時代小説鬼平犯科帳 2015/06/27 6月第4号 ゆうれい坂始末記 この数日平蔵は後を追う微行のかすかな匂いを引きずりながら市中見回りに出かけている。目白の私邸に預けた崎森小四郎のその後を気遣い訪れた後、ゆるりゆるりと蓮光寺を抜け、ゆっくりと駒塚橋に向かって、うっそうと生い茂る本多丹下家と山名鏘之助家の森に挟まれた幽霊坂を下リ始めた。黒田五左エ門屋敷から少し曲がりを見せ始めた時屋敷の塀脇の草叢から一気に殺気が背にかぶさるように降りかかった。両脇を同時に攻められ平蔵たまらずよろけた拍子に鼻緒がぷっつり切れた。思わずのめりそうになったことが幸いして、初太刀をかろうじてかわすことが出来た。いくら一刀流免許皆伝の平蔵とて一度に両脇を貫かれては避けようもない。流れた二人が太刀筋を整える間に更に二人が背後から太刀風を浴びせてきたからもうどうにもこらえきれず平蔵一転して、太刀筋道を避け、起き上がりざま抜き胴を払った。げっ!と重い声がして脚を切り裂かれた男がその場に倒れこんだ。一瞬のたじろぎを見せた隙に平蔵、体制を整えて「貴様らこのおれが長谷川平蔵と知っての狼藉だな!」と一喝した。相手の浪人者共は無言のまま更に間合いを詰めてくる。「むぅ やむをえん手心は加えぬぞ!」そう叫ぶと同時にもう片方の雪駄を脱ぎ捨てると見せかけて、いきなり正面の男目指して蹴り上げた。土埃とともに砂が顔にかかり、思わずたじろいたところを懐に飛び込んで、正眼から真一文字に抜き払った。胴を払われて脇腹から一気に血が吹き出した。「まだやるかえ!」平蔵の気迫に恐れたのか、仲間を気遣ったのか、ほうほうの体で幽霊坂を転がるように逃げてゆく。平蔵は泰然とした面持ちで懐の手ぬぐいを取り出し、これを引き裂いて鼻緒をすげ替えた。(一体ぇ何者であろうか?清水御門の役宅からこの数日付かず離れずつきまとうこの一団の正体が見えないだけに、平蔵の心中も穏やかではすまされない。牛込水道町を抜け築地片町、門前町を左に折れて神楽坂を通って牛込御門を抜け、九段坂を越えて清水御門役宅前にたどり着いた。それから十日あまりの後、平蔵の姿は深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内宅に見えた。「あっ 長谷川様」中からたすき姿のお染が出迎えた。「お染どのはあいも変わらず美しいのう」出迎える染を眩しそうに平蔵「親父殿本日はうの字のつく日によってこいつを持参いたした。暑気払いもあり、また精がつくと申す故、のうお染どの・・・・・」「長谷川様いつもありがとうございます、まぁこれはうなぎではございませぬか 父上!」「これは又お気遣いをかたじけない」「いや何、ちょいと冷めちまったので申し訳ござらぬが、なぁに少しばかり浸け焼き致さばあたたまるそうで、ホレこの通りタレも都合致して参ったあはははは」平蔵は屈託なく笑い声を上げた。なんとここは気配りをしなくても良い心の安らぎをしみじみと感じる居場所だと平蔵はおもう。「この ウナギはな、上方では腹開きにいたすが、江戸では腹切りともうして意味嫌ぅて背開きに致すそうな」「なるほどなぁ 左様な経緯もござるか」左内は平蔵の見識の深さを改めて思っている。「お染めどの、これはな、食べよいように串を打ち、蒸銅壺(むしどうご)に並べて蒸し上げ脂を抜いて柔らかくしたものを今度はタレをつけて焼き上げる、いや中々に手の込んだもので、その分これ又酒が旨い!のう親父殿」「あら またそのほうにお話が・・・・・・」おっとっと こいつは禁句でござったなぁわははははは」「まっ! 存じません!」「ほれほれ又怒らせてしもうた、やれやれ何とかと小人はムニャムニャと申しますからのう」「おなごで悪うございましたね!」「やっ いかん!火に油を注いだようで、おおっ!染どのウナギがウナギが火事でござる」「あれっ これは大変せっかくのウナギでございますもの、そうは問屋がおろしませぬ」と素早く鰻を外し無事炙り直しができた。その間にも、平蔵「ついでにな、しじみの砂出しした物を分けてもろうた。しじみは何と申しても近江の琵琶湖産のセタシジミが旨い、だが中々手に入らぬ、ついでヤマトシジミこいつは海と川のまじりおうたところが一番、薄塩にて一時ほど吐かせた後、水からこうして昆布の出し汁の中で煮立てるとよいそうな。アクをすくい取りながら煮立てば味見をし、白味噌を加えながらほどの加減を探さばよろしかろう・・・・・うんうん!この程度が上でござろう。仕上げは小葱をトントントンと小刻みに刻み、椀に注ぎ、それに三つ葉か山椒の実を砕きたものか葉を細く切り椀に飾れば・・・・・・おう出来たではござらぬか!やぁこれは又美味そうでござるよ親父殿何しろ染どの手造りでござるからのう」平蔵は渋扇をゆらゆら揺らせながら、左内が紅潮した顔でしじみ汁をすすりこむのを嬉しそうに眺めている。「うっ旨い!」左内は顔をほころばせて更に汁をすすった。「この鰻も中々でござるよ!酒々もすすんで元気が出ますぞ!」「所で染どの、その後の桔梗屋はどのような具合かのう?」と小声で尋ねた。少し耳が遠くなった左内にはこの話は聞こえてはいない風で、酒を飲み、箸を膳に預けてはジジミ汁に舌鼓をうっている。「何でも木曾やが裏で動いているらしく、お上の手ではらちがあかないために無頼の者を雇って何かを目論んでいるような話が寄り合衆の話の端々に・・・・・・」「やはりそうであったか」平蔵は先日の目白の幽霊坂で刺客に襲われたのは、もしやと感が働いていた。「まぁ恐ろしい!もし長谷川様に何かあらば私は・・・・・・」「案ずるな染どの、過日は予期せぬ襲撃に後れを取ったが、相手が判明致さばこちらも用心ができようというもの、案ずるには及ばぬ、案ずるには・・・・・」こうして十日ほどが過ぎた。(そろそろ傷も治っていよう、動き出すなら今からであろう)平蔵、このことを読んで清水御門役宅から出かけるときは表門から塗笠を下げて一人で出かける。やはりわずかに歩いたばかりで塀の影からじっとりと粘りのある気配が付いてくる。そのわずか後ろをこれ又小野派一刀流の使い手、「わしとてまともにやりおうたら勝ち目がないかも知れぬ」とまで言わしめる沢田小平次が微行(つけ)ている。九段坂を越え、田安御門を横切り三番町を抜け、市ヶ谷御門へと歩を進める。伝馬町を通り、大木戸、中町、を過ぎ上町の重宝院の追分を左に折れた、ここは高札場がありその先は千駄ヶ谷へと続く道である。平蔵は立ち止まって塗笠を上げ廻りを見渡した。すぐ左が土手になり見通しもよくここならば手頃な場所と踏んで仕掛けて待つことにした。空は青碧と晴れ渡り真っ白な雲が浮いている(寝て待つか)平蔵は土手に寝そべって誘いを仕掛ける。傘を顔にかぶせれば、強い日差しは防げるし、眼を養うことも出来る、しかも土手に響く足音もよく聞こえることを平蔵は知って仕掛けているのだ。とととととっ と小走りに複数の足音が近づくのを聴きとめて横においた和泉守國貞をひっつかんですっくと立ち上がった。愛刀粟田口国綱よりわずかに大振りなこの剣を選んだのはこの広さでは気にすることなく振れるからであった。さすがに選ばれただけのことはあって対峙しただけで殺気が動きを阻む。「ひいふうみい・・・・・五つか・・・・・」草履をゆっくりと脱ぎ捨てながら鬼献上をきっちりと締めた中に大刀を手挟みつつ相手の動きを目で読む。「だぁ!」一人が待ちきれず大上段から真正面に振りかぶったまま一気に振り下ろした。それを間髪左に捻って肩先に外しながら抜き胴で流れる体を真一文字に払った。ぐへっ!その刺客が血反吐を吐いて土手下に転がっていった。その時敵の後ろから微行いてきた沢田小平治が打ちかかった。思いもかけない伏兵に敵の足は乱れて陣形が崩れてしまった。「おかしら!」沢田は叫びながら平蔵との背を一間ほど空けて正眼に構えた。「おう 待ってたぜ!今日の奴らは過日の輩とは違ぅて中々の手練のもの、決して油断はするでないぞ」「心得てございます」沢田はすでにたすきを掛けて袖さばきも巧みにしていた。「おい 死にてぇやつからかかってきな、火付盗賊改方斬り捨て御免故容赦はせぬぞ」平蔵の言葉が終わらぬうちに前の二人がそれぞれ八双と上段から打ちかかってきた。平蔵は刃がまだ届く前に飛び込みざま胴払いで一人を切り上げた。胸から顎を断ち割られてぎゃっと叫んでその場に転倒した。返す二太刀めはもう一人の右肩先から袈裟懸けに和泉守國貞が肩口に食い込んでいた。ぐえっ!!!刺客はブルブルと腕を震わせながら平蔵めがけて振り下ろそうとあがいている。平蔵は返す三の太刀でそのまま敵の胸を貫き通した。びゅっと血潮が吹き出して、刺客はひゅぅひゅぅと声にならない声を発しうつ伏せに倒れこんだ。振り向くと残りの刺客はすでに戦意喪失の状態で固まってしまっている。平蔵が「それほど死に急ぐことはあるまい、帰って主に申せ、この長谷川平蔵いつでも相手になってやるとな、命が惜しくば江戸から去ることだな、つまらねぇ意地を通して居座れば、必ずや捕まえて冥土の土産を持たしてやろうほどに、こころしてかかってこいと申し伝えよ!」と言い放った。ゆるりゆるりと後ずさりした残りの二人は後も見ずに脱兎のごとく逃げ去った。「沢田ご苦労であった!」平蔵はこの長き一日を共にした沢田小平次にねぎらいの言葉を掛けた。「おかしら 商人の金の力は計り知れませぬなぁ、武士が商人に金で操られる世は何とも虚しゅ存じます」土手の向こう十二社権現の方を陽が真っ赤に空を焦がしながら落ちてゆく。「長かったのう・・・・・」ポツリと平蔵がこぼした。その深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内宅・・・・・「長谷川様 木曾やは江戸を引き払ったそうでございますね」と平蔵に問いかけた。「うむ もう江戸では商いは成り立たたぬであろう、これ以上無謀なことは出来まい自滅が待っておるだけだからなぁ」「ではこの深川も少しは暮らしよい町になるのでございますね。嬉しい!」平蔵の横顔を熱い思いで見つめる染の顔がそこにあった。 [0回]PR