忍者ブログ

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

8月号 浄閑寺悲話


天明2年(1782年~8年)天明の大飢饉が全国を襲い、
江戸時代の4大飢饉と言われる、近世で最も大きな飢饉であった。

天明7年(1787年)5月20日、商家8千軒、米屋980軒が
5千名ほどの暴徒によって5日間に亙り打ち壊しの対象となった江戸で暴動が勃発。

長谷川平蔵42歳の時この暴動を、先手組と与力75騎、同心300名を率いて鎮圧した。

9月9日御先手組弓二番組頭であった長谷川平蔵は加役火付盗賊改方助役(すけやく)
を拝命し、本役である先手鉄砲(つつ)の十六番組頭から弓の七番へ組換されていた
同じお先手弓組第十番組頭堀組堀帯刀に挨拶に赴いた。

「此度堀様の火付盗賊改方助役をお務め致すこととなりましたる長谷川平蔵にございまする」
平蔵は礼装で挨拶に望んだ。

「おお それはご苦労でござる、これでわしも肩の荷が下りると申すもの、
よしなにお頼み申す」

この堀帯刀という男、実直ではあったがあまりお役には熱心でなく、
したがって成果も上がっていない。

江戸市中は地方からの人の流入で溢れかえり、
治安は非常に不安定な状態の時であるにもかかわらずである。

「恐れいりたてまつります、ところで堀様、身共はこの御役目引き継ぎにあたり、
堀様にたってのお願いの議がござります」平蔵低頭したまま言葉を続けた。

「さて この儂にどのようなことでござろうか?」

「はい 出来ますならば堀組より盗賊改めの経験のござります者を一名
お貸し願いたく存じまする」と平蔵懇願した。

「あい判り申した、いやぁ何 巷では忠介で保つ堀の帯刀と揶揄されておりましてな、
どうも儂は生ぬるいと想われておる、我が堀組の要、この佐嶋忠介をお貸し申そう、
何かとお役に立つと存ずる」と心よく承諾された。

平蔵はその佐嶋忠介を供に、南町奉行所役宅に出向いた。
平蔵の父長谷川平蔵宣雄が京都西町奉行職を拝命し、職務遂行中に病死し、その後任に当たったのが今の江戸南町奉行山村十郎右衛門であり、平蔵一家が江戸に帰るさい何くれと気配りを与えてくれたよしみでもあった。
「おおこれは久しい銕三郎どの、あっ いや 今は平蔵殿であったな」

「ははっ 山村様におかれましては京でいろいろにお世話をいただき、長谷川平蔵無事お勤めをあい務めさせて頂きおります」

「おお 此度はまた火付盗賊改方に就役なされたと伺ぅておりますぞ」

「おそれ入りまする、そのことに付、京でのお禮方々ご報告にとまかりこしました、
今後共何卒よしなにお願い申し上げまする」

こうして平蔵はまず身の回りを固め、盗賊改めの職責を全うするための地ごしらえを整えた。

与力十騎同心三十が平蔵のお先手組弓から引き連れてきた組織構成要員であった。

この中で堀組より借り受けた佐嶋忠介が筆頭与力、平蔵配下の酒井祐助が筆頭同心となる。
天明三年(1783)土用になっても「やませ=東(こち)風の風」
により夏であるにかかわらず気温は低く、稲の成長は止まリ、おまけに大風や霜害が加わり、
稲作は壊滅状態に陥った。

その秋から翌年にまたがってこの一帯は大飢饉が襲い餓死者が続発した。
弘前藩では死者が十数万人に達したと言われる。
天明七年五月江戸や上方で米屋への打ち壊しが頻発、
こうした背景に寛政の改革が始まることとなる。

世は非常事態を迎えた頃であり、凶悪な事件が次々と引き起こされ江戸の治安は
悪化の一途をたどっていたこの年、
長谷川平蔵は火付盗賊改方長官を拝する事となったわけである。

この四年前天明三年三月十二日岩木山が7月六日に浅間山の噴火もあって
東北地方は壊滅的な打撃を受け、その後天明七年東北地方を始め全国的な冷害が起き、
こうして例外にもれず津軽黒石藩領内はずさんな新産業政策が裏目に出て
藩の財政は困窮を極め、年貢の増微や備荒畜米と言う無理矢理に備蓄米の買い上げ、
江戸表に送るが財政の穴埋めには程遠く、百姓は種籾(たねもみ)まで供出させられ
、長年住み慣れた故郷を捨ててしまい、人口の流出は更に藩や領民を困窮に追いやった。

その中の一人に津軽黒石藩が在所のお小夜一家もいた。

今日口に入れるものとてない状況下、土地を捨てて逃げるものが続出、
貧困に益々拍車をかけた。

南部津軽黒石藩藩士長岡由太郎の幼馴染お小夜の家も御多分にもれず
夜逃げ同然で藩を捨ててゆくこととなった。

それを知ったところで何一つ打つ手もなく、ただ歯を食いしばって故郷を離れる一家を
見送るのみであった。

「お小夜、俺は必ずお前を訪ね江戸に参る、俺が探しだすまでいかに苦しくとも
こらえて待っておれ」
と、善知鳥神社(うとう)のねぶた跳人の鈴のついた御守を手渡すのが精一杯であった。

ここは本所緑町二丁目「本所に過ぎたるものが2つあり津軽大名・炭屋塩原(塩原太助)」
と呼ばれたほど背を南割下水に配した広大な構えの津軽土佐守上屋敷屋敷があった。

相生町五丁目二ツ目橋たもとにある軍鶏鍋や五鉄のすぐ近くである。

上役より「月の半分以上が在宅となり、まぁ暇で暇で仕方がない」
と聞かされた長岡由太郎は翌々年の参覲交代に際し江戸勤番を願い出て江戸に来た。

平侍は大名屋敷内の御貸長屋の二階に住み、殿様について登城する以外平侍の場合は
暇を持て余す。

しかし外出するには許可が必要であり、岡場所などへは出入り禁止と厳しい定めがあったが、
飢饉によって生き別れになった身寄りのものを探すと言う名目で届け出し
江戸市中を探し始めた。

しかしこの広い江戸でただ一人の者を探すという事は砂浜に一粒の小石を求めるようなもの、
それでも暇を作っては捜索に出かける毎日であった。

だがお小夜一家の消息は雲をつかむような話で、全くその成果は見えないまま
帰国の時がやってきてしまった。

万策尽きてこの度は諦めて帰国せざるを得なくなり、
次の機会を待つ他由太郎に残された道はなかった。
こうして時ばかりが無情に流れていった。

四年目の春、津軽石黒藩は四月が出発と定められていたために、
その準備は半年前からとりかかっていた。

これまでに由太郎は江戸での消息探索のために出来るだけの費用を蓄えねばと
一切の無駄を配した暮らしをしていた。

その異常なまでの暮らしぶりを両親も理解し、出来るだけの備えをと心を砕いていた。

こうして迎えた四年目の春、由太郎は殿のお供で参覲交代に加わることがかなったのである。
相変わらず休みを作っては市中の探索に出かける由太郎であったが
その年も間もなく暮を迎えようとしていた十二月初め
同じ郷里の捨藩者木挽者の与兵衛と出会った。

与兵衛は浅草新町の長吏弾左衛門配下を頼り江戸に来ていたのであった。

「もし 長岡の由太郎様では?」
浅草今戸橋のたもとに座り込んで前を流れる山谷堀を行き交う
猪牙眺めていた時のことであった。

「ううんっ? おっ お前は与兵衛ではないか!何とこのような場所で
お前に出会うとは善知鳥神社(うとう)のお導きやもしれぬ、
お前も存じておろうお小夜のことだが・・・・・」とお小夜一家の行方を尋ねた。

「ああ 覚えておりやすとも、確かあっし等と前後して郷を離れたはず、
で そのお小夜がどうかなされましたので?」と話が通じた。

「儂は四年前から江戸に参る度お小夜を探しておったのだが、
お前はお小夜の居所を存じてはおらぬか?」
わずかでも良い、何がしかの手がかりでも見つかればと淡い期待をかけつつ尋ねた。

「さぁて 今お小夜ぼうはどうしているかあっしにも判りやせんがね、
五兵衛さんはこの先の中村町火葬寺裏辺りに住んでいるはずでございやす」と答えた。

「何と!」想いもかけない与兵衛の返事に由太郎は飛び上がらんばかりに喜び、
与兵衛の手を握りしめた。

これには与平の方も驚いたようで、
「そのように御苦労なさったので」とお小夜の消息を知るかぎり教えてくれた。

それによるとお小夜の母親は江戸に来てその翌々年無理がたたって病死、
それがもとで父親の五兵衛も床につく日々が増え、暮らしは日々に苦しくなり、
お小夜は奉公に出たというのであった。

与兵衛に礼を述べ、由太郎は急いで中村町火葬寺裏に赴いた。

山谷堀を川沿いに上がり、教えられた通り浅草鳥越町から山谷浅草町・
中村町と駆けるように火葬寺裏に向かった。

山谷浅草町を過ぎ、左手に仕置場を眺めつつすぐその先を西に曲がると
百間(約1.8キロ)ほど先に目指す火葬寺が見えてきた。

教えられた通り奥に入って行くと粗末な小屋が見えた。
由太郎は急いで駆け寄り戸を叩いた
「誰か!お尋ね申す お尋ね申す!」
戸に手をかけると抵抗もなく開いたので中に入り再び「お尋ね申す」と呼ばわった。

六帖一間の部屋で布団にうずくまった何者かの動く気配があり、弱々しげな声が「へぇ・・・・・」と聞こえた。

由太郎はたまらず「五兵衛か!?」と声を上げた。

「へっ!?へへへぃ!」由太郎は駆け上がって布団をめくった、
そこにはやつれ果てた五兵衛の姿があった。

「五兵衛!五兵衛だな!私は津軽黒石藩藩士長岡由太郎だ!私が判るか!」
と老人の枕元にしゃがみこんで大きな声で叫んだ。

するとその枯れ木の様に痩せこけた老人の眼から止めどもなく涙が溢れてきた。
細い腕がせんべい布団の中から伸びてきて由太郎のてをまさぐる。

「お小夜はいかが致した、お小夜は今何処におる!おい五兵衛!」
堰を切ったように思いが吹き出した。

やっと聞き出した話を繋げば、始め江戸に来た頃はこの火葬寺の隠坊(おんぼう)
の仕事にありつけ、糊口(ここう・粥をすする)を凌いでいるという。

隠坊とは寺院や寺社において周辺や墓地の清掃管理、又持ち込まれた遺体の処理から
死体が白骨になるまで火の番をするなどを生業としている者を言う。

火葬寺では、四方に柱を立てた雨しのぎの小屋根を設けた葬場に棺を置き、
日没後に寄り合衆の前で僧侶が読経を終え、役人の鐘の合図で火を放って
これを白骨化するまで焼いた。

その翌日、由太郎はお留守居役に届けを出し再び市中にお小夜の痕跡を求めて出かけた。
お小夜の父親五兵衛の話では、女衒の世話でどこかに奉公に出たという。

その時お小夜は十両で苦海に身を投じた模様であった。

先ずは手始めに吉原からと目的を定め 本所の津軽藩邸からまっすぐに西へ進み、
藤堂和泉守中屋敷前を通り藤代町にぶつかって駒畄橋をまたぎ両国橋へと掛かった。

広小路から柳橋を越え、平右衛門を横切り浅草五問を左に見ながら茅町を北に上がって
地獄橋(天王橋)を越えて成田不動を過ぎ本所から大川橋(東橋)を渡った広小路に出た。

雷門の横の戸口をくぐり仁王門を抜け浅草寺で両手を合わせ、
五重塔や大屋根が冬の青空に寒々と浮かび上がっているのを身を引き締める思いで眺めて、
両手を合わせ、そのまま仁王門に引き返し随身門から再び北上、
谷中の天王寺を西に日本堤を山谷堀にそって西北に進むと山谷堀が二つに分かれる
その先の泥町(田町)に孔雀長屋と言う編み笠茶屋の掛行灯が
20軒ほど土手下へと続いていた。

この辺りで吉原へ入るのをはばかる客は顔を隠すために編み笠を借りた、
借賃は百文(2600円)で、戻りに返せば六十四文(1664円)が戻ってきた。

日本堤から吉原へと曲がる所に吉原で遊んだ客が去りがたい思いを抱いて振り返ったと
いわれる見返り柳があって、これを曲がると日本堤を通る大名行列から
大門の中が見えないように曲がって作られた五十間道(約900米)にかかる、

客が衣装を整えたと言われる衣紋坂をゆらりと曲がりながら下った先が
吉原待合の辻に続く大門がある。

東西南北をすべて掘割で囲まれた俗世から切り離された治外法権の特別区であった。
堀は女郎たちがお歯黒を捨てたために黒くなったと言われる俗称お歯黒どぶ。
塀の高さは五間(9米)

大門の西北に榎本稲荷社、東北に明石稲荷社、西南に開運稲荷社、
東南には九郎助稲荷社が配置され、最深部が秋葉常燈明や火の見櫓があり、
元吉原から引き継いだ水道尻が行き止まりになる。

この水道尻、元々は元吉原に神田上水の水を木造の掛樋で引いた行き止まりの場所であった、
この名前をそのまま引き継いでいただけで、新吉原には水道はない、
おそらく山谷堀も近いために井戸が掘られていたと想われる。

東河岸は羅生門河岸、西河岸を浄念河岸と呼び、この界隈は横町と呼ばれ、
格子越しに比較的手頃な値段で個人交渉の出来る張り見世があった。
持ち合わせの少ない一般庶民は大門をくぐると、
すぐこの横町に入り小見世をひやかして楽しんだ。

ここは時間制を設けてあり、切り見世とか銭見世と呼ばれていた。
見世の格は置いている遊女の値段や評判で決まった。
最上級の見世は「大見世」といい、浮世絵に描かれるような高級な花魁がいた。

次が「中見世」と呼ばれるもので、規模も遊女の質も大見世より一段落ちる。
さらに、一分女郎(昼、夜共に一分)だけがいる見世を「大町小見世」、
二朱女郎(昼、夜共に二朱)が中心の見世を「小見世」と呼んだ。
この他に、前述の「切見世(銭見世)」がある。

同じ仲之町張りをする"昼三"は昼夜共で三分、暮六つに来て
その夜のうちに帰る片仕舞と称する遊びなら一分二朱の揚代で済む。

 昼三の次には"見世昼三"という遊女がいた、これは仲之町張りをしない、
ひたすら自楼にこもって、馴染客なり、初会の客なりの来るのを待つ。
このように吉原は遊女にも様々な階級があった。

大門をくぐると右手には四郎兵衛会所、その向かい側には町奉行所から派遣された
御用聞きの詰め所もある。
大通りから仲之町に入ると魚屋や青物市場、酒屋から寿司屋、蕎麦屋に風呂屋、
蝋燭屋、質屋まで揃っており、必要な物はほとんどまかなえたため日常の生活には困らない。

大門は卯の刻(午前6時)に開き亥の刻(午後10時)に閉まる。
日没後再び見世を開き、大門が閉まった後も午前0時頃まで営業していた。

午前2時「大引け」の拍子木が打ち鳴らされ、賑わっていた吉原もこれを境に静まるのである。
男は出入り自由であったが、女は出るにも入るにも四郎兵衛会所で
出入り切手をもらわなければならなかった。

吉宗の時代に人口調査が行われ、吉原内部の総人員が15歳以上の男2375名、それ以下は463名、
女4003名、15歳以下330名、右の内家主182名、店狩り620名、遊女2105名、禿941名、
召使2163名ほどであった。

格の高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋、吉原では
「引手茶屋」に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、
その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。

茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)
が入る仕組みであった。

吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという掟が
あった。
ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、
裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、
髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいた。

由太郎は意を決して大門を潜った、すぐ右手に見える四郎兵衛会所に立ち寄り
「お小夜と申す名の女を探しております、何卒お力を冒しいただけませぬか?」
と正直に話した。

由太郎を一目見た若い衆が
「おいおい 今日び朝からとんでもねぇ野郎が入ぇって来やがったぜ、
お前さん何処の田舎からおいでなさったか知りやせんが、
そんな浅葱裏がうろうろされちゃぁはた迷惑、帰ぇっておくんなさいやし、
と取りつく島とてない有り様。

野暮の代名詞である「浅黄裏」をはじめ、一部のしゃれ者を除いた武士の多くには
大銀杏が好まれた時代、髷尻と呼ばれる髷の折り返しの元の部分が後頭部より後ろに
真っ直ぐ出っ張っているのが特徴で、町人の銀杏髷より髷が長く、
髷先は頭頂部に触れるくらいで刷毛先はほとんどつぶれない。

なかでも野暮ったい田舎の藩主などは髱はぴったりと撫で付けられて、
頭頂部より前にのめりだすような、まるで蒲鉾をくっつけた状態の太長い髷を
これ見よがしに結うものもいた。

また浅葱裏とは貧しい田舎侍が紺の羽織に浅葱木綿の裏地を用いていたことから
ちょっと小馬鹿にした時に用いられた。

その言葉をぐっと喉の奥に押し込んで由太郎
「待ってくれ!私はただ人を探しておる、この場所におるやもしれぬ奉公に出された女だ、
頼むなんとか見つけ出したいのだ、これこの通り」と頭を下げた。

ちぇっ!と舌打ちをしながら
「お侍ぇさん、一体ここにどれだけの女がいるかご承知の上でそのようなご無体なことを
申されて居られますんで?」
言葉は丁寧だが由太郎には慇懃無礼に聞こえた。

「私はただ・・・・・」

「ただどうしろとおっしゃいやすんで? おう お前ぇさん、
この大門は地獄と極楽の彼岸場所、大門くぐりゃお侍ぇもクソもねぇ
銭だけが物を言う浮世、蒲鉾マゲなんぞでうろつかねぇほうが身のお為ってぇもんですぜ、
さぁ帰ぇった帰ぇった!こっちゃぁお前ぇさんみてぇな田舎モンにかまっている暇なんざぁあ
りゃぁしませんのでね」と顎で出口をしゃくってみせた。

「武士に向かって無礼な!」
まだまだ若い由太郎ついつい刀の柄に手をかけてしまった。

「ほぉ 刀に手をおかけなすってどうなさるおつもりで?
ここは吉原2本差しが怖くっちゃぁウナギも食えねぇやぁあはははははは」と罵倒された。

「おのれ、無礼者!」ととうとう刀を抜き放ってしまった。

あっと言う間に人だかりの垣根が築かれたその時
「待て待て!」若い声がして二人の若者が間に割って入ってきた。

「聞いておれば双方とも落ち度もある、
どうだこの場は私の顔を立ててそこ元も刀を引いてはくれぬか?」
と由太郎の手元を抑え、制しながら若い衆に向かって穏やかに話を進めた。

「お前ぇさんは誰でぇ?!」小頭と思える男が一歩前に出てきた。

若者の一人が
「こいつを誰だと想うこいつの親父は火付盗賊・・・・・」と言いかけた時
「おい弥太郎このようなところでお父上の名を出すんじゃァない」
と慌てて制し
「とにかくあちらでゆっくりと話を聞かせてはくれませんか?」と会所の一角へと促した。

その場に居合わせた会所の若い衆も耳をかすった火付盗賊と言う言葉に
いきりたっていた気持ちも萎えたのか少し大人しくなった。
そこへこの騒ぎを聞きつけて会所の名主の大門四郎兵衛が出てきた。

「ここでは何でございますから、ひとまずこちらへお入りなさいませんか?」
とやんわりとした声で由太郎を促した。

偶然この場に居合わせた二人の若者一人は弥太郎と呼ばれた若者阿部弥太郎、
言わずと知れた長谷川平蔵の嫡男辰蔵の遊び仲間、と言うことはもう一人は、
くだんの長谷川辰蔵であった。

本日は巣鴨の三沢仙右衛門叔父上から男の授業料なる軍資金をしこたま頂き
出張ってきたところであった。

四郎兵衛会所は新吉原五丁町名主行事会所と言う所であり、
左は面番所与力と同心二名が昼夜を問わず控えている。

7代目大門四郎兵衛は腰の低い柔和な男で
「先ずはお武家様のお話をお伺いいたしましょう」と由太郎を見やった。

やっと話が通じそうな雰囲気に安堵したのか、これまでの経緯をかいつまんで話し、
その女衒によって奉公に連れだされたお小夜を探していることを話した。

「う~ん」
四郎兵衛は腕組みをしながら
「なんとも辛いお話ではございますが、この吉原には二千人以上の遊女がおります、
しかもそれぞれに源氏名を持ち、元の名前は判りません、
この中で手がかりをつかむということはまずご無理でございましょう。

まぁ出来る事といえば見世を覗き、一人ひとりのお顔を確かめる以外どうにもならないと
存じます」とやはり無理ということには変わらない返答であった。

「それでもとおっしゃいますならばお気の済むようにお探しなされば
よろしいでございましょう、この四郎兵衛が他の名主の方々にも申し添え致しましょう、
それでよろしゅうございますか?」
と由太郎の顔を静かに、だが毅然とした態度で見やった。

「何卒よろしくお願い申す」
由太郎は頭を下げて吉原の中でお小夜を探す事が出来るようになった。

とはいえ、そうやすやすと探せるはずもなく、吉原だけで二月を要した。

いつのまにやら由太郎の事が吉原の中にも知れるところとなり、
お小夜探しは奥のほうまで伝わって、
「あちきにもそのような主さんが・・・・」と羨む声を聞くようになっていたのである。

こうして浄念河岸から羅生門河岸まで探したが要としてお小夜の姿は見つからなかった。
最後の日由太郎は大門四郎兵衛に感謝の挨拶によった。

「おお それは誠に残念でございましたなぁ、この苦海に身を沈めたおなごは
生きてここから出られる者もございますが、そのままここで身を埋める者もおります、
どうかその御方がご無事で見つかることをお祈りいたします」と見送ってくれた。
すでに年は明け、浅い春がもう間もなく訪れようとしていた。

残された時間はさほど無い。
由太郎は他の岡場所へも足を運び探索を続けた。

上司や同僚からの嫌味な言葉もいまではまるで子守唄か励ましの言葉とさえ
思えるほどであった。

松平定信の断行した寛政の改革(1787~1793)で菎蒻島(こんにゃく島・霊岸島)、
あさり河岸、中洲、入船町、半蔵門付近の土橋、直介屋敷、新六軒、横堀、大橋、井ノ掘、
六間掘、安宅、大徳院前、回向院前、三好町、金龍寺前、浅草門跡前、新寺町、広徳寺前、
どぶ店、柳の下、万福寺前、馬道、智楽院前、新鳥越、鳥町、山下、大根畠、千駄木、
新畑、白山、丸山、行願寺門前、赤城、市谷八幡前、愛敬稲荷前、高井戸、青山、氷川、
高稲荷前、三十三間堂など五十五箇所が取り潰されたものの、深川仲町、新地、表櫓、
裏櫓、裾継、古石場、新石場、佃、網打場、常盤町、御旅所弁天、松井町、入江町、
三笠町、吉田町、吉岡町、堂前、谷中、根津、音羽、市ヶ谷、鮫ヶ橋、赤坂、市兵衛町、
藪下、三田の二十六箇所は残った。

これ以外にも水茶屋から飯盛旅籠、果ては船比丘尼に夜鷹となると
探す当てはもう星の数ほどになろう。

由太郎は俸祿が出るたびに米を買い、お小夜の父親の元を訪ね、
合間合間に隣の菜園に手入れをしながらの人探しである、
中々想うように進まない現実がそこに横たわっていた。

こうする間にも帰国の時は迫り、ついに探し当てることもかなわないまま
帰国せざるを得なくなったのである。

「五兵衛、私は一旦殿のお供で帰国致す、だが又必ずや江戸に戻りお小夜を探しだす、
それまで達者で居てくれ、貧者の一灯、少なくて済まぬ」
そう言ってこれまで爪に火を灯すように溜めた金子十両を五兵衛の枕元においた。

「由太郎様・・・・・」
五兵衛は枯れ木のような腕で由太郎の手を握り締め大粒の涙をこぼすばかりであった。

翌々年、葦の角ぐむ頃由太郎は再び参覲交代のお供を願い出た。

上役にも由太郎の一件は知れわたっていたもので、呆れ半分
「何故そこまで」と小馬鹿にさえする者も出ていた。

由太郎の両親さえも
「程々に致さねば、お役を果たしてこそ武士の面目、
たかがおなご一人にその道を間違ぅてはならぬ」と強く戒められた。

親からも周りからも言われれば言われるだけ由太郎の思いは熱く大きくなっていった、
それは若さゆえのことなのかもしれないが・・・・・
こうして、又由太郎の探索が引き続き始まった。

その年も巷に秋風が吹き始めた頃、間もなくして内藤新宿の飯盛旅籠に
それらしきものがいると探し当てた。

街道筋から一つ外れたその旅籠は土地の者や人足たちが多く出入りしている場末にあった。

「いらっしゃいまし!」と一歩入ると奥から低い老けた声が出迎えた。

「いや 泊まりではない、人探しを致しておる、少々尋ねるが、
ここにお小夜と言うおなごは奉公いたしておらぬか?」と切り出した。

「はァン 何だい泊まりじゃぁ無いんで・・・・・」
と由太郎の頭から爪先前じろじろ眺め

「お前さん あの子の間夫かい?」と切り出した。

「間夫?それは一体何だ?」と由太郎問い返した。

「はぁ やっぱり浅葱裏者ンだねぇ、そんなことも知らないなんて!
だからあたしぁかっぺは嫌いなのさ!」
と吐き捨てるように由太郎を一瞥して横を向いた。

「お小夜はおるのか!どうなんだ!!」
由太郎はこのやり手婆ぁの襟首をひっつかんで詰め寄った。

「判った!判ったからこの手を離してくださいよ!」
と急に弱々しい態度に出た。

「あの子にゃぁまだ奉公の貸しが残っているんだよ、
それをお前様が払ってくださるんでござんしょうね!」
と襟元を直しながら見上げた。

「それよりもお小夜は何処におる、早くお小夜のいる場所へ案内いたせ!」
と由太郎は詰問した。

すると女将はふてくされたまま「あの子は労咳に掛かっちまって、
裏の物置に住まわせておりますよ」と奥まった物置小屋に案内した。

炭俵や薪が積み上げられ、日も当たらず人の住めるような場所ではない。
唖然としながら「このようなところへ・・・・」
と言いつつ奥の暗闇を透かせてみると何やら塊があり、
弱々しい息が途切れ途切れに聴こえて来た。

「お小夜?お小夜か?」その声に黒い塊がズレるように動いた。

暗闇の中でその塊を抱き上げ、高い小窓からわずかに漏れる木漏れ日に照らした
その中にお小夜の変わり果てた姿があった。

「お小夜!!・・・・・・」後はもう声にはならなかった。

物置小屋からお小夜のか細い身体を抱きかかえて表に出た由太郎、声を失ってしまった。
閉ざされた物置小屋の中で陽の光を失ってどれほどの時が過ぎたのであろうか、
食べるものもろくに与えれれず、ただ死ぬまでの間放置される、
それが病を患った女郎の定め、娼家の主にとっては厄介者以外の何物でもないのである。

お小夜の眼はもう見えていないようですらあった。

「貴様ぁ!!」由太郎の激情した気迫に恐れをなし、女将はガタガタ震えている。

お小夜を抱きかかえて店に戻ったところを店の若党がばらばらと由太郎を囲んだ。

「そこをどけ!!奉公人をこの様に扱ってそれでもお前達は人間なのか!
人の皮を被った畜生者ではないか!」
由太郎のあまりの気迫に押されて囲んだ輪を大きく拡げ、皆後ずさりをしている。

「まだ奉公の・・・・」と女将が言いかけたものへ
「人を人として扱いもせずその上にまだ何を求める!」と睨みつけた。

「わわわ 解りました、ご自由にお連れください!」と逃げ腰で道を開けた。

表に出た由太郎そばの町駕籠を呼び寄せお小夜を乗せた。
宿駕籠は別名雲助駕籠とも呼ばれ旅人には嫌われていた。
それでも一里が四〇〇文、内藤新宿から日本橋まで二里であった。

今の価格で言えば一文二十六円として換算すれば10400円、この2倍であったから20800円
蕎麦が1杯16文416円程度であるから800文は蕎麦が50杯近く食べられる金額である。

薄給の平侍には目の飛び出る金額であったろう。

おまけに途中で酒手(さかて・チップ)が必要で、これが運び賃の半額、
酒手をはずめばそれなりの効果があるのは言うまでもあるまい。

下手をすれば山の中や川の真ん中辺りで酒手の交渉というハメになる、
これが雲助駕籠の常套手段である。

身ぐるみ剥がすなんてことはないが値上げ交渉は効果的にやったようだ。
無事中村町火葬寺についた時、お小夜の身体は弱り切っていた。

ひと通りお小夜を薄い夜具を敷いただけの床にねかせてた由太郎、
浅草新鳥越町まで足を運び薬種屋を探し、訳を話してみたが、
労咳(ろうがい=結核)は死病と恐れられており、打つ手はないと言うものであった。

「どうすれば良い!?」
困り果てた由太郎は種屋の主に問いなおしてみた。

「左様でございますね、まずは風通しの良い所に住まわせ、
後は滋養のつくものを食べさせる、それ以外無いと聞き及びます」
と、どうすることも出来ない状況を思い知らされるだけであった。

「せめて甘草などを煎じて差し上げられますならば多少の本復も見られるかと・・・・・
甘はまず脾に入ります。
物は酸・苦・甘・辛・鹸(間=塩辛い)の五種類に分かれ、
この五つの味は臓腑とも関わりがございまして、「酸」(酸味)=収縮・固渋作用あり、
肝に作用する。

「苦」(苦味)=熱をとって固める作用あり、心に作用する。
「甘」(甘味)=緊張緩和・滋養強壮作用あり、脾に作用する。
「辛」(辛味)=体を温め、発散作用あり、肺に作用する。
「鹸」(塩味)=しこりを和らげる軟化作用があり、腎に作用する。」

と伝えられております、しかし甘は長く続けるとよくございません、
そのあたりが難しゅうございます、取り敢えずこの度は最小限のお試しをお薦めいたします」
と煎じ薬を半月分120文(19200)支払い譲り受けた。

由太郎は早速これを煮だし、お小夜に飲ませ、五兵衛に粥の支度や薬草の飲ませ方を伝えて
帰藩した。

数日後やっとお暇を許され、飛ぶようにお小夜の元へ駆けつけた由太郎は、
床の中に少し赤みを加えたお小夜の白い顔が目に飛び込んできた。

「お小夜!少し血の気が蘇ったか!」
もう後は言葉が続かず横になったまま小窓から差し込む光のなかで口を利くのも
つらそうな涙にくれる愛しい者を抱え込むだけであった。

「由太郎様・・・・・・」
五兵衛は二人の姿をくしゃくしゃになった顔にいつ果てるとも無く流れる涙を拳で拭った。

こうして半月の時が流れ薬種もひと通りの期限がやってきた。

由太郎の一途な思いが通じたのかお小夜は少しずつ回復の兆しも見えてきた。

「お小夜 本日の具合はどうじゃ?」
本所を出た時通りがかりに棒手振りに出会い買い求めたドジョウを手ぬぐいで包んで
下げ持って入ってきた。

すぐさま鍋をかけ火を炊きつけて「
ドジョウは精がつくそうだ早く元気になって儂や五兵衛を喜ばせてくれ!」
由太郎はドジョウを背開きにして、前の畠でゴボウを抜いて
細く小さくお小夜が口に入れやすいように刻み、ほそぼそと芽吹いている葱を刻み、
懐から大切そうに卵を取り出して割り入れ、味付けといえば僅かな塩を添えるだけ、
それでもささやかな食卓は気持ちでいっぱいあふれていた。

「これはな!抜き鍋と言うてドジョウの頭と骨と腑を抜き、
臭みを取りそこへゴボウを刻みこんで味をつけるだけのものだが滋養満点だそうだ、
卵はこの近くの百姓屋で一つだけ分けてもろうた、もう少しましなものをと思うが済まぬ、
想うようにしてやれぬ儂を許してくれ」割れ欠けている器に熱々のドジョウをついで
お小夜の口元に運ぶ。

「どうした、なぜ食うてはくれぬ?左程に不味いか?」
由太郎はお小夜が想うように口を動かさないのをいぶかって尋ねた。

お小夜は小刻みに震える手で由太郎の手にすがるように握り涙をボロボロとこぼし見上げた。

「よいよい、とにかくお前の本復が何よりだからな、五兵衛も少しは動けるようにならねばなぁ、わしも毎日来てやりたいがお勤めがあるゆえ中々そうも行かぬ許してくれ」

こうしてまばたきをするほどまたたく間に師走を迎えようとしたある日由太郎は
出たばかりの俸祿を抱えてお小夜の元を訪れた。

わずかばかりではあるが餅代と称する手当も出た、不足している米、塩、卵などを買い求め
久しぶりの訪問であった。

近くの農家で干し藁を譲ってもらい、部屋に隙間なく敷き詰めた、
これで床の冷え込みが幾らかは和らぐだろう。

敷布団の中に籾殻を鋤きこんで身体が当たる部分や痩せこけて異様に思えるほど
骨が浮いて少しでも当ると痛むのを少しでも緩和させようと工夫してみた。

「どうだ?少しは身体が楽か?」
由太郎の問に、わずかに微笑みを見せてお小夜は由太郎の腕をまさぐった。

その弱々しいお小夜を由太郎は掻き抱いて涙の出るに任せ背中を優しく撫ぜてやる。
ほっそりとした背骨の感触が薄い着物を通して由太郎の指先に伝わる。

「このわしの胸の中でくつろげる日がいつか必ずややって来よう、
それを夢見て養生してくれよ」いつまでもお小夜の頭を抱え込んで温もりを伝え合っていた。

お小夜も五兵衛も小康状態を続けたまま年も開け、江戸にも葦原に水のぬるみが訪れ、
そこここに角ぐむ葦が水辺に顔をのぞかせるのも、もう間近であろう。

1月に入って中々出る機会が与えられず、やっと許可が出て飛ぶようにお小夜の元へ駆けつけた。
戸を開けると由太郎を認めて五兵衛が、
「お小夜がお小夜が!!」とにじりだしてきた。

「どうした五兵衛!お小夜がいかが致した」
と言いつつお小夜の横になっている姿を見て驚愕した。

息が荒く額に手をやると焼け火箸を掴んだような熱さである。
「五兵衛いつからこのようになっておった!」
いそぎ土間の水瓶から手水に汲み出し手ぬぐいを浸しお小夜の額に置き、
手早く消し炭をおこし湯を沸かして、やせ細った顔や肩口から胸乳と拭って少し身体を
横向きに起こし、何度も湯で温めながら先ずは身体自体が呼吸できるよう
丹念に清拭を済ませた。

師走に訪れたおり洗い替えておいた粗末な衣服に着替えさせる、
それだけで精一杯のお小夜の身体の状態である。

「五兵衛!水は十分に汲み入れておいた、そのままでも手の届くように土間に持ってきておる、
わしの留守のおりはなんとかお前がお小夜の面倒を見てやってくれ、頼むぞ」と五兵衛の手を
とって懇願した。

五兵衛は由太郎の顔を見上げ弱々しい声で「由太郎さまぁ・・・・・・」
それが精一杯であったろうか、せんべい布団にくずれた。

由太郎は湯を沸かし、幾度もお小夜の吹き出す汗を清拭してやり額を冷やした。
どれほどの時が過ぎたのであろうか、
ふと気がついていつの間にか眠りこけていたことに気づいた。

小窓の外を見ればすでに夜は明けて清々しい朝の日差しが1月と言う季節とも思えぬほど
暖かく差し込んでいた。

しまった!門限を・・・・・!由太郎は急いでお小夜の身支度を済ませた。
少し熱も冷めかけたうつろな目で由太郎をお小夜は探し求めている。

「お小夜、儂はここだ!本日は殿のお供で登城せねばならぬ、いそぎ戻らねば間に合わぬ、
許せ!」
とお小夜の手を握り締め、後ろ髪を引きずりながら本所の津軽藩邸に戻った。

当然といえば当然のことながら、すでに登城の行列は発った後であった。

お留守居役が駆け込んできた由太郎を認め
「貴様ぁ本日の御役目をないがしろに致しおって、それでお役が務まると想うてか!!」
激しい剣幕で詰め寄った。

「誠に持って申し訳もござりませぬ、急な病にて看病致しおりましたまま
つい寝込んだものと・・・誠に申し訳ござりませぬ」
と頭を土間にこすりつけて不徳を詫びた。

「愚か者!そのごとき事で大事なお役を投げ出すは怠慢以上のもの、
いかに厳しきお沙汰が下りるやも知れぬ、まかり間違えばこの儂とて
監督不行き届きの責めも負わされるやも知れぬ一大事を、よくもよくも貴様というやつは!!
こうも抜け抜けと申せたものよ、先ずは部屋にて謹慎いたせ」と眉間に青筋立てて叱責した。

夕刻登城から帰藩した藩主から留守居役を通し向こうひと月の謹慎が言い渡された。

「えっ!!・・・・・・・ひと月でござりますか!」由太郎はそれ以外の言葉を失った。

この言葉の重さをこれほど衝撃を受けて聞いたことがなかった。

「貴様だけではない、このわしも監督不行届けの儀ありと殿よりお叱りを被った、
この責めをどう貴様は受けるつもりじゃ」と激しい剣幕で由太郎に迫った。

「お許しのほどを、どうかお許しの程を願わしゅうござります」
もう頭をこすりつけて謝る以外どのような方法も由太郎には見いだせなかった。

「次の参覲交代はお許しも出まい、そこ元の家にもかよにう申し伝えられるであろう事を
今から覚悟しておけ!」激昂したまま留守居役は席を立った。

そのまま由太郎は平侍の部屋から最小限必要な当番の作業と厠への出入り以外は叶わなかった。

なんとかお小夜に連絡を取ろうと仲間の侍にも打診するが、
皆君子危うきにとそそくさとはぐらかして行ってしまい、どうにもならない。

動きの取れない気懸かりな二人の暮らしを、どうにも助ける手立てが思い浮かばない。
悶々とした日々を過ごし、やっと謹慎が解けたが外出の許可は叶わなかった。

こうしてついに国元へ帰藩する日がやってきてしまった。

由太郎は「江戸を去る前に気がかりとなっている者を訪ねたい」
と上司に懇願し、夕刻までに帰藩することを条件にやっとお許しを戴き、
津軽藩邸の道を一つ挟んで藤堂佐渡守屋敷角の質屋(ふくしま)に立ち寄った。

由太郎は暖簾をくぐり
「まこと無理をお頼みいたしたいのだが・・・・」と大刀を腰から抜き出し、
「これを買うてはもらえぬか、人助けの金子が必要になったゆえやむをえぬ選択なのだ」
と頭を下げた。

店の主は驚いた様子で由太郎の眸(め)を覗き入るように見たが、しばらくして
「お困りのご様子、判りました、お刀を拝見させていただきましょう
」と受け取り、懐紙をくわえ 一礼して刀と縁と柄頭につける飾り金具の縁頭の材質や彫り、
刀身が柄から外れないように留め釘を打ち込む目貫の材質や形を拝見し、
鞘尻を向こうに構えすらりと抜き、表・裏と眺め、刀身の長さ・反り・幅・厚さ・刃文・
沸でき・匂いでき・足・造り込み・鍛え肌と働きを切っ先まで見極めた後静かに元に納め、
鞘の色模様など色々と見定めて

「血曇りもなくよくお手入れされてございますが、ただそれだけの物にて
多くは差し上げられませんがそれでもよろしゅうございますか?」と念を押した。

「いくらなら引き取ってもらえるのであろう?」と恐る恐る尋ねた。

精一杯で15両(150万円)ほどならばお引き受けいたしますが、
それ以上はお引き受けいたしかねます」と答えた。

「・・・・・・・」由太郎の反応を見た主が
「その替りと申しますと誠に失礼とは存知ますが、
お腰しの物がなければご不自由と・・・・・この中からお好きな物を一振り
お持ちくださいませ」
と赤鰯(錆びたりして赤イワシと呼ばれる質草の駄剣)を持ってきた。

「かたじけない、ではそれでよろしくお頼み申す」
と15両を受け取り、剥げかけた真塗り(黒漆)の一振りを貰い受け腰に差して出た。

お小夜のために古着屋へ立ち寄り肌襦袢や長着を求め、必要な塩やろうそく、
食料などを買い込み、急いでお小夜の待つ谷中の火葬寺裏に向かった。

駆けつけた小屋の前に由太郎の目に想像だにし得ない光景が飛び込んできた。

戸口が開いた まま小屋の横の由太郎が手入れをしていたささやかな菜園に
五兵衛が前のめりに伏し倒れていたのである。

驚愕の眼差しで小屋に駆け込んだ由太郎の目に飛び込んだのは、すでに身体は硬直し、
ひび割れた唇に手ぬぐいをくわえたままこの寒さゆえに腐敗することもなく
冷たくなっていたお小夜の痛ましい姿であった。

これは水を飲む気力もなく湿らせた手ぬぐいでせめて喉を潤わせたのであろう。

嗚呼!!由太郎は悲鳴を上げて駆け寄りお小夜を抱きかかえた。

「お小夜!!!お小夜!!!!」あらん限りの声を上げて由太郎は絶叫した。

ただただ信じて待ち続け、人も寄り付かない場所のために食べるものが全くなくなり
餓死していたのである。

水瓶はすでに底をついていた、おそらく水ばかり飲んで腹を満たせていたと想われる。

このような理不尽なことがまかり通る世の中とは・・・・・
たった一度の己の油断からうたた寝したために、謹慎処分となり、
それがこの飢餓地獄を生み出したのである。

「お小夜!五兵衛!許してくれ、このわしの不甲斐なさを許してくれ!!!」

由太郎は頭を土間にがんがん叩きつけ両拳を血がほとばしるに任せたまま
涙が枯れ果てるまで打ち付けた。

湯を沸かし、お小夜の身体を隅々まで拭き清め、古着屋で求めてきた洗いたての肌襦袢と
長着に着替えさせ、五兵衛と二人を火葬寺の大八車に並べ、
由太郎は二人の亡骸を南に下ったところにある浄閑寺に運び込み、
刀を売却した金子の残り十三両を供え、脇差しで自らの首を切り裂き死に果てる

「ゆえあり、添えてある十三両にて三名の菩提を弔っていただきたく、
寺社門前を血で汚すことをお許し願いたし。
津軽黒石藩藩士長岡由太郎」と書き置きが添えてあった。

この事件は暫くのちに平蔵の知るところとなった。

久々に菊川町の役宅に現れた嫡男辰蔵が
「父上!過日弥太郎に連れられて吉原に冷やかしに出かけましたおり
妙な武家と出くわしました。

何でも遊女に身をやつした、好いたおなごを探しておるとか申しておりました、
まぁ何と申しますか、そこまで想われれば本望でございますなぁ」
とつい話のついでに漏らした。

「辰蔵!お前ぇ弥太郎に誘われたのではなく、仙どのから戦金(いくさがね)を
せしめたのであろう?」
とニヤニヤ笑いながら問い詰められ

「いやぁさすが父上!中々に鋭い読み!」と頭を掻いたのを思い出した。

「のう佐嶋、おそらく辰蔵の申しておったあの者達であろうよ、
南町奉行所より聞く所によると、寺社奉行稲葉正諶(まさのぶ)様より
津軽黒石藩に事の次第のお知らせがあったそうな。

だがなぁ
「そのようなものは当家には在籍致さず、打ち捨てて下され」
とつれない返事であったそうだ。

侍の掟とは何であろうかのぉ、掟とは人のためにあるものと想うておった、
人が人らしく生きるために政はあると想うておった、だが此度はそれは何の意味もなかった。

不条理とはかようなことを申すものなのか・・・・・・」

平蔵の心のなかに罪とは一体何を指すのかという問が重々しく敷き詰められていった。


不条理は、世界に意味を見いだそうとする人間の努力は最終的に失敗せざるをえないという
ことを主張する。
そのような意味は少なくとも人間にとっては存在しないからである。
この意味での不条理は、論理的に不可能というよりも人間にとって不可能ということである。

拍手[0回]

PR