時代小説鬼平犯科帳 2016/05/27 6月号 鷺山の嘉兵衛 小房の粂八菊川町役宅を出て東に菊川橋手前を南に大横川を下がると新高橋に出る、向こう角には船番所を控えたあたりで、扇橋を渡って対岸には渡辺大工町代替え地が見渡せる石島町の一角、木場へ通じる亥之堀に密偵小房の粂八が営む船宿鶴やがある。この船宿鶴や、伊予大洲の藩士で森為之介が名を隠し商っていた物で、森為之介(利右衛門)から平蔵が預かっているもので、利右衛門夫婦が江戸に戻ってきてからは粂八に主人を務めさせ、利右衛門は調理場をしきっている。「粂さんじゃぁねぇかい?」粂八は買い出しを終えて船宿鶴やに戻ろうと本所深川扇橋を渡りかけた時不意に後ろから声をかけられた。振り返ると棒手振り身なりの男が辺りに気を配りながら粂八に近寄ってきた。「誰だいあんたぁ」粂八は怪訝そうに相手の男を見返した。「粂八さんじゃァないのかい?小房の・・・・・」「何だと!」粂八は少し構えなおして再び男の足元から頭の先まで見回した。「もう二十年になるかねぇ鷺山の嘉兵衛お頭の下で何度か一緒につとめをやったしぐれの時次郎だよ」「あっ・・・・・」「思い出したようだなぁ、まぁ俺もこんな形をしているから見当もつけにくかったとは想うがよ、粂八さんは変わっちゃぁいねぇなぁ」「そうか、そうだ!確かに覚えがある、だがアンときゃぁ・・・・・」「そうさ、まだ二十歳前の小僧っ子でよ、お頭にゃぁずい分しごかれたもんだぁねぇ」「で お前さんはまだ鷺山の嘉兵衛お頭のところでつとめていなさるんで?」と粂八は探りを入れた。「お頭も、もう年でねぇ、最後のおつとめは江戸でして見てぇって俺達もこうして当たりをつけたところを中心に回っているってぇ寸法さ」と、気さくに話した。「おつとめ先はもう決まったのけぇ?」粂八の再度の探りに、いささか警戒したのか「それより粂八さんこそ今はどうなんだい?」と逆に探りが入った。「俺かい?俺ぁ泥ん中に潜っちまったまんま鈍亀みてぇな毎日でね、こうして店の仕入れをして帰ぇっているところで、店ぁすぐこの先だ」「へぇ気質になったんだぁ」と、少し気を許したふうであった。「うむ まぁなぁそんなところよ、ま 何かあったら使ってくれとお頭に言っといてくれよ」と糸をつけることを忘れなかった。「ああ分かったよ、お頭にもそう言っとくぜ」時次郎はそう言いながら粂八と並んで歩き始めた。やがて石島町の船宿鶴やに着いた。「へぇ此処なんだぁ・・・・・いい所じゃァねぇか粂八さん」時次郎は辺りを物色するように目を配って確認している。「じゃぁな、又寄るぜ粂八さん」そう言って時次郎は小名木川を南へと下っていった。このことを平蔵に報告したのはその日のうちであった。「何!鷺山の嘉兵衛!?」平蔵聞きなれない名前に確かめた。「へい 長谷川様はご存知じゃァねぇかも知れやせんが、東山道で、犯さず殺さず、貧しき者からは奪わずという掟をきっちり守った本格派の盗賊でございやす」「へへぇ 盗賊にも本格派と言うのがあるとはのう粂!」平蔵の鋭い言葉に粂八「あっ これは!申し訳ございやせん」と身をすくめた。「まぁ良いってことよ、それより其奴がどうかしたのか?」平蔵はそのほうが気がかりという顔で粂八を見た。鷺山のお頭は今じゃぁ七十前になっていると思いやすが、腹の座ったお人で、息のかかった手下は二代で務めている者も居るはずでござんす」「ふむ よほど手下を大事にしておるのであろうな」「へぇ 面倒見がよいと申しやすか、大世帯ではございやせんが、お頭の目の動き一つで手前ぇのやることが解ると申しやすか、持ち分を心得ておりやした」「うむ 其奴がこの江戸に入ぇってくると言うんだな」「へぇ 時次郎の口ぶりではそのように・・・・・ですが長谷川様」「んっ?どうした?」「へぇ ちょいと気になるところもございやして」「ほぉ どこがだえ?」平蔵はこの小房の粂八の想うところが少々引っかかった。「へぃ 時次郎の口の端にゃぁ、お盗めはまだ定まっちゃぁいねぇようで、そこんところが掴めねぇもんでございやすんで、こっちから仕掛けるわけにもいかず、野郎の出方を待つしか・・・・・」「だろうなぁ だがな!其奴は必ずお前ぇのところへ顔を出す、何ならこいつぁ掛けてもいいぜ江戸が初めてなら、多少でも縁のあるお前ぇをほっとくってぇ事はあるまいよ」平蔵の予感は的中した、それから十日目を迎えた夕方、船宿鶴やに徳次郎が顔を出した。「粂さんすまねぇがちょいと顔を貸しちゃぁくれまいか」徳次郎は粂八を横手の路地に連れ込み「お頭からの言伝だ、三日後にお前さんの店にお頭がお寄りなさる、そんときお頭自ら前さんに頼みてぇことがあるそうだ」そう耳打ちしてそのまま姿を消した。早速粂八は平蔵の事の次第を報告した。「ふむ と言うことは鷺山の嘉兵衛が江?に入ぇるということだな」「へい そのようでございやす、で長谷川様これからどのようにすればよろしいんで」粂八は今後の対応を平蔵に仰いだ。約束の三日後待ち構えている粂八の鶴やに時次郎がやってきた。「おや お頭は来られねぇんで?」と粂八がいぶかるのを「いやなに ちょいと様子を知りてぇとお頭がお言いなさるもんでね・・・・・」と川向うをチラと眺めた。松平伊賀守下屋敷の向こうに霊厳寺の大屋根が見える辺り川端の柳のたもとに男が一人佇んでこちらの様子伺っている。「なぁに用心に越したことはねぇからとお頭が、ちょいとこの周りを確かめていなさるんで」「なるほど そういうわけかぁ、判った悪いが帰ぇってくれ!俺ぁ今じゃぁお頭に何の義理もねぇ立場だ!話もここまで、さぁ仕事に戻らなえぇとお客が待っていなさるんで、お頭によろしく伝えてくんな」粂八は突き放すように対岸の男の目を見た。「まままっ 待ってくれ粂さん、記を悪くしたなら謝る、決してそんなつもりじゃぁねぇんだからよぉ」「へぇじゃぁ一体ぇどんなつもりだとお言いなさるんで?」粂八は此処ぞと糸を手繰り寄せた。二人のやりとりの気配を感じたのか、対岸の男は扇橋の方へ歩き始めた。「粂さん、お前ぇさんもよく承知だと思うけど、お頭はあの慎重さがあって今まで一度もお縄の憂き目にも遭っていなさらねぇ、そいつぁお前ぇさんが一番良く知っているんじゃァねえのかい?」「まぁな だが、俺としちゃぁ少しも面白くもねぇ、毛ほどの疑いでも持たれたとあっちゃぁいい気持ちはしねぇもんだぜなぁ徳次郎さんよ」「すまねぇすまねぇ、悪く想わないでくださいよ、っつ お頭がお見えになった、粂さん済まないが部屋を借りるよ」徳次郎はそう言って鷺山の嘉兵衛を出迎えた。粂八は先に入っており、利右衛門の女房おみちが出迎えた。店に入って帳場を見たおみちは、そこにそろばんが立てかけてあるのを横目に確かめて「ではお二階へご案内いたします」と先に立って案内した。しばらくして粂八が酒肴を抱えて上がっていった。帳場にそろばんが立てかけてある場合は2階に定められた部屋に通す暗黙の決め事であった。この部屋は粂八の寝起きする場所であり、又襖を開けたその狭い壁際には階段があり、上の秘密の部屋に上がれる仕組みで、隠し部屋からは床の間の飾り窓から中が覗き見るように工夫が施されている。静かにその隠し部屋に上がったのは兼ねて粂八と示し合わせ、前もって潜んでいた長谷川平蔵であった。「お頭 お久しぶりでございやす」粂八は神妙な面持ちで鷺山の嘉兵衛を見た。「おお 粂さんお前さんも元気そうじゃァねぇか、徳次郎からお前さんの達者なことを聞いたときやぁ嬉しかったぜ、まぁ何だ一つ盃で温めようじゃァねぇか」と、粂八のさし出す杯を受けて回した。「へぇありがとうございやす、ところでお頭はいつお江戸に?」「ウンゆんべのことよ、徳次郎の用意した宿に腰を下ろし、それから今日こうやってお前さんを訪ねてきたってぇことよ」「さいでございやすか、で、鷺山のお頭はこのあっしにどのような御用がおありになるんでございやしょう」と粂八は隣の隠し部屋から嘉兵衛が見えるように向きを入れ替えながら言葉を回した。「俺ももうすっかり年を取っちまった、納め金をこのお江戸でつとめてみてぇと、まぁそんなところさね」「で、心当たりは在るんでござんすか」いきなり粂八が確信をついた一瞬嘉兵衛と徳次郎は眼を見合わせたが、素早く表情を和らげた粂八に少し警戒心を解いたのか「うむ まぁ幾つかは目星をつけた、だが深ぇところまでは調べがついちゃぁいねぇ。何しろ右も左もさっぱり見当がつかねぇ、さすがお江戸は広いとこの徳次郎とも話したんだよ。そこで相談なんだがね粂さん」と嘉兵衛は真顔に戻り粂八の目を覗きこむように少し腰の曲がったまま下から見上げた。「へぇ どのようなことでござんしょう、あっしはもうすっかり堅気な暮らしでおりやして、中々お頭のお役に立てれるとは想いやせんが、それでも何か・・・・」と道糸をたれるのを忘れいない。「そこさ!」横から徳次郎が口を挟む「そこなんだよ粂さん、お前さんにやぁ直接すけてもらおうとは思っちゃぁいねぇのさ、だがね、俺等ではどうにもならねぇことも在る、そいつぁ長年このお江戸で暮らしているお前さんに頼むのが一番と相談が決まってのことなんだよ」嘉兵衛は煙管に葉を詰めながらゆっくりと粂八の反応を伺ってきた。「なるほどねぇ・・・・・・で、どんなことがお知りになりてぇんで」「なぁに人手は十分ある、後はその手配りのための絵図面など元ネタになるものがほしいのさ」「と おっしゃられやしても相手がどこなのか判らなけりゃぁそいつぁちょいと無理かとおもいやすが」粂八はその先を引き出そうと仕掛けをいれる「そこはまだ煮詰まっちゃぁいねぇ、お前さんがすけてくれるかどうかで決めようということになっているんでね」と徳次郎が口を挟んだ。「判りやした、あっしも昔はお世話になった鷺山のお頭のたってのお頼みとありゃぁ断るわけにも参りやせん、出来る限りの事ぁさせていただきやす」両膝に手をおいて粂八は嘉兵衛を見据えた。「判った ありがとうよ粂さん、これで俺も腹が決まった、早速したくにかかろうじゃぁないか、ねぇ徳次郎」と嘉兵衛は後ろに控えて居る徳次郎を振り返った。徳次郎は嘉兵衛の顔を見返しながら「良うござんしたねお頭、これでお勤めはもう仕上がったようなもんでございやすよ」とえびす顔を見せた。その一瞬の変化を平蔵は見逃さなかった。二人が引いた後、そそくさと粂八が平蔵のいる部屋にやってきた。「ふむ アレがお前ぇの言うまっとうな盗人なんだな」平蔵はじっと床の間にかけてある花を見据えて考えこんでいる。「長谷川様 何かご不審なことでも?」粂八は平蔵の反応を察知して言葉を出した。「なぁ粂 連れの徳次郎とか申したなぁ、アヤツはどうも気に食わねぇ、あの一瞬だが光った眼が俺は気に食わぬ」平蔵はその奥にある徳次郎の思いを引きずり出そうと考え込んでいた。「お前ぇ奴とは長ぇのかい?」「とおっしゃいやすと、あの徳次郎・・・・・」「うむ そいつよ」「野郎がまだ二十歳前の小僧っ子のじぶんから3年ほど一緒にお勤めをしたこともございやすが、それが何か?」「あっ いやどうってぇことはねぇかも知れぬが、ヤツのあの眼が俺は少々気がかりだ」「へぇ まぁ人も時にやぁ変わるってこともございやすから・・・・・」粂八は今の自分を想像できなかったことを想っているのであろう。「よし、とにかく奴の顔はしっかりと拝んだ、次の繋ぎを待ってそれから手当をすればよかろう」平蔵は粂八に指図をして本所に帰っていった。その二日後鶴やに徳次郎がやってきた。「粂さん、お頭からの使いだ、日本橋難波町当たりから船で逃れ道の水路を知りてぇとのことだ。粂さんが船宿をしていなさるので、そのあたりをお頭はお頼みしてぇと思っておいでのようですぜ」と攻め場所が少々判明してきた。「わかった、そこからどの方面へ落とせばいいんで?」と更に先を促したが、「今ん所それをお知りになりたいだけのようで、先についちゃぁ俺も知らねぇんだ、すまねぇ」と口は堅い。「分かったよ、だがなぁ通る場所によっちゃぁ船番所もあちこちあるし、そう簡単に事は運ばねぇとお頭につたえておいてくれねぇか」「判った、そう伝えるよ」そう言って徳次郎は店の裏手から横道に抜けて人の目を避けるように帰っていった。「妙な野郎だぜ、表から入ぇって来ても良さそうなものをよ」と板場の利右衛門にこぼした。「なぁ粂さんもしかして誰かに後をつけられていたとか・・・・・・」「おっ そうかも知れねぇなぁ、そういえば先日長谷川様が野郎の目配りが気に入らねぇとおしゃっておられたからなぁ、そうかもしれねぇ・・・・」粂八は己に言い聞かせるようにつぶやいた。「すまねぇちょいと本所のお役宅までご報告に行ってくらぁ」と粂八は夕方近く本所菊川町の平蔵の役宅へ出向いた。「何?粂八が参ったか」平蔵は取り次いだ沢田小平次を振り返って「すぐにこちらへ回せ」と裏木戸を指した。しばらくして枝折り戸が開き、粂八がひざまずいた。「おお 粂 なにか変わったことでも持ち上がったのかえ?」と調書に目を通しながら聞いた。「へぇ 長谷川様、今日例の徳次郎がやってきたんでございやすがね、野郎ひと目を気にしているような素振りで、ちょいと気になったもんでございやすから」と本日の報告をし終えた。「おい 粂、そいつぁ何かあるぜ、まぁお前の川筋を利用してぇと目論んだところからも、おそらく襲うところは日本橋界隈、それも行きずりの仕掛けとあっちゃ足元を見定めてと考えれば店は川べり、しかも納め金とくるからにゃぁ少々の金子では事足るまい?その辺りで金が集まりそうなところを至急皆で手分けして探ってまいれ」平蔵は調書から目を話し粂八にそう言いつけた。それから二日後には日本橋界隈の大店や目立たぬが金の集まりそうな店の名前が上がってきた。「ふむ・・・・・この中でお前が押しこむとするならば、佐嶋どこを選ぶ?」平蔵は与力筆頭の佐嶋忠介に絵図面を広げてみせた。「左様でございますなぁ伊豆れも大店、しかも小判が集まるという条件を入れますと、やはり両替商が一番かと、その場合この本両替の伊勢屋、三河屋、難波屋の三軒、それに脇両替を含みますと優に十軒はございます」「うむ だがなぁそういったところは警戒も厳重であろうよ、生半可なことでは金蔵は破れまい」「左様でございますなぁ」佐嶋忠介も腕組みをして絵図面に見入っている。そこへ粂八が「長谷川様!目的の店が判りやした!」と息せき切って駆け込んできた。「何押し込み先が判明いたしたか!」「へい まだ日時は定かじゃぁござんせんが、奴らの繋ぎによれば難波町菱垣やのようでございやす」「菱垣やだと、なるほど旨ぇ所に目をつけたもんだ、それだと船が入ぇって来る日を当てれば良いわけだ、でお前ぇの腕が必要ということになるわけだ、なるほど旨ぇところを読んだものよ、さすがにお前ぇが褒めるだけのことは在るぜなぁ粂八、鷺山の嘉兵衛か、一度おうて話がしてみてぇもんだ」と平蔵は攻めの的が絞れてきたことに少し気持ちも緩んだようである。「よし、続けて相手の出方を待て」こうして事件は第二段階に入ったと思えた。だがここで想わぬ事件が火付盗賊にもたらされた。盗賊改め同心小柳安五郎が町奉行町廻り同心から聞きこんだ所によると、下谷広小路二丁目の川に死体が上がった。小柳から「粂八より聞き及んでいた男の人相風体に似通っている」と知らせがあり、粂八と沢田小平次が駆けつけた。懸けられたムシロをめくった粂八が一目見るなり「あっ・・・・・」と漏らした。沢田小平次が「どうだ粂八!間違いないか」と押し殺した声で尋ねた。町方が周りを包囲して見物人を押しとどめているので、大きな声も出せない。「間違いございやせん!沢田様、確かに徳次郎でございやす」このことは早速平蔵に報告が上がった。「何と奴が殺されたとな・・・・・・」手繰り寄せた糸のぷつんと切れるのを平蔵は感じた。「殺され方は如何であった?」「はい刃物で背中から心の臓を一突き、見事なまでにそれで事切れるほどの手際の良さにございます」「何だと!とするならば殺った相手は侍ぇだな、急所を一突き、それもてめえに血飛沫がかからぬように恐らくは大刀での留めと見たがいかがであった」「恐れいります、まさにその通りの鑑識にござりました」沢田小平次は平蔵の恐ろしさを再び思い知らされたのであった。相対しての殺傷となるとどうしても返り血を浴びることになる、正面からでは動きを気取られてどうしても一突きは難しい、そのようなことを判断できるのは侍ぐらいしか無い、それも在る程度は腕に覚えのものでなければならない。「そうなるとお頭、相手が新たに増えたとみなさねばなりませぬな」佐嶋忠介が平蔵の顔を見た。(むぅ ・・・)平蔵はこの新手の敵について何一つ知れないことに不安とあせりを感じているようであった。たぐりかけた糸がぷつりと切れて二日が流れた。鶴やの粂八の元へ見知らぬ男が訪ねてきた。「粂八さん・・・・・・でござんすね」四十がらみの腰の低いその男はしきりにあたりを気にしている様子に粂八「まぁ入ぇんな」と店の中へ促し「ところでお前さんは一体誰なんで!」と半歩突っ込んだ。「申し遅れやした、私は鷺山の嘉兵衛の配下で芳兵衛と言いやす。 すでにご存知かと想いやすが、徳次郎さんがあんな目に合っちまって、お頭も困っておいででござんす」と話し始めた。「一体何があったんでござんす?」粂八は事の起こりを聞き出そうとした。「粂八さんはご存じねぇかと思いやすが、お頭のおかみさんにぁ兄さんがおられやして・・・・・」「お頭におかみさん?そいつぁ知らねぇ、でそのあにさんがどうかしたのけぇ」「へい その幸助さんは鷺山のお頭とは反りが合わねぇ、けど仲間内じゃぁ何の力もございやせん、ただ女将さんの後ろでえばっているだけの取るに足らねぇ野郎でござんした」「ちょいと待っておくんなさいよ、だったってっぇ事ぁいまはそうじゃぁねぇって聞こえるんだがねぇ」「そのとおりでございやす、鷺山のお頭の具合が悪くなってから、女将さんが仕切りたがるようになっちまって、それを後から押し上げているのが幸助さん、その間で揺れていたのが・・・・」「徳次郎ってんだな」「その通りで、お頭はそれに気づいて居られたものの、どう手を打って良いものか・・・・・でお前さん、粂八さんに渡りをつけて一手先をお考えなさったってぇわけでございやす」「粂八さんに出くわした徳次郎さんは、粂八さんがお頭に手をお貸しくださるってぇことが決まって、お頭のほうへ沿ったと言うことで、そのために密かにお頭が薦めて居られた押し込み先などを徳次郎さんから聞き出そうと幸助さんが元黒門町の常楽院に呼び出して、・・・・・」「その挙句殺っちまったということだな」「へぃ お察しの通りで、どうやら徳次郎さんは漏らしちまった様子で、ですが本当のことは徳次郎さんもはなっから知らなかったんでございやす」この答えには粂八が驚いた。「何だってぇ!!それじゃぁこの前の話は・・・・・」粂八は平蔵に報告したことが間違いであったと聞かされ動転しかけたほど驚いた。「鷺山のお頭は徳次郎さんの動きを妙だと気づきなさって、それでちょいと漏らしたんでございやす」「こいつぁ一体ぇどうなっているんで・・・・」粂八は次に打つ手が見つからずまごついた。鷺山のお頭はおかみさんや幸助の網に中で身動きが取れねぇんでございやす。あっしにも幸助の眼がくっついているんじゃぁねぇかって・・・・・」「それでお前さん辺りを気にして」「さようで・・・・・」「弱ったなぁそれじゃぁ話は振り出しってぇことになるわけだ」「いえ そうではございやせん、鷺山のお頭は打つ手は打っておられやす、粂八さんにこう伝えてくれとおっしゃいやして」と声を落とし辺りの気配を伺いながら耳打ちした。「押込み先は牛込関口櫻木町諸国物産の大店上州屋」「何だと難波町の菱垣やじゃぁねぇっていうんだな、間違ぇねぇ話なんだろうなぁ!」血相変えた粂八の勢いに驚きながら「粂八さんそんなに驚くたぁ何か訳でもおありなさるんで?」と心の動揺を読み取られ粂八「そうじゃぁねぇ がよ、そうじゃぁねぇが先の話では全く方角が違うからまごついただけのことよ」とはぐらかす。お頭の目論見じゃぁおつとめを終えた後、江戸川から小石川、神田川と抜け大川へ、そこから千住の宿を通って日光街道へと逃れるつもりでござんす」「じゃぁどうあっても船を使っての仕事となるんだなぁ」粂八は時の流れを早めるには川船を使うほうが早いと考えた鷺山のお頭の計画を感心していた。「じゃぁ何かえ難波屋の方はどうするつもりなんでぇ」とこの行方を尋ねた。「決まっているじゃァねぇか幸助さんに襲わせるつもりよ、そうすりゃぁこっちに火の粉は降りかからずに済まされるってぇ寸法、さすがに鷺山のお頭は読みが深ぇ、そうじゃァないかい粂八さん」と粂八の考えを探るように見やった。「そいつぁ妙案だ、それならおつとめの邪魔もねぇってわけだな」「問題はこの先さ粂八さん、お前さんの船を取りっこになっちまう、そのことをお頭は案じていなさる」「そうかぁ 俺の動き一つで謀がバレちまうってぇこったなぁ・・・・・」「そこんところを粂八さんにお頼みするようにとお頭は・・・・・」「判った、そいつぁ俺に任せてもらいてぇとお頭に伝えてくれねぇか、俺の相方で伊三次ってぇのがいる、こいつをお頭に付けようじゃァないか、俺がそっちに行っちゃぁ幸助にバレる心配もあるからなぁ」と粂八は平蔵の読むだろう謀を頭の中で巡らせていた。「で、お頭はいつお盗めをなさるおつもりで?」と最後の詰めを口に出した。「粂八さんの返事次第と言われてきたんだが、その返事ももらったことだし、これで決まりだ。明後日の夜四つの鐘までに目白不動山門と決まりだ」「ようしそいつぁ判った、で幸助の方はどうする、俺が向かわにゃァならねぇ、そのところをしっかりとしてくれてなきゃぁ野郎にけどられてしまうじゃぁねぇか」「判っているってよ!心配しなさんな、そこんところもお頭がちゃんと考えていなさる。 同じ時刻に日本橋元浜町の稲荷社に集まることにしてある。幸助さんにはそう耳打ちしなさった」「ということは野郎の息のかかったやつだけにその刻限が伝わるってぇ寸法・・・・・・なるほどさすが鷺山のお頭のなさることには抜け目がねぇ」粂八はそう呟きながら、さて平蔵にいつどう伝えるかを思案している。「じゃぁ早速俺は船頭の手配をするから、お頭には伊三次ってぇ若ぇのが俺の名代で逝くからとよろしく伝えてくれねぇか」「よし そっちのほうは任せておきなってことよ」芳兵衛は荷が軽くなったことで足取り軽く帰っていった。その日の夕刻、粂八が菊川町の役宅に訪れたのは言うまでもない。「長谷川様、ちょいと厄介なことになりやしたが・・・・・」粂八から事のいきさつを詳しく聞いた平蔵「粂よくやってくれた、それで良いそれでなぁ、いやぁさすがにお前ぇのおっぽれた頭目だけのことはある、やることが抜け目ねぇ、ところでなぁ粂、人数は定かではないのであろうな」少し心配なのは手勢のことである。打ち込みを二手に割かねばならない、万が一逃亡を許せば老中からの叱責は免れない所。それを案じての平蔵の言葉に「面目もねぇことで長谷川様、あまり深く突っ込みやすと・・・・・」「判っておる、心配いたすな粂」平蔵は粂八の気持ちを軽くしてやろうと気配りをした。「酒井はおるか!」平蔵の声にしばらくして筆頭同心酒井祐助が控えた。「おお 酒井ご苦労だが清水御門前の役宅に出向き明後日夜四つに目白不動尊に出張る人手を手配りしてはくれぬか、指揮は佐嶋に任す、お前は日本橋元町の稲荷社を頼む、こっちの方は手練のものがおるようなので、心して掛かれ」と指図した。「心得てござります、早速これより清水御門前に」そそくさと酒井祐助が出て行った。こうして万全の構えで迎えた押しこみ当日、外は前日からの五月雨で田畑は潤い、蛙の声があちこちから聞こえてくる。稲荷社を遠くにじっと潜んでいる盗賊改めは、平蔵を真ん中に灯りもない暗闇に偲んでいた。遠くで夜四つの鐘が雨音の中を抜けるように流れてくる。難波町の菱垣や向かいの辻にある小間物屋の土間にいっ時前から潜んでいる盗賊改めは、三々五々集まってくる盗賊の人数の把握に余念がなかった。やがて四丁半ほど先の稲荷社を張っていた粂八が駆けつけてきた。「長谷川様殆ど揃ったようでございやす、中に侍ぇ風体の浪人が三名、他は流れ者のようでこっちは五名ほどでございやす」それを聞いた平蔵「ご苦労であった、この雨の中をすまねぇなぁ粂八、後は我らに任せておけ、今聞いた通り浪人は三名ということだ、粗奴らはわしと酒井に任せて、他の者は残りのものを一人も逃さず召し捕れ、間もなくやって来よう」平蔵の言葉が闇の中に響いた時雨音の乱れる様子が聞こえてきた。「来たぞ!」予め外しておいた表戸を押し倒して一気に打ち出した。「火付盗賊改方長谷川平蔵である!鷺山の一党観念いたせ!」と呼ばわった。同時に提灯に灯がともさ龕灯(がんどう)の中に一味の形相が燃え上がった。「クソぉ殺っちまえ!」ばらばらと周りを取り囲むように一党が陣をひいた。ズイと構えを溜めて浪人が身を乗り出した。「邪魔立てするか!」平蔵のその言葉を待っていたかのごとく盤石も貫けと激しい突きが平蔵を襲った。呼吸を揃える間もないがために平蔵わずかに身を開き、それをかわして右から左へと抜き打ちに胴をはらった。「ぐへっ!!」血しぶきを上げながら平蔵の左側に崩れ落ちた。相手の呼吸を待っての突きはすさまじいものがあった、平蔵の胴着にその痕跡が残っている。あちこちで激しいしのぎを打ち合わせる音が響き渡っている。だが事が収まるのにさほどの時はかからなかった。抗って手向かったため切り捨てたもの五名十手で打ち砕いたもの三名がガンドウの下で雨に濡れボロ雑巾のように散乱し、流れ出る血がまるで花のように辺りを染めていった。骸は戸板に乗せ、捕らえたものは数珠つなぎになって近くの番屋に引き立てられ、仮の吟味が平蔵によって行われ、朝を待って清水御門前に引き上げた。暫くして後、盗賊改め役宅に目白不動尊打ち込みの組が佐嶋忠介を筆頭に凱旋してきた。こちらは抵抗するものは誰もなく、鷺山の嘉兵衛を頭に全員が捕縛された。平蔵はこの鷺山の嘉兵衛を前に「お前が鷺山の嘉兵衛だな、俺はこれでお前を二度見た事になる」その言葉を聞いて嘉兵衛は「えっ!!」と驚きの声を発した。「一度はな、船宿鶴やであった」それを聞いてもまだ合点がいかない様子に「徳次郎の仇は粂八が取ったぜ」と嘉兵衛の前に腰を落とし後ろを指さした。そこには小房の粂八が神妙な顔で控えていた。「鷺山のお頭・・・・・」粂八のうなだれた顔を見た嘉兵衛は「そうか 粂さんおまえさんだったのかい、あはははは、お前さんに死に水を取ってもらえりゃぁ思い残すことぁねぇ、恐れいりやした、さすがにお江戸の鬼は恐ろしゅうございますなぁ長谷川様ぁ、これで冥土の土産も出来たというもんでございますよ、それにしても粂さん、お前さんいいお頭らにつきなすった。でぇじにするんだぜ、長谷川様、こいつをよろしくお頼みいたしやす」と両手をつき平蔵に頭を下げた。「お頭!」粂八は我慢しきれず嘉兵衛の前に手をついた。「かんべんしてくれ、俺ぁお上の狗(いぬ)に身を落としちまった、すまねぇすまねぇ」と声を上げて泣いた。「馬鹿野郎、何てぇもったいねぇことを言いやがるんでぇ、これだけのお人がお前ぇさんをここまで頼りにしてくださっているんだぜ、有り難ぇ話だぜ粂さん」こうして鷺山の嘉兵衛一味はそれぞれ評定所で裁きを受け刑が決まった。幸助一味は死罪、幸助の妹嘉兵衛の女房松は長谷川平蔵殺害幇助の罪で遠島、鷺山の嘉兵衛一味七名はいずれも島送りとなった。鷺山の嘉兵衛についてはそのお調書には(鷺山の嘉兵衛大番屋にて老死)と簡単に書き留められているだけであった。それから半年、本所扇橋近く石島町の鶴やに七十(しちじゅう)前とみられる下働きの穏やかな顔の男の姿が見られたが、それが誰なのか知る者もない。 [0回]PR