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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

めぐりあい  11月号 伊豫吉田藩武左衛門騒動


その翌早朝、染の姿が霊岸島新川に見られた。
平蔵を追って1日遅れで染は上方への戻り
樽廻船に乗り込むことが出来た。



無論これは積荷協定違反ではあるが、
天保の改革(18301843)で株仲間の解散になったことを背景に、
ほとんど守られていなかった。



江戸から大阪道頓堀まで船旅は弁才船では
三ケ月から半年かかることも、
酒のみを運ぶ樽廻船なら早くても10日程度だが、
それでも風や潮の具合では簡単に2倍3倍かかった時代である。



1日先に出た平蔵の船が風待ちで志摩の国安乗(あのり)
に泊まっているところに追いついた染は、
船頭からその宿を聞き出し平蔵を探し求め、
目指す旅籠“船越や”に飛び込む。



「何!儂に客だ?一体・・・・・」



予想だにもしていない客の訪来の知らせに驚く平蔵の前に、
染が女中の背後からズイと前へ進み入って来た。



「ここっ!これは何と染どの!どうしてそなたが此処へ???・・・・・」



平蔵あろうはずもない染の出現に対処できないほどに驚いた。



「長谷川様!如何ようなる大事かは存じません、
長谷川様がお立ちになられた夕刻、奥方様より
長谷川様ご出立の知らせを戴き、こうしてお引き止めに参りました。
どうかこのまま江戸にお戻り願わしゅうございます」



両手をつき深々と頭を下げた後、そのまま
ぐっと燃えたった双の瞼(め)で平蔵を見上げた。



「染どの!何も申さず黙ってこれより江戸へお帰りなされ、
儂はこれより命のやり取りを致すために伊豫に赴かねばならぬ、
これは儂一人の戦、誰の手も借りぬ覚悟の故に
そなたを伴ぅ事もならぬ、すまぬが聞き分けてくだされ」



平蔵は静かな口調で染の瞼を見つめながら諭すように両手をとった。



その眸(ひとみ)は林の中をすり抜ける春風のそれに似て
穏やかに染の心の中に染みこんでくる。



「長谷川様・・・・・
そればっかりはお聞き入れすることは出来ません、
長谷川様お一人の命では無いことをご承知の上での
ご決断にございましょうか?」



染は半身を起こし、微動だにしない平蔵の眸を凝視した。



「・・・・・理解(わか)ってくれ染どの!
儂は此の世に失ぅてはならぬ人が居る、
そのお方のためにはこの命、如何ようになろうとも
臆(おく)すること無く捨てようと思うておる」



平蔵、染の両手を強く握りしめ、噛み含めるように言い聞かせる。
それは又おのれ自身にも言い聞かせているように思える。



その熱い思いがひしひしと染に伝わってくる。



「そのためにお行きになられますので・・・・・?」



「それが儂なのだ染どの」



どのように染が止め立てしようとも
最後まで首は縦に振られることはなかった。



「のう 染どの、此度のことはこの長谷川平蔵
命を賭してでも為さねばならぬやん事なきものなのじゃ、
例えて申すならばそなたの父御(ててご)左内殿に
もしものことあらば、儂は此度と同じことを致すであろう、
そこに誰しも入りきれない結び付きがあるのでござるよ。
儂はそなたと知り会ぅて親父殿を知った。



親父殿は儂にとっては亡き父と同じに等しい、
理解(わか)ってくれ!男の意地や武士(さむらい)の
面目でもない、儂にとっては兄とも想うておるお方の一大事なのじゃ、
それを見過ごせば、もはや儂の生きる道は途絶えてしまう。

たとえこの身が如何ようになろうとも果たさねばならぬ、
だから黙って行かせてくれ、のう染どの」



平蔵の切々とした言葉に染は返す言葉もなく
ただ平蔵の哀しげな両瞼(りょうめ)を視るほかなかった。



暫くして染はおもむろに口を開いた。


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