時代小説鬼平犯科帳 2015/10/11 10月第2号 よろずや彦兵衛 朝熊の伊三次手に摺物を持ち「え~よろずやでござい」と流している五十がらみの男。お店を覗いてはこの摺物を置いてゆく。この便利屋、たいていの用をこなすようである。薪割りから風呂焚き果ては買い出しから調理までこなす、時には求められて障子の張替えからふすまの張替えまで何でもござれの器用人のようであった。人当たりも柔らかく、笑顔が又安心感を与えるようで、この所日本橋界隈では評判になり「おかみさんは居るのかしら?」などと日本橋雀のくちばしの端々に上る昨今であった。「彦兵衛さんちょいとお願いしますよ」日本橋は本町三丁目の浮世小路に店を構える油問屋(大津や)「へい!本日は又どのようなお困り事でございましょう?」と店に入ってきた。「孫がふすまを蹴破ってしまってねぇ、大した仕事ではないんだが張替えというほどの大げさなものではないし、ここは一つ彦兵衛さんにと・・・・・」「ありがとうございます、それでは早速明日にでも伺いまして」「おお そうしておくれかい、それなら大助かりだ、よろしくお頼みしますよ」こうして翌日彦兵衛は襖の張替え道具を抱えてやってきた。「旦那様ぁこいつぁ骨縛りまで破けておりますので、下張りからやりかえねばなりません、表紙は今から紙屋に行って仕入れてきますので、ちょっとお時間を頂きます」そう断わって取替紙を求めに出かけた。小半時過ぎた頃戻ってきて「ございました、中々よいお品で、今流行りとか、けっこう品薄だそうでございますよ」と言いつつ奥座敷に入っていった。初夏の風が開け放たれた部屋の中を縦横に駆け抜けて、草花の薫りが時折部屋を横切る。中庭の小さな池の畔に植えられた匂い菖蒲が風にゆらゆら首をなげめに揺れている。トントン小刻みに槌音をさせて、手早く当て木の上から折れ合い釘を外して組子を出し、破れている骨縛りを桑チリ紙で張りつけ、打ち付け貼りを施し、重ねて石州美濃和紙を丁寧にずらしながら幾層も貼り付ける。全体が乾いたら細川の手漉き和紙裏に全面に糊を打ち、しっかりさせる。これが乾いたら袋貼りに石州半紙を浮け貼りし、上貼りは絹シケを張って仕上げとなる。とまぁ一日掛かりの作業である。「旦那様出来上がりました」と夕刻彦兵衛が大津やの主に報告した。「これはこれは 見事な腕だねぇ彦兵衛さん、又何かあればきっとあなたを頼みますよ」と大満足の様子だった。「え~よろずやでございます」「ちょいとよろずやさん、おねがいしますよ!」「はいはい 奥様本日はどのようなお困り事でございましょう?」「昨夜の大風で屋根瓦が飛んでしまったのかねぇ、雨漏りがしたので、それを調べて修繕しておくれでないか」「はいはい お安いご用でございます。お部屋はどちらになりますんで?」「奥座敷の旦那様の寝所でね、大屋根だから中々大変だと思うけど瓦職人をよぶほどのこともあるまいと旦那様がおっしゃるんでね」「はいはい ではお部屋の方にご案内をお願い致します」こんなわけで、けっこうあちこちの店に出入りが出来た。何しろ元手は摺物の紙切れ1枚。瓦版でもないので、さほどの枚数もいらないとくれば、後は口コミと実績がものを言う商売である。器用貧乏とよく言われるが、この彦兵衛にとっては当てはまらないようである。自分の手に終えないものは専門家を仲介して、きっちりと仲介料を取るのだからしっかりしている。だが、仲介される側も、手すきの時に舞い込む仕事は正直言って助かる。時によればそんな相手から逆に「彦兵衛さん小せぇ仕事だけど」と逆紹介もある。良い意味での持ちつ持たれつの関係であろうか。時は2度ほど桜がさいたであろうか、それほどの時間が建っているとは想えないものの、すっかり彦兵衛のよろずやは評判を呼んで、毎日忙しく飛び回っていた。彦兵衛には可愛い女房が居た。これも出入りのお店の奉公人を旦那が見込んで世話してくれたもので、中々の働き者であったそうだ。世帯を持っても彦兵衛の評判はますます上がるばかり、毎日が天国のようであった。「おたみ 帰ったよ!」いつものように彦兵衛は仕事を終えて日本橋馬喰町の一端にある長屋に帰った。この馬喰町元は馬の鑑定などや売買をする(博労)が多くおり、それらを泊める旅籠が軒を連ねていた。「おたみ・・・・!」変だなぁ俺が返ってくる時刻は知っているはずなのに・・・・・・彦兵衛は外へ出てみたり近くまで探しに出かけてみたものの見当たらない。「おかみさん女房のおたみをみかけませんでしたか?」あまり帰りが遅いの、彦兵衛は隣のおかみさんに聞いてみた。「変だねぇ 居ないのかい?おたみちゃんのことだ、何かあったのかもしれないけれど、きっと帰ってくるよ、もう少し待ってみちゃぁどうなんだい?」「でもようおかみさん、俺はおたみが心配でどうかなっちまいそうだよぉ」「何バカいってんだい、ちょっと長居してるだけかもしれないじゃぁないさ」と取り合わない。だが、結局その日はおたみの戻った気配はなく、朝がやってきた。こうなると彦兵衛はもう仕事どころではなくなっていた。番所に探索願いを出したものの、何の手がかりもないまま2日目の夜が来て、3日目の朝朝を迎えた。食べるものも喉を通らないようで隣のおかみが心配して覗きに来た。「彦兵衛産、食べなきゃぁ身体に毒だよぉ、しっかり食べて元気でおかみさんを迎えてやらなきゃぁね!」と言われるものの、出るのはため息ばかり。そこへ贔屓のお店から「ちょいとお願いごとがあるんだけれど」と仕事の話が舞い込んだ。「悪いんですけど、今仕事をする気がなくって、どうにもなりません、あいすみません」と断わった。「どうしたんだい彦兵衛さん」「女房のおたみが家出しちまったようで、もう4日も帰ってきません」と泣きべそをかいた。「ヤレヤレそいつは大変だねぇ、判りましたよ、またのことに致しましょう」と帰ってくれたものの、食事は喉を越さなくて、もうメザシのようにやつれてしまった。その噂はとうとう長屋を出て馬喰町全体が知ることになった。町をふらふら探し歩いていると「彦兵衛さんおかみさんはまだ帰らないのかい?」と声をかけられる始末。とぼとぼ歩く彦兵衛は目玉だけがぎょろぎょろして、まるで生気がない。「ヤレヤレ女房に逃げられたそうだよ」「どんな仕打ちをしたんだか・・・・・」暇な雀たちは好き勝手に事情を想像して、吹聴しだした。こうなると歯止めがない。まさに人の口に戸は建てられないの例えのまんまである。永久橋をわたって湊橋から霊岸島に渡った時東港一丁目で「もし!彦兵衛さんでは?」と声をかけられた。見知らぬ顔に彦兵衛「どちらさまで>」とか細く聞き返した。「お前さんは知らねぇが、こっちはお前ぇさんを良く知ってますぜ」と意味ありげな返事が返ってきた。「私をご存知の方で?」と彦兵衛「ウン まぁお前ぇさんを知っているというよりもおかみさんをちょいとね!」「えっ おたみをご存知で!おたみは今どこにおりますので!ご存知ならば教えて下さいよ五章でございますから」と彦兵衛は這いつくばって頭を地面に擦り付けた。「まぁあっしはちょいとおかみさんを見たって言うだけで、それ以上は、へへへへっ」「そんなぁ 後生でございますから意地悪しないでおたみの居所を教えてやってくださいまし」もう顔は泥とほこりが涙でどろどろグシャグシャである。「まぁそのうち判るでござんしょう、辛抱して待つことでござんすよへへへへっ」そう言うなり男は懸け出して行ってしまった。「待ってくださいよ待って!!」追いすがる彦兵衛を駆け去る男の背中が笑っている。彦兵衛はその場にペタリとへたり込んで身動きもできないまま、駆け去った男の曲がった角を見て泣いていた。「どうなすったんで?」声をかけたのは目明し風の男であった。「あっしは鉄砲町の文治郎と言いやす、こんな所に座り込んでどうかなすったんで?」といぶかしげに座り込んでいる男を見る。その男、情けない涙声で「女房が女房が!女房がもう十日も帰ってこないんです」と、彦兵衛はおたみの家出の理由に心当たりのないことを話した。「そいつぁ心配でござんすねぇ」文治郎としてもそれ以上付け加える言葉が見つからない。「とにかく番屋にも報告しておきやすから」となだめる文治郎に、「番屋へはとっくに届けは出しました、けど何の音沙汰もなく、こうして一人で探しに出歩いて、それでも見つからない、神かくしにでも会ったんでございましょうかねぇ親分文治郎の袖を掴んですがる目で見上げる。ヤレヤレ情けねぇ・・・・・と思いながらも「そんな馬鹿な話はござんせんよ」とへんじをしたが、「ああ どうせ私は馬鹿でございますよ、後生ですからそのバカの元へ女房のおたみを返してやってくださいよ」もうどうしようもない体に「こいつぁ困った!とにかく家まで送りますから」と文治郎としてもそれ以上方策が見つからなかった。そしてその翌々日、過日出会った男が馬喰町の彦兵衛の長屋に顔を出した。「彦兵衛さん、ちょいと話があるんですが聞いちゃくれませんかねぇ」と意味深な目で彦兵衛の反応を盗み見た。「おたみはおたみはどこに居るのでございましょう、居場所をご存知なら後生だから教えてください、おたみが返ってくるなら何でも致しますこれこの通り」とすり減るのではないかと想うほど両手をこすりあわせて男を拝み倒す。10日という時の長さは彦兵衛の神経を極限まですり減らすには十分な長さであった。「判りやした、なら話は早ぇや、何ねやっけぇな話じゃァねぇんだ、ちょいとその何だお前さんが仕事で出入りした先のお店の見取り図を教えてくれりゃぁなぁにおかみさんはすぐに返ぇしまさぁ、どうです、承知してくれるだろうねぇ・・・・・」と彦兵衛の顔をのぞき込んだ。「そそそっ そんな!それだけはご勘弁下さいませ」彦兵衛はすがるように男を見て両手を合わせた。「お前ぇさん、さっき何とお言いなさったので?」いんぎんだがダメを押すような重い語気が含まれている。「そんな!確かに何でも致しますとは申しましたが、そのような事はとても出来ません、他のことなら何でも致します、どうか後生ですからおたみを返してくださいませ」「おうおう!おとなしく出りゃぁつけあがりぁがって、お前ぇどこか思い違ぇをしていなさるんじゃァねぇのかい、こっちにぁお前ぇのかわいいかみさんを預かっているんだぜ、煮て食おうが焼いて食おうがどうでもなるってぇ事を忘れるんじゃぁねえっ!」彦兵衛の胸ぐらを旧聞に掴んで、己の懐をぐいと開いて飲んでいるドスをちらっと見せた。見る見る彦兵衛の顔が凍りつくような恐怖が包み込んだ。「ひえっ!!」彦兵衛は腰をぬかさんばかりに驚き、その場にへなへなと座り込んで失禁してしまった。「どうなんでぇ、性根を入れて返事をしなよ、さぁどうなんでぇ色よい返事を聞かせちゃぁくれねぇかい えっ!彦兵衛さんよ!、それとも何かぁかわいいおかみさんがこのようになっちまってもいいってぇのかい」そう言うなり土間に水瓶を蹴り飛ばした。ゴッツ!鈍い音とともに瓶はまっぷたつに割れ、ドクドクと水が流れてへたり込んでいる彦兵衛を水浸しにしてしまった。あわわわわっ うつろな眼差しで男を見上げた彦兵衛は、もはや観念するしか無いことをやっと悟った風であった。「わっ 判りました私は絵も字も書けません、それでもよろしいので?」「判ってらぁな、ご同業よ、だがな話してさえくれりゃァその方はこっちで何とかしよう、まぁそういうことで・・・・・・解ってるだろうがこのことは誰にもしゃべるんじゃァねぇぜ、喋ったことが判ればその場でおかみさんは三途の川を渡ることになるんだからなぁ、今夜もう一度来るがそれまでに日本橋は本町三丁目の浮世小路の油問屋(大津や)の間取りを頭ン中できちんと整理しておくこったな」「あの もし!大津屋の間取りで?・・・・・・・それは・・・・・・」「おいおい 今さらそれは出来ません、ハイ左様ですかと引っ込めると想うかい!たいがいにしやがれ!判ったな!始めっからお前にぁ勝ち目がねぇんだよ!」男は捨てぜりふを残して懸け去っていった。どうしようどうしよう!困った困った、大津やの旦那様には大恩があるし、かと言っておたみは捕まっていちゃぁどうしようもない、あぁ困った困った。そんなことを言っていても時の流れは待ってはくれない、薄情なもので暮六つの鐘がなり始めた。遠くから彦兵衛の長屋をじっくりと眺め、危険はないと踏んだのか、今朝ほどの男が一人の男を連れてやってきた。「おい!彦兵衛さんよ、こいつがお前ぇさんのいうことを絵図面に描くから、しっかり答えるんだぜ」「判っております、判っておりますからおたみは、おたみは今どこに、どこに居るのでございます」「判っいらぁな、図面ができたらそいつと引き換えにおかみさんは渡そうじゃァねぇか!それなら文句はあるめぇ、ささっ早くみんな話しちまいな」男は急かすように彦兵衛を促した。それからふた刻が過ぎた。結局彦兵衛は脅されるままに合計三件のお店の間取りを喋らされてしまった。大体の見取り図が出来たようで「まぁ大体のところは判った!それでは約束だ!なっ!かわした約束は違えやぁしねぇから安心しな、明日の朝おかみさんをここまで連れてこようじゃァねぇか、なっ!それで承知してくれねぇか」「そそそっそんなお話ではございませんでした、約束が違います」男の袖を掴んで必死に訴える彦兵衛「お前ぇも物分りの悪い野郎だなぁ、こんな時に危ねぇのを承知でのこのこ連れ歩くと想うのけぇ、全くどじな野郎だぜ、文句があるならこうしてやらぁ!」その言葉も終わらない内に二人がかりで殴る蹴るの袋叩き、鼻は折れ目は腫れ上がり、あちこちアザだらけで気を失ってしまった。その翌日、日本橋本町三丁目浮世小路油問屋(大津や)に賊が押し入り奉公人を合わせた十三名が皆殺しになった。奪われた金は7百両あまりであった。皆殺しであるがために証拠は皆無で、押し込みの全容は全く掴めない。当番であった南町はなにか手がかりを掴みたいものの為す術もなく、火付盗賊にも加勢の依頼があった。平蔵と南町奉行池田筑前守とはじっこんの間柄でもあり、表立っての行動は出来ないまでも内々に密偵たちは探索に協力していた。翌日霊岸島湊橋の端桁に女の死体が引っかかっているのを葛西船の船頭が見つけ、引き上げて番屋に知らせた。月番である南町奉所から与力などが出張り、検死の結果首のあたりに指の痕跡が認められ、絞殺されたものと断定されたが、身元を明かすものが何一つ無く、やむを得ない処置としてひとまず無縁墓地に埋葬することになった。身元を表すものといえばかんざし一本を残すのみである。事件はそれで終わらなかった。日本橋馬喰町の長屋の住人が殺されていると届けがあったからである。身元は(よろず屋)の彦兵衛と判明した。粂八の聞きこみで、この彦兵衛は女房と二人暮らしで、仲の良さは傍も羨むほどのもので、その女房がこの月に入ってから姿を見ないので、「喧嘩でもしたのかい」と聞くと、彦兵衛は肩を落としうつむいたままなにも喋らなかったという。鉄砲町の文治郎がこの彦兵衛の鑑識に立ち会って、女房のおたみが神隠しにあったという話を聞いたと報告。もしやと霊岸島湊橋に浮かんだ死人の遺留品であるかんざしを長屋の者に見せたところが、それは彦兵衛が世帯を持った時、彦兵衛がおたみに買い与えたものと判明。ここに、二人の死体がつながったのである。事の顛末を聞いた平蔵「どうも気にいらぬなぁ・・・・・この2件の殺しと押込みとのつながりが無いか調べる必要がありそうだのう」いずれも犯人の特定に至っていないことが平蔵としては気がかりなのである。「南町奉行に出向き、彦兵衛の遺留品借り受けてまいれ」と佐嶋忠介に命じた。「早速そのように取り計らいます」と佐嶋が出向き、二時程後に主だったものを借り受けてきた。「まずは彦兵衛の得意先を書き出せ、特に大店からは申すまでもない、殺されるにはそれなりの訳がなければならぬ、そのつながりを見極めることがまずは第一」事件解決の足がかりは必ず足元にある、これが平蔵の口癖であった。彦兵衛の出入り先は半時ほどで判明した。書き出しを自ら買って出た佐嶋忠介が驚きの声を上げた。「おかしら!大店としては彦兵衛が掛帳をつけ始めてよりこれまでの中で大店が二十件、その内今年に入って五件見られます、また何故かそのお店の名前の所に赤丸が付きしもの四件、その一つに例の日本橋本町浮世小路の油問屋大津やが入っております」。「何!大津やがやはりあったか!」「おかしらはそれを・・・・・・・」「何 いつものカンばたらきだがな、どうにも解せねぇ、そいつがなんだか読めなかった。だがな 彦兵衛の売掛帳と何か関係があると考えたのさ。おそらく彦兵衛は女房をかたに取られて大店の間取りを吐かされたのであろうよ」「なるほど、それは大いに考えられますな」佐嶋は平蔵の事件を嗅ぎとる鋭さに敬服させられる。「とすると印のついた残る三件のお店も間取りは取られたと踏むのが常道だな。その 三件のお店はどこだえ?」「はい 一つは鉄砲洲船松町材木商三州屋、もう一つは日本橋本銀町二丁目両替商大戸屋、残る一つが神田明神元鳥越町海産物問屋大島屋でございます」。「よくやった!早速南町奉行所に出向き、池田筑前守さま見お目通り願い、今後の策を立ててまいろう」平蔵は書き写された調書を携え、南町奉行所に出向いた。「長谷川殿この度はご助成下さるか!南町奉行所の月番で起きたこの度の事件、何としても解決いたしたい、よろしくお頼み申す」「何と、これは筑前守様には日頃よりのお気配り、この長谷川平蔵心より感謝申し上げておりまする、こたびは押し込み強盗が再び繰り返されるやも知れぬという事が判明致し申しましたゆえ、火付盗賊改方と致しましても面目もござりますれば、ここは一つ筑前守様のご助成をお願いいたし、両者で何とか彼奴らをお縄に致したく、かく参上つかまつったようなわけでござりますれば・・・・・」「長谷川殿よくぞ申してくだされた、犯罪を取り締まるに奉行も盗賊改めもござらぬ、人々の暮らしを守る、それこそお上より我らがお預かりいたしておる御役目でござる、そこ元の親父殿はいつもそのように申されており申した。「先ずこたびの事件により危惧されまするお店が三件御ざります、それを双方で持ち場を定め警戒に当たるがよろしいかと」「おう それはご尤もな、では当方は日本橋本銀町二丁目両替商大戸屋を密かに見張ることと致そう、如何じゃな?」「さすれば当方では神田明神元鳥越町海産物問屋大島屋を第一に、あわせて鉄砲洲船松町材木商三州屋にも目を光らせようと存じます」「では早速に・・・・・・」こうして南町奉行所と火付盗賊改方の連携のもと、見張所が設けられたことは言うまでもない。「筑前守様がお引き受けくだされたから、まずは手配りも二手で済む、されば与力、同心密偵なども少しは体を休める時がまかなえる。それぞれ持ち場のおのは互いに身体を休めるよう取り計らってくれ」平蔵は佐嶋忠介にそう命じて、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。「おかしらこそ、左様に根を詰められますとお体に差し障りも・・・・・」「うむ だがなぁ佐嶋 火付盗賊が暇を持て余すようなご時世はいつかやってくるのであろうかのう、わしはそれまで一時足りとも気が抜けぬ、少しでも盗みを働かなくても良い世直しが出来ぬものかと、気の休まる時は持てぬ。犯罪をなくすこれまでのやり方ではどうにもお終ぇは来ぬと想えぬか?」「はい 左様に存じます、何か新しい事を考え、始めねばこれまでと何も変わらぬと存じます」「そうであろうのぉ・・・・・」平蔵は遠くに流れる雲のたなびきを眺めながら心に描くものを模索しているようであった。「お頭!日本橋本銀町二丁目両替商大戸屋が昨夜押込みにやられたと、南町よりの火急のお知らせにございます」「何としたこと!で、詳細は判明足したのか」「ただいま町方与力が調べに入っておる模様にございます」沢田小平次が息せき切って報告に及んだ。「くそっ!またしても・・・・・で、見張りはどのようであった?」「はい 当夜当直の者の話しによれば、朝まで何も変化なく、日が昇っても表戸が開かないために不審に思い覗いてみたが返事がない、そこでもしやと戸を蹴破って中に入りましたる所・・・」「一家皆殺しであろう」「まさにその通りにございましたようで、南町ではその対策が取れずただただ戸惑うておる様子にございます。この責任所在を今後どのように責められるか、今のところまだ不明のようで・・・・・」「朝まで気づかなんだと申したな!」「ははっ そのように申されておりました」「絵図を持ってまいれ!」平蔵は何か心当たりがある風に急がせた。沢田小平次が急ぎ絵図面を持って入ってきた。「日本橋本銀町・・・・・おい、佐嶋こいつを見ろ、朝まで気づかぬはずだ!奴らは裏の川を小舟でやってきて、押込みをはたき逃げたに違ぇねぇ、表だけを張っておってはどうにもならぬ、ぬかったわ!」南町奉行池田筑前守の心中を思うとやりきれなさと無念さを想うのであろうか、平蔵は悔しさがこみ上げるのを如何ともし難いふうで、両腕をわなわなと震わせた。「残る二件を徹底的に洗い直せ、密偵共にもそのように申し伝えよ!」いつもとは違う平蔵の気迫に忠吾はしり込みするほどであった。絵図面で確かめると、神田明神元鳥越町海産物問屋大島屋は鳥越川から一町と離れていない。「鳥越川は 不忍池から忍川を流れた水が、三味線堀を経由し、鳥越川から隅田川へと通じておる、堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来して来る故、奴らがどの方向から攻めてくるかが決めかねる。先の日本橋の大戸屋と言い、この大島屋と言い、奴らめ上手ぇ所に目をつけておる、小憎らしいまでの手配りよ」平蔵はこの盗賊との頭脳戦を心のなかで描いているのか、じっと腕組みしたまま絵図面を眺めている。これまでの探索では賊の手がかりは全くなし、証拠を残さないために全員を抹殺する手口がどうにも我慢がならない。こようにな極悪非道の急ぎ働きをこれまで幾度か見て来たが、いずれも影のように姿をくらましてしまっている。「おそらく此度も鳥越川から船で大川に逃げ、そこから何処へと姿をくらますであろう、わしが頭目ならば左様に目論む」鉄砲洲船松町材木商三州屋、いずれも船を使っての押込みと想える。「さて、此度は何処を襲うであろうか・・・・・南町奉行所としても、この失態を挽回せねばなるまいから、力も入ろうと想われる、そこでわしとしては神田明神の大島屋と狙いを定め、徹底的に網を張り、猫の子一匹逃さぬ陣を敷かねばなるまい、もうこれ以上の非道を許すわけにはいかぬ、鉄砲洲の方は南町からも近かろう、故に南町奉行所にお願い致そうと思う」「では我らは大島屋を見張ればよろしいので・・・・・・」と佐嶋忠介「ウム 此度は失態もゆるされぬ、皆心してかかってくれ」その日の内に大島屋の斜向かいにある穀物問屋越前屋二階は火付盗賊改方の見張り所となった。泊まり込みの与力・同心が八名、大島屋の裏周りは密偵たちが水も漏らさぬ張り込みで、この度の平蔵の決意の表れを感じ取って、いつもとは違い いずれも緊張しきっていた。こうして三日目の夜が訪れようとしていた。「皆様ご苦労様でございやす、なぁにもうすぐでござんすよ」そう言って握り飯を持ってきたのは伊三次であった。本所二つ目の軍鶏鍋や五鉄の三次郎が気配りしてくれたものである。「長谷川様がもうしばらくの辛抱ゆえ、しゃもの煮込んだ握り飯をこさえてくれ、とお立ち寄りになられたそうでございやす」。「さすがはお頭!よくご存知でおられる。あまりに張り込みが長くなれば中々うまい飯も口には出来ぬ、いつもならばこのようなおりは村松様の梅干し入の握り飯、それにたくあんと、アレばメザシが・・・・・」「これ忠吾!わしはな、お前たちがうまい飯をたらふく食えば自然と眠気を催すのが目に見えておる、それ故わざわざ心を鬼にして握っておるのじゃ、おかしらのお気持ちを努々(ゆめゆめ)違えてはならぬぞ」「ははっ 有難き幸せに存じます」と忠吾、言葉が終わるか終わらない内にさっさとかしわめしを両手にひっつかんで「アッ 皆様も遠慮のうお食べ下さい」と言ったものだから、その場の緊張もほぐれた。子の刻を少し回ったであろうか、外で激しい物音がした。戸の隙間から音で争う声と激しい動きが見て取れた「押込みだ!一人も逃すな!」佐嶋忠介の一斉に皆仮眠状態から飛び起きて階下に駆け下りて外へでた。そこには長谷川平蔵の姿があった。「お頭!」「うむ 一人として逃すでないぞ、抗えば切り捨てても構わぬ、容赦なく討ち取れ!」抗争は四半刻で収まった。一味十三名の内十名は絶命、残り三名はことごとく手傷を負って捕縛された。そのまま番屋に引き連れて行き、翌日清水御門前の火付盗賊改方役宅に改めて連行され、即日平蔵の厳しい取り調べが始まった。首魁の血まみれ悪太郎はすでに慙死、その他浪人崩れ六名も捕縛時に抵抗して慙死している。捕縛されたものはそれぞれ佐渡送りとなった。「長ぇ事件であったなぁ、池田筑前守さまもこれでやっと肩の荷が下りたとお喜びのご様子であった。お前ぇたちにもずいぶんと苦労をかけたなぁ、盗っ人は想いもよらねぇところからでも仕掛けて来おる、一日でもそんなことが起こらぬよう我らは心を一つにしてこの町を護らねばならぬ、この長谷川平蔵の命あるかぎりお前ぇ達もすけてくれ、それが俺のたった一つの願い事だ、なぁおまさ,五郎蔵、伊三次それに彦よぉ・・・・・粂はまだ来ぬか・・・・・おう 来た来た、これでやっと俺の宝が集まったなぁ、いや有り難ぇさぁまずは一杯固めの杯と洒落込もうじゃァねぇか、みんなありがとうよ・・・・・・・」「長谷川様と言うお方は・・・・・・」ただ軍鶏鍋が熱々と煮たぎって湯気が部屋中にあふれていた。後に平蔵が語った所によると、南町奉行所の取り調べにより獄門と決まり、斬首された血まみれ悪太郎の親父権三郎の敵を討ちたいと南町の当番を狙っての犯行だった。「ただ、その頃はまだ筑前守様は奉行ではなかったそうな、げに恐ろしきは人の怨念、足を踏んだものは忘れても、踏まれた方はいつまでも覚えておる物・・・・・・その痛みの重さ分妬みや執念になるものであろうな」。 [0回]PR