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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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亨保の大飢饉とは58年前の亨保16年(1731)中四・国国・
九州を襲った冷夏による害虫の大発生で稲作は壊滅的な打撃を受けた。
この影響で米価高騰により2年後の亨保18年(1733)正月、
江戸の米商人高間伝兵衛宅に庶民1700名が押し寄せ、
ついに江戸初となる亨保の打ち壊しが勃発する。
この事件を契機に八代将軍徳川吉宗は、米以外の穀物栽培も奨励し、
青木昆陽等に命じて薩摩芋の試作を数カ所で行い、
後に日本国内で飢饉対策のサツマイモ栽培が普及するのである。
「なるほどそこ元の道理はよぅ解り申した、身共とて民在っての政事と
よく承知いたしておる。
また此度の御触れには些か行き過ぎと想うて腐心も致しておった。
どうか儂の意見にも耳を貸してはくれまいか?」
慇懃(いんぎん)に両手をついて懇願する安藤嗣明に
「安藤殿のご意見とは吉田藩のご意見でござろう」
冷ややかに突き放すような小松俊輔の言葉を受け
「如何にも、吉田藩家老としてはそうであらねばならぬ、が
その以前にそこ元のご意見を承りたい」
じっと小松俊輔の目を見据えて返答を待った。
「これまでの太枡(ふとます)による米の搾取
(税米を図る枡は一斗=15キロだが、これを一斗一升=16.5キロという、
基準より大きめの枡で税米をより多く納めさせた)
や此度発布されたる差米、米1俵(60キロ)に4斗6升(69キロ)・
大豆1俵(60キロ)に5斗(75キロ)
という重税は到底飲めぬもの。
加えてこれまで百姓の細やかな内職にもなっておりました紙漉を禁じ、
紙芳役所を設け藩専売とする、これでは農民は生きては行けません。
我らの思いは村、百姓が健やかに生業(なり」わい)を続けられる国造りにございます」
小松俊輔は、我が身の粛正を放置したまま、
その付けを農民に代償させる藩の政事(まつつりごと)こそ
改めなければならないことを、熱い眼差しとともにその冴えた弁舌で訴えた。
「全く同感にござる、儂も日々そのことに心を痛め、
何とか力になりたいと想うて奔走いたしておる。
だが、今の段階(かかり)にては打つ手なし、
手をこまねいて居るわけではござらぬが、
この苦境を脱するためにも今一度談合の方向を探れぬものか・・・・・」
安藤継明はこの度の吉田藩の政事が吉田藩伊達家改易にもつながりかねない
という現状を説き、苦渋の選択を迫られていると訴えた。
これに対し小松俊輔は冷ややかに
「すでに安藤殿の身柄拘束の知らせを吉田藩陣屋に知らせております。
その返答如何ではこの先どう転びますか、この私にも見当がつきかねております。
万が一交渉決裂の場合、安藤殿にもお覚悟を頂かねばならぬやもしれません」
行き詰まって混沌とした状況下で打開策を模索するのは、
かすかな燈明(あかり)でも探りたい、両者の思いは同じである。