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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 9月


松平越中守定信  筆頭老中着任時 29歳であった。

鬼平誕生
天明三年浅間山の大噴火が起こり、その被害は甚大なもので、後に天明の飢饉と呼ばれ、これにより田畑を失ったり禄を離れた浪人などが江戸に大挙して流れ込み、これらにより天明七年江戸・大阪を中心に地方三十箇所あまりでも打ち壊しや暴動、盗賊事件が頻発。
時の老中田沼主(との)殿頭(ものかみ)意次の政策であった囲米も放出を余儀なくされた。
これを鎮圧するには南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら)・北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)だけでは手が足りず、このため先手弓組一番の盗賊火付御改(火付盗賊改方)堀帯刀秀隆(ひでたか)も打つ手なしという体たらくに、実戦部隊である御先手弓組十組に鎮圧の命が下った。
この時加わったのは西之丸先手筒組奥村忠太郎を組頭に以下、鉄炮(つつ)組(鉄炮隊)七・六・十九・十七・二・九。弓の二・六弓組。
弓の二組頭であった長谷川平蔵は与力七十五騎・同心三百名を率い出動した。
その働きぶりには目をみはるものがあったとある。
当時、老中牧野越中守忠精(ただきよ)は
「手に余れば切り捨てゝよし」
と下知を下した。
これが後に盗賊改の伝家の宝刀となる始まりでもあった。
町御役所はその大半が文官であるが、盗賊改は実戦部隊の武官であった。
今で言えば奉行所は東大。盗賊改は防衛大と言う感じだろう。
盗賊改は捕り方はおらず、その全てが同心である。
出張るおりは、与力が騎馬で出張り、長官(おかしら)は出張ることはなかった。
天明六年、老中首座に就いた松平定信は、田沼政権下での西之丸仮進物徒であった田沼意次一派の一人、長谷川平蔵も忘却しておらず。これにも憎しみは向けられ、翌天明七年、御先手(おさきて)弓組二組頭である長谷川平蔵は老中の命により、火付盗賊改方助役(すけやく)を加役される。まさに絶妙の好機であった。
この御先手弓の二組は長谷川平蔵が着任する一年半ほど以前、当時火付盗賊改として名を馳せた横田源太郎松房であり、その前は豪腕贄(にえ)越前守正寿が当たっていた。
すなわち、天明七年五月二十日夕刻より始まった天明の打ちこわし事件が勃発したのである。
五月十五日過ぎより、両国橋・永代橋・新大橋から大川へ身を投げるものが続出し、渡し船からさえも身を投げる者が出た。このために十八日以降は渡し船の運行を禁じた。
時の奉行は南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら)。北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)。火付盗賊改方堀帯刀秀隆(ひでたか)であった。
だが堀帯刀は役職にあまり乗り気でなく、鎮圧に消極的であった。暴徒と化した者の中には無宿人も見受けられ、これらに扇動されて更に油を注ぐ事となり、二十日夕刻赤坂の米屋二~三十軒を皮切りに、夜には深川でも打ちこわしが勃発。
鐘や太鼓、半鐘、拍子木など、音の出るものは何でも抱え、打ち鳴らしを合図に乱入。
こうなると群集心理の凄まじさで、あらゆるもので押し入り、家財から調度品まで破壊し、米、味噌、醤油、酒とありとあらゆるものを路上や川にぶち撒いた。
だが、これも鳴り物で合図されると一旦取りやめ、休息を取るなどかなり組織化されていたことが伺える。
こうして次第に押し買い(買い手が値段を決める)が頻発。これを拒否する場合はそこを打ち壊した。
この最中にも、商人は賂(まいない)を贈って武家屋敷に米を隠匿した。
そんな中で火付盗賊改方堀帯刀の屋敷へも運び込まれた。
五月二十三日、これを鎮圧するために御先手組に出動命令が出たのである。
二十四日、芝・田町を最後に、翌二十五日、さしもの打ち壊しも、やっと終止符を打ったのであった。
江戸の打ち壊しにあった家屋五百軒あまり、その内の四百軒は米屋、米搗(ひ)き屋、酒屋など飲食関係であった。
中では大阪城代下総(しもうさ)佐倉堀田相模守御用の米蔵が警護の厚いさなか打ち壊され、油問屋の丸屋又兵衛も打ち壊されてしまった。
老中よりのご注進にも関わらず、その実情を将軍徳川家斉(いえなり)に問い正された田沼意次の懐刀御用御取次横田準松(のりとし)
「市井(しせい)はこれ平穏無事にござります」
と答えた。
だが、これは隠密の調べで膨大な被害があったことと判明しており、この事件で横田筑後守準松(のりとし)は罷免。田沼意次の屋台骨が一気に崩れた事件でもあった。
これを機に御三家を後ろ盾に擁立して松平定信が老中に躍り出たのである。
この時松平越中守定信、将軍補佐という役柄から、将軍家斉(いえなり)に
「御心得之箇条」より、
「六十余州は禁廷(きんてい)より御預りいたしたものの故に、これを統治することこそ武家の棟梁(とうりょう)の本分であり、それがひいては朝廷に対する最大の崇敬でござります。
故に、たとえ朝廷とあれども将軍の政(まつりごと)に口を挟むことは許されるものではござりません」
と断じた。
しかし当時この「大勢委任論」は、幕府が認めたものではなかった。
後にこの考えが存在した為、黒船来航以後、その責任を幕府が負わされることとなり、結果的に一橋徳川慶喜(よしのぶ)によって大政の奉還に発展したのである。
これを機に翌八年、田沼政権の残党老中が一掃され、松平越中守定信の老中首座の地位が堅固となり、時を同じくして長谷川平蔵へ火付盗賊改方本役が下知されたのであった。

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