鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 6月
「然様。昨夜そのように決め、儂がそなたに話すことも承知した」
「そんな馬鹿な事をあの人がするわけがありません!」
(やれやれ、やはり想ぅておったとおり、こやつ気が強いゆえ、案じてはおったがなぁ)
茂左衛門、少々呆れながらとくを見下ろし、不安げに傍に寄る昭五郎を見やる。
「行く先は案ずるな、同じ与力で我が竹馬の友御先手鉄炮(つつ)組十六番、小出政義じゃ」
安心するかと笑顔でとくの顔を見たが
「そのような事知りません、この子はこの家の跡取りだと旦那様は言われました。それが今になって他所(よそ)へ出ろとはあんまりではございませんか!」
「真にすまぬ。が、其処は聞き分けてくれぬか?」
「出来ません、私は絶対に聞けません!!」
語気も荒く、きっと厳しい眼差しを茂左衛門に向け、昭五郎を抱きすくめたのであった。
「よいな!確かに申し伝えたぞ!」
茂左衛門半ば呆れならもきつく申し渡し、その場を離れた。
中庭を周り奥座敷へと入りかけたその時、表の方できゃぁと言う悲鳴らしきものが聞こえてきた。
(何事だ!)茂左衛門、急ぎ足に声の聞こえた方へと進んでいった。
そこには与左衛門の妻女おりくが柱に寄りかかり、見れば耳の横辺りから血が流れている。
傍にはとくが、与左衛門の五歳になる次男彦四郎の首に両手をあてがい締め付けている光景がいきなり飛び込んできた。
「ななっ何をする!とく気でも違ぅたか!」
茂左衛門驚いて割って入ろうとするも、とく、ますます両手に力を込める様子。
「放せ!放さぬか!」
茂左衛門とくの肩を掴み引き剥がそうとするものの、一向に放すふうになく、既に彦四郎の顔面は蒼白になりつつある。
「己が!」
茂左衛門、怒りに震え、腰に残っていた脇差に手を掛け鯉口を切った。
とくの右肩を掴み、右脇腹から刺し貫いたからたまらない。
ぎゃぁっ!悲鳴を上げてとく、彦四郎の首から手を放し、背に回っている茂左衛門の手を払いのけようとあがく。
突き飛ばされて彦四郎がとくの足先へ転がるそれをバタバタと足掻(あが)き、蹴り飛ばす。
気が戻ったのか彦四郎大きな声を上げた。
(おお生きておったか!)安堵したのか茂左衛門、脇差を一気に引き抜き、傍へ寄る。
背に激しい気を感じ茂左衛門、彦四郎を抱きかかえて振り向いた其処には、憎悪の炎に燃えたぎった昭五郎の顔があった。
「何だその目は!」
茂左衛門、我を失い思わず叫んでしまった。
昭五郎、一言も発せず茂左衛門を凝視している。
「文句があるか昭五郎!貴様の母はこの幼(いたい)気(け)な彦四郎の首を絞め、殺害しようとしておったのを貴様も観たであろう!」
激しい剣幕で昭五郎を睨み返した。
それには応えず昭五郎、両拳を固く握り、歯を食いしばったまま身をブルブル震わせて仁王立ちに立っていた。
ようやく慌ただしい空気に気がついたのか与左衛門の妻女おりく、眼の前に展開する光景に、再びその場にひっくり返ってしまったのであった。
茂左衛門、ひとまずとくの亡骸を始末しなければならず、中間を呼び寄せ
「棺桶を一つ急ぎ用立ててまいれ」
と命じ、おりくを抱き起こし、抱えるようにその場を離れる。
彦四郎はその後ろを付いて来る。
半刻程後に、樫原家に棺桶が運び込まれ、中間の手でとくの亡骸は納められ、そのまま菩提寺である深川玄信寺に運ばせた。
この間昭五郎は何一つ動じる様子も見せず
(何と空恐ろしいほどに腹が座っているのか、何を想うておるのか)その冷ややかな眸(ひとみ)に一抹の恐れすら抱かされたのであった。
夕刻帰宅した与左衛門、事の顛末(てんまつ)を聞くに及び、返す言葉を見失っていた。
「で、昭五郎はいかが致しておりますので父上!」
「中間部屋に預けておる、しばし気が落ち着くまでは目も離せぬゆえになぁ」
「はぁ─ですが…」
言葉がない。
「済んだことだ与左!今更何を言ぅてもどうにもなるものでもあるまい!それよりこれから儂はお奉行へ報告に参る。そこ元に難儀は降りかかることもあるまいがな─。だが手を下したのは事実だ。そのことを申し上げておかねばならぬからなぁ」
茂左衛門、そう言うと奥座敷へ引き上げ、しばらく後正装に身を固め出ていった。
(これは大変なことになった!昭五郎の養子縁組の話もこれでご破算になるやも知れぬ。そうなれば昭五郎の身の振り方が問題だ)
おりくは彦四郎を片時も傍から離さず、未だ気が呆(ほう)けたように目もうつろである。
南町奉行依田和泉守政次、樫原茂左衛門の話を聞き一瞬態度が固くなったものの
「それもまた武士の習いかのぅ─やむをえまい。だがな!このままにはあいすまぬであろう?」
「ははっ!しからば身共はこのまま諸国へ旅にでかけます所存、後のことは何卒よしなにお願い申し上げます」
平身低頭し茂左衛門、依田和泉守政次の返事を待った。
「相(あい)理(わ)解(か)った、大目付へも然様お伝え致す故案ずるな。それより茂左衛門!昭五郎が事、如何致す所存だ?小出には何と申すつもりなのだな。いまさら無かったことにしてくれは先方(あちら)としても立つ瀬があるまい。さりとて黙って引き取るとも想えぬが」
「ははっ!其処の所が一番の悩み、やんごとなきとは申せ、身共が直に手を下しましたるは紛れもなき事実なれば、ここは嘘偽り無く包み隠さず話し、その後と言う事に」
「ほぅそれで片がつこうかのぅ─」
「いえ─それは恐らく飲めぬ話と言うことに」
「であろうよ、そこでじゃ、儂に話も通しておる事ゆえ、この話、進めるよう計らってはどうじゃ?」
「と、申されますとお奉行様を引き合いに出せとのことにござりましょうや?」
「うむ、然様に聞こえなんだか?」
「とんでもないことにございます。真そのように取り計らって宜しいのでござりますか?」
「そうせよと申しておる。これも行きががりじゃ、このままで皆が同じ屋根の下に暮らすはどうみても無理があろうぞ」
「はい、正にその所が」
「だからこの依田が養子の媒(なかだち)を楽しみに致しておると、小出に伝えておけばよかろう?」
「ははっ!真にもってかたじけのうござります。お奉行様のお言葉、樫原茂左衛門慎みて承(うけたまわ)りまする」
夕刻茂左衛門、屋敷に立ち戻り、町廻りより立ち戻った与左衛門に事の次第を話したのであった。
「それは真で父上!」
胸をなでおろす様子が見て取れるほど安堵の表情である。
「早速だがなぁ与左!今から儂は旅に出る。こいつはお奉行にも既に伝え、お許しも頂いておるゆえ、後のことはそなたに任せる。よろしく頼むぞ」
この後、小出政義は北町奉行依田和泉守の媒(なかだち)にて、樫原茂左衛門長子昭五郎との養子縁組も整い、ここに小出昭五郎が誕生したのである。
こうして樫原茂左衛門、江戸を出奔(しゅっぽん)し、その後の姿を江戸で観ることはなくなったのである。
PR