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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平まかり通る  8月号


田沼主殿守意次 たぬまとのものかみおくつぐ

平蔵見参


京より戻った平蔵、老中板倉佐渡守勝清より小普請支配長田越中守元鋪組配下の 沙汰がある。                                     小普請組は小普請金を納めさえすれば何もすることはなく、千代田城や寺社など の修繕が担当の非常勤であった。                         京での思慕の情に耐えきれず、これを忘却しようと思ったのか大通(だいつう)と呼ばれる洒落た格好で郭(くるわ)に通いつめるも、それは虚しさを増すばか    りで、いに父宣雄が蓄えまでも使い果たしていた                                  これを嘆いた西之丸書院番頭であった水谷(みずのや)伊勢守勝久、老中筆頭 松平武元に、自分の先祖が平蔵の父宣雄と同じ備前岡山藩藩主であったところ        から、長谷川平蔵宣以を西之丸書院番士に推薦したのである。                          もとよりこの長谷川平蔵宣以の父長谷川平蔵宣雄は自身が抜擢して盗賊改に加役 し、京都西町奉行に任命した経緯もあり、この嫡男平蔵宣以も見知り置きの者で     あっため、これを快諾したのである。                                         長谷川平蔵に西之丸書院番頭水谷伊勢守勝久より呼び出しがあり、西之丸御用部 屋に祗候する平蔵へ                                      「平蔵!そなたの祖母は、我が曾祖父備中松山藩馬廻り役藩士三原七郎兵衛の娘御であるが、藩改易の折三原殿は浪々の身となられた。                   西之丸御小姓組であったそなたの祖父長谷川権十郎宣尹(のぶただ)殿は病弱の 由、その手伝いに上がっていた折見初められ、やがてそなたの父宣雄殿が生まれたそうな。                                    儂の曾祖父は備中松山藩藩主であった故、まぁそなたとは同郷のよしみとでも申すかのぅ。                                    松山藩改易の折、城明け渡しを受取に参ったのが赤穂藩家老大石内蔵助良雄殿、当時水谷家家老は鶴見内蔵助であったと言う事で、話し合いもこじれることなく    無血開城に終わったのだと親爺殿によぅ聞かされたものだ」                            平蔵初めて父宣雄の出生をここに知ったのであった。                             こうして長谷川平蔵は父長谷川宣雄と同じ西ノ丸御書院番番士から新たな一歩を 進む事になった。西ノ丸御書院4組水谷組番士となった平蔵、同年に水谷勝久より田沼意次を紹介され、これを機に長谷川平蔵の通常ならば2年ほどで栄転・昇 進するお役の盗賊火付御改(火付盗賊改方)長官の重責を8年も続けるという苦難 が始まったのである。                                                     江戸幕府は御三家と呼ばれる紀伊・尾張・水戸であったが、八代将軍吉宗は自分の四人の子の長男家重を九代将軍に任命 。                                   身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗武は、父吉宗に諫奏(かんそう・抗議文)を送り、これに怒った吉宗は次男宗武を3年の    登城停止とし、これを推した老中松平乗邑(のりさと)も罷免。                次男宗武(むねたけ)と4男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、一橋徳川家も三男    は死没の為四男宗尹(むねただ)を就かせた。                           その後長男家重の次男にも新たに清水家を創設しこれに就かせ、これを御三卿と呼んだ。                                                こうして将軍家に世継ぎがない折はこの御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのであ る。         宝暦10年(1760)徳川吉宗長男九代将軍家重の嫡男家治(いえはる)は十代将軍の座につき田沼意次を側用人として起用、後、老中に任命した。           こうして田沼 意次の権勢が確立したの


 機転


長谷川平蔵は田沼意次の忠節・孝行・身分の上下にかかわらず(遺訓7箇条の  内3箇条)などの気配りや、倹約令のさなかにありながら{息抜きも必要であ        ろう}と遊芸を認めたこと、これまで無税であった商家からの納税や海外との貿     易による増収に主眼を置く重商主義にも傾倒していた。                                      田沼意次は、御対客日や御逢日は公式日程を明けの6ツ(午前6時)から朝4ツ(午前10時)の登城前までの間と定めたために、田沼邸の前には身分の差別を       してはならないという田沼家の家訓のため、身分の低い者などの陳情者もつめか    け列をなしたという。                                     時は安永3年(1774)火事と喧嘩は江戸の花と言われるように、紙と木でできた   町家はよく火事が起こった。いや起こしたと言ったほうが良い。                    この頃神田橋御門内の田沼邸近くで火事騒ぎがあった。                     これをいち早く知った長谷川平蔵は江戸城西の丸への登城を取りやめ、そのまま     馬で田沼邸に走り、下屋敷に移るよう奨め引率、その半刻後(1時間)には田沼    邸下屋敷に餅菓子が届くように手配、夕刻には食事までも届くという気配りが田     沼意次の意に沿い、翌、安永4年長谷川平蔵は西の丸仮御進物番(田沼意次への    届け物)に取り立てられたのである。                             何時の世も同じだが、この時代も盆・暮れやお世話になったり、何かを頼む時は     お礼をするのは普通のたしなみで、ごく当たり前の事である。


 謀(はかりごと)


宝暦11年(1761)春


「のう意誠(おきもと)、十代様には未だもってお子が居られぬ、このままなれば次の将軍は田安家となろう」                                     一橋家では田沼意次の弟田沼意誠(おきもと)それと甥の田沼意致(おきともが家老を務めていた。こう意誠(おきのぶ)に問いかけたのは一橋家当主徳川治斉(はるなり)であった。                             「それは順序からしてそうなりましょう」                        (さてさて殿は次が田安家と思うて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもりか)       「うむ、面白うないのぅ……」                             脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ不満そうに治斉(はるなり)            「と申されましても……」                                (やはりそこであったか)と内心思いつつも少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠(おきもと)素早く顔を庭の方に眼をかわす。                             「そこじゃぁ、のう意誠(おきのぶ)、どうであろう田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる・後の老中松平定信)であろう、これを取り除けば十 一代将軍に成る者がおらぬようになろう」                                        大名武鑑をめくりながら一橋治済(はるなり)横目に移し、後ろに控える次家老へ言葉をなげた。                                「確かに、仰せの通りに御座いますが、まずもって然様なことは……」           と次家老で田沼意次の甥田沼意致(おきとも)を見る。                 「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸(まさまる)様のお二人、お世継ぎは治察(はるさと)様と言う事となるものの、万が一治察(はるさと)様になんぞ異変が生じました折には賢丸(まさまる)様が跡目相続という事になります  る。                                                                                      それを摘み取ることは間違いなく時期将軍はこの一橋と言うことにはなりましょう」と田沼意致(おきとも)ちらっと意誠(おきのぶ)の方に視線を投げ、反応を伺う。             そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬの」               大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉(はるなり)立ち上がる。            千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下と     なっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合    わせをしていた帝鑑(ていかん)の間がある。                                    一橋治斉(はるなり)はこの前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥国白河郡     白河藩二代藩主松平定邦(さだくに)に                                「白河殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、ご同道願えますかな」         と切り出したのは安永3年(1774)のことであった。                   「これはまた一橋様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで    一言も交した覚えのない一橋治斉(はるなり)様が一体どの様な話しがあると云     うのか?訝る松平定邦くさだくに)に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと 耳打ちしたのである。                                    のう松平殿、同じ久松松平家伊豫松平藩も田安家から御実兄定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(たまりずめ・祗候席・しこうせきと言い将軍拝謁の順を待    つ大名が詰める部屋)に昇格しておられるので、もしご貴殿が同じ田安家の七男     賢丸(まさまる)様を養子にお迎えなされば御貴殿の溜詰も夢ではござりますまい、何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからなぁ。                                         その折には及ばずながらこの一橋もお力添えを致しましょうぞ               意味深な顔で一橋治斉(はるなり)                            「一橋様、それはまことにござりましょうや!」                     徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋治斉(はるなり)の甘言はまことに心地よい響きを持っていた    のである。                                   「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵などござらぬ」                        と持ちかけられた松平定邦、まんまとこの策略に乗り田安徳川賢丸(まさまる)との養子縁組を上奏したのである。                                   安永3年(1774)3月15日幕府より命が下り、松平定邦と田安徳川賢丸(まさ まる)の養子縁組が決まった。                                     想いかえせば、一橋治斉(はるなり)が、この策略を自家の2家老田沼意次の弟田沼意誠(おきのぶ)と田沼意次の甥の田沼意致(おきとも)と談義したのは13年も前のことである。                                  久松松平家は徳川家康の異父弟の松平康元・勝俊・定勝に与えられた家柄。         この3男定勝には6名の男子が有り、嫡男は早世。次男定行がこれを継ぎ、伊豫松山藩15万石の礎を築いた。                                      この定勝の3男が陸奥国白河郡白河藩二代藩主松平定邦であった。              16歳になっていた賢丸(まさまる・後の定信)もこのまま田安家の冷や飯食いで終わるのも考えものと渋々承知。                                   ところがこの安永3年(1774)9月田安家の嫡男治察(はるさと)急の死去に伴 い田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸(まさまる・定信)はこの度の養子縁組解消を幕府に願い出る。                                     しかし、時の老中松平越智守武元・板倉勝清・田沼意次の判断で、一度決定されたものを反古にすることは認められないと却下。賢丸(まさまる・定信)は白河    藩に封じ込められた状態に置かれたのである。                                  後、やむなく白河藩藩主となっていた松平定信も幕閣への未練を捨てきれず、幕閣推挙を画策し、田沼意次の屋敷を訪れた。                             時の西の丸仮御進物番士は長谷川平蔵であった。                    「何卒田沼様によしなに……」                             白河藩藩主松平定信、進物を上納したのである。その中には幕閣への推挙願いが認められていた。                                         だが残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、田沼意次の暗殺も企てるに至ったほどである。                          奇しくもこの時の御進物番士(受付係)が長谷川平蔵であったため、この男への執念もただならぬ物があったと言えよう。                               それは通年ならば2~3年で町奉行などへ栄転する火付盗賊改方を8年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、50歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。


 青い果実


十代将軍家治は、跡取りに恵まれず、田沼意次の推挙により側室となるお知保の     方との間に生まれた世継ぎ家基(いえもと)を授かった。時に宝暦12年(1762)   十月25日のことである。                              安永8年(177922118歳になった徳川家基は新井宿での鷹狩の帰り、品川の   東海寺で体調不良を訴えた。この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲む    も症状は変わらず、田沼意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出される     もこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。                  その3日後、十八歳(満16)で薨去(こうきょ・急死)             念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。           世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は     徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の4男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家      の何れかから立てることになっている。                        天明元年(1781)閏(うるう年)5月、御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田      沼意誠(おきのぶ)と田沼意致(おきとも)に                   「どうであろうかのぉ、ご老中田沼様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家  斉・いえなり)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」           と切り出した。                               それに応えて田沼意致(おきとも)                        「次番の田安家に跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じ     ます」                                    そう答えるしかなかった。                          今にして思えば20年前、この一橋家当主一橋治済(はるなり)に田安家徳川         賢丸(まさまる)を田安家から排除する相談があったことすら、当の治済は忘れ    去っているほどに長い時の流れである。                       何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの兄上(田沼意次)も此処までは     読まれなかったやも知れぬ)                           田沼意致(おきとも)と眼を見合わせた出来事であった。            しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰……そう踏     んだ田沼意致(おきとも)                           「では早速にご老中に進言為されますよう」                  と奨めたのであった。                            一橋治済からの申請を受け、田沼意次早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を     説得し、一橋家当主の徳川治済(はるなり)の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川    家斉・いえなり)を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。


時は天明元年(1781)のことである。

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