[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この翌日から銕三郎は鳥海彦四郎の手控帳に記されていた禁裏附の周りや代官所の内情を探るべく昼夜を問わず駆け回って居、その為に家を空ける事も頻発するに至った。
「銕さま、本日もお出掛にございますので」
腰の物を捧げつつ妻女の久栄はうらめし気に夫を見上げる。
「久栄、父上をお助けするのが儂に出来るただひとつの孝行、それを弁えてくれ」
「まだこの着物に女子の移り香が……」
久栄は衣文掛に懸かった長着を溜息吐きつつたゝみ込むしかなかった。
銕三郎、この日も祇園の狛のにあった。
「かすみどの、昨夜は如何でございましたか、何が変った事でもあれば只今から参りますが」
これが現在の銕三郎の 主な仕事である。
この祇園界隈には口向役人や禁裏附役人も多々出没する為、漏れ来る物に耳をそばだてておればさまざまな物を知る事が出来るわけである。
それらに逐一耳を向けておれば内向きの事なども知る事が叶うのであり、その為のかすみ達が在る。
太田正清の同心もこのようなところで声息を探っていたのであろうか。
かすみもこの鳥海彦四郎には拘わりないようで、町奉行所とは別の指図で動いていると銕三郎にも想われた。
銕三郎はかすみと打合せを終え、隠密同心鳥海彦四郎の手控え帳に記されていた禁裏役・口向役の屋敷周りに探りを入れてみるのが日常となっていた。
この他にも、当時西国大名は六十八屋敷の内四十八屋敷を置き、代官やその他の武家屋敷は六十以上存在した。
探索とは云うものの、せいぜい遠目で馴染みの顔、官人や待の出入を見定めるのが精一杯である。
この日、いつもの様に白地の提灯を提げて役宅に戻る途中、この数日嫌な気配を感じながらも何事も無く役宅まで戻っていたのだが、狛のを出て三条大橋を渡りかけた折、先程まで辺りを照していた月が雲間に隠され、周り全体を漆黒の闇が呑み込んだ。
急に重々しい空気が銕三郎をおし包む。
(何だこの重たさは、殺気にしては鋭さがない!妙な──) 銕三郎用心しながらゆっくりと橋半ばにさしかかった、突然背後にのしかかる重圧感に振り向き提灯をさし出したその一瞬、闇をも切り裂く様な鋭い太刀風に銕三郎よろけるようにかろうじて半歩退き、拍子に提灯を持つ手が挙がった。
その刹那、提灯は真っ二つに切り裂かれメラメラと燃えながら落下し、その傍に銕三郎の左袖がひらひらと落ちた。
銕三郎ためらう事なく粟田口国網の鯉口を切った。
一瞬の間もおかず己の背後に再び強い殺気を覚え、振り向きつつ一気に抜き胴を放つ。
「うっ」
一瞬ひくい声がもれたものの、その在りかを確める間もなく刺客の姿も先程の重々しい空気も朝の霧のごと消えていた。(何だこいつぁ──)
これ迄味わった事のない背筋が冷たく張り付く恐怖が甦って来、(恐ろしいまでに儂を圧し包んだあれは一体何であったのであろう) 満天の下ゆっくりと周りに気を放つも、手応えはまるでなく、左腕に絡みつく切り裂かれた袖が、夢・幻の出来事ではなかった事を教えているのみであった。
(まこと恐しい敵だ!気配すら残さず来て去ぬとは─)銕三郎真剣を構えて初めて恐怖と云うものを味わった。
役宅に戻る迄気を抜く事はなかったものの、ついにあの覆い被さる重々しい殺気は微行て来なかった。
銕三郎の戻りを案じていた妻女久栄、夫の肩口から切り裂かれ、だらりと垂れ下っている袖を見、
「銕さまこれは何と致されました!」
わなわなと震えているその手をにぎり銕三郎
「久栄!儂も初めて恐しいと云う思いを致した。何ともすさまじき剣であった。
だが案ずるな、この儂とて高杉道場の龍虎と謳われておった、そう易々と討たれるものか……」
とは云うものの、己の所在が知れた今、次にこの妻子が狙われないと云う埋合わせはない。
その同じ頃、三条西木屋町高瀬川に沿った通りに面した商人宿の仲居女は、夜五つ(午後八時)の鐘が鳴り始めたので、捨鐘を聞いた所で入口の戸を閉めようと表に出た。道の向う、桜の傍に何かうごめく物をみとめ、訝り乍ら眸を凝らして観ると、かすかに呻き声のような物音が聞えた。
月明りの下、どうやら人の気配らしき事に驚き、中にかけ込み
「誰かぁ!そとに何やいます!」
大声を上げた。
「何やおっきな声なんか出しいやって」
めんどくさそうに中から女将が出て来、女の指差す桜の袂にうずくまる物を視
「ぎゃあっ」
と大声をあげる。
宿の中からばらばらと人が出、中には火吹竹をひっつかんでいる者もある。
おそるおそる客の一人が近づいてみる、
「あっこりぁ大事だ、怪我してるみたいでっせ」
と叫び
「お前さん大丈夫でっか!」
と抱え起そうとした。
「ぐぅ!!」
呻き声がもれ、ぐったりと前のめりに倒れてしまった。
「とに角中に運んでおくれやす」
女将は舌打ちしつつ男衆に指図し、
「しょうがおへん、お医者はん呼びなはれ」
と先程の女を見る。