時代小説鬼平犯科帳 2015/06/21 6月第3号 俺の生き方 江戸本所相撲 辰巳芸者 世は(与力の付け届け三千両)と言われるご時世。町の治安も乱れ、江戸詰方の目に余る行状に諸藩は町方で犯罪を直接取り締まる与力同心などにまいないを送るのはごく普通の事であった。事を穏便に図りたい、この内輪話しの姿勢は商人の間でも必然であり、役人とこれらの癒着は黙認されていた。本所深川一体は材木問屋が建ち並び、それを目当ての料理屋、居酒屋が雨後の筍のごとく増し増えていた時代である。南町奉行所本所町廻役与力黒田左内、本日もいつもの様に朝からのんびりとこの界隈を流していた。「喧嘩だ!喧嘩だ!!!」バタバタと人が駆け寄ってゆく、まぁいつもと変わらない見慣れた風景である。ここは本所二ツ目橋を南に渡ったところの弥勒寺門前、二十歳前の若者が数名の遊び人風体の男どもに取り囲まれ抜刀している。いずれも匕首を構えての真渡り、(こいつはいかん)左内は十手を懐から抜き出し「南町本所見回り与力黒田左内である、双方とも獲物を収めよ」と叫びながら駆け寄った。その姿を見て「クソォ!おぼえてやがれ!」罵声を残して遊び人風体の男どもは逃げ去った。「やれやれ また若様ですか・・・・・・喧嘩も程々になさりませ、母上様が嘆かれましょうぞ」とその若者を諌める。その若者は左内を見ながら吐き捨てるように「俺のことなどどうでもよいのだ!所詮俺は要らぬ子、何処で何をしようがお構いなしだ、こんな世の中面白おかしく生きるのがどうしていけねぇんだ!」と喧嘩仲裁でくすぶったままの気持ちを左内に投げつける。見れば何日も着替えをした形跡もないひどい有様である。「若様! 若様はご大身のお旗本、我らと違ぅてご身分がございます、それを軽んじてはなりませぬ」と諭す言葉にも耳を貸す様子すら無く「うるさいなぁ俺のことは放っといてくれ!お前には関係のないことだ!」顔は土埃に汚れ袖口はほころびかけ、まるで野獣のような荒々しい姿でその場に座り込む。「若様 人は皆それぞれ定めを持って生まれてまいります、若様には若様の為さねばならぬものがこの世にございます故、こうしておられるのでございますよ、それを見つけ出すために、人は歯を食いしばって日々を過ごしております。人は短い生涯をどのように生きたかではなく、生きた証を残すためにどう生きるかそれが最も大切なことでございますよ、日々喧嘩三昧に明け暮れてそれが見つかるとお想いでございましょうか?」黒田左内の言葉はこの若者の中に少なからず小さな明かりを灯したようである。若者の名は人呼んで入舟町の銕三郎 後の長谷川平蔵その人であった。深川北川町万徳院圓速寺を東に、前の坂田橋を渡り緑橋を越えて千鳥橋を過ぎ、北に進むと松永橋が見えてくる、それを西に曲がれば今川町仙臺堀の桔梗屋に着く、その(桔梗屋)・・・・・・「染ちゃん、又木曾やの旦那さんからご指名だよ」と女将の菊弥が手もみしながら愛想を浮かべる。「またでござんすか、嫌だねぇあんな嫌味な奴のお座敷なんか断っておくんなさいよ姐さん」と、染と呼ばれた黒い羽織を粋に羽織った娘が飲みかけのお茶を長火鉢の横に(タン!!)と置いて応えた。「そうも言ってられないんだよ、こっちも客商売なんだから、ね!嫌でも相手はお大臣様ってわけだからさぁ」どうやら懐にいくばくかの金を握らされているようである。「後生だからさぁねっ! 嫌だろうけどお願いだよ!、ほんのちょっとの間でいいからってことだからねっこの通り!」と両手をすりあわせて拝む。「はん! 蝿じゃぁあるまいし、両手合わせて弁天様でも拝むような顔しないでおくれね!こっちは気分がすぐれないんだよ!」伝法な口調はこの界隈の芸者の気質。何しろ吉原を相手取り江戸でも一番の岡場所がひしめく界隈であり、その相手は相撲取りから木場の木遣り職人、荷船船頭、江戸市中から流れこんできた逸れ者、半助なぞの博徒なぞあらゆる階層の者が集まり徘徊する南本所一体、荒っぽいのが当たり前である。口より先に手が出るほど喧嘩っ早いがからりとした男伊達が売り物である。役人の目をかすめるために男勝りな名前を使い、羽織を掛けてのいでたちは辰巳芸者と呼ばれるほど異種な存在であった。この(染千代)桔梗屋では一番の稼ぎ頭、女将の菊弥も一目置いている存在である。「ちょいとだけでござんすよ!」と染千代は渋々二階へ上がっていった。「お待たせいたしました・・・・・」眉一つうごかさず客の顔をじっと見据ええてのあいさつ「おう 染千代 よく来ておくれだねぇ!ささっ まあまあこっちに座ってまずは注いでおくれ!」派手な形(なり)で成金お大尽丸見えの材木商木曾やが待ち構えていた。染千代は木曾やの左側に座り、扇子を胸元に納め徳利を捧げた。「なぁ染千代 この前からの話し、考えておくれだろうね、悪いようにはしないから、ねっ どうだい?」蛇のような冷ややかな目つきで眼を少し流すように染千代を見た。「旦那!この前のお話ならきっぱりお断りいたしました通り、私には囲い者になんぞなる気は一切ござんせん」徳利を膳の上に置いて、木曾やの顔を睨み返した。「おまえさんそんな心得方でこの界隈を生きて行けると思っているのかい?」と木曾や「今度は脅しでござんすか!そんな脅しでなびかせようなんて、ははん!男を下げちまいましたねぇ木曾やの旦那、この深川芸者の度胸をご存じないとは所詮が田舎者、粋な遊びの一つも覚えて出直すんだねぇ」と小気味のいい啖呵を切った。「なななっ 何だと!甘い顔を見せりゃぁつけあがりおって、わしをなんだと思っているんだ」「はん!ただの色ぼけ爺ぃじゃござんせんので?」「おのれ、たかが芸者風情がなめたことを言いおって!此処でわしの顔を潰せばどうなるか判っているのか、明日からここら辺りじゃぁ生きて行けないことになるんだぞ」「おや?さようでござんすか、ならやってみてもらおうじゃぁござんせんか!」「お、おっ染千代!!」木曾やはよろよろ立ち上がり、染千代を後ろから羽交い締めにして染千代の胸元に手を挿し込もうと伸ばした。「何しやがんでぇこの唐変木!」染千代の右手が珊瑚玉の一本かんざしに掛かった。「ぎゃぁ」と木曾やが悲鳴を上げて手を染千代の胸元から引きぬいた、その右手から真っ赤な血がぷっと吹き出した。「誰か来ておくれ!染千代が私を殺そうとかんざしで・・・・・・!!!」染千代が急いで階段を駆け下りたところへ若い衆がずっと詰め寄った。いずれも木曾やの用心棒である。「どいとくれ!女を手篭めにしようなんて魂胆が許せないんだよ!」染千代の気迫に一瞬たじろいたすきを突いて、だっ!と外へ飛び出した。「あいつを逃すんじゃァ無いよ!」右腕を手ぬぐいで抑えながらよろけつつ木曾やが下りてきた。「だだだ、旦那ぁ!どうぞご勘弁を!」とすがる女将を蹴たおして「覚えておいで!明日から商いが出来ないようにしてやるからね」と口汚く罵りながら出て行った。この日平蔵は登城後昼を過ぎて清水御門前の火付盗賊改方役宅を出た。「本日は本所に戻ろうと思う故、何かあらば本所の方へつないでくれ」筆頭与力佐嶋忠介にそう言づてて表門から出かけた。見廻るその前に南町奉行所に顔を出し、父宣雄が京都西町奉行職に就いたため供をして京にいた頃知り合った池田筑前守長恵に目通りし、しばしの時を費やした。それからゆらゆらと鍛冶橋御門を出て、炭町から弾正橋を渡り本八丁堀を突ききって高橋を渡った。東湊町を広大な松平越前守下屋敷を右に眺めながら、長埼町から銀町へ、二ノ橋を渡り南新堀に出る。豊海橋を越えて高尾稲荷前の大川をまたぐ永代橋を越えて渡りきったところが佐賀町、右手には御船手組の御船蔵が見える。これを左に取り、中の橋を北に進めば仙臺堀に架かる上ノ橋、その先の御船蔵を左に取るとそこは万年橋・・・・・・いつも平蔵が通る道の一つであり、この小名木川北詰を東に取れば高橋・新高橋を越したところに扇橋があり、それを南に下れば石島町、平蔵の密偵小房の粂八が守る船宿”鶴や”があり、小名木川を北にとって万年橋を渡り東へ取り俳人松尾芭蕉が(古池や・・・・)と詠んだとも言われている芭蕉ゆかりの紀伊徳川家下屋敷裏を北に上がり猿子橋・中ノ橋・北の橋・を横目に六間堀を進み、山城橋・松井橋に突き当たったところが竪川、松井橋を東に折れ、松井町二丁目に架かる二ツ目橋を越えるとそのたもとに言わずと知れた軍鶏鍋や五鉄が待ち構えているわけだ。幼少の頃より駆けまわった、いわば平蔵にとっては目をつむっても行ける地域で、多忙を極める平蔵にとってしばらくぶりの本所深川である。時は大川が夕闇を少しづつ飲み始める頃となっていた。永代橋を渡って千鳥橋を渡り仙臺堀に歩を進めていた時、松永橋の方から駆け出して来た女とぶつかりそうになった。「おっと!」平蔵は素早く横っ飛びに避けて女をかわした。みれば芸者の姿であるが、裾を左片手に持ち上げ、素足のままである。そのうしろから「野郎あそこを逃げていやぁがる」大声で叫びながら見るからに遊び人風の男どもが尻からげで追ってきた。「おい待て待て!」平蔵は女を左手で背に回し、右手は刀の柄に掛けて男どもを制した。「旦那ぁそいつをこっちにお渡しくだせえやし」中でも少し格上と思える男がいんぎんに口を出した。「おう これかえ?」平蔵はチラと後ろを見るように眼を流しながら、あくまで阻止するふうに腰を落とし、「話によっちゃぁ渡さぬでもないが・・・・・・のう女!」「旦那ぁ・・・・・そんな!」女は平蔵の背に右手をかけて少し力を入れた。「おう 旦那此処は深川だぜ、野暮は言いっこなしでおとなしくそのアマ、こっちに渡したほうがお為ってもんですぜ」ドスを聞かせて格上と見える男が一足歩を進めた。「まぁ待て待て わけも聞かずハイ左様でと差し出すにゃぁちょいと惜しい美形、のう」と女を振り返りつつ 「理由を言えねぇのかえ?ええっ!」と平蔵も伝法な口調で亙(わた)った。すると、中の一人が「そのあま よりによって材木問屋の寄り合い頭にかんざしで傷を負わせて逃げやがったふてぇ奴、御託を並べずこっちに渡してもらおうかい、それとも何かい・・・・・・」と片足を引いて懐に手を差し入れる。「ほほう それとも何か?こっちで盗ろぅてぇ話かえ?」じっと相手の動きを制しながら平蔵粟田口国綱の鯉口をプツリと切った。「二本差しが怖くっちゃぁ鰻も食えねぇ!野郎やっちまえ!」一斉に匕首を構えバラバラバラと左右に散り、二人を取り囲むようにジリジリその輪を狭めてくる。平蔵、ゆっくりと女をかばいながら背に掘割を見据えて一歩二歩と下がった。退路を断った形に、女は怯えたように平蔵の背中に寄り添う。「少し離れておれ、その柳の陰に居ればでぇ丈夫だ」平蔵、女をゆっくりと離しながら正面と左右に男どもを誘った。これで最早退路はないものの、背後から襲撃されることだけは避けられる。つまり女に災いが降りかかることだけは避けられたのである。左横手に回った男が平蔵の脇を目指して匕首で一気に突きに入った。体を間髪反らせて切っ先を泳がせ、男の足をすくったからたまらない、そのまま目の前の掘割に飛沫を上げて飛び込んだ。「クソなめたまねしゃがって!!」今度は右から脇を固めた姿勢で打って出た平蔵は腰だめにためた柄をつきだした。「ぐえっ!」悲鳴を上げて腹を抑え、その場に崩れ落ちた。「ややややっ野郎!」今度は一気に三人が匕首を構えて直して突き進んできた。「懲りねぇ野郎どもだなぁ」平蔵は粟田口国綱を鞘ごと抜き出しパパパッと叩き伏せ二名はそのまま掘割に叩きこまれてしまった。最後まで残っていた影がずいと前に出た。(侍ぇ崩れだな、だがこいつは少しばかり出来る)平蔵は女に「下がっておれ」と促してゆっくりと刀を腰に手挟みながら目で牽制しつつ一歩前に踏み出した。その動きを見切ったように浪人は抜き打ちにすさまじい気迫で胸板めがけて突き出した。ビィ~ンと刀のぶつかる音とともに平蔵の半分抜きかけたしのぎに火花が散り、鋼の焦げる匂いがする。(しのぎとは刀の肉厚の部分で、鎬(しのぎ)を削るとはこの部分が磨り減るほど激しく争うという意味である)平蔵は素早く刀を相手の鍔先に逃し、滑らすように刃を振り抜きざま返す刀で切り下げた。(ぎゃっ)と悲鳴を上げながら男が右肩口を抑えた。その腕にはもう剣はなかった、仄かな明かりに照らされた川縁に鈍く光を放って刀を握った腕が転がり、血にまみれていた。「おい 早く手当をせねば命取りになるやも知れぬぞ!」と川から這い上がった濡れネズミに声を飛ばした。「この礼は必ずやするぞ」男は手ぬぐいを押し当てて、呻きながらその場を去ってゆく。「危ういところを・・・・」と頭を下げる女に「ところでお前ぇ一体何があった?」と尋ねた。「どうってことはありませんのさ、女一人をものにするのに脅しすかしで出来ると踏まれちゃぁ深川芸者の恥ってもんでござんすよ」と、言い放った。「気の強いおなごだのう、したが・・・とにかくその形ではどうにも格好がつかぬ、籠を拾って・・・・・おい誰か籠を拾ってくれぬか!」と、そばの店先に声をかける。しばらくして町籠がやってきた。「まだ奴らが見張っているやも知れぬ、どこまで帰ぇるんだい?近くまででも見張ってやろう、おっと 送り狼なんてぇんじゃァねえから安心しなあははははは」平蔵は遠くでこの光景を見張っている男たちの眼を感じ、そう聞こえよがしにかけた。ゆらゆらと籠は南に下った深川北川町万徳院圓速寺そばで止まった。「今夜はでぇ丈夫だと思うぜ、明日から難儀だがなぁ」平蔵はそう言って裾を返そうとした。「あのぉお名前だけでも・・・」と、しおらしい口調が追いかけてきた。「おれかい?ただのやさ浪人だよ、気にするこたぁねぇ、戸締まりだけはきっちりやっておけよ」と踵を返して菊川町の方へ歩みを進めた。両手を合わす染千代の忍び香(誰が袖)の気配が闇の中に静かについてきた。その翌日平蔵は昨夜のことが少々気がかりで、朝餉を済ませると「ちょいと出かける」と妻女の久栄に市中見廻りの支度をさせて表門から出かけた。(いやどうにも心配なことだ、奴らがあのまま済ますわけはねぇ、収めるところへ収めねばまたけが人が出るやも知れぬ)そんな思いを巡らせながら、昨夜送り届けた深川北川町万徳院圓速寺に向かった。伊予橋を渡り北ノ橋を越えて万年橋を過ぎ、大川の穏やかな流れを右に見ながら更に下がって仙臺堀に架かる上ノ橋をまたいで東に取り、今川町にある料理屋桔梗屋を覗く。店は昨夜の事件を忘れたかのように静かに戸締まりの中人の気配すらしない。(うむ まだ店は開いてはおらぬか・・・・・・)平蔵はそのまま仙臺堀を川沿いに進み、松永橋のたもとを南に折れて豊島橋を越えて千鳥橋を渡った。その東側に油堀をまたぐ緑橋が架かっている。往来する川船の慌ただしく行き来しているのを平蔵は眺めながら南下して坂田橋を越えた。油堀に沿って進むと、万徳院圓速寺の大屋根が見えてきた。その中ほどに目指す家がある。ささやかな開き戸を開けるといきなり目の前に何者かが飛び出してぶつかりそうになった。「おっと!」叫ぶと同時に右に身を捩って衝突をかわした。「あっこれは失礼を」「いや こちらこそ急に開けてすまなんだ」と互いに会釈をして顔を上げ「あっ 昨夜の・・・・」「おう変わりがのうてよかった」それにしても・・・」と平蔵「それにしても?」「いや何・・・・ははははは」平蔵は頭を掻き掻きバツの悪そうな顔で素顔の女を見た。「今日は出かけませんのでこんななりで」と化粧っけのないハツラツとした笑顔がそこにあった。「まぁお茶でも差し上げたいと存じますが、よろしいので?」と前掛けを外しながら振り返った笑顔の口元から笑みがこぼれていた。「父上! こちらの御方が昨夜私の危ういところをお助けくださったお武家様でございますよ」と奥に声をかけた。(やはり武家の出の者であったか)平蔵は少し得心がいった風に歩を進めた。縁側に腰を下ろし咲き誇るささやかな庭の花々に目を細めていると、「このような姿でご無礼仕る」そう断って質素な風体の七十前と見受けられる老人がゆっくりと出てきた。「これは・・・・・」言葉に詰まった平蔵の顔を見ながら「いやいやお気遣いなく、もう四年になりますかなぁ、無理がたたったのか、身体があまり良くなく、長いお役を退いてこうして長屋住まいをすることになりました。糊口(ここう=おかゆ、つまりほそぼそとした質素な暮らしぶりの意)をしのぐとは申せ、昨今の町で中々おなごの仕事はございませぬ。それでやむなく勧めもあって、昔習い覚えた芸事が役に立とうかと苦海に身を落とさせてしもうたわけでございます、誠に持ってお恥ずかしい・・・・・」とその家の主は平蔵の突然の訪問を快く出迎えた。「何を申されます事やら、身共とていつ何時そのような境涯が訪れるやも知れませぬ。生きてゆくとは真二つの道を日々選びながら過ごしておるように思いまする。身共はこの界隈が懐かしゅうて時折見回るのでござりますよ」平蔵塀越しに圓速寺の桜のあでやかな姿が大屋根を背にほころんでいるのを眺めている。圓速寺には”め組の喧嘩”で知られる相撲取り四ツ車大八の墓がある、またこの頃は江戸市中から運び込まれる膨大なごみや糞尿の捨場であったために積もり積もったこれらが腐葉土となり肥沃な土地が形成されていた。その寛文年間(1661~1672)に篤農家(とくのうか=熱心な研究家)が油紙を継ぎ合わせて野菜の苗の上を覆えば成長が早まり、落ち葉やゴミの上に土を置いて種を蒔くと芽が早く出ることを発見、この野菜の促成栽培法を工夫し普及させた松本久四郎の墓がある。それに陸奥弘前藩家中千葉源左衛門の子で江戸市村座で長唄の立を務めたお座敷風長唄の荻江節創始者荻江露友(ろゆう)の墓も残っている由緒ある寺である。「見まわるとおっしゃいますと?」奥から出てきて茶を勧めながら染が口を挟んだ。「おおこれは失礼をいたした、まだ名乗っておらなんだ許されよ、身共は長谷川平蔵、いやぁ昔この界隈はわしの庭でござってのう、特に南本所入江町辺りは懐かしくもあり悲しくもある特別な所でござるよ」と苦笑いをする平蔵に、それを聞いた老人が身を乗り出して・・・・・・「もし・・・もし間違いとあらばお許しを・・・・・もしや幼少を銕三郎さまとは申しませなんだか?」と眼が一瞬輝いた。「おっ 何故それを・・・・・確かに身共は二十歳前はその名前でござった。だがそれをどうしてそこ元が」と、今度は平蔵が驚いた。「これお染、そなたが子供の頃よくわしが話していたであろう、入江町の暴れん坊・・・・」「はい よく覚えております、あのお方がおいでにならなくなって入江町も静かになったが寂しい町になったとよくこぼしておられましたので」「そのお方よ、長谷川の若様銕三郎さまだよ、ほんに夢の様でござりますなぁ若様!」「おいおい ちょっと待ってくれよ、先ず若様だけはやめてくれ、おれも見ての通りこの歳だ、で そこ元は?」「お忘れになられるのも無理はございますまい、幾度かお目にかかっただけのことでございますから、あの頃私は南町奉行所深川町廻り役与力を勤めておりました」「なんと!あの時の・・・・・・忘れはしておらぬ、ふむもう二十年にもなるかなぁ、あの頃のわしは、はぐれ鳥のように身も心もすさみ枯れ切っており、本所の銕、入江町の銕っつあんと二つ名で呼ばれ、無頼の限りを尽くしておりもうした。その頃そなたの父上がこの我が身を諌めてくれもうしたのだよ。その言葉は今も忘れることはござらぬ、いやあの時の諌めがなくば今のわしはおらなんだであろう、これこの通り、改めて礼を申しますぞ」平蔵は深々と頭を垂れた。「長谷川様もったいない!私も当時は商人や大名の抱え込みが嫌で嫌で幾度与力のお役から逃がれようかと迷うたことか、商人や諸藩上屋敷からの付け届けを懐に何事も見て見ぬふりをする同輩が情けなくて情けなくて、ですが、せめて私だけでもまっとうにありたいと思う気持ちでこの深川を廻りました。そのような中で長谷川様と出遇うたのでございますよ、その清々しい顔に苦しみの影を見た時、何と哀しい眸(ひとみ)をなさっておいでだと想ったのでお声をおかけしたのでございます、それが今や火付盗賊改方の長官にまで、こんなに嬉しいことはござりません、のうお染」左内は溢れてくる涙を袖で拭いながら我が子の事のように喜びを表してくれる。「はい このように輝いた父を久しく見たことがございませんでした、長谷川様時折はこの家にもおみ足をお運び下さいませ、どんなに父が元気を取戻しますことやら、ねえぇ父上!さようにございませぬか?」と、染は目をキラキラ輝かせ、居住まいを正している父親を見やった。「いや身共も何と申すか亡き親父殿に会ぅたような心地でござる、ぜひ又寄せていただこう」平蔵、軽く受けながら「ところで昨夜の事じゃが」と、話を昨日の事件に振り向けた。「はい 木曾やの件でございますね。」「うむ、あ奴の用心棒の片腕も頂いてしもうたゆえ、何かうごめくやも知れぬ、この所しばらくはすまぬがこの家(や)からあまり出ぬように、奴らはこの家を存じてはおるまいのう?」「はい 家までは誰にも教えてはおりませぬので」「あい判った!その方は身共に任せていただきたい、片がつくまでの辛抱じゃ、その間父御殿の看病をな!頼みおきますぞ」そう言って平蔵は見回りに出かけていった。深川仙台堀の桔梗屋に顔を出し、「染千代のことで何かあらば火付盗賊改方長谷川平蔵が仲を取る故、いつでも出かけてまいれ」と伝言した。その翌日清水御門前の役宅に北町奉行所の与力が訪ねてきた。「こちらにお預かりの深川蔦屋内染千代の身柄をお引き渡し願いたい」という申し出でございますが、いかが取り計らいましょうか?」と筆頭同心酒井祐助が取り次いできた。平蔵自ら玄関前に出張り「ほう そのわけは何でござろう?」と、平蔵立ったまま問い返した。「木曾や殺害未遂の容疑でござる」四十過ぎと思えるその男は朱房の十手を献上帯にたばさんだ八丁堀伊達の強面であった。「うむ その件ならば確かに身共が関わってござる、で、木曾やの傷はいかがかな?すでに痛くも痒くもござるまい、ならばこうお伝え願いたい、火付盗賊改方長谷川平蔵の命を狙った男の右腕を切り落としたのはこの長谷川平蔵、そのわしの命を狙わせたのは何処のものか存ぜぬが、こたびはこちらからそこ元の上司にこの件につきお尋ねいたしたく、近々推参つかまつるがそれでよろしいか?」と、きっと睨んで返答を待った。「ははっ!! その儀はそのぉお奉行には関わりなく、与力係にて・・・・・」「馬鹿者!帰ぇって木曽やに伝えよ、何かあらばこの長谷川平蔵がいつでも出張るとな!」平蔵のすさまじい剣幕にたじろいて「ははっ!!恐れ入りました」と、ほうほうの体で退散した。こうして事件は一件落着。染千代は今まで通り桔梗屋の看板を背負って、深川辰巳芸者の気風を背中に今日も生きのいい啖呵を吐いている。木曾やは袖にされた腹いせに染千代を襲わせたことが知れてしまい、この界隈に姿を見せることはなかった。無論密かに平蔵が流した流言(うわさ)話であろう。それからちょくちょくと平蔵の姿をこの深川圓速寺界隈に見られるようになった。その日は朝から明るく華やいだ声が一日中聞こえていたという。「おられるかな?そこで出会ぅた棒手振(ぼてふ)りがコヤツを持っておった故、下(さげ)て参った」平蔵が何やら竹籠をお染に差し出した。頃は初夏の爽やかな川風がたもとを掬う六月「まぁきれいな鮎」「ウム早速骨酒でこう!1杯・・・・」と、盃を空ける仕草を見せる。「まぁ長谷川様ときたら、いつもお酒がついて回りますのね」と楽しそうにお染が微笑んだ。「春ともなればカジカの骨酒が最も珍味、じっくりと遠火にて焼き上げ、熱燗で蒸らして・・・・・いかんいかん思い出してしもうた、あははははは。鮎はな!こうワタとウロを取り除き、塩少々を振り、こんがりと焼く、大きめの器に鮎を入れ熱燗の酒を二合ほど入れてしばらく置く、さすれば何ともこの薫りのよき、まさに香魚と呼ばれるように得も言われぬ薫りがするのじゃ」もう平蔵がその光景を目のあたりに見るが如き顔つきに、お染は思わず「うふふふふっ」と笑った。「可笑しいかえ?」平蔵は真顔でお染の顔を見る。「この鮎は年魚と申してな、一年でその生涯を終えるところからさよう呼ばれるそうじゃ。己が一代にてすべてのことを成就致す、いやそこにまた新たな価値を見出だすのであろう。我が身を振り返る時左様に終えることができようかとな、あはははは。おうおう 親爺どのには骨酒があるがそなたには鮎雑炊も良かろうと思うてな・・・・・こいつには頭、ワタ、ウロコをのけて洗い、三枚におろし、身と骨にかるく塩少々を振りかけて焼くのじゃ、土鍋に鰹の出汁をとり、焼いた背骨を入れて少々煮出さば、骨を取り出し、洗ぅて水気を切った飯を入れて再び煮る。煮立ったらば鮎の身を乗せ溶き卵を回し入れて蓋をいたし、火を止め、ちゅうちゅうタコかいなぁと六っぺん数えて蒸らすそうな。むふふふふ どうじゃ美味そうではないか!これにな 紫芽(むらめ・赤しその双葉)や三つ葉を飾れば出来上がり!いかがかな?我らはこっちの方・・・」と 盃を空ける真似をして、「そなたはこの鮎雑炊・・・・・」「あら 私は骨酒を頂けないのでございますか?それは片手落ちと言うものでございますよ、私とて武家の娘、酒々のいただき方も心得てございますのに、仲間はずれはひどうございますよねぇ父上」と少々おかんむりの様子に、「いやこいつばかりはのう親父殿・・・」と助け舟を出すが、「あっ おなごに飲ますにはもったいないと・・・・・」「うっ 左様なことではござらぬが、いや困った!」「あれ 何がお困りで・・・・・・」「ふ~む 親父殿お染どのは酒々は強うござるか?」再び左内に救いの手を求めたものの「もしや長谷川様はこのわたくしがうわばみかと・・・・・まっ!それはあんまりな、父上の仕込みもございまして少々は嗜みますが・・・・・」染は口を一文字に結んで平蔵を見返す。「うむ あれば一升でも二升でも嗜むとか・・・・・」わはははは「ひどいことを!もう知りません」と染は大むくれである。そんな二人のやりとりを左内は団扇をゆらゆら揺らせながら目を細めて眺めている。このような事があった後、染千代に幾度も見受けの話が持ち上がったものの「私の心を動かせるほどのお人はただ一人、そればっかりはまっぴら御免をこうむります!」ときっぱり断るので、やがてそのような話は立たなくなったと言う。後に染千代は桔梗屋を始めとする界隈の芸子に習い事を教える事を生業にするようになり、平蔵の元へもたらされる華やぎ界などの動きが、幾度も事件解決の糸口につながったと言われている、その陰に染千代の働きがあったことは言うまでもあるまい。お染の父親左内が七十を1つ2つ超えて天寿を全うしたおり、あたり構わず号泣したのは平蔵であった。無頼の平蔵を温かく見守り育んでくれた亡父長谷川宣雄の姿を重ねていたに相違いあるまい。「人は何かを目的に生きてゆく、それを見つける為に人は生きている、どう生きたかではなく、どう生きるか!そこが何よりの大事」左内の言葉は平蔵終生忘れない垂訓であった。文化十四年十一月亀戸天神に木喰上人によって太鼓橋が落成、その時橋の形に結ぶ帯を時の歌舞伎役者瀬川菊之丞が流行らせていたものをさらに発展させた形に考案して、深川芸者が揃ってこれを締め、渡り初めをした事から始まった帯の形お太鼓結び、これを工夫したのがこの染千代であったとか。 [0回]PR