただけに、早速切り出した。「平蔵殿まぁ左様に急がずとも、まずはゆっくりなされよ、ご貴殿もすでに存じよりとは想うが、この所市中を騒がしておる盗賊のことにござる」「はい その事なれば身共も日夜心を痛めておりまする、何しろ手がかりを何一つ残さず、すでに数件の大店が襲われ、被害も甚だしく、又市中の者も恐れをなし、誠に悩ましき存在にございます」「ふむ それがことでござる、当方の隠密廻にても全くその所在も掴めぬまま時ばかりが過ぎ、老中よりも厳しき御沙汰がござってのう」「あっ これはまた、誠にもって!ですが筑前守さま、何れ当方にもその風は吹いてまいろうかと・・・・・」「わははは 左様でござるなぁ、お互いに辛い役目、あはははは」筑後守も思わず同病相憐れむの例えと笑うしかない。「何としても江戸市中を日々休まる町にしたいもの、のぅ平蔵殿」筑後守は平蔵に盃を勧めながら、これまでの調書を平蔵に託し「何卒の力ぞえを願いたい」と言葉を選んで述べた。「喜んで・・・・・拝借つかまつります」平蔵も筑後守の胸中を察し、調書を懐に収めた。それからまた昔話に花を咲かせ、一刻(2時間)後に屋敷を出た。外はいっそうの冷え込みを想わせ、鉛色の雲が江戸の町をすっぽりと包んでいるようであった。鍛冶屋橋御門を渡り、弾正橋を渡った頃から急な雨足で氷雨が叩きつけるように激しく降り始めた。(こいつはいかぬ、どこかで雨やどりなぞせねばなるまい)平蔵は本八丁堀を東にとって進み、稲荷橋が見え始めたので、急いで橋そばの稲荷社に駆け込んだ時には、すでに夜5ツ「午後7時」を回っていた。奉行所より借り受けた提灯は濡れ、すでに役に立たず、暗闇の中に覚えのある稲荷社を目指したのはこの後の平蔵に新たな展開を見せる前ぶれとは当の平蔵もまだ知る由もなかった。ガタガタと木戸を押し開けると「だっ 誰だ!!」と低いが若い声がした。「おっ! 先客がござったか!誠にすまぬがこの突然の難儀でござる、同室をお許し願いたい」平蔵は言葉を尽くして堂内に入った。漆黒の中で人の気配がする「灯りは・・・・・どこかに・・・・確かこの辺りに蝋燭があったと想うたが」平蔵は手探りの中にも覚えのある燭台の立てかけてある場所を探り当てた。カチカチと火打ち石を打ち据えて火種から蝋燭に灯を導いた。ゆるやかに立ち昇る明かりに照らされて少しずつ部屋の様子が平蔵の眼に映り込んできた。「やっ これは又先客はお若ぅござるな」そう言いながら平蔵は観るとはなしにその若者を観た。柱にぐったりと体を預けて身動きもできない様子に平蔵、「これ そこ元はもしや・・・・・病にでも掛かっておるのか?見れば長旅の末のようにもあるが」と言葉をかけた。若者は無言で身体を丸めている苦しそうな気配に「熱はないのかえ?」と若者のひたいに手をやって「おっ これはいかん、かなりの熱さじゃ、かと申してもこの雨の中動くに動けぬ、ふむ困った」何か身に纏わさねば、かと言って我が身は氷雨に濡れネズミの状態では寒さに歯をガチガチ鳴らしながら震えている若者に手を出すこともならず雨の止むのを待つしかなく、せめて背中をこすってやるくらいしか出来ず、為す術もないといった状態で時だけが無情に過ぎていった。それから一刻ほど過ぎ、四ツの鐘が聞こえた頃雨足が遠のき、静けさが戻った。(深川仙台堀今川町の桔梗屋まで十五町ほど、なんとかたどり着けぬ距離でもない)平蔵は意を決し、若者を背負い社を出た。稲荷橋を渡り、高橋を渡って松平越前守中屋敷を通り抜け、白銀町から二ノ橋をまたぎ濱町から南新堀を抜け豊海橋を渡って永代橋を越えた。深川中ノ橋を渡れば佐賀町、その角を曲がれば今川町の仙台堀桔梗屋がある。平蔵は氷雨に冷え込んだ自身の体に鞭打つように熱にうなされる若者を背負って歩いた。桔梗屋もすでに戸締まりを終えて辺りは暗闇の景色に変わりはなかった。平蔵は門口を叩き叫んだ。「女将わしだ、長谷川平蔵だ!すまぬがここを開けてくれぬか!」平蔵は若者を背負ったまま幾度も大声を張り上げ、戸口を叩いた。やがて奥に明かりが灯り「どなた様でございましょう?すでに火も落とし、店も閉めてございます」と板前の声が聞こえた。「おい!秀次わしだ、長谷川平蔵だ!」平蔵は聞き覚えのある板前の声に安堵しながら叫んだ。「あっ これは長谷川様少々お待ちを!」と言って、急いで戸口の閂が外された。濡れネズミの平蔵が人を背負っていたのを見て「どうなさいましたので!」と秀次は平蔵から若者を引き受け店の中に運び込んだ。騒ぎを聞きつけて女将の菊弥が夜着姿に羽織を引っ掛け走り出てきた。「長谷川様又何としてこのような時刻に・・・・」と言いつつ平蔵のただならぬ様子に気付き「秀さん急いで部屋を用意してそれから長谷川様とお連れの方に何か着替えを見繕っておくれ、それから湯を沸かして・・・・・」「任せておくんなさい女将さん!万事心得てございますよ」と秀次は支度に掛かった。秀次はかまどに薪をくべながら、自分の着替えを持ってきて若者に着替えさせた。「あっしのものではどうにも長谷川様には寸法が足りません、女将さんどうしやしょう?」と秀次。「このままでは長谷川様が大変なことになる、こんな場合は目をつむって頂いてあたしのものでも羽織っていただくしか無いねぇ」と菊弥は袷のものを引っ張りだして平蔵に着替えるよう促した。平蔵も苦笑いしながら乾いた手ぬぐいで体を拭き、袖を通した。そうしている内に湯も湧き、まずは足を温めねばとたらいに湯を張って若者の手足を浸し、吹き出す冷汗を拭い取った。平蔵の印籠から薬を出して飲ませ、一刻ほどで若者の様子も落ち着いてきた。「ヤレヤレやっとこの方の様子も落ち着いてまいりましたよ長谷川様」菊弥が平蔵にそう報告に上がってきたが、返事がない「長谷川様!」声をかけて襖を開けたその目の前に信じられない光景を見て菊弥は仰天した。平蔵は蒼白な顔を天井に向けて眼は虚ろになっている。「長谷川様!!」菊弥は叫びながら平蔵のひたいに手をやった「あっ!!大変!!秀さん大変だよ長谷川様がお倒れになられたよ!どうしよう!!」「女将さん落ち着いてくださいよ、とにかくあっしはこのことを染千代さんに知らせやす着替えも要るでござんしょうし、おとっつあんの物なら間に合うでござんしょう?、それと熱冷ましの薬を早く!!」と言い残して暗闇の中へ飛び出していった。小半刻(30分)を待たず染千代が飛び込んできた。真っ青な顔色で染千代が二階へ駆け上がって「姐さん長谷川様がお倒れになすったって本当なの!」と叫びながら襖を開けた。平蔵の唇はすでに紫色に変わり、体力の消耗が激しいことが見て取れる。染千代が手をおいた平蔵のひたいは火のように熱く、濡らした手ぬぐいはあっという間に湿り気を失ってしまう。「秀さん手伝っておくんなさいな!」染千代は階下の秀次を大声で呼び寄せ、平蔵の衣服を剥ぎ取り、持参した父左内の着物に着替えさせた。「夜具をもう一組・・・・・それから湯たんぽを急いで作って頂戴」さすがに武家の娘だけあって、最低必要な手当は心得ているようである。だが平蔵は体温の低下によって意識を失いかけており、体中が小刻みに震えている。菊弥が湯たんぽを抱えて上がってきた。「それを足元に、足先は身体全部の冷えを取りますから」そう言いつつ染は着物を脱ぎ始めた。「何するんだい染ちゃん、お前さん気でも違ったのかい!」菊弥の言葉を尻目に、染は肌襦袢一枚になって平蔵の横たわるしとねに潜り込んだ。「姉さん!こうして人の体の温もりで暖めるのが一番と父上から教わったから、私はそうするだけ」そう言って染は背中から平蔵を抱きしめた。「そんなことしたら、あんたが死んじまうじゃないか」と、菊弥がおろおろするのを、「姐さん、あたしは長谷川様に助けていただいたこの命、この御方のためならばおしくはござんせん」と染千代きっぱりと言い切った。「染ちゃんアンタっていう人は・・・・・」菊弥は火を移した七輪を部屋に運び込ませ、部屋も温めた。しゅんしゅんと湯気を上げて小鍋が湧くのをたらい桶に取り手ぬぐいを絞って染に渡す。それで平蔵の身体を拭いて吹き出す冷汗を拭い取る、階下では秀次が若者の看病を続けているが、こちらはもう峠は越えたようで、熱も下がり始めていた。この戦いは朝まで続き、やっと外が白み始めた頃秀次が医者のもとに駆けつけた。秀次に引きずられるように医者が籠でやってきて、まず階下の若者を見て手当を済ませ投薬を与え、「もうこちらは大丈夫、さてお次は・・・・・」と二階に上がってきた。染千代は身支度を整え平蔵の手を握りしめながら手ぬぐいを取り替えていた。医者の玄庵は、平蔵のひたいに手をやり、胸をはだけ耳を押し当てて心の臓の音を探り、ひと通り調べ終えたが「ひどく身体が弱り切っており、暫くは動かさないほうがよろしいかと」と後の言葉を濁した。「先生!助かるのでございましょうね!」染千代の必死の眼差しに、玄庵は言葉をつまらせた。「うむ ともかくも水分の補給を怠らないこと、寒さが引けば今度は暑がるであろうがそれとともに熱を冷まさせ過ぎぬこと、これが大事じゃ、良いな!熱を取り過ぎるとかえって長引く、これを間違わぬこと、おそらく酒々を飲んだ上で急に身体を冷やしたのが基であろうと想われる、できるだけおもゆなぞを与えて力をつけさせることじゃ」と注意を与え帰っていった。その間に染千代は何やらしたためて秀次に「これを菊川町の長谷川様のお屋敷に届けておくれでないか」と書付を託した。菊川町の火付盗賊改方役宅でこれを受け取ったのは同心の沢田小平次「奥方様お頭の使いの者と申すものがかような書面を届けてまいりました」と妻女の久栄に手渡した。「何でしょうねぇ殿様の使いとは、昨夜はお帰りになるはずなのにそれもなく、託けもないまま今朝になって・・・・・」と女文字の筆跡にいぶかりながら読み始めた久栄の手がわなわなと震えるのを沢田小平次は見て取り「奥方さま!お頭に何か!」と声をかけた。久栄は言伝を握りしめたままその場に崩れ折れた。「殿様が・・・・・殿様が・・・・・」沢田は久栄の手から言伝をもぎ取るようにして読み始めた。昨日の事の顛末が染千代の手によってしたためられていた。(長谷川様儀につき、取り急ぎお知らせ参らせ候昨夜四ツ過ぎ、病の子供を背負い深川今川町桔梗屋にお越しなされたよし幸いにも子供は長谷川様のお陰にて、お医師の話しでは峠を越した模様、されど長谷川様は殊の外重く、お医師玄庵先生のお見立てでは、日頃の過労に昨夜の氷雨と夜の冷え込みが重なり心の臓が弱り切り、衰弱激しく、暫くの間動かすこと叶わぬと申されましたるよし、今のところ意識朦朧にして昏睡状態の中にあり、一瞬の油断も禁物なれど必死の看護を致しておりますゆえ、何卒ご安堵召されまするよう。元南町奉行所本所廻与力黒田左内 内 染)しかし文字の乱れや行間に読み取れる不安は拭い去ることの出来ないものであった。「何と!これは一大事!佐嶋様はまだお見えになられぬか!」沢田はしばらくして出所した筆頭与力佐嶋忠介に事の次第を報告した。「とにかくこのことは皆の者には伏せておけ!」厳しい緘口令が佐嶋から出され、この事は沢田小平次と佐嶋忠介、それに妻女の久栄だけが知るのみとなった。「佐嶋どの、兎にも角にも私は殿様のところへ参ります」と久栄が佐嶋に告げた。しかし、佐嶋忠介は「奥方さまが直々にお迎えに参られますのはお控えなされた方がよろしいかと存じます」と対応した。「何故私が出向いてはなりませぬのじゃ」久栄には納得の行く返事ではなかった。「奥方さま、ここは何卒この佐嶋におまかせくださりますよう、今奥方さまが向かわれましたと致しましても、お頭は意識も戻っておりませず、医者の申す通りお頭のお体を動かすのは誠に危険なことと存じます。お頭の意識がはっきり致しますまで、暫くのご辛抱を願わしゅうございます」となだめた。その言葉に久栄は、キッと宙を睨み「解りましたそのように致しましょう」と両手を固く握りしめた拳が震えているのを佐嶋忠介は痛々しく見るしかなかった。佐嶋忠介は早速御典医井上立泉に連絡を取り、「お頭が急の病にてお倒れになったよし、急ぎ深川今川町仙台堀の料理屋桔梗屋に出向いて頂きたく候」と託けた。佐嶋忠介は久栄から平蔵の着替えを託され、それを抱えて桔梗屋に向かった。急いで駆けつけた佐嶋の目の前に意識朦朧とした長谷川平蔵のやつれた姿があった。(やはり奥方さまにお目にかけなんでよかった)・・・・・そう佐嶋はつぶやいた。それほど平蔵の衰弱はひどい様相であったのだ。別に誰もが手をこまねいていたわけではないが、それほど平蔵の身体は日頃の激務が限界に来ていたと言えよう。御典医の井上立泉が駆けつけて診察を試みるも、やはり玄庵と見立ては変わらなかった。滋養の処方箋を与えて、後は本人の本復をまつのみということであった。この日も暮になると平蔵は再び高熱を出し、寒気に震えるという事を繰り返すたびに染は平蔵の体を温め汗を拭い、身体を冷やさぬよう気を配りほとんど不眠不休で当たった。始終取り替えるために、着替えの肌着は乾く暇がなく、晒を折りたたんで平蔵の胸元や背中を包み吸汗させ放熱を避けた。こうして染は五日目の朝を迎えた。平蔵は意識のゆらめきの中に微かに誰かの温もりを背中に感じ「ううんっ!」と意識の彼岸から目覚めた。平蔵の漏れるような小さい声に染は気づいて眼を覚ました。「長谷川様!」染は平蔵の意識が戻ったことにやっと胸をなでおろした。「ううんっ?」再び平蔵の声が、しかし今度はしっかりとした様子で聞こえた。「お気が付かれましたか!」染は平蔵の顔を覗きこんで確かめた。「染どのではないか?どうして此処に・・・・・おう!そういえば・・・・・」と身体を起こそうとしたが、まだ腰が定まらずヨロリと染の腕の中にもたれこんだ。「嗚呼よかったよかった・・・・・・よかった」染は止めどもなく流れ落ちる涙がこれ程に嬉しいものと初めて知った。抱きかかえられた膝の上で平蔵「染どのすまぬ」と一言言葉を添えて見上げた染の両目から大粒の涙があふれ、胸乳の辺りに吸い込まれるのを見つめるだけであった。平蔵はこの安らかな時の流れが、現実と夢の間で揺れ動いている幻を見ているように想われた。すっかりやつれた痛々しいほどの染の頬に手をやり、「なぜ泣く染どの、わしはお陰でこうして戻ってきたではないか」平蔵は染のこぼす涙を指先で拭いながら語りかけた。(真綿の上にいるような力の抜けた安堵感・・・・・・しあわせとはどのようなことであろうか?何を持って人は幸せと想うのであろう・・・・・今のこのひと時は、わしは探しておったものなのであろうか、言葉もなく何もない、ただここにおる、この穏やかさや安らぎは何と言えばよいのであろう、わしは今まで生まれてきた意味と生きてゆく理由を想うたこともなかったが、今初めてそれを知ったように思う)染の腕に支えられて、障子越しに差し込んでくる真冬日の明るさをまばゆい思いで平蔵は眺めていた。階下から「佐嶋様がお見えになられました」と菊弥の声がして、階段を静かに上がる音が聞こえて「よろしゅうございますか?」と声がかかった。「長谷川様の意識が先ほどお戻りになられました」と中から声がしたので、佐嶋は急いで襖を開けた。そこには染千代に支えられて半身を起こし綿入れを背にかけた平蔵の顔があった。「お頭!!」佐嶋忠介はそれ以上言葉が続かなかった。「佐嶋 心配をかけたのう、誠にすまぬ、だがもう安心いたせ、まだまだわしのお勤めは終わらぬとみえて再びこの世の地獄に舞い戻ってきたぜ」平蔵はやつれた顔に笑顔を浮かべ、大きく息を吐いた。「ところで染どの、わしの連れて参った子供だがいかが致しておる?」と尋ねた。「あのお子なら菊弥姐さんが面倒みてくれてまして、長谷川様のお陰で大病に至らず元気を取り戻してございます」と答えた。「佐嶋、すまぬがその子を此処に呼んではくれぬか」平蔵は気がかりであった子供の話を聞きたがった。やがて佐嶋に伴われて前髪姿の若者が平蔵の前に両手をついて居住まいを正し「お陰様を持ちまして一命を取り留めました」と挨拶をした。「おお よかった!ところでな、そなたの事を話してはくれぬか、何故あのような場所におったのかどうも気がかりでなぁ」と身の上話のもとどりを差し向けた。「誠に失礼を致しました、私は元豊前小倉新田藩家臣黒田宗近が嫡男麟太郎と申し、十二歳になります」と、ハキハキと応え、平蔵や佐嶋を驚かせた。「で、何故そこ元一人の旅を致した?」と平蔵は確信を突いた。「藩の併合により禄を離れました。そのために父上母上共々江戸の町奉行にお勤めなされておられる縁者を頼りに江戸に参る途中、長旅と日頃の疲れから父上が流行病で身まかり、備前(岡山)を出たところで看病疲れから母上を失いました」「何と!」平蔵も佐嶋も言葉を失ってしまった。染千代は年端もゆかない子の身の上に起きたこの痛々しい出来事にまぶたを押さえるしかなかった。「で、そこ元一人旅を続けてきたと言うわけだな?」「はい ですが上方に着いたところで路銀も使い果たし、江戸行きの弁才船に潜り込みましたが見つかってしまい、親方が小間使いに使かって下さってやっと江戸に入り、南町奉行所に近い稲荷橋に降ろしてくださいました。持ち合わせもなく、お供えを盗んで腹を満たしました所・・・・・」「おお それで腹を壊したか」「はい 罰が当たったのでございます」と頭を掻いた。「ところで長谷川様は火付盗賊のお頭様とお聞き致しましたが、まことでございますか?」「真も真!盗人には鬼より怖いお頭様だぞ、お前もお供えを盗むとは誠に恐れ多い仕業じゃ」と、笑いながらそばから佐嶋が口を挟む。少年は首を縮めて平蔵の顔を見やる「安ずるな、此奴の冗談だよ」と目で佐嶋忠介を見やる。「捕わるかと驚きました」少年は首をすくめて「ところで、その夜何人かの足音がしましたので私は奥に潜みました。すると(今度は十六日、押し込み先は日本橋灘屋)と言う話し声が聞こえてきました」「何っ!!」平蔵と佐嶋が思わず同時に声を発した。「おい 佐嶋本日は何日だ!」「はい 十二日でございます、まさかお頭!」「そのまさかだぜ佐嶋」平蔵が興奮してきたのを見て染千代が「長谷川様どうかお気をお沈めくださいませ」となだめ、平蔵を寝床に寝かせた。「済まぬ済まぬ、どうもこう話を聞くと血が騒いでならぬ、因果な性質よのう」と苦笑いの平蔵「ところでわしがそこ元と出会ぅたのが六日前、のう佐嶋!その日にどこぞのお店が盗賊に襲われたか至急探索致せ、もし被害が出ておるならばこの話間違いのない所、早速日本橋の灘屋を探してまいれ」と指図を与えた。「ところで麟太郎とか申したのう、凡そのことは判ったが、その縁者と申す南町奉行所与力の話をもそっと詳しく聞かせてはくれぬか?」この利発な少年の輝きに満ちた眼を平蔵は見上げた。「はい 父上の叔父上様が江戸南町奉行にお勤めと聞き及んでおりましたので、僅かなつながりを頼りに出る決心を致しました」「あい判った、ところでその縁者のお方のお名は何と申す」「はい 黒田左内様と伺ぅております」「何となっ!!」平蔵の驚きと染の驚き様に麟太郎のほうがさらに驚いて飛び上がった。平蔵と染は互いに目を見張り、あまりの偶然に言葉が見つからない。「なるほど、偶然などこの世にはない、何れも必然である物があたかも偶然のようにその必要な時に合わせて現れるものと聴いてはおったが・・・・・・まさに・・」平蔵は噛みしめるように身の回りの出来事を改めて振り返る面持ちであった。きょとんとしている麟太郎に平蔵「のう麟太郎、そこ元が探し求めておる南町与力の黒田左内、その娘ごがこの染どのじゃ」と染を見やった。「ええっ!・・・・・・・まことで・・・・・誠に叔母上?」麟太郎の目元が見る見る潤み、涙が溢れこぼれてきた。その日の夕刻平蔵の元へ佐嶋忠介が報告に来た。「お頭、間違いございません、南町奉行所への届けによると六日夜半南八丁堀の太物問屋岡崎屋が襲われ、主夫婦と番頭に丁稚、女中など合わせて九名を惨殺し、金子五百両あまりが盗まれたとの報告がございました、それと日本橋本石町三町目に両替商灘屋がございました」「やはりまことであったか!よし早速日本橋の灘屋に話を持ち込め、あまり時がないゆえ急がねばならぬ、佐嶋お前が指図を致し、盗人共をひっ捕らえよ、頼むぞ」平蔵はこの身の動けない思いを佐嶋忠介に託した。翌日平蔵は佐嶋忠介が役宅より差し向けた乗物に身を納め、ゆるりと本所菊川町の役宅に戻った。染の手によって、伸び放題の月代や髭も当たり髷も結い直し、さっぱりとしたいで立ちであった。見送る板前の秀次に「秀次世話をかけたなぁ、早うお前ぇの仕込みが食えるようになるぜ、女将まこと世話をかけもうした、かたじけない」と菊弥に頭を下げ、その後ろに控えている染に無言で頭を下げ、「麟太郎が事よろしくお願い申す」と言って乗物の戸が閉められた。上之橋に向かって進む乗物をじっと見つめる染の両眼はいつ果てるとも無い涙があふれていた。こうして麟太郎は黒田家に養子として迎えられることとなり、その後見人に長谷川平蔵が名乗りを上げた。早速南町奉行池田筑後守に黒田家与力見習い復権の届けが出され、筑後守からのこの度の盗賊捕縛の手柄の添え書きもあり黒田家の与力相続の復権許可が大目付より下されたことは言うまでもあるまい。菊川町の役宅ではいつ到着するかと、門内に与力・同心が集まり、平蔵の乗物が見えるのを今か今かと待ちわびていた。乗物が北ノ橋西曲がり、伊豫橋を越えて役宅に向かったのを認めたのは偵察に出ていた木村忠吾「お頭がお帰りになられましたぁ!!」大声で叫びながら役宅に駆け込んできた。「取り乱すでない!」が、その佐嶋忠介の声は言葉とは裏腹に上ずって聞こえる。妻女の久栄は平蔵の常座する部屋に衣前をただし控えている。玄関のほうで騒がしい物音がして、平蔵の無事の帰宅を案じていた与力や同心が次々と平蔵の無事の帰還を祝っている、しかしそこには密偵たちの姿は見ることが出来なかった。これは(我らは密偵、決して日の当たる場所に出てはならない)と言う強い思いを持った大滝の五郎蔵の配慮であった。佐嶋忠介と筆頭同心酒井祐介に両脇を抱えられて平蔵が久栄の待つ座敷に入ってきた。「殿様、ご苦労様でござりました」と低頭したその久栄の両手の上に涙があふれているのを平蔵は痛々しい思いで見た。「久栄!此度はまこと心配をかけた、すまぬ許せよ」と声をかけた。久栄はただじっと頭を下げたまま微動だにしない。それはこの数日間をじっと絶え凌ぐしか出来なかった思いの重さゆえであることを平蔵は判っていた。だからこそこの平蔵を支えきれるのであろう。明けて三日後夜半、日本橋本石町両替商灘屋に兇賊の押しこみが入った。戸口が金物でこじ開けられ、バラバラと賊が入ってきたのを見届けて、あちこちから火打ち石の音とともにガンドウが明々とともされ、照らしだされた盗賊団は驚きたじろいた。「火付盗賊改方である、神妙にいたせ!」佐嶋忠介の声を合図に潜んでいた与力や同心が賊に飛びかかった。「クソぉ かまうこたぁねぇ殺っちめぇ!」怒号と悲鳴が響き渡り、ガタガタと戸を蹴破って表に逃げ延びようとする賊を陰に潜んでいた捕り方が、目潰しや袖搦で取り囲み、一人も残すことなく捕縛した。その攻防は小半刻を要さなかった。この江戸市中を恐怖のどん底に陥れた凶賊垈塚の九衛門(ぬたずかのきゅうえもん)一味は明らかな罪状のためにそのまま大番屋に捕り方が周りを固めて護送され、翌日には取り調べることなく南町奉行所へと連行された。報告を床の中で聞いた平蔵「皆ようやってくれた、これでわしは筑後守様との約定が無事果たせた、礼を言う、これこのとおりだ」とねぎらいの言葉をかけた。「お頭!・・・・・・」その場に居合わせた者は皆目に涙を浮かべている。思い返せばこの僅か数日間ではあったにせよ、平蔵の姿のないことがどれほど心をいためたか、皆の思いは同じであった。それから七日の日が瞬く間に流れた。本所二ツ目・・・・・言わずと知れた軍鶏鍋や五鉄の二階今日ばかりは亭主の三次郎も上機嫌で、おときもいそいそと二階座敷に料理を運び込む。「お前ぇ達にも此度はいらぬ苦労をかけた、心配をかけまこと済まぬ、だがお陰でこうして又お前ぇ達と軍鶏鍋が食える、こいつぁ何よりだよなぁ五郎蔵、おまさ、粂お前ぇや伊三次にも厄介をかけたことと想うぜ、佐嶋より聞いておるぜ、お前達が日本橋の灘屋を張りこんでくれておったことをなぁ、彦!お前ぇの体だ夜は辛かったろうなぁありがとうよ」「長谷川様・・・・・・」「おいおい湿っぽくなっちまったではないか、さぁ俺の快気祝いだぜぇしっかり食って飲んで祝ぅてくれ!わしも飲むぞ!わはははははは」平蔵の高笑いが久しぶりに五鉄の二階に響き渡った。障子を開けた平蔵「雪か・・・・・道理で冷える」平蔵の思いはこの数日を過ごした今川町の桔梗屋を懐かしんでいるようであった。後に平蔵が佐嶋忠介に言った言葉だが「人はそれぞれに居場所というものがある、身の置き所と心の居所、構えずとも良い居場所も必要だと此度わしは思ぅた。それはわしの我が儘なのかも知れぬ、だが、今のわしはそれを捨てることは出来ぬ。人にはそれぞれ分がある、わきまえる必要はあろう、越えられぬ立場というか、そのようなもので互いを支えおぅて居るように想うのだがなぁ・・・・・・こいつだけはさすがのわしにも裁ききれぬよ」平蔵の脳裏には、背に温もりを覚えた安らかな時の流れが夢の出来事のように深く静かに沈んでいった。 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