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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 10月


それから七日の日が瞬く間に流れた。


本所二ツ目……。言わずと知れた軍鶏しゃも鍋なべや五鉄の二階


今日ばかりは、亭主の三次郎も上機嫌で、女房のおさい、、、も、いそいそと二階座敷に料理を運び込む。


「お前ぇ達にも此度はいらぬ苦労をかけた。心配をかけまこと済まぬ。だがお陰で、こうして又お前ぇ達と軍鶏鍋が食える。こいつぁ何よりだよなぁ五郎蔵、おまさ、粂!お前ぇや伊三次にも厄介をかけたことゝ想うぜ。


佐嶋より聞いておる。お前ぇ達が日本橋難波屋を張りこんでくれておったことをなぁ。彦!お前ぇの体だ、夜は辛かったろうなぁ、ありがとうよ」


「長谷川様……」


「おいおい湿っぽくなっちまったではないか。さぁ俺の快気祝いだぜぇ、しっかり食って飲んで祝ぅてくれ!儂も飲むぞ!わは、ははははは」


平蔵の高笑いが久しぶりに五鉄の二階に響き渡った。


障子を開けた平蔵


「雪か……。道理で冷える」


平蔵の思いは、この数日を過ごした今川町の桔梗屋を懐かしんでいるようであった。


 


後に平蔵が佐嶋忠介に言った言葉だが


「人はそれぞれに居場所というものがある。身の置き所と心の居所、構えずとも良い居場所も必要だと、此度儂は思ぅた。


それは儂の我が儘なのかも知れぬ。だが、今の儂はそれを捨てることは出来ぬ。


人にはそれぞれ分がある。わきまえる必要はあろう。越えられぬ立場というか、そのようなもので、互いを支えおぅて居るように想うのだがなぁ……。こいつだけは、さすがの儂にも裁き切れぬよ」


平蔵の脳裏には、背に温もりを覚えた安らかな時の流れが、夢の中の出来事のように深く静かに沈んでいった。


こうして麟太郎は黒田家に養子として迎えられることとなり、その後見人に長谷川平蔵が名乗りを上げた。


早速南町奉行池田筑後守に黒田家与力見習い復権の届けが出され、筑後守からこの度の盗賊捕縛の手柄の添え書きもあり、黒田家の与力相続の復権許可が大目付より下されたことは言うまでもあるまい。


ただ一つ、平蔵の脳裏にこびりついている物があった。


それは捕縛された垈ぬた塚づかの九衛門の所持していた匕首に朱の馬が彫ってあったと云う付け書きであった。


まさか……。平蔵の脳裏に過ぐる日の京での思い出が重なっていた。


 


赤い馬


 


垈ぬた塚づかの九衛門の捕縛から一月あまり。平蔵も日常の勤めに戻れるまで回復していた。


あれから十八年という歳月が流れるも、平蔵の心の中はあの時で止まったままであった。


一日として平蔵の脳裏から消えることのない、人生においては刹那の時かも知れないが、今も鮮明に平蔵の胸奥深く刻み込まれている。


あの時抱き上げたかすみ、、、の髪から抜き取った珊瑚玉の簪かんざしは


「もし儂が死ぬようなことあらば、この簪かんざしも共に葬ってくれ」


そう平蔵は元中間で、今は板橋で古着屋を商っている久きゅう助すけに託していた。


ひと月の後桔梗屋に顔を見せた平蔵 


「染どの、一つだけ教えてはくれぬか」


平蔵、染千代が用意する座布団に座りながら、酒肴しゅこうの膳を置くのを待った。


「はい、どのようなことでございましょうか?」


淡い紫の袷あわせに、腰から裾にかけて雪兎の跳ね回る図柄がしっとりと描かれ、その上に羽織る羽織は黒一色。色目と言えば兎の赤い目のみ。


その裾からこぼれる緋色の蹴出しが鮮やかに平蔵の目を捉える。


「実は、過日儂わしがここに麟太郎を担いで参ったときのことだが」


「はい、それはもう酷い有様で、今思っても胸が痛みます。それが何か?」


「儂が気付いた折、染殿に抱え起こされた……」


「あっ─はい………」


染、長襦袢一枚であったことを思い出し、その時の羞恥と戸惑いを思い出し、思わず双眸りょうめを伏せてしまった。


「やっすまぬ!まだあの折は儂わしも虚ろであった。ただひとつ気がかりなことが……」


「気がかり?─でございますの?」


やっと目線を戻し染、平蔵の顔を見やった。


「うむ、抱え起こされた折、そなたの姿が重なって視えた」


平蔵、染に抱き起こされた折、一瞬かすみ、、、の姿が重なった。その時、染の襟元が緩み、透き通るように真っ白な染の胸元の膨らみが平蔵の眸ひとみに飛び込んで来、ふくよかな胸の谷間に小さな双子黒子を幻の中に視たと思っていた。


「あのようなところに双子黒子がまさか?」


染の応えを覗き込むように平蔵確かめる。


「あれっ!恥ずかしい─。ご覧になられてしまいましたか……」


染、赤面し、袖で顔を覆い、耳朶みみたぶや頬までも朱に染め、羞恥の表情を見せ


「幼き頃縁日で生き別れた姉にも、これと同じ双子黒子がございましたの。双子でございましたし、顔立ちも似通っておりましたので、人様にもよく間違われていたと父上から聞かされておりました……うふふふ」


そう言うと染は、更に耳朶みみたぶを染めうつむいた。


窓辺の障子から柔らかな陽が差し込み、その逆光を背にした染に、幻の女を視たように平蔵は感じていた。


「なるほど──。然様であったか……」


「それが何か?」


怪訝そうな顔の染に、ふっと遠い思い出をまさぐるような目で平蔵、過ぐる日の京での思い出をかいつまんで語り聞かせた。


「もしかして──」


染、胸の前に手をやり、平蔵の思い巡らしているふうな顔を見る。


「うむ、儂わしも染どのに抱き起こされた折、その姿が重なって視え、これは夢なのかとな。只今その双子黒子の話を聞いてやはりそうではないかと……」


平蔵遠くを見つめる風に目を閉じ、瞼の裏に在りし日のかすみ、、、の面影を重ねている。


あの頃の面影の匂い立つ薫りが、ふっとそこに蘇る幻を見た。


(うむ──あの頃のままだ……)


平蔵の穏やかな表情を読み解くかのように染


「で、そのおかたを長谷川様は……」


少し濡れた双眸りょうめを伏せ気味に、顔を障子の方へ向ける。


「うむ─、初めて愛おしいと思ぅたおなごだ……」


平蔵、両手を膝の上に揃え、目を閉じたままぽつりとつぶやくように応える。


「まぁ──」


染、目を伏せたまま膝においた指先を見つめた。


「焼くかえ?」


「ええ…


それも狂おしいほど──」


「──」


平蔵には時が此処で止まったように想えていた。


ただ静けさだけがゆったりと過ぎてゆくそれへ身を任せ、時を呼び戻している風ですらあった。


 


数日後、再び平蔵の姿がこの桔梗屋に見られた。


「染どの、これを持っていてはくれぬか」


平蔵、一寸玉の血けっ赤せき珊瑚さんご簪かんざしを染に差し出した。


京より戻って以来、長らく中間の久助に預けておいた、亡きかすみ、、、の髪を飾っていたものである。


「これは──?もしかして……」

平蔵、目を閉じ小さく頷く。


「挿して下さいませ……」


染、身体をよじり、右手を平蔵の揃えた左の脚に置き、顔を左にひねる。


ふっと軽い鬢付け油の薫りが流れ、艶やかな濡れ羽色の染の髪がそこにあった。


(こうしてやることすらもなかった……)まだ浅い初夏、京の百花苑二階での思い出が、走馬灯のように平蔵の脳裏を駆け巡る。


「うち、かいらしおすか?」


恥じらいを秘めたかすみ、、、の幻を平蔵、そこに視ていた。


挿された簪にそっと手をやり、指先に何かを探るように


「似合いますでしょうか──」


「──あの頃が戻ったような思いが致す」


「うれしい……」


両手を膝に戻し染、目を閉じたその双眸りょうめから、はらはら、、、、と涙が頬を伝い、置かれた膝の手に幾筋も伝ってこぼれ落ちた。



外は寒空に身をすくめたふくら、、、雀、の啼なく声が、僅かに聞こえてくる昼下がりであった。

 京都六角堂 へそ石


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