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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・
下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)、
これら関東八州と呼ばれる一円に無宿者や浪人が激増し、
凶悪な犯罪が後を絶たない為に文化2年(1805)これらを取り締まるために
組織された組合を発展させたものが関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)俗称八州廻り・関八州取締役であるが、身分は足軽格であった。
この組織が構成されるのは長谷川平蔵没後十年を待たなければならない。
八王子は延喜16年(916年)華厳菩薩妙行という僧侶が深沢山麓に庵を結んだ。
そこへ牛頭天王(ごずてんのう)が顕れ、8人の王子を祀れと託した。
大歳神(木曜星・総光天王)・大将軍(金曜星・魔王天王)・
太陰神(土曜星・倶魔羅天王)・
歳刑神(水曜星・得達神天王)・歳破神(土曜星・良侍天王)・
歳殺神(火曜星・侍神相天王)
廣幡神(羅光星・宅神相天王)・豹尾神(計斗星・蛇毒気神天王)
これが八王子の由来である。
八王子は徳川家康の命により、武田信玄時代、佐渡金山開発に功をなした
武田家残党大久保長安が惣奉行として適任し、新たに町の整備を行い、
甲州街道の八王子に八王子横山十五宿が置かれ、甲州街道最大の宿場となり、
飯盛旅籠なども隆盛を極めた。
ここには戦国時代最強の甲斐武田軍団の家来たちで構成された国境警備兵
八王子千人同心という下部組織が置かれた。
だが、大久保長安はとかく派手好みでキリシタンとの関わりを持っていたとも
言われ、慶長十九年(1614)長安が六十九歳で没するを機に徳川家康は
「生前に不正あり」という理由で財産没収、子供七名は切腹という沙汰で、
ここに武田軍団の勢力を途絶えさせた。
八王子千人同心は町奉行差配とは違い、あくまで槍奉行配下。
九名の頭と二五〇名ほどの同心が八王子地域の治安維持に当たったのが
始まりである。
北条氏の本城、八王子城が豊臣秀吉の小田原攻めで落城し、
後、徳川家康の手中に落ちる。
天正19年(1591年)新たに同心がお抱えになり、
小人頭十名に同心は五百名と拡大され、文禄二年(1593年)
八王子千人町周辺に定住した。
関ヶ原の戦いが終わった後、千人頭は二~五百石取りの武田家ゆかりの
旗本であったが、千人同心はあくまで郷士身分であり、
その多くは多摩川流域で半士半農の屯田兵であった。
時代は下り、同心職の株売買が盛んになり、
関東近郷農家の富裕層がこれを買い取り、更に半士半農に加速し、
身分は平時において人別帳には百姓と記載され、
ために、千人同心は苗字は公称が許されず、公務中は帯刀が許されたが、
それ以外は帯刀できず、あくまでも百姓であるということに変わりはなかった。
御家人の組頭であっても十俵一人扶持から多くても三十俵一人扶持という
厳しい営みである。
また八王子千人同心は日光東照宮の警備にもあたっており、
その期間は五十日、片道四日の道のりである。
幕末にこの日光(東照宮)を衞(まも)っていた石坂弥次右衛門は
官軍の攻撃に対しこの地を守るために降伏した。
だがこれを非難され切腹に追い込まれる。
このような歴史を持つ八王子周辺の村は養蚕や茶の生産が盛んとなり、
呉服商の越後屋(三越)や松坂屋(大丸)がこの地の織物を大量に買い付け、
後に鑓水(やりみず)商人達によって庶民の台所も増々豊かになり、
従って治安は悪化の一途をたどることになる。
寛政3年(1791年)老中松平定信の寛政の改革により千人同心の体勢は
900名に減じられ、日光勤番も50名に減員、このまま幕末までこの状態であった。
八王子千人同心の間に起こった武術熱の中で熟成されたものに、
近藤内蔵助開祖の天然理心流がある。
彼が八王子に出稽古をした弟子の中に天明6年(1786年)に生まれた
増田蔵六が居る、ちょうど長谷川平蔵が盗賊改長官になる前年のことである。
増田蔵六は八王子千人町に道場を設け千人同心たちに天然理心流を指導した。
この近藤家三代目近藤周助が天保十年(1839)江戸に
天然理心流道場「試衛館」を開く。
ここに後の壬生の狼、新選組浪士隊近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・
永倉新八・井上源三郎・原田左之助・藤堂平助らが通った。
近藤勇はこの3代目近藤周助の養子となり天然理心流4代目を襲名した。
八王子はこのように幕末までの歴史を千人同心たちが面々と繋がっているのであっ
た。
江戸御府内は町奉行や盗賊改の支配が強く、それ以外の地域には
藩の奉行に郡代が置かれるものの、何れも年貢取り立てが職務で
犯罪も兼務していたものの、御用繁多で部下も又犯罪取締には
ほとんど用をなさなかった。
幕府直轄領の支配処(しはいしょ)に至っては、
広大過ぎて即対応は出来ない状態である。
したがい博打や盗賊がはびこった理由は此処にもあった。
この頃甲府花咲宿から八王子にかけて凶悪な街道荒らしが頻発しており、
地元代官所では手をこまねくばかりであった。
だが八王子に在駐していた18名の関東代官職は宝永元年(1704年)に廃止され、
この地を護る組織は代官支配地となったため、
これらから町村を護るために八王子寄場組合村と小佛駒木野組合が結成され、
これら広域の治安に連携を図る事となる。
とは言う物の、その主幹は村役などで、犯罪には手出しも出来ない烏合組織でしか
無かった。
八王子は槍奉行の支配下ではあったものの、これはいわば閑職(かんしょく・
名誉職)で30俵2人扶持の同心が付いたが実動隊にはならない。
代官は在地が原則のために、代官所(陣屋)に10名程度の手付(武士格)に
数名の奉公人を駐屯させ、三十五代当主江川太郎左衛門英毅は、
夏は本所南割下水に冬は韮山に棲んでいた。
八王子管内は宿場・本陣・脇本陣・問屋場が置かれ、近郷は桑都(そうと)呼ばれ、
養蚕業が盛んで、そのために仲買人や生活用品の商人などで賑わい、多
くの両替商や問屋がひしめくほどあった。
ここに六斎市(月に六日)が設けられ、東から横山4日・八日市8日に市場が立つ。
商家は、間口4間(7米)奥行き35間(63米)という細長い屋敷であった、
これは京都にも似た構えであるが、間口の広さで税の決定がなされた、
その税を減らすための苦肉の策である。
八王子の北側に在方縞買(近郷農家を廻り農民から反物を買い取る商人)
が油箪台(ゆたんだい)を置く販売法を講じた為、宿方(町屋縞買商人)
との間で衝突が頻繁に起きるようになった。
八王子の市は米・麦・大豆などが主で、中でも飼馬飼料の麦・大豆は多かった。
新米が出る秋は価格も安く、端境期(はざかいき=春)になると米の価格は高騰す
る、そこで安い秋に仕入れ、蔵に寝かせておき、
春に売りさばく事で利ざやを稼いだ商人が後を絶たない。
特に8月初旬には八王子祭りがあり、多賀神社と大鳥神社から
千貫大神輿と山車が出た賑わいである。
これを目指して多くの人出で八王子は賑わい、治安の悪化は勢いを増すばかり。
甲州街道一帯を根城とする”甲州路の悪太郎“陣屋の藤兵衛が
これを見逃すはずもなく、八王子横山十五宿は彼らにとって絶好の狩り場になった。
この時期の八王子千人同心屋敷は追分交差点から並木町まで16町(1.5キロ)
にわたって千人頭と同心組屋敷があり、傍には馬場もあり、
馬術の稽古も盛んであったが、これらに属しない平同心は、
日光勤番以外は近隣町村に定住し、農業に従事、自給自足の暮らしをしていた。
当時八王子千人同心の構成は2~5百石取り旗本の千人頭10名
30~10表一人扶持の御家人組頭100名が9名の同心を監督していた。
旧武田家家臣山県助左衛門は日光勤番までの半年間を八王子で
留守居番に当たっていた千人頭の一人で、
頃は8月に入ったばかりのうだるような暑さも西に沈み、
一息入れる穏やかな刻が過ぎていった。
東の空が爽やかに明けた朝五ツ半(午前七時四十六分ころ)
千人町の千人頭の一人、山縣助左衛門屋敷の門を激しくたたく音に
門番が驚いて飛び起き、息を切らせて駆け込んできた者が
「大変でございやす、本町の穀物仲買”相模屋”に押し込が入ぇって
大旦那を始め店の方々が皆殺しにされているのが見つかりやした」
「何だと!押し込みだ!?」
門番に付き添われて控えた百姓から聞かされた言葉に
、山縣助左衛門我が耳を疑った。
「どうしてそれが判った!」
「へぇ、ゆんべ(今年の米は出来が良さそうだから少し多めに貰おうかって
お話がありやしたもので、その約定をいただきに上がりやした。
戸を叩いても誰も出て見えねぇ、妙だと想って向かいの太物屋の手代のお人に
伺いやしたが、いつもならとっくに戸が開いているはずだけど、
妙だなとは想ったそうで」
「そいつは何刻(いつ)のことだ」
あっしが家を出たのが明五ツ(午前六時半ころ)ごろ、
店についたのが四半刻(三十分)をまわっておりやしたでしょうか・・・・・」
「よし判った、とりあえず誰かを遣ろう」
これが甲州の悪太郎“陣屋の藤兵衛”事件の発端となった。
戦争や暴動などにはその力を発揮する千人同心であったが、
相手が盗賊となるとまるで勝手が違ったのはやむを得ない。
そこで、助左衛門 配下の同心頭秋庭周太郎を呼び寄せ、
すぐさま陣屋にこの事を知らせ手配を頼むよう、
「貴様にこの一件すべて任せるゆえ構えて万事抜かりなきよう、心して懸かれ」
と一任した。
この秋庭周太郎10俵1人扶持・御家人の中でも最も貧しい俸禄であった。
配下の者九名はいずれも近郷農家の出身で、
そのほとんどが物資の運搬などに従事する軽輩でしかなかった。
秋庭周太郎自身も甲府武田家を先祖に持ち、この地に召されて三代目、
戦事(いくさごと)は経験もなく、日光勤番以外は生活のために農業を営む、
ごく普通の同心頭でしか無かった。
一体何から、何処から手を付けてよいやら、まずはそのあたりからでさえ、
手探りの状態、時間のみが流れるそんな中で、またもや盗賊が押し入った。
本所南割下水の代官所から代官江川太郎左衛門英毅が駆けつけたが、
こちらも例外なく盗賊は専門外・・・聞き込み作業はすれど、
何一つ手掛かりらしきものも掴めないまま、今度は八日市の翌日未明、
八日市縞買仲買商”奈良屋”に賊が入り、家人が皆殺しになった。
盗賊の探索にあたっていた秋庭周太郎は、この事件も加えて担当する羽目となる。
だが、何一つ進展しないまま、八王子同心を嘲り笑うがごとく、
取って返して追分町穀物仲買商”日野屋”に再び押し込みが発生、
これで三件の強盗事件が立て続けに起こったことになる。
さしもの八王子千人同心千人頭山縣助左衛門も自腹(じふく)
に納めきれるものでもないと、他の留守居番七組にこの事件を持ちだした。
日光勤番以外八組の千人頭が合議の結果、江戸に助成を嘆願することに決定。
江戸町奉行はあくまでも江戸御府内の商人、町人のみの受け持ちであり、
それ以外の寺などは寺社奉行が預かるなど管轄が決まっていた。
上司槍奉行に嘆願書が出され、そのまま老中に回され、
若年寄京極備前守より助成が下知された。
これら組織に関係なく取り締まれる、火付盗賊改方に話しが回ってきたのは
当然であろう。
「ふむ 八王子千人同心となぁ・・・・・
東照権現様が長槍持ち中間を新規お抱えになられ、甲州武田(武田信玄)の
残党を小佛方面から入府するものへの備えに置かれたと聞き及ぶ。
支配処(しはいしょ)代官は陣屋だが、ここでは盗人にゃぁ手も足も出まい。
さて如何したものか、佐嶋お前はどう見る」
平蔵 筆頭与力佐嶋忠介に意見を尋ねる。
「然様でございますな、江戸より八王子まで9里6町程
(36キロ・徒歩で9時間弱)
そこへ出張るとなると、此方(こちら)が手薄にもなりましょう、
したがい出役致し、探索の結果を待ち、改めて出張るなり、
先方の出役もしくは同心なぞ活用するのも一考ありと存じます」
さすがに剃刀と異名を持つ堀組選り抜きの与力である、
その洞察力は平蔵が火付盗賊改方を拝命したおり、
わざわざ先の火付盗賊改方長官堀帯刀秀隆に借り受け願ったほどの逸材である。
「そうさなぁ、あちらには代官所もあり、千人同心隊もおる、
頭数なら余裕であろう、後はどう盗人共を追い詰めるか、こう続けざまに
押し込まれてはあちらも面目なんぞ言うておる暇もなかろう・・・・・
まずは儂が出向こう、ここはお前に任せるゆえ頼む、万一の時に備え
小林を連れてゆこう、あとおまさだなぁ、商家の探りはあいつにゃぁ勝てぬ、
何しろ・・・嘗役(なめ役=押し込み先の内情を調べる役)、
引き込み(押し込み先に数年奉公しながら、いざという時は内部から手引する役)
何でもござれの強ぇ味方・・それに伊三次も連れてまいろう、
何かの時の繋ぎにゃぁ足が物を言う」
平蔵、まずはそのあたりから攻めようというつもりのようである。
翌日には平蔵一行の姿が八王子本町に見られた。
二人には落ち合う場所を心字池(しんじいけ)蛙合戦の散田町真覚寺
(しんがくじ)と決め、それぞれ探索に散った。
平蔵はまず陣屋に関東代官江川太郎左衛門英毅を尋ねる。
「長谷川殿、此度はわざわざの出役ご苦労様に存じます、
お聞き及びとは存じますが此度の3件にまたがる盗賊どもに、
我ら為す術もないと申しますか、正に畑違いの事ゆえ当惑いたしております」
「いやいや 無理もござりませぬ、戦場(いくさば)ならばまだしも、
相手が見えぬ盗賊となりますと・・・
胸中お察し申し上げます、ところでこれまでに判明致しし物あらば
お聞かせ願えればと、推参つかまつりましたるしだい」
「然様、それでござる、身共も御府内より駆けつけましたるばかり、
事件発生当初より当たっております八王子同心頭秋庭周太郎がおりますゆえ、
詳しくはその者よりお尋ね頂ければと存じまする」
と、まぁこういった事情で平蔵その同心頭秋庭周太郎に会うために
甲州街道と陣馬街道分岐点の千人頭屋敷に山県助左衛門を尋ねた。
其の2へ続く