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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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木屋町を流れる高瀬川
木屋町の旅人宿すずやの女中おしま、このところ気重なのか、いつもと違い
「おしまはんどないしたんぇ、こんとこ達者におへんなぁ」
女将の安ずるのも無理はない。
この月に入って青白い顔のままやって来るようになっていたからである。
「お女将はん、もしかしておしまはん、 やや子出来はったんやおへんか?」
「そないな事云うても─、あっ…けどなぁ、そやろか」
(これはこまった事になる。この働き手が使えなくなると、たちまちそのとばっちりが自分の方にふりかかる、それだけはかんべんして欲しい)そんな顔つきで
「おしまはん、あんたもしかして、やや子出来はったんとちがいますのんか」
探る眼つきに女将繁s義解とおしまの腹を眺めやる。。
「そないな事──」
と云ったものの、身に覚えのあること。ため息ももれようものだ。
「おしまはん、無理せんかてええんどすえ、少し休んでいよし」
女将はしまの顔をのぞき込み、不安げなしまの背をたたく。
夜五つ(午後七時)三条大橋を越えた仁王門通りにある若竹町の長屋に戻ったしま、中に九十郎の姿がないのを認め
「どこ行かはったんやろ」
小声でボソボソ云い乍ら表通りまで出てみた。
孫橋を戻り、大橋に向った所で九十郎が孫橋に向って歩いて来るのが見えた。
「九十郎はん─」
おしまは小走りに駆け寄り九十郎の後ろに従った。
「何だおしま気重な顔は」
少し気になったのかおしまの方へ振り向き足を止めた。
「うち出来たみたい─」
「?……何?」
「やや子が─」
「……」
「嬉しせゃあらへんね」
「……」
「うち授かりもんどすさかい、産もう思うてますのんや」
不安を打消す様にしま
「俺が親父になぁ─」
九十郎何かを含む様に口角を歪める。
「あんたはんに迷惑かける気ぃあらしまへんよってに」
愛しそうに帯の上から撫ぜるおしまの姿を一瞥して九十郎、つ と立つ。
「あれ、今からどこへおいやすのん」
おしまの声を背に聞きつつ九十郎戸口を開け出て行った。
その半刻後、戸が勢いよく開かれた。
観れば刀の柄に手を掛けた浪人態の者。部屋の中を伺い
「女!九十郎は何処だ」
周りに気を配りつつ眼で目的の者を捜している。
「どなたはんどすあんたはん」
おしまは気丈に間い返した。
目的の者がいないと見た男、踵を返し闇に消えて行った。
(何んやの!あんおかしな人は、それにしても九十郎はん一体何所行かはったんやろ)うつ向きかげんにため息。
入れ違いに九十郎戻って来、青ざめた顔を行灯の灯がゆらりと揺れて戸口に影を映す。
「たった今あんたはん捜してお侍はんが来ましたえ、どなたはんどすねん。えらい血相してはったわ」
おしまは刀に手をかけた様子におびえた眸で訴えた。
「何!侍だ!………。とうとうここも嗅ぎつけられたか・・・」
「何どす?」
蒼ざめるおしまの前に坐り
「おしま、俺も元は地下人西尾九十郎、だが無役のゆえに世をすね、いつの間にか人殺しの片棒を業としてしまった。
あるお方の指図で先に御役所の役人を切った。だが二人目をしくじり、このような体になってしまった─」
「御役所?まさか西町御役所?」
「うむ、確かそう聞いた──」
そう言った九十郎、いきなりおしまに突き放された。
「嘘や嘘や嘘やぁ───」
「おいおしま、いかが致した──」
左腕しか動かせず、その場に倒れた九十郎、やっと体勢を戻しつつおしまの急の変り身に戸惑いをかくせずに面喰っている。
「確かに西町御役所と…」
「おお言った」
「それはうちのお父はんや!」
「何だと!──」
「そんなんそんなん嫌やぁ」
おしまはとり乱し、戸を引き開き、暗い表へ駈け出して行った。
「おしま─、どこへ行く──。まさかまさかお前の父ごとは何たる事」
九十郎その場に膝をついて動く事も出来ず、おしまの駈け去った闇を凝視するのみ。
さわやかな夜風が、通りにそって鴨川から吹き上って来る。
九十郎、おしまを案じ孫橋近くまで出たものの、心の乱れを抑え切れないまま淡い月明りの下、つっ立っていた。
「西尾九十郎だな」
ふいに九十郎の後で人の気配がし、低く押し殺した声がした。
「誰だ俺の名を知っておるとは」
九十郎、薄明かりの中の声を確かめつつゆっくりと左手を刀の柄に懸けつつ振り返った。
「俺だ香山左門だよ。探したぜ、しくじったあと姿を眩ますとはのぉ…。あのお方の眼がある事を忘れるわけもあるまいに」
低く重たく押しかぶせる様な声が一歩前に踏み出る。
「左門!お前か─。俺はてっきり─」
「てっきり誰だと想った。ふん!多分な、そいつは外れてはおらぬよ」
「判っておる、だが今は待ってくれ!必ず次は仕留めるから、あのお方にそうお伝へしてはくれぬか」
九十郎、柄にかけた片手を前に懇願する様に小首を項垂れる。
「助けてはやれぬ、あのお方の命だ!」
九十郎、あわてて刀を抜こうにも、その腕は鞘半ばで伸び切っていた。
その胸には左門の繰り出す刀が深々と突き刺さっていたからである。
(ぶはっ!!)口から一気に血を吹き出し九十郎、堪らずその抜きかけた刀の柄を離し、己の胸に打込まれた剣を掴み堪える。
「しくじりは許されぬ、それはよく承知いたしておろう」
左門、そのまま欄干に九十郎の体を押しつけ、その腹に左足をかける。
「待ってくれ!俺には子が出来た、だからもう少しだけ待ってくれとあのお方に」
突き刺さった刃を左手に掴み、ドクドクと噴き出す血潮が下帯まで伝わり、脚元に流れる激痛を堪えながら九十郎、顔を歪めて懇願するも、
「そのような話しなら地獄で致せ」
背を貫いている刃をえぐる様に右にひねりながら胸から刃が引き抜かれ、一気に鮮血が吹き出し、九十郎はその場に崩れ落ちる。風は止めどもなく溢れ出る九十郎の血を舐めて生臭く辺りに漂う。
香山佐門、九十郎にとどめを刺し、それを確め{ビユッ}と刀に血振りをくれて鞘に納め、足音も立てず闇に消えた。
あれから一刻(二時間)を過ぎたであろうか──、ふらふらと幽霊のような足どりもおぼつかないおしまの姿が三条大橋から左に折れ、孫橋に進み、よろよろよろめきつつ仁王門前通りから若竹町の長屋にたどりついた。
家には明りもなく、ただ漆黒の冷えびえとした空気だけが待っていた。