時代小説鬼平犯科帳 2016/12/28 2017年新年号 万華鏡 麻布古河一ノ橋を渡りかけたところで、向こうからやってくる女に平蔵は見覚えがあった(確かあの女、忠吾と狸穴坂でみかけた女に間違いない)そう思いつつ振り返った女の足首・・・・・・(確かに忠吾の申す通り小股に赤い花びらのようなアザが・・・・・)「猫どの、ちと所用じゃ、儂はあの女の後を尾行けるがそちは如何致す?」「はい 私もお供をさせていただきます」と二人揃っての尾行とあいなった。やがて女は一ノ橋を渡り古河の入り組んだ飯倉新町の船宿一久に入った。平蔵と村松は再び一ノ橋に戻り橋の手前の辻番小屋に入り込んだ。ここは松平山城守の番小屋で足軽が詰めていた。村松忠之進が中に入り「こちらは火付盗賊改方長谷川平蔵様である、用向きによりしばしここをお借りしたい」と申し出た。「ああっ!はいどうぞ御用向きの済みますまでお使いくださいませ」と六十過ぎと想われる番小屋の男は迎え入れ、茶の支度にとりかかった。平蔵は「のうおやじ、向こうの飯倉新町の船宿一久だが、主は男かえ?」と声をかけた。男は「番茶でございますが」と軽く茶を差し出しながら「いえ、私の知るかぎりでは女将さんでございます。三年ほど前に売りに出されておりました宿を買い取ったとか、その買い主は男の方のようでありましたが、それきり姿を見ませんので、あの女将さんが主だと存じます」と話した。出された茶をすすりながら一刻待っても女は出てこない。(うむ ここがあの女の居場所であろうなぁ)平蔵は村松にそう言い「猫どの、まずは帰り、おまさにこのあたりのことを探るよう繋いではくれぬか?」と懐手で役宅に向かった。この先を語るには時を三年前に戻さねばなるまい。ここは木曽街道の妻籠宿(つまご)宿場女郎のりきは女の子を宿した、やがて生まれてきた子供は女であったために、宿でそのままりきが育てることになった。名はひさと名付けられた。ひさが十歳になった時母親のりきは時の流行病であっけなくこの世を去ってしまい、ひさは遊女屋夫婦によって育てられ、十五になった時水揚げをさされ、年季の開ける十年を辛抱した。それから足を洗うこともままならないまま板橋宿に落着いたものの男に騙され内藤新宿成子宿の宿場女郎に売り飛ばされてしまった。それから数年の時が流れた。ある日一人の客がこの女名を指名した。その日は生憎の雨模様で客も少なく、女郎ではすでに大釜のひさには客の指名も中々のものである、そんな時の客の指名で、ひさも嬉しかった。客の濡れた着物をいそいそと脱がせて洗いたての着替えを持ち出し「旦那 乾くまででもこちらのものに袖でも通しておくんなさいまし」と男に着せかけた。男は黙ってひさの言うとおりに着物に袖を通し、細帯を巻きつけ長火鉢の前に座って持ち込まれた盃を取り上げた。「まぁ此方に座って一杯どうだい?」男はひさに盃を向けた。「それでは遠慮無く」とひさは軽く受けて飲み干し、盃を返した。「お前さん幾つになりなさるね?」盃を受けながら男はひさの顔を見た。「はいお恥ずかしいんですけどもう三十路になりました」とうつむき加減に答える。「そうですかい、御苦労なさったんでござんしょうね」客は盃を重ねながらひさの指を見つめている。「苦労だけがあたしの財産みたいなもんで、生まれ落ちた時からのこの商売、逃れようたってどうにもなりゃぁしません」と目を伏せながら小さく笑った。こうして三年の月日が流れ、その間にもこの男は内藤新宿に立ち寄るたびにひさを訪ねてくれた。ひさは男が何者でどのような仕事を持っているかなぞということには一切触れず、ただこのひとときを精一杯穏やかに流れるように心を配った。その翌年、又冬がやってきた。男はひさを呼び、「お前さん江戸に出る気はないかい?」と尋ねた。突然の話にひさは驚き「あたしは何処と言って行くあてもなく、ここで骨を埋めるしかござんせん」と下を向いた。男はじっとひさの顔を眺め「よし、そうと判れば儂がこの宿の女将に話を付けようじゃぁないか、なぁにわしももうこの歳だ、江戸に出た時だけでも身の回りの世話を焼いちゃぁくれまいか。その為の住まいもわしが見るから、お前さんは安心して付いて来てくれればそれでいいのさ」と早速女将に話をつけに下に降りていった。しばらくして「おひささん、話はついたよ、明日にでもここを立って儂と一緒に江戸に行っておくれでないかね?」とひさの顔を見た。驚くひさに「わしはこの通り旅ばかりしている身、江戸にいる時だけは心を和ませる場所がほしいと想ぅてね、お前さんのこれまで見せてくれた器量や気遣いがわしは気に入った、それだけの事、まぁ小さな店の一つもと思うて麻布の飯倉新町に船宿を買っておいた、そこに落着いてわしの帰りを待っていてはくれまいか?」とひさの眼をじっと見つめた。ひさはうずくまったまま、男の言葉が未だに得心が行かない風で呆然としている。「おやおや お前さんを困らせちまったよううだねぇ、堪忍しておくんなさいよ、決してそんなつもりで言ったんじゃァ無いんでね」男は静かな微笑みを浮かべながらひさの手を取り「この年寄りの願いを叶えちゃぁくれまいか?」と穏やかな目で語りかけた。こうして翌日男とひさは住みなれた内藤新宿を後にした。男の名は男埵(おだれ)の幾松という、京から板橋まで木曽街道を荒らしまわっている盗賊の首領であった。だがこの事についてひさには何一つ知らされておらず、妻籠の旦那としか知らされておらず、旅の商人だと思っていたのである。船宿の仕事も、ほとんどは表に出ることでもなく丁場で船の手配をする程度であった。船も一杯だけで、船頭も男が見繕ってきたし、全てが揃っていた。こうして二年の月日は足早に駆け去り、三年目の春を迎えた。まだ家の中は肌寒い物の、外はわりと穏やかな日差しに暖められていた昼過ぎ、幾松といつも一緒にやってくる若い手代風の豊造が旅姿で「女将さん旦那様がお倒れなすった!」と駆け込んできた。ひさは驚くあまり持っていた盆を取り落としてしまった。徳利が弾き飛んで割れ、酒が床を濡らしてゆく、その場にへなへなと座り込んで口を半ばに開けたままわなわな震えるばかりであった。「女将さんしっかりしておくんなさいやし!」豊造はひさの手をつかみうつろな瞼(め)で宙を見つめているひさを揺さぶった。「豊さん!旦那様はどうして!今何処にいるの?」と怯えた目で豊造を見返した。「兎にも角にも支度なさって今から内藤新宿の大木戸手前にあります四谷永昌寺までお供いたしやす」と躊躇しているひさを急がせる。二人が四谷の永昌寺に駆けつけた時はすでに日が落ちていた。仄かな蝋燭の灯の中に待っていたのはおひさを待ちわびた男埵の幾松の息絶えた姿であった。おひさはその場に泣き崩れ、幾松の遺体にすがりついて嗚咽を漏らしながら耐えているのが豊松の目にもつらすぎた。翌朝二人は幾松の亡骸を永昌寺に供養願いをすませ、麻布の船宿一久まで戻った。そこで初めてひさは男埵の幾松が盗賊であったことを知らされた。だが、ひさは「あたしの旦那様は商人の幾松、盗人なんかじゃぁありませんよ」と認めることはなかった。「女将さん!去年の暮れにお頭が此処に帰ってこられたおり、何か聞かされちゃぁいやせんか?」と尋ねた。「何かって?何??何の話し?」ひさは豊松の問にただただ驚くだけであった。豊松は「そうですかい、やはりねぇ・・・・・」意味深な生返事にひさの方が逆に問いかけた。「豊さん!旦那様は一体あたしに何をいうことがあるんだい?」怪訝そうなひさの問は豊松を確信に導いたようである。「女将さん、お頭はこれまでに盗んだ金をどこかに隠しているはずなんで、そいつを狙って手下の奴らがやってくるかも知れねぇ、あいつらは分け前だけじゃぁ足りねぇと女将さんの足取りを探しておりやす、十分お気をつけなすって」と含みのある言葉を残して出て行った。こうして時がつながり半月後に麻布飯倉新町の船宿一久に三人の男がやってきた。いぶかしげな格好の男たちに「あのぉ 船の支度でございますか?」と、ひさがたずねた。それには応えず、一人の格上とみられる男が、ずっ!と身を乗り出し「女将さん?でございやすね」と低いが確かな押しのある声でひさの両眼を覗きこんだ。 ひさはこの凄みのある声に押されながら「確かに私はこの宿の女将でございますがなにか?」と問い返した。「じゃぁ男埵の幾松お頭をご存知でござんしょうね」と畳み掛けてきた。「妻籠の旦那様のこと?」と問い返した。「へぇ 此処じゃぁ妻籠の旦那と呼ばれていたんで?」「あたしはそれ以上の事は何も知りやぁしませんよ、旦那様が亡くなる前に豊松さんがお頭って言って、理由を聞かされ初めて男埵の幾松という名前を知ったばかりだもの」と返答した。「豊松?ああ野郎は今頃お頭の後を追ってあの世に出向いているだろうぜ、お前さんもそんな思いをしたくなきゃぁ正直に金の隠し場所をおとなしく吐いちまったほうが身のお為ってもんで」と脅しにかかった。「それじゃぁ豊さんは・・・・・・・」「おう 察しの通り野郎は知ねぇととぼけやがった、いくら痛めつけてもそれ以上は吐かねぇ、ま 責めているうちに野郎おっ死にやぁがった、どこまでも面倒かける野郎だったぜ、そこで改めて聞くが、お前さんお頭から何か聞いちゃァいねぇかい」男はひさの顎を下から抱えるように持ち上げて蛇のような冷ややかな目でひさの瞼の奥を覗きこんだ。「さっきも言った通り、あたしゃぁ旦那様から聞かされる話は道中出会った面白い話とか、どこそこの名物はこれこれでと言うようなものばかり、仕事の事は一切話されたことぁありませんよ」ときっぱりとした口調で言い切った。そこへ買い物に出ていた女中のみねが戻ってきたのを見て、ひさは大声を上げて「お逃げ!」と危険を知らせた。みねが異変に気づいて戸を開けようとしたがもう遅かった「殺っちまえ!」という声に背中から匕首を突き通されて絶叫しながら土間に倒れこんだ。その声に重なるように裏のほうでも悲鳴が聞こえた。「野郎が一人こそこそと隠れていやぁがった」と男が裏から入ってきた。血にまみれた匕首をだらりと下げて又一人の男が入ってきた、おそらく板場の佐吉であろう。さすがのひさも足元からガタガタ震えが始まり歯をくいしばってもガチガチ鳴るだけで、もう腰が砕けたようである。「仕方がねぇなぁ、ねぇ女将さん!まぁこんなわけだ、すんなりと喋っちゃぁくれまいか、俺だって無駄な殺生は好まねぇ、判るだろう?」匕首を抜き放ちひさの頬をぺたぺたと撫でながら喉首から口元へと刃先を這わせた。うっすらと血筋が浮かび上がり、やがて鮮血が喉元から胸へと流れ始めた。「しっ!しっ!知らないものをいくら問われても応えられやぁしないじゃぁないか!」ひさは必死で平常心に戻ろうと試みる。「しぶといあまだ、こいつを下に押し込めてなぶってやれ」と手下に命じた。屈強な男がひさを床下の部屋に押し込んで細紐で縛り上げ、柱に括りつけて近場にあった捏(こね)棒でめった打ちに打ち据えた。ひさは答えるものを持ちあわせては居ない、ただ痛みに歯を食いしばりながら耐えるのみが唯一の抵抗手段であったが、ついに気を失ってしまったひさをみて「おい水を汲んで来い!正気に戻らせろ!」と言いつけ、「身体に聞いてやれ」と言って上がって行った。ひさは口に喰み(はみ)をかまされ舌を噛み切るのを防がれ抵抗は不可能な状態のままなすがままにならざるを得なかった。平蔵と村松忠之進が出会ったひさの身の回りの探索は、平蔵の指図で密偵のおまさが受け持っていた。数日後、役宅の裏庭におまさの姿があった。「おお おまさ!ご苦労であった、その顔じゃぁ良い話のようだのうぉ」平蔵口元をほころばせながら濡れ縁に座り込み煙草盆を取り寄せ煙管に詰めた。「はい 長谷川様のお言いつけ通りあの船宿を探ってまいりました、主の名はひさ、通い女中と板前、それに船頭の四人で切り盛りしております。あまり繁盛して忙しいと言うほどでもなく、近くには大名や武家屋敷も多く、そのあたりの客が主な筋のようでございます。ただ・・・・・・「ただ?どうした?」と平蔵「はい ただあの店が出されたのは三年ほど前で、それまでやっていた主が病でなくなり一家は店を畳んだそうで、そのあとしばらくして新しく主が決まって商いを始めたそうでございますが、表立っては女主のひさ・・・ですが、店を仲介した口入れ屋の申しますにはその三月ほど前に京訛りの男が買い求めたそうでございます」「何だと!京訛りだと?」「はい 確かにそのように」「ふむ 京訛りの男が買い求めて、主はその者ではなく女・・・・・・んっ こいつぁちょいと引っかかるなぁ、どうも忠吾と出かけたおり出会ぅた女、何やら繋ぎのような合図を儂は見た」「まぁ繋ぎのようなでございますか?」「おお だがなぁ忠吾に問いただしたる所、奴め何と申したと想うえ!えっおまさ、こいつぁ笑うしかねぇぜ、やつめ(ハイ足首にアザのようなものが、それは誠に美しゅうございました)とほざきおった」「んっ まぁ木村様らしゅうございますね」とおまさも半ば呆れながらもさもあらんという顔つきである「さすがのわしもあいた口が塞げなんだわ」わはははははは「ところでおまさそれでお終ぇと言うのではあるまいのぉ」平蔵、このようなときのおまさの癖を十分承知である。おまさもそれを見抜いているのか、頬を軽くゆるめて「はい 女は板橋宿から内藤新宿成子町に流れていたようで、そこで旅の商人に見初められて麻布飯倉新町に落着いたようでございます」「あい判った、ご苦労であったなぁおまさ、冷えたであろう身体をゆっくり休めてくれ」平蔵はポンと煙草盆に煙管をあてがい軽くふっ と空吹きして部屋に戻った。翌日から平蔵の指図の元、手すきの者が交代でこの船宿一久を張ることになった。事件は起きておらず、ただ平蔵の気がかりな女の挙動とおまさの聞き込みによるいぶかり程度であるため、表立っての張り込みは出来なかったからである。佐嶋達が見張り所に使っているのは一ノ橋前の松平山城守の番小屋、そこからは船宿一久が手に取るように見える。夕刻になって店から浪人と渡世人風の男二名が出てきて、浪人が何やら表に立て掛けて何処かへ消えていった。「妙だ?女が出てこない、居ないはずはない・・・・・佐嶋は竹内孫四郎に男たちの後を微行するように命じ、自らは一久を調べることにした。男が立て掛けたものには「本日休業いたします」と言う看板であった。佐嶋はいぶかりながら表戸を引いてみた。戸は中から落としをかけた様子もなく、あっさりと開いた。「誰かおるか?」声をかけたが返事もなく静まり返っているだけである。不審に思って佐嶋はすべての部屋を見まわってみたが人の気配はなく別段変わった様子もない(空か・・・・・・)(俺が知るかぎりでは確かに女は居た、だが今は見当たらぬ・・・妙だ)納得の行かない佐嶋はなおも念入りにと改めて部屋を確かめて回った。板場の奥からかすかなうめき声のようなものが佐嶋忠介の耳にとどまった。だがそれはただ1度であった。(んっ!)・・・・・・(空耳であったか)そう思い戻ろうと薄闇に目を凝らした佐嶋は不自然にめくれている床のゴザに目が止まった。(妙だな、薄暗い中でゴザがめくれておれば足を取られる事もあろうに、板場の者がそのようなことにも気づかぬはずはない、確かに妙だ)佐嶋忠介は念の為にそのゴザをめくり、薄暗い中でよく注視してみるとゴザの下に手を掛ける小溝が切り抜かれている。小料理屋などには調味料などの保存出来るものは地下蔵に収めることも承知していたので、ゴザをめくり上げてその溝に手をかけ引き上げてみると、下に降りる階段が見えた。(これは!)板場で明かりを探って手燭を見つけこれに灯りを入れ再び階段を用心しながら降りていった。ゆっくりとほのめきが広がる中を気を張って下がってゆく、いつ何時どこから襲われるやも知れない、そのような緊迫感の中でのことである。半分ほど降りかけた佐嶋の眸(め)におぼろに浮かび上がったものは、衣服を剥がれうずくまっている白い背中であった。(何と!)急いで下まで駆け降りよく照らしてみると、それは喰み(はみ)を噛まされた裸の女性であった。佐嶋は辺りを素早く見渡し、隅の方に投げ捨てられていた女のものであろうと想われる衣服を掴み、前から背にかけてから後ろ手に縛られている縄を小刀で切り落とし、食みを解き「先ずは身仕舞いをいたせ」と背を向けた。が、女は崩れるようにその場に倒れこみ微動だにしない、おそらく衰弱でほとんど身動きも出来ない状態で気を失ってしまったと想われる。(いかん!さほどの力も残ってはおらぬか・・・・・)佐嶋忠介は急いで上に駆け上がり水瓶から柄杓に水を取り戻って来、口に添えるが女は飲む気力もないのかぐったりと佐嶋の腕の中に崩れたままである。「許せよ!」そう言って女を抱え起こし水を含んで女の口に流し込んだ。「・・・・・あっ・・・・」小さく声が漏れ気がついたようである。急ぎ女を長襦袢で包み取り敢えず肌を隠し、小袖を両腕に差し通し前を合わせて細紐で取り敢えず塩梅し、帯は束ねて己の懐に入れ両脇を支えながら立たせるように壁にもたせ掛け、そのまま背を向けて女をおぶった。狭い階段をどうにか上がり、表に出て町籠を探し、女を伴って盗賊改めの役宅に同伴した。佐嶋によって抱えられ、ひとまず役宅の控えの間に久栄の手により設えられた夜具の上に寝かせられた。久栄は賄い場に「すぐに湯を沸かすように、それからおもゆをいそぎ作ってはくれませぬか」と指図して戻ってきた。平蔵は「おまさを呼べ!ああ それと何か着替えるものも一緒にだ」と同心のいる部屋に声をかけ佐嶋忠介を呼んだ。「これは一体どうしたことだ?あの女は一久の女将であろうな?」と切り出した。「はい、お頭のご指示で皆と交代しつつ一久を見張っておりました所夕刻中より男どもが出てまいりました、その折表に休業の看板を出しましたゆえ妙に気になりました」「ふむ 女が居ねぇってことだな」「まさしく、で 男どもを竹内に尾行させまして、私は中に入って見ましたる所、地下の隠し部屋にこの女が裸で縛られ横たわっておるのが見つかり、なんとか身を包んで町籠にて・・・・・」「おお よくやってくれた おそらく奴らは又戻ってくるつもりであろう、だがその前に道筋が見えぬではなぁ・・・・・」と衰弱しきっている女を案じた。やがておもゆが運ばれ、久栄が小匙で少しづつ口に運べば、どうにか飲み込むことが出来た。しばらくして密偵のおまさが自分の着替えを持って繋ぎに出向いた小柳と走りこんできた。「長谷川様!奥方様!遅くなりました」おまさは控えながら久栄に支えられておもゆを飲んでいる女のほうを凝視した。「これは・・・・・・」「やはり見知っておったか、一久の女将に間違いないな?」と聞いた。「はい 先日長谷川様にご報告いたしました一久の女将で名はおひさ、言葉も交わしておりますのでかなりのやつれようではございますが間違いございません」と、きっぱりと認めた。「そうであったか、おまさ、すまねぇが久栄と二人してこのおひさを清めてやっちゃぁくれまいか、可哀ぇそうに血に染まっていい女が台無しだ、なぁ佐嶋」と後ろに控えている佐嶋忠介を振り返った。「では佐嶋様が?」おまさは驚いたふうに佐嶋忠介を見た。「いやぁ どうにも 俺が見つけた時はほとんど気を失いかけており、兎にも角にもと町籠に乗せやっとここまでたどり着いた、奥方様のおかげで何とかおもゆも喉をこせたようで、あははははは」と頭を掻いた。「ふっ おほっ!」とおまさが思わず頬を緩めるほど佐嶋忠介は照れていた。半時程して身繕いが終わり、少し頬に血の色が見え始めてきた。「おお やっと戻って参ったなぁ」平蔵はひさの顔を見やりながら心配顔で控えている佐嶋忠介を見やった。佐嶋はおひさをみやり「誠にすまぬが、少し話を聞かせてはもらえぬか?」と尋ねた。訥々(とつとつ)ではあるものの話は聞き取れた。おひさは木曽街道の妻籠宿(つまご)で宿場女郎をしていた母親が病死し、一人取り残され、そのまま育ち、十五の時見世に出された。十年の年季が明け、それから流れ流れて板橋宿から内藤新宿成子町まで流れてきたのを男埵(おだれ)の幾松に器量と人柄を買われて麻布飯倉新町1ノ橋傍につつましやかな船宿を構えたと言う。「何と!!」平蔵は驚いた、まさかこの女から男(埵おだれ)の幾松の名前が出てこようとは思いもしなかったからである。そこへ飯倉新町の船宿一久から出てきた男たちを尾行ていった松永弥四郎が戻ってき。「お頭遅くなりました!松永只今戻りました」と報告に上がった。「おお松永ご苦労であったのぉ、で首尾はどうであった?」「はい 佐嶋様の指図で男どもの後を尾行てまいりました。内藤新宿大木戸手前四谷の浄雲寺横丁を入り暗闇坂を上り詰めた先の自證院に入り、更に進んで奥の梅林にある作小屋に消えました。中の人数を確かめようにも身を潜めるものもなく、やむを得ずそれから小半刻(三十分)ほど梅林に潜みて見張りますも何の動きも見られず、おそらくこの屋が彼奴らの潜み先かと想われ、ひとまずご報告にと戻りました」「いや遅くまでご苦労であったなぁ、どうやらそこが男?の幾松一味の潜み先と決まったようだなぁ」にこやかな笑顔で平蔵腕組みをしながらうなずいた、この松永の報告に満足した模様であった。「男埵の幾松でございますか?あの木曽街道を荒らしまわっておりました?」驚く松永に「ふむ その男埵の幾松・・・・・と申してもその幾松はすでにこの世には居らぬそうな、残りの残党どもが巣食っているという理由さ」平蔵は頭の中でもつれていた糸が解けてゆくのを快い面持ちに感じていた。「皆の報告を纏めるに、彼奴らはまだ此方の動きに感づいてはおらぬようだ、今夜の所は何も起こるまい、問題は明日、おそらく奴らは麻布の一久に様子を見に戻るはず、そこからが奴らの動きが出ると想われる、皆は今夜ゆっくりと体を休め明朝明け方には四谷の隠れ家を囲み、一網打尽に召し捕る!そのつもりで支度致すよう!」と筆頭与力の佐嶋介助と筆頭同心酒井祐助を残し引き上げさせた。翌日まだ東の空が明けぬうちに清水御門外火付盗賊改方から長谷川平蔵を先頭に筆頭与力佐嶋忠介、筆頭同心酒井祐助を始め与力・同心総勢三十名が四谷自證院の梅林にある作小屋を目指した。この自證院、里の者には瘤寺・節寺と呼ばれ親しまれている。建物の用材である檜材の皮を剥いだ節目の多い物を多用したためにふし寺とかコブ寺と呼ばれたものである。夜明けとともに周りはすっかり平蔵の指揮下に置かれ、蟻一匹這い出す隙間もない布陣が張られた。寺社奉行配下の捕り方は梅林の陰や木立の影に潜み逃れてくるものを袖搦や刺又、それに目潰し、投げ縄なども周到に準備し、まさに鉄壁の布陣であった。作小屋の中には三十名ほどの者が潜んでいた、が その中の一人が「妙だ?」とつぶやいた。「何が妙なんで??」と傍で囲炉裏の近くに陣取っていた男が問い返した。「鳥だよ!鳥の鳴き声がしねぇ!こいつぁ妙だと想わねぇか?」と呟きながら外の気配を探るように耳を澄ませた。「確かに、昨日はやかましいほど鳴いていた、うむ 確かになぁ、よし俺が見てこよう・・・・・」そう言って立ち上がった時激しい音がして板戸が蹴破られ「火付盗賊改方長谷川平蔵である、男?の幾松一味!神妙に縛につけ!」と打ち込んできた。まだ夢から冷めやらぬ状況下での出来事はまさに寝耳に水!釜を蹴り倒して灰神楽を上げ逃げようと試みる者や抜刀して抵抗をするものと蜂の巣をつついた状況である。灯りが蹴倒され、障子に火がついた、あっと言う間に火は燃え広がり始め煙と怒号に混じって「抗うものは構わぬ切って捨てよ!」平蔵が叫びながら立ちふさがる屈強な男を粟田口国綱を抜きざまに左に切り払い突き進んだ。阿鼻叫喚というのか絶叫や断末魔の声が乱れる中を屋外に逃げ延びたものも居た。だがそれもつかの間潜んでいた捕り方により刃を振りかざすも袖搦に着衣を絡めとられそこへ目潰しが無数に投げ放たれ石灰や唐辛子の粉が額や目、鼻にも炸裂し痛みや刺激に抗いしきれずその場にうずくまるしか方法はなかった。大捕り物は小半時を要さなかった。これは平蔵の用意周到な布陣が功を奏したからである。騒ぎに驚いて駆けつけてきたこぶ寺の住職や寺男などもただただその場に釘付けとなりこの早朝の捕物に驚くばかりである。「ご住職!早朝よりお騒がせ申した、火付盗賊改方長谷川平蔵でござる、全て片付き申したゆえ案ずるには及ばぬ」と念を押して自證院梅林を後にした。捕らえられたる者二十一名怪我を負った者五名、切り倒された者四名であった。筆頭同心酒井祐助の報告により、作小屋の後ろの梅林に穴が掘られて男の死体が放り込まれていた。「おそらく其奴がひさの申す豊松であろうよ、奴の口から船宿一久のおひさの居場所が判明したのであろう、頭目男埵の幾松がすでにこの世に無きゆえ奴らの探しておった隠し金も今となっちゃぁ闇の中、だがなぁ彼奴らが御府内に入っておらばどのようなことになったか、それを思うとわしは背中が寒ぅなってくる、のう酒井!此度はひょんな事から事件の糸口が生まれたわけだが、関わる者もそれと知らずに関わってしまう者も皆万華鏡のようなものよのう、覗けたとてその先は誰にもわからぬもの、そうは想われぬか?」平蔵はひさの身の上を想っていた。その足で麻布飯倉新町の船宿一久にも手入れが入った。船頭は船の中で腹を一突きされ、喉を掻き切らて声を上げるのを奪われた状態のまま死体となって見つかり、板前と女中は裏の小屋に猿轡を噛まされた格好のままこちらも胸を一突きされた死体となって投げ込まれていた。平蔵の計らいで久には何のお咎めもなく、これまで通り船宿一久は商いを続けられることになった。これはひさの供述から一味の全貌が明るみになったことへの平蔵の目こぼしである。板場は軍鶏鍋や五鉄の三次郎の口利きで生きのいい若者草太が入り、船頭は小房の粂八の息のかかった五十前の善造が務めることになったのである。女中は佐嶋忠介が心配して身元の確かなさとを入れた、こうしてここ麻布に新たな平蔵の拠点が誕生したのである。その後この船宿一久に佐嶋忠介の姿がしばしば見られたのは言うまでもあるまい。 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