時代小説鬼平犯科帳 2016/11/12 11月号 五郎蔵死す 深川仙台堀今川町桔梗屋に慌ただしく駆け込んだ者があった。「おいおかみ!すまぬが耳かきだぁ!」聞き慣れた声に女将の菊弥が走り出た、それと同時に板前の秀次も表まで駆け寄ってきた「あらまぁこれは長谷川様如何がなされましたので?」と菊弥「ただならねぇお声なんでびっくりしやしたが、また慌ててどうなさいやしたんで?」秀次も前掛けを外しながら平蔵を出迎えた。「それどころじゃぁねぇ 耳かきだ耳かき、もう堪らぬわ!!」平蔵の慌てふためく顔がそんなに可怪しいのか二人は口に手をやりこらえているものの、どうにも我慢できないようで思わず声を上げてしまった。菊弥の差し出す耳かきをもぎ取る様に平蔵受け取って耳に差し込む。「あ~堪らぬ いやぁ堪らぬ」と、まるでかきむしるように耳を引っ掻き回しているところへ染千代が奥から出てきた。「まぁ長谷川様そのように無茶苦茶な事をなさってはなりません!そのようなときはなおさら丁寧に当たらなければなりませぬ、まずお上がりくださいませ・・・・・」と二階へ案内した。二階で染千代は自分の膝に平蔵の頭をもたせ掛けさせ、平蔵から取り上げた耳かきでやおら耳掃除にとりかかった。「う~ん 堪らぬなぁ いや何な 先ほど弥勒寺の笹やに寄り、おくまの顔を見て参った、そいつが間違いの元、万年橋を越えた辺りからどうも嫌な予感がして参った。上ノ橋をまたぐ途中でこう 耳が無性に痒くなり、そうなると居てもたっても居られぬ気の狂うほどでな、やっと桔梗屋まで辿りつけたと言うわけだ。何しろ小指を差し込めど、更にその奥が痒くなり、後は止めどなく堪らぬ!どうもおくまがわしの噂でも致しておるのか痒さは増すばかりいやぁ参った!」その言葉に染千代は可笑しさを抑えきれず吹き出しそうになるのを必死でこらえている。平蔵は染千代のなすがままに耳を預けて至福のときを堪能しているふうである。「このようなおりの長谷川様はまるでやんちゃな子供のようにございますね」と染千代が白い歯を見せて笑う。「そうは言われてもこればっかりはのう染どの、どうにも我慢ができぬ、いやぁこの心地よさは天にも昇る心地じゃなぁ」そこへ酒肴を整えて菊弥が上がってきた。「まぁ長谷川様それだけでございますか?」と意味ありげに染千代のほうにちらっと目線を移し女将の菊弥が念を押した。「うっん?それだけとは・・・・・・・・?」「あっ まぁ染ちゃんの膝枕で耳掃除なんて中々叶うものではございませんよ」と二人の反応を見やる。「まぁ姐さんったら・・・・・・」染千代は思わず手を止めて膝をよじった。「あっっ!」平蔵は染千代の膝枕から外れそうになって思わず声を出した。「あれ 申し訳ございません!」染千代は平蔵の頭を抱え直した。「まぁまぁ 仲のおよろしいことで うふふふ」と菊弥が袖で口元を隠して笑った。「私は子供の頃よく縁側で寝そべり、母上にこうして耳掃除をしていただきました、今は父上の耳掃除も時折致しますが、この時の心地よさはいつになっても変わりませんねぇ」としみじみとした口調で窓の外に目をやった。上ノ橋を挟んだ仙臺堀の向こうに松平陸奥守下屋敷の白壁が掘割に優美な影を落とし、その向こうには桜の艶やかな色目が咲誇っている。平蔵は染千代の膝の温もりにそこはかとない安堵感を覚えていた。そのくつろいでゆったりとした平蔵の顔を眺めて「長谷川様は何を思い出されて居られますの?」と染千代が梵天で耳の中をそっと撫ぜながら尋ねた。「うむ わしは幼き頃より母を知らぬ、染どのの先程の話を確かめようとて確かめようもない、このように母の膝も心地よかったのであろうかとな、たかが耳掃除と想われるやもしれぬが、わしにとってはこのひとときは宝のように想えてならぬ」平蔵はゆっくりと身を起こし染千代を振り返った。「いやぁ染どののお陰で何かこう、なくしたものを取り戻した思いで・・・・・・このような思いを皆が持てる世の中にしたいものよ」平蔵は堀に時折舞い落ちる桜の花の舞うがままの姿を目をほそめて眺めていた。そこへ板前の秀次が「長谷川様ちょいと仕込んだヒラメがございやすんで、こいつをと・・・・・」「ほう ヒラメとはなぁ、いやぁお前ぇの腕でどんなに化けるかこいつァ楽しみだぜ秀次」平蔵顔をほころばせて揉み手をする始末。それを見た染千代は「秀さん、長谷川様のご期待に沿わなきゃねぇ」とちゃちゃを入れる。「念にぁ及びやせんやぁ、じゃぁ早速」と秀次が下がっていった。平蔵の盃に酌をしながら「あっ そうそう!耳で思い出しましたけれども、先日材木商の中川屋さんがお連れになったお方に右の耳の後ろ辺りに大きなコブのあるお人が見えました。言葉遣いは丁寧なのでございますが、少し上方訛りが感じられ商人にしては目の据わった感じがあたしは気になりまして・・・・・」「で、その中川屋は常連の客なのかえ、それと、その連れの名前をなんぞ申さなんだか?」「はい 中川屋さんはこれまで二度ほどお見えになって居られますが、材木の仲買の方のようで、主に杉・檜を扱っておられるようでございました」「ふむ 檜といやぁ高嶺の材、商いも少々ではあるまい、で染殿が気になったのはそれだけでござろうかな?」平蔵は染千代の受け答えの中に更に深いものを感じ取ったようで、念を押してみた。染千代は少し考えていたが「このような商売でございますからお客様の事は話しずろうございます、けれど長谷川様には正直申し上げますと、あたしはあのお連れの方が好きではございません。表立っては穏やかに見えますが、眼の奥が冷ややかで目が合うだけで背筋が冷やっといたします。どこかにそのようなものを持っておられるのではと・・・・・・」「成る程なぁ 染どのの感はするどうござるからのう」そこへ秀次が膳を抱えて上がってきた。「おう きたきた 先程からこう 甘い香りがここまで上がってきておってな、今か今かと!!いやぁこいつぁ美味そうじゃ」平蔵早速向付けに手を伸ばした。「おい こいつぁ何だえ?少々の苦味が実に良い!」平蔵ご満悦の表情に秀次「ヘイ ヒラメの肝を酒につけておき、その後さっと茹でやして生姜をみじん切りにした物をまな板で叩いて混ぜあわせただけのもの、こいつをヒラメのおろしたやつに乗っけただけのもの、お気に召していただけやしたで?」「おお 気に入ったぜ!肝の僅かな苦みが生姜と醤油に馴染んで、又このヒラメのねっとりと絡みつく舌ざわりが、いやぁなんともなぁ春の味と申すか、のう染どの、こいつぁ親父どのにも薦めねば、あははははは」秀次は膳を勧めながら「このヒラメの中骨や皮を酒・醤油・味醂・砂糖・昆布出汁で煮出し、一晩置きやすと煮こごりが出来やす」「む どれどれ・・・・・ふ~・・・・・・おうおう このとろりとした味わいが、はぁなんとも妙味だのう、ヒラメに捨てる所なしとは申すが、いや中々に中々に出汁と交わる煮こごりのとろみが酒によく合う。しかし秀次、こいつぁ中々の大物と見たが」「へい まな板に座りきれねぇほどの物で、しっぽに目打ちを打ちやして、柳刃で裏表丁寧に鱗を落としやす。表に返して、背骨にそって尻尾まで切込みを入れて、尻尾の付け根と縁側の付け根全体にも切込みを入れておき、こうやって五枚に下ろしやす。剥いだ皮は軽く塩を当てて、酒で湿らせた昆布で包み寝かせておきやすと昆布締めが出来やす。残った縁側は醤油に漬け込み、白飯にぶっ掛けて山葵を添えても美味しゅうございやすが、こいつぁひつまぶし、とてもお客さまにゃぁ差し上げられやせん、えへへへへ」「そのエヘヘがどうも怪しいぜ秀次!さっさと吐いちまいな」平蔵は秀次の跡を取って催促した。「へい 仲間内じゃぁそんなもんをひつまぶしと申しやす、ですがこいつが中々旨ぇ、でまぁお客にゃぁすまねぇが役得ってもんで・・・・・・へい」と頭を掻く。「ったくお前ぇらのやるこたぁ抜け目がねぇなぁ、で その縁側はどんな感じだえ?」「と言われると想いまして・・・・・」と女将の菊弥が小鉢を持って上がってきた。一晩漬け込まれてしっかりと味の染み込んだ縁側に「こいつぁコリコリと歯ざわりもよく、山葵の香りと辛味が絶妙だなぁこれなら飯がお代わりになるであろう、ふむふむ成る程、酒にも良いぜ!」平蔵ご満悦である。刺し身はしっとりと寝かされて旨味が全体にまわり、口に入れると舌に絡みついてくる。皮の昆布締めも、昆布が飴色に移って水気も飛んでしっとりと身が締まり熟成した旨味が応えられない。平蔵は染千代の酌に任せて、冷えた身体も程よく温もり、お熊の噂も病んだのか、耳の痒さもどこかへ飛んでいったようである。「ヒラメづくしのお終ぇはこいつで・・・・・」と秀次が皿を抱えて上がってきた。「おう まだ残っておったか、よし!召し捕って遣わそう!あはははは、でそいつが締めの野郎だな、どうも美味そうな匂いが上がってくるが、一向に其奴の顔が見えぬのでいぶかっておったところよ、どれどれ!おおこいつぁ煮付けだな」平蔵は盃を納めて箸を取り上げ、桜の若葉のような飴色に染まった煮付けに手を伸ばした。「いかがでございやす?」秀次は平蔵の言葉を催促するように顔を見た。「う~ん 蕪と卵の煮付けだなぁそれにピリリと舌に残る房ハジカミの香りがまた粋だのう、煮付けの加減がさすが秀次だ!」平蔵のベタ褒めに「長谷川様にそこまで言われますと、あっしぁ板前冥利に尽きるってぇもんでございやす」と秀次満足の様子であった。帰り際に秀次を招き寄せ「すまぬがもう一つさばいて染殿に持たせてくれぬか、親父どのの寒気見舞いと申してな」と懐紙に包んで託けた。「へい 承知いたしやした!」秀次は頭を下げて平蔵を見上げた。店の外では菊弥と染千代が平蔵を見送るために並んで待っていた。仙臺堀の川面を駆け抜けた風が少々過ごした酒で火照る平蔵の顔を心地よく撫ぜてゆく「春か・・・・・このひとときがいつまでもと願ぅことは無理と承知だが、涼やかでもあり温もりもある、人もこうでありたきものよなぁ」ポツリと平蔵はつぶやいて染千代の顔を見た。そこには穏やかな染の笑顔が控えていた。こうして何事も無く数日の時は流れたある日「お頭 道中回状が届きました」と、沢田小平次が奉行所からの回状を持ってきた。それは近頃御府内に入ったと想われる各方面からの手配書であった。何気なく繰り越していた平蔵の目に止まった人相書があった。(鯰尾の弥平次)人相書にはそう記されており、「この者近江より尾張一帯にかけて盗み働きあるものの、いまだ捕縛これなく、証となるもの何一つなし、風評に右耳の後ろ辺りに一寸ほどのコブを認む」とあった。「何と・・・・・・」平蔵は過日仙臺堀今川町の桔梗屋で染千代から聞いた人相と酷似した特徴が気にかかった。すぐさま密偵たちが呼び寄せられこの回状が示されたが、誰一人この鯰尾の弥平次を知る者はなかった。「うむ 皆が知らぬとなれば闇に影を追うようなものだのぅ・・・・・何か打つ手はないか・・」御府内で動く前に捕らえてぇものだがなぁ・・・・・・お前ぇたちもこのことを腹に納めて探索にあたってくれ」平蔵はそう念を押した。こうして何の手がかりもないまま半月が過ぎようとしたある日、大滝の五郎蔵は本所の回向院門前に差し掛かっていた。すでに桜は見事なまでの若葉に衣装を着替え、風邪も爽やかに江戸の町を満たしていた。「あのぉ もし もしや大滝の五郎蔵さんでは?」と後ろから声が呼び止めた。いきなりの名前を口にされた五郎蔵、一瞬身構えて「誰でぇ!」と振り帰った。「お忘れで? この顔に見覚えはござんせんで?」と五十前後のがっしりとした体躯の潮風に洗われたように浅黒い顔が五郎蔵の前に現れた。「ンッ 確か・・・・・幾松」「おや 覚えていておくんなさったとはありがてぇ、その通り千成の幾松でござんすよ」と男は表情をゆるめて五郎蔵の真正面に立った。背中越しに昼間の陽が五郎蔵を照らしている。その陽を遮るように男は五郎蔵の前に立ち「ところで五郎蔵さんはまだおつとめはなさっておられるんで?」探りを入れるような目つきで覗き込んだ。「御府内は鬼の平蔵とか何とかの眼が厳しく、盗人にゃぁ物騒な世の中だ余程の持ちかけでも無ェかぎり動く馬鹿もあるめぇぜ、で、お前さんは今どうなさっているんで?」と話を横に向けて出方を誘ってみる。「あっしもご同様で、この五年ほどは近江から尾張あたりでつとめて折りやしたがね、お頭が江戸で一花咲かせてみてぇとおっしゃるもんでね、で まぁケツにくっついて来たってわけで、こんなところで昔なじみの五郎蔵さんに出くわすなんざぁまんざらでもねぇご縁のようでへへへへへ」幾松と呼ばれた男は五郎蔵を値踏みするように上から下まで舐め尽くした。「で、お前さんのお頭は何とお言いなさるお方で?」と問いかけた。「五郎蔵さんはご存知あるめぇが、江商の末裔とおっしゃる鯰尾の弥平次お頭でござんすよ、何でも子供の時分にお店に押込みが入ぇって、一家皆殺しの目に会われなさった、鯰尾のお頭だけが運良く傷も浅く助かったと言うことのようで、それ以来盗人の仲間に入ぇって仇を探しているうちに行き着くところまで行き着いちまったってぇことのようで、あっしもそれ以上は知らねぇ、最も知ったところで何にも変わりゃぁしねぇえしねぇ」と五郎蔵の帰ってくる言葉を待った。「さようですかい、で 今はどちらにお宿を・・・・・」「おっと そいつぁまだ、ところで五郎蔵さん仕事をすけてくれる気はねぇでござんしょうかねぇ?」「あっしがですかい?」「そうよお前さんよ、お前さんの度胸と腕!そいつが欲しい、お頭にゃぁ俺の方で引き合わせようじゃァねぇか、それでどうだい?」「判った!このご時世だ少々懐も寂しくなってきたって思っていたところよ、よろしく頼むぜ」「合点!引き受けた、じゃぁ又繋ぎを待ってくんねぇ、どこへ繋げばいいんで?」「ああ それじゃぁ本所二ツ目橋たもとに軍鶏鍋やの五鉄ってぇ店がある、そこの相模の彦十を訪ねてくれりゃぁ俺につながるように段取りしとこうじゃぁねぇか」「判った、じゃぁまた」そう言って幾松は去っていった。その足で五郎蔵は五鉄に戻り、彦十に繋ぎのことを頼んで帰っていった。そうして数日が過ぎた頃、五鉄に若い男が彦十を訪ねてやってきた。「彦十さんで?」「俺が彦十だが、どんな話でぇ?」彦十はそれとわかったので三次郎に目配せを送り奥の座敷に案内した。「五郎蔵さんに繋いで欲しいんだが、こう伝えてくんな、お頭があってみてぇとおっしゃるんで、ついちゃぁ明後日朝四ツ日本橋堀留町の椙森(すぎのもり)稲荷社までご足労願いやすと」「分かったよ、五郎蔵さんにそう伝えりゃぁいいんだな」彦十は使いの男をしっかりと眺めたが、別にこれと言った特徴もなく(軽い野郎だぜ)と想ったくらいのものであった。早速このことを本所菊川町の長谷川平蔵の役宅に報告と相成った。「ほうほう、で彦十 五郎蔵は何と申しておった?」「へい それがね、しばらくは一人で動きてぇから長谷川様にそのようにお断りを申し上げてくれって、ヘッどこまでやるつもりなんでござんしょうかねぇ・・・・・」彦十はあまり群れたがらない五郎蔵に不満の様子である。「五郎蔵はそのお頭が手配書にあった鯰尾の弥平次と踏んでおるのだな?」「へぃ そのように言っておりやした」「あい判った、彦!ご苦労だったなぁ、ゆっくり休め、後は五郎蔵の繋ぎを待つしかねぇなぁ」その翌々日五郎蔵の姿が五鉄にあった。平蔵の厳しい達しで盗賊改めの者は誰一人五鉄の周りに見られない、これは万が一のことを考慮しての平蔵の伏せであった。事実この数日五鉄の周りを徘徊する者をおときが認めている。「で 五郎蔵さん先方の話はどんなふうで?」彦十が話に水を向ける。「うむ 腕の立つ者を紹介して欲しいようだ」「腕ってぇとヤットウのほうかい?」と彦十「うむ どうやら急ぎばたらきのようで、血なまぐせぇ事になりそうだぜとっつあん」五郎蔵は腕組みをして深い溜息をついた。「で?どうすんだい?そのヤットウをよぉ」「それよそのことを長谷川様に繋いでお指図を仰がなきゃぁならねぇ、だが俺が出向くとまさかのことも考えりゃぁ長谷川様のこの度のお達しが無になっちまう、で三次郎の旦那に買い出しのおり密かに繋げねぇかと」「そいつぁいいや!三次郎なら誰も気づきゃぁしめぇよ、よしそれで行こう!」と言うわけで、この繋ぎは三次郎に託されることとなった。無論五鉄の周りは密偵の眼が光っている、平蔵への繋ぎは造作も無いことであろう。案の定その翌日には平蔵からの指図が五鉄にもたらされていた。その助っ人の浪人は沢田小平次ということであった。「何とあの沢田様が・・・・・・」五郎蔵はこのような場合平蔵自らが買って出ると思っていたからである。早速沢田と待ち合わせて、先方の繋ぎを待った。翌日には過日の若い衆から五鉄の彦十に繋いできた。どうやら顔見世のようである。沢田と五郎蔵が連れ立って指定された場所に出向いた。そこは過日五郎蔵が幾松の指定してきた日本橋堀留町椙森(すぎのもり)稲荷社であった。しばらく待っていると、辺りの気配を確かめたようで、少し遅れて現れた。「お頭は?」五郎蔵が口を切った。「お頭は当日までお出ましにゃぁならねぇ、替りと言っちゃぁ何だが、この千成の幾松が確かめさせてもらいやす、ねぇ五郎蔵さん念を押すようだがそのお侍ぇさんの腕は大丈夫でござんしょうね、お頭はそのことを気になさっれ居られやしたもんでね」幾松は沢田小平次のつま先から頭の天辺までまるで蛇のようにじっとりと執拗になめ上げた。「俺がこのお人と思っての口利きだぜ、そこまで勘ぐるたぁ・・・・・」その言葉を遮るように沢田小平治が刀の鍔に手をかけた「ままままっ待っておくんなさい悪く取られちゃァ仕方がねぇが、そんなつもりで言ったんじゃぁねぇんで・・・・・」と幾松が五郎蔵の言葉を制した刹那、(ヒュッ!)と瞬間音がしたようで何かが光った。沢田小平治が刀を抜いて下段に下げている。「じょじょじょ冗談ですよぉ旦那ぁ・・・・・」幾松が両手を振って沢田を制した。「冗談ではない!お前の足元をよく見ろ」沢田小平治が幾松にそう促した。足元を見た幾松は目をまんまるに見開いてガタガタ震えだした。足元には幾松の煙草入れの紐が切れて転がっていたからである。「わわわわ判った!判った!腕の方も確かにこいつぁすげぇ、これで決まりだ、早速お頭にご報告しておくよ五郎蔵さん!」幾松は紐に切れた煙草入れを拾い上げながら「へ~目にも留まらぬとは聞きやすがまさかねぇ、こりゃぁぶったまげたぜ五郎蔵さん」幾松は煙草入れを懐にしまいながら沢田小平次の顔を眺め直した。それから四日の時が流れた。再び五鉄に繋ぎが来た「せんだってのところまで二人揃ってご足労願いたい」と言う言伝である。時は暮六ッの鐘が鳴り始めた頃であった、椙森稲荷社の燈明がゆらゆら揺れる中であった。「大滝の・・・ご苦労さんだなぁ」声が飛んできた。よく見ると見覚えのある鯰尾の弥平次であった。「鯰尾のお頭・・・・・・」と五郎蔵「おお 覚えていておくんなさったかね、そこのお侍さん、俺が鯰尾の弥平次だ、この度ぁ助っ人をよろしくお頼みしますぜ、ところで五郎蔵さん、お前さん挿げ替えやに知り合いでも?」「挿げ替えやでございやすか?さぁ一向に知り合いも覚えもござんせんがねぇ」と動揺することもなく五郎蔵が返事を返した。「左様で・・・・・・じゃぁ先だってお前ぇさんが本所弥勒寺門前で話し込んでいた奴を知らねぇとお言いなさるんで?」冷ややかな目つきで五郎蔵の返事を伺った。「弥勒寺・・・・・・ああ あん時の、ありゃぁ通りがけにちょいと鼻緒がゆるんじまったので、その時のことでござんしょう?」といなした。「ところがねぇ五郎蔵さん、悪い事ぁ出来ねぇって言うじゃァねぇかい、お前さんが立ち去ったその後、その挿げ替え屋が店を畳んじまった、何故だとお思いだね?」「さぁ あっしにゃぁ関わりの無えぇことで」「そうだといいんだがねぇ五郎蔵さん、お前さんを張っていたうちの若ェもんがそいつの後を従けたとお思いなされやし、何とたどり着いたのが本所菊川町、事もあろうに火付盗賊改方役宅・・・・・・」そう言って五郎蔵の反応を確かめるように眼を据えた。五郎蔵は動じることもなく「そいつぁ又ご丁寧に、ですがあっしにゃぁ何のことだかさっぱり、何しろ鼻緒をすげ替えてもらっただけの関わり、どこの誰かもしりゃぁしませんよ」とはぐらかそうとしたが、「なぁ五郎蔵さんわしも一廉のお頭と言われている者だ、まかり間違えりゃぁ子分の生死にも関わってくるとなりゃぁねぇお前さん、ここは慎重になろうってもんじゃァねぇのかい?」「そうなるとお前さんが口利きのご浪人さんの身元もどこまで信用できるか判ったもんじゃぁねぇ、違いますかい?」今度は沢田小平次の方を見据えて反応を確かめようとする。沢田小平次はすぐさま口を挟んで「俺はこの男と土場で知り会うただけのこと、何かうまい話はないかと聞いたら、用心棒の口があるが腕が必要と言われ乗ったまでのこと、何ならもう一度この場で腕試しでもいたそうか?」と刀の柄に手をかけながら落ち着いて答えた。「滅相もねぇ、お前様の腕はとっくにこの幾松が承知だ、が・・・・・疑いが晴れたわけじゃぁねぇ、でこういたしやしょう、この場でその五郎蔵さんを切り捨てておくんなさいよ、それならこちらも信用いたしやしょう、如何で?!」その言葉に一瞬五郎蔵がためらって腰を引いたその刹那振り向きざまに沢田小平次が五郎蔵を袈裟懸けに切り下げたからたまったものではない、五郎蔵が胸から腹にかけて着物が切り裂かれ真、っ赤な血がどっと吹き出してその場に倒れこんだ。「あっ!!!」その場に居合わせた中でのいきなりの出来事に一行があっけにとられている。「へぇ驚いたねぇお侍さん、いやぁ聞きしに勝るたぁこの事よ、さすがのあっしも肝をつぶしやした、よし気に入った!おい 誰か五郎蔵のとどめを刺しな!」そう言うと背中を見せて立ち上がった。子分の一人が近寄って五郎蔵のとどめを刺そうと胸ぐらをつかもうとした時、鳥居の影から灯りが近づいてきた、「チェッ!誰か来るぜ!引き上げろ!!」鯰尾の弥平次の低く鋭い声がその場に居合わせた者を急き立てた。ばらばらと椙森稲荷社の奥に消えていった。五郎蔵の遺体は南町奉行所によって検死が執り行われ、女房のおまさによって引き取られた。こうして稀代の大盗賊大滝の五郎蔵は消えていった。しかし、菊川町の盗賊改方では何の騒ぎもなく平穏な時が流れていた。密偵はどのような死に様であれ、盗賊改めとの関わりは一切なく又それでこそ密偵なのであった。この時から沢田小平次は鯰尾の弥平次の傍に控えるようになっていた。それから半月は過ぎようとしていた。小網町一丁目にある爪楊枝の老舗(さるや)の隣に近江屋と言う看板が掲げられた材木商がある。この二階に沢田を始め集められた盗賊仲間が時をやり過ごしていた。「そろそろ酒も飽きたし、ひと暴れしたいもんだが、こう静かじゃぁその気配もない、これではまるで囲いもんだ!」沢田小平次が幾松に不平を言った。「旦那ぁそうむくれないでおくんなさいよ、あっしらもお頭から言い含められておりやしてね、酒と夜鷹はいいが、出歩くことはご法度ときつく言い渡されておりやすんでね」と丼の中にサイコロをポンと放り込んで「こんな事ぐれぇしか慰めもありやせんやぁ」と半分諦めた面持ちであった。そんな時間が流れようとしていた時鯰尾の弥平次の子分が「支度をして待つようにお頭の言伝で」と知らせが入った。「やれやれやっとお神輿をお上げなさったか」幾松はそうつぶやいて「おう!皆んな聞いての通りだ、今夜辺り押込みになりそうだぜ、支度して控えておくんなさい、旦那もね!」と沢田小平次の方を見やった。「判った、で 押し込み先はどこなんだ!」と小平次が問いかけた、が 返事は思惑を外したものであった。「そりゃぁ今夜のお楽しみってぇところですよ旦那!」と意味ありげに沢田小平次を振り返った。(何としてもお頭に繋ぎを取らねば、このままではまんまとしてやられてしまう、かと言って自分一人でこの十名を越す者を防ぐ手立てはないし、斬り伏せられようとも思えぬ、はて、困った。これは沢田小平次の偽らざる心境であった。刀と言うものいくら切れても、がまの油売りの講釈ではないが刃に油がついては中々切れるものではない、ましてや人の脂は重い、二~三人は切れるだろうが後は滑ってまともに切ることは難しい、その結果串刺しにするしか無い、がコレも又厄介のことにこの脂と肉が刀に絡みついて素早く抜くことは出来ない、それほど人の肉は厄介なものなのである。相手の身体に足をかけて力任せに引きぬく以外抜けないほどピッタリと食い付くものである。そうこうするうちに日も暮れかけ、町には夕闇の帳が立ち込めてきた。打つ手のない沢田小平次の心はいたたまれない気持ちで一杯になるばかり、だが周りはすべて鯰尾の弥平次の息のかかった者共ばかり、さすがの沢田小平次も如何ともし難い。(こうなれば出来る限りの手傷を負わせてでも押し込みだけは防がねばなるまい!そう心に秘めてじっとその時を待った。亥の刻を回ったであろうか、漆黒の闇の中に気配を感じて沢田小平次は跳ね起きた。階段の軋む音がして柿渋染で身を包んだ鯰尾の弥平次を先頭に数名の子分が上がってきた。「お頭!ご苦労さんでございやす」千成の幾松がそう声をかけて弥平次を迎えた。「で お頭!押し込み先はどこなんだ?!」待ちかねたその瞬間である、沢田小平次は鯰尾の弥平次の返答を待った。「そう急ぐこともありやせんよ旦那、荒布橋の下に小舟を用意してありやす、そいつに分乗して思案橋を潜って親父橋を越えたら新材木町に出やす、和國橋のたもとに船を繋いで上がった先に目指す材木商中川屋がございやす、そこが今夜のおつとめ先ってぇ寸法で、まぁ旦那のお手を煩わせる事ぁ無いとは思いやすが、先方にも腕っこきの強いお侍を何人か抱えているようで、そいつらが出しゃばった時にゃぁお前さんの腕を借りることになりましょうかねぇ、後はこいつらが綺麗に片付けますんで・・・・・」と連座して構えている子分どもを見回した。みな道中差を腰に打ち込んでいる。(如何に一刀流免許皆伝の腕とはいえ、一気にこの者たちを相手にするにはどうにも無勢、最早討ち死に覚悟で当たるしかあるまい、もともとそのつもりでお頭より引き受けた御役目、悔いを残すこともない)そう沢田小平次が心に刻んだ時、表の方で戸を打ち壊すような激しい音が起こり、続いて「火付盗賊改方長谷川平蔵である、鯰尾の弥平次一味の者おとなしく縛に従け、抗うならばこの場にて切り捨てる、覚悟して出てまいれ!」と大声が聞こえた。(何!!お頭が!)沢田がそう想ったのと同時に「何だとぉ盗賊改だと!!そんな馬鹿な!!」鯰尾の弥平次が吐き捨てるように叫んだ。二階から駆け下りるものや窓を飛び越して外へ逃げるもの、部屋の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。外は高張提灯がゆらめき、御用提灯もびっしりと取り囲んでいる様子である。(どうしてここが・・・・・)沢田小平次の脳裏にはこの摩訶不思議な打ち込みが未だに信じられない風であった。「盗賊改方同心沢田小平次である、神妙にいたせ!」道中差しを引き抜いて防戦体制に入っている鯰尾の弥平次に向かって沢田小平次が叫んだ。「何だとぉ盗賊改だと!!」仰天して思わず刀を握る力が抜けたところを沢田小平次が大刀の峯で打ち払った。鈍い音を立てて道中差が畳の上に転がった。「くそぉ なんてぇこった、よりによってお前ぇが盗賊改めとは、こうなっちゃぁどうしようもねぇ、とことん逆らってやろうぜ」大声で叫びながら道中差を拾い上げて沢田小平次に打ちかかってきた。「無駄だ!!」その一声が鯰尾の弥平次にはすでに届かなかった。沢田の放った一撃は弥平次の左の耳から胸板を走り左わき腹へと切り裂いていたからである。こうして鯰尾の弥平次一味は中川屋に押しこむ手前で食い止められた。菊川町の役宅に戻った沢田小平次は「どうしてあそこの場所がお分かりになられましたので?」と快刀乱麻のごとき平蔵の出現に、思っていたことをいの一番に尋ねた。「ああ あれかい? この度は五郎蔵の働きでな」とさも楽しそうに口元をほころばせる。隣で聞き耳を立てていた木村忠吾がひと膝乗り出し「しかしお頭!五郎蔵は沢田さんによって斬られたはず」。と沢田を見た。「忠吾!敵を欺くにはまず味方からと申すではないか、此度の事は、わしと沢田と五郎蔵が仕組んだ芝居だったんだぜ」「えっ?芝居、あのぉ 見世物の芝居‥‥‥‥‥でござりますか?」狐につままれてふうに合点もゆかぬまま忠吾は腑抜けている。「うむ 謎解きをして遣わそう、実はな、はじめに思いついたのは五郎蔵が助っ人を手配りするという話しからだ、わしが乗り出しても良かったのだが、長きに渡る場合を考えて沢田をあてがった、だがな あのように蛇のような念の入れようは尋常じゃぁねぇ、で 三人でちょいと仕掛けを企んだのよ、へへへへへ」平蔵はさも愉快そうに声を上げて笑った。「なんでございますかその仕掛けとは、お頭もお人の悪い、ご自分一人で合点穴されて楽しまれるとは、この木村忠吾少しも面白う御ざりませぬ」と少々置いてきぼりに不満の様子である。「怒るな怒るな、なっ!先程も申立であろう、敵を欺くにはまず味方からと、で五郎蔵に血袋を抱かせた。獣の血を腸に詰めてそいつを油紙に包み五郎蔵が腹に仕掛けておったのさ、そいつを沢田が真っ向切り裂いた」「アッ だから五郎蔵は血まみれで」「そうよ、ところが弥平次の野郎とどめを刺せとぬかしおった」「あれにはさすがの私も一瞬戸惑いました」と沢田小平次「そいつを鳥居の傍で見張っていたおまさが機転を利かせて提灯を点けた」「で 私は救われました、全く冷や汗が出ました」小平次はあの五郎蔵殺害現場を思い出して冷や汗が流れてきた。「その後は南町奉行所深川周り同心小村芳太郎と与力見習いの黒田麟太郎が手配り致し、密かに五郎蔵の骸を始末いたした。無論このことは前もって池田筑後守様の同意を得ての謀事じゃ」「なんだぁ そのようなことでござりましたか、それはさておきこの木村忠吾を抜いての謀事は合点が参りませぬ」とまだまだお冠のご様子。「まぁまぁ忠吾こらえろ、他の者も皆お前と同じ気持ちだ」と沢田小平次が忠吾をたしなめる。「ですがお頭、その後が私にはどうにも」と沢田「そこよそこんところが五郎蔵のここんところでな」と平蔵頭の真ん中に指をやってこんこん叩く真似をした。「奴が申すにはな、最も凶暴なスズメバチは蜂蜜をなめさせて、夢中になっている時、尻にこよりを結んでも気が付かねぇそうだ、そうしてじっと見てりゃぁお前ぇ、やがて巣に戻っちまう、そこで夜中に炙りだしてお宝を頂くってぇ寸法だそうだぜ」「と申されますと・・・・・」沢田小平次がすかさず尋ねた。「五鉄につなぎに来た野郎におまさと言うこよりを付けったってぇわけさ、野郎は五郎蔵がお前に斬り殺されたんで安心してお前を盗人宿に連れ込んだ、そこでヤツの後をおまさが微行て此度の盗人宿を突き止め、そこで隣の楊枝屋(さるや)に二階を借り受け昼夜見張っておったわけさ、で 蜂が巣に入ぇったとおまさから知らせがあり、周りを囲んで待ったのよ。案の定ノコノコと親玉が巣から出てきやがったところを打ち込んだというわけさ、どうだい忠吾これで得心がいったであろう?わはははははは」「恐れいりました、やはりお頭の上は行けぬものでございますなぁ」と沢田小平次「なぁに此度は五郎蔵の知恵がなくば恐らくは叶わなかったであろうよ、思えば恐ろしい男が我らの味方になっていたものよのう、今想うても背筋に寒気を覚えるぜ」これは平蔵の本心であったろう、血袋の細工やスズメバチの仕掛けなどさすがの平蔵にも思いもよらない奇策であったからだ。悪が悪を正す・・・こいつぁ あいつらなくしては成し得ぬ道理よ、表舞台だけでは物事何一つ成り立たぬ、その裏で同じような営みが繰り返されそいつが時として表舞台に踊り出た、そんな事だろうよ、特におまさにやぁ辛ェ思いをさせてしもうた、見せかけとは言え目の前で大事な亭主を斬り殺されたんだからなぁ、さすがにおまさの儂を見る目が辛かった。「その間五郎蔵はいかが致しておりましたので?」「五郎蔵かえ?南町奉行所で密かにかくまわれて逐一お前たちの行動なぞ黒田麟太郎によって儂にもたらされておった。仕掛けた後は巣立ちを待てばよいだけの雑作もねぇ戦であった。鯰尾の弥平次・・・・・・獲物をじっと待つあの執念は周到な構えの中で生まれたものであろう、親の敵が盗賊でそいつを見つけるために自ら盗賊に身を落とした、思えばこやつもまた犠牲者の形なのかもしれねぇなぁ、」平蔵はしらじらと明けてゆく春半ばの江戸の空を眺めた。 [0回]PR