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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 7月



この日長谷川平蔵は南町奉行池田筑後守長恵(ながしげ)よりの招きがあり、夕刻になって数寄屋橋御門まえの南町御役所にある筑後守の役宅に出かけていった。
筑後守配下の御用聞き仙臺堀の政七や鉄炮町の文治郎は時折平蔵の役宅に訪れ、奉行所の取り扱っている情報などを知らせてくれる、まぁ身内のような間柄である。
その筑後守からの招きである、平蔵何かを想うところもあるのか、歓んで出かけていった。
外は真冬日の空、雲は重く薄墨色に垂れ込んで鈍く、陽は滲んでいる。
風が時折吹けば、冷えた空気が地を這って流れてゆくようであった。
「うむ今夜は冷え込むな……」
袷(あわせ)の羽織に袖を通しながら妻女の久栄につぶやいた。
「殿様お気をつけてお出掛けなされませ」
妻女久栄も雲行きを案じながら送り出した。
平蔵南町御役所表門をくぐり、敷台に出迎えた用人に
「筑後守様よりのお召によりまかりこしましたる、身共は火付盗賊改方長谷川平蔵にござる、筑後守様にお取次ぎをお願い申す」
平蔵は大刀を鞘ごと抜き、右手に提げた。
「お腰の物をお預かり申します」
用人、平蔵の刀を受け取り、先に立って筑後守の待つ居室に案内した。
役事を終え、くつろいだ姿の筑後守の姿がそこには待っていた。
「筑後守様、長のご無沙汰をお詫び申し上げます」
平蔵、深々と低頭した。
「おお!これは長谷川殿。いやいやこちらこそ御用繁多でご無礼つかまつっておる。ささ!まずはこれに召されよ」
すでに整えられている酒肴の席に平蔵を導いた。
「これは痛み入ります」
平蔵、遠慮無く筑後守の傍に寄った。
町奉行は旗本三千石、平蔵は同じ旗本でも初めは四百石、盗賊改になって千五百石の立場であり、又奉行職は後に大目付に昇進する地位でもあった。
大岡越前守忠相(ただすけ)は、最終的には一万石の大名格になったのだからその権勢は大きかったといえる。
平蔵も
「何れは町奉行に」
と思った頃もあったという。まぁそれほどの立場に違いがあった。
池田筑後守は平蔵の没した年に大目付に昇進、その五年後この筑後守長恵(ながしげ)も死去している。
年も平蔵より一歳上という親近感もあり、またその豪胆な性格は平蔵と似通って居、良い関係が保たれていた。
「ところで筑後守様、この度のお召は又いかような?」
平蔵、招きの内容が気がかりであっただけに、早速切り出した。
「長谷川殿、まぁ然様に急がずとも、まずはゆっくりなされよ。ご貴殿もすでに存じよりとは想うが、この所市中を騒がしておる盗賊のことにござる」
筑後守静かに酒盃を空けつつ平蔵を見た。
「はい、その事なれば身共も日夜心を痛めておりまする。何しろ手がかりを何一つ残さず、すでに数件の大店(おおだな)が襲われ、被害も甚だしく、又市井の者も恐れをなし、真に悩ましき存在にございます」
「ふむ、それがことでござる。当方の隠密廻にても全くその所在も掴めぬまま時ばかりが過ぎ、御老中よりも厳しきお沙汰がござってのう」
「あっ、これはまた。真にもって!ですが筑後守様、何れは当方にもその風は吹いてまいろうかと」
「わははは、然様でござるなぁ、お互いに辛い役目。あは、あははは」
筑後守も思わず同病相憐れむの例えと笑うしかない風である。
「何としても江戸市中を日々休まる町にしたいもの、のぅ長谷川殿」
筑後守、平蔵に盃を勧めながら、これまでの調書を平蔵に託し
「何卒の助力を願いたい」
と言葉を選んで述べた。
町奉行は町方の事件を取り扱う部署、いうなれば現在の警察と言う所だが、押し込みや殺人となると警察であれば担当は殺人課や捜査一課と言う感じである。
町奉行の基本的な組織は文官がその大半で、盗賊改は武官と思えば解りやすい。
「喜んで拝借つかまつります」
平蔵も筑後守の胸中を察し、調書を懐に収め、それからまた昔話に花を咲かせ、一刻後に屋敷を出た。
外はいっそうの冷え込みを想わせ、漆黒に近い空にすっぽりと包まれている鍛冶屋橋御門を渡り、弾正橋を渡った頃から急な雨足で、氷雨が叩きつけるように激しく降り始めた。
(こいつはいかぬ、どこかで雨やどりなぞせねばなるまい)
平蔵は本八丁堀を東にとって進み、稲荷橋が見え始めたので、急いで橋そばの鉄砲洲稲荷社に駆け込んだ時は、すでに暮れ六ツを回っていた。
奉行所より借り受けた提灯は濡れ、すでに役に立たず、暗闇の中に覚えのある稲荷社を目指したのはこの後の平蔵に新たな展開を見せる前兆とは、当の平蔵もまだ知る由もなかった。
ガタガタと木戸を押し開けると
「だっ誰だ!」
低いが若い声がした。
「おっ!先客がござったか!真にすまぬがこの突然の難儀でござる、同室をお許し願いたい」
平蔵は言葉を尽くして堂内に入った。漆黒の中に人の気配がする
借り受けた提燈の底を持ち上げ、蝋燭の部分を取り出す。
(火打ち石がどこかに……。確かこの辺りにあったと想ぅたが)平蔵、手探りの中にも覚えのある燭台の立てかけてある場所を探り当て、指先に触れた火打ち石をカチカチと切り火し、火種箱に移して着火させ、それを着け木に点け、蝋燭に火を導いた。
軽い油の匂いとともに、ゆるやかに立ち昇る紫煙の明かりに照らされ、少しずつ部屋の様子が平蔵の眼に映り込んできた。
「やっこれは又先客はお若ぅござるな」
そう言いながら平蔵、観るとはなしにその若者を観た。
柱にぐったりと体を預けて身動きもできない様子に平蔵、
「これ、そこ元はもしや……。もしや病にでも掛かっておるのか?見れば長旅の末のようにもあるが」
言葉をかけつつ若者の傍に寄る。
若者は無言で身体を丸めている苦しそうな気配に
「熱はないのかえ?」
平蔵、若者の額に手をやって
「おっこれはいかん、かなりの熱さじゃ、かと申してもこの雨の中動くに動けぬ、ふむ困った」
何か身に纏わさねば、と言って我が身は氷雨に濡れ鼠の状態では、寒さに歯をガチガチ鳴らしながら震えている若者に手を出すこともならず、雨の止むのを待つしかなく、せめて背中をこすってやるくらいしか出来ず。為す術もないといった状態で、時だけが無情に過ぎていった。
それから一刻ほど過ぎた、夜五ツの鐘が聞こえる頃雨足が遠のき、静けさが徐々に戻って来た。
(深川仙臺堀今川町の桔梗屋まで十五町ほど。なんとかたどり着けぬ距離でもない)平蔵は意を決し、若者を背負い、稲荷社を出た。
夜の冷え込みはまた格段に冷たく、吐く息が闇夜にも伺えるほどである。
稲荷橋を渡り、東湊町から白銀町、四日市塩町、大川端と進んで豊海橋へ差し掛かった。
船番所をすぎれば、すぐ目の前は上野寛永寺の根本中堂建立の余材を使った長さ百十間の永代橋に出る。大川に架かる橋では四番目に架けられた物だ。
深川中ノ橋を渡れば佐賀町、その角を曲がれば今川町の仙臺堀桔梗屋がある。
平蔵は氷雨に冷え込んだ自身の体を鞭打つように、熱にうなされる若者を背負って歩いた。氷雨にじっとりと湿り気を帯びた衣服は、さらに冷え込み、歩くのもやっという状態であるものの、なんとか助けたいという思いが気を奮い立たせていたのであった。
桔梗屋もすでに戸締まりを終え、辺りは暗闇の景色に変わりはなかった。
その店前にたどり着き、門口を叩き叫んだ。
「女将わしだ、長谷川平蔵だ!すまぬがここを開けてくれぬか!」
平蔵、若者を背負ったまま幾度も大声を張り上げ、片手拳で戸口を幾度も叩いた。
やがて奥に明かりが灯り
「どなた様でございましょう?すでに火も落とし、店も閉めてございます」
板前の声が聞こえた。
「おい!秀次わしだ、長谷川平蔵だ!」
平蔵、聞き覚えのある板前の声に安堵しながら叫んだ。
「あっこれは長谷川様少々お待ちを!」
言って秀次、急ぎ戸口の閂が外された。
濡れネズミの平蔵が人を背負っていたのを見て
「どうなさいましたので!」
秀次は平蔵から若者を引き受け、店の中に運び込んだ。
騒ぎを聞きつけて女将の菊弥が夜着に上掛けをはおりながら走り出てきた。
「長谷川様又何となさいましてこのような時刻に」
言いつつ平蔵のただならぬ様子に気付き
「秀さん急いで部屋を用意してそれから長谷川様とお連れの方に何か着替えを見繕っておくれ、それから湯を沸かして───」
「任せておくんなさい女将さん!万事心得てございますよ」
秀次は若者をその場に横たえ支度に掛かった。
竈(へっつい)に薪を梵(く)べながら、自分の着替えを持ってきて若者に着替えさせる。
「ところで女将さんあっしのものではどうにも長谷川様には寸法が足りやせん、どうしやしょう?」
「このままでは長谷川様が大変なことになるよ秀さん、こんな場合は長谷川様に目をつむって頂いて、あたしのものでも羽織っていただくしか無いねぇ」
菊弥、袷(あわせ)のものを箪笥から引っ張りだし、平蔵に着替えるよう促した。
平蔵も苦笑いしながら乾いた手ぬぐいで体を拭き、袖を通す。
そうしている内に湯も湧き、まずは足を温めねばと、たらいに湯を張って若者の手足を浸し、吹き出す冷汗を拭い取った。
平蔵の印籠から薬を出して飲ませ、一刻(いっとき)ほどで若者の様子も落ち着いてきた。
「やれやれ!やっとあの方の様子も落ち着いてまいりましたよ長谷川様」
菊弥が平蔵にそう報告に上がってきたが、返事がない
「長谷川様!」
声をかけて襖を開けたその目の前に信じられない光景に菊弥、瞠目(どうもく)した。
平蔵は夜具に埋もれるように丸まったまま、蒼白な顔を天井に向け、眼は虚ろになっている。
「長谷川様!!」
菊弥、叫びながら平蔵の額に手をやってみる
「あっ!大変!秀さん大変だよ!長谷川様がお倒れになられたよ!どうしよう!」
蒼白に沈んでいる平蔵の顔を凝視したまま放心状態の菊弥
「女将さん落ち着いてくださいよ、とにかくあっしはこのことを染千代さんに知らせやす。着替えも要るでござんしょうし、お父つぁんの物なら間に合うでござんしょう?、それと熱冷ましの薬を早く!」
言い残して秀次、暗闇の中へ飛び出していった。
小半時して染千代が提灯を提げ飛び込んできた。
真っ青な顔色で染千代、二階へ駆け上がりつつ
「姐さん長谷川様がお倒れになすったって本当なの!」
叫びながら襖を開けた。平蔵の唇はすでに紫色に変わり、体力の消耗の激しいことが見て取れる。
染千代が手をおいた平蔵の額は火のように熱く、濡らした手ぬぐいはあっという間に湿り気を失ってしまう。
「秀さん手伝っておくれな!」
染千代、階下の秀次を大声で呼び寄せ、平蔵の衣服を剥ぎ取り、持参した父左内の着物に手早く着替えさせる。
「夜具をもう一組……それから湯たんぽを急いで作って頂戴」。
さすがに武家の娘だけあって、最低必要な手当は心得ているようである。
だが平蔵は体温の低下によって意識を失いかけており、体中が小刻みに震え、眼も焦点が定まらない様子である。
菊弥が湯たんぽを抱えて上がってきた。
「それを足元に、足先は身体全部の冷えを取りますから」
言いつつ染、着物を脱ぎ始めた。
「何するんだい染ちゃん、お前さん気でも違ったのかい!」
染千代の行動に驚いた菊弥の言葉を尻目に、染は肌襦袢一枚になって平蔵の横たわる褥(しとね)に潜り込んだ。
「姉さん!こうして人の体の温もりで温めるのが一番と、父上から教わったから、私はそうするだけ」
躊躇することもなく染、布団に潜り込み、背中から平蔵を抱きしめた。
「そんなことしたら、あんたが死んじまうじゃないか!」
菊弥がおろおろするのを、
「姐さん、あたしは長谷川様に助けていただいたこの命、この御方のためならばおしくはござんせん」
染千代、そうきっぱりと言い切った。
「染ちゃんあんたっていう人は……」
菊弥は火を移した七輪を部屋に運び込ませ、部屋も温める。
しゅんしゅんと湯気を上げて小鍋が湧くのをたらい桶に取り、手ぬぐいを絞って染に渡す。
それで平蔵の身体を拭いて吹き出す冷汗を幾度も幾度も拭い取る。
悪寒と痛みに顔を歪ませ、さらに呼吸も乱れ、苦痛に引きつるその顔を染、ただ抱きしめるしかなかった。
階下(した)では秀次が若者の看病を続けているが、こちらはもう峠は越えたようで、熱も下がり始めていた。
この戦いは翌朝まで続き、やっと外が白み始めた頃、秀次が医者のもとに駆けつけた。
秀次に引きずられるように医者が駕籠でやってき、まず階下(した)の若者を診(み)、手当を済ませ、投薬を与えた後、
「もうこちらは大丈夫、さてお次は」
と、二階に上がってきた。
染千代は身支度を整え、平蔵の手を握りしめながら手ぬぐいを取り替えていた。
医師玄庵は、平蔵の額に手をやり、胸をはだけ、耳を押し当て、心臓の音を探り、ひと通り調べ終えたが
「ひどく身体が弱り切っており、やがて咳も出てこようゆえ、暫くは動かさないほうがよろしいかと」
意味ありげに後の言葉を濁した。
「先生!助かるのでございましょうね!」
染千代の必死の眼差しに、玄庵、言葉をつまらせる。
「うむ、ともかくも水気を与えることを怠らぬよう、寒さが引けば今度は暑がるであろうが、それとともに熱を冷まさせ過ぎぬこと。これが大事じゃ、良いな!熱を取り過ぎるとかえって長引く。
これを間違わぬこと、おそらく酒を飲んだ上で急に身体を冷やしたのが基であろうと想われる。出来るだけ重湯なぞを与え、力をつけさせることじゃ」
そう注意を与え帰っていった。
その間に染千代、何やら認(したた)めて秀次に
「これを菊川町の長谷川様のお屋敷に届けておくれでないか」
きっぱりとした面持ちで書付を託した。
「へい!ひとっ走り行ってきやす」
秀次、どてらをきこみ、薄っすらと地面の光るみぞれ混じりの空の中、走り出ていった。
菊川町の火付盗賊改方役宅はまだ門も閉じられ、ひっそりと静まっている。
「お願いでございます!長谷川平蔵様がお倒れになられました!ご開門をお願い申します!!」
激しく叩かれる音と、声に驚いた門番が横の潜戸(くぐりど)を開ける。

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