時代小説鬼平犯科帳 2018/06/29 7月号 めぐりあい 吉田騒動武左衛門一気 安藤神社このように農家はますます貧しくならざるを得なくなり、その日すら生活が成り立たなくなっていった。紙というものは手間隙(ひま)かかるもので、毎年11月から1月くらいまでに1年物の楮(こうぞ)の若木を刈り取り、3~4日内外には漉し器という桶のようなものをかぶせて3~4時間は蒸し上げる、その後すぐに真水に浸し皮を剥ぎ易くして剥ぎ取り、黒皮と呼ばれるこれを天日干しに架ける。その後一昼夜真水に晒して手作業で1本1本皮を剥ぎ分け、剥がれた内皮(白皮)を乾燥する。この白皮と灰を入れた釜で2~3時間煮沸して繊維を柔らかくし、川などの流水にさらして灰を洗い落とし、天日干しに架ける。次に繊維の傷・節・汚れを取り除く、これを怠ると良い紙は出来ない。この後繊維が細かくなるまで木棒で打ちほぐした後、船とよばれる作業箱に入れ、水と粘り物のトロロを入れ、クシ目の馬鍬(ませ)で均等になるまでかき混ぜ、漉桁(すけた)で漉し、紙床に移し、その日の分を重ね終えたら一晩自然に水切りをさせて、次に重石を乗せてこれも又一晩置いてトロロの粘りを取り除き、紙床から1枚ずつ剥がして板に貼り付け天日干しにして出来上がる。寛政一年(1789)4月、藩内の農民が紙漉の締め付けで困窮していると、参覲交替で江戸に上ってきた藩士より知らされた小松俊輔は、平蔵に別れを告げる間も惜しみ急ぎ故郷伊予吉田に戻る。こうして生まれ故郷に戻った俊輔はかつて祖父が士官していた吉田藩内で作柄不足と重税にあえぐ農民の苦境を改めて知る事となったのである。小松俊輔は農民の窮状を吉田藩陣屋に嘆願するも、それは全く取り上げられることもなく、「直訴とならばご法度、それを承知の上か!」と逆に詰め寄られる始末。(何としても、この窮地を取り上げてもらわねば百姓たちが生きて行けない・・・・・)思案の挙句、彼は近郷で頻発している吉田藩と宇和島藩の小競り合いを繰り返す山間に入り込み緩和させようと働きかけるが、両者の歩み寄りは皆無で、終いには俊輔自身日常の糊口をしのぐにも苦しい日々となっていった。此処で、ふと思い浮かんだことは、俊輔が平蔵から聞いた(領内が治まっていない事が公然となれば責任問題として大名家改易の切り札ともなりうる)と言うことであった。俊輔は一計を案じ藩と対等の力を持つべく義勇隊を組織、これには吉田藩や宇和島藩から禄を離れざるを得なかった浪人者たちが10名ほど集まってきた。「まず我らが為すべきことは山岳地帯に入り込み彼らに手を貸し殖産となる仕事を増やすことで、各々方にはそれぞれ個別に村々を回り指導や開発に尽力してもらいたい。まず手始めに、これまで行われてきた楮(こうぞ)による紙の製造、これは諸藩にも重宝がられておる奉書や文書紙になる。また場所によりては梶や桑による製紙も工夫できよう。特に楮による備中の檀紙(だんし・元々はニシキギ科の壇=まゆみ/真弓で漉いたちりめん状のしわのある高級紙)は極めて高価なものゆえ、これを浸透させれば依り暮らしやすくもなろう.作り方はこれまでの板に延べるのではなく、縄の上に懸け、朝露に当ててシワを造らせ、これを少しばかり叩き伸ばす、これを繭紙(まゆがみ)と呼ぶ、波の大小は大高(おおたか)他に中高・小高の区別があるものの、何れもが並の紙よりも高額にて売り買いできるし、これまでの楮紙より工程や機材が少なくて利便上も好都合」と言う事となり、こうして小松俊輔の作成した製紙技法書を片手にそれぞれが散らばって行った。伊豫吉田藩は宇和島藩主伊達宗利から3万石を分知されて創設されたが、吉田藩に当たる土地は肥沃な穀倉地帯が多かった事に加え、飛び地も多く宇和島藩との境界線の線引が複雑で抗争が絶えなかった。義勇隊はこういった複雑な内情の中に新し知識や技術を浸透させるべく、村々を尋ね村民とともに汗を流した。だがこの努力も吉田藩の姑息なやり方によって、出来上がった紙は無頼の者共に根こそぎ取り上げられる始末であった。業を煮やした小松俊輔は新たな手立てを考えねばならなくなってしまったのである。まずは刈り入れた製紙材料を山小屋などで加工原料にして、これを隣藩に売り捌くことにし、その交渉も代行することに決議、早速とりかかった。「よし!本日までにまとまった原料を束ね山越えをしてそれぞれ隣藩に売りにゆこう、道中の警護は我らがする、お前達は臆すること無く作業に励むよう」「解りやした、ですがねお侍様、山ン中でとっ捕まったらどう致しやすんで?」「それは任せておけ、そのために我らが同道致すのだ」案の定この心配は起こるべくして起きた。大洲藩と吉田藩の藩境へと尾根伝いに入りこんだ時、大洲藩がたまたま警戒する中に入ってしまい発見されたのである。「おい!待て!何処の者だ?われらは大洲藩山奉行所の者である」これに驚いた浪人近藤主馬は農民の前に出て、さも面目無さそうな顔で「これは何としたこと!ここは大洲藩でござるか?我ら伊予吉田藩八幡浜喜木津村のものでござる、果て何処でどう間違えたものやら、この山中ゆえ道も定かではなく、誠に持って面目なき次第にて・・・」と低頭して詫びる。「よくあることにござる、喜木津ならばこの先に非ず、直ちに元来た方へ戻られるがよかろう!これより先は我が大洲藩のご領地になる」と、もと来た方へ指図された。「ははっ!この度は身共が不手際、かたじけのうござる」と、さっさとその場を離れたのである。「いやぁ魂消(たまげ)たねぇ!さすがお侍様は腹が座って・・・・・おらぁ腰が抜けそうになったでよぉ」百姓たちは冷や汗を拭き拭き浪人近藤主馬を見返した。「さもあろう!儂とていざとなればとは想うておったが、さすが軍師小松殿だ!こうも上手くゆくとはなぁ・・あははははは」こんな状態で次に吉田藩の見番に発見されるや「我ら大洲藩喜多郡の者にて・・・・・」という具合に、うまく言い逃れてしまうのであった。この戦術で撹乱することにより、更に宇和島・吉田両藩の反目は被害の拡大とともに激化の一途を辿った。こうした抜け荷売りによって農民はだんだん義勇隊に加担する村が増えていったのである。だが、この様なことは次第に吉田藩内にも周知の事なり、再び締め付けが強化され、隣藩山付近の取締も一段と厳しさを増していったのである。こうした中、義勇隊は徐々にその力を見せるようになり、ついに宇和島藩と衝突することとなる。中でも目黒山は、大部分が吉田藩所有林で、一部が村民の共有林であった、そのために村人たちがこれを管理育成し、薪炭の製作等にも従事していた。 [0回]PR