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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平まかり通る


教授先から戻り、黙したまま今日も夕餉を済ませ、茶を入れるかすみに銕三郎
「本日烏丸(からすま)に行って参りました。専純殿に、心に石を置かず在るがままにある事を教わりました。かすみどの、何一つおそれる物はない、全て私が受止めます」
かすみに向い銕三郎そう説き話した。
その言葉を聞いたかすみ、あふれ来るものを押えきれず、見る見る大粒の涙が堰を切って双眸(りょうめ)を伝い、かすみの手を取った銕三郎の掌にあふれ落ちた。
「銕三郎さま──'かすみは、かすみは銕三郎さまを裏切りました」
「何と、この私を、どうして─」
かすみの言葉の真意が汲めず、戸惑いをかくせない銕三郎を。赤く腫らした眸(ひとみ)で瞶(みつめ){わあぁっ──}と、その腕に慟哭(どうこく)した。
「お泣きなさい、心ゆくまでお泣きなさい。その涙、総べて私が受け止めますから、涙が果てたらいつものかすみどのに戻って下さい」
銕三郎、激しく嗚咽(おえつ)をもらせ、肩を震わせ泣き続けるかすみを両手一杯に抱きかかえる。
堪えていた物を吐き出すかの様に泣き乱れたかすみ、しゃくり上げながらやっと銕三郎の顔を見た。
「銕三郎はん、うちを拾ぅてくれはったんは地下人の進藤様やけど、ずっと後知ったんやけどな、こん人は赤兎馬言うお人の配下で、うちを理由あって祇園の狛のに入れはったんえ。
「赤兎馬??なんですそれは?これまで一度も聞いたこともありません。その理由とは」
「お茶屋はんはいろんなお人が出入りされはりますやろ?そんな中で話されることに耳を傍立てますんや。それからつなぎのお人に大事なことはお知らせするそれがうちに与えられた仕事どす」
「何と──魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の世界ですね」
銕三郎、江戸でも探索方には様々なやり方があると知ってはいたものの、ここまで根深いものは初めて聞いた。
「うちが十八になったおり、壬生のご隠居はんに見初められ、襟替(が)えしてもろうて、ご隠居はんの後見でここに店を設けさせて頂き、ご隠居はんの密命を帯びて六角堂のお師匠はんに引き合わされたんどす」
「では専純殿は壬生のご隠居の──」
「へぇそうどす、お師匠はんはお公家衆の方々に立華をご教授されはりますのんや、そこで出入りのおり、うちもお供で参ります。そこいらでいろいろな話耳に挟んでいましたんや」
「では一体かすみどのはどちらのお味方を──」
銕三郎このかすみの謎めいた返答に戸惑っていた。
「はじめは壬生のご隠居はんのお指図で動いておりました。けどある時地下人の進藤はんが現れ、そこで初めてうちが赤兎馬いうお人の肝いりで 駒のに預けられたこと知りました。
うちにとって命の恩人どす。どちらもうちには恩人どすえ」
「確かに─、しかし…」
「はじめは両方から言われるままに動いておったんやけど、そのうち赤兎馬と云うお人は赤入道言われたゆかりのお人とか、おまけにその後ろには吉野のお館様と呼ばれる小倉宮はんがおいやすのんや。
赤兎馬のお頭はんらは、今の御門(みかど)はんを引きずり降ろし、自分らが御門はんになる為に裏で地下官人を操ってますんや。
そのからくりが先の西町奉行隠密同心に知られ、地下侍に殺されはったんや、その隠密同心の後を──」
「私が引き継いだ──」
「そうどす、それがまさか銕三郎はんと思いもせなんだんや。そん上粟田口でおかしな出遭いがおましたやろ。
けど、うち銕三郎はんにおあいする度、指図の事忘れてしもたんえ。
銕三郎はんと一緒におる事が倖せで、毎日が夢んようどした。
尾州屋はんの事知らせた後、何や虚しゅうなって、そん後あないな事になってしもぅて……。うち銕三郎はんの事だまって隠しておりましたんや。
うち!うち!銕三郎はんを失くしとぅおへんのどす!」
泣き腫らして訴えるかすみの一途さに銕三郎、ただただその細い身体を見つめて抱き締めるしかなかった。
 
翌朝かすみは、久しぶりに銕三郎の温もりに埋れた歓びを躰一杯に溢れさせ、溌溂とした面持ちで台所に立っていた。
下りて来た銕三郎を見返り
「あっ銕三郎はん、お早ようさんどす」
零(こぼ)れんばかりの笑顔で迎える。
「おっこれは又かすみどの、一段と─」
「へぇ一段と何どすえ?」
かすみの意味深な含み笑顔が眩しい。
「あっいや何!一段と耀いて観えます」
「うふっ銕三郎はんのいけず、そない見詰められたらうち恥しゅうてあきまへん」
その応える姿は初々しい中にもをんなの匂いが溢れている。
 
朝五ッ半、ちよが背篭に花や野菜をつめて下りて来た。
出迎えたかすみを一目観るなり
「いやぁどないかされたんどすかお師匠はん!もん無茶美しゅうおすぇ」
瞳を輝かせて見入る。
「うふふ……何んかええ事おしたんどすなぁ」
「何んあほな事云うとるのどすえ、お子たちんくせに」
かすみ、急に頬を朱らめ、きっとちよをにらむ。
「ほらやっぱり当りや当りや─ええなぁ」
意味ありげに銕三郎の方をちらり…。
銕三郎親指を立て、メッと眼で叱る。
「鉄はんおおきに」
ちよは大きな瞳を瞬かせて笑っている銕三郎を見つめた。
 
夕刻ちよが里に戻って行った後しばらくして、表戸を半ば閉め、後片付をしているところに入って来た男の姿を視て、かすみの眸が驚きと恐れに固まった。
「やはりここに居ったか」
「ちゃいます!このお人はちゃいます」
観ればかすみ、蒼ざめた顔を強張らせ小刻みに震えている。
「違う?何が─」
男はゆっくりと二人の間に割って入る様に身構える。
「このお人はお客はんどす、間違えんといておくれやす」
かすみ、ゆっくりと銕三郎から離れ二階へ上がる階段の方へと移動する。(銕三郎はんの刀を取りに上がらなければ……)と言う思いがとっさに働いたのであろう。
「ほぅ、では鉄とか云う者はいずこに居る」
「今使いに行ってはります」
刺客を挟んでかすみと銕三郎が対峙する恰好で、眼で合図を送れる状態に持ち込めた。
「でたらめを申すな!すでにちよから聞いておる」
刺客は背後に気を飛ばしながら、かすみの眼の動きを読もうとかすみの正面に向いた。
「何んでやて!」
かすみの凍りつく双眸(りょうめ)を確信したように
「お前の動きが怪しいと睨まれ、お頭がちよに指図され、ちよはこの男が密かに役所に入るのを見届けておる」
「まままさか──」
あれ程気を配り、用心しつつ向った所を……。銕三郎この相手が尋常でない事を初めて思い知ったのである。
「左様、スズメ蜂の巣を見つけるには、そいつに蜜を舐めさせておき、その間に尻尾に赤い糸を結んでおけば、あとはそいつの後を尾行(つけ)るだけ─。尾州屋を襲ってこいつの尻尾にちよと云う糸を付けた。それでこいつの身元も割れた」
せせら笑う唇のねじれた男を見据えたまま、何か獲物をと見渡すが、それらしき物はない。
花を整理するための大きな台の上に藤刀が転がっているのを認めた銕三郎
「かすみ逃げろ!」
銕三郎そう叫びざま右に飛び、藤刀を掴んだ。
銕三郎の叫びを聞き、かすみは反射的に二階へ駈け上ろうとするそれへ男が抜刀し、追いかけようと足をふみ出す。それへ銕三郎の放った藤刀が右の太ももに突き刺さった。
ぐわっ!!と低く声を漏らし、前のめりによろめき、左に刀を持ち、かろうじて倒れるのをこらえ(うっ!むっむっ!──)と右手で藤刀を引き抜き銕三郎の方へ振り返る。
「きっさまぁ!」
刺客はその藤刀を近くまで掛けよっていた銕三郎めがけ投げ返す。銕三郎かろうじてこれを躱し、それは背後の戸板へドッと鈍い音を立て突き刺さる。
その時二階から駆け降りて来たかすみ
「銕はん!」
と叫び、銕三郎の刀を宙に投じた。
その声に振り向きざま、刺客が左下段から斜め上段に逆袈裟斬りに切り上げた。
かすみの身体は右脚から左の胸元へ切り抜かれ、薄紅色の袋帯が真二つに裂けてばらりと捌(さば)け、白群(びゃくぐん)の地に小菊が染め抜かれた着物の伊達締めも切り抜かれて大きくはだけ、雪の様に真っ白な肌と、こぼれた胸乳(むなじ)からおびただしい血が噴き出し、かすみ(ぎやぁ)と大きな悲鳴と共にまっ逆様に刺客の肩ロへ覆い被さる様に崩れ落ちた。
「うをっ!己がぁ!!!」
飛んで来た刀をつかみ銕三郎、飛び込みざま抜き打ちに胴払いを放つ。
 (ぐへっ!)足元に絡(から)むかすみの躰を躱(かわ)しきれず、左背後から食い込んだ刃は、背骨を打ち砕き、右脇へと抜ける一閃を喰らって、二つに折れた躯がドウッ!と蹴込へ転がった。
「かすみどの!」
銕三郎かけより、鮮血に染まったかすみの身体をだきかかえ顔を起こす。
「てつさぶ…さま……さぶい…抱いて……」
「かすみ!すまぬ!」
「嬉しい……」
うっすらと開いたかすみの双眸(りょうめ)から涙が茜色の夕映えに染まり、つっ!と血の気を失った頬を伝い、銕三郎の指先にとどまり、あふれて行く。
このわずかの時を過ごしたかすみは双眸(りょうめ)を見開いたまま、ふっと呼吸(いき)を引き込む。
これを銕三郎まぶたを押さえ閉じさせ、かすみのおだやかな顔をただ抱きしめる。それが救い切れなかった無念の思いと共に、銕三郎が初めて心から愛しいと思った女との今生の別離
 
銕三郎、かすみの珊瑚玉の簪(かんざし)を抜き、懐紙に包み懐の奥へ納め、かすみの亡骸を作業台に載せ、着衣を脱がせ、傷口を清水で洗い清め、傷口をしっかりと晒しで巻き止めて清拭した後、二階へと運び上げ、衣服を着がえさせた。
それは
「夏になったら祇園さんへ山鉾いっしょに観に行きましょな!そん時銕三郎はんとこれ着るんや」
と、嬉しそうにあつらえた、おそろいの小千谷(おぢや)の浴衣である。
 
刻はいつの間にか初々しい夏の陽ざしがゆっくりと東から昇りはじめ、まだ思い出の温もりも残っている部屋を何事もなかったかのように包んでいた。
戸締まりを終えたその日から銕三郎の姿がこの界隈からぷつりと切れた。
 
銕三郎の姿を見かけたのは三日程過ぎていた。
あの時以来、身の危険を覚え何処に身を潜めていたのでろうか。
その夕刻、六角堂に酷い格好の浮浪者が訪れ、小坊主が仰天した。
煤(すす)けたその顔から
「長谷川銕三郎だ!すまぬが専純殿に至急取次を頼む」
と言われ、よくよく見ればあの長谷川さま
「ちびっとお待ちを!」
小僧、慌てて奥へ取次に駆け込んだ。
奥の院より専順が慌てた様子で駆けつけて来、銕三郎の異常な様子に気づき
「なんかおましたんやな!」
と転げるように座するのも待たず問いただした。
銕三郎事の次第を事細かに専純に告げたのであった。
哀しみにくれる専純のその眸(ひとみ)を背に感じつつ銕三郎、西町役所に戻って行った。
「かすみはんはこれでよろしかったんや、一生懸命添い遂げはったんや、長谷川はんに出遭ぅて、生まれて来た理由と、生きて行く意味があったんと想います」
淡々と告げる専純の言葉は沈み切った銕三郎の心を拭いはらってくれる。
 
役所に辿りついた銕三郎、常に探索に関する事は結び文を介して時折報告していたが、この十日程はそれもなく、身を案ずる妻女久栄の訴えかける眸(ひとみ)をじっと受け止めつつ、事の経緯(いきさつ)を話し、即刻役人を伴い現場にかけつけたが、かすみの亡骸も刺客の死体も、そこには何らの痕跡も残されていなかった。
ただ銕三郎の放った藤刀が突き刺さった表の戸板に喰い込んだ刃の痕跡に、血を吸い尽くして黒々と染まった土間が夢幻(ゆめまぼろし)ではなかった事を語っている。
「まこと恐しい敵だ」
銕三郎この視えざる敵の計り知れない正体に、初めて戦慄というものを知った想いであった。
銕三郎の報告を聞いた宣雄
「銕三郎!それは真に無念であったろう。だが今は江戸表よりご老中のお指図を待つのみ。儂もそなたもそれまで気を抜いてはならぬぞ」
宣雄、この事件発覚以来も激務に苛(さいな)まれた身体に鞭打つ如く、このひと
月あまりを過ごしていた。
その二日後の六月十二日、突如長谷川平蔵宣雄は身罷った。享年五十五歳の初夏の事であった。
葬儀は京都千本通り出水「華光寺。戒名{泰雲院殿夏山晴大居士}
いかにも宣雄らしい戒名である。
現在では長谷川平蔵宣雄の墓所である京都市上京区の華光寺には久しい時の流れの中、無縁墓群に埋もれ、長谷川宣雄の墓を見つけることはかなわない。
 
これがきっかけで、長谷川平蔵宣雄の卒した翌・安永三年(一七七四)奉行兼務の御所向御取扱掛が設けられる事となる。
 
銕三郎は末期願いの手続きを相役である東町奉行酒井丹波守忠高に願い出、目付酒井丹州が判元を見届け。
所司代土井大炊頭利里へ届け、これが受理された。
銕三郎、江戸表の老中へ報告後、早々に身の回りの後片付けを済ませ、妻子共々急ぎ江戸に戻った。
西町御役所の責務は宣雄が西町奉行を拝命したのであるから、卒し後は、なんの関わりも持たない。
従って宣雄の後任者山村十郎右衛門良旺が着任する迄待つ事もなく、諸事は残留する与力達に任せればよかった。
 
急ぎ江戸に戻った銕三郎、旅支度を解く間もなく千代田城西之丸に、上洛の準備を整え、出立目前の山村十郎右衛門良旺を訪ね、これまでの探索経過の中で御開帳に御戸張の寄進を拒否したために一家が惨殺された尾州屋の話を報告した。
「想われますには、今後禁裏・口向けより騒擾(騒動)が持ち上がるかと、その前に所司代様より先に山村様係にてこれらをお取り調べなされる方がよろしいかと存じます」
と進言した。
「流石備中殿の嗣子(しし)、万事抜かりがござらぬな」
山村良旺(たかあきら)驚きをもって銕三郎を見やった。
こうして西町奉行山村十郎右衛門良旺(たかあきら)、時を逃さず七月十八日、上洛するや、口向役田村肥後守らを呼び出し、即刻吟味が開始されたのである。
その翌年一年余り吟味の経過した八月二十七日、田村肥後守・他、津田能登守・飯室左衛門大尉は死罪。西池主鈴、吟味中に卒。
仙洞御所取次の高屋遠江守康昆・藤木修理・山本左兵衛・山口日向守・関目貢の五名は中追放(遠島)。
渡邊右近・本庄角之丞・世続右衛門・久保田利兵衛・佐藤友之進・小野内匠其の外、洛中洛外江戸構余多(追放)。京都代官小堀邦直は謹慎。
侍身分の者六十六名遠島、それ以下の役員八十八名も処罰された。
京都代官小堀邦直は謹慎処分となり、関係者八百名余りが処分された。ここに安永の御所騒動は結末を迎えたのである。

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