時代小説鬼平犯科帳 2015/04/21 4月2号 なめろう 鬼の居ぬ間に 忠吾は谷中いろは茶屋事件以来市中見廻り区域を新宿方面に振り変えられ、しばらくはおとなしくしていた。が、さよう が、である。おとなしくしていては忠吾のなおれ・・・・・と言うわけでもあるまいが、牛込弁天町の宗参寺の門前近くにある新しい出会い茶屋をしっかり確保していた。今日も今日とて見回りの途中をこの(けころ茶屋よしみ)に潜り込んで油を売っている。昼間の客だから、まぁお忍びという事は承知で、女将もうるさい詮索もなし、女もあっけらかんとしたもので、キセルの吸口を忠吾に向けながら気だるそうに「ねぇ あたし眠たいわ、昨日の晩の客がしつっこくてさぁ、あんまり寝てないのよぉ」と背中を向ける。「おい それはないだろう、俺は金を払ってこうしてお前のために通っているんだ、もう少しは気を使うことは出来ないのか」少々むくれ気味に忠吾は女を仰向けに起こす。「だからお願いって言っているじゃァないのよぉ」大の字になって天井を睨みながらうそぶく女に忠吾は少々持てあまし気味のようで「なぁ もう一度だけ もう一度だけでいいから・・・・・・いいだろう!」「早くしてね!」女はふてくされながら忠吾のなすがままに知らぬ顔である。これじゃぁまるでカエルの面にションベンだ!忠吾は味気なさに、それでも払った分は取り戻そうと頑張ったようである。ひとときほどして茶屋を出た所で、小雨が降りだし、やむなく済松寺門前に雨宿りするはめになった。「くっそう!何が春雨だ!あ~あ こんな時はいい女に出会って「あら 忠さま雨が・・・・・とか何とか相合傘でむふふふふっ!どこかでしっぽり濡れて・・・・・・」あ~あ 市中見回りかぁつまらねぇなぁ。そこへ少し年増の女が寺の中から出てきた。忠吾は、ちらっと見るでもなくその女を目で追った。すると女が寄ってきて「嫌な雨でございますねぇ」と忠語の眼を流し気味に見た。ぶるぶるぶる!と忠吾は心の身震いを覚えた。(いい女だなぁ少々増の女だが、それが又この雨の中色めき立っていや中々・・・・・)すでに目尻は下がっていたのかどうか、「お武家様はどちらまで?」と艶然とした恵美で忠吾を見た。「わしか?飯田町まで帰るのだが、お前はどこまで帰るのだ?」と 問い返した。「この雨は当分止みそうにもありませんねぇ、ねぇお武家様この先にちょいとした店がありますのさ、そこで濡れたお召し物も乾かしがてら一休みはいかがでしょう?1杯お付き合いくださいましな」と忠吾の袖を引くように誘いをかけてきた。ここまで誘われて断る忠吾ではなかった。「さようだなぁ それもよし!よく見ればそなたも中々の美形、美しいおなごの誘い水を断ってはこの木村忠吾男がすたるというもの、よし!さよういたそう!」と大見得を切ったものの心の中はもう天にも昇る心地、相合傘でいそいそと向かった。「奥を借りるわよ」と声をかけてかつて知ったるふうに奥の部屋に上がる。「ここはよく来るのか?」忠吾の・・・いや盗賊改めの癖というか習慣というべきか、踏み込んだ問をした。ふふふふふふと笑って「あら 気になります?あたしの知り合いがこの近くでそれで教えてもらっただけで、初めてですわ」と含み笑いで応えた。夕刻間近とあって、ついでに飯でも食って帰ろうかと「美しいおなごに酌をされつつの腹ごしらえも悪くはないなぁ」と、忠吾は飯の注文も出す。「今日はなめろうでございやすが、それでよろしいでござんしょうか?」と亭主が声をかけてきた。「なめろうかぁそいつは良い、それにしてくれ」さっそく熱燗が出され、勧められるままに忠吾は盃を空けた。なめろうとはアジ・サンマ・イワシ・トビウオなどを3枚におろし、味噌・ショウガ・シソなどを乗せ、そのまままな板の上で細切れに粘り気が出るまで細かく叩く。ホタテやアワビの殻に詰めて焼くのをさんが焼きと言い、飯の上に乗せてお茶や出し汁をかけたものを孫茶と呼ぶ、元は漁師のまかない飯である。(ゆっくり飯を済ませ、酒も程々、今からしっぽり濡れて程よい時刻、後は役宅に帰るだけだ)忠吾は程よく酒も廻り、ほのかに肌の色も桜色に染まりかけた女の首筋から胸元にかけての色香に眼を投げつつ、これから先の出来事に思いをはせ・・・・・(ドカリ)と前のめりに倒れこんでしまったのは忠吾。「お武家様 お武家様!」揺り動かされてぼんやりとした頭で意識で首をもたげた。そこには亭主の顔が・・・・・・・「ううんっ?何だぁ~どうしてお前が此処に!女はどうした!?」忠吾は現状がまだ飲み込めず亭主に問いただした。「とっくにお帰りになりやした、お連れ様はお疲れのようなのでもうしばらくそっとしておいてくださいな」 と、あっ それからお代はお武家様から頂くようにとのことでございましたので、よろしくお願い致します」「何!帰った!? うううううう!くそ!やられた!」忠吾は女の話が今更良く出来ていた事にここにきてやっと気がついた様子である。「金か!・・・・・」と懐に手を入れて・・・・・・・・「しまった!やられた!無い無い無い!金が無い」「お武家様ご冗談を!」亭主が忠吾の袖を掴んで酔の覚めた忠吾の顔を覗き込む。「冗談ではない!それどころか大切な十手までもやられた!」忠吾は顔面蒼白になった。(おかしらに何と申し開きをたてよう、いやそれどころか腹かき切ってお詫びしてもおっつかないことを起こしてしまった)胡散臭い顔で忠吾を見る亭主に「俺は盗賊改め同心である」と吐き捨てるように名乗った。今度は亭主がたまげた。「火付盗賊のお役人様で・・・・・・解りやした、本日のお代は後日ということにさせていただきやす」と切り出した。「亭主!それよりも先ほどの女だがな、此処へはよく来るのか?」「いえいえ 本日が一見のおかたでございやす」「と 言うことは、どこの誰かも判らぬのだな!」「はい 全くさようで・・・・・・」忠吾は途方に暮れた。(おかしらにバレずになんとか女を捕まえる算段をせねば・・・・・・)師走に扶持米の代金を落とした気分よりももっと輪をかけた悲惨な心持ちで店を出た。「忠吾どうした、そんなに青い顔をして、腹の具合でも悪いのか?うさぎ饅頭の食い過ぎではないのか?」同心の心配そうな声も忠吾の耳にはまるで他所事の様に聞こえるばかりであった。それから半月ばかりが逃げるようにすぎさったが、一向にあの女の足取りは掴めないまま、いささか呑気者の忠吾も困惑の究極である。(事件はふりだしに戻れ、そこに必ずつながるものが残されているものだ)平蔵の日頃の口癖を思い出した忠吾、くだんの店に出向いた。忠吾の姿を見て「アッお武家様!」と、亭主が寄ってきて「実は先日女がやってきて、旦那のことを聞かせてほしいと言いやすんで、盗賊改めの旦那だと教えやしたらポンと2朱をくれやした」「何!あの女が来たのか!、で どこに住んでるか聞いたであろうな?」「へっ?何故でやす?あっしには関わりのねぇこって」「このぉ!」忠吾は亭主の胸ぐらを掴みあげて拳を振り上げた、だが「あっしに振り下ろされやしてもわっしはなにか悪いことをしたっておっしゃいやすのならそれもしかたがございやせん、けどねぇ旦那ぁ」むむむっ!忠吾は振り上げたゲンコをブルブル震わせて真っ赤な顔で「おのれ おのれ!!!!」と 喚くしかなかった。その数日後、四谷塩町1丁目の小料理屋「音羽屋」に賊が入ったと清水御門前の火付盗賊改方役宅に届けがあった。知らせを受け取ったのは筆頭同心酒井祐助であった。酒井の聞き取りでは、店の者の話だと「火付盗賊改方だと名乗られ、朱房の十手を見せられたので潜戸を開けたら目だけを出した数名の盗賊が押し込み、いきなり殴り倒され、寝ていた家人3名も縛り上げられさるぐつわをされ手文庫にあった金子30両程が盗まれていた。あっと言う間の出来事で、盗賊の人相も皆目見当もつかない状況であった。火付盗賊改方役宅ではこの話で持ちきりのところへ、朝の挨拶に立ち寄ったものだから、木村忠吾は仰天して立ちすくんでしまった。「忠吾が出所致さば即刻部屋に来るように」と平蔵からのお達しが出ており、酒井が「おい忠吾お頭がお部屋に参れとのお言葉が出ておるぞ」と同心部屋に控えていた。「どうした、やけに顔色が悪いぞ、まぁとにかくおかしらの元へ早く行け!」と背中を叩いた。よろよろっと忠吾は腰が砕けたかのようによろめき、顔面蒼白で平蔵の部屋前に両手をつき「木村忠吾ただいま参りました」と震えながら小声をかける。「おお 忠吾か・・・・・」平蔵の重たい声が忠吾の身をすくませた。「忠吾、確かそちの持ち場は牛込方面であったよな」「ハイさようにございます」「忠吾!そなたの十手を持っておろうな!」「ははっ ・・・・・・アノ・・・・・そのぉ・・・・」「持っておるのだな!」「はぁ‥‥‥‥‥‥実は・・・・・・」仕切りの戸がグワッ!!と開き、怒りの形相で平蔵が立ちはだかっていた。「ははっ~~~~面目次第も」「この大馬鹿者!貴様のしくじりがこの火付盗賊改方を窮地に追い込んでおることを承知いたしておるのか!」平蔵のかつて無い激しい言葉に木村忠吾はつまみ上げられたオケラのように両手を頭の上であわせながら床板に顔を押し付けて震えている。「忠吾!何故だ!何故だ!火付盗賊改方同心ともあろうものが、何故かようなことにあいなったかわきまえておろうのう!」平蔵のすさまじい剣幕に忠吾は為す術もなくただただ頭をこすりつける以外なかった。「おかしら・・・・・・」横に控えていた佐嶋忠介が小声で平蔵をなだめる。(むむむむっ!)平蔵は思わず大きな声になったことをいかようにすればよいか言葉をつまらせた。「ところで佐嶋、十手の出どこは判ったが、相手がこれでは皆目見当もつかぬ、急ぎ密偵共を集めことの重大さを知らせ、皆で手分けして探索に当たれ!よいな 他言無用だぞ!」そう言って平蔵は戸をピシャリと閉めた。そしてその障子の向こうから「忠吾!腹を切るでないぞ」と言葉が続いた。「おかしら・・・・・・・・」忠吾はあふれる涙を拭うことも出来ずその場にうずくまっていた。それからひと月あまり立った梅雨のまえぶれか、あじさい色の煙の中で事件は起こった。小石川の船河原橋たもとにある小料理屋(田嶋や)に賊が入った。手口が同じ所からも、過日の一味であることは調べるまでもない。どうにも打つ手が無い、証拠らしきものを何一つ残さず、あっという間の押しこみである。このたびは町奉行所に届けがあり、事の重大さが町奉行のところにまで露見してしまった。仙台堀の政吉がこの情報を平蔵に持ち込んだことから火盗改に判明した事件であった。その後2月あまりの間に立て続けに3件の同じような手口で押し込みが発生。いずれも小商いの店が襲われている。それからまもなく、老中若年寄京極備前守高久下屋敷に呼び出された平蔵は、大構えの門をくぐりながら、ふっと振り返り(再びこの門を潜って表に出ることはないかも知れぬ)と深くため息を残し、取次のあないされるままに屋敷内に入った。京極備前守は正座したまま懐に両手を預けて眼を閉じたままである。「長谷川平蔵お召により参上つかまつりました」低頭したまま面を上げることも出来ない。「平蔵!此度の1件、単なる物盗りだけでは済まされぬ、そちは言わずともよく判っておろうが、事は十手を使っての物盗り、お上のご威光にも差し障りが出よう、何か方策は考えておろうな」「ははっ この長谷川平蔵が腹を召せばすむことならば即座にこの場にて腹は切る所存で出向いてまいりました。しかし、それでお上のご威光が戻るわけではござりませぬ。この一命を賭してでも解決いたし、そのあとにて備前守様のご裁断を仰ぎたく、何卒もうしばらくのご猶予を頂戴いたしたく存じます」白装束姿の平蔵を見て「あい判った、老中や町奉行からも厳しい批判が噴出いたしておる、だがなぁ平蔵、そちをおいて他に誰がこの厄介な問題を引き受けるものがおろうか、わしも此度は腹を決めてお上に言上いたした。そのつもりであい努めよ、決して早まるではないぞ、頼むぞ平蔵!」京極備前はそう言い残して座を立った。低頭したまま平蔵は、流れる涙を畳が吸い込むに任せて胸の熱いまま動くことも出来なかった。だが、平蔵の思いをよそに密偵たちの必死の探索や聞き込みも、全く霞の上の出来事のように影すらつかむことが出来なかった。平蔵と筆頭与力の佐嶋忠助は絵図面を開いて、これまでに届けのあった被害者の場所や店、奉公人、被害額など詳しく書き込んでいた。そこに浮かび上がったものは常に同じ条件が揃っていたのである。「のう 佐嶋!こいつは少々変だと想わねぇか、押し込みに入られているところは皆小料理屋や小商いの茶屋ばかり、おまけに被害額はその場で即座に手に入ぇる小金と来ている。こいつぁ大掛かりな仕掛けなどなく、行き当たりばったりと見るがどうだな?」「確かに・・・・・おかしらの申されます通り、計画的と言うには稼ぎが少のうございます。おまけに小料理屋や茶屋など店構えも小さく、従いまして中に詰めている人数も限られたものばかりと見受けられます」「ウム まさにその通りよ、こいつぁ俺達が抜けておったやも知れぬ、早速町方より被害の届出書を借り受けてまいれ、それとな、この間に料理屋などに連れ込まれて懐をやられた者がいないか、それも解るだけでも聞き出してくれ。ついでにだが、女に誘われて懐をやられたものの被害届があらば、其奴の身元も確かめておけ。う~む 確かにうかつであった」平蔵の顔に暗闇の中にも遠くにささやかな明かりの見えたことを読み取ることが出来た。届けのあった被害者の聞き取り書から、本人のお店(たな)の名前と主の名前が書きだされた。「よし、明日から俺とお前でこの店の主から聞き取りをいたそう」そういった平蔵の顔はどこか安堵の色が浮かんでいる。翌日から二人の聞き取りが始まった。無論与力・同心にも隠密の行動である、これは木村忠吾の立場を配慮してのことであり当然であろう。それから数日後には情報が集まった。それによれば、賊は3名で、一人は女のようであり、左の目尻にほくろがあることが判明した。他の一人は上背もあり、がっしりとした体躯からもこの中では頭分のようであること、残りの一人は痩せ型で、甲州訛りがあった。連れ込まれて懐をやられた数名の物の口からは確かに左の目尻にほくろがあったことが一致している。その日遅く再び密偵たちにつなぎが届いた。「遅くからすまねぇ、集まってもらったのは外でもねぇ先にあった十手を小道具に使った押し込みの一件だがな、明日からお前ぇたちにこいつらの条件で聞き取りをやってもらいてぇんだ。聞き取り先は牛込・四谷・小石川あたりの小料理屋で、一見の客で男連れで立ち寄った女を当たってくれ、左の目尻にほくろのあるのが特徴だ。沢田はこれまでに被害のあったお店(たな)の主に、このほくろの女がおったか確かめてくれ。おそらくはこいつが決め手になるだろうから、心してかかってくれよ、頼むぜ、そしてな、こいつが大事の一番だが、もし其のような女連れがあったというおたながあらば後日十手を見せてお上のご用と言ぅて店を尋ねる奴があらば、決して店を開けるではない、そやつらは盗人だと言い含めておけ、そうして近くの番屋にすぐ届けるように申し渡しておけ」平蔵の言葉に密偵たちは気の引き締まる思いで耳を澄ましていた。数日が瞬く間に過ぎ去った。その間にまた一件押し込みがあった。町方からも盗賊改めに非難の矛先が向いたことは当然のことであったが、平蔵は自分の胸一つに納め、盗賊改めとして表立っての騒ぎは控えていた。その日は日差しも高々と上がり、川風も無く重苦しい時ばかりが流れていた7月も半ばに差し掛かっていた。密偵たちの昼夜を問わない聞き込みの成果が見えてきた。真っ黒に日焼けして見る影もないおまさの肌から汗が滴り落ちていた。「長谷川様、どうもその女は(おかじ)という名のようで、内藤新宿法善寺前の小料理屋にしては少々大商いのおたな都留屋に幾度か客連れで寄ったそうで、店の者もよく覚えていたそうでございます」「なに!女の身元が判明いたしたか!おまさよくやった!いやよくやってくれた!でかしたぞおそらくは奴らもそろそろ潮時と読んでいるのであろうよ、其の都留屋ともうしたな、奉公人は何名ほどかな?おまさお前ぇのことだそこんところも・・・・・」「はい そのところはまかないの話しによりますと、主人夫婦と番頭それに板場の板長の四名が寝泊まりをいたしておりまして、後は通いだと申しておりました」「それだ! 大商いの割に寝泊まりは少人数、こいつは押しこむにゃぁ好都合ってぇもんだ なぁ!よしそこに的を絞って昼夜交代で見張れ!わしも出向こう、ああ五鉄の三次郎に差し入れの手配も頼んでおこう、済まぬが早速五郎蔵や彦十にもかようわしが申していたと伝えてくれ!暑いさなかをすまぬのうおまさ」「長谷川様、まさはそれが仕事でございます、では早速つなぎを」と、おまさが裏木戸を開けて出て行った。その夜からおまさに彦十、五郎蔵に粂八、それに伊三次が応対で昼夜見張りを続けた。それから二日目の夜、軒にさげた風鈴の音が絶え間なくなり続ける夜半動きがあった。法善寺脇の小間物屋上総屋一兵衛宅の店の二階が雑貨の置き場になっているのを無理を言って借り受けていたが、少し斜向かいではあるものの都留屋の店はよく見える。「五郎蔵さん 起きておくんなさい!」粂八の声に五郎蔵が大きな体をむっくりと起こした。「動きが出たかね粂さん・・・・・」「へぇこう暑くっちゃぁ寝てもいれやせんや、風鈴の音がやんだので風も止まるかとひょいと外を覗きやしたらこの月明かりでさぁ、人影の動く気配がしやしてね目を凝らしてい見ると三人の影が都留屋の戸を叩いているじゃぁござんせんか、もう子の刻なんで店の者はとっくに休んでおりましょう、そこをついたようで、店の中に入って行きやした」「わかった!おまささんは彦十の親父っつあんとこのことをすぐに長谷川様におつたえしてくれ、伊三さんは残って、向かいのおたなを見て来てくれまいか、その後長谷川様に報告を頼みてぇ、俺は長谷川様のお言いつけ通り奴らの跡をつけて行く先を突き止める、お前ぇさんは俺と一緒にきて、奴らの逗留先をつき止めたら長谷川様につないでくれ、急げ!」4名が上総屋の店の陰に潜んでいると、都留屋から3人の姿が出てきてそのまま内藤新宿をへて甲州街道の方へと向かっていった。五郎蔵と粂八はひっそりとその一行の後を粘りながら微行(つけ)ていった。一行が足を止めたのは下高井戸宿の曹源寺裏手の奥にある百姓屋であった。落ち着く先が決まった所で粂八が清水御門前の役宅に走った。下高井戸から清水御門の役宅まで片道三里の道を粂八は駆けた。役宅ではすでに出かける用意の整った平蔵や佐嶋忠助が控えており木村忠吾の顔も見えた。平蔵一行が下高井戸に到着したのはすでに日がゆるやかに昇った頃である。相手は3名ということもあり、捕り方もなく平蔵以下少数の手勢で廻りを固めた。寺の奥まった場所なので、普通には人の通りも無い、「どうだ 動きはないか?」平蔵の登場に五郎蔵は安心した風で「へい 昨夜以来全く出入りもなく、廻りを確かめやしたが裏から逃げた様子もございません。今朝ほど男が一人井戸端に出て水を組んでいたようでございますので、まだ中はそのままと存じます」と報告した。「おおご苦労であった!、奴らが動きを始める前に打ち込もう、佐嶋は忠吾と五郎蔵達で裏手に回れ、残りの者は家の前を3方から囲むように包み込んで逃さぬように打ち込みをかける、いそげ!。表から平蔵が戸を蹴破って打ち込みをかけた、おまさと彦十、それに粂八、伊三次が両翼で睨みを効かせ、横からの逃亡を監視する体制であった。ドン!と大きな音とともに戸が打ち倒され、「火付盗賊改方長谷川平蔵である!神妙に縛につけばよし、手向かい致さば切り捨てる!」と 語気も鋭く飛び込んだ。まさか盗賊改めが打ち込もうとは予想もしなかったらしく、抵抗する暇もなくあっという間の捕縛劇は終焉を迎えた。平蔵の見込み通り女達は旅支度の真っ最中であった。下高井戸の番屋に連行され、軽く平蔵の取り調べを受けた後翌日清水御門前の火付盗賊改方役宅の庭に引き据えられた。立会は与力筆頭同心佐嶋忠介と同心木村忠吾の2名であった。「おかじとか申したなぁ、お前ぇこの男の顔に見覚えはねぇか?」と渋扇で忠吾の方を指し示した。「旦那 男なんてどれもこれもおんなじで、みな鼻の下が長うござんすよ、特にこの旦那は簡単に私の誘いに乗りましたのさ、それがまさか火盗のだんなとは・・・・・ははん!ご時世もおしまいでござんすね」と木に竹をくくった返答に「んんっ き、きさま!」忠吾が思わず腰を上げた。「控えい!お取調べ中である」佐嶋の重く響く声に忠吾はしぶしぶと腰をおろした。「おい女!お前の申す通り、男はおなごに弱ぇものよ、だがな その男がなくちゃぁこの世は成り立たぬ、お前ぇもそうであろうが、この世のからくりはどちらが上でも表でもない思い様でどっちにでもなっちまうものよ。だますほうが悪いのか騙される方が悪いのか、のう お前ぇは騙す方に回っただけのこと、この男は見ての通り人のよいのが表看板故に騙される方に回っただけの違ぇで罪としちゃあぁ可愛いものだぜ、だがな!流れ働きとは申せ盗人に上も下もねぇ行く先は定まっておろう、少なくとも閻魔様のお見逃しはねぇぜ、おれも鬼と呼ばれた火付盗賊、手加減はせぬ故覚悟いたせ厳しい詮議が待ち構えておるからな、お前ぇがこれまでにたらしこんだ男が己の行く先を踏みにじられて追われた者や店を畳んだものもおる、その難儀を想えば簡単に口を割るんじゃぁ面白くもおかしくもねぇ世間を騒がせ人身をかき回した報いを今から覚悟して待つのだな。死罪には致さぬ。その言葉を聞いて取り調べ中の3名の顔にほっと安堵の色が浮かんだ。「だがな!それより苦しい余生が待ち構えておるぜ、それを今からじっくり生涯に亘って噛みしめるが良い!佐渡はさしもの閻魔様も逃げ出す所だそうな、何しろ無事に帰ぇった者がおらぬでな」平蔵は歯をくいしばって睨み返すおかじを見下ろしながら、「佐渡の金山(おやま)は男も大勢居るゆえお前ぇも色香で困ることはあるめぇ、せいぜい励むがよかろう、最も何日持つかはお前ぇ次第だがなぁ己の報いをしっかり受けろ!」平蔵の突き放す言葉に打ち捨てられた枯葉のごとくその場に崩れてゆく。こうして長い苦労の末の事件は解決した。平蔵は軍鶏鍋屋五鉄の2階に集まった密偵たちにねぎらいの宴を設けた。「こたびは皆に心配ぇをかけた、暑い最中昼夜を問わねぇお勤めはさぞや大変であったと、この長谷川平蔵改めて礼を申す」平蔵は深々と頭を下げた。「長谷川様!!」密偵たちはこの平蔵の気持ちが痛いほどよく判っている。この御方のために、この御方だからこそ犯罪者という名を背中に背負っているにもかかわらず何も変わらず扱って下さる、この方に出会わなければ先の盗賊同様、佐渡の土になる定めだったのかもしれない。一同は顔を見合わせ、改めて平蔵の嬉しそうな横顔を見つめた。「ううん 美味ぇぜ!さぁ早く盃を干さねぇか ええっ!いやご苦労であったなぁ」この場に木村忠吾の顔が見えない、これも平蔵の気遣いである。だがこの平蔵の思いも、当の忠吾はいかように受け止めているのであろうか?それから半月も過ぎないうちに、木村忠吾の顔は雑司ケ谷西青柳町の出会い茶屋(たむら)にあった。「おさき!お前に逢いとうてこうして御役目の途中をぬけだしてきたのだぞ」・・・・・ 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