時代小説鬼平犯科帳 2020/06/27 鬼平まかり通る 7月号 雀の森 「よく視ろ!下顎(したあご)の近くに何かないかもう一度よっく確かめろ!些細なことも見逃すではない」厳しい宣雄の声が飛んできた。(先程から視ているのに何をさらに改めろとは親父殿も……)思いつつ銕三郎、女の首筋を手指で持ち上げてみる。(あっ!─これは)親指大の斑紋が診て取れた。「ここに指の跡のような……でもなぜ」「良い良い、首の後を検分いたせ」もう宣雄には犯行の一部始終が読めている様子ですらある。銕三郎、女の体を抱え起こし、うなじを確かめる、そこへも指の痕と思しきどす黒い斑紋が残されていた。「確かに指痕と思しきものが」「やはり在ったか」宣雄は確信を持ったように言葉を吐いた。「父上!一体何が起きましたので?」これまでの一連の所業を顧みながら銕三郎、まだつながりが見えていない様子に「銕三郎、お前はこの腹の傷をどう見た?」探るような鋭い眸(ひとみ)で銕三郎を見やる。「傷?刀傷にございましょう?」「そうだ!だがこいつは傷口が開いておらぬ、故に締められて殺害されたる後に辻斬りと見せかけて腹を切り裂いたと見たほうが良かろう、こいつぁ勒死(ろくし・絞殺)だ」「何と……」銕三郎、父宣雄の見識の深さをまざまざと思い知らされたものであった。「爪を検(あらた)めてみろ」再び宣雄の言葉が続く。銕三郎、女の手を取り、よく観察する。「中指や小指に何かが残っております、これは?」「恐らく苦し紛れに引っ掻いたのであろうよ、殺った奴は恐らく顔か腕のあたりにその傷を受けておろう」「はぁ……そこまで」銕三郎ため息混じりに松三の方へ振り返る。松三ポカンと口を半開きに立ったまま、一連のやり取りに言葉も失っている様子である。宣雄、先ほどの指図で女の火処(ほど)を確かめた取り上げ者を再び呼び寄せ「ついでにだが、その孕(はら)みをどう見る?」と誘い水を向ける。「へぇ、先程お武家様がおっしゃられた通り、これぁ未通女(おぼこ)じゃぁございません、すでに孕んでおります、恐らく四月か五月あたりではと──」「やはりなぁ」「父上、それは一体どのようなことで」銕三郎、このやり取りが理解できない様子である。宣雄、深くため息をついた後、嫡男銕三郎に鋭い眼光を飛ばし口を開いた。「よいか銕三郎、検視と言うものは、三十一種の検死法定がある。それをまずは守らねば、場合によりては一大事となり、それが己自身に振りかかってこぬとも限らぬ。それゆえこれは徒(あだ)や疎(おろそ)かには出来ぬお定めじゃ」「三十一種も?」「そうだ、まずの大事は初見だ。殺害されたものかあるいは己自身で命を断ったものかも判らず、またそれを装ぅた仕業も入れておかねばならぬ。また相手が貴人等の場合も考えられるゆえ、まずは其の者の知人・関係の者など探さねばならぬ。おらぬ場合はひとまず辺りをよく観、抗(あらが)った痕や地面の様子も観ねばならぬ。置かれた様子は、まず抗ったかどうかを確かめる、それには周りをとくと検視するものだ。一人の仕業であるかもその辺りで判じれる。この者の場合、野犬共が荒らしておったにしろ、そいつぁ草の倒れようが違う。したがってお前も観た通りさほど多くの乱れはなかった」「確かにさようにございますね、草の倒れようは、私とこの松三の物以外、さほど多くはございませんでしたから」「うむ、この者は朝露に濡れておったゆえ着衣も湿り気を帯び、従い流れたる血も色を失ってはおらぬ。時が経てば通常は血餅となり変色しておるはず」「ははぁ──」銕三郎一言一言を噛みしめるように心に刻み込む。「風上に立つは邪気(じゃき)(毒薬など呼吸することで危害が及ぶと考えられる物)をまず防ぎし後、検視に当たる。これもまた衆人の見守る中で行わねばならぬ。間違ぅても己自身のみにて行うではない、後々冤罪を引き起こす元ともなるからだ」宣雄、出された茶を一口流し込み、再び続ける。「常に誰かを観察させる中で行うが大事の一つゆえ、呉々も忘れるでないぞ。次に全体を良く見守る。着衣の状態や身につけておる品々が尋常であるかどうかだな。 [0回]PR