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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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しかし、この山を取り囲むように宇和島藩領村が存立していた為に
常に闘争の火種は転がっていたと言えよう。
此処に目をつけた義勇隊は村人を煽動(せんどう)し、
櫨(はぜ)や漆(うるし)の熟する秋には、
宇和島藩と吉田藩の境界あたりに出没、密かに採取させ、
木蝋・櫨蝋(もくろう=ロウソクの元)に加工したものを
大洲や新谷(にいや)隣藩、土佐の西土佐村を媒(なかだち)
に土佐藩にまでその販路を拡大していった。
木蝋は工程も簡便で採取した櫨(はぜ)の実を石臼で砕き
これを加熱して溶かしたものを布で濾し椀に流し込んで固めるだけ、
採取した実の2割が蝋になる。
時間の短縮と機材が依り簡便なために山中でも叶であったが、
加熱による煙の処理が紙同様問題であった。
煙を目指して山奉行所の役人がやってくるからである。
このために雨上がりや冷え込んだ朝に発生する霧の出る時を
狙って作成した。
義勇隊の面々は土佐藩との堺に近い日向谷村(ひゅうがいむら)
が後ろに千メートルを超える高研山(たかとぎやま)を控え、
高研峠を越せばその向こうには土佐の檮原(ゆすはら)
が見下ろせる、この辺りまで抜荷、抜け売の拡大を図っていた。
山の尾根伝いに移動すれば最も近く速く辿りつけ、
又藩の目からもかいくぐれる方法であり、万が一見つかっても
その村民の区別がつかないところに抜け道があったといえよう。
それ以外にも他村と同じように、紙用の楮(こうぞ)を刈り取って
蒸しを入れ、剥皮したものを細かい束にして藩外に売りさばいた。
当然の事ながら宇和島藩もこの時期は特に警戒を強めてはいるものの、
何しろ保安範囲が広く複雑な地形と地理不案内に加え、
義勇隊が護る抜け売は神出鬼没であり、その効果は殆ど無いに等しく、
またそれを見越しての犯行でもある。
盗櫨被害の拡大に激怒した宇和島藩は吉田藩に取締の強化を
求め強硬姿勢で談判してきた。
元々吉田藩は宇和島藩のものであっただけに、
その威圧的な態度に吉田藩重役内部にも反発する者も大勢いた。
その中で末席家老安藤儀太夫継明は農民の良き理解者であったために、
矢面に立たされることとなった。
安藤儀太夫は農民たちに「嘆願書があるならばそれを出すよう」
促すが、83ケ村を擁する吉田藩領の農民たちの中でも
まだまとまりを見せておらず、宇和島藩と吉田藩、
そこへ加わる農民たちの三方から責められる格好となり万策尽きる。
この様な経緯(いきさつ)の後、宇和島藩からの強硬な抗議に、
吉田藩藩命により末席家老安藤継明はこの義勇隊の討伐に
乗り出す事になったが、戦乱の世から離れて時を経た武士は
抗争にはとんと役に立たず、攪乱戦術を持って望む義勇隊に
翻弄され続ける始末。
藩士5千人を抱える宇和島藩に対し、士分千人以下という
吉田藩では体裁を整える程度の事しか出来ないのが実勢であり、
しかも現行犯でない限り対処の仕方もないのが実情である。
安藤儀太夫は吉田領内に高札を掲げ義勇隊との交渉を提案、
これに応じる形で義勇隊より一定の条件下で交渉に応じると
返書あり、その条件に従い安藤儀太夫継明、
人足一人を供に指定された場所に出向き交渉にのぞんだ。
「吉田藩家老安藤儀太夫継明殿だな?」
隊長格らしき真っ黒に日焼けした骨太の男が安藤継明の前に
ドカリと座り込み飲み込むような眼差しでじっと嗣明を凝視した。
そのどっしりとした風格に安藤継明
(なるほど、この者ならば捜索隊が難儀をしたはずだ)
そう思わせる形貌(けいぼう)を持った男であった。
「そこ元は名を何と申される?」
安藤継明はことさらゆっくりと静かに男を見つめながら、
穏便な口調で問いかけた。
「私は元吉田藩浪人小松俊輔、亨保の大飢饉により
祖父が録を離れ浪々の身となりました」
「それは又・・・・・さぞやご苦労も多かった事でござろう、
ところでこの度いかなる理由(わけ)でこのような事件(こと)
を引き起こされた?」
「されば、この度出されし無体な吉田藩お定めには
農民の命が掛かっており、蜂起せざるを得ませんでした」
語気は穏やかだが、押し包むような勢いのあるのを
読み取った安藤継明(敵にするには恐ろしい奴)と
腹をくくらざるを得なかった。