時代小説鬼平犯科帳 2015/05/10 鬼平罷り通る 5月第2号 深川万年橋 深川万年橋 「おたみちゃんじゃぁないかい?」ここは本所深川永代橋を北に7町程上がった万年橋たもとである。声をかけたのは50がらみの渋い男、見るからに商人風の風体である。振り向いたのは少しやつれては見えるが、ほっそりとした小面の町下の女・・・・・・「えっ?」後ろから追いかけてきた言葉に身を少し傾けて振り返る「あっ やっぱりおたみちゃんだ」「あれ? もしかして長さん?」「久しいねぇ 突然行く方知れずになってしまって、もう何年だろうね」男は女の傍に寄りながら遠い思い出を探るようにおたみを見つめた。「あれはお父っつあんが商いに失敗して、取り立てから逃れるために夜逃げした時だから30年は過ぎたかしら・・・・・」おたみと呼ばれた女は懐かしげに過去を思い出したような風情で空を見上げた。真っ青な空に筋雲が刷毛で引いたように一筋深川の空をよぎっていた。たもとの茶店に腰を下ろし、出された茶をすすりながら「そうだったのか・・・・・私はおたみちゃんの姿が谷中から突然消えたので神かくしにでもあったのかと、随分心配したもんだ」おたみに長さんと呼ばれた男が茶を口元に運びながらおたみの横顔を見つめる。この男長次郎はおたみとは同郷の谷中天王寺そばにある百姓町屋の生まれであった。当時おたみの二親はろうそくや数珠などを店先に並べろ小商いをしていたが、山師っ気があり人のよいところが裏目に出て、度々騙され、とうとう夜逃げを余儀なくされた経緯(いきさつ)があった。「長さんはあれからどうしたの?」おたみは長次郎の横顔にそう問いかけた。「俺かい、おれはおたみちゃんが消えた後丁稚奉公に出たのさ、奉公先は北本所の吾妻橋たもとの中郷竹町にある呉服屋(結城屋)ちょうど前を竹町之渡しがあって、大川を登り下りする船が色んな所から出入りしていて賑やかなところだよ。「ずっとそこに?」「そうだなぁ お店(たな)に奉公に上がった頃は大旦那がいらして、そりゃぁとても優しい方だった。俺みたいなはなたれ小僧にも、お店が終わって夕餉(ゆうげ=夕食)を済ませたら、大旦那様が自ら手習いとそろばんを教えてくださった。丁稚小僧でも末は店の一つも構える心構えが大切だといつもおっしゃって、そりゃぁ上下無く教えてくださったもんだ。おかげさまで俺も今じゃぁ番頭を勤めさせて頂いているんだ」「へ~ 偉いんだぁ」おたみは嬉しげに長次郎を見あげた。「俺の話ばっかしで、おたみちゃんはどうしていたんだい?」「あたし・・・・・・あたしは・・・・・・」おたみは返事をつまらせてじっと目の前に流れる大川を上る川船を眺めていた。「長さん、船を見ているとゆらゆら揺れる姿が何だかこれまでの生きた証のように見えるわねぇ」ふと漏らすおたみのかすかな震えを帯びた言葉に、長次郎はおたみのこれまでの人生があまり楽しい思い出がなかったことを感じ取った。「長さん女将さんや子供さんはいるんでしょう?きっと素敵な人なんでしょうね」おたみは足元の日向にそっと足を伸ばしてその影をゆらゆら揺らせた。「俺が40になった時、大旦那様が(そろそろ身を固めて、さらに商いに精を出せばと薦めてくださって、同じ呉服屋(那賀屋)さんの下働きをしていた(すず)と言う娘と縁を結んだのだがね、5年後の流行病であっけなくあっちに逝っちまった。 子供もいなくて、それ以来俺はお店の離れに棲むようになって、今じゃぁ大旦那様も亡くなり、後を継がれた若旦那の後見役も兼ねた気楽な身分さ」「そう それは寂しいわね・・・・・」「おたみちゃんはどうなんだい?おたみちゃんの器量だ、きっといい旦那と巡り会えたんだろうね」長次郎は少しさみしげなおたみの顔色を読むように振り向いた。柳が川風に揺られて草緑の風を爽やかに運んでくる。「あぁ 気持ちがいい・・・・・・」おたみは長次郎の話をそらすように風が頬に触れるのをいつくしむように眼を閉じた。鬢のほつれがゆらりと流れてキラリと光った。こうしておたみと長次郎が会瀬(おうせ)を重ねるようになって1年が過ぎた。これまでに長次郎がおたみの口から聞いたうちでは、おたみも18で商家に入ったが、5年たっても子が授からず石女(うまずめ)と呼ばれて、散々いじめられ、挙句逃げ出すように家を飛び出し、東橋から大川に身を投げようとしたところを、通りかかった花川戸の香具師の元締めに助けられ、そこで下働きをして生き延びたという。その頃の仕事が助けになり、今はよろず承り家業の看板を出すまでになったと言う事であった。よろず承りとは、今で言う何でも屋、引っ越しから買い出し、部屋の掃除からおさんどんまで困り事全般引受処という漢字である。何しろ江戸は女が極端に少なく、箱根の関所でも「出女に入り鉄砲」と言われるほど江戸から出ることを厳しく戒めていたことでも判る。いわば男尊女卑どころか実際は全くその逆で、一度女房に逃げられたら再び女房を持つのは至難の業、この時代をしたたかに生き抜いていたのも実権を握っていたのも実は女であった。髪結いの亭主なんてのは、まさに男のあこがれの姿である。まぁそんなことは横に置くとして、おたみは仕事の内容次第で人足手配をやっていた。これは花川戸の香具師の元で培った人脈が物を言ったわけだ。こうして時折この万年橋のたもとの茶店で会うのが、二人にとって一番のやすらぎであり心やすまるひとときでもあった。今は本所深川千鳥橋を渡ったところにある堀川町に間口2間のささやかな店(千鳥屋)を構えている。近所の者からも千鳥屋の姐さんと親しまれているおたみであった。このところ度々外に用事を作っては出かける大番頭に結城やの主人藤二郎は首をかしげ、「長さん今日はどちらまで?」と意味深な顔でにこやかに笑う。「へぇ ちょいとそのぉ」「まぁ時には腰を据えてお店のまもりもやってくれないものなねぇ」と笑うほど、この長次郎はよく外出をするようになっていた。夕餉の食事をしがら「この頃の長さんはどうも様子がおかしいね!何処かにいい人でも見つけたんじゃァないかねぇ、それならそれで私も死んだお父っつあんに嬉しいご報告が出来るってものさね」藤二郎は女房のお静にそう話していた。どうにも気になって仕方のない藤二郎は、長次郎が出かけたその後を丁稚に微行させて、本所深川の万年橋たもとの茶店で女と親しげに話している長次郎を目撃して報告した。その日も夕刻に店に戻った長次郎に「長さん好いたお人がいるみたいだねぇ」と誘い水を向けた。「えっ 旦那様は何でそのような事をご存知で?」長次郎は一瞬驚いて藤二郎之顔を見た。「あんまり長さんが度々出かけるもので、店のものも女房のお静も気になってね、それで今日はお前さんの出先に小僧をつけたのだよ」「やれやれ それは又申し訳もございません、旦那様にまでいらぬ気遣いを致させましたようで、長次郎深くお詫び申し上げます。」「おいおい長さん、私は嫌味を言っているんじゃぁ無いんだよ、それどころか長さんにいい人ができてくれたらこんなに嬉しい事はない、出来ればここらで身を固めて暖簾分けでも出来れば、私は死んだお父っつあんとの約定が果たせるってもので、これでやっと肩の荷が下りるというおめでたいことじゃァないか」「旦那様・・・・・」「私はね、小さい時から長さんを兄さんみたいに想って育ってきたんだよ、それは長さんもよく知っているだろうね。おとっつあんからいつも聞かされる言葉は「長次郎を見習え」だったのさ、時にはシャクでもあったし悔しくもあった、でも長さんが私に与えてくれた気持ちの優しさはいつも寂しい一人ぼっちの心を温かく包んでくれたものさ。長さんの女将さんが流行病(はやりやまい)で亡くなった時は、私も自分のことのように悲しかった、それだけに長さんがもう一度女将さんを迎えてくれればこんなに嬉しい事はないんだよ」「旦那様・・・・・・そこまでこの私のことを」「あたりまえだよ、私が近所の子供にいじめられていると、いつも長さんが身を張ってかばってくれた、ひどい時は体中アザだらけになって、鼻から飛び散った血を拭いもしないで私の前で仁王立ちにかばってくれた、今もはっきりと覚えてますよ」あははははは 「そんな時もございましたねぇ・・・・」「そうだよ、今でもこの店にとっては長さんは大黒様みたいなものだよ、でもね、そんな長さんにいい人がいるなんて知ったからには、これはお赤飯で祝わなきゃぁねぇお静」「その通りでございますよ、まだまだ男盛りの長さんだもの、旦那様に暖簾を分けて頂いて、新しい店を出されればこんなに喜ばしいことはございませんよ」お静も心から長次郎の事を案じていただけにこの小僧の報告に心が踊っていた。それから半月あまりの時が流れ、柳もめっぽう色艶を増し、流れる風にも涼しさが感じられるようになっていた。長次郎がおたみの店に姿を現したのはその頃であった。店の用事で南八丁堀の呉服問屋(あかね屋)に出かけたついでに立ち寄ったものだ。おたみも突然の長次郎の訪問を驚きを交えて喜んだ。「ちょっと待っててくださいね、この手配が終わったら手が空きますので」そう言っておたみは出入りの男衆に指図をし、帳面つけを終えて戻ってきた。「今日は良い所に来てくれたわ、出入りの棒手振り(流し商い)が生きのいい甘鯛が手に入ったからともってきてくれたので、それをさばこうと思っていたところだから、ね!食べていけるでしょう?」と水屋の方に消えた。女の城にしては殺風景な居間で長次郎はおたみの用意した酒肴を膝前に、キョロキョロと辺りを見廻した。「いやですよ長さん!そんなにジロジロ辺りを見回さないでくださいな、何だか裸の自分を見られているようで・・・・・・」「ああ こいつは済まなかった、久しく女っ気のない生活だったもんで、それにしてもおたみちゃんは・・・・・・」「女っ気が少ないって思っているんでしょう」おたみは笑いながら手料理を運んできた。「いやそんなつもりじゃぁ・・・・・でも確かにそう言われればそうかなぁ」「あっ! やぁね こう見えてもまだまだあたしは女を捨てたわけじゃぁありませんからね!」「やぁこりゃぁ一本取られましたよ」長次郎は苦笑いしながら杯を取り口に運んだ。「こうして女の人を前に酒を飲むなんて久しくなかったからどうもいやぁこりゃぁバツが悪くて・・・・あはははは」「あたしだって、嫁に行った先でも姑が何でも仕切ってたので、二人で御膳を囲むなんてことはなかったし、ふたりきりの生活はなかったから、そうねぇ確かに気まずいことは判るわ」おほほほほ、と顔が耀いた笑顔で心のなかから楽しいという思いがにじみ出ていた。「甘鯛はね京都ではグジっていうんだって、白身で脂肪が少なく、水っぽさがないのがいいんですよ。中でも静岡の興津白甘鯛は美味しいと評判なんですって身が柔らかいので薄塩で身を締め昆布シメにして刺し身にしますのさ、身を千切りにして酒で表を拭いた塩昆布とおろしワサビで昆布がしっとり馴染むまで挟んで置いておき、しばらくしたら昆布を細く切りそろえ塩と酢橘を振って頂くのが一番美味しいそうですよ。その間に松川造りを、こちらは皮と身の間に旨味があるので3枚におろしてハラスをそぎ落として小骨を抜き取り、皮の表に晒を掛けて煮え湯をかけますのさ、すぐに水に浸して熱を取り晒で水気を吸い取らせ、切りそろえて器に盛る、それだけのことですけど・・・・・」「ううん 旨い!この皮目が又綺麗で歯ごたえもよく、なんといっても甘い!おたみちゃんの気持ちが現れているようだよ」長次郎は家庭料理の温もりを初めて味わったようである。「ねえねえ このお汁はどぉ?」待ちきれないようにおたみは次々と料理を並べる。「おたみちゃんも食べなよ、俺一人食べるのは気が引けて気が引けて・・・・・」「まぁそんなぁ あたしはこうして手料理をこしらえて、それを美味しそうに食べてくれる長さんの顔を見るのが一番嬉しいし幸せなんですよ」とそそくさと水場に戻る。「おたみちゃん この汁も美味いねぇ!」「ああ それはね甘鯛の潮汁といって、お酒で拭いた昆布を土鍋に入れてしばらくつけ置きしてから出汁を取るのよ、煮立つ前に昆布を取り出し、アラに煮え湯を掛けて血合いや余分なものを流すの、綺麗に取れたら昆布出汁に身とお酒を入れて少し弱めの火で煮立つ寸前に弱火にするのがコツかなぁ。アクは丁寧に取り除かないとせっかくの色目が壊れちゃうから、身に火が通ったら塩で味を整えて香りつけに醤油を垂らすの、仕上げは柚子の皮二欠け三欠け・・・・・・は~いお待ちどうさま、甘鯛の鯛めしですよ、これはね、ウロコを落として臓腑を抜き綺麗に洗って水気を取り、研いだ後、少し上げざるにして水気をとったお米を土鍋に入れて、昆布出汁やお酒、薄口醤油にみりんを入れて、甘鯛を乗せて炊きあげるの。仕上げはお酒を振りかけて、なべに水気を絞ったフキンを掛けて蓋を閉め少し蒸らしを入れると出来上がり!ねっ!」「うん、こいつもおいしい 香りもいいし・・・・・・けど・・・」と途中で言葉を濁した長次郎に「けど何よ?」「うん 毎日これだと大変だぁ、作るだけで日が暮れちまう」「だからあたしの商いが成り立つのよ」「そうか そうだよなぁ、おたみちゃんは頭がいいからなぁ」「それは関係ないわよ、これも私を拾ってくれた花川戸のお頭のおかげなのよ」この温もりを大切にしたい、そう想ったのは長次郎だけではないようだ。「ねぇ 長さんまたいつでも来てくださいな、こんなに楽しい時を過ごせたのはほんと 初めてよ」おたみは心の底からそのように思っている。「うん また寄せてもらうよ」「約束よ 指切りげんまんしようよ!」「よし 指きりげんまん 嘘ついたら針千本飲ます!!指切った!」あはははははは初夏の香りが大川から上がってくる静かな、そして幸せなひとときであった。数日後おたみの元へ長次郎が訪れた。手に鍋を提げている。「なぁに鍋なんか下げて・・・・・」おたみはおかしそうに笑った。「昨夜相生町の軍鶏鍋(しゃもなべ)や五鉄と言う所で寄り合いがあって、そこで食べた軍鶏の臓物鍋が実に美味しかったので主の三次郎さんにご無理を言ってこうして鍋を借りてきたというわけさ、なぁに二人で食べにゆけば済むことだけど、おたみちゃんとふたりきりで囲むのが俺には一番の楽しみなんでね、そんな話をしたら、三次郎さんは快く胸を打って(ようがす、どうぞお持ちになすって)と鍋を用意してくださったのさ」「まぁ長さんったら可笑しな人!」そう言いつつもおたみも楽しげに夕餉の支度にかかった。「こいつはねぇ新しい軍鶏の臓物と新ごぼうのササガキと一緒に出し汁で煮ながら食べるのが一番!、暑い時にふうふう言いながら流れる汗を拭い拭い食べる、その後ひと風呂浴びる、こいつがもう堪らないんだよおたみちゃん」長次郎はまるで子供のように目を輝かせておたみの反応を確かめる。「何だか聞いているだけでもう あたしなんか鳥肌が立っちゃう ほら 見て見て!」そう言って腕をまくってみせた、そこには一筋の傷跡が・・・・・・慌てて隠そうとするおたみ「おたみちゃん 苦労したんだね、おれがおたみちゃんを探し続けてさえいればそんなことまでおたみちゃんを追い込むこともなかったろうに、ごめんよほんとにごめんよ・・・・・」おたみはその場に泣き崩れた。「実はねおたみちゃん、今日は旦那様からお許しを得て俺は暖簾を分けてもらえる事になり、お店の場所も決まったんだよ、旦那様のご紹介でね南八丁堀に一軒お店を出させていただくことになったのさ、そのお祝いにとこうして軍鶏鍋下げてやってきたってわけさ」「まぁほんとに鍋釜下げってって言うけれど、可笑しい!どんな顔して二つ目から歩いてきたのかしら、うふふふふふ」おたみはその長次郎の姿を想像して楽しそうに笑った。その翌月、ここ南八丁堀5丁目角に呉服屋(笹乃屋)が店開きの準備にかかっていた。無論この店は長次郎が暖簾分けしてもらった呉服店である。店の前でかいがいしく男衆に指図しているのはおたみであった。長次郎は最後のご奉公にと結城屋の集金に出かけていた。夕方近くおたみは夕餉の支度を整えて、明日から始まる長次郎との新生活に胸を膨らませていた・・・・。だがいつまで待っても長次郎の姿はこの新所帯に現れることはなかった・・・・・・翌日朝、本所菊川町の長谷川平蔵役宅に番屋から通報があり、深川の御厩川岸で昨夜辻斬があり50がらみの男が殺害されたということで、早速筆頭同酒井祐助ほか数名が駆けつけた。懐に残されていた掛取り証から北本所の中郷竹町にある呉服屋(結城屋)の者であることが判明した。どうやら懐の集金した金子を狙っての辻斬であった。「銭金を盗むのは理由(わけ)もあろう、だがなぁ、幸せまで盗むのは誰にもありはせぬ!許せねぇ、だがそいつをひっ捕らえたとて、盗みとられた幸せは、戻っちゃぁ来ねぇんだ、あまりに不条理ではないか・・・・・・のう酒井!虚しすぎるぜ 胸が痛んでいかぬ、せめて盗人を捕まえて・・・・・・辛ぇだろうなぁ・・・・・・」平蔵は役宅の庭に咲き誇っている梅花ウツギの白さが残された女の哀しみに重なって目に染み、時折吹いてくる優しさを伴った微風に目を閉じたままいつまでも佇んでいた。絵図入り 時代劇を10倍楽しむ講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/ [0回]PR