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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

6月号  めぐりあい  武左衛門一揆


 
安藤義太夫藤原継明を祀る安藤神社 宇和島市

安永6年(1777)長谷川平蔵は神田橋御門内の田沼意次邸で催された
御前試合に出場、この時の審判が無外流の剣客秋山小兵衛であった。

翌月平蔵は田沼意次邸の御逢日に立ち会い、秋山小兵衛に再会する。


「確か長谷川平蔵さんじゃったなぁ・・・・・」
小柄ながらも筋の通った体躯の60過ぎと思しき老人が平蔵に声をかけてきた。

「あっ これは秋山先生、またもやお目にかかれ・・・」

「おいおい そのような話はどうでもよいわな、
どうじゃ一つ面白い男に会ぅて見る気はないかい?」
何か下心の有りそうな細工の顔で秋山小兵衛、にこやかに平蔵に声をかけてきた。

「面白いお方でござりますか?」

「うむ、面白いとわしは思うたがな」

「然様でござりますか、秋山先生のお薦めとあらば」

「おお 会ぅてみるかい?ならば話は早いほうが良い、従いてきなさい」

こうして秋山小兵衛が平蔵を伴ってきたのは半蔵御門堀端を渡った先の
四谷御門に近い麹町9丁目四谷御門近くには紀伊藩・尾張藩・井伊部掃部頭
(いいかもんのかみ・幕末の井伊直弼居宅)この3つが隣接しているために
紀尾井坂(きおいざか)と呼ばれる坂がある。

「此処はな、儂が剣の教えを乞うた道場じゃ、ずい分と昔のことだがなぁ」

「と 申されますと無外流の?」

「さよう、辻右平太先生の時代だからのぉ」

「で、秋山先生の申される面白い男とはどなたのことでござりましょう?」

「ふむ 見なさい、あそこで稽古をつけておる男じゃ、
江戸では辻の狼と呼ばれておるそうじゃ、
さほどの者かな?・・・・・あははははは」

見れば中々の腕前と見え、数人掛かりでもあっという間に叩き伏せてしまう
その太刀筋は平蔵をして背筋の寒さを覚えるほどである。

「秋山先生、江戸は広うござりますなぁ」
これは平蔵の本音であった。

長谷川平蔵をして「まともにやりあったら勝つ自信がない」とその腕を
1にも2にも置いている火付盗賊改方同心小野派一刀流免許皆伝の
沢田小平次がいる。
が、これを除けば、このように平蔵が舌を巻いたのは初めてである。

「おう 稽古も終わったようじゃ、従いてきなさい」
小兵衛はかつて知ったる道場、遠慮もなく入ってゆく。

すれ違う門人は小兵衛を見るや
「これは秋山先生!」と敬意を表する。

(これほどの剣客であったか・・・)もう平蔵はこの小柄な剣客の
風貌からは想像を超えた目に見えない力に恐れさえ抱いていた。

こうして小兵衛の後に従って出会ったのがきっかけで、
よくこの道場を尋ねる平蔵であった。

その豪快さと繊細な心を持ちあわせたところが大いに平蔵を喜ばせ、
かけがえのない程の飲み友達ともなる、無外流剣客"都治記摩多資英"
(つじきまたすけひで)門弟、剣友でもあった伊豫吉田藩浪人小松俊輔である。


伊豫吉田藩は、寛保3年(1743)藩内に倹約令を発布、寛延元年(1748)
に藩士と庶民共学の藩校(内徳館・後の明倫館)を開校し、武芸・
学問を奨励し、木蝋(ロウソクの元)を藩の重要産物に指定、
農政改革に力を入れた。

伊豫吉田藩3万石、中興の祖と呼ばれた伊達村候(むらとき)の時代である。

天明2年~8年(1782)~(1788)東北地方を襲った天明の大飢饉による
被害は全国にその影響は及び、ここ伊豫吉田藩も例外ではなかった。

天明七年(1787)長谷川平蔵火付盗賊改方堀帯刀秀隆助役を拝命

この年伊豫宇和島吉田藩宮野下村三嶋神社神主土井式部清茂と
宮野下町の樽屋與兵衛は農民救済の強訴を企てるも密告により
果たせないまま獄死した。

この土井式部騒動が事の始まりで、やがて野火のごとく静かだが
確かに燃え拡がってゆくのである。

伊豫宇和島吉田藩郡(こおり)奉行中見役鈴木作之進は先の
土井式部騒動を無事収め、天明の飢饉で荒れた農村に部下七名を
控えて視察、老人や孝行者、農作業に励むものらを呼び出し、
菓子や酒を振るまい労をねぎらっていた。

彼の認め書には(百姓ではなく御百姓)と記されている。

彼の記述によれば、御百姓は一人ひとりでは気弱だが、
集まると心強くなる、だから藩政は力で抑えることは無理だと書かれている。

「御百姓の手元にも程々の紙漉利益が残るようにすれば騒動は起きない」
と知っていた。

だが郡奉行を無視する形で藩は紙座を設けこれを専売とした。
鈴木作之進は一揆の噂を聞くと村を回り、願いを聞き、諭して回った。

だが藩の裁定はまったくこれを無視、鈴木作之進らは狸役人と揶揄され
「冬春の狸を見たか鈴木殿、化けあらわして 笑止千万」
と落首されたほどであった。


時は長谷川平蔵が火付盗賊改方長官に任命された寛政元年(1788)

翌々寛政2年(1790)伊豫吉田藩は紙座を設け、藩の農家が農閑期に
手内職で漉き上げた楮(こうぞ)紙を藩が独占しようとした。

そこで村人たちが農閑期に丹精込めて漉いた紙を取り上げるために、
提灯屋栄造や覚造という無頼者を雇い、床下から天井裏まで虱(しらみ)
潰しに調べあげ、根こそぎ紙を没収、後には鼻紙1枚残らないと
言われるほど過酷な取り立てを行った。

しかもこのやり方は押収した紙の7割を役得料として黙認したのだから
陰湿と言わざるをえない。



 


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