男が転がるように飛び込んで来
「長谷川様が昨夜お倒れになられまして」
大声で再び叫んだのを聞きつけた泊まり番の沢田小平次、同心部屋から飛んできた。
「御頭がお倒れになったと言うは真のことか!」
まさかと言う顔で秀次の胸ぐらをつかみ詰問する。
「ここっ!これに詳しく書いてありやす」
懐から染千代に託された言伝をつかみ出し差し出すそれをむしり取るように受け取り、沢田小平次、慌ただしく奥へ駆け込んでいった。
大役を無事果たした秀次、安心したのか、へなへなとその場に倒れ込んでしまったものだ。
沢田小平次、足元がもつれるのではないかと想われるほどの勢いで奥座敷へ駆け込み
「奥方様!御頭の使いの者と申す者が、かような書面を届けてまいりました」
妻女の久栄の居室の前に片膝ついたまま報告。中から奥女中が襖を開けるそれへ手渡した。
「何でしょうねぇ殿様の使いとは、昨夜はお戻りになられるはずなのに、それもなく、託(ことづけ)もないまま今朝になって……」
女文字の筆跡に訝りつつも、読み始めた久栄の手がわなわなと震えるのを、沢田小平次は観て取り
「奥方さま!御頭に何か!」
不安な様子に声をかけた。
久栄は言伝を握りしめたままその場に崩れ折れた。
「殿様が……殿様が……」
沢田小平次、久栄の手から言伝をもぎ取るように読み下すそれには、昨日の事の顛末(てんまつ)が染千代の手によって認(したた)められていた。
(長谷川平蔵様儀につき、取り急ぎお知らせ参らせ候。
昨夜五ツ過ぎ、氷雨の後に病の童(こ)を背負い、深川今川町桔梗屋にお越しなされましたよし。
幸いにも童(こ)は長谷川様のお陰にて、お医師の話しでは峠を越した模様。されど長谷川様は殊の外重く、お医師のお見立てでは、日頃の過労に昨夜の氷雨と、夜の冷え込みが重なり、心の臓が弱り切り、衰弱激しく、暫くの間動かすこと叶わぬと申されましたるよし。
今のところ意識朦朧(もうろう)にして昏睡と発熱も激しくあり、一刻の油断も禁物なれど、必死の看護を致しておりますゆえ、何卒ご安堵召されまするよう。元南町奉行所本所廻与力黒田左内。内、染)
しかし、文字の乱れや行間に読み取れる不安は拭い去ることの出来ないものであった。
「何と!これは一大事!佐嶋殿はまだお見えになられませぬのか!」
沢田小平次にすがる眸(ひとみ)に、筆頭与力佐嶋忠介の出所を確かめた。
「まだ佐嶋さまはご出所なさっては居られませぬ」
取次の同心が報告を上げてきた。
「ええい!表に出て佐嶋さまのお姿を探し、急ぎおいでなさるよう申し上げろ!」
沢田小平次、落ち着こうにも、どうにもならない己の心情をぶつけるしかなかった。
それから四半刻、慌ただしく佐嶋忠介が飛び込んできたのへ、沢田小平次、事の次第を報告した。
「とにかくこのことは皆の者には伏せておけ!」
厳しい緘口令(かんこうれい)が佐嶋から出され、この事は沢田小平次と佐嶋忠介、それに妻女の久栄だけが知るのみとなった。
「佐嶋どの、兎にも角にも私は殿様のところへ参ります」
久栄、奥女中に目で支度を促しつつ、佐嶋に告げた。
しかし、佐嶋忠介
「奥方さまが直々にお迎えに参られますのはお控えなされた方がよろしいかと存じます」
毅然とした言葉で対応し、思いを留まらせようと試みる。
「何故私が出向いてはなりませぬのじゃ」
筆頭与力ともあろう者の冷ややかな戒めに久栄、納得の行く返事ではなかった。
「奥方さま、ここは何卒この佐嶋におまかせくださりますよう、今、奥方さまが向かわれましたと致しましても、御頭は意識も戻っておりませず、医者の申す通り、御頭のお体を動かすのは真に危険(あぶ)なき事と存じます。
御頭の意識がはっきり致しますまで、暫くのご辛抱を願わしゅうございます」
その言葉に久栄は、キッと宙を睨み
「理解(わか)りました。そのように致しましょう」
両手を固く握りしめた拳が震えているのを佐嶋忠介は痛々しく見るしかなかった。
佐嶋忠介、早速御典医井上立泉に繋ぎを取り、
「御頭が急の病にてお倒れになられたよし、急ぎ深川今川町仙臺堀の料理屋桔梗屋に出向いて頂きたく候」
と託(ことず)けた。
佐嶋忠介、平蔵の妻女久栄から平蔵の着替えを託されたそれを抱え、桔梗屋に向かった。
慌ただしく飛び込んできた乗馬姿の侍の恰好をひと目見た秀次
「長谷川様はお二階に!」
手綱を預かりながら店の奥へ視線を送る。
二階へ駆け上がった佐嶋忠介、襖の前に座し
「御頭!佐嶋忠介にござります」
ゆっくりと落ち着いて声をかけた。
すぐさま中から襖が開けられ、若い女性(にょしょう)と少し年増の女の姿が見て取れ、その向こうに、臥せって意識朦朧(もうろう)とした風の御頭、長谷川平蔵のやつれた姿が目に飛び込んできた。
「御頭のご様態は?」
佐嶋忠介、長谷川平蔵の額の手ぬぐいを取り替えている若い女に尋ねた。
女は膝を向き変え、佐嶋の目を受けるように
「今朝ほどまでは激しく暑がったり急に寒がったりの繰り返しでございます。お医者様のお見立てでも、暫くは動かせないとの事。当分はこの繰り返しが続くと申されました。ただ、今出来ることはこうして寝汗を取り除き、身体を冷えさせぬこと」
双眸(りょうめ)を伏せ勝ちに、手ぬぐいを絞るその指先の震えているのを、佐嶋忠介も、つなぐ言葉もなく、ただ見つめるしかなかった。
(やはり奥方様にお目にかけなんでよかった……。そう佐嶋は心の中につぶやいた。
それほど平蔵の衰弱はひどい様相であったのだ。
別に誰もが手をこまねいていたわけではないが、それほど平蔵の身体は日頃の激務が限界に来ていたと言えよう。
朝五ツ御典医の井上立泉が駆けつけて診察を試みるも、やはり玄庵と見立ては何一つ変わらなかった。
滋養の処方箋を与え、後は本人の回復をまつのみということであった。
この間も染千代は秀次に指図し、粥を煮詰めトロトロにしたそれへ、卵の黄身を溶き入れ、少しだけ塩を入れ、こぼれにくくした物を作らせたこれを平蔵の唇を指で開き、木匙(さじ)で掬って流し込み、引き裂いた晒を手水桶に入れた清水に浸し、これを平蔵の口に絞って雫を飲ませ、吹き出す汗を拭い取っての繰り返しで毎日が流れていった。
この日も、暮になると平蔵は再び高熱を出し、寒気に震えるという事を繰り返し、そのたびに染千代、平蔵の体を温め、吹き出す汗を拭い、身体を冷やさぬよう気を配り、ほとんど不眠不休で当たった。
始終取り替えるために、着替えの肌着は乾く暇がなく、晒を折りたたんで平蔵の胸元や背中を包み、吸汗させ放熱を避けた。
この間、平蔵が口にしたものと言えば適度の水と、秀次が炊き上げる緩く溶いた重湯だけである。
こうして染千代は七日目の朝を迎えた。
平蔵、意識のゆらめきの中、微(かす)かに誰かの温もりを背中に感じ
「ううんっ!」
意識の彼岸から目覚めた。
平蔵の漏れるような小さい声に染は気づき、ぼんやりと眼を覚ました。
「長谷川様!」
染千代、平蔵の意識が戻ったことにやっと胸をなでおろし、平蔵を抱きかかえるように引き起こす。
朧(おぼろ)気な輪郭の中、平蔵はまだ夢の中にいるような面持ちに
「かすみ……どのか?……」
「えっ!?──。長谷川様お気が付かれましたか!」
驚きつつも染、平蔵の顔を横に覗きこんで確かめた。
「ううんっ?」
再び平蔵の声が……。しかし今度はしっかりとした様子で聞こえた。
「……染どのではないか?どうして此処に……。おう!そういえば……」
と、身体を起こそうとしたが、まだ腰が定まらず、よろりと染の腕の中にもたれこんだ。
「嗚呼(ああ)よかったよかった………よかった」
染、止めどもなく流れ落ちる涙を拭おうともせず、涙で潤み、ぼやけたままの平蔵の顔を胸に抱き締める。
かかえられた膝の上で平蔵
「染どのすまぬ」
ひとこと言葉を添えて平蔵が見上げた染の双眸(りょうめ)から大粒の涙があふれ、急いで羽織った夜着の胸乳の辺りに吸い込まれるのを見つめるだけであった。
平蔵、この安らかな時の流れが、現実と夢の狭間で揺れ動いている幻を見ているように想われた。
すっかりやつれ、痛々しいほどの染の頬に手をやり、
「なぜ泣く染どの、お陰で儂(はこうして戻ってきたではないか」
平蔵、染のこぼす涙を指先で拭いながら語りかけた。
(真綿の上にいるような力の抜けた安堵感……。幸せとはどのようなことであろうか?何を持って人は幸せと想うのであろう……。今のこのひと時を、儂の探しておったものなのであろうか。言葉もなく何もない、ただここにおる。この穏やかさや安らぎは、何と言えばよいのであろう。
儂は今まで生まれてきた意味と生きてゆく理由を想うたこともなかったが、今初めてそれを知ったように思う)
染の腕に支えられ、障子越しに差し込んでくる真冬日の明るさを、まばゆい思いで平蔵は眺めていた。
階下(した)から
「佐嶋様がお見えになられました」
菊弥の声がし、人が階段を静かに上がる音が聞こえ
「よろしゅうございますか?」
筆頭与力佐嶋忠介の声がかかった。
「長谷川様の意識が先ほどお戻りになられました」
中から女の声がしたので、佐嶋、急いで襖を開ける。
そこには染千代に支えられて半身を起こし、綿入れを背にかけた平蔵の顔があった。
「御頭!!」
佐嶋忠介、それ以上言葉が続かなかった。