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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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「で、そのおかたは?」
「初めて愛おしいと思ぅたおなごだ……」
「まぁ……」
「焼くかえ?」
「ええ…、それも狂おしいほどに。
長谷川様、私はこの度のお供で心を決めました」
「ほう…、何と……」
「侘びであろうと」
「武野紹鴎であったかな」
「はい……」
「それも善かろう、儂も然様ありたい」
〈侘びといふこと葉は、故人にもいろいろと歌にも詠じけれども、
ちかくは正直に慎み深く、おごらぬさまを侘びと云ふ。
一年のうちにも十月こそ侘びなれ〉
その3年後の寛政5年(1793)紙専売を吉田藩の御用商人
法華津屋(ほけずや=三引・叶両家)の高月与右衛門・少右衛門が
藩に資金の融通を行うその見返りに、この紙専売権を独占した。
法華津屋は農民にも金の貸付を行い、彼らの漉いた紙を安く買い叩き、
代金返済に当てさせた。
農民が借入した櫨(はぜ)・楮(こうぞ)作付の資金は年賦償還で、
五カ年の返済猶予が設けられていたものの、その利息は高額で、
ほとんど農民の手元には戻ってこなかったという。
このために再び製品の抜け荷・密売を模索するも、
取り締まりの強化で阻止される。
吉田藩領内、上大野村嘉兵衛は、桁打ち(ちょんがり)と呼ばれる
浄瑠璃語り部に身をやつしながら、三年の時を費やし83ヶ村を
回って同志となる人々をまとめ、吉田藩宗家伊豫宇和島藩に
是房村善六と連名でその窮地を訴えた。
「本に皆様、聞いてもくんない 四国のうちにも かくれもござらぬ
宇和島御分地 吉田の騒動……」
吝薔(りんしょく=ちょむがり=浪曲のような語り部)の頭文である。
寛政4年(1792)2月9日夜、延川村"とぎが森"に集結していた荒野子村から
延川村までの農民が翌日13日宇和島城下八幡河原に集結、
その数83ケ村9600名に膨らんでいた。
この為に宇和島藩では伊藤五郎兵衛、代官二宮和右衛門を遣わし、
農民に仮小屋を提供するとともに、帰村する者には弁当料まで支給。
2月13日吉田家家老尾田隼人が出張り、農民と交渉するも決裂。
翌2月14日、農民の要求も考慮の上税制などの藩政改革を説いた
吉田藩末席家老安藤儀太夫継明は、三十七歳の妻女と十六歳の子息
富太郎と別れの杯を交わし、刀は常の物より良い物を持ち、白装束も用意し、
一揆の集結している宇和島城下八幡河原に出向き、
「昨年の嘆願が今日に及ぶも裁定なきは、やむを得ざる事情によるもの。
我、家老職に席を連ねながら事を執り行う事能(あた)わず、
この騒擾(そうじょう=騒動)を惹起(じゃっき=起す)
したるは悉(ことごと)く吾が不徳の致す所、
上下に対し一言も申訳なき次第なり。
汝等上(かみ)を恨む事なく即刻願書を差し出し裁断を得て家に帰り
農事に精励(せいれい)せよ」
と説得するも衆者納得せず。
「願いを聞いて取らすゆえ出てまいれ」
と安藤継明は集結している民衆に声をかけた。
そこへ罷(まかり)り出でたものが上大野村勇之進、
だがこの会見は民衆の罵声や怒声にかき消され民衆に届くことはなく、
この会見の後、安藤儀太夫継明、白無垢の小袖に手を通し、
挟箱(はさみばこ=若党が常々登城に担いでゆく箱)より取り出した
麻裃(あさかみしも)に着替え、挟箱を置かせ、それに腰掛け、
静かに煙草を四~五服吸い、裃を跳ね除け脇差しを鼻紙で巻き、
一気に腹を掻き切った。