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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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ここは八丁堀にほど近い亀島町、南町奉行所組屋敷、
日本橋川から霊岸橋の下を分流して流れる亀島川を前に、対岸には富島町が見え、
風向き如何(いかん)では微かに潮の香りもする広大な組屋敷一帯の一角に
北町奉行所同心前橋茂左衛門の家もある。
同心とは譜代徳川家直参の足軽をもって同心とした。
彼らは役職が失くなっても譜代であるために俸禄(給料)がもらえたが、
あくまでも旗本ではなく御家人身分であった。
家族は妻の千代女と嫡男の真二郎それに下男夫婦の五人ぐらし。
譜代の御家人である茂左衛門は勤勉実直、忠義一筋の一徹者。
30俵2二人扶持は、一家5名が日々の暮らしを保つには当然のことながら到底無理があった。
それを補うために、100坪ほどの地行に30坪程度の家を建て、
ほかは市井の者に貸してその収入を生活費に当てるのがこの時代、
同心たちのせめてもの保身の知恵でもあった。
母の千代女は仕立て物を日本橋の呉服屋から貰い受けて、日々の暮らしを助け、
下男夫婦は骨惜しみもなく実によく尽くしてくれ、
こうして一家は日々の暮らしの中にも笑顔が満ちていた。
時は田沼意次が老中に就任するわずか3年前の頃でもあり、
世に「与力の付け届け3000両」と言われたご時世の始まりであった。
だがこの前橋茂左衛門、親代々の堅物・・・袖の下などもってのほか
「もう少しは融通をお利かせなされば奥方様も皆様もそこまでご苦労なさらなくとも
済みましょうに」
と言われれば言われるほど頑なになる、誠に厄介な男である。
服装は黒紋付に羽織で着流し御免というから、今日の映像でよく見かける格好で、
勤務は午前8時出所し、帰宅は午後7時であった。
供は紺看板(襟や背中に家紋を染め抜いた半被(はっぴ))梵天帯(絵羽柄の袋帯=兵児帯)に
股引(ももひき)木刀を差した小者一人が一般的である。
面目を保つために下男を置き、出所はこれを供にした者も多かった。
基本的には非番の日も出所(町廻り)していたために実質の休みはなく、
365日がお勤めである。
町奉行の支配が及ぶ範囲は江戸の町のみで、範囲から言えば江戸全体の20%ほど、
おまけに支配できるのは町人・浪人・盲人のみで百姓にはその権限が及ばなかった。
こうした背景を持っていたがために、町周りの同心は心身ともに疲弊したのは
当然の成り行きでもある。
この日も夕刻、程なくして前橋茂左衛門は帰宅した。
嫡男真二郎はまだ10歳を迎えたばかりの遊び盛り、とはいえ父の茂左衛門は
「いつなん時上様のお役に立つ日が参るか知れぬ、その為にも武家の子は文武両道に
丈ておらねばならない」と厳しくこれを教えた。
子も又父のその望みによく応え、特に剣の道場通いは熱が入った。
「後4年もすればお前も同心見習いに出さねばなりません、
それまでにはお父上様のお役に立てるよう精進なれませ」
と母に常時聞かされ、そろそろ反抗期に入る子供の心は思う以上に重圧がかかっていた。
道場でも仲間と僅かなことでも諍(いさか)いを起こし、度に道場主から注意があり、
それを知った茂左衛門は殊の外厳しくこれを戒めたのである。
「歯を食いしばれ!股を開け!」それから強烈なビンタが飛んでくる。
真二郎は吹き飛ばされ、幾度も土間にひっくり返った。
見る見る頬は風船のように腫れ上がり、唇は歯で切れ、鮮血が唇の端から糸を引いて流れ落ち
た。
その痛みに耐えながら歯を食いしばり、眼に涙を浮かべ憎悪の眼で父親を睨み返す真二郎に、
「その眼は何だ!悔しくばもっとましな男になれ!さような軟弱でお上の御用が務まることなぞ
到底無理、もっと己を鍛え文武に励め!」
これが15歳を前にした真二郎にとっての父親像である。
「父上もお前のような時期を乗り越えて、今日の御役目を受け継がれて見えたのですよ、
そなたも今をこらえ、乗り越えて父上のようにお上のお役に立てる武士におなりなさい」
母も真二郎を叱咤激励する、これが当時は普通であったろう。
だが、何時の世にも同じ人間は存在しない。
心優しき者もあらば、闘争心の強い者もある、が 何れも普通の人間なのだ。
まして真二郎が生きたこの時代、弱者に残されてものは人生の敗北を意味する。
己の人生は己で切り開かねばならない弱肉強食の背景がそこに横たわっていた。
父に対して憎悪に燃えた真二郎は、ますます気性が荒ぶって行ったのは
しかたのないことだったのかもしれない。
かばって欲しい年頃、支えて欲しい母のぬくもりを躾(しつけ)という、
子供にとっては無意味に近い押しつけの愛情にすり替えられたと思い込み、
その厳しさの反動はますます道場通いに注がれた。
14歳になり、同心見習いに預けられたが、屈折した心は引受人の古参同心からも
疎んじられるようになり、それが又父母の叱責を買うこととなる、
いわば悪循環がこの子をして無頼仲間に染まる隙間を作ったとも言えよう。
引受人の古参同心もついには匙を投げる始末で、真二郎は家を開けることもしばしば・・・・・
かと言うて帰る所は此処しかなく、帰れば帰ったで小言が礫(つぶて)のごとく飛び通い、
時には拳固が三ツ四ツも飛んできた。
この子にとっては、ただひたすら拳を握りしめ、自分にとっては罵詈雑言とさえ想われる
親の思いを頭の上に素通りさせることが唯一その日の糧を腹に入れる手段であった。
こうして真二郎は間もなく20歳になろうとしていた。
家を開け、敷居をまたぐことを嫌い、ほとんど家には寄り付かず、霊岸島当たりで
無頼の日々を過ごし、金のためなら殺し以外はなんでもした。
彼にとって生きるとはそういう意味でしか捉えられなくなっていた。
それを知った母が探しだして意見をするも、もはや耳を貸す真二郎ではもはやなかった。
「私をこの様にしたのは母上と父上・・私は望みもせず頼みもしなかったのに、
自分勝手に私を産み落とし、想うようにしようと身勝手に私を創ろうとなされた。
私は人形でも傀儡(くぐつ・かいらい)でもない!私は私だ!」
何処でどうしてすれ違ってしまったのか母にもその理由(わけ)に覚えもなく、
ただひたすら立派な跡取りとして育ってほしいと願い、
そのためには時に心を鬼にせねばならなかっただけのこと、只それだけのことである。
頃は春、大川土手は花見の人出で賑わっていた。
花見は弘仁3年(812年)嵯峨天皇が神泉苑で花宴の節(はなうたげのせち)を催した。
これが後におせちになる。
御節供(おせちく・おせつく)は朝廷内での節会(せちえ)から生まれている。
当時の地主神社の桜がお気に召し、それ以後神社より献花させた、これが花見の始まりとも
言われている。
亨保5年(1720年)徳川吉宗がお鷹狩を復活させた、その為に農家の田畑をこれで荒らすことに
なり、鷹狩の場所や大川土手・飛鳥山に桜を植樹させ、花見見物の者達が土地の者に余録が落ち
るような政策をとった。
大川土手は花見客や酔狂人でひしめき、娯楽の少ないこの時代、庶民の最も楽しめる一つにも
なった。
今日は供に木村忠吾を控え、平蔵のんびりと川面を流す猪牙や屋形船なぞ様々に工夫して、
絢爛豪華に咲き競う土手の桜を眺める町の人々の、生き生きとした様子を懐手に、
川風がかすかな華の薫りをすくい取るように渋扇をくゆらせていた。
「お頭 嫌ぁ中々花見と申します物は良きものにございますなぁ・・・」
と平蔵の後に続きながらあちこちと目を走らせては止めている。
「おい うさぎ!美形でも見つけたかえ?」
「はぁ なな何でございましょう?」
忠吾突然の平蔵が声掛けに戸惑いつつ返事をはぐらかす。
「おいおい 忠吾お前ぇの言葉使いだけで儂は今お前が何を想うておるか判るんだぜえぇ」
「うっ ウソでございましょう、私を又々担がれておられるのでは?
私はそのようなことを想ってはおりませぬ」
と、慌てて否定した。
「ほれほれ そこよ、そこが怪しいと申すのだ、そのようなとは一体何だ?
何をそう慌てておるのだぇ?」
と平蔵が振り返って忠吾の反応を眺める。
「あっ またもやお頭は・・・・・かように私めをおからかいなされて・・・
私はちっともおかしくはございませぬ」
と、少々お冠である。
「いや 許せ許せ、どうでぃこの見事な桜・・・・・
なんともこう想わず口元も綻(ほころ)んで来ようと申すものではないか」
涼やかな一陣の風に、はらはらと花びらが舞い、
薄墨をかけたように遠近の空気感をはっきりと映し出す。
突然土手下で怒声が上がった。
振り返ってみると一団の浪人共が地回りの博徒ふうのものと対峙し、
一触即発の構えに入っている。
「おいおい 野暮はやめときな・・・」
平蔵懐から手を出し、ゆっくりと土手を下がって行く。
木村忠吾はと見ると、おずおずと平蔵の腰に隠れて従っている、まるで腰巾着ではある。
その時五十がらみで同心姿の男が素早くその中に割って入り、何か二言三言交わしている。
が、ふた手に分かれていた浪人と博徒風の者達が、一斉にその同心に殴りかかった。
「こいつぁいかぬ!おい忠吾従(つ」いてまいれ!」
平蔵急ぎ土手下に辿り着き、そのもめている中へ割って入った。
博徒風の屈強な男が浪人身形(みなり)の平蔵を一瞥して、ペっ!と唾を吐きかけた。
「そこをどきな三一!」
三一(さんぴん)とは年間の扶持(手当)が3両と1分という最も身分の低い武士をさして
言う見下した言葉である。
「おのれ無礼な!」
忠吾が思わず刀の柄に手をかけた。
「よしておけ!」
平蔵これを押さえてズイとその輪の中に入った。
同心風の男は、浪人風体の男に胸ぐらをつかまれ、抜き出した十手が、
ぶらぶらと風になびく柳のごと揺らいでいる。
すでに戦意喪失とも見て取れる具合である。
「おい!その手を離せ!」
平蔵は十手を持った腕を締めあげている男の手を、渋扇を畳んで打ち据えた。
痛くなぞはない、だがその行為は浪人の心底にこびりついていた自尊心を大いに傷つかせた。
「余計な世話だ、我らに構うな!」
浪人は平蔵を睨みつけて、更にその腕を高々と差し上げた。
「ううっ!!」
侍は顔を歪めて痛みをこらえている。
「解らぬのか?その手を離せと申しておる」
平蔵渋扇を帯に手挟み、ぐっとにらみを据えて刀の柄に手をかけた。
「きっ 貴様ぁやる気なのか!」
酔も手伝ってではあろうが、相手の気迫が読めていない。
手を離したや否や(シュッ)と鋭い鞘払いの音を残し、一気に抜刀し平蔵に斬りかかった。
「無粋な!」
平蔵 つっ!と半歩引いて太刀先を躱し、身体をひねって男の腕の脇に沿うように入り、
柄で刀をたたき落とした。
「おおっ!! おのれがぁ!!」残る浪人者が罵り声を上げて平蔵に襲いかかった。
平蔵体を躱してこれを避け、手首を握ったままの男を投げ飛ばした。
その勢いに散った花びらがフワと舞い上がった。
「喧嘩だぁ喧嘩だぁ!!」
周りは野次馬たちであっという間に黒山の人だかり。
さよう、火事と喧嘩は江戸の華・・・・・人の不幸は一番笑える・・・
対岸の火事とはよく言ったものである。
「やれやれ どうしようもねぇ野郎たちだなぁ」
平蔵、伝法な口調で周りを取り囲んだ男どもを眺めた。
「おうおう 勇ましいのが御登上だぜ!さぁ殺ってやれ、
町の屑を綺麗さっぱり大掃除と願いやすぜ」
野次馬の中から声が飛んだ。
「そうだそうだこんち花見の余興にゃぁ中々もってこいの場面!いよっ喜の字屋!!」
「ちっ!」
平蔵、事の成り行きを芝居でも観るような衆人に舌打ちをして
「おい うさぎ奴らを追っ払え!」
と野次馬を散会させるよう忠吾に命じる。
忠吾は懐の十手を抜き出して(チラリチラリ)と人だかりの周りを廻る。
それを確認(みた)野次馬たちはしぶしぶと散り始めた。
「おいおいおい 何処へ行くんでぇ・・・」
博徒風の男が後を追うように追いすがる。
「くっそぉ!やっとのところまで漕ぎ着けたのによぉ・・・・・」
思わずぼやいたのが平蔵の耳に達した。
「けっ やはりこいつぁ仕掛けだったんだな!とっとと消えろ、
さもなくばこの手で嫌でも追っ払うぜぇ」
刀を少し抜身に構えて平蔵一同を睨んだ。
しぶしぶと抜身を鞘に収めて四方八方に逃げる者共をじっと見やりながら、
後ろを振り返り
「お怪我はござらなんだか?」
平蔵はただ一人で無謀にも無頼の中に飛び込んだ武士に言葉を掛けた。
「誠にお恥ずかしい処をお目にお掛け申し、又危うき所をお助けいただき
誠に持ってかたじけのうござる、身共北町奉行所同心前橋茂左衛門と申す、
ところでお差し支えなければお手前の姓名なぞ伺ごうは失礼でござろうか?」
平蔵、相手が同心であると名乗ったものだから
「拙者長谷川忠之進と申す」
と何故か偽名を使い役職を名乗らなかった、
これは相手が同心であり、目上と見たことも含まれ、
盗賊改とは何ら関係の無き事柄でもあったからだろう。
「先程もご覧のように、私は剣術の方はからっきし、どちらかと申さば内勤(うちつとめ)が
性におうてござる、だが親代々の同心ゆえ、そうも行かず、
せがれには殊の外厳しゅう当たってしまい申した。
お笑いくだされ、その末が無頼の仲間に身をうずめ世を憚(はばか)って生きる先ほどの
無頼の者と同じにて、思わず己が腕も忘れ飛び込んでしもぅた、真 情けない始末にござる」
「ほほぅ で、そのせがれ殿は幾つになられた?」
平蔵我が身を翻(ひるがえ)っているようで、少々胸が痛む思いである。
「はい 間もなく二十歳、家を出たまま、元服もかなわず今は何処で何を致し、
いかが相成っておるやら・・・のう長谷川殿」
茂左衛門の言葉は平蔵にとって在りし日の父信雄の痛みを思い出していた。
「前橋どの、身共も若き頃似たような境涯を背負うたことがござる、
親の背の温もりが解った時にはすでにその父御(ててご)は此の世に無く、
いかにしようとも伝えることも叶わず無念の心地にござりますよ」
「儂もあやつが左様に想うてくれれば良いがと祈(ね)ごうておりますがなぁ・・
あは あはははは」
茂左衛門、肩に舞い落ちる桜の花を見上げ佇んでいる、
その両瞼(りょうめ)から熱いものがこぼれ落ちるのを、
花びらの舞う向こうに平蔵は観て取った。
「では又何処でかおめもじ叶ぅ事もござりましょう」
と別れ、再び土手上に戻った。
「お頭 何故盗賊改と申されませなんだので?」
と木村忠吾
「なぁうさぎ、儂はな、あの御仁の実直そうな態度に身元を伏せたのよ、想うても見るが良い、
ゴロつきとはいえ相手も二本差し、こっちはれっきとした八丁堀、
それだに赤子のごとくひねられて面目も消え失せておる、
そこに持って追い打ちの盗賊改はなんぼ何でも辛かぁねぇかい?」
「はぁ然様でございますか・・・・・武士の情けでございますなぁ」
「なぁに、儂はあのような御仁に心惹かれるのであろうよ」
平蔵 土手下で宴の最中の人々を眺め、自分の記憶にはこのような想い出の一つもないことが
無性に寂しく感じられた。
「あのせがれもこうであったのであろうか・・・・・」
胸に熱いものがこみ上げてきた。
「お頭!少し休みませぬか?先ほどの仲裁で喉もお乾きになられたのではと????」
「ふむ そうさなぁ それも又良かろう、よし!そこな茶屋で少し喉を潤わせると致すか」
平蔵はにこやかな笑みを浮かべて簡素な造りの茶店に入った。
縁台に腰を落とし、爛漫に咲きほこる花の下、遠くには都鳥が貝やカニなどを食べているのか
捕食の様子が見え、後ろには廣楽寺や妙高寺が控えている浅草は今戸町
「精が出るのぉ親爺!かような人出では、笑いも止まらぬであろうな?」
見るからに百姓という形(なり)の亭主は、歯の抜けた口元を緩めて
「へぇ 八代様のお鷹狩のお陰で、この辺りの俺等(わしら)百姓もこうして田畑を耕しながら
米の飯にもありつけやす。
まぁ時にゃぁ喧嘩やいざこざもございやすが、普段は静かなところでございやすからねぇえ
へへへへへ」
言いつつ、通い盆に茶と餅を載せて出てきた。
「おおっ これは見事な!」
平蔵 茶とともに出されたそれを観て驚いた。
質素ながら生地に素掛けの墨塗り盆、そこへ若竹を切りそろえた物に入れた煮だし茶の色目が
又美しい、それに添えての桜餅、その横に今を盛りの桜の花が一房添えられてあった。
「う~~~ん!・・・・・・」
平蔵このさりげない亭主の心遣いに感服した様子である。
「のぉご亭主、この気配り・・・
中々に出来るものではない、おまけに茶のたしなみなぞ縁もないと見ゆるが・・・」
「あはははは さようでございやす、浅草のお頭が時折お見えに御成なすって、
その折このような工夫を教わりやした」
「何とな!左衛門も参ったのか」
「へぇお屋敷がついこの奥でございやすから、時折寄ってくださいやす」
「うむ 然様か・・・いかにもあ奴の好み・・・・・・」
平蔵、茶を一口喉を湿らせ、葉に巻かれた桜餅を取り上げ、
添えられた黒文字で二つに分け口に運んだ。
「この葉の塩梅ぇが、いや中々餅に葉の薫りの移りが・・・又美味を増す」
「恐れ入りやす、こいつあ去年摘んだもので、ちょいと古ぅなっておりやすが、
聞くところでは、八代様のお奉行大岡様が町奉行になられたおり、大川土手の桜の葉を摘み、
樽にて塩漬けし、中に漉し餡を仕込んだ餅をこれで包んで長命寺門前で、
山本新六というお人がお出ししたのが始まりとか」
「おいおい 亭主!お前中々隅にはおけぬなぁ、儂は初めてその講釈を聞かされたぜ、
のぉ忠吾」
「いやはや全く仰せの通り、驚きましたなぁ、かえって村松様に伺ぅてみるのも、ふふふふ」
「やれやれお前ぇも悪だのぉ」
平蔵呆れながらも
「そのような講釈をお前ぇは一体何処から仕込んだのだぇ?」
と好奇心を満たそうと誘い水を向けてみた。
「へぇ 北町奉行所のお役人様でこの辺りの町廻りをなさって居られやす、
前橋茂左衛門様から伺いやした」
「何と!先ほどの御仁ではないか忠吾・・・・・
へぇ なるほどヤットウは得手ではないはずだ」
「まっこと!」
「いやぁ旨い!この餡の甘さを葉の塩味が引き立てて、焼いた皮を塩漬けの葉が
しっとりとなじませ、香ばしさの奥に潜めた餅の歯ごたえ・・・うむ!実に旨いぜ亭主!」
平蔵大満足の体で菊川町の役宅に戻った。
「誰ぞ!村松は居らぬか?」
「お頭、村松様で?」
御用部屋に控えていた同心沢田小平次がやって来た。
「おお 居らぬか?」
「間もなく戻ってまいると存じますが、お呼びいたしましょうか?」
「うむ、戻り次第ちと野暮な話につきおうてほしいと然様伝えてはくれぬか?」
「承知つかまつりました」
沢田が去った後、平蔵が妻女、久栄が茶を持って入ってきた。
「殿様今日は又ご機嫌が宜しゅうございますな、何かよろしきことでも後ざりましたか?」
と探りを入れてくる。
「おお こいつぁそなたに土産だ」
「はて何でござりましょう?・・・・・・
まぁこれは・・・」
「おう 長命寺の・・・」
「桜餅!!」
「ほう 流石よく存じておるのぉ、いやはやおなごは甘いものには目がないと申すゆえなぁ」
そこへ慌ただしい足音がして
「お頭 村松忠之進只今戻りました、何か火急のご用とか沢田殿が・・・・
「あっ!!!それはもしや長命寺・・・」
「わははは やはり猫どのには存じておったか」
「無論でござります、そもそもこれは八代様が先の南町奉行職に紀州よりお連れなされました
大岡忠相様をお据えになられたる亨保二年、大川沿いに桜を植栽なされたる落ち葉を
醤油樽にて塩漬けを工夫いたしたる山本新六なる者が、
長命寺門前にて一個4文で売り始めたもの。
元々は長命寺に墓参りを致す者共へ供したのが始まりにござります」
「あはははは いや 流石猫どのようご存知じゃぁ」
「いえぇ さほどのことではござりませぬ、元々は下総國銚子の在にて、元禄四年(1691年)
ころ長命寺の門番を致しておりましたる山本新六が、果てるとも知れぬ落ち葉の始末に困り、
その落ち葉を醤油樽に詰めておきましたる処これが中々に良き香りが致したそうにございまし
て、
これを小麦粉や微塵粉(みじんこ)、すなわちもち米を蒸しあげて後平たく伸ばし、
乾かさせたる後これを再び細かく砕きしもの、また、これを更に薄く伸ばし、軽く焼き込み、
砕きしものを焼微塵粉と申し、焼き色が着かない程度に焼いたものは寒梅粉と呼びます。
こちらは寒梅が咲く頃に前の年の秋取り入れましたる新米から作るゆえ、
かように申すそうにございます。
「ほほぉ寒梅粉とは、又雅味のある名じゃなぁ」
「はい!桜餅は、葉を水につけて塩抜きしておき、生地の粉を餅粉や白玉粉と少しづつ
取り混ぜ、それを薄く伸ばして焼きます。
餅がしっとりするほどに水気を残すところが塩梅と申せましょうか。
漉し餡を丸めて置いたものをこれにて包み、真水にて塩気を洗い落としましたる葉の
水気を取り巻き合わせます。
この焼いた香の匂い立つそれへ、葉のわずかに残れし磯の味が、
こう 口の中にて絡みおうて歯応えを持ちつつもしっとりと、
このあたりの塩梅が秘伝と・・・・・」
「やぁ 参った!そこまでとはこの儂も想わなんだ、感服じゃぁわぁははははははぁ」
「嫌ぁそこまで頭にお褒めいただきますと、この村松忠之進少々こそばゆうござります」
「と申されつつも、満更でもなさそうなお顔にございますなぁ殿様」
「うむ まこと久栄の申す通り、そうでもなさそうな顔だぜ猫どの、わはははは」
"この山本新六が務めた向島長命寺の山本屋2階を3月ほど借り受け、
自らその場所を月光楼と名付けた俳人正岡子規が逗留し、
「花の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ」
と詠んだのはよく知られている。
前橋茂左衛門の嫡男真二郎が亀島町の屋敷に戻らなくなってすでに久しい時が流れた。
心労の所為(せい)か、母千代女は床につく日々が多くなり、
下男夫婦も案じて真二郎の探索に駆けまわるが消息は不明のままに終わっている。
その日は朝から冷え込みの厳しい始まりであった。
五代将軍綱吉の慰安所として建てられた(麻布御殿・冨士見御殿)とも呼ばれた白金御殿に
引水した三田用水分水の白金分水、近くの山下橋には水車があり、
ここでそば粉を挽いたと言われている狸蕎麦、ここは四の橋を堺に渋谷川と古川に分かれている
起点にもなっている。
狸橋南側には、かつてこの辺りを慶應義塾の創設者、福沢諭吉が買い取り別荘(梅屋敷)に
使っていた。
後に慶應義塾幼稚舎と、コッホ、パスツール、に並ぶ世界3大細菌研究所である北里研究所が
建てられた。
その水車営業権の米搗(こめつき)水車で米を搗き、塾生の経費に当てたとか言われている。
この三丁ほど西に修験屋敷がある。
はじめは世をすねた小さな集まりであったものが、徐々にその勢力を拡大、
やがて100名を擁する集団にまで発展。
彼らは時の御政道に反旗を翻した。
松平定信による寛政の改革では蘭学の否定、身分制度の見直しに極端なまでの倹約令など、
庶民にも極めて厳しい締め付けが行われた。
加えて政治批判を禁じ、これにより洒落本作者山東京伝、黄表紙作家恋川春町、喜多川歌麿や、
東洲斎写楽版元の蔦屋重三郎なども処罰された。
蔦屋重三郎は曲亭馬琴や十返舎一九なども世に出した人物であったが、
過料によりその財産は半分を没収され、山東京伝は手鎖五十日という処分を受けた。
このような背景を元に膨らんだ組織だが、集団が共に暮らすには当然のことながら、
それなりの広さや物資、金品が必要になる。
そこで目をつけたのがこの白金の修験屋敷である。
この地を根城とする群狼"正義隊"(しょうぎたい)が結成されたのは、
このような経緯(いきさつ)であった。
こうして彼らは、市中を徘徊し、軍資金を調達し始めたが、それは徐々に過激さを増し、
ついには集団化してしまった。
だが、彼らを取り締まろうにも打つ手が見つからない。
何しろそれぞれが別々に数名で組み、いざこざや難癖を吹きかけ、
それを止めに入るという格好を作って手打ち金を要求搾取する。
これはいつなんどき何処で起こるか皆目見当すらつかない厄介な事件である。
過日平蔵と木村忠吾がぶつかった浅草大川土手の花見事件もその一つではなかったろうか?
南北町奉行でも昼夜を問わずこれらの警戒や探索も行われてはいたものの、
後の仕返しや店前に屯(たむろ)して、客の出入りを暗黙の武力で阻止し、
時にはいやがらせ等も行い、かと言ってその頃のお定めではこれを取り締まる法もなく、
泣き寝入りが普通であった。
むしろ地廻りのゴロツキよりもしつこさはなく少金(こがね)で片付いたし、
何よりその口上が共鳴する部分もあった。
「我らはお上がなされる御政道に苦しめられておる百姓・商人共を救済すべく
立ち上がりし志士、だが軍資金枯渇のゆえに我らが志に支援金を賜りたし・・・・」
と声高に口上を述べ、決して店中には入らない。
店中に入れば恐喝になる事も考えられるからであろう。
これは来客も気色悪がり、次第に店には寄り付かなくなる。
町役人に訴えても
「我らが些かの法も犯したと申されるならば、その証をお見せいただきたい」
と相成る。
このように被害届もでず、捉えても裁くところまで辿りつけない、全く厄介なものであった。
こうした中で江戸市中に入り込んでいた浪人たちが、更に群れをなすようになり、
一部ではこれらが日中強奪、略奪という形に暴徒化し、
江戸市中を恐怖のどん底に落とし込んだ。
このために昼夜を明かさず駆り出されたのが南北奉行所統括の与力・同心・・・・・
南北合わせて与力25騎、同心200名、これで100万の大江戸の治安に当たるのである。
当然、この中には秘書・人事・管理など捕物や探索に無関係の役人も含まれる、
しかも南北の月番があり、この半分以下が動けるに過ぎず、正に焼け石に水、
ほとんど効果はないと思える。
あとは同心たちが自腹を切って使っている目明しや、
その下っ引などからの情報に頼るしかないのが実情であった。
芝増上寺大門前、片岡門前町1丁目蝋燭問屋"丹波屋"娘"ゆき"が下女を伴い、
木挽町五丁目にある森田座の芝居見物に来ていた。
当時蝋燭はまだまだ一般的ではなく、菜種油やえごま油、更に安価な鰯(いわし)などを
絞った魚油が一般的であった。
"鰯油”といえば今の御時世DHA(青魚血液サラサラサプリメント)で
知らない人は少ないだろう。
蝋燭は漆(うるし)や櫨(はぜ)の実を砕き、それを蒸して圧縮し、木蝋を精製する。
もろこしや葦の葉を芯にしたが、上方(京都大阪)では木蝋に魚油や獣脂を混ぜ込み、
廉価なものを作った。
両者の明るさに差はないものの煤や匂いは強かった。
井原西鶴の(好色二代男)に贅沢のたとえで「毎日濃茶一服、伽羅三焼、蝋燭一挺宛を燈して」
とあるように、貴重なものであった。
庶民は魚油や菜種油を用いた行灯や、農村部では松脂蝋燭(松脂を笹の葉で包んだもの)
囲炉裏の明かり、また石鉢で松根(しょうこん)を焚いたり細割の竹に燈す等色々であった。
3匁5分掛(5本入り)で、1丁9文(225円)1本で1時間10分燃える。
菜種油1合40文(1000円)魚油1合20文(500円)を考えれば、かなり高額になる。
棒手振り1日200文(5000円)浅草紙100枚(再生紙のちり紙)100文(2500円)
の時代である。
蝋燭の灯は光源の光度を表す単位のカンデラ(燭灯・蝋燭1本の光度)から来ている。
家庭用電球の豆球が2カンデラだから、まぁほの明るいといったものか・・・
行灯となると更に暗く、60ワット電球の50分の1となるわけだから、
暗闇ではないという程度と想ったほうが良い。
この明かりを白紙に近づけると明るさは格段に向上する?