時代小説鬼平犯科帳 2016/12/28 2017年新年号 万華鏡 その1 佐嶋忠介 笹や おくまこの日平蔵は久しぶりに忠吾を伴って市中見廻りに出かけた。菊川町役宅を出て右に曲がれば、伊豫橋・北ノ橋へ続き大川へと出る。伊豫橋手前を右に上がると五軒堀沿いの突き当りに萬徳院弥勒寺番小屋があり、それを左に折れて弥勒寺の塀にそって弥勒寺橋手前を右に折れれば弥勒寺門前に出る。この弥勒寺、元々は小石川鷹匠町に創建されるも元禄二年に本所に移転したもの。この寺の薬師如来像は徳川光圀から寄進されたもので、江戸十二薬師の一つとして知られている。平蔵は門前町の笹やの床几に腰を下ろし、前を流れる五間堀の方を眺めるとはなしに眺めていた。「あれぇっ 銕っつあんじゃぁないけぇ」素っ頓狂な声が後ろから飛び出してきた。平蔵は苦笑いをしながら「おう おくま達者かえ?」と応えた。「あれまぁ わしの事を気にかけてくれるたぁ嬉しいねぇねぇ銕っつあん!」首っ玉にでもしがみつかんばかりの喜びようである。「やれやれ・・・・」忠吾の漏らしたこの言葉がまずかった「何でぇ何か文句があっかぁ!」おくまの地獄耳は忠吾の独り言を聞き逃すことはなかった。「あっ いやぁそのぉ何だ相変わらずお前の声が大きいので」と取り繕ったが、これが益々おくまの耳を騒がせた。「てやんでぇうさ公!耳が遠くて悪かったなぁ、こう見えてもこのおくま、耳ぁ昔っから達者だぁ、お前ぇの悪口ぁ聞き逃すもんでねぇ」と来たもんだ。「何だと!俺のことをうさ公とは無礼な!」とうとう忠吾も喧嘩を買ってしまった。「おう言ったがどうしたぃ、おら銕っつあん以外ぇ将軍様から在所のゴロツキまで怖ぇもんはねぇんだよぉ、へっ おととい来やがれ!」とケツをまくらん勢いである。忠吾の眉間がピリピリ引きつるのを平蔵眺めながらにやにやしている。「おっ お頭ぁ・・・・・・」忠吾はおくまの勢いに押し倒されそうな己の無勢を平蔵に振ろうとする、「おいうさぎ!まだまだお前ぇにゃぁおくまの相手は務まらぬ、あの口八丁の彦十さえ歯が立たねぇ、諦めて矛を収めな、わははははは」「おおおっ お頭 それは何でも・・・・・」「出来ぬと申すか?」「はぁ・・・・・・」「ならばおくまに食われるまでだなぁ、のうおくま」平蔵は愉快そうに忠吾の顔を見た。「ひひひひひ さすが銕っつあん!やっぱしオラの味方だにゃぁ、ヤイうさ公解ったけぇ」と手放しである。「おい それよりおくま茶でも出さぬか!軍鶏の喧嘩は後回しにしてよ」と振り返った。「おっと合点!」そう言って引込みしばらくして酒の支度をして出てきた。「おっ 気が利くじゃぁねぇか!」平蔵相好を崩して盃をだす。「当たり前ぇだぁねぇ 銕っつあんの顔を一目見りゃぁ今何がほしいか何てぇとっくにお見通しだぁね、何しろオラと銕っつあんは・・・・」言いかけたところへ平蔵「おいおい おくまそれくれぇにしておけ」と口に手を当ててみせた。「おっと こりゃぁオラとしたことが」おくまはニヤニヤ笑いながら忠吾の方に向き直り「どうだいお前ぇさん、今夜あたり・・・・・ひひひひ」と覗きこんだ。ぶっ!飲みかけた茶を吹き出す忠吾である。「ところでおくまこの所変わった話は無ぇかえ?」と切り出した。「そういやぁこのまえ いぼとり地蔵にお参りした行商の六助とっつあんが中川の船番所で行徳から来た船に乗っていたおなごの二人連れを防人の番人が恐ろしい顔で追い返していたとか言っとったけんじょ、何があったんかねぇ銕っつあん」と平蔵の顔を見上げた。事実この時俳人小林一茶は故郷の柏原へ帰ろうと行徳から船に乗った。この時この船頭が藪をまたぐ抜け道を教えてくれ、そのとおりにして無事この関を越えている、その時の句「茨(ばら)の花 爰(ここ)をまたげと咲きにけり」が残されている。「お頭 そのいぼとり地蔵とは何でござります?」忠吾が口を挟む「ありゃぁ お前ぇ何んにも知らねぇだか へっ 呆れたもんだにゃぁ」とおくま「何だとぉ!」いきり立つ忠吾を平蔵「まぁまぁこらえてやれ忠吾、年寄りの言うことだ」これがまずかった「何処に年寄りがいるってんでぃ、いくら銕っつあんでもそいつぁ聞き逃せやしねぇ」と持った盆を振りかざした。「やっ! こいつぁおれが悪かった、つい口が滑ってなぁへへへへへ、怒るなおくま、怒るとシワが増えるというぜぇ、それ以上増やしてどうなる」「言ってくれるじゃぁねぇか銕っつあん、そりゃぁ言い過ぎってぇもんだよ、おらずいぶんと傷ついちまったよぉ」と少々しょげかえってしまった。「先ほどの話だがな、・・・中川の船番所を小名木川にそって西へ取ると稲荷山宝塔寺がある、この辺りは小名木川や行徳街道を通う商人たちがこの塩なめ地蔵堂の前で休みを取り、その折商売繁盛を願って塩一握りを供えて「おんかかか びさんま えい そわか」と三回唱えてお参りする、この仏前の塩を戴き、イボに塗るとこれが治ると言われて、イボ取り地蔵とも呼ばれておるそうな、左様であったなぁおくま」平蔵はおくまに話題を振った。「さすが銕っつあん!そん通りだよぉ」とおくまご機嫌を直した。「出女に入り鉄砲かぁ・・・・・・おそらくどこぞのご家中の奥の者であったやも知れぬなぁ」平蔵は最早形骸化している江戸詰の藩の内情に思いを馳せた。平蔵酒代を懐紙に包んで「取っておけ、又寄るぜ」と刀を腰に手挟み立ち上がった。「又きっと寄っとくれよぉ・・・・・」おくまのすがりつきそうな目を避けながら「美味かったぜ」と笹やを出た。北ノ橋を渡り、北六間堀町を南下し、中ノ橋過ぎ猿子橋を西に取り深川元町を左にお籾倉の白壁ぞいに進むと箱館産物会所の傍の大川をまたぐ新大橋に出る。広小路を西南に下がり堀田備中守上屋敷の門前を越え川口橋をまたぎ松平三河守下屋敷前を過ぎ諸大名の下屋敷や上屋敷の立ち並ぶ中を行徳河岸に向かった。「お頭、本日は何処を目指されますので」といささか気になって木村忠吾平蔵の背中に声をかける。「うむ 麻布あたりはと想うておるのだがなぁ」と、ゆらゆら歩みを続ける。「はぁ麻布・・・・・でございますか」「ううん? 何か申したいことでもあるのか?」「いえ 別に 何もござりません」忠吾の生返事はおおよその察しがついている、この麻布は武家屋敷も多く閑静な佇まいで、忠吾の好む茶屋などあまり見かけないからである。箱崎橋を渡り、湊橋を越えて真っ直ぐに霊巌島町・川口町へ取り、更に南下して御船手屋敷へと向かう途中に高橋がある、これをまたぐと本八丁堀に出る。本八丁堀四丁目に架かる中ノ橋を越えて南八丁堀に入る。南八丁堀一丁目の突き当りに架かる橋が三十間堀をまたぐ真福寺橋で、これを越えて紀伊国橋・新シ橋・木挽橋と過ぎ、南大坂町今春屋敷前の柴口橋で再び六十間堀を越えて柴口一丁目から源助町・露月町・柴井町・宇田川町・神明町・浜松町と抜けて遠流罪人島送りの船が出る金杉橋を越えると金杉町一丁目に出る、ここから西にと取って右手に増上寺の絢爛豪華な大屋根を見越しながら増上寺裏門にまたぐ赤羽橋を北に戻って京極佐渡守中屋敷のある麻布十番を北に道筋を取った。角の辻番小屋を右に入った辺りに目的の蕎麦屋がある。「なんでございますか、又本日はかように辺鄙な所までわざわざお出向きなされて」と忠吾平蔵は少々お冠の忠吾を振り返り「忠吾そのようにふてくされるでない、ここら辺りはな、狸穴坂と言うて、昔この辺りに狸穴(マミアナ=アナグマ)が棲んで居たという大きな穴がある所からそう呼ばれておる」「はぁさようでございますか」忠吾全く感心もなく坂を上がるのが疲れた様子、さほどに急斜面の坂である。「そうむくれるでない、それこの先に見えておるであろう蕎麦屋、あそこが本日の目指すところよ」と指さした。「えっ 蕎麦屋・・・・・でございますか」「うむ、ここの蕎麦はな、作兵衛蕎麦と申して、色は黒いが生蕎麦で、こいつがめっぽう旨い!」「めっぽう旨い」と聞いて忠吾、食いしん坊の虫がムズムズ・・・・・。「お頭、早く早く丁度腹も空き頃!いやぁ中々によろしゅうございますなぁ」と先ほどのふくれッ面は何処へしまいこんだものやら、そそくさと暖簾をかき分け中に入る。「おい 親父蕎麦二人前だ急げよ!」勝手に注文を出して「それにしてもお頭よくこのような場所をご存知で、さすがの私メもここまでは・・・・・・」と「この蕎麦屋またの名を狸蕎麦と言うそうな」と平蔵「はぁ たぬきでございますか」「うむ 昔大奥を荒らしまわった狸穴の古狸を内田庄九郎と申す侍が打ちとった。その古狸の霊を蕎麦屋の作兵衛がねんごろに葬り奉祀(ほうし)した所から左様に呼ばれておるそうな、左様だよなぁ」と平蔵奥で蕎麦を支度している親父に問いかけた。「お武家様よくご存知で・・・・・ご覧のとおり表にゃぁ作兵衛蕎麦と架けてありやすが皆様狸蕎麦と呼んで馴染みになって頂いておりやす」と応えた。江戸では狸蕎麦は天ぷらの種を抜いたものからタ抜きと呼ばれたようで、上方では同じ狸蕎麦でも油揚げを載せた蕎麦を狸蕎麦と呼んでいる。一口蕎麦をすすり込んだ忠吾「ううっ 旨い!」それを横目に見ながら平蔵「どうだ忠吾 旨ぇだろう!ふわはははは!この味がわしは応えられぬでワザワザここまで出向いてまいる」と一心不乱に掻き込む忠吾を眺めた。「親父!この蕎麦はさぞかしこだわっておるのであろうなぁ」と誘い水「へへへっ!そりゃぁもうそれがあっしの自慢でございやす、煮貫と言いやして出汁は生垂れに宗田鰹と鯖節これを多めに使いやす、宗田鰹からは深いコクが出やす、それと鯖節はなんといっても香りと味の深み、それにこの長年かけた返しの一番出汁が掛け値なしの旨味でございやしょう」と褒められて嬉しかったのかじょう舌になった。「うむそいつぁ間違ぇねぇなぁ、この器から立ち上がる鳴門のわかめに魚の磯の香り、口に含めば息とともに鼻に抜ける際の残り香、蕎麦をすする際の口に広がる香り、飲み下した残り香、余韻と申すかそいつを生垂れが邪魔をしておらぬいやぁなんともたまらぬ、揚げ油にも何ぞ工夫があると見たがどうじゃな?」「いやぁこりゃぁたまげたそこまでお分かりとは、揚げ油にはごま油と菜種油を塩梅いたしやして、揚げ玉の舌触りにも工夫致しておりやす、ねぎは千住の難波ネギで、こいつぁとびきり甘くて煮崩れせず、口に入れるととろけるようで」亭主恵比須顔で講釈をのたまう。「いやぁまさにそのとおりよ、白葱と申せば下仁田葱、こいつぁ生だと辛いが火を通すと甘く柔らかく、するすると喉越しも良いが蕎麦にやぁやはり千住だのぉ」と平蔵相槌を打つ。「そこまでごぞんじたぁ恐れ入り谷の・・・・・」「鬼子母神かぁ」それまで黙々とすすり込んでいた忠吾がやっと口を繋いだ。「へっ おみそれしやした」亭主はそう言って己の額を手で打つ仕草に「まるで彦十でございますなぁ」と忠吾「彦め今頃くしゃみしてるぜ忠吾 わぁはははは」平蔵腹を抱えて笑ったものである。この狸穴坂(鼠坂)を上がり詰めたところが稲葉伊予守下屋敷と上杉駿河守中屋敷のある榎坂、それを左に行けば六本木へと続く。「さて本日はどの道をつこうて帰ろうかのぉ・・・・・」平蔵店を出ると坂の下を眺めた。「腹も満たされこの当たりから古河を眺めながら下るのも又おつと申すもので・・・」と忠吾のつぶやきが聞こえたものだから「よし本日は此方にいたそう」とすたすた歩き始めた。「おお お頭!又何処へ?」と慌てて忠吾が追いかけてくるのを気にもとめず、さっさと坂を登り始めた。「これは又どちらへ?」慌てて後を追いながら忠吾「ううんっ そうさなぁ長坂町から下がって氷川神社当たりへでも回ってみようかと想うてな」と塗笠を小脇に抱えて進んで行く「まままっ 待ってくださりませ!お頭ぁ」忠吾刀をいそぎ腰に手挟みながら平蔵の後を追いかけた。まだ平蔵が三十二歳で西の丸仮御進物番勤め(田沼意次への賄賂の受け渡し番方)をしていた頃で、老中田沼意次が権勢を持ち始める前、この時の筆頭老中を務めていたのが松平右近将監である、この広大な松平下屋敷を右手に飯倉町から下がってくる長坂に出た。突き当りの番小屋を左に折れれば遥か下に古河が見え一の橋二の橋も遠くに望める。少し下って宮下町に交わるところを右に折れて鳥居坂に出た。鳥居坂は慶長年間に鳥居彦右衛門の屋敷があったためその名が残されており、ここには多度津藩京極壱岐守上屋敷があり、明治時代には井上馨公爵の邸宅となり関東大震災の後三井財閥岩崎小弥太の私邸となった場所である。この先は暗闇坂(宮村坂)に続き一本松坂と交差する、当たりはうっそうとした木々が枝垂れ下がり、昼間でも好んで歩きたいとは想わないと忠吾が言ったほど陰湿な暗さであった。左手は高い崖で包まれるように静まり、その角に大島甲斐守下屋敷があった。だらだらと長い坂を下ってゆくと左手に善福寺と寺中の子院十二ケ寺を囲むように松林が延びているその善福寺門前西町の中程に氷川神社への入り道がある。この先を更に進むと一本松坂と仙臺坂が交わる、角には辻番所があり後ろには稲荷が有りその南側は伊達藩松平陸奥守の広大な中屋敷が控えている。下がり切ったところで平蔵は左に歩を進め善福寺前の茶店に腰を下ろした。運ばれて来た茶をゆっくりとすすりながら眺めるとはなく通りを眺めていた。目の前を中々垢抜けした色白の女が通りかかった時、反対側に座っていた男に目配せを送り、帯の前でさり気ないふうに指を四本立ててそのまま髪に持って行き立ち去った。平蔵思わず「忠吾見ておったであろうな!」と横で団子を頬張っている木村忠吾に声をかけた。「はい まこと足のきれいなおなごでござりますなぁ」とパクパク団子を食いながら茶をすすっている。「馬鹿者どこを見ておる!」呆れながらも平蔵念を押した。「ハイ足首にアザのようなものが、それは誠に美しゅうございました」「何ぃ!お前というやつはどこまでゆけばその・・・・・」と言いかけた後を引き受けて「はぁ病気でございますかぁ」と来たものだから腰を折られて平蔵うなだれざるを得ない。「く~っ」両手で拳を握って口を真一文字に歯ぎしり「あれっ お頭如何がなされましたので?」とケロッとしておる。「この大馬鹿者!先ほどの女がすれ違いざまにそこにおった男に繋ぎを渡したのがお前には見えなんだのか!」と思わず立ち上がった。「はぁ?繋ぎ・・・・・・で、ございますか?さて私は足元を見ておりましたもので」「嗚呼・・・・・」平蔵はため息しか出てこない。それからひと月の時が流れた。猫どのこと村松忠之進からもたらされた話しといえばもう「どこかの何かが旨い」と言う話しである。「お頭!まだ出来て間もない店ではございますが、これが又中々の評判でござりまして永坂更科布屋太兵衛と言う蕎麦屋がございます。「なんと更科布屋太兵衛とな!」平蔵の目がキラリと輝いた。「はい それはもう!元々は太物商布屋清助と申すものが飯野藩三代藩主保科兵部少輔正賢(まさたか)様により江戸麻布上屋敷に逗留させましたるおり、布屋太兵衛と申す者に晒し布の行商をさせましたそうで、八代目の清右衛門が飯野藩第七代保科越前守守正率(まさのり)様の奨めにより布屋太兵衛を襲名、永坂更科として、故郷(くに)の更級(さらしな)の更と保科家の科を一字賜り永坂更科と名づけて麻布三田稲荷傍に「信州更科蕎麦処永坂更科布や太兵衛」の看板を上げましたるよし。更科の特徴は、蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った物を申すそうにございます」「へへっ それぁ又猫どの試してみる価値はありそうだのぅ」「まこと然様に存じます、何しろ馬喰町甲州屋と浅草並木町斧屋の二軒、これに永坂更科を加えた三軒が江戸の名物蕎麦と申しますから。他には信濃そば・木曾蕎麦・戸隠蕎麦もございますれど信州信濃はやはり更科・・・・・」「ホォさようか、成る程こいつぁどうも足がムズムズ致して来おったぜぇ」平蔵最早我慢の虫が蠢き始めたようである。この村松の話がなければ、先に忠吾と麻布の狸穴坂の狸蕎麦の帰り道善福寺門前ですれ違った女と関わりを持つこともなく、したがって中山道を荒らしまわっていた男埵(おだれ)の幾松一味と出くわすこともなく、またこの事件によりあの堅物の佐嶋忠介が仄かな思いを抱くこともなかった。この話の出た翌々日いつものように一人平蔵は見回りの拵え素浪人姿で裏の枝折り戸を開け抜け出して行った。無論表門から出ればそこいらあたりで待ち構えておるうさ忠こと木村忠吾に「あっ お頭本日はどちらまで?この木村忠吾お供つかまつります」と言うに決まっているからだ。裏は林肥後守忠英下屋敷の西の長屋塀にぶつかる、これをまずは北に上がり門前付近で待ち伏せしているであろう木村忠吾の目をかすめ、菊川町一丁目まで出て大横川に架かる南辻橋(撞木橋・しゅもく)を左に迂回し西に歩を進めた。三ツ目橋・二ツ目橋と過ぎ越して松井橋を渡り一ツ目橋前の弁財天に向かった。境内に入るとすぐさま人影が近寄ってきて「お頭!」と声がした。平蔵振り返るとそこには村松忠之進がほくほく顔で立っていた。「おお 猫どの、まんまと抜け出て参られたのぉ」とこちらも相好を崩している。「いやぁ何しろ食い物とおなごにかけては人一倍鼻の利く忠吾でござります、中々に用心致さねばと先程からお待ち申しておりました」「わはははは、まるで我らはお尋ね者のようじゃのぉ」平蔵カラカラと笑う。平蔵の後を村松忠之進が追いかけながら大川沿いに長々と背を見せている御船蔵から箱館産物會所へとゆらゆら歩を進め、紀伊家下屋敷の前を通って万年橋をまたぎ、上之橋から永代橋へと渡りきった。湊橋を越えていつものように増上寺の大屋根目指し歩みを進める。赤羽橋をまたいで中ノ橋をすぎれば目指すは一ノ橋。目的地は最早目の前、逸る気持ちをひた隠し平蔵「のぉ猫どの、近頃はわしも忠吾めに似て参ったか!いやぁどうも食い物に目が行ってしまう、市中を見回るおりもちょいと名前ぇが気になるものだとつい覗いてみたくなる」鬢(びん)に手をやりバツの悪そうな平蔵に「お頭 それは当然でござります、人は三つの欲を持っておるともうしまする」「何と三つの欲とな?」平蔵眼が輝く、新しいものには俄然興味が湧くのである。「はい まずひとつ、これは性欲 はははっ!忠吾の専売でもないようでございますなぁ」「ふむ まぁだれでも納得の参るものよな、で その次は?」早く話せとばかりに松村忠之進の顔を見る。「はいはい 二つ目は人に目立ちたいともうしますか、名誉欲と申しますか人と違うと想われたいものだそうにござります」「ふ~む いやぁこいつも納得させられるのぉ で?最後のやつは何じゃぁ早く申せ」と急かすものだから、猫どのイタズラっぽい眼で平蔵をじらす。「おいおいいくらお前が猫どのでも俺をじらすたぁ良くねぇとおもわねぇか?」ともう手揉み状態である。「ははははっ じらすわけではござりませぬが、それがお頭の申されたものでござります」と悦に入っている猫殿である。「おいおい っっぅてぇと最後の奴ぁ食い物かえ?」「はい まさにその食欲が肝にござります」「ふ~ん 成る程、聞いてみれば全てに合点がゆくものよのぉ・・・・・・・成程成る程」平蔵うなずきながら渋扇で首のあたりをポンポン叩き「うむうむ・・・・」「わしはな、店に入ってそこに集まる者達からも色々なことを教えてもらう、人それぞれの人情やお国自慢から拾い集めねばならぬ話などもそこには造作なく転がっておる。一時腰を下ろし周りを眺むるゆとりと申すか、時の流れに身を置くもいやどうして中々に妙理と存じてのぉ」そのような話をしているうちにもどっしりと構えた永坂更科の暖簾が見えてきた。座敷に上がりゆっくりとくつろぎながら出されるのをしばし待った。ちびちびと杯を重ねているうちにやがて鴨せいろがはこばれてきた。「おっ 来たぜ来たぜ!」平蔵はそそくさと箸を取り上げる。温かいつゆは甘辛く、程よい仕込みでその中に鴨肉の切り身と長葱、中にはつくねが沈んでいる。口に入れるとほんのりと鴨の味が残り、しっかりとつゆの味も滲みて「さすがさすが」と平蔵喉越しの後も穏やかな蕎麦の香りが胃の腑に降りてゆくのが楽しめる。「ふむ まさに猫どののお薦め!いやぁ降参致す」と褒めちぎりの体であった。「同じ信州でもさなだ蕎麦とこの保科更科蕎麦は全く違います」と猫どの・・・・・「さなだ蕎麦はあくまでも質素、その中に旨味へのこだわりと申しましょうかいずれもが精一杯と言うところに味がござります、昼と夜の差の厳しく、朝に霧が立ち込め昼の陽が差し夜は冷え込むこれが最上の蕎麦の採れるところにて信州は戸隠山、これが先ずは一番かと。わずかに六寸(二十センチ弱)ほどにやっと伸びたもので、繋ぎは山芋のみ。添えるものと申せば信州若槻の痩せ葱、それに引き換え更科粉は蕎麦殻の表面に近い皮を取り除けた丸抜きを軽く挽いたものをふるいにかけた物が一番粉、一番粉の取り除いた残り挽いたものをふるいにかけたものが二番粉、更に挽いて甘皮などの混じったものが三番粉、四番粉は最後に出る粉で色や薫りが強く、乾麺などに用います。更科粉は丸抜きを軽く割って最初に出てきた粉をふるいにかけたもので、真っ白なものになります。更科粉は湯で捏ねと申しまして、熱湯を入れるために塗物の木鉢だと漆が剥がれますので木地を用います。粉の真ん中をくぼませ、そこに熱湯を流し込み、太箸で全体を混ぜ合わせ水回し致します、熱湯が行き渡ったところで中力粉を加えながら混ぜあわせます。粉っぽさがなくなるのを見届けて団扇であおぎながら粉を冷まします。粉を塗り木鉢の底に押し付けるように充分練り込み、粉同士がねっとりするまで行い、菊練りに移ります。地延ばしは端が割れないよう打ち粉も更科粉を使い、用心して4ツ出し致します」「ふむ なるほどさようか、同じ蕎麦でもそこまでこだわればまた違ぅた持ち味になるものよのぉ、わしは蕎麦の割ったものを焙煎した蕎麦茶が好みでなぁ、こいつがまた美味い、特有の薫りに甘みがあり香ばしさがさらりとしてそこがわしの好みに合ぅておる、猫殿はいかがかな?」「はい 私はこのそば湯に残りのわさびや葱、時には生姜やゴマなどを入れるとこれ又中々に旨ぅございます、こちらもぜひお試しなされましては」とこちらも譲らぬ様子に平蔵笑いを見せる。出された蕎麦を先ずは一口・・・・・・「やっ これは!フムこの上品な奥ゆかしさとでも申すかのぉ、味・色それに腰の強さに歯ざわり、仄かな蕎麦の香りがなんとも・・・・ふむ。出汁はやはり宗田節であろうな」と平蔵は心地よい更科蕎麦に舌鼓を打ちながら村松忠之進を見た。こちらも無心にすすぎこんでいるが、この問には応えないわけにはゆかない。「はいそれはもう・・・・・何と申しましても、先ず味醂これが大事のもとで、味醂を熱して煮切り、砂糖を入れて溶かします、この時も決して踊らせてはなりません。飴色に色がつきましたらそこに濃口醤油を入れて返しを造る、この時も同じく暴れさせると風味が飛んでしまいます。全体に茶色の幕が乱れ始めたところで火を落とし、鍋の周りに飛び散っている醤油の焦げを濡れ布巾で拭い取ります、これを怠りますと返しに焦げ臭さが移り不味ぅございます。その後布巾で覆って急に冷めないように養生致しまする。これを7日ほど寝かせれば出汁の出来上がり、これを本返しと申します。蕎麦は冷水で粗熱を取り、さらに別の冷水で洗いぬめりを取り去り、最後に冷水で締めをして蕎麦蒸籠に盛り付け、このように山葵、刻み葱を添え、出汁3に返し1を混ぜて一晩寝かせたものを蕎麦徳利に入れ出しまする。鰹を使いながらも鰹を出さず鯖を使ぅて鯖を想わさず」「ふむ まこと手間暇と申すやつよのぉ」「はい 蕎麦には面白い話がございまして、昔神様が病にかかられ、蕎麦と麦が病気見舞いに参ったそうにござります、その時は寒い時期であったそうで蕎麦は足の裏を真っ赤にしながら駆けつけたのでございます、ところが麦は寒いからと春になってやって来たそうで、神様の勘気を被り、秋から寒い冬の間を畑の中で過ごし、刈り入れまで半年もかかりますが、蕎麦はご褒美により夏種をまき、秋には刈り入れできる事になりましたそうで、今でもその駆けつけた折の霜焼けの痕がもとで茎が赤いのだそうにございます」「わぁはっはっは・・・・・神様の勘気かえ?そいつぁ面白ぇ、なぁるほどそのようなところにも蕎麦の味わいが潜んでおるものよのう」平蔵ご満悦の様子に猫どの恵比須顔である。仕上げに運ばれたそば湯に溶け込んだ蕎麦の味わいを確かめつつ平蔵「一つの道を極めるとはまこと奥が深い、我らも罪人を捉まえる前に、罪人を作らぬ世にしたいものよのぉ」蒼く澄んだ江戸の空を見上げながら店を出た。 [1回]PR