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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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伊予吉田藩 安藤義太夫継明を祀る安藤神社
亨保4年(1719)紀州藩の足軽であった田沼意行は
紀州藩徳川吉宗の側近に登用され、
吉宗が将軍になってから小身旗本に取り立てられた。
その長男として江戸本郷弓町の田沼屋敷で出生した
遠江(とうとみ=遠州・静岡県)相良藩主田沼意次は
明和4年(1767)御側御用人から側用人へ、
さらに出世して2万石の相良城主となり、
その後さらに加増され5万7千石にまで加増された。
こうして田沼意次は悪化する幕府の財政を改善するために
重商主義を取り入れ、株仲間の結成や銅座の専売制、
鉱山開発、蝦夷地の開発立案、上方と江戸の金と銀の
不均衡是正、中国への俵物と呼ばれる俵3品(煎海鼠・
いりなまこやフカヒレ、干しアワビを俵に詰めたもの)
の専売による貿易拡大によって幕府の財政は改善された。
ただ、こうした資本主義は金銭中心となり、
やがて贈収賄が横行する背景にもなった。
明和9年(1772)4月1日江戸で発生した大火や
天明3年3月12日(1783年4月13日)岩木山が噴火、
7月6日88月3日)浅間山の噴火という連続した
大災害も勃発し、農村部が壊滅的な打撃を受け、
離農、離藩したものが近郊都市部に流れ込んだ。
こうした背景で百姓一揆や打ち壊しが頻発した時代でもある。
御書院番士(将軍世子の警護役)から西の丸仮御進物番
(田沼意次への付届け担当)に任じられ、
天明6年(1786)10月に田沼意次が失脚するまでの
7年間を務め上げ、翌・天明4年(1784)
39歳で西の丸御書院番御徒頭に、
天明6年(1786)41歳でお先手弓頭に、
翌年9月9日に火付盗賊改方助役(すけやく)を拝し、
翌年改方長官と、トントン拍子に出世街道を突き進む。
言われるように、紙と木でできた町家はよく火事が起こった。
長谷川平蔵は田沼意次の忠節・孝行・身分の上下にかかわらず
心を配ること(遺訓7箇条の内3箇条)などの心配りや、
倹約令のさなかにありながら息抜きも必要であろうと
遊芸を認めたこと、これまで無税であった商家からの納税や
海外との貿易による増収に主眼を置く重商主義にも
傾倒していたようで、
この頃神田橋御門内の田沼邸近くで火事騒ぎがあると、
長谷川平蔵は江戸城西の丸御書院番士の公務を抜け出し
田沼邸に走り、下屋敷に移るよう奨め、その半刻後(1時間)
には下屋敷に餅菓子が届くように手配、夕刻には
食事までも届くという気配りが、田沼意次の意に沿い、
翌年長谷川平蔵は西の丸仮御進物番(田沼への届け物番士)
に取り立てられる。
何時の世も同じだが、この時代も盆・暮れは普通のことで、
お世話になったり何かを頼む時はお礼をするたしなみは
ごく当たり前であった。
田沼意次を失脚させた後の老中松平定信が定めた
寛政の改革(1787~1793)には、賄賂を禁じる項があり、
本来支払うべきこれらのものまでも差し出さなくなったため、
寛政4年(1792)皮肉なことに付届けを義務付ける御触出しを
出さざるを得なくなった。
田沼時代には、御対客日や御逢日は公式日程が定められ、
明けの6ツ(午前6時)から朝4ツ(午前10時)
の登城前までの間に田沼邸の前には陳情者がつめかけ、
身分の差別をしてはならないという田沼家の家訓のために、
身分の低いものも列をなしたという。
そんな中、平蔵が知り合った諸藩藩士の中に後の伊豫吉田藩
末席家老安藤儀太夫継明がいた。
平蔵は自分より1つ年上の、この安藤儀太夫に教えられることが
多くあり、
彼は事あるごとに伊豫吉田藩は伊豫宇和島藩の支藩とみなされている、
それをはねのけるためにも収益性の高い特産品など殖産の開発や
温暖な地方による多毛作付けなどの農政改革が重要だと
その熱い思いを平蔵に語っていた。
これは田沼意次の重商主義に通じ、
また長谷川平蔵の目指すところでもあったから、
その交流は平蔵が西の丸御書院番御徒頭になるまで続いた。
その後も時折書面などが往来し、
平蔵をして「刎頸(ふんけい)の交わりにて兄と慕う」ほどであった。