時代小説鬼平犯科帳 2017/04/12 4月号 金玉医者 その1 この日平蔵は登城から戻り、昼過ぎから深川方面に出向き、夕刻本所菊川町の役宅に戻ってきた。「お頭只今おかえりでござりますか?」そう声をかけたのは火付盗賊改方同心木村忠吾、両国橋を渡って突き当たりの元町にある"もゝんじや"に立ち寄り「おやじ薬喰はいつ頃が美味いのだ?」と情報を聞き出す。当然のことながらお頭にそっと耳打ちすれば「おお!それは又!」と乗ってくださるに違いないという目論見があるわけであった。年格好からして番頭とみられる格持ちの男が相手に出てき、忠吾の身形(なり)を確かめる。着流しに落し差し、いつもの市中見廻り浪人姿の拵えであるが、月代もこざっぱりとしており品格に欠けるほどのことでもない、それを見て言葉を選びながら「お武家様もご存知で御座いましょうが、何と申しましても冬から春先の猪子は味も深うございます、山里に雪が深まる前に木の実をしっかりと食べた三年から四年目の雌は身もよく締まり脂も乗り、薬喰ともうしますように滋養もございます」となかなか聞くだけでも食いしん坊の忠吾には涎の出そうな口上である。(よしよし、これでお頭にご報告すれば「忠吾従いてまいれ!」とのお言葉もかかってこようというもの・・・・・)正にとらぬ狸のなんとやらである。竪川に架かる一ツ目橋たもとを真っ直ぐ竪川沿い進めば、二ツ目橋たもとに平蔵行きつけの軍鶏鍋や五鉄がある。だがこの度は一ツ目橋を素直に越え、天明の大飢饉のあと天明六年(1786)藩校「養老館」を設置し、寛政十二年(1800)藩士だけであったものを庶民にまでその門戸を開き、医学を志すものには学資を貸与する制作を設けた石見津和野藩八代藩主亀井矩賢(のりたか)屋敷の白い塀が竪川に揺らぐのを横に、竪川を真っ直ぐ東に取り、徳右衛門町二丁目を右に南下して陸奥黒石藩上屋敷津軽式部少輔(しょうゆう)の津軽藩木戸番所前を通りかかると、中から木戸番の六助が「あっ これはご苦労様でございます木村様、ただいまお帰りでございますか?」と出てきた。「おお 六助!孫娘のおせんは顔が見えぬがいかがした?」と声を返した。六助と呼ばれた六十すぎの老爺が「先程観月(みずき)の女将さんからちょいと言付かりものをお届けに向こうの浅草東仲町まで・・・・へい!」「ほぉ 東仲町か、どこぞの大店の主にでも色好い返事を・・・であろう?」「へへっ これは又お見透しのようで、いえね東仲町の米問屋陸奥屋さんから馴染みの出居衆に当てた文のお返事でございましょう、返事とても橋を渡るに行き来で十文かかりまさぁ、両国ならば取られますまいにと女将さんがぼやいておりました、あははははは」と歯の抜けた皺も目立つ顔で忠吾を見ながら大きく笑った。出居衆とは深川の娼妓で通いの者を"呼び出し"と呼んだ。その中でも娼楼に抱えられている通いの者と、自前で商う独立した娼妓に分かれる。子供(深川では抱え娼妓を子どもと呼んだ)を抱えている自家営業見世は伏玉屋で、多くの岡場所がこちらである。外見は茶屋の構えであるが中はそれだけではなく春を鬻(ひさ)ぐ女を置いた。彼女らは深川七場所、仲町・新地(大・小)・石場(古・新)・櫓下(表・裏)・裾継・土橋・佃であるが、これ以外にも新開中洲・芝明神・麻布氷川・回向院前土手側・三田同朋町などが存在した。呼び出しは床芸者と言って芸者でありながら娼妓を兼ねた。これらは客の呼び出しに応じて出向き、そこを揚屋にした。それらの多くが船宿や小料理茶屋である。そんなこんなの話を懐に木村忠吾菊川町の長谷川平蔵が役宅を目指し、おりしも長谷川平蔵が南本所より戻ったところに鉢合わせしたと言うわけである。「おお忠吾そちも戻ったばかりかえ?」平蔵笠を取りながら色白でのんびりした顔の忠吾を見やった。「はい市中見廻りも中々こうして楽ではございませんが、まぁそれなりによいところもございます」「そうか、近頃お前ぇは水練にも精を出しておるとか、お前にしては珍しいことだと沢田が関心いたしておったぜ」「えっ 沢田様がそのようなことをお頭に!ははっ 侍はいつ何時上様の御前にて先陣を取るとも限りませぬ、そのためにも日頃よりの武技の鍛錬が必要かと」「おお そいつぁ尤もだ、ところでなぁ忠吾!お前ぇ市中見廻りは下谷・浅草の方であったな」「はい この度組み替えでただ今はそちらの方に・・・・・」「ふむ 何か変わったことはないかえ?」「と 申されますと・・・・・」今朝ほども城中にて湯屋のお定めが話題になっておった、下谷は湯屋も多かろう、それなりに問題は起きてはおらぬかと聞いておるのだ」「あぁ湯屋の混浴がご法度というおふれでござりますか」「おお そいつだ、此度大目付より然様な触れが出たそうなのう」「出たそうなのうではござりませぬお頭、私に取りましても、これは忌忌(ゆゆ)しき一大事」「又大げさを申すでない、さほどの大事かえ?」「無論でござります、これまでは町方のよもやま話など、中々拾い出すのに骨を折ってまいりました。されど、此度のお触書にてそれがいとも容易くなりましたもので」「ほぁ そいつぁ又どのような理由(わけ)があるのだえ?」「お頭!それはもう!そもそもおなごと申します者はおしゃべりが好きでございますから、昼間湯屋に赴き、いやはや身の回りから人の動き、商人の立ち話など小耳に挟みしものをしゃべる場となっております。おなごは昼間が入浴時、男と申さば仕事終わりの駆けつけが普通でございますので」「ふむ 確かになぁ、で?それがどうか致したか?」「そこでございますお頭!これまでは昼間湯屋に参りますと、まず八丁堀と思われ、顔も覚えられてしまい、なかなか伏せ事を聞くことも容易ではござりませなんだ、が」「が?」「はい、が、でございます、これからはそれが容易(たやす)うなりました」ここまで木村忠吾一気に話しを続け、鼻の頭に汗を掻き掻きの入れ込みようである。「で、それは一体どのようになったためなのだえ?」平蔵、忠吾のあまりの入れ込みように少々乗ってきたフシも見え始めた。「はぁそれが又湯屋と申しますか、商人の商魂たくましきと申しましょうか、何と!」「おお!何と致した!」「はい、何と湯船の真ん中に衝立を張りましてございます」「へ~衝立となぁ、そいつぁ又・・・・・・」「で御座いましょう?そのためにこれからは誰に遠慮もなく入り込み、耳を傍立てることも出来まする」「フム そいつぁ良いことではないか」平蔵、傍らに控えていた同心松永弥四郎が意味ありげな顔で平蔵を見ていることに気がついた。そう言えば忠吾の様子が少々可怪しい・・・・「おい 松永!こいつぁ何か理由(わけ)ありと見たがどうじゃな?」「お頭先程より木村さんの申されますこと、誠に都合の良い所ばかり」「で? お前はまたどのように思ぅた?」「はい さすがに商人の知恵は笑いが止まりませぬ、何しろその衝立と申すものは湯の上側にのみにございます」「おいおい 今何と申した?湯の上側のみだと?」「はい正に!入込湯(いれこみゆ)と申しまして上部だけ衝立で仕切り、それぞれ男湯女湯に分かれておりますが、下の湯の部分は行き来が出来ます、従いまして・・・・・」「つまり湯の中は男湯からでも観ることが出来る!」「ははっ 全くさようで」「ほほぉ お上も粋なことをなさるものじゃなぁ」「お頭!それは・・・・・」「いやいや 商人というものは中々に強(したた)か、それでは男湯も昼間から大繁盛と言うものであろう、八丁堀は蛻(もぬけ)の殻とか、わははははは、いやはや・・・・」平蔵頭を掻きながら商人のご定法の裏をかいくぐる逆転の発想を呆れながらも感心していた。「つまりうさぎ、お前ぇが昼間からちょいちょいと市中見廻りの間に消えるのは左様な理由があったと言うわけだなぁ・・・・・」じろりと平蔵に睨まれて木村忠吾「あっ ははっ!まことお頭は恐ろしゅうございますなぁ松永さん」忠吾平蔵の眼を松永に振ろうともがくものの「私は木村さんと違うて小石川方面・・・中々にそのような場所も少ぅございますし・・・」「あっ松永さん、それはないでしょう、私はいつも湯屋ばかりで聞き込みを致してはおりません、全く不愉快でございます」「おいおい 忠吾話に力が入るから増々そう思えてくるではないか」「お頭ぁ・・・・・」「まぁ良いわな、で何か拾ぅてきたのではないかえ?」「いやこれが又面白い話でございまして、どうやら声の調子からして老婆のようにございましたが、話のやりとりから相手のおなごはその娘と想われます、これが又中々の・・・・」「美形で・・・そこで日頃の水練の技を用いて・・・」と松永が茶々を入れる「あっ そのようなことは・・・松永さんそれはないでございますよ、私は声の調子と話のやりとりから左様に想ぅただけのこと・・・・・」忠吾何故か汗をふきふきの体に平蔵「忠吾!これ忠吾図星のようでほれ!汗を拭かぬか汗を、わはははははで、その話の続きだが・・・」「あっ さようでございます、その話の話でございました。その婆様が若き頃大店の娘が気の病になったそうで、八丁堀に住まい致しおりましたる元御典医の高橋玄秀先生にお頼みなされた所、ろくにクスリも出さず只世間話に花を咲かせて帰られるだけでございましたが、これまで如何様なる医者にても薬石効果の甲斐もなく治らなかったこの気の病が日毎に良くなり、娘は玄秀先生の声がするだけで声を立てて笑うようにまで回復いたしたそうにございます」「なんと!気の病がのぉ」「はい、それでお店の主がどのような薬を用いられたのかと尋ねたそうでございますが、玄秀先生はただ笑うばかりで教えてくださらぬそうにございます」「ふむ まぁ医者の妙薬と申すからのぉ」「はい そこでございます、で私もその先が聞きとうて衝立に耳を押し当てそばだてておりました」「ふむふむ それでどうした?」あまりしつこくお店の主が尋ねるものでございますので、玄秀先生笑ってヨイショと立膝なされ、「こうして脈を取るだけのことと」申され、チラと前身を割って見せられたそうにございます」「ふむ 前身とな?」「はいさようで」「うむ 前身を割るとならば・・・おっ そうかそうかなる程なる程・・・」平蔵ニヤニヤ笑うばかり。「お頭何かお判りになられたようでございますが、私には一向に」と松永弥四郎「松永、お前には解らぬか?それ立膝を致してみろ!前をはだけばいかが相成る?」「あっ!・・・・・」「そうであろう?のう忠吾!その玄秀先生ナニを観せたのであろう?」「やはりお頭お判りのようで、正にそのナニをちらりと覗かせたそうにございます、ただそれだけで脈を取ることを毎日繰り返したために娘は毎日そのナニがぶらりと揺れるのを観さされ、可笑しさに笑うようになり鬱も消えて行ったそうにございます」「さもあらん!事の本質を見ぬかねば打つ手もまた無駄なことに相成るということだな」「ところがお頭、この続きがございまして」忠吾これが言いたくてうずうずしている。「よいよい申してみよ!」平蔵腕組みしながら真剣な眼差しで忠吾の話しだすのを身構えている松永弥四郎を眺めた。「その続きでございますが、それならば自分にも出来ようと主がもっと早く治したいものと下帯(ふんどし)を外して玄秀先生の申された通り片膝立てましたるところ、娘がそれを観て気を失ぅてしまったそうにございます、慌てて玄秀先生にお伺いを立てましたる所、玄秀先生笑いながら「何事もほどの良さというものが在る、むやみに多く与えるは、かえって毒になることも在る」と言われたそうにございます」「つまりなぁ松永!子を思う親の思いは四分六の小言が良いと言うことだ、四分諌(いさ)めて六分は褒める、こいつが程の良さだと儂は思うておるがな」平蔵この高橋玄秀という名医の名医たるところを感じたようであった。「で木村さん、その娘はやはり美形でございましたか?」松永の突っこみに思わず忠吾「そりゃぁもう・・・」慌てて口を抑えたが遅かった、目の前に平蔵の厳しい目が・・・・・「もももっ!申し訳ござりませぬ」忠吾頭を畳に押し付けて尻込みしかこの場を逃れる方法を思いつかない。「忠吾!!」「ははぁっ!!」「やれやれ お前ぇは何処へ回してもそいつだけは変わらぬものだなぁ」「全く面目次第も・・・」「おい松永!明日より忠吾と持ち場を替わってやれ、さすれば此奴の病も治るかも知れぬ」「おおおっ お頭!それだけはご勘弁を願います、やっと慣れてまいっておりますゆえもう暫くもう暫くこの下谷・浅草を回らさせてくださりませ、今後決してこのような・・・・・」「ほぉこのようなとは、つまりお前ぇは水練の実践を致したと言うことだな!」「あっ! いえいえ決してそのことではござりませぬ」忠吾の顔は引きつって油汗が吹き出すばかり。それを眺めて平蔵腹を抱え大笑いである。「まぁそれがお前ぇというものだ、だが御役目を蔑(ないがし)ろにだけはするでないぞ、叔父上の中山茂兵衛殿に申し訳も立たぬでな」平蔵釘を差したがさてさて・・・・・「しかしお頭!同じ大川に架かっております橋でも渡り銭を取るとは誠に解せませぬなぁ」忠吾先ほどの陸奥黒石藩上屋敷津軽式部少輔(しょうゆう)の津軽藩木戸番の六助の話を持ちだした。「おおあれか、(深川の 馴染みの遊女へ出す手紙 使いの者に駄賃出し)と申すであろう?儂達は通行料を出す事ァねぇ だが町衆は大川橋(東橋・吾妻橋)を渡る際には2文(50円)の橋銭を納めねばならぬ」「それはまた・・・・・」「フム、両国橋、千住大橋は渡り銭を取らぬが、新大橋、永代橋、東橋は何れも渡り賃を納めねばならぬお定めである。元々大川橋は町衆が願い出により、ご公儀がこれを許可した経緯(いきさつ)がある。そのために万が一橋が倒壊いたした際に下流の橋に被害が出ることも予想されるにより、その修繕費用を賄うようお定めになった。ために橋銭は橋の袂に橋番屋を設け、ここで渡り賃を取っておるのだ。何しろ長さは84間(150米)、幅はと言えば3間半(6.5米)こいつが流れた日にやぁ両国橋とてたまらぬであろうからのう。この番屋、中々多忙だそうな、人が通れば竹竿の先にザルを下げたものを差し出し、渡り金を徴収、喧嘩や身投げと見れば仲裁から引き止めまで、日々の手入れから落ち葉の季節にゃぁこいつを履き寄せるなぞ、いやぁ中々の働き者と聞いたがな」平蔵、忠吾の反応を見るべく顔を見たが「お頭、それはまことに殊勝な心がけでござりますなぁ」と全くもって嗚呼やんぬるかなである。この大川橋、浅草花川戸から大川をまたぎ本所細川若狭守下屋敷の前に架かる橋。大川橋は幕府の命名ではあるが、江戸の人々は、伊勢物語の主人公三十六歌仙の一人在原業平(ありわらのなりひら)の東(あずま)下りの段にこの場所が登場するために吾嬬橋・吾妻橋・東橋(あずまばし)と呼ばれるようになった。『なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との仲に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやればかぎりなく遠くも来にけるかなと、わびあへるに、渡守、 「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」 といふに、乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に、思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、 「これなむ都鳥」 といふを聞きて、名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと、とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり』在原業平が都を追われ東国(江戸~陸奥方面)に逃れる途中この隅田川の竹町の渡しを船で渡ろうとした。その葦原に集まって(想えば遠くまで来たもの)と慰めあっていた所、船頭が「早く船に乗らなければ日もくれてしまう」と急(せ)かした。みんなが京を恋しく思い出していた時、白い鳥で嘴と足が赤い鴫(しぎ)ほどの大きさの鳥が水上で戯れながら魚を食べていた、京では見たこともない鳥に「あれはなんという鳥だ」と尋ねたら「あれは都鳥だ」と船頭が言った。公家たちは「都という名を持っているのならさぁ渡ろう、我らの思っている人達は無事に暮らしているだろうか」・・・・・と詠んだ為に、船に乗っていた人は皆泣いてしまったと言う内容に心をうたれ、この橋を誰ともなく東(あずま)橋と呼ぶようになった。南本所横川に架かる業平橋も彼ら一行が通った足跡を忍ばせる、中々に風流な話ではあるまいか。忠吾の水練実践の話が出たその後暫くは平穏な日々が続き、町廻りにも緩みが見え始めた頃、またもや忠吾が(妙な話と)持ち込んできた話に平蔵の感がピクリとうごめいた。「灰買いやの吉松が聞きこんで参ったものでございますが、霊岸島大川端町の髪結床"びんびや"の女将の話では、3日おきに顔を当たりに来る客があるそうで・・・・・」「びんびやかえ?又変わった名前ぇではないか、確かびんびと申すのは阿波は徳島その中でも鳴門では魚のことをさよう呼ぶと聞いた覚えがあるがのぉ、だが魚と髪結ではちと合点がゆかぬ」「流石お頭!!いやぁご明察、この髪結床やの亭主が鳴門の出でございまして、元々は魚屋が本業。何しろ霊岸島は上方からの船も入り江戸前の魚も上がりますゆえ棒手振りなぞせずとも商売になるそうで、その女房がこれまた働き者で、元々は浅草芳町で髪結床をしておりました折り、今の亭主と知り合い亭主の棲みおります大川端町に住むようになったそうにございます」「ほほぉまんざらでもねぇなぁ」平蔵小耳に挟んだ物事もこのように役立つこともあるものだと、いささか忠吾の褒め言葉が心地よく響いたものだ。「で、そのびんびやが如何致した?」「ああ 然様でございました、その髪結床の女将が申しますには、どうも江戸(ここ)のものではないようで見かけない顔だそうにございます、その男が新堀川を出入りする船について知りたがるそうで妙な客だなぁと・・・・・」「ふむ 新堀川をなぁ・・・・・確かあの当たりは新川・南新堀・塩町、新川大神宮一帯に下り酒屋・灰問屋が軒を連ねており、弁財船・菱垣廻船・樽廻船・葛西船が出入り致し、上方から江戸へ酒を運ぶ樽廻船の番船競争なぞで速さを競っておるとか、以前粂八がそのようなことを申しておった」「はい 正にその通りでございまして、ここで高瀬舟に積み替え、この新川付近で分別され江戸に運び込まれます。そのために上方から江戸へ入る上等品を下りもの、逆のものをくだらないと申すそうにございます」「はっ はははは 下らねぇかえ? こいつぁよく出来てるじゃぁねぇか、成る程のぉ、あはははは」平蔵この洒落に腹を抱えて大笑いである。「で?」「はぁ?・・・・・」「で、それからどうしたと聞いておるのだ」「あっ はぁ・・・そうでございました、ここから船の出入りはよく見えますし、商売がら大店の奉公人なぞも出入りいたしますので、船に関しては中々の物知りと見受けました」「うむ 髪結床はそのような情報(はなし)の集まる所・・・・・おおっ 湯屋も然様であったのぉ忠吾!」「お頭ぁ その話はすでに済んでおります・・・・・此度は湯屋ではのぅて髪結床にございます」「おお こいつぁうかつ!許せ許せ わはははは」平蔵、忠吾の困った顔が面白いらしく程の良い酒のつまみになるようである。「その話しぶりから川越方面への出入りにどうやら関心があるらしく、いつ頃船が帰ってくるかを知りたがっておりましたようで」「うむ 川越かえ?川越と申さば小江戸と呼ばれるほどの町、お江戸の母々様(かかさま)と呼ばれるほどに、知恵伊豆と名高い松平伊豆守信綱様を筆頭に柳沢吉保様や越前松平家なぞ大老や老中が配され納めてまいった由緒ある町、柳沢様のご家来衆荻生徂徠(おぎゅうそらい)殿の建議にて三富新田開拓が功を奏し、農産物から絹織物なぞの特産品が目白押しで、お陰でこの江戸は様々なものが手に入る。いつぞやお前ぇがひょんな事からお縄に致した墓火の秀五郎・・・あ奴は川越の旦那とお前ぇの相方お松が左様に呼んでおったのぉ・・・・・」「あっ その儀ばかりは!!ずいぶんと前の話にござりますお頭!」忠吾いろは茶屋の顛末に冷や汗がドォと吹き出した。「まぁ左様に川越は豊かな土地、武蔵野国では最も大きく関東でも水戸藩に次ぐ町と申してよかろう」「そう言えばお松が申しておりました、川越のご隠居が(川越は柿と芋が美味いところだ)と」「うむ そうだなぁ、先に川越に参ったおり出された茶が美味かった!何でも河越茶と言うそうでな日本五大銘茶の一つだそうな」「ははぁ!それは存じませなんだ・・・他にも何か?」「そうだのぉ、醤油は笛木醤油とか申したかな、まだ新しい蔵であったが、中々に上品な味が儂は気に入った。醤油と申さば濃口は下総の野田醤油、こいつぁ行徳の塩と関東平野の穀物、これがあっての物、播磨の国の薄口醤油、過日目白の茶屋(茶巾)で知りおうた名も知らぬ老人に持たされた周防柳井津の甘露醤・・・・まぁその辺りかな」平蔵ふと懐かしくあの時の老沖仲仕を思い出していた。「いや あの持たされた甘露醤油はこれまで味わったことのない魚の旨味を引き出す工夫の跡の見えた逸品であった」「おうおう済まぬ!話がどこぞへ迷子になってしもうたようだのぉ」平蔵、忠吾の顔を見返して話の続きをと促す。「川越通いの船と申しますと平田船、高瀬舟、それに飛切船と申します。川越五岸から江戸までの36里(141キロ)の川筋を、並船は7~8日で往するそうで、これとは別に川越を昼の七ツ(午後3時)に発って翌朝五ツ(午前8時)に千住、昼前には花川戸に着けるという川越夜船まであり、更に川越から花川戸までその日の内に下り、翌日には川越まで上がるという早舟もあるそうにございます」「ふむ さすがに川越と江戸は結びつきが強いようだのぉ、そ奴は特に下りの船を気にしておるというわけだな?」「はい そのようにございます」「ふむ さてさていかが致したものか・・・・・事件ではないゆえに盗賊改が出張ることも出来まい・・が、いささか気にはなるのぉ・・・・ふむ・・・」平蔵じっと腕組みして首を少し落とし考えこんでいる。「八丁堀あたりは確か松永の持ち回りであったなぁ」「はい 今は松永さんが日々見廻っております、松永さんをお呼びいたしましょうか?」「おお そうしてくれ・・・」平蔵何か思案が浮かんだのか忠吾に松永弥四郎を呼ぶように促す。「お頭、及びとか」松永弥四郎が廊下に控えた。「うむ 松永!先程より忠吾がちょいと気になる話を聞き込みおってなぁ、そこは霊岸島ということで、お前にちと頼みたいのだが、こいつぁ御役目からは外れることゆえ無理にとは申さぬ、まぁ心がけておく‥・その程度のものだがなぁ、どうだい?」「ははっ お頭が然様に申されますのは何か気する処があるように存じます、早速でございますがそのお話の内容を更に詳しくお聞かせ願えませんでしょうか?」「おお! 引き受けてくれるか?こいつぁありがてぇ、実は霊岸島の大川端町にある髪結床の"びんびや"に出入り致しておる男の様子を、それと話に用心してはくれぬか」「"びんびや"でござますか、又髪結には似つかわしくない妙な名前でございますなぁ」「おお それが事よ、そいつはな、亭主が阿波は鳴門の産で肴屋を営んでおる、鳴門言葉で魚のことをびんびと呼ぶそうな」「あっ それはまた!然様でございますか、で、その男の何を用心致せばよろしいので?」「うむ その男三日と開けずに顔を当たりに来る、その度に出入りの川船のことを聞くそうな」「船の出入り・・・でございますか?あそこは新堀川がございまして様々な船が行き来いたしております」「うむ 下りの船を気に致しておったそうなで、そのあたりが目星にでもなろうか・・・まぁ事件ではないゆえ探る程度でよかろう、よろしく頼む」「では早速に」そう言って松永弥四郎は出て行った。それから三日四日と過ぎ七日目が終わろうとしていた。「お頭!松永弥四郎只今戻りました」松永が平蔵の部屋に声をかけ帰宅の報告にあがった。「うむ ご苦労であった!別に変わった様子はなかったかえ?」平蔵襖越しに声をかけた。「それが・・・失礼をつかまつります」と伸べて襖を少し開け「確かにこの数日それとなく気を張っておりましたらば、おっしゃられた通り男がやって来たのにぶつかりまして、後を微行(ゆけ)て見ました。其奴は豊海橋の上から船番所や荷船の荷降ろし場を眺め、夕刻まで佇んでおりました」「ということは船が戻ってくるところを確かめたと言うことだな」平蔵、やはり感ばたらきがしたとおりに事が運んでいると感じたようである。「はい 私も然様に感じましたので更に見張っておりましたが、其奴猪牙に乗り新川をさかのぼってゆきました、申し訳ございません」とうなだれた。「よいよい ただ、其奴はやはり何かあるな、うむ一体何を探っておるのであろう・・・・・」平蔵はその先が詰まっていることに少々考え込んでいる。それから三日ほど過ぎた二月一六日「霊岸島四日市塩町の江戸一番と言われる灰問屋"狭山藤二郎"方に賊が押し込み七百二十両(しっぴゃくにじゅうりょう)あまりを強奪されたと南町奉行所に届けがありましたそうにございます」と松永弥四郎が翌日夕刻平蔵の元に報告に来た。「しまった!やられたか!!で、家の者に被害はなかったのか?」「はい 何れも柿渋の布で顔を隠しておりまして、おまけに龕灯(がんどう)で照らされ、面識をうかがい知ることは出来なかったそうにございます」「ふむ 家人に災いのなかったことがまぁ救いと申さば救いよのぉ、だがこいつぁ喰えぬ、我らに関わりあいは無いとは言えぬからなぁ・・・・・う~ん」平蔵腕組みで片膝立てたままじっと壁を睨みつけている。(たかが灰に、このような大規模な物があろうとはさすがの平蔵も認識の範疇にはなかった。(言われてみれば確かに江戸3千万の民が毎日使うものから生まれる余剰品、確かにわずかづつであれ、集まればちりも積もればの例えよな、なるほどこいつぁちょいと儂もうかつよ、髪結男との結びつきが不確かなままで、その男を捕縛することもかなわず、さりとてこのまま捨て置くのはなんとしても気持ちが収まらない・・・・・う~ん!)「松永!すまぬがもう暫くそ奴を見張ってみてはくれぬか?もし其奴がまだ現れるようであらば、そいつはこの度の事件には関係はないと読まねばならぬ、だが奴が髪結床に現れねば其奴は無関係とはいえぬと儂は思う」平蔵、座りなおして「まずはその灰問屋"狭山藤二郎"方の様子を見てきてくれ」と命じた。それから三日が明けた。「お頭!松永にございます」と外から声がかかった「おお松永ご苦労であった」そう言って襖が開いて中から平蔵が煙草盆を抱えて出てきた。「で、どうであったな?」キセルに草を詰めながら平蔵松永の反応を伺った。「はい やはり盗賊が入って以来、あ奴は床屋に現れておりません」「ふむ やはりそうであったか・・・・・」平蔵煙管の雁首を煙草盆にポンと打ち付け、軽くふっ と吹いて煙管を置き「もう少しその灰問屋を調べては見てくれぬか・・・奴が新川を登っていったと申したな、その折船頭はおったのかえ?」と言葉が出た。「はい 私の見ました限りではあ奴と他に一人、これが船頭でございました」「やはりなぁ・・・・・」「何か?」「うむ やはり粗奴らは少なくとも上から来たと想わねばなるまい」「上・・・・・川越でございましょうか?」「おそらくはなぁ・・・・・・」「しかし」「フム・・・然様、川越となると我らが係ることではない、まずはあちらからの出方を待つ他ない、それも奴らが間違いなく江戸外へ出たという確たる証拠(あかし)がなくば、嫌ぁどうにもならぬ」平蔵苦虫を噛み潰したような渋い顔であった。結局この事件はこれ以上何事も起こらず、灰問屋"狭山藤二郎"は商いを再開した。 [0回]PR