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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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その日平蔵は本所菊川町の役宅から昼前に出かけた。
「ちょいと所用を思い出した」
と妻女の久栄に用意をさせて、供もなくゆらと出かけた。
西に足を取り伊予橋を渡ったところで、
長桂寺前を歩いてくる二人連れの一人が駆け出してきたのが目についた。
「長谷川様ぁ」
息せき切ってやってきたのは黒田麟太郎
「おお!麟太郎ではないか!」
平蔵はこの若者黒田麟太郎とはひょんなことから知り合った。
当時江戸市中を震え上がらせていた残虐非道の盗賊
垈塚の九衛門(ぬたずかのきゅうえもん)一味の押し込み先を
漏れ聞いたことが元で黒田左内の養子となり、黒田家を引き継いだ若者である。
平蔵がこの若者と本八丁堀の稲荷社で出くわせ、
それが元で平蔵は窮地に陥るが黒田左内の娘、
染の献身的看護で一命を取り留めたという事件があった。
「長谷川様、本日は遅いお出かけで・・・・」
と笑顔が冬の風のなかではつらつと輝く。
「うむ ちょいと用を思い出してな、ところで今日は御役目かな?」
と、足早によってくる同心姿の男を認めた。
「はい 南町奉行所本所深川周り同心小村芳太郎さまと
見習いのお供でございます」
「おおそいつはご苦労だなぁ、お父上はお変りないか?」
「はい、父上は少し風邪気味なれどお元気でございます、
それと姉上もお忙しくなさっておいででございます」と告げた。
「おお染どのもお変わりはないか!」平蔵はこの一言で安堵した。
そこへ小村芳太郎がやってきて「長谷川様、
ご苦労様でございます」とねぎらいの言葉をかけてきた。
「うむ 筑前守様はあれからどうなされた?」
と盗賊垈塚の九衛門の事後を尋ねた。
「はい 評定所にて首領の九衛門と3名が獄門、
残りの6名は遠島と定まり、それぞれ処されました」
「おお では筑前守様も肩の荷が下りたことでござろう、
いやめでたいことじゃ」と平蔵五間堀の川面のゆらめきに目をやった。
「おおそうじゃ、わしは今から弥勒寺によるが、如何かな?団子でも共に・・・・・」
と小村芳太郎を見た。
「ああ 左様で御座いますなぁ、ちょうど昼時、のう麟太郎」と供の麟太郎を見た。
「あっ はい!まことに・・・・・」と麟太郎は二人の顔を見上げた。
「よし!そうと決まれば善は急げだ、あはははは」
平蔵は先に立って弥勒寺に足先を向けた。
弥勒寺門前の茶店笹屋の奥につかつかと入リながら平
「蔵「お熊はおるか!」と声をかけた。
奥の方からシワ枯れた声が威勢よく飛び出してきた。
「誰でぃ気やすくおらの名を呼び捨てにするなぁ、
そこらのゴロツキでもおらにはちったぁ気ぃ使ってさんずけで呼ぶのによぉ」
とぶつぶつ言いながら、にしめたような色の前掛けで手を拭きながら出てきたが、
平蔵を一目見るなり飛び上がらんばかりに細い眼をシワクチャにして叫んだ
「銕っつあんじゃぁねぇけ!
嬉しいねぇこのおクマのことを忘れてなんかいねぇんだねぇ」
と首っ玉にかじりつきそうに擦り寄ってくる。
「おい おクマお客さんだぜ」平蔵はヘキヘキした顔でおクマをいさめる。
「あれぇお客さんかえ、おらには見えなんだもンでよぉ」としゃぁしゃぁとしている。
「で 銕っつあんこの若ぇのは又誰だい?中々の男前で、
うひひひおらの好みじゃァねぇか」
熊の目線を浴びて麟太郎は少々引いている。
「おいおい 麟太郎、このお熊はな、
口は悪いが中身は見かけほどのものではない、
安心いたせ」と、笑いながら緊張しきっている麟太郎の顔を愉快そうに眺めた。
「そうだよぉ 何も取って食おうってんじゃぁねぇよう、
銕っつあんの知り合ぇならそりゃぁもう・・・・・へへへへ」
と歯抜けのシャワクチャな顔を更にシワクチャにして麟太郎を見た。
「おい おクマ、そんなことはどうでも良い、
早く団子を持ってきてくれ」と平蔵が助け舟を出す。
「このおクマはな、わしがまだ入江町で無頼の暮らしを
していた頃からの知り合いよ、時にゃぁこの奥に居候したこともある、
まぁそんなことから今もちょくちょくネタを仕込んでくれるし、
この妖怪のような婆婆も色々と都合が良いのじゃ。
おまけにこの笹屋の団子、こいつが又中々イケる、まずは食ってみろ」
平蔵は皿を麟太郎に渡しながら
「小村殿も如何かな?あやつの顔ほど毒気はござらんあははははは」
と笑いながら皿を薦めた。
「ははっ! 頂戴つかまつります」小村芳太郎はおクマの
毒気にあたって少々顔が引きつって見える。
「美味しい!」
まず麟太郎が大声で叫んだ、小村も続いて
「まさに!」と口を揃えた。
奥から茶を出しながら
「当たり前ぇでぇこのお熊の笹だんごは将軍様でも旨ぇとおっしゃるはずでぃ」
と喩えは大きい。
「おいおいおクマ!将軍様はここだけの話にしとくんだぜぇ」
と平蔵がニヤニヤ笑いながら茶をすする。
「しかし長谷川様、驚きました、このようなところであのような・・・・」と
、眼をまんまるに見開く麟太郎。
「うむ お前ぇにゃぁまだ会わせてはおらぬが、
本所二ツ目橋の五鉄ってぇ軍鶏鍋屋の所におる
相模の彦十ってっぇのがおってのう、
こいつとこのおクマが揃った日にゃぁお前ぇ軍鶏の喧嘩みたいなんだぜぇ」
平蔵は思い出し笑いをこらえながら小声で麟太郎に耳打ちした。
すると奥からお熊が
「銕っつあん何か言ったけぇ、軍鶏がどうとか聞こえたけんじょよぉ」
と言いながら小芋の煮っころがしを皿に乗せて持ってきた。
「おクマ、お前ぇ耳だけは達者だのう!」
平蔵がわざと大声で言うと「だけはよけいだけんじょよ、
おいら近頃とんと耳が遠くなっちまってよぉ、
いけねぇいけねぇいよいよ聞こえねぇよぉ銕っつあんどうしようよ、ねぇ」
「はぁ口の減らない婆ぁさんだ、地獄耳とはよく言うがな、
都合の良い時だけ聞こえるってぇのは便利なものよのう麟太郎」
とふられて麟太郎、小芋の煮付けを口に運んだままこっくりうなずく。
「わぁっはっはぁ!お前ぇは正直者だなぁ」
平蔵は腹の底から笑い転げた。
ゆっくりと団子と小芋の煮付けで腹ごしらえして立ち上がる平蔵に
「銕っつあん又寄っとくれよぉ、おらいつでも待ってっからよぉ、うへへへへへ」
と流し目をくれた。
「ったくお前ぇの毒はいつになったら消えるものやら、おおくわばらくわばら」
と平蔵切って返し麟太郎に目配せして
「ところでおクマ酒粕はねぇかい?」
「アレぇ銕っつあん又何をしようってぇんだい?
粕ならすぐそこにあるけんじょ、おらがもらってきてやるよぉ、
ちょいと待ってな」
と気安く出かけ平蔵たちが茶を飲んでいる間に戻ってきた。
「おうすまねぇ手間をかけたなお熊、こいつで足りるかえ?」
と二朱をおクマに握らせて店を出た。
「銕っつあんいつも済まないねぇ」
平蔵の渡した二朱を懐に入れながら歯の抜けた顔でニタニタと笑いながら
「お前さんもいつだって寄って行きな!銕っつあんの口利きだぁ、
この界隈のことぁこのお熊に任せておきなってことよ」
と麟太郎の袖を掴んだ。
「あっ !はい!よろしくお願いいたします」
と麟太郎、どう返事をして良いものやらしどろもどろで応えた。
おクマ婆ぁは
「かわいいねぇまっこと可愛いいじァないかねぇ」
と舐めるように麟太郎を見やったもんだ。
この老婆の毒気に当たったようによろめきながら
麟太郎は小村芳太郎の後に続いた。
「小村様、驚きましたねぇあのお熊という老婆には・・・・・」
「うん だがなぁ麟太郎、あのような連中の中で今の長谷川様は
御役目を全うなさっておられるのだよ、
我らにはどうにも届かぬ眼の奥でつながりを持たれ、
それらを目鼻のように操られて市中を守っておられるのだ、
俺なんかとてもとても長谷川様の足元にも及び付かないそのように想う」
と小村芳太郎は平蔵の去っていった方角を見つめていた。
平蔵はといえば、おクマの持ってきた酒粕をぶらぶらさせながら、
弥勒寺橋に戻り、これを渡ってまっすぐに南下、
南森下町を通り太田備中守下屋敷を左に見ながら高橋を越えた。
左手には寛永元年霊巌上人の開山で日本橋に創建されたものだが
、明暦の大火で消失し、万治元年にこの深川に移転した霊巌寺があり、
境内には江戸六地蔵の五番目が安置されているということで、
訪れる人も絶えない状況である。
番屋を過ぎたところから正覚寺橋を越え、
道なりに万年町、平野町に相対して居並ぶ寺の家並みの白壁をゆるりと南に下った。
海福寺門前で棒手振りが冷水で洗いたての練馬大根を売っていた。
「うむ こいつぁ美味そうじゃぁ一括りくれぬか」
平蔵何やら胸に想うたものがあるらしく口元が緩んでいる。
そのまま道なりに進むと冨岡橋が見えてきた。
油堀に架かる奥川橋を越えて蛤丁の門を曲がれば
万徳院円速寺の大屋根が覗く北川町に出る。
この中程に平蔵が目指す黒田左内の居宅がある。
油堀を挟んで真田信濃守の広大な中屋敷の白壁が
美しくその姿を油堀に写し、
春ともなれば庭の桜が見事にその風情を見て取ることが出来る。
木戸をくぐり
「居られるかな?」と奥に声をかける。
その声を聞きつけて中から
「長谷川様でございますか」と華やいだ声が出迎えた。
「おう 染どのもご在宅か、先ほど弥勒寺そばで麟太郎と出会いもうした、
聞けば親父どのが少々風邪気味と伺いまかりこしたが、如何でござろう?」
と応えた。
「よくまぁお運びで、父上もさぞやお喜びになられる事でございましょう」
と染がにこやかに出迎えた。
平蔵は奥の部屋に向かって
「親父どのご無沙汰いたし申し訳ござらぬ」と声をかけた。
大判縞の丹前に包まれて左内が襖の向こうから首をのぞかせ
「いやお恥ずかしき限り、これこの通りまるで痩せ達磨じゃぁあはははは」
と、久しぶりに見る平蔵を喜びいっぱいの顔で迎えた。
「染どの、こいつで親父殿の風邪を吹き飛ばそうと提げて参った」
平蔵は染に大根と酒粕を手渡した。
「まぁ真っ白に、ほんにきれいな清白(すずしろ)と・・・・・・」言いかけたものへ
「いやぁ 染どのには叶いませぬわいのう親父どの」
と、平蔵褒めたつもり・・だが・・・
「まぁ長谷川様、私はこれほど太ぅはござりませぬ!」
とむくれた染の言葉に平蔵と左内、顔を見合わせ??????
一瞬の間を置いて左内が
「わぁはははははっ!これはしたり平蔵殿!
染はおそらく己の脚と踏んだようにござりますぞ」
と可笑しくてたまらぬように腹を抱えて笑う。
「なななっ 何と・・・・・・」
平蔵も左内の言葉にやっと気づいたようで
「やっ これはしたり、わしはそのような意味で申したのではござらぬよ、
のぅ親父どの」と左内に救いを促すが、・・・・・
「まぁ ではどのようなおつもりで申されたのか
お聞かせ願わしゅうございます」
と唇を真一文字に結んで染は平蔵と左内を見据えた。
「これ染!平蔵殿はそなたの脚を例えたのではない、のぅ平蔵殿」
と苦笑いをしつつ平蔵を見た。
「全く全く、わしにはそのような腹蔵はござらぬ、
染どのの色が白いを褒めたつもりでござるに、いやはや・・・・・
これは困った、染どのに臍を曲げられてはこれは叶わぬ、
許されよのぅ染どの、これこの通りじゃぁ」平蔵半分べそを?きながら染をみる。
「おほほほほほ、はじめから承知致してございます、
でもちょっと長谷川様の困ったお顔が見とぅて、うふふふふふ」
と染がイタズラっぽい眼で平蔵の顔を盗み見るように見返した。
染の笑顔に白い歯が浮かんで、
このすきまほどの時間の楽しさを味わっているようであった。
「やれやれ わしは冷や汗をかいてしもぅた」
平蔵鬢を掻きながら染を見る、そのやりとりに
「久しぶりに笑ぅて風邪がどこかに飛んでゆきそうじゃ」
と左内も火鉢を平蔵に勧めながら炭を足した。
「親父どの、麟太郎は見習いのお勤めをちゃんとこなしておるようで、
身共も安心いたしましたぞ、
先ほど弥勒寺傍で同心の小村芳太郎殿と連れ立っておる所に出くわしたおり、
中々しっかりとした出で立ちに安堵いたした。
暫くは大変ではござろうが、何卒よしなにお願い申す」と軽く頭を下げた。
「いやいや長谷川殿、ご貴殿のなかだちにて麟太郎を
この黒田家の後継ぎとすることもご老中よりお許しが出て、
身共はこの上なき幸せ者と想うてござります、
ご覧のとおり今では染は嫁ぐ気なぞ全くなく、
このままでは黒田家は我が身代でおしまいかと想うておりましただけに、
この度の麟太郎の養子縁組に長谷川殿が後見人を買うて出て下さり、
お奉行様もならば良かろうと私の持ち場であった
深川見回りの小村芳太郎殿に見習いとして従けてくださりました
、まことにかたじけのうござります」と深々と頭を下げた。
「あっ! こりゃぁいかん、染どの忘れるところであった、先ほどの大根じゃが・・・・」
と左内の気持ちを軽くしようと返事をはぐらかせて
「こんにゃくはござるかの?それとニンジンに油揚げなぞあらば申し分なし」
「それならば今朝ほど棒手振り商いから求めたばかりでございますが、
いったい何が出来るのでございます?」と興味はすでにそっちのほうに移っている。
「うむ こっくり汁と申してな、まぁ出来てみればなるほどとうなうく味」
「まぁそれでこっくり汁?」
と染は平蔵の傍に寄り添って平蔵の講釈を聞きながら支度に掛かった。
「先ずは大根と人参、それにコンニャクを拍子切りに揃え油揚げも刻んでおき、
昆布で出し汁を取って酒を入れ、大根ニンジン油揚げを入れてしばらく煮込む。
煮立ったならばそこにコンニャクを滑りこませ、龍野の薄口醤油、
下総の行徳塩、隠し味に岡崎の八丁味噌・・・・・・・
ここいら辺りでちょいと味見を、ここが先ずは第一の関門・・・・・ふむふむ・・・・・
も少し味噌を加えて、どれどれ」
「まぁっ 長谷川様お一人で味見とはずるぅございますよ、染にも一口・・・・・
平蔵と鍋の間に割って入って・・・
まぁこれはまた美味しゅうございますねぇ、やわらかな味が味噌の薫りに包まれて」
と平蔵の顔を見上げる。
染のひとときの満ち足りた顔を眺めながら
「身共だけが蚊帳の外でござるなぁ」とすねてみせる左内であった。
「まぁ親父どのには仕上げの味元を残しておりますぞ、
のう染どの、あっはあっは、では酒粕をゆっくり溶かしながら入れてくだされ、
最後の一振りに胡椒を少々、これが最も肝要でござるよ」
平蔵はふうふう言いながら小皿に取った粕汁をすすってみせる。
「あっ!ずる~い!お一人だけとは許せませぬ」と染はその小皿を取り上げ・・・・・・・
「ほんに これならば父上のお風邪もどこかに飛んでゆきますわ」とご満悦である。
「青ネギをたっぷり、こいつが更に旨味を引き出し申す」と平蔵が講釈を締めくくる。
「まこと 長谷川様はなんでもよくご存知でございますねぇ、
さぞや小料理屋への出入りも・・・・・」
と意味深な染の目つきに平蔵大慌てで
「いやっ これは身共の配下にて料理にかけては中々の者から
聞いたものでござるよ染どの」
と脛に傷持つ平蔵としてはここで墓穴を掘ってははならじと応戦する。
「まぁ何処へお出かけになられましょうともよろしゅうございますがねぇ父上」
と今度は左内に下駄を預ける。
「やれやれ、いやまるで猫のじゃれ合いを見ておるようで、
あははははは、まことに温もりとは、かようなものを申すのでござろうか」
左内は運ばれた粕汁にたっぷり懸けられた青ネギの薫りに目をつむり、
ゆっくりと大きな吐息をもらした。
「のう平蔵殿、人は何を持って幸せと想うものでござろう・・・・・・
身共はこのひとときを愛しいとおもいまする、
生きておらばこそとこの生命永らえられるならその時までを
このままであってくれたらと想いまする」
真冬日の寒さの中に左内は、温もりに包まれて少し障子を開けた庭に咲く
寒椿の紅色に重ねていた。
ゆっくりとした時を過ごした後、平蔵は左内の家を辞し
永代橋を渡り、船番屋を通り過ぎ、豊海橋を渡って南新堀から二ノ橋に向かった。
白銀町を北に上がって長崎町を左に折れ
圓覚寺橋木稲荷の前を通って東湊町を左折南下して高橋を越えた。
南側には鉄砲洲浪よけ稲荷がこんもりとした丘の上に見える。
過日平蔵が麟太郎と出会った件の稲荷社である。
南八丁堀を西に真福寺橋たもとを左に折れて新庄美作守下屋敷を
木挽町の紀伊國橋を渡って左に三十間堀四丁目を右折して
数寄屋橋御門をくぐって南町奉行所へと出た。
ちょうど池田筑前守は執務中で、少し待たされた後
「遅くなり申し訳なし」と平蔵の待つ控えにやってきた。
「筑前守様ご多忙の中突然まかり越しましたる儀何卒お許し願わしゅう存じます」
と頭を下げた。
「いやいや長谷川殿こちらこそ、此度の事件お見事なる解決にて、
わしも肩の荷を下ろし申した、礼を言いますぞ」と労ってくれ、
「先の南町奉行所深川見回り与力黒田左内の養子の件、
長谷川殿の後見ということもあり、老中も即刻黒田家の与力復権をお認めくだされた。
わしにとっても左内はかけがえのなき者にて
お役御免を申し出て参った折にはいささか困惑いたした。
何としても惜しい者であったからのう」
とこの度の事を心より喜んでいる様子に平蔵ほっと胸なでおろす心地であった。
「で、何か外に気がかりなことでもござるかな?」とにこやかに平蔵の顔を見た。
「あっ いえこの度は筑前守様のお骨折りにより肥前より出て参った
黒田麟太郎の養子縁組をご快諾頂き、
おかげ様にてあの少年の行く末が黒田左内殿に取りましても
良き結果に結びつき、その件につきご尽力賜りました筑前守様に
御礼を申し上げねばと長谷川平蔵本日はまかりこしましたる次第、
まことにかたじけのうござりました、
つきましては麟太郎に元服いたさせたき存念にて、
願わくば筑前守様にそのお許しを頂きたくこうして改めてお願いに」
平蔵は深々と低頭したが、
「何を申される長谷川殿、身共もそこもとの父上には京で真世話に相成り申した、
相身互いじゃ、お気にめさるな、あはははは」
と平蔵の気持ちを和らげようと明るく笑い声を上げた。
こうして平蔵はこの度の麟太郎元服の許しを得、
我が身の中で一つの区切りがついた思いで安堵した。
菊川町役宅に戻る途中を、平蔵は再び黒田左内の長屋に訪れた。
「染どのは・・・・・」
平蔵が染の顔を目で追うのを左内は見て取り
「先程桔梗屋に参りました」と残念そうに伝えた。
その時表から
「父上只今戻りました」と麟太郎がお勤めから戻ってきた様子
「おお ご苦労であった!」その声を聞いた麟太郎ガ
「長谷川様本日はまことに思いもかけない人にご紹介にあずかりました、
麟太郎少々驚きましたが、気持ちのよいお婆婆さまでございました」
と礼を述べるのを受けて平蔵
「まさに妖怪であったろう?どうじゃな?」と少しいたずらっぽい目で麟太郎を見た。
「ああっ いえそれほどのことではござりませんでした、
初めはちょっと驚きましたが口の悪い割には優しい方と思いました」
「ふ~ん あいつにぁ食われるでないぞ、あぁ見えても山姥の如き婆婆じゃからなぁ
わははははは」と麟太郎の顔をまじまじと見つめた。
「さっ 左様でございますか?」
平蔵の脅しにちょっと腰を引きかけた麟太郎を見て左内が
「その婆婆様は如何なお人であった?」
と興味津々の言葉に
「いやぁ昔身共が世話になり申した弥勒寺界隈では
知らぬものも居らぬ名物婆婆でござって、
ちょうど昼前にその弥勒寺近くでこの麟太郎と
同心の小村芳太郎殿に出会ぅたので、ちょっと紹介をいたしたまで、のぅ麟太郎。
ところで親父どの、先ほど南町奉行所に出かけ、
筑前守様より麟太郎元服のお許しを頂いて参った」
平蔵嬉しそうに事の次第を左内に話した。
「まことでございますか!」
左内も麟太郎も飛び上がらんばかりに喜んだ。
「うむ そこでじゃが、初冠(ういこうぶり)を致さねばならぬ、
総角(みずら)を改めて冠下の髷(かんむりしたのもとどり)を結い、
烏帽子親によって前髪を剃り月代にし、
それまでの幼名を廃して元服名の諱(いみな)を新たにつけねばならぬが、
親父どの、さてさていかが致しましょうや」
平蔵もこのワクワク感は嫡男辰蔵で、体験は久しぶりである。
「これはもう烏帽子親は長谷川様以外ございますまい、のう麟太郎」と左内。
「はい 私も左様に思います、何卒この麟太郎の烏帽子親にお願い致します」
と手放しである。
「あい判った、では身共の蔵を取り、
親父殿からも一字頂戴いたして黒田蔵人宣内は如何でござろう?」と述べた。
「黒田蔵人宣内でござりますか!
これに最早意義の申す者なぞおりましょうや!のう麟太郎!」
左内と麟太郎は小躍りして歓びを表した。
後、この黒田麟太郎改め御家人黒田蔵人宣内は長谷川平蔵の嫡男辰蔵、
(後の先手弓頭宣義)の懐刀として活躍する事になる。