時代小説鬼平犯科帳 2017/02/25 3月号 生きるも地獄 その2 「で 俺にどうしろと言うんだ」「へぇ 旦那もご存知のように日暮れからあっしらは出歩くことが出来やせん、ところがそのぉちょいと悪戯をして見てぇって言われる旦那衆もおありでござんしてね、そのお供を手伝っちゃぁ頂けねぇかと・・・・・・」「何ぃ 町人の用心棒になれと申すか、酔ってはおれど俺はそこまで我が身を落とす気はさらさらにない、無礼であろう」「へへっ こいつぁご無礼を」ゆっくりと立ち上がり、蔑(さげすん)だ目つきで小田祐継を見下ろしながら「まぁこいつぁ先程からのあっしのお詫びの印、飲っておくんなせぇ」と徳利を置いて「旦那ぁまたお目にかかりやしょう」と店を出てゆく後ろから徳利の床に落ちて割れる音が後を追いかけてきた。「落ちたかぁねぇなぁ・・・・・」男は袖を振り両手を懐に引き込んで柳の裸枝の揺れる町に消えた。「くっそぉ!酒が・・・酒が・・・」小田祐継は湯呑みに先程男がおいて行った徳利から波々と注ぎ一気に煽った。足元には割れた空の徳利が飛び散っていた。それから5日の時が流れた。のそり・・・と遊び人風体の男が暖簾を掻きあげて入ってきた。いつぞやの男である。数本の徳利を前に小田祐継が睨めるように盃を口に運んでいるのを見届け「旦那ぁおいででござんしたねぇ」と遠慮もなく同じ席に座り込んできた。「・・・・・・・・」「まぁこの前の事ぁご無礼いたしやした」慇懃無礼に口元を歪めながら持ってきた徳利を小田祐継の前につきだした。小田祐継は黙ったまま盃をこれもまた突き出し無言であるゆっくりと湯呑みに注がれる酒を受けながら「で 俺にどうしろと言うんだ」ぼそりと低い声で遊び人につぶやくように「ガッテン!承知と踏んで良ぅございやすね、てぇしたことじゃぁござんせん、旦那ぁたしか御家人とおっしゃいやしたね」「確かにそうだが、それがどうかしたか?」「そこで御座いやすよ、御家人ともなりゃぁご家紋入の提灯なぞはお持ちと?」「当たり前だ、いざという折は上様のおそばに駆けつけねばならぬ身、提灯なぞ持たいでどうする、それとどのような拘(かかわ)りがある」へぃ 夜ともなれば出張っておいでの町方のお調べも時にぁ出くわしやす、そんな時ぁご家紋提灯は黙って通して頂けやす」「それだけが狙いか?」「左様で、全く左様でございやすよ旦那ぁ、他になにがあるってんで?」と、逆に問いかけてそれ以上の詮索を切り捨てた、小田祐継此処に気づけばこの先に待ち受ける事件にも巻き込まれることもなかったであろう、だがことは思惑通りには運ばないのが世の常、酒という物に逃げることで気持ちを紛らわせる事に魅入られてしまった者の行き着く所はこのようなものであろうか・・・「解った!で いつでかければよいのだ?」「おっと そいつぁまだ決まっちゃぁいねぇんで、まぁ今日の所は前金というわけでもござんせんが、取り敢えず仕事の前金ということで納めておいておくんなせぇ」懐から胴巻きを出し、チチッ と、かすかな音をさせて小判を2枚小田祐継の手に握らせた。驚いて小田祐継「おおっ おいこれは・・・・・」「ですからね、今日の所はそいつで心ゆくまでお飲みなすって、あっしの繋ぎを待っていておくんなさいやし、なぁにさほど先のことじゃぁござんせん、ここに顔を出しておいて下さりゃぁいつでもお目にかかれやすよ旦那!」それから二刻、懐も久々に温かく小田祐継は心ゆくまで酒を飲んだ、久々の泥酔状態であった。時は夕刻ともなり、わずかばかり裏寂しい晩秋の風も今の小田祐継には心地よく想えた。ふらふらと身体を揺らしながら棲家へと足を運ぶ後ろから、蛭のようにピタリと憑く陽炎に気づくはずもなかった。それから三日が過ぎた。小田祐継は棲家から近い牛込馬場下の正覚寺門前に姿を見た。この正覚寺、地元では榧寺(かや)として慕われている。もとは天正年間(1575年~)から草庵として始まった。慶長4年(1599)に増上寺中興開山の観智国師法名貞蓮社源誉上人が池中山盈満院正覚寺として開山したと言われており、榧寺以外にも、東小松川源法寺、行徳源心寺などを開山した。境内に鬱蒼と茂っていた榧の木が、寺宝を火災から護っていたことから、江戸時代から榧寺と称されている。小田祐継の妻女りきが達者な頃は娘のさととともによくこの榧の木の下で花を愛で、実りに季節の喜びを楽しんだところでもある。塀の外からでも見ることの出来る巨大な榧の木も二年目の秋を迎え紫褐色の実をたわわに付けて秋風に時折揺らいでいる。出された酒に口を近づけた時「旦那・・・・・」と背中で聞き覚えのある声が寄ってきた。「お前か・・・」振り向くこともなく小田祐継は盃を離した。「よく居場所(ここ)が判ったな・・・・・」「へへへっ まぁそれは置いといて、今夜辺り一つ出張っちゃぁ頂けやせんでしょうかねぇ」「仕事か?」「へぇまぁそんなところで・・・」「判った、で何処へ出向けば良い」「へぃ 内藤新宿仲町太宗寺閻魔堂の前で夜の五つ・・・・・ようござんすね!提灯をお忘れなく」そう言って駆け出していった。「・・・・・・・・」小田祐継は黙ったまま酒を口に運んだ、どうにもこの度のことが心のどこかに引っかかっているようで、なかなか酔うこともままならないようであった。小田祐継は指図通り夜の八つを少し前にして内藤新宿仲町太宗寺閻魔堂の陰で待った。八つの鐘がすぐ傍で刻を打った。この太宗寺は寛永六年(1629)内藤家四代内藤正勝が五代の重頼によって菩提を弔われ、その時寺領7396坪を寄進された。門を入るとすぐ右手には江戸六地蔵の一つ露座金銅大地地蔵尊が鎮座している。これは深川念仏行者地蔵坊正元が江戸市中より浄財を募りこの六体を建立したもので江戸で口六箇所に建てられたもので、正徳二年(1712)9月に神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。胎内には小型の銅像六地蔵六体や寄進者名簿なども納められている。また境内には不動尊があり、これは武州高尾山に安置しようと江戸から運ばれる途中、この太宗寺で休憩を取り、さて出立となったところで、この不動尊がにわかに盤石の如く重くなり、太宗寺が不動尊の鎮座するべき有縁の地と定められ不動堂が建立されたものである。「お待たせいたしやした」背後に聞き慣れた男の声に振り向くと町籠が1丁、垂れは降ろされ中を確認することは出来ないが、まぁそれはこの際どうでもよいことだったので、すぐに提灯に灯を入れかざした。「おっと そのままそのまま・・・・・早速でござんすが、まずは、こう 付いておいでなさいやし」と先に歩き始めた。ひとまず表に出て東に折れ、すぐ横の太宗寺門前横丁を北に上がった。やがてすぐ隣にある井澤美作守下屋敷の裏手に三途の川の老婆奪衣婆像のある正受院と投げ込み寺で知られる成覚寺の並ぶ裏手に回る。すぐ横が井澤美作守下屋敷の裏口に当たる。「旦那はこの辺りをあまり離れねえょよう流していておくんなさい、なぁにさほどの刻はとりやせん」と男は小田祐継を追い払うように促し、祐継が離れるのを見届けて籠の垂れを上げどこかに消えた。駕籠屋も成覚寺門前に腰を据えて待っている様子である。それから一刻(二時間)が過ぎようとしていた。太宗時の鐘が夜の4ツ(十時)を打った。遠くで夜回りの拍子木が凛と鳴り響き、おぼろづきは中天に滲んでいた。ばらばらっと多数の足音が駆け寄り「急げ!」と激が飛んだ。薄闇の中に一人が篭に乗り、駕籠屋を囲むように男たちが四名付き、小田祐継の提灯を先頭に追分を過ぎ西方寺門前から柏木成子町を過ぎると行く手は俤の橋(おもかげのはし・淀橋)、これを越えれば成木街道である。俤の橋はかつて中野長者と呼ばれた紀州出の商人で、元は神官の末裔であった鈴木九郎が馬の売買で得た銭一貫文が全て「大観通宝=中国の貨幣」であった為に、観音様に関わりがあると考えて、帰り道浅草寺で観音様に奉納してしまった。そのご利益からか、やがて中野長者と呼ばれるほどの分限者になり、故郷の熊野三山をこの地に祀った。だが、増え続ける財の保管に困り、人夫を雇ってこれを埋めることにした。しかし秘密を知った人夫はことごとく殺され、再びこの淀橋を戻ってくることはなかった。そのためにこの橋は「俤の橋」「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。この鈴木九郎が35歳の折娘が生まれたが、ある時突然頭に角が生え、口は裂け大蛇になってしまった。大蛇は寝床から這い出すと急に大雨が降り続き、やがて地面に溢れ十二社(じゅうにそう)の森に流れ込み大きな池となる、こうして大蛇はその池の主になったという言い伝えがある。後寛文7年(1667)に玉川上水から神田上水に向けて助水堀が設けられ、ここからこの池に向かって幾筋もの滝が流れ落ち夏ともなれば蛍も飛び交い景勝地として、大きなものは十二社の大滝として知られた。それが元で「四谷新宿馬の糞の中であやめ(遊女)さくとはしほらしい」という狂歌も詠まれたほど賑わった。この神田川周辺は水車小屋も多く建てられ、江戸に入る蕎麦はここ淀橋一帯で粉引きされ江戸へと散っていった。一行は俤の橋手前で左に折れ熊野権現社前にある岡場所の中程で止まった。「旦那ご苦労さんでございやした、本日ははここまでということで、また近いうちにお願いいたしやす」そう言って小田祐継が立ち去るのを見届け暗闇に消えていった。さとは昨夜遅く父親が帰ってきたのをいぶかり「父上昨夜は何処へお出かけなされましたので?」「・・・・・・お前の知ったことではない、儂は眠い、構うな!」「でも・・・・・」「くどい!詮索無用じゃ」と、取りつく島とてないありさま。仕方なくそばに置かれている提灯を取り上げてみると、すっかり燈明は燃え尽きている。「まぁ・・・・・・」さとは父が出かけてかなりの長い刻が過ぎていることを知った。この朝には南町奉行所に内藤新宿成覚寺横手に博徒身なりの遺体が2つ転がっていると届け出があった。何れも鈍器で後頭部を一撃喰らわされての撲殺であった。早速奉行所配下の者が聴きこみに廻ったものの得る物もなく、5日が過ぎた。その翌日、さとが放生寺門前町の水茶屋駒やに出かけようと長屋を出ると、入口付近にこの辺りでは見かけたことのない遊び人風体の男の顔がチラと見えた。「?・・・・・・」気にはなったものの、勤めは待ってはくれない、愛想も人あしらいもよくその上花もあると来て駒やは繁盛し、女将も大事に扱ってはくれるものの、甘える訳にはいかない、そこが又武家の娘の気真面目なところでもある。父の祐継は相変わらず朝からの酒三昧「何処にそのようなお酒を求める金子が・・・・・」と尋ねるさとに「お前が口を挟むことでもない、儂が工面いたしたもので酒を飲むのがいかぬというのか!まるでりくが儂を責めておるような目つきを致すな!」もう幾度繰り返したかわからない、これが母りくが逝って以来の親子の会話であった。表の戸がゆっくりと引かれ「旦那・・・・・」聞き慣れた男の声である。「仕事か?」祐継は湯呑みを膳の上に無造作においては入口の方に眼を配る陽を背に受けて黒い影が立っている「へい 明日神楽坂西照寺までご足労願いやす刻はこの前と同じと言うことで」「承知した・・・・・」祐継はそっけなく返事を返し湯呑みに酒を注ぐ。翌日夜八つ・・・小田祐継の姿が神楽坂西照寺門前に在った。「旦那・・・ちょいと脇のほうでお待ちになっておくんなさいやし」と、寺の横手を目配せした。祐継は塀に沿って入り傍の庭石に腰を下ろし、しばしの時を過ごした。一刻ほどして、向かいの武家屋敷裏手辺りから三々五々人が出てきた。それぞれに明かりを携えているところを見るとそれなりの身分や物持ちの商家の主とみえる。やがて数名の足早な音が聞こえ祐継の方に鋭いが小さな声で「旦那!」と駆け寄るものがいた。「早速お願いいたしやす」男は祐継が提灯に灯りを入れるのももどかしそうに「ささっ 早く!」と後に従う三つの影を促し西南に下がって本多修理下屋敷を東南に取り軽子坂へと向かった。この坂は神楽坂河岸から軽籠(縄で編んだ籠=もっこ)担ぎの人足が多く住んでいるためにそう呼ばれている。大久保屋敷の前には辻番小屋があるが、すでに夜中・・・木戸は閉められており寝静まっている。五名は祐継の提灯を先頭に軽子坂を下がって行った。揚場町掘割沿いに左に北上すると、どんどん橋(船河原橋)の前にたどり着く、どんどんの降(おち)る傍に小舟が一双繋がれて朧月にうっすらと影を見せて川面に揺れている。「旦那 ここまでで宜しゅうございやす、こいつぁ今夜の助賃で」と懐から裸銭を取り出し祐継に握らせた。手触りから小判2枚・・・・・のようであった。「お気をつけなすって!」と低い声を残し、男たちは薄闇の中を河原に向かって降りて行った。またもや翌日、神楽坂大久保家前の辻番所に西照寺に近いところに死人が居ると届け出があった。町廻りの者が小者を連れて見聞した所、昨夜この辺りで賭博が開帳されたらしいという聞き込みがあった。被害者の身元は不明で、匕首のようなもので一突きされ、絶命していた。それから数日置いて同じような事件が2件起こっている。何れも手口が鈍器か刃物と似通っており、同一犯の犯行と奉行所では断定され、細やかな探索と聞き込みが開始されたが、一向に手がかりは闇に消えたままその影すら掴ませなかった。そんな話を仙臺堀の政七が立ち話で火付盗賊改方同心小林金弥に漏らした。平蔵はその話を聞きながら「おい小林!神楽坂はそちの持ち場ではなかったか?」「はい 私の見回り区域でございますが、私も初耳で驚いております、あの辺りは大名屋敷から武家屋敷も多くまた矢来町への大老登城道(神楽坂)の三ツ割長屋(牡丹屋敷)から上がる坂は大層険しゅうございます。しかし坂上からの眺めはこれ又なかなかの物で御座いまして、肴町の行元寺前ございます紙梳き屋相馬屋源四郎で時折一休みいたします、そのおりこの界隈の話なども聞き込みますが、此度の事件は・・・・・」「耳に致しては居らぬとそう申すのだな?」「はぃ 大抵のことは近場のことなれば私の耳に入っても不思議ではございませんがそのような噂は聞いてはおりません」「んっ となればこの事件表沙汰にしたくねぇといういわくも考えられるやも知れぬな!」平蔵腕組みしながら黙想し、僅かな手がかりを組み立てようと思案している様子であった。翌日早く同心小林金也は神楽坂の西照寺に出向いてみた。仙臺堀政七の話では西照寺付近はほとんどが武家屋敷で囲まれており、番屋・番所もいくつかあるものの何れも夜4ツ刻(午後十時)ともなれば木戸を閉めてしまい夜回り以外見張る者は皆無である。とは言うものの、地道な聞きこみが功を奏する時もあり、小林は神楽坂の上り詰めた辺りの本多修理守向かいにある高木家の辻番小屋を覗いた。「おい親爺近頃この先の西照寺辺りで死人が出たという話を聞いては居らぬか?」と懐から十手をのぞかせ七十前とみられる番太を見た。「へ へっ こりゃぁどうも、お上の御用で?その話でございやしたら軽子坂の大久保様のお屋敷にある辻番をお尋ねになられるとようございましょう」と教えてくれた。その足で小林欣也は軽子坂に回り、大久保家の辻番所を覗いてみた。「こいつぁ旦那 ご苦労様でございやす、先日の事件(こと)ならあの辺りの武家屋敷から下人がここへ知らせに来やして、あっしが早速奉行所へお知らせに上がり、お役人様が駆けつけられやしたが、どうも辺りの武家屋敷でご開帳があった様子で、そいつが表に出るとまずいんじゃぁねぇんでしょうか、きつく口止めされやした。ですがね、西照寺辺りの武家屋敷で時折壺振りなんかがあるってぇ話は耳にしたこともございやすがねぇ」茶を勧めながら焼き芋の壷を覗き「旦那お一つ如何で?こいつぁ下総の馬加村からやって来たもので、中々ほっくりと美味しゅうございやすよ」と小林に軽く焦げ目のついた焼き芋を木皿に載せて差し出した。「うむ、戴こう!」小林は親爺の手から皿を受け取り「あっあっ熱ぅ!」と言いつつ二つに折り、皮を剥いて黄金色に輝く実りの旨さを頬ばった。「うううんっ 美味い!この甘さはいや格別だなぁ・・・・・」小林金弥は目を白黒させながらもふうふう言いつつ口に入れる。それを番太の親爺はながめながら、「こんな時ぁお武家様もあっしらも変わりやせんねぇあはははは」と愉快そうに歯の抜けた皺ばかりが目立つ髭面で笑った。この番太とは町の年寄り二名で構成され、独り者というお定めではあったが、ほとんど意味をなさず、部屋を拡げ、女房がいると、夏は金魚、冬は焼き芋を入口に置いて売り、また駄菓子・蝋燭・糊・箒・浅草紙に瓦火鉢・草鞋・団炭・渋団扇などの荒物を売り結構生活ができた。(辻番で見かけないということは少なくとも亥の4ツ(午後10時半)以後ということになる、とするなら一体どうやって辻を抜け出たのであろうか?と言う疑念が湧いてきた。その帰り揚場町の番小屋も覗いてみた、するとその番小屋の親爺が亥の4ツの鐘を聞いて寝込み、だいぶ過ぎてから厠に立った時刻に表の方に提灯の明かりが見えたと教えてくれた。「で、そいつは何刻頃であった?」「へぇ 寝入ったのが亥の4ツでござんしょう・・・厠から戻り布団に潜った後しばらく寝付けなくて・・・それから暁ノ九ツ(午前0時)が聞こえやしたから、おそらく亥ノ三ツ刻(午後10時~10時半)か・・・・・」「あい判った!少しは目処(めど)もついて来た、世話になったなぁ焼き芋が又めっぽう美味かった、御銭(おあし)はいくらだ?」と懐から紙入れを出すが、親爺は笑顔で「へっ とんでもねぇこってお役人様から頂戴しちゃ明日からお勤めがやりにくうございやすよ、先ほどの美味ェってぇお顔がお足で、へへへへへ」と笑って受け取らない。「そうか、馳走になった、又時折覗かせてもらうからな」小林は茶と芋の礼を述べて辻番を後にした。お足とは読んで字のごとく銭は足が生えたように飛んで失なるところからこう呼ばれた。小林金弥は御濠沿いに東に取りどんど橋(船河原橋)に着き、橋の上から釣り糸を垂れる好々爺に「獲物はとれたか?」と訪ねてみた。「こりゃぁお武家様、ご覧のようにこのどんど橋から上はお止川(江戸川)上(かみ)は大洗の堰でございます、ここにぁ将軍様の御膳魚紫鯉が放されております、こいつが小さい時にこぼれてドンドンに落ちてきます、どんどんはお構いなしと言うことで、はい!こうして暇な者が釣り糸を垂れ、運がよきゃぁ紫鯉の2尺上(しゃくがみ)でもってぇ算用で・・ははははは」「成る程なぁ、おとめ川からこぼれた鯉はお構いなしとは粋なお定め、ははは・・」橋の下を頻繁に川船が通るのを眺め小林、「何と船の往来も多くこの辺りは荷揚げの船で賑わっておるな」「そりゃぁお武家様、揚場町からこの一体水道橋辺りまでは小石川にお住まいの岩瀬市兵衛さまの名の付いた市兵衛河岸と呼びまして、船溜りも多くのべつ荷船が出入りいたします」「ほぅ 夜半でも船は通うて来るものか?」「そりゃぁもう、棒手振りなどの仕込みのためには夜半に荷揚げを致しませんと間に合いかねます」「はぁ それはそうだなあぁ・・・・・おおっ おい上がったではないか!」「へへへっ これで今夜は鯉の洗いと行きますか、如何でございますお武家様、私は1匹あれば十分、よろしければお持ちになられませんか?」「と言うわけで、そのご隠居が手ぬぐいをたらい桶の中に浸し鯉の目を塞ぎますと鯉はおとなしく動きません、そのまま手ぬぐいで身体を巻き、それを近場の菰に巻いて荒縄でかように縛り、持たせてくれました。何しろ将軍様のお召し上がりになるという紫鯉でございますからと申すもので、ここはひとつお頭にと頂戴いたしてまいりました」十町(約1,1キロ)程を提(さ)げて清水門前の役宅に戻った。「何と!上様のお召し上がりになる紫鯉とな!!そいつぁ又珍しきもの!!いやぁ重畳重畳!!」平蔵手放しの歓びようである。「早速猫どのに・・・・・おい村松は居らぬか?」 [0回]PR