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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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何がどうってぇ事じゃぁござんせんが、
なんであんな雑魚が場違ぇの本屋になんぞ・・・」
「何だと?盗人が入ぇって行ったというのか?」
「へぃ 盗人てぇほどの奴じゃぁございやせんが、
まぁ盗人の走り使いみてぇな仕事をやっておりやすようで」
「うむ だが、盗賊に関わりがあることに違いはあるまい」
「へぃ まぁそう言っちまやぁそうでございやすがね・・・・」
「そうか、わかった儂もこれから気をつけておこう」
こうして雅之は“かわうそてい“が何か盗賊に関わりを持っているかも
知れないと言うことを心の奥に敷くこととなる。
役宅に戻った横内雅之、町廻りの帰宅後、
何やら丹念に調べ事に没頭する日々が続いていた。
そうしながらも、雅之の“かわうそてい“通いはいつも通りで、
何ら変わることもなく続けられ、それに伴って”はつ“との逢瀬も
日増しに深まっていった。
上野の出会い茶屋から出てくる二人の姿が見られたのもその後のことである。
「ねぇお前ぃさん、長谷川様にお知らせした方が良いかどうか、
あたしぁ迷ってしまって・・・」
“おまさ”が亭主の五郎蔵にそう打ち明けた。
「そうだなぁ・・・横内様ご自身のことだから、さて どうしたものか」
「だって、横内様は独り者なんだもの、別に悪いことでもないしさ、
止めておこうかしら」
「そうだなぁ、まぁそのくらいはいいんじやぁないのか?」
五郎蔵もさほど問題だとは思っていなかった。
「“おはつ”、今日は妻恋稲荷に行ってみようか?」
二人は薪河岸を抜け、神田明神下から妻恋坂を登り、
立爪坂から妻恋稲荷へと入っていった。
「ここはね、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のおり、
走水の海(浦賀水道)を渡る際、海神を侮(あなど)り怒らせてしまった、
そのために海は大荒れで、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が
海に身を投げて海神の怒りを鎮めたんだ、そのあと日本武尊は
この湯嶋の地に滞在された、その時里人が日本武尊が
お妃を慕う心を哀れに思われ、尊と弟橘姫とをここに祀った、
だから正月に売られる(夢枕)は縁起がいいんだよ、
次の正月には“はつ”と一緒に参ろう」
「まぁ 本当でございますか?嬉しい!!」
華やいだ声を上げて喜ぶ“はつ”を雅之は眩しそうに見やった。
「“はつ”お前にこれをあげよう」
「えっ 何でございますの?」
お前がこの前“かねやす”で眺めていたものだよ」
「まぁ何かしら・・・・・あっ いい香り」
「誰(た)が袖のしのび香だよ・・・
古今和歌集に
(色よりも 香りこそあわれと 思おゆれ 誰袖ふれし 宿の梅ぞも)
と詠まれたものだ」
「嬉しい!!」
“はつ”は悦びに胸を弾ませ、そのかすかな香り袋を幾度も幾度も掌に包み、
雅之の気持ちを確かめていた。
盗賊改の密偵小房の粂八は浅草平右衛門町の船宿“五色”に
水鶏(くいな)の平治を訪ねての帰り道、すれ違った小男に「ううっん?」
(はてなぁ賽の目己の吉・・・・・どうしてあんな野郎がこの浅草界隈に)・・・・・
「で 野郎の後を尾行(つけ)やしたら、なんとそこに同心の横内様が
いらっしゃるじゃぁございやせんか、いやぁ驚いたのなんの・・・・・・」
粂八が報告してきたこの話に平蔵
「粂 この話、しばらく儂に預けてはくれぬか」
と、横内雅之の一件を口止めした。
「横内只今戻りました」
雅之が帰宅の報告に上がってきた。
「おお横内ご苦労ご苦労、遅かったではないか?何か変わったことはないか?」
「はい、只今のところございません」
「ふむ 何事もなし・・・か、左様か、・・・よし下がって休め」
(うむ奴は何かを隠している、まだ明かすほどのことではないのかも知れぬ、
もう少し様子を見てみよう)。
平蔵、これまでの報告では何といって特に気にするものも想い浮かばず、
又それらしき報告もないところから、様子を見ようと静観することにした。
だが、これが裏目に出ることになろうとは、長谷川平蔵も
この時はまだ予測すら出来ないでいた。
ただ、粂八の報告などからも何一つ決め手なきゆえに、
まず“おまさ”に横内を見張らせることにした。
その後粂八がこの“かわうそてい”を張っていたところ、
またもや賽の目己の吉が人目を避けるように出てきたのを目撃、
これを密かに微行(つけ)て行った。
御成街道を真っ直ぐに北上し、下谷広小路に入り、
三橋の手前を左に折れ上野元黒門町の“十三や”櫛店に入り、
何か買い求めた様子であったが、再びそこから三橋に戻り仁王門前町を
上野山下に回り屏風坂門を通りぬけ下谷坂本町に入った。
(野郎こんなところまで・・・一体どこまでゆくつもりだぁ?)
粂八は首をかしげながらつけてゆく。
上野の森を左に見ながら音無川に向かって下がり始めた、
やがて根岸の御隠殿(おいんでん)傍にある豆腐料理屋“笹乃雪”の
横を曲がるなりいきなり駈け出した。
(ちっ!野郎感づきゃぁがったか!)
根岸は上野の崖下に位置しており、
かつては入海で海岸線が入り組んでまるで木の根のようであったところから
根岸と呼ばれるように、御隠殿は三千坪もある広大な場所である。
草は生い茂り、身を潜めれば余程のことがない限り見つかりっこない。
粂八は深追いせず、それから粂八の預かっている本所石川町船宿“鶴や”
まで引き返した。
翌日粂八は盗賊改役宅を訪れ
「長谷川様にお取次ぎ願いやす」
と申し出た。
「いかが計らいましょう・・・・・」
と小柳が平蔵に繋いできた。
「何?粂八は参ったか!よしここへ通せ」
平蔵面会を許し
さてさて 何か仕込んで来たか・・・・・」
枝折り戸が静かに開き、小房の粂八が小腰を曲げて入ってきた。
「つまりだなぁ 本日もカワウソに立ち寄ったのではないのかと聞いておる」
「えっ!!どうしてそれを・・・・・・・」
「おい横内!儂はお前達を束ねる身、毎日お前達が何処で何を見、何を聞き、
何をしておるかそれを知るのも儂の仕事」
「ははっ!!本日は立ち読み致しておりまして、その中で荘子(そうし)
の言葉に(古人の糟粕・そうはく)という物がございました、
それともう一つは我が事を説いたような言葉にて、
者みなそれぞれに得手不得手があると申しておるのでございましょうか・・・・・(駿馬は、1日に千里走る事ができるが、
ネズミを捕まえることでは猫にはかなわない)と言うのがございました」
「何ですかその“そうし”と言うのは?」
「おい 忠吾お前ぇは所詮村松には叶わぬと言うことだ あははははは」
「何でござりますか、そこへどうして私が」
「良いか忠吾!お前ぇはチュゥご、村松は猫どの・・・・・
如何にお前ぇが食い物に長けておろうと、村松には叶わぬ!と、
そういうことだなぁわははははは」
「はぁどうも・・・・・」
「おい 解ったのか忠吾?(古人の糟粕・そうはく)と申してな、
斎という国の桓公というお方が庭先で本を読んでおった。
その近くで車を治していた大工が(それは一体なんですか?)
と聞いたらば(昔の聖人が残した書物だ)と答えたんだなぁ。
で、その大工が(その御方はまだ生きておられるので?)と聞いた。
すると桓公先生(いやとっくに亡くなられておる)
で、大工が
(じゃぁその本は糟粕=酒のカス・のようなもんですね)と言ったんだなぁ。
桓公先生(それはどういう意味か)と聞いたらな忠吾!なんと答えたと思う?」
「さぁ全く私めには・・・なんと答えましたので?」
(私は今車の軸を治していますが、この軸受をうまく作るコツは
言葉では伝わりません、こればっかりは自分で経験するしかないのです、
その書物も言いたかったことは言葉や文字では残せなかったんじゃぁ
ないでしょうか?)と、こう答えたそうな」
「はぁ 聖人の糟でございますか・・・・・さようで・・・」
「嗚呼やんぬるかな・・・」
「で 他には変わったことはなかったのか?」
「はい、特別にこれと申しましては」
「よし、判った 下がって休め」
こうして数日が過ぎ去った。
神田川河畔薪河岸花房町“かわうそてい”
「まぁお武家様は余程ご本がお好きなのでございますね」
明るい笑顔がなんとも初々しい、今でいうところの看板娘、名は“はつ”
「どうしてだ?」
「だってよくお越しになられますもの、
しかもご本は決まって難しそうなものばかり、
たいていのお客様は絵草紙などをお求めになられますから・・・・・」
「そうだなぁ、私は本につぎ込むだけの余裕が無い、
だから読みたいものだけにしているんだよ」
「あらっ ご無礼を申しました、どうぞお許しくださいませ」
ちょっと笑顔を伏せながらも、口元におかしさをこらえた名残が読み取れる。
「可笑しいかなぁ・・・何もお前が謝ることはない、
むしろ謝るのは私の方だよ、だってしょっちゅう立ち読みだからねぇ、
ほらご主人がこっちを睨んでおられる・・・・・」
「あはっ そんなことはございませんよ、
(あの方は余程お勉学がお好きなんだろうねって)言ってますもの」
「そうですか、私の求めるものは希少本が多く、
中々手が出せません誠に申し訳ない」
こんな軽い会話が交わせるようになるほど雅之は足繁く通った。
無論参考書など普段目に触れないものまで、
ここにはあるというのも大きな目的ではあるが、
この“おはつ”の明るさが雅之の心を日頃の緊張からほぐしてくれる、
だからこうしてほとんど毎日町廻りの帰り道をここまで周って
来ているのである。
こうしてもう夏も過ぎ、神田川を行き交う船も積み荷が
冬に向かったものに変わっていった。
“はつ”が差し出してくれる冷水も、いつしか温かい白湯に変わってきた。
雅之は“はつ”に名前を尋ねられ、
「私は石丸雅之と言う」と偽名を使った。
これは当然のことながら火付盗賊改方同心は
あくまで表立って使うべき名ではないからである。
「石丸様?ですか?私は・・・」
「“はつ”であったな?」
「あっ はい!あ・・お父っつあんが言っていたので・・・」
「ふむ 覚えてしもうた、あはははは」
「石丸様はよくこの辺りに起こしになられるようでございますが、
いつもどの辺りにお越しになられますの?」
「私か?春木町の枸橘寺(からたちじ)に寄ってここに来る」
「あっつもしかして “壷屋”の向かいの?」
「うむ 春日局社とも言うが、私は枸橘寺の名前のほうが好きだ」
「あ~やっぱりご本がお好きな方でございますね、うふふふふふ」
「そうか?本郷一丁目の“かねやす“は時折母上の使いもかね
”乳香酸“を求めに立ち寄る」
「にゅうこうさん?ですか?」
「ああ!歯磨き粉だよ、そうだ一度行ってみないか?
いろいろ楽しい物もおいてあるぞ!」
「まぁ 行ってみたい!」
そんなわけで時々この辺りを二人で歩く姿も見られるようになった。
そんなある時、“かわうそてい”に立ち寄った雅之が程々の刻も過ぎたので、
役宅に戻ろうと店を出て“はつ“の見送りの声に応えようと振り返った時、
店に立ち寄らずそのまま二階へと上がってゆく数人の男を見かけた。
(妙な客だな?二階に本(もの)は無かったと思うが・・・・・)
まぁこのささやかな疑問はそれで終わったかに見えた。
小房の粂八が浅草今戸から後を尾行(つけ)て来た男が
浅草花房町にある貸本屋“かわうそてい“に入ってゆくのを見届け
引き返して来たその数間先を行く同心横内正行の後ろ姿を見かけ
「これぁ横内様今おかえりでございますか?」
と声をかけた。
「おお 粂八・・・どうしたお前は?」
獺祭
娯楽時代劇でも長屋の徳松が拙い文字で手紙を書くシーンが出てくるが、
当時江戸の識字率(就学率)は江戸末期において武士は100%
読み書きできたし、庶民もほぼ50%は読み書き出来ており、
世界第1の識字率国だった。
獺祭魚(だっさいぎょ)獺(かわうそ)は、
とらえた魚を川岸に並べる習性がある、
これを見て人はカワウソが先祖に供物を供えていると言うようになった。
唐後期の詩人“李商隠”は詩作の際に多くの参考書物を並べて置き、
又自らも獺祭魚とか獺祭と号した。
火付盗賊改方同心横内雅之、忠吾いわく(かわうその雅ちゃん)
剣術の方は木村忠吾が「私の敵ではございません」
と、うそぶくくらいであるからまぁ推して知るべし。
だがこの男盗賊改めには欠かせない人物ではある。
というのも字名(あざな)のごとく、大の読み書きが好きと来ている。
お調書を任せれば他の追随を許さない。
何処からそのような内容を探し見つけてくるのか、まるで書物蔵の主。
平蔵をして
「アヤツの頭ん中ぁいっぺんで良いから覗いてみてぇもんだ」
と言わしめるほどの確かさで、
与力天野甚蔵なぞは
「彼奴には夜ともなれば尻尾が生えておるのでは」
と、こうなると狐狸の類となってしまう。
その横内雅之、奉行所よりのお手配書を丹念に調べていたが
「お頭、角鹿(つのが)の喜平次一味が御府内に入り込んだ模様と
御座いますが、何かそれらしき動きは掴めておるのでございましょうか、
これによりますと敦賀(つるが。福井県)辺りを縄張りにした
兇賊とございますが」
「うむ 儂もそれは目を通したが、
今のところそれらしき話は密偵共からも聞いては居らぬ」
角鹿(つのが)の喜平次の話はこの時出たのが初めである。
神田川に架かる東筋違御門を北に上がった花房町
“紀伊國屋漢薬局”傍にある小さな裏店の貸し本屋
“獺祭亭(かわうそてい)”。
貸本といっても新書・古書・参考書・流行(はやり)本・
枕本など本に関するあらゆるものが1軒の店で扱われるのが普通であった。
特にこの獺祭亭は古書が豊富で武家屋敷などから出される古書や文献、
史書が多く、店は2つに区切られ、片方は艶本から黄雑紙、絵草紙、
錦絵などを揃え、残る片方には古書、新書などが並べられていた。
外からでも内部が見えるようにと柿渋の軒暖簾に“かわうそてい”
と染め抜いた軒暖簾を掛け、下谷御成街道に“出し看板”を置き、
それには「古本売買御書物處かわうそてい」と書かれてあった。
店の通りに面した戸板には、小さな窓が繰り抜かれており、
通行人はそこへ使用済みの屑紙、鼻紙なぞを放り込んだ、
獺祭屋はあとでこれを回収し古紙回収業に販売していた。
本屋に限って言うと、東向きか北向きに店を構える、
これは表紙焼けを起す日差しを嫌ったからである。
火付盗賊改方密偵の“おまさ”はここで横内雅之をよく見かけたものである。
この日も夕刻間近、昌平橋を北に上がった薪河岸(湯島横町)
を浅草の方へと戻っていた所を泉橋のたもとで横内雅之を見かけたのである。
別に声をかける必要もなくそれはそれで通り過ごした。
本所の盗賊改め方役宅に戻ったおまさ
「今日も横内様のお姿をお見かけしました」
と少し笑い顔を交えて平蔵に報告した。
「なんと!またもや奴め、本漁りかえ?
ちったぁ忠吾めの爪の垢でも飲ませねば、のぉ わははははは」
そこへ話題の主、木村忠吾が入ってきた。
「お頭木村忠吾只今戻りました!
ところで何やら私めが何とかとか聞こえてまいりましたが、
何か然様なお話でも?」
「おっ うっ いやぁ何でもねぇよ なぁおまさ」
「うふふふふ」
平蔵の慌てようにおまさ、思わず口元に袖を寄せて下を向いた。
「あっ どうも怪しゅうございますなぁお頭の今の生返事は」
と忠吾鋭い突っ込み。
「うんっ いやどうってこともねえょ、
お前ぇの爪の垢でも煎じて飲ませれば、
横内も少しはおなごを振り返るようになるやも知れぬと、
まぁそういうこった」
「あれっ 私はそれ程おなごを振り返ったことはござりませぬお頭!
それは大きに誤解と申すもの・・・・・何でおまさまでが・・・・・」
忠吾少々お冠の様子
「あっ いや儂が悪かった!
なぁ忠吾お前ぇがおなごを振り返るのではなくだなぁ、
おなごがそれ!お前ぇを振り返させるだけのこと、わははははは」
「あっ いやぁどうも・・・・・
えっ?それでは同じことではござりませんか、全くもう!」
「おお ところで忠吾、町廻りでなにか変わったことはなかったかえ?」
「はい 本日も穏やかな1日でございました、
このままかような日々が続けば宜しゅうございますなぁお頭」
「ふむ そうさのぉ・・・江戸の町にはそれが良い、
だが お前ぇたちはお払い箱で、元の組に戻らねばならぬ」
「あっ それはいけませぬ!それは宜しゅうございませぬお頭!
何と言うても我らは火付盗賊改方でござりますから」
「やれやれ やっとそこに気づいたのかえ?」
「ところで忠吾、横内は戻っておったか?」
「はぁ横内さんでございますか?
私が戻りましたるおりにはまだ姿は見えておりませんでございます」
「ふむ・・・・・・
まぁそのうち追っ付け戻るであろう、あい判った下がって良いぞ」
「ふむ 何処で道草を食っておるやら・・・・・」
それから間もなくして同心横内雅之が戻って来
「横内雅之只今戻りました」
と報告に上がった。
「おお 横内 本日は如何であった?」
「はっ? 如何と申されますと・・・・・」
「だから 如何であったかと聞いておるのじゃ」
中に一人真っ直ぐに前を向いた男が居た。
「お前ぇだな頭目(かしら)は!」
平蔵刀の鐺(こじり・刀の鞘の末端部分)で男の顔を押し上げた。
「へっ!!」
男は唾を床に吐きかけてこれを外す。
「ははぁ 貴様だな、名前ぐれぇはあるんだろう、なんてぇ名前ぇだ?」
「人に名前を聞くんなら、てめぇの名前ぇを名乗るのが普通じゃぁねんですかい?」
「ほほぉ大層な口を利くもんだ、よかろう、
儂は火附盗賊改方長谷川平蔵じゃ」
「ままままっ まさかあの鬼の平蔵・・・・・」
「おおさ!その鬼平よ、貴様の名前は何れ判る、
その小汚ぇ口はいつまでも噤(つぐ)んでいろ!
大勢の者たちを殺(あや)めてきたお前達だ、磔(はりつけ)は免れまいよ、
辛ぇそうだぜ磔はなぁ、槍や鉾で三十回も突き通されて
こいつぁどんな剛力も耐えたことはねぇそうだぜ、
その後三日の野晒だ、腹の空いた野良犬に喰われ、
カラスどもがお前の目ん玉繰り抜いたり、
なかなか地獄へも行かせてはもらえまいぜ、
まぁ名を残すにゃぁいい場所だ、ふぁははははは」
こうして盗賊甲州路の悪太郎“陣屋の藤兵衛”どもは
関東代官江川太郎左衛門英毅に引き渡された。
その後八王子千人同心に引き継がれ、これを江戸まで誤送することになった。
警護役は秋庭周太郎に命じられること無く、他の与力が名指された。
「何故私を警護役にご指名くださらないのでございます」
秋庭周太郎は上司千人頭山県助左衛門に詰め寄った。
「何故貴様ではないと?儂は此度の一件貴様に任せたばかりに、
かの極悪なる盗賊を捕らえることすら出来ず、儂は他の千人頭に大恥をかいた、
よりによって江戸表よりの盗賊改めに手柄を奪われ、それでも武田の遺児か、
八王子千人同心の名誉を著しく傷つけた罪は重い、
腹でも切ってご先祖様に詫びるが良い」
けんもほろろとはこのことであろうか・・・・・
その夜秋庭周太郎は意を決し
「儂は今夜ここを抜ける、これも皆あの江戸から来おった盗賊改めのせい!
あいつに手柄を奪われたがためにお頭様に腹でも切って詫びろとなじられた、
腹を切るぐらいならば他に生きる道もあろう、すぐさま支度いたせ」
こうして秋庭周太郎一家はその夜の内にひっそりと八王子から姿が消えた。
それから二年の時が流れ、流浪の疲れから母”きく”が病に倒れ
あまり時をまたず他界。
娘”妙”は十二歳になっていた。
人別帳もなくなり、非人に落ちた秋庭周太郎の暮らしは悲惨を極めた。
ただただ武田武士の誇りだけがから風に舞い、
その日の糊口を凌ぐのも絶えるほどになっていた。
「出かけてくる・・・・・・」
妙が聞いた父秋庭周太郎の最後の言葉であった。
妙は何日も帰らぬ父の姿を探し求め空風の吹きすさぶ江戸の町を徘徊したものの、
空腹と疲労でついに行き倒れとなってしまった。
体の温かさに気が付くと、妙は夜具に包まれていた。
身を起こしかけたがクラクラと眩暈(めまい)が生じ、再び気を失った。
どれくらいの刻が過ぎたのであろうか、周りの喧騒に目覚めた。
「おや気がついたのかい?良かった!ちょいと清さん重湯を持ってきておくれな!」
華やいだ声をぼんやりと霞む向こうに感じ身を固くした。
「いいんだよ!安心してお休み・・・・・」
優しい声が今度ははっきりと妙に聞き取れた。
「ここはどこですか?私はどうして此処へ・・・・・・」
「あんたがこの先で行き倒れになっていたのを見つけてここに運んで見えたのさ、
そんなことよりさぁ、これでも飲んでまずは体を元に戻さなきゃぁね」
と妙の体を支え起こして重湯を少しづつ飲ませてくれた。
薄明かりの中に妙の吐く息が白く消えて、
体の中に温かな血が流れてゆくのを感じている。
妙は暫くして体も回復し、この小料理屋”さかえや”の下働きをするようになった。
元気を取り戻した妙は寸暇を割いて父秋庭周太郎の姿を探し求めていた。
時は瞬く間に流れ、妙は十六になっていた。
父秋庭周太郎が家を出た、あれから四年が過ぎ去っていったのである。
火付盗賊改方長官長谷川平蔵、
この日は谷中を廻って南千住三ノ輪にある蕎麦屋”砂場蕎麦”に顔をのぞかせた。
江戸三大蕎麦と呼ばれる、更科蕎麦・藪蕎麦・そしてこの砂場蕎麦がそうであった。
元々は大坂城築城のさい和泉屋と言う菓子屋が蕎麦を始めたと言われている。
この時築城の砂を置いてあったところに店を構えた所から砂場という
名前がついたようで、のち徳川家康が江戸に居城を構える際江戸に呼ばれて移転、
糀町に”糀町砂屋藤吉”を構え、その後南千住に移ったものである。
甘めで濃い出汁がこの砂場蕎麦の特徴。
出前も多く、その為に時が経つと蕎麦がべたつく、
これを避けるためにはしっかりと水切りしなくてはならない、
ところが口にはいる頃には蕎麦に水気が残っておらず、
そのために濃いめの出汁にたっぷり付けて食べるところになんとも言えない
妙味がある。
ゆっくりと店を出た平蔵、公春院門前町から下谷通新町に抜け三ノ輪橋をまたぎ、
永久寺横、日本堤を降(くだ)っていた。
二丁(200メートル弱)を過ぎた頃から背後に何やら不穏な気配を感じ、
ゆらりと歩みを止め振り返る。
「んっ??!!」(何者・・・)
平蔵ゆっくりと土手を下りながら探りを入れてみる。
土手の上から駆け下りながら、抜刀した気配にわずか体を左に開き振り返った。
(ヤァっ!!)掛け声とともに大上段から刃風が平蔵を襲った。
平蔵とっさに左へ退き、切り込んできた男が空を切って泳ぐ背中を
ドンと突き放した。
よろめきながら刺客は刀を構え直し、今度は正眼に構え直した。
刺客は無言で平蔵を睨み据え、グイと前に進んだ。
「物盗りか!なるほど血に飢えた匂いが川風にさえ漂うておる」
平蔵じわりと足をさばいて左へと回りこむ。
こうすることで陽を背負うこととなり、相手はまともに陽晒しとなる。
やや足を擦りながら平蔵はゆっくりと左手を粟田口国綱の鯉口を握って
後ろに押しやり、右手でゆったりと刀を抜き正眼に構える。
(ううんっ?はてどこかで・・・)
直に顔正面に降り注ぐ日差しを振り切るように、
だっ!と踏み込んでまっすぐに刀を突いてきた。
平蔵半歩左を譲り、正眼を崩し、敵の太刀筋を左肩の上に受け流し、
振りぬきざま袈裟懸けに切り下ろした。
無論殺傷するつもりのない平蔵、僅かばかりに刺客の左肩をかすめて脇に抜いた。
(あっ!!)刺客は思わず声を漏らし、持った刀の左手が離れた。
着晒の一重の半着がざっくりと切り裂け、肩から脇へと血が噴き出してきた。
「おい!ちょっと待て!確かにその顔見覚えが・・・・・
ううんっ 待てよ確か八王子で一度会ぅた・・・・・」
「いかにも元八王子同心・・・・・長谷川平蔵命を貰い受ける!」
右手に刀を提げてゆらゆらと立ち上がってきた。
「待て待て!どうしてこの儂がそこ元に命を狙われねばならぬ、
その理由(わけ)を話せ!」
「貴様の出張りの所為(せい)で盗賊を召し捕れず、
その責務を全うできず俺はお払い箱の憂き目を見た、
この恨みのみでこれまで生きてきた、今日という今日はと想うたが・・・」
激痛に耐えながら秋庭周太郎はふらふらと平蔵に詰め寄ってくる。
「だからこの儂が憎いというのは心得違いではないか?
むしろ己の不徳のいたすところをよく考えて見ろ」
「問答無用!今の俺にとってはもうそのような事はどうでもよいのだ、
貴様さえこの世から葬ることが出来さえすれば、
おれは生きてきた甲斐があったと言うものだ」
「情けねぇ野郎だなぁ、人の恨みから何が生まれよう、
己の力を試す場所を間違ぅたがために盗人に落ちぶれて、
その不甲斐なさをすり替えるためにこの儂を引き出すかえ?
所詮屑はどこまで行っても屑でしかねぇなぁ!
悔しくば己の過去を断ち切って見せてはどうだ・・・・・
貴様の娘はあんなに良い娘に育っておるというに」
「何だと!なぜそれを知っておる」
「あの娘を儂が知り合いに預けておるからよ」
「何にぃ!そんなバカなはずはない」
「嘘だと思うなら逢ぅてみるが良いではないか?」
「娘は“さかえや”で下働きをしているはず」
「おお存じておったか!そうさ、
行き倒れになる所をその女将に預けたのはこの俺だ」
「そんな・・・・・・」
周太郎がっくりと両膝を付き刀を落とした。
「のぉ!これまで幾多の者を殺(あや)めて来た貴様だ、
最早逃れる術はあるまい、儂が介錯して遣わす、
潔(いさぎよ)う致すのも華と思うぜ」
草叢を一瞬の風が吹き抜け、野分がざわざわと駆け抜けてゆく。
秋庭周太郎刀を納め、その場に居ずまいを正し、
脇差しに平蔵が差し出す懐紙を巻き
「娘を頼む長谷川殿!」
一気に腹を掻き切った。
表には井戸があるようで、真新しいい竹が掛けられている。
荷綱を火打ち石の上の束柱に掛け、用意が整った時点で馬を寄せ付け、
縄を鞍に結わえ平蔵の合図を待った。
馬の鳴き声に中から男が出てきた、その驚きの声は平蔵によって
一撃で切り伏せられ、叫びにはならない。
平蔵素早く後方へ回りこみ合図を送る、
と同時に四名の馬が駈け出したからたまらない、
四方柱は大きな音を上げて引き倒され、
破れかかった壁が土埃をあげてのめるように倒れ始めた。
「それ!それ!それ!」四名が馬に鞭を入れて更に引く。
ドォと大きな音とともに簡素な屋根が重なりながら降り注いだ。
「ぎゃぁ・・・・・」
悲鳴があちこちで上がり、崩れた家屋の下からはい出てくるものもある。
それを平蔵刀の峯で打ち据え動きを封じる。
バラバラと四名が駆け寄り、四方を固める。土埃が止み、
暑い残照が五名の背中を囲む。
四名が中から這い出してきたが、すでに戦意喪失の体である。
「何名の者がおる?」
平蔵の問に
「だだだっ 誰でぃお前ぇは」
「火付盗賊改方長谷川平蔵だよ」
「なななっ 何だってぇこんなところに盗賊改めが・・・畜生!」
「一体ぇ何名で押し込みを働いた?お前を入れて五人、他には何人いるのだえ?」
「お頭を入れて八人、だけどお頭は見えねぇ、
下敷きになっちまったか、畜生め!」
それから半刻(一時間)経ったものの他には人の気配がない。
西の空は真っ赤に焼け、あっという間に帳が垂れ始めた。
「とりあえず此奴共を大楽寺町宝泉寺に仮置き致せ!
儂はこのまま此処に残り様子を見る、お前達はまず疲れを取り明日に備えてくれ」
平蔵は少し開けた場所に戸板を運ばせ、そこにもたれかかり見張ることにした。
それを見かねた佐嶋忠介が
「お頭、ここは私が詰めますゆえ、お頭はどうぞ寺で休息をお取りください」
と申し出たが
「儂は十分体を休めておる、それよりもお前達はゆっくり休め、
明日の探索に養生いたせ」
と聞き入れない。
こうして一夜は何事も起こらないままに白々と明けた。
早朝に四名の者が駆けつけ、熱い握り飯と香の物、
それに竹筒に水を入れて持参した。
平蔵これをゆるりと口に運びながら
「旨いなぁ・・・握り飯がこれほど旨いとは想わなんだ、
それでは残りのものを探索致すか」
平蔵立ち上がって倒れていない裏側に廻った。
どこかでうめき声がする様子に
「おい 誰かまだ生きておる様子だぜ、そこの柱の辺だ!」
小林金弥が梁を乗り越え中を覗いた。
「お頭三名の姿が見えます」
「何!三名だ?とにかくそいつらを助けださねばなるまい」
こうして二刻(四時間)ほどで三名の盗賊が救出された。
何れも骨折などで身動きがとれない状態であった。
「なんてひでぇことをしゃぁがるんで!」
中のひとりが叫んだ。
それを聞いた平蔵、その男の胸ぐらをひっつかみ
「皆殺しとどっちがひでぇって言うんだい、えっ!!
貴様達のやったことは閻魔様もお許しにゃぁなるめぇよ、
ところで頭ァどいつだい!」
じろりと睨んだ平蔵の形相に皆下を向いたままじっと床を睨んでいる。
荷綱を火打ち石の上の束柱に掛け、用意が整った時点で馬を寄せ付け、
縄を鞍に結わえ平蔵の合図を待った。
馬の鳴き声に中から男が出てきた、その驚きの声は平蔵によって
一撃で切り伏せられ、叫びにはならない。
平蔵素早く後方へ回りこみ合図を送る、
と同時に四名の馬が駈け出したからたまらない、
四方柱は大きな音を上げて引き倒され、
破れかかった壁が土埃をあげてのめるように倒れ始めた。
「それ!それ!それ!」四名が馬に鞭を入れて更に引く。
ドォと大きな音とともに簡素な屋根が重なりながら降り注いだ。
「ぎゃぁ・・・・・」
悲鳴があちこちで上がり、崩れた家屋の下からはい出てくるものもある。
それを平蔵刀の峯で打ち据え動きを封じる。
バラバラと四名が駆け寄り、四方を固める。土埃が止み、
暑い残照が五名の背中を囲む。
四名が中から這い出してきたが、すでに戦意喪失の体である。
「何名の者がおる?」
平蔵の問に
「だだだっ 誰でぃお前ぇは」
「火付盗賊改方長谷川平蔵だよ」
「なななっ 何だってぇこんなところに盗賊改めが・・・畜生!」
「一体ぇ何名で押し込みを働いた?お前を入れて五人、他には何人いるのだえ?」
「お頭を入れて八人、だけどお頭は見えねぇ、
下敷きになっちまったか、畜生め!」
それから半刻(一時間)経ったものの他には人の気配がない。
西の空は真っ赤に焼け、あっという間に帳が垂れ始めた。
「とりあえず此奴共を大楽寺町宝泉寺に仮置き致せ!
儂はこのまま此処に残り様子を見る、お前達はまず疲れを取り明日に備えてくれ」
平蔵は少し開けた場所に戸板を運ばせ、そこにもたれかかり見張ることにした。
それを見かねた佐嶋忠介が
「お頭、ここは私が詰めますゆえ、お頭はどうぞ寺で休息をお取りください」
と申し出たが
「儂は十分体を休めておる、それよりもお前達はゆっくり休め、
明日の探索に養生いたせ」
と聞き入れない。
こうして一夜は何事も起こらないままに白々と明けた。
早朝に四名の者が駆けつけ、熱い握り飯と香の物、
それに竹筒に水を入れて持参した。
平蔵これをゆるりと口に運びながら
「旨いなぁ・・・握り飯がこれほど旨いとは想わなんだ、
それでは残りのものを探索致すか」
平蔵立ち上がって倒れていない裏側に廻った。
どこかでうめき声がする様子に
「おい 誰かまだ生きておる様子だぜ、そこの柱の辺だ!」
小林金弥が梁を乗り越え中を覗いた。
「お頭三名の姿が見えます」
「何!三名だ?とにかくそいつらを助けださねばなるまい」
こうして二刻(四時間)ほどで三名の盗賊が救出された。
何れも骨折などで身動きがとれない状態であった。
「なんてひでぇことをしゃぁがるんで!」
中のひとりが叫んだ。
それを聞いた平蔵、その男の胸ぐらをひっつかみ
「皆殺しとどっちがひでぇって言うんだい、えっ!!
貴様達のやったことは閻魔様もお許しにゃぁなるめぇよ、
ところで頭ァどいつだい!」
じろりと睨んだ平蔵の形相に皆下を向いたままじっと床を睨んでいる。
助左衛門は慇懃(いんぎん)に平蔵を出迎え奥座敷に通した。
暫くしてこの事件を預かっている同心頭秋庭周太郎がやってきた。
「早速でござるが、此度の押し込み3件に関するお調書を拝見いたしたい」
と申し出た。
同心頭秋庭周太郎より提出されたお調書ではほとんど参考になるような内容の
記述が無い。
「何かこう 手がかりとなるようなものはござらなんだか?」
平蔵の問に
「なにぶん盗賊の探索はあまり行ったこともござりませぬゆえ、
この程度のことしか判明いたしておりません」
と、押し込み先3件の商家の名前や人員構成、それに凡その被害額、
殺害は殺傷傷であること、押し込みの人数はその足あとから
おおよそ10名前後とみられる、この程度であった。
「ふ~む・・・・・」
平蔵調べ書きを前に腕組みして深い溜息をついた。
「押しこみ経路、それに逃走経路はどのようであったか記されては居らぬようだが、
誰一人これらを見たものは居りもうさなんだか?」
「はい それに関しては皆目・・・・・」
「うむ やむを得ぬ、では町の絵図を拝借願えませぬかな?」
と言葉をつなぎ、しばらく黙想した後
「では当方勝手で事件に当たろうと存ずるが、それで宜しゅうござるか?」
と、了解を取り付けた。
何しろ上は槍奉行から、代官所に千人同心と3つのお役が絡んでの
厄介この上ない仕事である。
平蔵借り受けた絵図面を繋ぎ場所の散田町真覚寺に持ち帰った。
夕刻おまさや伊三次それに少し遅れて小林金弥が帰り着いた。
「おお ご苦労ご苦労!で、首尾はどうであったなおまさ」
平蔵この暑さにすっかり土埃と汗で日焼けしたおまさの顔を見やる。
「それが長谷川様、それぞれ3軒とも路地で隔たれておりまして、
あまり隣近所の物音は聞こえないようでございました。
押し込みのあった後も役人のお調べも型どおりで、
いえそれ以下の簡単なもののようでございました。
おそらくそのようなことにあまり慣れて居られないようだと私には想われます。
隣近所にも探りを入れてみましたが、同業が多く口が重たいようで」
「さもあらん、内心喜ぶ奴もおろうからなぁ、ましてや皆殺しとあっちゃぁ
関わりたくはねぇというのも本音だろうぜ」
平蔵その辺りは予測していたようである。
「で、ほかに気づいたことはなかったか?」
「商いは、市が立つ時手伝いのものをその都度雇うようで、
それはどの店もいつも決まっているようでございました」
「小林、遅くまでご苦労であった、で 内向きは如何であった?」
「はい 何れもが市の終わった所を狙われたようで、
売上や支度金が盗まれておりました。
この辺り、これまで大掛かりな押し込みは皆無のようでございました。
したがって、用心の方もあまり気配りが行き届いておりません、
宿場役人も日光勤番以外は手薄、そのあたりを狙ったように想えます」
「うむ やはりこの街道を熟知しておるとみなさねばなるまいのぉ、
川越あたりが賑おうて参ったゆえ、御府内に近い八王子も、
様々な仲買人が市を目当てに立ち並んできた。
だが取締は手薄と来た、外道盗(げどうばたらき)にゃぁ
良い所へ目をつけたものさ。
で、侵入経路は如何であった?」
「それがなんとも強引で、白壁造りなぞもあまりなく、
表はそれなりにしっかりと造られてはおりますものの、
2階部分は戸板1枚の簡素なもの、これならばたやすく外せます、
奴らは何れもそこから侵入した模様で、戸板の一部に真新しい刺し傷が、
おそらく錏(しころ)でこじ開けたと想われます」
「然様であったか・・・浅川は夏場の故に水かさは少なく、
小舟での逃走はあるまい、とするならば十名近くのものが移動となると、
どこかに潜み場が必要(い)ろう・・・・・」
「盗人宿でございますか・・・・・」
おまさが口を挟んだ。
「そういうところだ、明日からその辺りを心がけて探索にあたってくれ、
本日はご苦労であった、飯は支度も整っておろう、しっかり喰ってゆっくり休め」
平蔵は一同を労い奥へと戻っていった。
翌朝早く一同揃ったところで
「本日はそれぞれ手分けして潜み場になりそうな処をあたってくれ、
10名近くとなればそれなりの広さや喰うものの心配もあろう、
そのあたりが目処(めどころ)。
使われておらぬ寺とか、屋敷跡、冬場用の小屋なども見逃すでないぞ、
ああそれと、食い物となる果菜類が盗まれてはいなかったか、
この辺たりも忘れずにな」
そうして3日目の夜がやってきた。
これまで何もかからなかった網の中、伊三次が聞きこんできた話に
平蔵は燈明をみた。
「今日は川向うへ行ってみようじゃないかっておまささんが、
で、あっしは淺川の枯れたところから向こうに渡り、長房町を歩きやした。
まぁ手当たり次第、人と見たら(この辺りに古い寺などが無ぇかっ)て・・・
ところがたまさか出っくわした百姓が、この南浅川を越え更に奥に入ぇった
大楽寺町宝泉寺裏手の山の方に狐火を見たってんでへぇ、
で早速そこへ行って見やしたが、ここいらはずいぶん古い寺がありやして、す
っかり野蔓(つる)に囲まれたものもいくつかありやした、
まぁ昼間でも薄っ気味の悪い所でございやす」
「ふむ、だがなぁそのような処なればこそ里人にも目につかねぇと
言えるではないか、のぉ小林」
「然様でございますな、襲われた店が何れもこの八王子周辺、
となれば盗人宿はやはり利便(つごう)を想えばこの周辺(あたり)でも
可笑しゅうはございませぬ」
「で、伊三次その辺りは如何致した?」
「へぃ その中に人の気配のするものがございやした、
ですが長谷川様その中まで見届けるにゃぁあっしはこんな格好でございやす
誰が見たってひと目で怪しまれやす、どうかと思いやして
遠巻きに張っておりやした。
ですが誰も出てこねぇし、そんな折根深(ねぶか)を担いだ百姓が
通りかかったもんでございやすから、そいつに1朱(6250円)握らせやして
中に人がいねぇか探ってくるように頼みやした。
もし誰かいたら一休みしようと思ったと言えば怪しまれねぇからと・・・
ところがそいつがしばらくしてごきげんな顔で出てきやした、
根深を置いてゆけってんで百文(2500円)貰ったてぇんです。
そン時中に入ぇったもんで、あたりを見るとはなく見たら、
七人ほどが酒のんで転がっていたそうで、やっこさん
(今日はかかぁが喜びやすって)喜んで帰ぇりやした」
「やはりおったか!伊三次でかしたぜ!かような荒れ寺に多人数ともならば
おそらく間違いではあるまい。
小林!疲れておろうとは思うが、明日一番で宿場に参り、早
馬を仕立て急ぎ役宅に向こうてくれ!佐嶋・秋本・猪子を急ぎ駆けつけさせよ、
お前も辛いだろうが、ここは一番こらえてくれ!頼むぞ」
こうして翌朝早く小林金弥は八王子宿常置の早馬を仕立て九里六町(36キロ)を
駆けていった。
速歩(はやあし)と並足(なみあし)を交えながらその日の昼過ぎには
八王子散田町真覚寺に一同が揃った。
「小林!ご苦労であった!湯を沸かせてもろうておいた、
まずは体をゆっくり休め、話はそれからだ」
その間に筆頭与力佐嶋忠介、秋本源蔵、猪子進太郎を交えて打ち込みの作戦が
立てられた。
内部の事情がはっきりと掴めてはいない、しかし此方は五名、
手対(てむかい)あってもなんとか討ち伏せられよう、
伊三次の話ではどうやらそこは宿坊(僧侶や参詣人の泊まる宿舎)のようである、
されば古びた奥屋だ、引き倒すにも造作もあるまい、どうだ伊三次?」
「あっ!こいつぁ・・・・・へへへへへっ
かなり時も経ち、かろうじて雨露しのげるってぇほどのものでございやした。
なぁるほどねぇ柱引き倒して大騒ぎってぇ寸法で!こいつぁ面白ぇや、
そこんとこを見れねぇのが悔しいけどねぇおまささん」
「やれやれ伊三さん、あたしたちゃぁ物見遊山に来てるんじゃァ無いんだよ・・・・・でもねぇちょっとばっかし惜しいねぇうふふふふ」
「やえれやれお前ぇたちに掛かっちゃぁ盗人を捕まえるのも
物見遊山も一緒たぁ呆れたぜ、あはははは」
平蔵久しぶりの笑いのような気がした。
一休みした小林金弥が入ってきた。
「お頭、すっかり疲れも取れました、お指示(さしず)を」
「よし、今から打ち込みに参る、各自丈夫な荷綱を持ち、
密かに宿坊に近づき四方柱二本をそれぞれ佐嶋・秋本、猪子・小林二組で
同時に引き倒す、儂は反対側にて逃げ延びるやつを待ち受ける、
それから皆で打ち掛かれ、手が足りぬので、出来得るだけ峰打ちで動きを止め、
抗うものはやむを得ん足なぞ切って動きを止めよ、刀
で刃向かう奴は切り捨てて構わぬ」
こうして夕刻の捕物はここ八王子大楽寺町宝泉寺裏手方の廃寺宿坊で始まった。
崩れかけた小さな寺の一角に目指す宿坊は在った。
相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・
下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)、
これら関東八州と呼ばれる一円に無宿者や浪人が激増し、
凶悪な犯罪が後を絶たない為に文化2年(1805)これらを取り締まるために
組織された組合を発展させたものが関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)俗称八州廻り・関八州取締役であるが、身分は足軽格であった。
この組織が構成されるのは長谷川平蔵没後十年を待たなければならない。
八王子は延喜16年(916年)華厳菩薩妙行という僧侶が深沢山麓に庵を結んだ。
そこへ牛頭天王(ごずてんのう)が顕れ、8人の王子を祀れと託した。
大歳神(木曜星・総光天王)・大将軍(金曜星・魔王天王)・
太陰神(土曜星・倶魔羅天王)・
歳刑神(水曜星・得達神天王)・歳破神(土曜星・良侍天王)・
歳殺神(火曜星・侍神相天王)
廣幡神(羅光星・宅神相天王)・豹尾神(計斗星・蛇毒気神天王)
これが八王子の由来である。
八王子は徳川家康の命により、武田信玄時代、佐渡金山開発に功をなした
武田家残党大久保長安が惣奉行として適任し、新たに町の整備を行い、
甲州街道の八王子に八王子横山十五宿が置かれ、甲州街道最大の宿場となり、
飯盛旅籠なども隆盛を極めた。
ここには戦国時代最強の甲斐武田軍団の家来たちで構成された国境警備兵
八王子千人同心という下部組織が置かれた。
だが、大久保長安はとかく派手好みでキリシタンとの関わりを持っていたとも
言われ、慶長十九年(1614)長安が六十九歳で没するを機に徳川家康は
「生前に不正あり」という理由で財産没収、子供七名は切腹という沙汰で、
ここに武田軍団の勢力を途絶えさせた。
八王子千人同心は町奉行差配とは違い、あくまで槍奉行配下。
九名の頭と二五〇名ほどの同心が八王子地域の治安維持に当たったのが
始まりである。
北条氏の本城、八王子城が豊臣秀吉の小田原攻めで落城し、
後、徳川家康の手中に落ちる。
天正19年(1591年)新たに同心がお抱えになり、
小人頭十名に同心は五百名と拡大され、文禄二年(1593年)
八王子千人町周辺に定住した。
関ヶ原の戦いが終わった後、千人頭は二~五百石取りの武田家ゆかりの
旗本であったが、千人同心はあくまで郷士身分であり、
その多くは多摩川流域で半士半農の屯田兵であった。
時代は下り、同心職の株売買が盛んになり、
関東近郷農家の富裕層がこれを買い取り、更に半士半農に加速し、
身分は平時において人別帳には百姓と記載され、
ために、千人同心は苗字は公称が許されず、公務中は帯刀が許されたが、
それ以外は帯刀できず、あくまでも百姓であるということに変わりはなかった。
御家人の組頭であっても十俵一人扶持から多くても三十俵一人扶持という
厳しい営みである。
また八王子千人同心は日光東照宮の警備にもあたっており、
その期間は五十日、片道四日の道のりである。
幕末にこの日光(東照宮)を衞(まも)っていた石坂弥次右衛門は
官軍の攻撃に対しこの地を守るために降伏した。
だがこれを非難され切腹に追い込まれる。
このような歴史を持つ八王子周辺の村は養蚕や茶の生産が盛んとなり、
呉服商の越後屋(三越)や松坂屋(大丸)がこの地の織物を大量に買い付け、
後に鑓水(やりみず)商人達によって庶民の台所も増々豊かになり、
従って治安は悪化の一途をたどることになる。
寛政3年(1791年)老中松平定信の寛政の改革により千人同心の体勢は
900名に減じられ、日光勤番も50名に減員、このまま幕末までこの状態であった。
八王子千人同心の間に起こった武術熱の中で熟成されたものに、
近藤内蔵助開祖の天然理心流がある。
彼が八王子に出稽古をした弟子の中に天明6年(1786年)に生まれた
増田蔵六が居る、ちょうど長谷川平蔵が盗賊改長官になる前年のことである。
増田蔵六は八王子千人町に道場を設け千人同心たちに天然理心流を指導した。
この近藤家三代目近藤周助が天保十年(1839)江戸に
天然理心流道場「試衛館」を開く。
ここに後の壬生の狼、新選組浪士隊近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・
永倉新八・井上源三郎・原田左之助・藤堂平助らが通った。
近藤勇はこの3代目近藤周助の養子となり天然理心流4代目を襲名した。
八王子はこのように幕末までの歴史を千人同心たちが面々と繋がっているのであっ
た。
江戸御府内は町奉行や盗賊改の支配が強く、それ以外の地域には
藩の奉行に郡代が置かれるものの、何れも年貢取り立てが職務で
犯罪も兼務していたものの、御用繁多で部下も又犯罪取締には
ほとんど用をなさなかった。
幕府直轄領の支配処(しはいしょ)に至っては、
広大過ぎて即対応は出来ない状態である。
したがい博打や盗賊がはびこった理由は此処にもあった。
この頃甲府花咲宿から八王子にかけて凶悪な街道荒らしが頻発しており、
地元代官所では手をこまねくばかりであった。
だが八王子に在駐していた18名の関東代官職は宝永元年(1704年)に廃止され、
この地を護る組織は代官支配地となったため、
これらから町村を護るために八王子寄場組合村と小佛駒木野組合が結成され、
これら広域の治安に連携を図る事となる。
とは言う物の、その主幹は村役などで、犯罪には手出しも出来ない烏合組織でしか
無かった。
八王子は槍奉行の支配下ではあったものの、これはいわば閑職(かんしょく・
名誉職)で30俵2人扶持の同心が付いたが実動隊にはならない。
代官は在地が原則のために、代官所(陣屋)に10名程度の手付(武士格)に
数名の奉公人を駐屯させ、三十五代当主江川太郎左衛門英毅は、
夏は本所南割下水に冬は韮山に棲んでいた。
八王子管内は宿場・本陣・脇本陣・問屋場が置かれ、近郷は桑都(そうと)呼ばれ、
養蚕業が盛んで、そのために仲買人や生活用品の商人などで賑わい、多
くの両替商や問屋がひしめくほどあった。
ここに六斎市(月に六日)が設けられ、東から横山4日・八日市8日に市場が立つ。
商家は、間口4間(7米)奥行き35間(63米)という細長い屋敷であった、
これは京都にも似た構えであるが、間口の広さで税の決定がなされた、
その税を減らすための苦肉の策である。
八王子の北側に在方縞買(近郷農家を廻り農民から反物を買い取る商人)
が油箪台(ゆたんだい)を置く販売法を講じた為、宿方(町屋縞買商人)
との間で衝突が頻繁に起きるようになった。
八王子の市は米・麦・大豆などが主で、中でも飼馬飼料の麦・大豆は多かった。
新米が出る秋は価格も安く、端境期(はざかいき=春)になると米の価格は高騰す
る、そこで安い秋に仕入れ、蔵に寝かせておき、
春に売りさばく事で利ざやを稼いだ商人が後を絶たない。
特に8月初旬には八王子祭りがあり、多賀神社と大鳥神社から
千貫大神輿と山車が出た賑わいである。
これを目指して多くの人出で八王子は賑わい、治安の悪化は勢いを増すばかり。
甲州街道一帯を根城とする”甲州路の悪太郎“陣屋の藤兵衛が
これを見逃すはずもなく、八王子横山十五宿は彼らにとって絶好の狩り場になった。
この時期の八王子千人同心屋敷は追分交差点から並木町まで16町(1.5キロ)
にわたって千人頭と同心組屋敷があり、傍には馬場もあり、
馬術の稽古も盛んであったが、これらに属しない平同心は、
日光勤番以外は近隣町村に定住し、農業に従事、自給自足の暮らしをしていた。
当時八王子千人同心の構成は2~5百石取り旗本の千人頭10名
30~10表一人扶持の御家人組頭100名が9名の同心を監督していた。
旧武田家家臣山県助左衛門は日光勤番までの半年間を八王子で
留守居番に当たっていた千人頭の一人で、
頃は8月に入ったばかりのうだるような暑さも西に沈み、
一息入れる穏やかな刻が過ぎていった。
東の空が爽やかに明けた朝五ツ半(午前七時四十六分ころ)
千人町の千人頭の一人、山縣助左衛門屋敷の門を激しくたたく音に
門番が驚いて飛び起き、息を切らせて駆け込んできた者が
「大変でございやす、本町の穀物仲買”相模屋”に押し込が入ぇって
大旦那を始め店の方々が皆殺しにされているのが見つかりやした」
「何だと!押し込みだ!?」
門番に付き添われて控えた百姓から聞かされた言葉に
、山縣助左衛門我が耳を疑った。
「どうしてそれが判った!」
「へぇ、ゆんべ(今年の米は出来が良さそうだから少し多めに貰おうかって
お話がありやしたもので、その約定をいただきに上がりやした。
戸を叩いても誰も出て見えねぇ、妙だと想って向かいの太物屋の手代のお人に
伺いやしたが、いつもならとっくに戸が開いているはずだけど、
妙だなとは想ったそうで」
「そいつは何刻(いつ)のことだ」
あっしが家を出たのが明五ツ(午前六時半ころ)ごろ、
店についたのが四半刻(三十分)をまわっておりやしたでしょうか・・・・・」
「よし判った、とりあえず誰かを遣ろう」
これが甲州の悪太郎“陣屋の藤兵衛”事件の発端となった。
戦争や暴動などにはその力を発揮する千人同心であったが、
相手が盗賊となるとまるで勝手が違ったのはやむを得ない。
そこで、助左衛門 配下の同心頭秋庭周太郎を呼び寄せ、
すぐさま陣屋にこの事を知らせ手配を頼むよう、
「貴様にこの一件すべて任せるゆえ構えて万事抜かりなきよう、心して懸かれ」
と一任した。
この秋庭周太郎10俵1人扶持・御家人の中でも最も貧しい俸禄であった。
配下の者九名はいずれも近郷農家の出身で、
そのほとんどが物資の運搬などに従事する軽輩でしかなかった。
秋庭周太郎自身も甲府武田家を先祖に持ち、この地に召されて三代目、
戦事(いくさごと)は経験もなく、日光勤番以外は生活のために農業を営む、
ごく普通の同心頭でしか無かった。
一体何から、何処から手を付けてよいやら、まずはそのあたりからでさえ、
手探りの状態、時間のみが流れるそんな中で、またもや盗賊が押し入った。
本所南割下水の代官所から代官江川太郎左衛門英毅が駆けつけたが、
こちらも例外なく盗賊は専門外・・・聞き込み作業はすれど、
何一つ手掛かりらしきものも掴めないまま、今度は八日市の翌日未明、
八日市縞買仲買商”奈良屋”に賊が入り、家人が皆殺しになった。
盗賊の探索にあたっていた秋庭周太郎は、この事件も加えて担当する羽目となる。
だが、何一つ進展しないまま、八王子同心を嘲り笑うがごとく、
取って返して追分町穀物仲買商”日野屋”に再び押し込みが発生、
これで三件の強盗事件が立て続けに起こったことになる。
さしもの八王子千人同心千人頭山縣助左衛門も自腹(じふく)
に納めきれるものでもないと、他の留守居番七組にこの事件を持ちだした。
日光勤番以外八組の千人頭が合議の結果、江戸に助成を嘆願することに決定。
江戸町奉行はあくまでも江戸御府内の商人、町人のみの受け持ちであり、
それ以外の寺などは寺社奉行が預かるなど管轄が決まっていた。
上司槍奉行に嘆願書が出され、そのまま老中に回され、
若年寄京極備前守より助成が下知された。
これら組織に関係なく取り締まれる、火付盗賊改方に話しが回ってきたのは
当然であろう。
「ふむ 八王子千人同心となぁ・・・・・
東照権現様が長槍持ち中間を新規お抱えになられ、甲州武田(武田信玄)の
残党を小佛方面から入府するものへの備えに置かれたと聞き及ぶ。
支配処(しはいしょ)代官は陣屋だが、ここでは盗人にゃぁ手も足も出まい。
さて如何したものか、佐嶋お前はどう見る」
平蔵 筆頭与力佐嶋忠介に意見を尋ねる。
「然様でございますな、江戸より八王子まで9里6町程
(36キロ・徒歩で9時間弱)
そこへ出張るとなると、此方(こちら)が手薄にもなりましょう、
したがい出役致し、探索の結果を待ち、改めて出張るなり、
先方の出役もしくは同心なぞ活用するのも一考ありと存じます」
さすがに剃刀と異名を持つ堀組選り抜きの与力である、
その洞察力は平蔵が火付盗賊改方を拝命したおり、
わざわざ先の火付盗賊改方長官堀帯刀秀隆に借り受け願ったほどの逸材である。
「そうさなぁ、あちらには代官所もあり、千人同心隊もおる、
頭数なら余裕であろう、後はどう盗人共を追い詰めるか、こう続けざまに
押し込まれてはあちらも面目なんぞ言うておる暇もなかろう・・・・・
まずは儂が出向こう、ここはお前に任せるゆえ頼む、万一の時に備え
小林を連れてゆこう、あとおまさだなぁ、商家の探りはあいつにゃぁ勝てぬ、
何しろ・・・嘗役(なめ役=押し込み先の内情を調べる役)、
引き込み(押し込み先に数年奉公しながら、いざという時は内部から手引する役)
何でもござれの強ぇ味方・・それに伊三次も連れてまいろう、
何かの時の繋ぎにゃぁ足が物を言う」
平蔵、まずはそのあたりから攻めようというつもりのようである。
翌日には平蔵一行の姿が八王子本町に見られた。
二人には落ち合う場所を心字池(しんじいけ)蛙合戦の散田町真覚寺
(しんがくじ)と決め、それぞれ探索に散った。
平蔵はまず陣屋に関東代官江川太郎左衛門英毅を尋ねる。
「長谷川殿、此度はわざわざの出役ご苦労様に存じます、
お聞き及びとは存じますが此度の3件にまたがる盗賊どもに、
我ら為す術もないと申しますか、正に畑違いの事ゆえ当惑いたしております」
「いやいや 無理もござりませぬ、戦場(いくさば)ならばまだしも、
相手が見えぬ盗賊となりますと・・・
胸中お察し申し上げます、ところでこれまでに判明致しし物あらば
お聞かせ願えればと、推参つかまつりましたるしだい」
「然様、それでござる、身共も御府内より駆けつけましたるばかり、
事件発生当初より当たっております八王子同心頭秋庭周太郎がおりますゆえ、
詳しくはその者よりお尋ね頂ければと存じまする」
と、まぁこういった事情で平蔵その同心頭秋庭周太郎に会うために
甲州街道と陣馬街道分岐点の千人頭屋敷に山県助左衛門を尋ねた。
其の2へ続く
「ですが長谷川様小江戸は中市と外市もございやして、
両方となると少々広くて時が掛かるかも知れやせん」
「それを見越してお前ぇたちに助(すけ)てもらおうと言うことさ」
平蔵顔を見合す二人の様子を交互に眺めながら口元をゆるめた。
「まず川越の絹問屋を調べてくれ、繋ぎに粂を付けてやろう、
それでわかったことをこっちに知らせてはくれぬか?これは当座の費用だ」
平蔵、懐紙を出して金子を包み五郎蔵に渡すよう控えている酒井祐介に手渡した。
「へい お預かりいたしやす」
五郎蔵おまさの二人が腰をかがめ平蔵に挨拶して出て行った。
「お頭!川越まで10里は優にございます、それに粂八に・・・・・」
「うむ あいつならまだ若ぇ、川船よりも早ぇんじゃぁねえかい?」
この平蔵の読みは当たった、翌々日には粂八から第一報が盗賊改の役宅にもたらされた。
それによると、機織りされた物は取りまとめされるところで商品に名札をつけ、
尺、目方、品質などを書き込んで置く。
川越は相当数の絹宿と呼ばれる絹仲買が存在し、
彼らは地方をまわって養蚕家や機織場を取りまとめている庄屋などで買い付け、
それを毎月の九斎市に出す。
ここに問屋が集まり買い付けをする。
このような定宿や店を構えているものもある。
「その一つに浅草駒形町呉服問屋"多賀屋"の出店で、
はぁこいつがなんとも買次人の宿がございやした」
「何だと!てぇ事は川越で集めたものを己の店に転売するということではないか」
「へぇ 商人はどこまでも抜け目のない者のようで・・・
おまけに御政道のあおりで絹物はご法度、そこで目をつけたのが裏衣・・・
表は粗末な太物でも裏は細糸の平絹・・・こいつぁ飛ぶように売れやす」
粂八、手渡された湯呑みで喉を湿らせながら平蔵の顔を見上げた。
すると飛脚が届けるのは買い求めた物の引受証・・・・・」
「のような格好でございやすね」
粂八は平蔵の読みに合点がいったらしく頷いてみせる。
粂八の報告では、仲買商の絹宿から絹市へ持ち込まれた物を買次人(卸問屋)から
絹問屋が買い付ける、それを川越以外の所は街道を使って江戸に持ち込む。
ところが、浅草駒形町呉服問屋"多賀屋"はそれらを川船に乗せて一夜の内に
浅草花川戸まで持ち込んでしまう。
おまけに、取引額は前もって判明している、ゆえに販売価格もどこよりも早く設定でき、
売りさばくにも好都合というわけである。
当時の飛脚という物は、定飛脚出所(問屋・どいや)では
毎月2の日に3回(2・12・22日)程度集荷があった。
公儀の継飛脚は宿場間を二人一組で取り次ぐので、大抵が2~3里(8~12キロ)
が普通であり、これを時速8キロ程度で走り繋いだ。
大名専用のお抱え飛脚は大名飛脚と呼ばれ、定飛脚(町飛脚)は
東海道に28ヶ所取次所が設けられた、だがそれ以外の場合は取次なく、
通飛脚(とおしびきゃく)と言って一人で走り抜けた者や、
仕立て飛脚と呼ばれる専用の飛脚便もあった。
江戸・川越間は伊能忠敬の計測によると10里34町33間半(約43キロ)
40キロといえば現代のフルマラソン(42,195キロ)でも五時間はかかる事になる。
時は道路整備も無いのであるから、これ以上かかったと考えねばなるまい。
絹は蚕2600頭(匹ではない)で生糸600グラムがまとめられ、
おうよそ着物1着分取れる。
こうした背景の中、武州川越では年間の平絹生産は15000疋
(3000反)に及んだ。
如何に広範囲に養蚕農家や機織り場があるかがうかがい知れる。
そこへ伊三次が息せき切って飛び込んできた。
「長谷川様!おおっ粂八さんまで」
「おお 伊三次変わったことがあったようだなぁ」
「へぇ 大ありのコンコンチキ!繋ぎを取ってきた野郎が
(ご苦労さんだったなぁ)って一両あっしの袖口に放り込みやぁがり、
さっさと引き上げやした。
慌ててそいつの後を微行やしたが、野郎!川船に乗り込み大川をのぼりやした、
申し訳ございやせん」
伊三次は両手をつき無念そうに平蔵を見上げた。
その頬に一筋の涙を平蔵は認めた。
「伊三次案ずるな、仕方のねぇことだってあらぁな、たとえ俺でも同じことだったと想うぜ」
と伊三次をなだめる。
「だけど伊三さんの気持ちもよっく解りやす、
結局奴らのことは何一つ判らずじまいでござんすからねぇ」と粂八。
翌々日五郎蔵とおまさの夫婦が慌ただしく菊川町の平蔵が屋敷、
火付盗賊改方の前に現れたと山田市太郎が知らせてきた。
「何!五郎蔵が帰ぇってきたとな!すぐにこれへ通せ!」
平蔵は控えている木村忠吾に
「忠吾茶を持ってきてやれ!」と命じた。
「あのぉお頭にでございましょうや?」
「馬鹿者!儂ではない、五郎蔵夫婦だ!」
「あっ 私がでございますか?」
「おい忠吾お前には出来ぬと申すか!」
「あっ はい いえそのようなことではなく」
「どのようなことと申すのだ、早く持ってきてやれ!」
「はっ はい!只今!」
と木村忠吾不服そうに下がっていった。
「すぐに茶も来よう、まずは喉を湿らせ!
でその慌てようから何か引き起こったのであろうな?」
平蔵の引き締まった態度に周りの空気がピンと張り詰めた。
そこへ木村忠吾が湯呑みを持ってやってきた。
「??????!なにかございましたので?」
と、至ってのんびりとした顔を見た筆頭与力の佐嶋忠介
「忠吾!お前にはこの空気が読めぬのか!」と一喝
「はぁ?・・・・・ははっ!面目次第も」
「とにかくまずは喉を湿らせてからだなぁおまさ」
平蔵は疲労の色も濃いおまさにいたわりの声をかけた。
「長谷川様!やられました!!」
大滝の五郎蔵は湯呑みを受け取ったままその場にうなだれた。
「何だ!何が如何致した!?」
「小江戸にございやす買次人の大店"田賀屋"が破られました!」
「何だと!!」
さすがの平蔵もこの五郎蔵の報告は予期していなかった。
「そいつぁどういう事だ五郎蔵!」
「昨日川越南町の"田賀屋"に賊が押し込み、箱(千両)がひとつやられたそうで、
金子の両目は定かではございませんが町奉行所が大騒ぎしておりました。
おそらく粂八さんに繋いだ通り、為替飛脚の引受証を換金した直後を狙ったようでございます。
店の者に怪我人はなく、あっという間の出来事だったようで、
店の者も全員が一箇所に集められ皆数珠繋ぎに縛られて、
賊は金を麻袋に詰め替えて小分けし、立ち去ったそうでございやす」
「くくくくくっ くそぉ!!またしても・・・・・・」
平蔵歯をギリギリと食いしばり、手にしていた調書を床にたたきつけた。
居合わせた面々は一様に沈黙し、無念の顔相で下を向いたまま
誰一人顔を上げることも出来なかった。
後ひと手・・・・・手の内に入りかけたものが、ものの見事にすり抜けて行った無念さを、
平蔵はどうすることも出来ず(ンむ!!!!!)と両腕を組み濡れ縁を行ったり来たり
「あのぉお頭?お茶でもお持ちいたしましょうか?」
木村忠吾気を利かせたつもりではあったのだが・・・・・・
「クソぉ忌々しい!!」
平蔵の語気に圧倒されてその後が続かない忠吾であった。
「お頭!」
後ろに控えていた筆頭与力佐嶋忠介が平蔵を見上げながら恐る恐る声をかけた
「・・・・・・・・」
平蔵無言で佐嶋を見返すその瞼はピクピクと震えているのが手に取るように見えた。
「お頭 これまでに起こった押し込みの調書を元に、
符牒のあうところを書き比べてみましたが・・・・・」
「で? なにか判ったのか!」
「はい まずは霊岸島四日市塩町の灰問屋"狭山藤二郎"この折の調書と
川越本町灰商いの大店"白子屋"それに、先程五郎蔵が申しました川越南町の
"田賀屋"の手口が似通うておりますように・・・・・」
平蔵佐嶋の差し出す手控えを眺めながら
「ふむ 確かになぁ金子を詰め替えるところや、店の者に手出しもなく傷つけることもない。
片や川越、残る一つが霊岸島、なれど何れも川越での九斎市、
しかも、直に店に仕掛けを持つ気配すらなく、何の関わりもねぇように見ゆるが、
そこんところが一番気になるのぉ」
平蔵やっと気を持ち直したのか佐嶋の意見に耳を貸す。
「誠に・・・・・・・」
控えめではあるがこの佐嶋忠介、平蔵が火盗改を拝命した際、
先役の盗賊改堀組、堀帯刀秀隆の筆頭与力であったこの男を借り受けたのである。
ほったて小屋とまで揶揄されたこの組の屋台骨を、
一人で支えていたのがこの佐嶋忠介であった。
平蔵には少しばかり年上の、この剃刀のように切れる無口な男は、
何より頼りとなる懐刀である。
「のう佐嶋、お前ならこの後どうする?大店3軒で盗んだ金は半端なものではない、
押し込みの頭数もさほど多くはないということは・・・・・」
「納金?・・・・・・・では」
(おさめがね=盗賊が引退する時仲間に分け与える手切れ金)
「うむ 儂もそう見たのだが・・・・・やはりなぁ・・・・・・」
平蔵両腕を袖口に引き込めて片手を懐から出し、
顎をはさみながらじっと濡れ縁の板目を観ていた。
それを聞いて、大滝の五郎蔵
(そうならば、出来ることならこのままそっとしておいてやりたいもの・・・・・)と
一瞬そんな思いが脳裏をかすめた。
「おい 五郎蔵!つまらねぇことを考えるんじゃァねぇぜ・・・」
「ええっ! ああっ はい!承知しております」
慌てた様子の五郎蔵を横目に見ながら
「あのぉ お頭?一体何のお話で?」
と、その場の空気が読めず木村忠吾
「何でもねぇよ なぁ五郎蔵・・おまさ」
「は!長谷川様!」
五郎蔵とおまさが深々と頭を下げた。
「よいよい だれでもこのような時は思うことも又同じよ!だがな!
お前ぇ達ぁ俺の手足・・・
そこんところを忘れるんじゃァねぇぜ」
「はっ長谷川様ぁ・・・・・・」
五郎蔵とおまさの眼が潤んでいた。
「伊三次、お前ぇだけが繋ぎ役の顔を見知っておる訳だな、
もう一度奴らがやるかどうかも今のところ5分と5分・・・
それに、もしこいつが粗奴らの納金ならば、後を誰かが引き継ぐことも考えられよう、
そのあたりも気になるところだ、そうだのぉ佐嶋」
「然様にございます、お頭の申されますように、これで終わったわけではございません、
何一つ変わってはおりませぬゆえ、次の一手を打つべきと」
「よし決まった!猪牙で後を消すところからも、川筋と儂はにらんだ、
となると奴らのねぐらは江戸と川越の間の何処かであろう、
だがこいつを見はるにゃぁ広すぎる。
そこで儂はもう一度伊三次に賭けてみようと思う」
「あっしにでございやすか?」
伊三次が瞼(め)をまん丸にして平蔵を見た。
「うむ もし儂が粗奴らの仲間で、こいつぁ例えだがなぁ、
そ奴らの誰かが後を継いだとすると、てぇげぇは跡目相続の争い事になる、
何しろ気馴れた者がそのまま手に入ぇる、
するってぇと割れるなりなんなりで仲間が減っちまう、そこで・・・」
「誰かを誘う・・・こうおっしゃるんで?」
と伊三次
「さすがだな伊三次、その通りよ。お前ぇなら証明済みだ、で ・・・・・」
「あの当たりに張っていりゃいいんでござんすね長谷川様!」
「正に!俺ならお前ぇを探すにゃぁ一番当たりのいいところだと思うからな」
「では早速・・・」
と立ち上がったところで平蔵
「伊三次ちょっと待て!」
「へっ?」
立ち上がって踵をかえそうとするそこへ平蔵
「そのためにゃぁ戦金(いくさがね)も必要(いる)だろう、こいつぁ少ねぇが持って行きな」
そう言い懐紙に小粒をいくつか挟み、伊三次に渡すよう忠吾に手渡した。
「・・・・・・お預かりいたしやす、そいじゃぁあっしは今から」
と伊三次が裏木戸へとかけだしてゆく。
それを見送りながら木村忠吾
「お頭・・・一体どういうことになるのでございます?」
と聞いてきた。
「忠吾!よく聞けよ、此度の事件は直接我ら盗賊改には関わりのない事、
だがお頭としては伊三次との拘わりがある、故に伊三次を手配りしておけば、
再びあ奴らからの繋ぎが来るかも知れぬ、然様お考えなのだ」
と傍から佐嶋忠介が口を入れる。
「ああ・・・然様で・・・なるほど然様でございますなぁ、さすがはお頭!
なさることに祖つがござりませぬなぁ、あははははは・・・・・」
平蔵頭を掻きながら
「おいうさぎ!人参でも喰って、もっと血の巡りをよく致せ!ったくお前ぇと言う奴は」
「えっ?私が何か?」
「忠吾!見ろ!」
佐嶋忠介が控えている五郎蔵とおまさの方へ顎をしゃくってみせた。
二人とも顔を下に向け横を向いているが目のあたりにシワが寄っている。
「きっさまぁ!おい五郎蔵・おまさ!何がおかしい!」と激情する忠吾に
「めめっ滅相もございません、笑うなどと・・・」
五郎蔵の顔はそれでも目尻の方は緩んでいる
「忠吾!もう良いではないか!下がっておれ!五郎蔵・おまさご苦労であった、
下がってゆっくり体を休めてくれ」
平蔵はそう言い残して襖を閉めた。
外では、まだ何やら忠吾の荒がった声が聞こえていたが、やがて静けさを取り戻した。
「やれやれ やっと気が収まったと見ゆる」
と平蔵苦笑いをしながら冷めた茶をすする。
それから一月ほどの時が流れ、その間何事も無く過ぎたかに想えた。
今日も今日とて、下谷二丁目提灯店"みよしや"言わずと知れた"およね"の部屋
「ねぇねぇ いっさっさ~ん!ゆんべさぁおかしな客がいてさぁァ・・・・・」
およねは伊三次の盃を取り上げ、新しく酒を注ぎ口に運んで上目遣いに伊三次を見た。
「何でぇその妙な事ってぇのは、どうせろくな事じゃァねぇんだろう!」
と、およねの飲み干した盃を取り返す。
「あははははぁ それがさぁ、ちょいといい男でさぁ ふふふふふ」
「なんでぇ気色の悪い、お前なぁこんな時に他の男の話をするかぁ?!糞面白くもねぇ」
伊三次盃を放り投げてひっくり返り、滲みだらけの天井板の模様を睨みつけた。
「あっ!ほらあそこに鍾馗さまみたいな滲みが見えるじゃァない!
変なのってあたいいつも見上げる度に思っちゃって、
ついつい笑ってしまってお客さんに怒られちゃうんだぁ」
とケラケラ笑う。
「馬鹿かぁお前ぇ、客の腹の下で上見て笑われりゃぁそりゃぁどんな客だって怒らぁなぁ」
伊三次呆れておよねの顔を見た。
「ほんとよねぇ、嫌だぁアタシ、あははははは」
大口開けて笑うこの横顔が何故か伊三次は気の安らぐ思いがするのである。
「で そいつがどうみょうなんでぇ」
「ああ それよぉ 一服点けながら
(この辺りで遊び人の伊三次ってぇのを知らないか?ってさぁ、
ネェそれってもしかしたら伊三さんのことじゃぁなぁい?
やぁだぁ、あたしったら伊三さんのことだと思ってその人に話しちゃったぁ、
ねぇ話しちゃぁいけなかったぁ?でももう話しちゃったんだからさぁ仕方ないよねぇ、
ネェもう1本持ってきていい?」
それを聞いた伊三次の顔が変わった。
「おい!およね!そいつぁ何時頃のことだ!」
と寝そべっているおよねの胸ぐらをつかんだ。
「わぁびっくりしたァ、何よ驚かせてさぁ、確か五ツの鐘(午後八時)が鳴った後だからさぁ、
それがどうかしたの?ねぇねぇ!」
およねは伊三次を押し倒し肌襦袢を押し開いて馬乗りになり
「今度はお馬さんごっこしようよねぇねぇ!あたし好きなんだものぉいやぁねぇふふふふっ」
それを振りほどいて伊三次飛び起きた。
「どうしたのさぁ伊三さん???」
驚くおよねに
「そいつぁ他に何か言わなかったか!」と詰問した。
「さぁねぇ・・・・・そうそう そう言えば(もし野郎が来たら、
浅草萱町一丁目の第六天神に来てくれと、昔の馴染みが言っていたと伝えてくれ)ってさ、
剛気に一朱もくれちゃってさぁ、うふふふふ・・・だからさぁもっと遊ぼうよぉ、
ネェネェいいでしょう」
その言葉を聞き終わらない内に伊三次跳ね起きて着替えを始めた。
「どうしたのさぁ、そんなに慌ててどこへ行くのさぁ、ねぇ伊三さん!」
伊三次のただならぬ気配に、さすがに呑気なおよねもその異常さに気づいたようで
「あたしなんかまずいことでも言っちゃったぁ?ネェ」
と真顔で案じているその顔を振り返り
「ほんとにお前ぇは可笑しなやつだぜ」
と言い残して飛び出していった。
それから小半刻(三十分)伊三次の姿は浅草萱町一丁目の第六天神社にあった。
正面南鳥居の奥辺りをブラブラと流すこと二刻(四時間)
「やっぱり来ておくれだねぇ伊三さん」
伊三次がその声に振り向くと、そこに過日の男が立っていた。
「やっぱりお前ぇさんか・・・・・」
「言付けが届いてよかったよ、ここでも何だから、どうだいそこいらでちょいと!」
と盃を空ける仕草をしてみせた。
「いいともよ!」
伊三次は気軽に受けてその男の後に従って歩き始めた。
「ところでお前ぇさん名前ぐらいは教えてくれたって
罰ぁ当たらねえんじゃァねえんですかい?」
「おっと!それもそうだ、これからのこともある、
俺の名は水雉(くいな)の平治と呼んでくんな、で 物は相談だがね伊三さん、
お前さん確かお頭は大滝の五郎蔵お頭とか言いなさったねぇ」
「ああ 大滝の五郎蔵お頭だが、そいつがどうかしたけぇ?」
「そのお頭に俺を引き合わせちゃぁくれまいか!」
「何でぇ?一体どうしてあんたを大滝のお頭に引き合わす必要があるんで?」
「そこだよ伊三さん、実はこれまでのお頭がこの前の盗(おつとめ)を納金に、
足を洗っちまった。
まぁそれなりに歳も歳だし、この辺りでゆっくりと甲府あたりに隠居してぇってんでよ、
お引きなさった」
「隠居だぁ 一体そのお頭は何処のどなたで?」
伊三次この時とばかりに突っ込んだ。
「あはははは、もういいだろうさ、お頭の名は鵯(ひよどり)角右衛門、
噂くらいは聞いているかも知れねぇが、甲州街道から川越あたりを根城に、
盗みの三箇条をきっちりとお守りなさった今じゃぁ少ねぇお頭よ」
「鵯の角右衛門だぁ?で、そのお頭は今何処にいなさる?」
「さぁねぇ 皆に納金渡した晩にさっさと消えちまった、
残った子分どもが跡目を継ぐってんで色々あってよ、
今どき盗人の三箇条を守るなんざぁ古いってぇ奴らばかり・・・・・
俺ぁそんな奴らが嫌になってよ、でお前のことを思い出したってぇことよ、
悪いが大滝のお頭はこっちで調べさせてもらった、
いやぁてぇしたお頭じゃァねぇかい、いいお頭に付いてよかったねぇ」
平治は茶店の南を流れる神田川の方を見やりながら少しさみしそうに盃を干した。
「あんたは今何処に棲んでいなさるんで?」
伊三次はこの際とばかりに聞き出した。
「俺かい?俺はすぐこの先の人形屋"吉徳大光"の裏長屋さ、
表向き平右衛門町の船宿"五色"てぇところで船頭をつとめている。
まぁこいつも悪くはねぇなぁって思って入るがね、
やっぱり餓鬼の頃から染み付いた稼業が背中におぶさっちまって、
あはははは、笑ってくんねぇ、どうも落ち着かねぇ・・・・・で・・・」
「判った!で大滝のお頭にと言う訳だな」
「話が早ぇや、どうだろうね伊三さんかまっちゃぁくれねぇかい」
「いいともよ!そうとなりゃぁ早速大滝のお頭に引きあわそうじゃねえぇか、
ちょいと刻をくんねぇお頭に相談してからでないと、俺としても・・・・」
「ああ 立場はわかるよ伊三さん、よろしく頼むよ」
そう言って二人は別れた。
その足で伊三次は神田川にかかる浅草御門を渡り、用心しながら吉川町広小路を抜け、
両国橋を渡り、幾度科後ろを確かめながら微行のないことを見届けて、本所二ツ目橋、
相生町五丁目の軍鶏鍋や"五鉄"に入った。
伊三次の目配せにすかさずおときは気付き「いらっしゃぁい!」と明るい声で出迎えた。
一番奥に席を取ると、おときが注文をとりにやって来た。
伊三次は小声で「長谷川様に急ぎと言伝ねがいやす」
と言ってから「熱いところを一本」
と注文を出した。
奥でこの五鉄の亭主三次郎が「彦十さん長谷川様に急ぎの繋ぎだ!」
と、小声で耳打ちした。
「合点承知!と来たねぇ」彦十いそいそと前掛けを外し
「ちょいと買い足しに・・・」
と足取りも軽く出て行った。
それから半時ほどして彦十は長谷川平蔵と連れ立って戻ってきた。
平蔵はそのままいつものように二階へと上がってゆく。
しばらく酒を飲んで、伊三次は支払いを済ませ表に出た。
それからゆっくりと一ツ目通りを北に上がって"喜久屋足袋店"へと入っていった。
その後を長谷川平蔵がゆらゆらと追って入る。
お互い背中を合わせるように足袋を手に取りながら
「急ぎだな!」
と平蔵
「へい!野郎から繋ぎが取れやした、ですがここん処は用心してと
長谷川様にご足労をお願いいたしやした」
「なぁに構わねぇよ、ちょうど抜けたいところであったからなぁ、で これからどうする?」
「へい!相方が大滝の五郎蔵さんに引きあわせてほしいといいやすもので・・・」
「あい判った!そいつを儂が肩代わりすればよいのだな?」
「仰るとおりで!では後日どなたかに繋ぎを・・・」
「ああ しからば彦十が良かろう、アヤツなら何処に居っても染まっちまうからなぁ」
こうして万全の対策が取られた。
さいわい、伊三次の心配を他所に、誰も微行や見張りもないようで、
すんなりと話の受け渡しは済んだ。
翌日彦十が上野池之端提灯店"みよしや"に姿を現した。
早速伊三次が平蔵都の待ち合わせ場所を伝え、慌ただしく彦十は店を後にした。
その明くる日の昼八ツ(午後二時)平蔵と伊三次の二人の姿が
本所回向院裏の門前町茶店に見られた。
「遅くなりやして・・・・・」
入ってきたのは水鶏の平治。
「ああ 奥へ入っておくんなさい!」
伊三次が認めて奥へと招き入れた。
その部屋には平蔵が着古した格好で錆鰯(古刀)を横に盃を上げている。
少々大滝の五郎蔵という名と、この平蔵の形(なり)に違和感を感じたのか
戸惑いを見せる平治に、「大滝のお頭でござんす」
と伊三次が紹介する。
「・・・・・大滝の五郎蔵お頭で?」
「おお 儂かえ?儂は長谷川平蔵・・・・・」
「長谷川・・・・?」
平治の戸惑っている隙に伊三次が平治の後ろへ廻った、
と同時にばらばらと浪人姿の者が周りを囲んだ。
「なななっ何んでぇ伊三さんこの出迎えは」
と、驚きと恐怖を顔いっぱいに表し丑をを抑えている伊三次を振り向いた。
「火付盗賊改方長谷川平蔵だ、水鶏の平治とやら、おとなしく観念しろ」
と低く平蔵が発した。
「負けた!負けやした長谷川様!
なるほどお頭が(お江戸にゃぁ恐ろしい鬼が棲んでいるからお盗めだけは用心に用心を重ねても
重ね過ぎはねぇ)とおっしゃった意味がよっく解りやした。
それにしても伊三さんがねぇ・・・・・」
「すまねぇ平治さん、勘弁してくれねえか?俺ぁ今頃の急ぎの盗みをする奴らを許せねぇんだ、
そうは想わねぇかい?」
「ああ、判った伊三さん、これで俺も綺麗さっぱりこの盗賊稼業(かぎょう)から
足が抜けるってもんで、さぁどうなと勝手にしておくんなさいやし」
とその場に居住まいを正した。
その翌日水鶏の平治は本所菊川町、火付盗賊改方役宅のお白洲に引き据えられていた。
取り調べにあたったのは筆頭与力佐嶋忠介。
「水鶏の平治だな、お前のお頭の名は何という?」
「へい 鵯(ひよどり)の角右衛門でございやす」
「其奴は今何処に居る」
「さぁ誰も仲間内で知るものは居ねぇと想いやす、お勤めを終えてそれぞれに納金を私い、
その夜の内に川越から消えやしたもんで。
おそらくは甲府あたりの奥深いところにでも隠居なさっているのではと、へぇ」
こうして平治の口から残党一味の居所が割れ、
すぐさま川越奉行所からの打ち込みでその大半が捕縛された。
(残りの者はすでに行く方知れず)
であったと平蔵の元へ知らせが届いたのはその数日後のことである。
それから半年後・・・・・・
大川をゆったりと流す小舟に平蔵と伊三次の姿があった。
「長谷川様!今日は抜けるように雲ひとつ無くお天道さまが眩しゅうございますねぇ」
船頭の日焼けした顔が明るく晴れ晴れとしている。
「平治!今日あたり釣れるかのぉ・・・・・」
「あはははは 長谷川様ぁそいつぁ難しゅうございますよ、
何しろこの広い大川にたった一本の釣り糸でござんしょう?釣る方も暇なら、
それを見ている者ンのほうがもっと暇、そこいらあたりじゃぁござんせんかねぇ、
おまけに竿の先にゃぁ針も無ぇ、あははははは」
「そうさのぉ・・・・・これでは釣れぬかわははははは」
さわやかな風が三人の頬を心地よく撫ぜて抜けた。
(ああ~ 九十九曲がりゃぁ あだでは越せぬ アイヨノヨ 通い船路の三十里
アイヨノヨト来て夜下りかい(櫂=かい))川越夜船の粋な船頭歌が登ってゆく
徳川家幕臣の最下位は、知行1万石以下直参家臣の中で将軍お目見のあった者を旗本と言い、
お目見以下の家格のものを御家人と呼んだ。
戦時には徒歩(歩兵)身分,平時には与力・同心の職務・警備に当たった。
御家人の家格は譜代・二半場・抱席に分かれており、
譜代とは徳川家康以来4代徳川家綱の時代に留守居・与力・同心として仕えた経験者の子孫。
二半場はその中間的な身分で、四代の間に西之丸留守居同心等に抱えられたもの。
抱席・抱入は、それ以降に新たに御家人身分に登用されたもの。
抱席は四代の間に五番方=小姓組・書院番=(小姓組)・新番・大番・小十人組)
与力などに召し抱えられたものと、五代以後に召し抱えられたお目見以下の幕臣の中で
最も古い役が大番。
現代の町名にも〇〇番町とあるのはこの名残である。
譜代と二半場は無役であっても俸祿の支給があったが、
抱席は一代限りの奉公であったものの、新規お抱えと言う形をとって世襲制が普通であった。
また時代とともに名目上の養子として、これを御家人株と称し商家の間で売買された。
二半場(にはんば)の御家人で三十俵二人扶持は御家人でありながら武士の最低身分であり、
一年に主従合わせて支給される扶持米は本人分三十俵、家来一名五俵?2の十俵。
総計四十俵
一両が4千文 1文=25円 で10万円程度
米1升百文=2千5百円 1俵35升と決められていたために、1俵8万7千5百円
だと年間350万円
これで(妻・両親・子供その他何人いても)この1家と家来2名が暮らすわけだから、
かなり苦しいと言わねばならない。
おまけに将軍様お目見えの叶わない御家人(与力・同心格)や
無役などは蔵取米という決まりなので年間四十俵 2月と5月に四分の一を支給された。
2月が春借米(はるかしまい)5月が夏借米冬は冬切米と呼ばれた。
これを受け取るには蔵前に出向き米を受け取り、
これを更の米屋に売却しなければ実質の暮らしはできない。
だがこの米を金子に交換する際に米屋から手数料を取られる。
が、これが1俵につき1分の手数料を取られる、この仕事を請け負ったのが札差。
これを運搬、売却する際には更に手数料を2分割増した。
1分は小判の4分の1で、4朱・2、5万円つまり5万円である。
今も昔も銀行(かねかし)業は大した作業ではないのに、手数料は大きかったといえる。
二半場(にはんば)の御家人で蔵前取り三十俵二人扶持の小田祐継(すけつぐ)の娘
さとは下働きの五助を伴って肴町行願寺前の紙問屋相馬屋へ傘に張る紙を求めるため
出向いていた。
この先を更に東に進めば神楽坂、その先は牛込御門に出る。
相馬屋とはすでに馴染みとなっており、
番頭の愛想もよく手代が求めた紙を手際よくまとめてくれたものを風呂敷に包み店を出た。
この行願寺、天明三年(1783年)百姓の身である冨吉が神道無念流の戸賀崎熊太郎の手ほどきで
居合を学び、この寺の境内にて無事親の敵甚内を遺恨の末討ったところでもある。
寺の門前は兵庫町であったが、三代将軍家光が鷹狩に訪れ、
その度にこの街の肴屋が肴を献上した所から肴町と呼ばれるようになった。
肴町の辻を左に折れて御?笥町に差し掛かって後を付いてくる五助に
「先程の肴町も面白いけれど御簞笥町も変わっている名前だわね」
と話しかけた。
五助は急いでさとの横に並び
「そりゃぁもうお嬢様この辺りは昔からお侍様の武具甲冑などを総じて
簞笥と呼んだものでございますからその具足奉行、弓矢鎧奉行の組屋敷がある所から
左様に呼ばれているのでございますよ」」
と応えた。
「まぁ五助は何でもよく知っているわね」
と感心している。
その歩む先は山伏町である、この程度であればさとにもなんとなく判断が行く
「ねぇ五助、この辺りは山伏町と呼ぶけれどそれは修験者の山伏が住んでいたからでしょう?」と確かめた。
「よくご存知で!昔もこの辺りは険しい場所だったようで
この通りの両側の道も山伏町と呼ばれております」
と返事が返ってきた。
「でもこの焼餅坂はわからないわ!」
と辻番所を左に見ながら過ぎ越しつつ、くったくのない笑顔で尋ねた。
「あれま お嬢様この坂は元々染め物に使う茜を作っていたとかで
茜坂と言うものが赤根坂となったのでございますよ、
しかし周りに焼餅を売る店があった所から今もこうして呼ばれているのでございましょうね」
と解りやすい答えが返ってきた。
「まぁ 私は又どこぞの殿御にどこぞの女子衆が焼餅でも焼いたのかと・・・・・・
うふふふふ」と恥ずかしげに笑った。
焼餅坂を下って西に取り御籏組の広大な屋敷前を牛込原町に入り突き当たると
建物修繕奉行のある牛込破損町、その奥に戸山尾張藩の広大な下屋敷が控えている。
元々この尾張藩邸は尾張藩徳川家下屋敷であり、二代藩主徳川光友によって回遊式庭園
「戸山山荘」として造られた。
敷地内には箱根山を模した築山の玉圓峰や東海道小田原宿を模した建物など
二十五景が設けられ、水戸徳川家の小石川上屋敷と並ぶ広大な名園である。
この屋敷の少し手前を北に上がり二丁ほど入って左に曲がると、
正面には亀井隠岐守下屋敷の背後に正覚寺の大屋根が見える辺である。
近くには穴八幡社や宝泉院もあり、子供のころは父母と連れ立って
6月ともなれば宝泉院の高さ十丈(33メートル)の高田富士に登るのが
楽しみの一つでもあった。
二人は門とてない質素な長屋の一つに入った。
「母上只今戻りました」
と、さとは奥に声をかけた。
襖が開いて初老の女が顔をのぞかせ
「ご苦労様でした」
とねぎらいの言葉が返ってきた。
「父上は?」
さとの問に
「お前が出かけてすぐに何処かへお出かけなさいましたが、
いまはまだ何処におられるのやら・・・」
「まぁ 行く先も遂げずにお出かけとは・・うふふふふふ」
「何時もの事だもの、それより何か変わったことでもなかったのですか?」
と、日当たりの良い縁側に出て座りながら娘の様子を伺った。
二半場の御家人である為に定職もなく、かと言って商いをすることはならず、
父小田祐継は傘張りを内職としており、母のりきは仕立てなどの受け仕事をし、
娘のさとは父の傘張りを手伝い糊口(ここう=粥の食事)をしのいでいた。
りきが達者な頃はよく正覚寺の境内で鬱蒼(うっそう)と茂った榧(かや)の樹の下で
親子3人楽しくも穏やかなひと時を過ごしたものだった。
榧の木は六十尺(十八メートル)にもなる常盤樹(ときわぎ=いつも緑が絶えない樹木)
の巨木で、これらは将棋盤や碁盤に加工されるが、4月頃になると金茶色の花が咲き、
翌年には結実し紫褐色に熟する、これを採取し、水にさらしてアクを抜いたり、
銀杏のように土に埋めて表皮を腐らせその後洗って煎ったりもするが、
さとはこの実を灰を入れた湯でアク抜きして乾燥させたものを炒って中身を取り出し、
臼で挽いたものを餅にしたほのかに甘い香りを持つカヤ餅が好物であった。
夏場ともなればこの枝を採取していぶし、蚊遣りに使われたし、
相撲にも土俵の真ん中に穴を掘り米・塩・スルメ・昆布・栗と一緒に埋め込んである
縁起物として知られている。
少し前に起こった全国規模の天明の大飢饉(1782年~)はこの一家も例外ではなく、
棄損令(御家人が札差から借り受けている借金の債務免除し、利息も大幅に引き下げた)
で少しは救われたものの、その後の暮らし向きは松平定信の敷いた倹約令で、
仕立て物の新調なども激減し、日々の生活は何処も目を覆うものであった。
しかし賄い夫婦を養わなければならず、
さとは毎日朝早くから古傘の骨を集めに傘屋を廻っていた。
だがこれとて小田家だけのものではなく、いずれも苦しい浪人などが同じように
古傘の再生作業が生業となっている、仕事は最早飽和状態にあって、
だんだんと父親の小田祐継も酒に手を出す日が増えていった。
そんな四月のある日、さとは母を連れて久しぶりに内藤新宿柏木成子町にある常圓寺の
桜を見ようと出かけることにした。
この成子町の少し先には十二社権現横手の溜池から流れ出る川をまたぐ淀橋があり、
その先は青梅街道へと繋がっている。
陽光は輝きを伴って春の日差しを辺り一面に惜しげも無く降り注いでた。
場所は丁度内藤新宿と大久保通りの交差する場所に天満宮が有り、
そのとなりが常圓寺、常圓寺の門をくぐると左側に枝垂桜の古木があり、
小石川伝通院・広尾光林寺の桜とともに「江戸の三木」と呼ばれ、今に伝えられている。
季節ともなれば優美な姿を観ることが出来、徳川光圀寄贈の三宝諸尊も安置されている。
母を伴うのは久々である。
桜は昼八ツ(午後二時頃)が丁度見頃となる、
これは太陽が真上から西に少しだけ傾き半分逆光になるために花びらが日に照らされて
輝くところと花陰になるところが出来るために艶やかな花姿が楽しめるのである。
花見も終え、しばしの満ち足りた時を過ごした二人が本堂を出て門前の出店に差し掛かった時
母のりくがよろけて、床几に腰掛け酒を飲んでいた浪人の腕にぶつかり浪人の持つ盃が石畳に
弾き飛ばされ小さな音を立てて割れた。
浪人の袴や前身の当りにも酒が掛り、りくは驚いて
「誠にとんでもない粗相を致してしまいました。
何卒お許しの程をこれこの通りお詫び申し上げます」
と手提げ袋から手ぬぐいを取り出しこぼれた酒を拭おうと浪人に近づいた。
「何をする無礼であろう!」
と、浪人は立ち上がり母を突き飛ばした、なにぶんこの時間である、
かなり飲んでいたようで手加減が出来なかった。
りくは石畳に大きな音を立てて尻餅をつき右の袖が裂け、
あらわになった肘から血が滴り落ちている。
「お許しを!」
さとは急ぎ浪人の前に両手をつき何度も許しを懇願した。
「ならん!楽しき酒がお前達のお陰で台無しになってしもうたではないか!」
と、さとの顔を手で支え上げながらじっと濁った目を凝らした。
「うむ なかなかに美形と見える、ここは一つどうだな儂の傍に座り、酌など致さぬか?」
と腕を引き上げる
「お許しを、どうかお許しくださいませ」さとは必死に哀願する
「出来ぬか!出来ぬとあらばやむを得ん無理にでも酌をさせようぞ」
強引にさとの腕を引き上げ横に座らせようとした。
「いい加減に座興はやめぬか!」
網代笠を被った浪人が、さとと浪人の間に割って入ろうとした
見れば着流しに落し差しの痩せ浪人とみたのか、
「此奴!要らぬおせっかいを買うではない!」
とその男を突き飛ばそうと手を伸ばした
だが、その腕は宙を泳ぎ無様に石畳に転がったのは今度は酩酊した浪人であった。
「何しゃぁがる!」
急に言葉が伝法に変わり塵を払いつつ立ち上がったかと思うと、
床几に置いてある我が刀をひっつかみ抜刀しようと鯉口に手がかかった
「ほぉ まだ抜くだけの余力は残っておったか、ならば見事抜いてみせよ」
男は素早く浪人の元へ沿うように寄り、扇子で浪人の柄口を押えた。
(ぬっ!)浪人は手首の関節を捕らえられ抜くことも出来ない
(つっっ!)声にならない声を発し膝が徐々に開き、腰が沈み始めた
「おっ 己れ!」
それを見守っていた他の床几に腰掛けていた仲間らしき者共がバラバラと
素浪人の傍に駆け寄った。
「ほほぉ ご同輩という理由だな」
重々しい声で止めに入った浪人が腰を少し引き、体制を整えた。
「殺っちまえ!」中の誰かが叫んだ
無言で一斉に大刀を抜き放ち思い思いに構える
「やめておけ!怪我ぁするだけだぜぇ・・・・・・・」
「問答無用!殺れ!」
中でも筆頭らしきものが声を上げる
「ふん お前ぇが頭か!言っておくが儂が抜けばお前ぇ達の首は台から離れるぜぇ、
それでもよければ掛かってきな!」
言いざま扇子を離し、帯に手挟んだと観えた時には目の前で何やらキラリと陽光に光が走った
あとは鞘に刀の納まる軽い鍔鳴りが残っただけである。
(ばさり)
浪人の帯が断ち切られて足元に捌け、懐に入っていたと思わしき胴巻きが軽い音を残して
重なった。
(わわわわっ!)
一瞬の出来事は、まるで狐にでも化かされたかのようで皆抜刀したまま放心状態になっていた。
「まままっ 待ってくれ、儂が悪かった、これこの通り、御内儀誠に済まぬ許されよ、
少々酒が過ぎたようだ」
すっかり酔いも冷め蒼白の面持ちでりくの前に手をついて詫びを入れた。
浪人は刀で目の前に転がっている胴巻きを掬(すく)い上げ
「おいご亭主、ここから酒代を頂戴しろ」
と茶店の奥に声をかけた。
慌てて茶店の亭主が出て来、
「それでは・・・・・」
と酒代を胴巻きの中から取り出した。
「まだ残っておるか?」
「へぇ2朱と少々・・・・・・」
「さようか、では此方へ膏薬代として渡してもらおう、依存はあるまいな」
「まままっ 全く依存はござらぬ・・・・・・」
「行けぃ!」
その一言に脱兎のごとく男たちは刃を収めながら逃げ去っていった。
「やれやれ、無粋な奴ら共だ、せっかくの花が見ろぃ悲しげに散って行くではないか」
浪人は支えられながら床几に座っているりくの様子を伺った。
「なんとも危ういところをお助け頂きお礼の申し上げようもございません」
と母子が頭を下げた。
「なんのなんの、目に余ったゆえつい要らぬおせっかい、許して下されよ、
ところで御内儀どちらから見えられたのかの?」
「はい 牛込破損町でございます」
娘が母に変わって答えた
「何と!この足では無理であろう、おい誰か町籠を拾うてはくれぬか!」
声をかけながら懐から手ぬぐいを出し、
口に加えてピッ と裂き、りくの袖を捲(めく)り上げて軽く止血を施した。
「ここで医者を呼んでも仕方があるまい、まずは横になり、
傷口の手当と打ち身を冷やすことが肝要じゃ、おお籠が参ったぞ、
ささっ早ぅ乗るが良い、拙もその方向へ戻るゆえ道中送ってまいろう」
「あのぉ お武家様はどちらまでお戻りでございますか?」
娘のさとが不安げに尋ねた
「俺かえ?目白台じゃ、どうせ寄り道ついでに近くまで同道致そう、構うまいな?」
「それはもう 願ったり叶ったりではございますが・・・・・・」
「が?・・・・・おお案ずるな!送り狼なぞにはならぬゆえ心配いたすな、
こう見えても女房子供もおる身ゆえなぁあははははは」
とさとの不安を豪快に笑い飛ばした。
「決してそのような・・・・・・」
「よいよい そのくらいでのうてはいかん、遠慮はこの際無用だぜ」
網代笠を押し上げてさとの顔を見返った浪人の白い歯が爽やかな春風のように想えた。
道中ポツポツと身の上話を聞くともなしに聴きながら
「この儂とて縁がなかったならば先ほどの浪人の如き生き方であったやも知れぬ、
ただただそのようなめぐり合わせにならなんだと言うだけのこと、
人が生きてゆく上にどれほどの違いがあろうか、
何れをとっても所詮は阿弥陀の掌の上で踊るがごとしじゃ、違うかな?
陽の当たるときもあらば陰に埋もれることもある、
だが、真っ直ぐに向こうておらば雲も風に流され、やがて陽は又巡ってこよう、
正しく生きることは難儀であろうが正直に生きることは心のなかに重石を置くこともない、
拙は左様に想うておるがな・・・・・」
「旦那 ここでよろしゅうございやすか?」
と駕籠かきが歩みを止めた。
「おお 着きもうしたか、ささっ 早う母御を家の中に・・・・・・」
さとはりくを抱きかかえるように長屋の中へ運び込んで再び表に出ると、
駕籠屋も浪人の姿も無いので急ぎ道に走り出たがその姿は掻き消すように見当たらなかった。
その夕刻、主の小田祐継が酒の匂いをまき散らせながら家宅にたどり着いた
今日の出来事を報告するさとに
「世の中暇な奴も居るものよ、よほどお節介が好きとみえる、それよりも水!
さと水を持って参れ」
そう言いながら、ぐらりと横ざまに倒れこみ、そのまま高いびきで寝込んでしまった。
長谷川平蔵はこの日内藤新宿を周り、
「人に情けをかけるより、情けをかけられる者のほうが人として深うございます」
と平蔵を唸らせた大宗寺門前町の「だつえば」と言う一杯飲み屋のおしまの顔を見がてら
天竜寺に立ち寄った。
五代将軍徳川綱吉の側用人牧野成貞が寄進した時の鐘がある。
この鐘は上野寛永寺・市谷亀岡八幡宮の鐘とともに江戸三名鐘とよばれるものだが、
上野の寛永寺は江戸の鬼門と呼ばれ、この天竜寺は裏鬼門の役目を担っていた。
面白いのはこの天竜寺の鐘は普通の鐘よりも早めに時刻を告げる。
それは内藤新宿が江戸の外れにあり、侍たちが遅刻をしないようにという思い入れで突かれる、
これを人々は追い出しの鐘と呼んで親しんだ。
言わずと知れた宿場女郎の上がり客が急いで帰り支度をしたことであろう。
おしまの
「今どきは常圓寺の枝垂れ桜が見事でございますよ、
せっかく此方までお見えになられたんだから寄って行かれても無駄じゃぁございませんよ」
と勧められるままに立ち寄って時の出来事であった。
それから1年の時が流れ 二半場の御家人小田祐継の妻が長患いの末他界した。
小田祐継のやけ酒は日毎その量を増して行くばかりであった。
傘張りの商いもさと一人ではどうにもはかどらず、
日々の暮らしに従者の払いも滞ることになり、とうとう従者に暇を出さねばならなくなった。
それを聞いた小田祐継
「俺の知った事か!かような貧乏暮らしも元はといえばお上のご政道が間違ぅた為のこと、
文句があるならお上に訴えればよかろう、酒だ!酒を持ってこい」
「お父上何処にお酒を求める金子がございましょう、
あすの、いえ今夜の食を求める金子さえ事欠いておりますのに」
「それをどうにかするのがお前の仕事ではないのか!
どうでも良いから酒だ、おりくの着物でも何でもよろず屋に持ち込めばよかろう」
「左様なものはもうとっくに父上のお口に入ってしもうております」
「ほぉ 儂が皆飲んでしもうたとお前は申すのだな!」
「父上!いつそのようなことを申しました」
「何ときつい女だ、まるでおりくそっくりだ、ではお前が水茶屋へでも奉公に出るなり、
岡場所へ身を沈めてでもこの父に孝行致さぬか」
言いつつ、畳の上に大の字となり寝込んでしまった。
翌日さとの姿が牛込宗参寺門前町の水茶屋駒やにあった。
武家の出の奉公人など当時珍しくもなく、
生活に窮した武家の内儀が苦海に身を沈める話なぞ日常の出来事であったからだ。
慣れない仕事ではあっても赤い前掛けを締めてキビキビとよく働いた。
茶屋の女将おせんはそんなさとを気に入って一見の客に当たらせた。
何しろ愛想もよくほころぶような笑顔が又来ようと思わせる気立ての良さ
「流石お武家の娘だけのことはある、お陰で客が此方に流れてきだしたねぇ」
と、笑みを浮かべるほどであった。
この日長谷川平蔵久しぶりに目白台から嫡男辰蔵を供に駒込の穴八幡に向かった。
寛延十八年に幕府の弓持組頭がこの場所北の高田馬場に弓の的場を作り
射芸の守護神八幡を祭り、築地の北側には松が植え込まれ風よけも工夫されていた。
この騎射は、始まった当初は矢馳せ馬(やばせうま)であったが後に流鏑馬(やぶさめ)
となった。
この流鏑馬、鏃(矢尻=やじり)の傍に鏑を取り付けた特殊な矢を鏑矢(かぶらや)と呼び、
音が出るので戦場などで合図のために用いた。
大きさも5センチ程度から20センチほどのものもあり、その他に、神頭矢(じんとうや)
蟇目鏑矢(ひきめかぶらや)蟇目矢(ひきめや)なども存在する。
八代将軍徳川吉宗が小笠原流20代に命じ奥勤めの武士たちに流鏑馬・
笠懸(疾走する馬上から鏑矢を射掛ける技法)の稽古をさせるために制定させたものだ。
笠懸は流鏑馬よりも実践的なれど標的なども多彩を極め、
技術的な難易度は高いものの格式としては流鏑馬のほうが上であった。
この頃は流鏑馬・犬追い物・笠懸を騎射三物と呼ばれていた。
笠懸は群馬県新田郡笠懸町で、源頼朝が笠懸をおこなった由来がある。
笠懸の馬場は一町(109米)51杖(弦をかけない状態の弓の長さ)で、
進行方向から左手にスタート地点から33杖(71米)に的を設置。
射手は直垂(ひたたれ=鎌倉武士の装束でよく見かける正装)に行縢(むかばき)
鹿の皮を腰から足先まで覆った装束。
袖はそのままで射籠手(むねあて)も着けず烏帽子のままで、笠を標的に見立てた。
流鏑馬は射籠手を着け、笠をかぶる。
亨保13年(1728年)徳川家重世継ぎのために、疱瘡(天然痘)治療祈願として
穴八幡北側の高田馬場で流鏑馬神事が行われ現在に至っている。
流鏑馬は馬場2町(218米)進行方向に3つの的を設置、射位置から的までは5米、
魔都の高さ2米、射手化狩装束で、連続的に矢を射る。
他には犬追物(竹垣で囲んだ馬場の中犬を150匹放し、射手36騎が3手に分かれて
犬を射る。
この時犬を傷つけないように蟇目(ひきめ=桐や朴で作成した鏑に穴を開けて
音がよく鳴るようにした矢で、中身をくりぬいた中空で、割れないように数カ所糸で巻締め
漆が塗られているもの)
両側に木製で高さ2尺3寸(70センチ強)の埒(らち=柵)があり、
左を男埒、右は女埒と呼んだ。
1ノ的まで48杖(両手を広げた幅)そこから38杖が2の的、さらに37杖で3の的となる。
的の大きさは1尺8寸(36センチ弱)射手の服装は水干(すいかん)、
または鎧直垂(よろいひたたれ)を着て、裾および袖をくくり、腰には行縢(むかばき)
をつけ、あしに物射沓(ものいぐつ)をはき、左に射小手(いごて)をつけ、手袋をはめ、
右手に鞭をとり、頭には綾藺笠(あやいがさ)を戴く。太刀を負い、刀を差し、
鏑矢を五筋さした箙(えびら)を負い、弓並びに鏑矢一筋を左手に持つ。
流鏑馬では声を掛ける。
式には一の的手前で「インヨーイ」と短く太く掛け、二の的手前で「インヨーイインヨーイ」と
甲声でやや長く掛け、三の的手前では「インヨーイインヨーイインヨーーイ」と
甲を破って高く長く掛ける。略では「ヤアオ」「アララインヨーイ」「ヤーアアオ」
「アラアラアラアラーーッ」などと掛ける。
明らかに日本語ではない、古代ヘヴライの掛け声である。
少し諄(くど)くなったが、これを知って眺める時、時代背景が身近になると思う。
さて話を元に戻そう。
牛込高田馬場にさしかかったとき辰蔵が
「父上、少々歩きくたびれました、どこかで一休みはなされませんか?」
と口を切った。
「フム それもそうだのぉ、流鏑馬はまだ刻もある、まずは喉でも潤すと致すか」
「まさか父上お茶ではござりませんよねぇ」
「おいおい 辰蔵、お前いつからそのような口がきけるようになったんだえ」
平蔵はせがれの背伸びした姿が昔の自分を思い出させるようで苦笑しながら辰蔵を見上げた。
「あっ そのぉ安倍、市川両名とそれから・・・・・」
「それから?それからどうした」
「はぁいやぁまぁさほどお気になさることはないのでございますが・・・・・」
「何だこう歯の奥に物の挟まったような歯切れの悪い言いようは えっ!?」
「はぁ そのぉ 木村さんと・・・・・」
「木村?・・・・・・まさか・・・・・忠吾かえ?」
「はぁそのぉまさかの木村さんでございます」
「やれやれ かような話となるといつもあやつの名前が絡みおる、
で、忠ごと如何いたした?」
「はい 木村さんのお薦めで岡場所の提灯店に出陣いたし・・・・・」
「ほぉ そこで何と酒を学んだと言うわけか?」
「はぁ まさに・・・・・」
「嗚呼やんぬるかな・・・が、まぁこのオレも親父殿にそっちの手ほどきを受けたのが
丁度お前の年頃、小言も言えぬ立場ではあるがなぁ、
母上には決して漏らしてはならぬぞよいな!」
と、とどめを刺す程度と相成ってしまった。
「よし、それでは昼間からではあるがまぁ晩秋の色付きでも愛でると洒落こんで」
「それが誠に宜しゅうございますなぁ」
辰蔵そそくさと7~8軒ある茶屋の中の一つに腰を下ろす。
ここは馬場の北側に松並木が開け、徳川家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、
高田殿(茶阿局)の為に景色のよい遠望を楽しむ庭園を開いた風光明媚な場所である。
背後には10万石の清水徳川重好下屋敷が控えており、またの名を山吹の里とも呼ばれ
親しまれている。
文明年間(1469~86)、千代田城(江戸城)を作造した太田道灌がこの付近に鷹狩りに来た時、
急雨に降られ、近くの農家で蓑を借りようとした。
家の中から出てきた娘は、庭に咲く山吹の花を手折って道灌に捧げた。
道灌はその意味が理解できずに帰り、近臣に事の次第を話したところ、そのうちの一人が、
中務卿兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」
の歌を借りて、家に蓑がないから貸すことができないとの意を表したのだろうと話した。
これを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。
道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その西向天神(法善寺隣・大聖院)、
この天神社は棗(なつめ)の天神とも呼ばれ、三代将軍家光も鷹狩りで訪れ、
社殿の修理にと棗(なつめ)の茶器を下されたのが、その由来)に葬られたという。
その北には神田川が流れており、川には面影橋が架かっている。
この橋の由来は、戦国時代にこの地に来たという和田靱負という武士の娘
於戸姫が結婚を断った武士にさらわれ、気を失ったところを杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、
やがて近所の小川左衛門に嫁いだが、夫の友人に夫を殺され、この仇は伐ったものの、
我が身に次々と起こる不幸から、神田川の川辺でわが身を水に写し、
亡き夫を想いながら川に身を投げて夫の許に赴いた。
これを里人が於戸姫の心情を想い、面影橋・姿見橋と名付けたという。
両岸は頃ともなると桜が咲き競い、その艶やかさを川面に映し、人々を楽しませる所でもある。
「いらっしゃいませ!」
若い茶女が明るい声で出迎えた。
「これは又私好みの・・・」辰蔵相好を崩して女を見た。
平蔵もその若々しく弾んだ声の方を笠を取りながら見返し
(んっ?はてどこかで・・・・・)
女の方も何かを感じたのか
「あのぉ どこかで確かにお目にかかったお方のように存じますが?」
「おっ!」
「あっ!」
「あの時の」
同時であった。
「えっ 父上、このおなごをご存知でございましたので?」
今度は辰蔵が驚いた。
「ふむ 存じておると申せば存じておるが、まぁそれだけのことで」
「はぁ ただそれだけのことでございますか?母上には内緒にいたしますのでご安心を」
「馬鹿者 只存じておるそれだけの事、妙な気を回さずとも良い」
平蔵、辰蔵の心のなかを読んで苦笑した。
「それではこちらのお方がお武家様の・・・・・
1年ほど前に内藤新宿で私と母がお助けいただきました、まぁっ
あの折のお駕籠の代金を・・・」
「何を申されるか、拙が勝手に送り届けたるもの、お気遣いご無用、おお 母御は達者かな?」
平蔵は浪人に突き飛ばされて転倒した母りくの身を案じて問うた。
「あっ はい・・・・・」
女の返事がすぐさま返ってこないことに
「ふむ 何があったと見ゆるな」
さとの反応が今ひとつに平蔵何かを感じ言葉を継いだ
「如何致した?母御の身の上にでも何かが起きたのかえ?」
「・・・・・母はついひと月ほど前に長の患いの末他界いたしました」
と平蔵の思いとは裏腹な気落ちしたさとの返事が返ってきた。
「ふむ、しかし何故・・・・・」
「このようなことを・・・でございましょう?」
奥から酒の支度を持って出ておかしそうに笑った。
「ふむ まぁな・・・・・」
隣から興味津々の眼で辰蔵が
「何が起きたのでございましょうや父上」と合いの手を入れる。
「あれから母上は床につく日が多くなり、その分お仕立て物も中々はかどらず、
父上の傘張りにも力が入らなくなりました。
間もなく母上が起きられなくなり間もなくみ罷りました」
「さようであったか・・・で、父御は如何なさっておられる?」
二半場の御家人身分とはいえ、武家の娘が茶屋などに働き内を求めるにはそれなりの
曰くがあって良いはずと平蔵は思ったのである。
「父上はひどくお力落としなさいまして、以来お酒に逃れるかのように・・・」
「ふむ 無理もあるまい心の隙間はそなた一人では背負いきれるものでもなかったという事だ
なぁ・・・・・・しかし」
「はい しかしなのでございます、お上より頂戴致します俸祿のみでは、
今の御時世暮らしが中々に立ち参りません、それで・・・」
「うむ 潔い心がけだが・・・のう 辰蔵」
と、さとの顔をじっと見つめている嫡男辰蔵の眸(ひとみ)を言葉で遮った。
「ま、まっ全くでございます、いかなる事情があろうとも痩せても枯れても
一家の主とならば何らかの手立てを講ずるのが責務かと」
辰蔵ここぞとばかりに売り込みに奔走する。
平蔵苦笑しながら
「で、そなたがこうして父御を見ておるというわけだな・・・・・」
「はい お恥ずかしいところをお目にかけまして申し訳もございません」
「うむ この辺りは戸塚村の在所だと思うが、なんせ人の賑わいも多かろう、
何かあらば儂のところへでも訪ねてくるがよかろう、多少の知恵も湧こうというものだ、
のぅ辰蔵」
「はい 誠にかたじけのう存じます、
ところでお武家様はどちらにお住まいなされて居られますので?」
無碍に断るのもという気遣いがその返事にこもっている。
「あっ 私は目白台に住んでおりますが、父上は清水門前に役宅も有り、
そちらにならば比較的捕まえやすうございますよ、何しろ日々出まわるのも御役目の事故に、
左様で御座いますな父上」
今度は辰蔵が平蔵にチクリと先ほどの仕返しに。
「あのぉ 清水御門前と申されますと・・・・」
「おお すまなんだ、まだ名前を申して居らなんだな、拙は長谷川平蔵、此奴は嫡男の辰蔵、
以後お見知りおきを、役宅は火付盗賊改方となっておる、遠慮のう参られよ」
それを聞いたさとは驚いた。
「あっ あのぉ盗賊方のお屋敷でございますか?」
「驚く事ではない、たまたま左様な御役目を務めることになったまでの事、
こうして御府内をブラつくのも儂の御役目、そうしてそなたに出遇ぅたのもこれまた縁じゃ、
そうであろう?袖すり合うも他生の縁と申すではないか、
それも儂の役目と想うて遠慮なぞ致すな、よいな」
平蔵は、どうもどこかが気がかりに思えそう念を押した。
居酒屋で酒に飲まれている浪人に
「旦那ぁ深酒はいけやせんぜぇ
まぁ酔いたくなるご事情でもおありなさるんやぁござんしょうがね」
見るからに通り者(博打打ち)風体の小柄な男が隣の席に座り込んできた
「ううんっ 誰だ、お節介な奴は、俺は好き好んで酔っているのではないぞ」
「へぇ たいそうお飲みなすっているとお見受けいたしやしたがねぇ、
好きでなきゃぁそこまで飲めやせんよ」
「うるさい!お前にゃぁどうでも良いことであろう」
「へぇ さいでやすがね、まぁ世の中面白くねぇ時ぁ飲みたくもなる、
あっしにゃぁそんなところしか判りやせんが、ご浪人さんとなりゃぁ
もっと深ぇこともお有りなさるんでござんしょうね」
男は身を捩りながら酒卓に向き直って顔を近づけた
「どうでございやしょうねちょいとこのぉ小遣いでも稼いでみようなんてお気持ちは
ございやせんか?」
「小遣いだとぉ!」
「おっと こいつぁご無礼を、いえね!好きな酒をお飲みになるにゃぁ先立つ物が要る、
ですが膳の上は空の銚子だけ、こいつぁどうみたってあんまり懐も・・・・・
違ぇやすか?んでまぁちょいと気楽に小遣いでもとお声をおかけいたしやした次第で へぇ」
「貴様に何が判る、こうみえても譜代御家人のわしが貴様のような者の口車に乗って
小遣いをもらうなぞということが出来ると思ぅてか」
「おっと ごめんなすって!旦那ぁ・・・・・
そいつぁご無礼をいたしやした、ですがね只小遣いをと言うんじやぁございやせんぜ、
まぁそれなりの仕事はしていただきやす、
ですからそこまで思われることでも無ぇんじゃぁござんせんかねぇ、
そうすりゃぁ何の心配もなく好きな酒も飲め、
嫌なことも忘れられるってぇことで、へへへへっ」
両手をすりあわせながら下から小田祐継の酔眼を舐めるように見上げた
おお 猫どの!小林が上様のお召し上がりになられる紫鯉をもろうて参った、
早速此奴を調理してはくれぬか!」
「えっ あのお止め鯉でございますか?」
「それそれ!それじゃよ!小林がな、市中見廻りの折どんど橋で釣り上げた物を提げて参った。
そこで、こいつぁ是非にも・・・・・」
「お任せ下さいませ、・・・・・
やっ!これは雌でございますなぁ、まだ湿り気も十分、鯉は他の魚と違い、
少々の刻を過ぎても生きております、早速早速とりかかりましょう、
まずは水に泳がせ泥抜きを致さねばなりませんのでひとまずこれにて」
と下がって行き、再び戻ってきた。
「おいおい猫どのお前見ただけでメスかオスか見分けることも出来るのかえ?」
平蔵呆れた顔で村松の顔を見る。
「それはお頭!人とて見るだけで判別できますように、鯉も変わりません、
特に野鯉はオスのほうが頭が大きゅうございます。
鯉は元々小位(こい)鯛は大位(たい)とこれ両者とも川と海の長とあり、
相対のものにございます。
鯉は悪食で水草から貝類はおろか蛙なぞも喰い、喉にある咽頭歯で噛み砕きます。
まぁ鯉ともなればまずは鯉こく、うま煮、洗い、鱗の揚げ物・・・むふふふふ」
すでに猫どのも相好が崩れたままである。
「鯉の苦玉(肝)は危のうございますので、これだけは避けねばなりませんが、
他の物はほとんど口に入ります。
まずは鯉こく・・・
血抜きをする前のものを輪切りに致し、鍋に並べてたっぷりの水で素煮、
煮立ちましたらとろ火に落とし、少なくとも三刻(六時間)以上は煮込みますと、
骨も戴けるほど柔らかくなりますが、まぁお急ぎの時なれば一刻はご辛抱のほど。
「おいおい それまでお預けということかえ?そいつぁ酷じゃぁねぇか!なぁ小林」
「ですから鯉酷と言うのでございましょうなぁ」
「おいおい 小林まで忠吾に似て来おったぜ、いかぬぜ駄洒落はへへへへへっ!」
「鯉こくは明日のお楽しみと言うわけでございますが、
まぁ仕立て方を申しますとこの後味噌をすり鉢でよくすりつぶし、
これは忠吾にさせましょう」
「ふう 胡麻をするのは忠吾が得意だからなぁ腕は確かだ、あははははは」と平蔵
「味噌に煮汁を少々加え溶きしものを鍋の周りに静かに流し込み、
隠し味に砂糖少々を入れます。
このまま半刻・・・・・」
「こりゃぁ猫どのお預けなぞというたぐいのものではないではないか、
話だけでもうすでに涎も溢れ、叶わぬ!何とかならぬか、のう小林」
「はぁまさかここまで刻が必要とは想いませんでした」
「何の御馳走とは読んで字の如しでございます。
手始めに鯉のあらい・・・」
「おお それならばすぐにでも行けそうではないか、なぁ猫どの」
平蔵手揉み状態で顔がほころびきっている。
「鯉の洗いでございますが、紙や付近で両目を覆います、
すると鯉はじっと動かず往生いたします、擦ればこれを持って・・・・」
「まな板の鯉と申す訳だな」
「まさに、まずは包丁の背で頭を叩き気絶させます。
苦玉を潰さぬよう取り除きませんと全てが無駄になってしまいますので・・・・・
三枚に下し、皮を引き剥がし身を薄めに削ぎ切り致し、
これを冷水に落として身を締めます。
後は辛子酢味噌で戴きます。
最後が鯉のうま煮でございますが、砂糖・味醂・酒を煮立て、
鯉の輪切りを並べ、被る程度の水を入れ落し蓋、
生姜の千切りなぞ加えますと臭みも消えます。
煮詰まりましたならば水少々を加え、醤油・蜂蜜を加えて再び照りが出るまで煮込みます」
「猫どの何か一つお忘れじゃぁござんせんか?」平蔵しっかりと聞き取っている。
「はっ?・・・・・おお左様でございました、鱗、鱗の唐揚げ、
これはまぁついでの櫃塗し(ふつまぶし)とは申せ、酒々には打ってつけの逸品、
甘塩がこれまた宜しゅうございますな」
「ところで小林、何か掴めたのか?」
「と申されますと?」
「なぁに生真面目なお前がいくら上様ご賞味の紫鯉を儂にと思うても、
そのまま帰って来るとは思われぬ、何やら定まったものでも浮かんできたのではないかな?」
平蔵真顔になり小林を振り返る。
「お頭!真実お頭は何処にでも眼をお付けなさって居られますようで
背筋が凍える面持ちの致すときもございます」
確かに、大久保家の辻番所を覗いたときの老番太の話や、
ドンドン濠の老人の話からこれまで一連の盗賊の足取りも不明であったものに
何か光指すものを感じた面持ちがしたのであった。
「盗賊どものこれまでの押し込み先を、各持ち場のものの持ち寄りにて確かめたる物で、
同じような物が御座いました」
「ふむ そいつは何だ?」
「はい 何れもが小寺や武家屋敷又は下屋敷なぞでございます」
「うむ、確かになあ・・・」
「それも時刻から見て番屋が木戸を閉めた後、と言うことは町人の外出(そとで)
はなりませんので、それなりの・・・・・」
「ふむ 提灯だな?」
「まさに!他からの聞き込みにもそれらしき者の姿を見たという話もございました。
それもどうやら武家の提灯(あかし)のようで、四~五名揃ってのもののようで・・・・・」
「うむ 確かにそいつぁ臭ぇなぁ・・・・・」
「大滝の五郎蔵のききこみでは何れも当時この辺りで大金の絡んだ賭博が開かれていた模様。
ところが何の争いもなく騒ぎにはならなかった様子、と致しますならば・・・」
「胴元の帰りを待ち伏せしての強奪・・・と見たか!」
「はい まさしくそのように」
「ふむ 客は帰った後、騒ぎも外にはもれねぇと言うお誂えの話になるのぉ・・・
よし、盗賊改には話は回ってきては居らぬが、今に町方もお手上げとなろうよ、
何しろ相手が寺社や武家屋敷だ、手も足も出ねぇ・・・」
平蔵が見切ったように、翌日南町奉行池田筑前守長恵より助成の願いが平蔵の元へ届いた。
「よしこれで自由に動ける、一同手隙のものを集め密偵たちも呼び寄せ、
明日から見周りを増やせ、木札に長谷川家の家紋を刷らせ、
密偵たちはこれを所持致すよう、まさかの折はこれを見せれば構いなしと
筑後守様のお許しも得ておこう」
こうしてやっとこの事件が表に出ることとなった。
その日平蔵目白台より役宅に戻る途中を牛込高田馬場下戸塚村の水茶屋駒やに立ち寄ってみた。
「まぁ長谷川様!」
さとが明るい笑顔で平蔵を迎えた。
「おお 堅固でなによりじゃ、何か変わったことはあるまいな?」
「はい 私はおかげさまで盗賊改の長谷川様とお知り合いと、
この屋の女将さんが都合よく思われて、誠に良くして頂いておりますが、
ただ父上のことが少々・・・・・」
「ほぉ 父御どのが又なんぞ?」
「はい 時折夜半になりますとそっと抜けだしてゆきます、
それが何処へ征くのかは判りませんが、そんな折は決まって朝方戻り、
気づかないように床に入っております、それが何故か不安で・・・・・」
「ふむ で、当然夜半に出向くということだから足元を・・・・・」
「はい提灯は必ず持ってまいります」
「ふ~ん・・・・・何事も無くばよいがのぉ、
実はなこの所江戸市中で盗賊が徘徊いたしておるそれゆえ夜は出歩かぬほうが良い、
万一ということもあるからなぁ、用心するに越したことはない、そなたも用心いたせよ」
平蔵はさとに言葉を残して茶をすすり、暫く遠くに見える富士のお山に目をやり
「白雪は全てを包んで隠してしまうもの、その下には生きるものの証が在るとしてもなぁ」
とぼそりとつぶやいた。
それから数日過ぎた夕刻大滝の五郎蔵から平蔵に繋ぎが来た。
持ってきたのは五郎蔵の女房おまさである。
「おまさ どうしたそんなに慌てて!急ぎのことでもあったのだな!」
「長谷川様!五郎蔵さんが聞き込んだところによりますと、
明後日大きな賭場が開かれるようで」
「で そいつぁ何処だ?!」
「ハイ!なんでも小石川の昌講寺とか・・・
どうやらあの辺りの大店に密かに声がかかったようで、
五郎蔵さんが湯嶋本々三丁目「かねやす」の番頭さんから聞いた話で、
今夜大店のご主人が集まった手慰みの会が催されると声がかかったそうでございます」
「ご苦労だった!五郎蔵にも左様伝えてくれ、
おおそれから引き続き見張りを頼むとこの俺が申しておったとなぁ・・・
そうだ、ついでに帰り道五鉄によって弁当なぞこさえて持って行ってやってはくれねぇか、
三次郎にそう伝えてくれ、さぞや腹も空こうし夜は冷える、お前も用心いたせよ」
「勿体のぅございます長谷川様、私達はお役に立てばそれが何よりでございますもの」
その翌々日、五郎蔵が聴きこんできた賭場の開帳に日がやって来た。
「お頭!手隙の者私を含め酒井・小林・木村・松永が控えております」
と筆頭与力の佐嶋忠介が後ろに控えた。
「よし、これまでの様子ではさほどの人出でもあるまい、
絵図から見ても出てくるところは表しかない貞安寺門内に潜んでおらば様子も読めよう、
戌ノ五ツ(午後10時)辺りが佳境と見た、
皆目立たぬよう身なりを工夫致し貞安寺に潜め、儂はその辺りを廻ってみる、
よいな!くれぐれも目立たぬ様にいたせよ!」
平蔵はそう指図を終えてゆっくりと紫煙をくゆらせた。
(久しぶりだ・・・・・何かが始まり、そして何かが終わる、
丁と出るか半と出るか・・・・・ふぅ~・・・
間違いであってくれればよいものだが)深い溜息を含んでいた。
戌ノ五ツ、ここは小石川貞安寺、道をひとつ挟んで向かいは御中間長屋、
俗に五役と呼ばれるもので、御駕籠之者・御中間・御小人・黒鍬者・御掃除之者である。
これは御家人が就任する役職で、千代田城の駕籠運搬・番方・お使い・土木・
清掃などを受け持った、何れも目付けの配下であり、全てが譜代席の世襲制を持っていた。
御駕籠の者などは背が高く教養も必要とあって、
中々自家ではまかないきれない場合も多々あり、養子縁組などでこれを引き継いだ。
背の低い者は、背の高い者に代役を頼むこともあり、
その場合は(濡手当)という別途支給を払う羽目になった。
これが濡れ手に粟の語源にもなっている。
こちらも二十俵二人扶持と変わらない薄給である。
刻は満点に月を蒼々と戴き、間もなく霜月も終わろうとしていた。
夜半ともなれば空気が肌着を覆い尽くし、
芯まで冷え込んでじっとしているのも中々苦痛になるほどであった。
そこで吐く息が夜目にも白々と観える。
「ううっ 寒ゥございますなぁ・・・」
木村忠吾の声が薄闇の中に流れる
「忠吾、五郎蔵達はもっと寒いだろうよ、
もうこの二日ほとんど寝ずで見張っているんだからなぁ」
と大門の陰に座り込んで薄闇の向こうに目を凝らしている。
長谷川平蔵は柿渋色の袷の着流しに羽織、一振りの大刀を腰に手挟み、
水道橋を越えた辺りをゆらゆらと流していた。
無論のこと提灯は鶴やから借り受けたものである。
広大な水戸藩屋敷の横を北に上がりかけた時
青山大膳亮下屋敷前で家紋入りの提灯を携えた武家風の者とすれ違った。
「ふむ・・・・・」
平蔵、そのまま真っ直ぐ水戸家の白壁ずたいに歩を進め中程で振り返ってみると
網その灯りは見えなかった。
(間違いであってくれればよいのだが・・・・)
平蔵の心の中に妙な胸騒ぎが沸き上がってくる。
ゆっくりと突き当たった松平丹後守下屋敷前を東に
折れ道なりに松平伊賀守下屋敷の横手にぶつかった。
その少し手前から提灯の灯りを消し、月明かりのみが頼りの暗視である。
遠くに小さく灯りが留まっている・・・・
(南無三!)平蔵は貞安寺まで一丁(120米)ほどの距離を置いて闇を伺った。
月は雲間に隠れしっとりと闇が辺りを包み隠している。
その時貞安寺から人が出てきたのか幾つもの提灯が思い思いの方向に散ってゆくのが見えた。
(賭場が終わったか・・・・いよいよ奴らが出てくる頃合いだな)
と、その先から一丁の提灯が神田川の方から戻ってくる気配がした。
(んっ これは・・・・)
そこへ貞安寺門内から一丁の町駕籠が出てきた。
平蔵は急いでその場に駆けつけた、
そこに平蔵が見たものは町駕籠を守るように四人の男が囲み、二人が提灯を捧げている。
平蔵はその駕籠に近づき、
「まこと夜分におたずね致す、身共は火付盗賊改方長谷川平蔵でござるが、
駕籠の中のお方はどなたでござろう?」
その言葉が終わらない内に「あっ!!」と息を呑んだ声が漏れた。
「火付盗賊改方のお役人様で、夜分ご苦労様でございます、
手前どもは神田仲町に住まいおります蝋燭問屋(石見屋)の旦那様でございます」
と丁寧な挨拶が返ってきた。
「さようか、しかしこのような夜分にして又いかような御用で貞安寺に
お出かけなされたかの?」
平蔵は落着いた重い声で再び尋ねた。
「それは・・・・」
「んっ! それは?」
その言葉が終わらない内に、籠を囲んでいた男たちが一斉に抜刀して平蔵に立ち向かって来た。
それを合図のように貞安寺に潜んでいた盗賊改の佐嶋忠介・木村忠吾・酒井祐助・小林金弥・
松永弥四郎それに大滝の五郎蔵と女房のおまさが飛び出してきて周りを取り囲んだ。
次々と提灯に灯が点(とも)されていく・・・・・
その時想いもよらない出来事が起こった。
先頭に並んでいた二つの提灯の一つが突然大きく揺れ
「ぐはっ!!」
と低く呻いてドォと倒れこむ音と同時にもう一つの灯りが宙に飛び地に落ちて
メラメラと赤い炎を上げて萌えたその向こうに二つの体が折り重なるように崩れ落ちた。
「しまった!!!」平蔵の慌てた声が燃え盛る灯りの中に飛んだ。
木村忠吾の携えた提灯をもぎ取るように奪い、その折り重なったものを照らし出した。
そこには浪人姿の男の上に覆いかぶさるように若い女の血にまみれた姿が倒れている。
「さと・・・さとどのではないか!何故このような!!」
抱え起こした平蔵の胸の中にうっすらと微笑みを見せ、静かに眼を閉じた。
周りを囲んでいた者が只呆然とこの一瞬の出来事を放心状態で見つめるばかりであった。
「きっさまぁ!!」
平蔵の激しい語気に取り巻いていた無頼の者達は一斉に平蔵に襲いかかった。
(ぬんっ!!)提灯を投げ捨てて抜刀一閃
「ぎゃっ」と声が流れて地面に突っ伏した。
「次はどいつだ!今夜の儂は機嫌が悪い、胸の中の鬼が怒っておる、
死にたい奴は掛かってまいれ!」と呼ばわった。
駕籠の垂れが引き上げられ、中の男が引きずり出された。
だがこの男もすでに胸を突いて絶命していた。
籠の袖からおびただしい血が地面を染めて架かった月に照らしだされるばかりであった。
これを見た残りの者はすでに戦意喪失した模様で、それぞれに刀を投げ出し捕縛された。
「誰ぞ!向かいの中間長屋に出向き戸板を借りてまいれ」
平蔵はそう命じて小夜の躯を抱いたまま身動きすらしなかった。
翌日佐嶋忠介が平蔵の元により
「昨夜のおなごはお頭のお見知りのものでは?」
と恐る恐る言葉を出した。
「うむ 以前話したこともあろう、高田馬場で流鏑馬を見物した話じゃ」
「はい 辰蔵様とお出かけになられた折のことでございますな」
「うむ そのおり茶店で再会いたしたのがあのさとと言う御家人の娘よ。
その父親が酒に溺れ夜な夜な出かけるという話しを聞いたのでな、
近頃は盗賊も横行いたしておるゆえ用心いたせと言うたのだがなぁ、
儂ももしやと思う節もあった、夜度に提灯を持って出かけるということであったからな、
そこへ小林が・・・・・」
「ああ あの話しでございますか、神楽坂の・・・・・」
「それよ!で、ちょいと不安になっておった、
おそらくあの娘もそれとなく感づいたのではあるまいか?
今夜現場を確かめてどうにか父親を諌めようとでも思うたに違いない、
だがあそこで儂が出て行ったために、もはや逃れる筋のものでもないと覚悟を決め、
父親を手に掛け、又自らも死を持って償おうとしたのだろう、
想えばこの世は生きるも死ぬも地獄よのぉ。
嗚呼又ひとつ花の灯(あかり)を消させてしもぅた・・・」
平蔵は儚く散ったさとのさわやかな微笑みを、
ふと庭に咲き始めた山茶花の薄紅色に見たような気がした。
ここは八丁堀にほど近い亀島町、南町奉行所組屋敷、
日本橋川から霊岸橋の下を分流して流れる亀島川を前に、対岸には富島町が見え、
風向き如何(いかん)では微かに潮の香りもする広大な組屋敷一帯の一角に
北町奉行所同心前橋茂左衛門の家もある。
同心とは譜代徳川家直参の足軽をもって同心とした。
彼らは役職が失くなっても譜代であるために俸禄(給料)がもらえたが、
あくまでも旗本ではなく御家人身分であった。
家族は妻の千代女と嫡男の真二郎それに下男夫婦の五人ぐらし。
譜代の御家人である茂左衛門は勤勉実直、忠義一筋の一徹者。
30俵2二人扶持は、一家5名が日々の暮らしを保つには当然のことながら到底無理があった。
それを補うために、100坪ほどの地行に30坪程度の家を建て、
ほかは市井の者に貸してその収入を生活費に当てるのがこの時代、
同心たちのせめてもの保身の知恵でもあった。
母の千代女は仕立て物を日本橋の呉服屋から貰い受けて、日々の暮らしを助け、
下男夫婦は骨惜しみもなく実によく尽くしてくれ、
こうして一家は日々の暮らしの中にも笑顔が満ちていた。
時は田沼意次が老中に就任するわずか3年前の頃でもあり、
世に「与力の付け届け3000両」と言われたご時世の始まりであった。
だがこの前橋茂左衛門、親代々の堅物・・・袖の下などもってのほか
「もう少しは融通をお利かせなされば奥方様も皆様もそこまでご苦労なさらなくとも
済みましょうに」
と言われれば言われるほど頑なになる、誠に厄介な男である。
服装は黒紋付に羽織で着流し御免というから、今日の映像でよく見かける格好で、
勤務は午前8時出所し、帰宅は午後7時であった。
供は紺看板(襟や背中に家紋を染め抜いた半被(はっぴ))梵天帯(絵羽柄の袋帯=兵児帯)に
股引(ももひき)木刀を差した小者一人が一般的である。
面目を保つために下男を置き、出所はこれを供にした者も多かった。
基本的には非番の日も出所(町廻り)していたために実質の休みはなく、
365日がお勤めである。
町奉行の支配が及ぶ範囲は江戸の町のみで、範囲から言えば江戸全体の20%ほど、
おまけに支配できるのは町人・浪人・盲人のみで百姓にはその権限が及ばなかった。
こうした背景を持っていたがために、町周りの同心は心身ともに疲弊したのは
当然の成り行きでもある。
この日も夕刻、程なくして前橋茂左衛門は帰宅した。
嫡男真二郎はまだ10歳を迎えたばかりの遊び盛り、とはいえ父の茂左衛門は
「いつなん時上様のお役に立つ日が参るか知れぬ、その為にも武家の子は文武両道に
丈ておらねばならない」と厳しくこれを教えた。
子も又父のその望みによく応え、特に剣の道場通いは熱が入った。
「後4年もすればお前も同心見習いに出さねばなりません、
それまでにはお父上様のお役に立てるよう精進なれませ」
と母に常時聞かされ、そろそろ反抗期に入る子供の心は思う以上に重圧がかかっていた。
道場でも仲間と僅かなことでも諍(いさか)いを起こし、度に道場主から注意があり、
それを知った茂左衛門は殊の外厳しくこれを戒めたのである。
「歯を食いしばれ!股を開け!」それから強烈なビンタが飛んでくる。
真二郎は吹き飛ばされ、幾度も土間にひっくり返った。
見る見る頬は風船のように腫れ上がり、唇は歯で切れ、鮮血が唇の端から糸を引いて流れ落ち
た。
その痛みに耐えながら歯を食いしばり、眼に涙を浮かべ憎悪の眼で父親を睨み返す真二郎に、
「その眼は何だ!悔しくばもっとましな男になれ!さような軟弱でお上の御用が務まることなぞ
到底無理、もっと己を鍛え文武に励め!」
これが15歳を前にした真二郎にとっての父親像である。
「父上もお前のような時期を乗り越えて、今日の御役目を受け継がれて見えたのですよ、
そなたも今をこらえ、乗り越えて父上のようにお上のお役に立てる武士におなりなさい」
母も真二郎を叱咤激励する、これが当時は普通であったろう。
だが、何時の世にも同じ人間は存在しない。
心優しき者もあらば、闘争心の強い者もある、が 何れも普通の人間なのだ。
まして真二郎が生きたこの時代、弱者に残されてものは人生の敗北を意味する。
己の人生は己で切り開かねばならない弱肉強食の背景がそこに横たわっていた。
父に対して憎悪に燃えた真二郎は、ますます気性が荒ぶって行ったのは
しかたのないことだったのかもしれない。
かばって欲しい年頃、支えて欲しい母のぬくもりを躾(しつけ)という、
子供にとっては無意味に近い押しつけの愛情にすり替えられたと思い込み、
その厳しさの反動はますます道場通いに注がれた。
14歳になり、同心見習いに預けられたが、屈折した心は引受人の古参同心からも
疎んじられるようになり、それが又父母の叱責を買うこととなる、
いわば悪循環がこの子をして無頼仲間に染まる隙間を作ったとも言えよう。
引受人の古参同心もついには匙を投げる始末で、真二郎は家を開けることもしばしば・・・・・
かと言うて帰る所は此処しかなく、帰れば帰ったで小言が礫(つぶて)のごとく飛び通い、
時には拳固が三ツ四ツも飛んできた。
この子にとっては、ただひたすら拳を握りしめ、自分にとっては罵詈雑言とさえ想われる
親の思いを頭の上に素通りさせることが唯一その日の糧を腹に入れる手段であった。
こうして真二郎は間もなく20歳になろうとしていた。
家を開け、敷居をまたぐことを嫌い、ほとんど家には寄り付かず、霊岸島当たりで
無頼の日々を過ごし、金のためなら殺し以外はなんでもした。
彼にとって生きるとはそういう意味でしか捉えられなくなっていた。
それを知った母が探しだして意見をするも、もはや耳を貸す真二郎ではもはやなかった。
「私をこの様にしたのは母上と父上・・私は望みもせず頼みもしなかったのに、
自分勝手に私を産み落とし、想うようにしようと身勝手に私を創ろうとなされた。
私は人形でも傀儡(くぐつ・かいらい)でもない!私は私だ!」
何処でどうしてすれ違ってしまったのか母にもその理由(わけ)に覚えもなく、
ただひたすら立派な跡取りとして育ってほしいと願い、
そのためには時に心を鬼にせねばならなかっただけのこと、只それだけのことである。
頃は春、大川土手は花見の人出で賑わっていた。
花見は弘仁3年(812年)嵯峨天皇が神泉苑で花宴の節(はなうたげのせち)を催した。
これが後におせちになる。
御節供(おせちく・おせつく)は朝廷内での節会(せちえ)から生まれている。
当時の地主神社の桜がお気に召し、それ以後神社より献花させた、これが花見の始まりとも
言われている。
亨保5年(1720年)徳川吉宗がお鷹狩を復活させた、その為に農家の田畑をこれで荒らすことに
なり、鷹狩の場所や大川土手・飛鳥山に桜を植樹させ、花見見物の者達が土地の者に余録が落ち
るような政策をとった。
大川土手は花見客や酔狂人でひしめき、娯楽の少ないこの時代、庶民の最も楽しめる一つにも
なった。
今日は供に木村忠吾を控え、平蔵のんびりと川面を流す猪牙や屋形船なぞ様々に工夫して、
絢爛豪華に咲き競う土手の桜を眺める町の人々の、生き生きとした様子を懐手に、
川風がかすかな華の薫りをすくい取るように渋扇をくゆらせていた。
「お頭 嫌ぁ中々花見と申します物は良きものにございますなぁ・・・」
と平蔵の後に続きながらあちこちと目を走らせては止めている。
「おい うさぎ!美形でも見つけたかえ?」
「はぁ なな何でございましょう?」
忠吾突然の平蔵が声掛けに戸惑いつつ返事をはぐらかす。
「おいおい 忠吾お前ぇの言葉使いだけで儂は今お前が何を想うておるか判るんだぜえぇ」
「うっ ウソでございましょう、私を又々担がれておられるのでは?
私はそのようなことを想ってはおりませぬ」
と、慌てて否定した。
「ほれほれ そこよ、そこが怪しいと申すのだ、そのようなとは一体何だ?
何をそう慌てておるのだぇ?」
と平蔵が振り返って忠吾の反応を眺める。
「あっ またもやお頭は・・・・・かように私めをおからかいなされて・・・
私はちっともおかしくはございませぬ」
と、少々お冠である。
「いや 許せ許せ、どうでぃこの見事な桜・・・・・
なんともこう想わず口元も綻(ほころ)んで来ようと申すものではないか」
涼やかな一陣の風に、はらはらと花びらが舞い、
薄墨をかけたように遠近の空気感をはっきりと映し出す。
突然土手下で怒声が上がった。
振り返ってみると一団の浪人共が地回りの博徒ふうのものと対峙し、
一触即発の構えに入っている。
「おいおい 野暮はやめときな・・・」
平蔵懐から手を出し、ゆっくりと土手を下がって行く。
木村忠吾はと見ると、おずおずと平蔵の腰に隠れて従っている、まるで腰巾着ではある。
その時五十がらみで同心姿の男が素早くその中に割って入り、何か二言三言交わしている。
が、ふた手に分かれていた浪人と博徒風の者達が、一斉にその同心に殴りかかった。
「こいつぁいかぬ!おい忠吾従(つ」いてまいれ!」
平蔵急ぎ土手下に辿り着き、そのもめている中へ割って入った。
博徒風の屈強な男が浪人身形(みなり)の平蔵を一瞥して、ペっ!と唾を吐きかけた。
「そこをどきな三一!」
三一(さんぴん)とは年間の扶持(手当)が3両と1分という最も身分の低い武士をさして
言う見下した言葉である。
「おのれ無礼な!」
忠吾が思わず刀の柄に手をかけた。
「よしておけ!」
平蔵これを押さえてズイとその輪の中に入った。
同心風の男は、浪人風体の男に胸ぐらをつかまれ、抜き出した十手が、
ぶらぶらと風になびく柳のごと揺らいでいる。
すでに戦意喪失とも見て取れる具合である。
「おい!その手を離せ!」
平蔵は十手を持った腕を締めあげている男の手を、渋扇を畳んで打ち据えた。
痛くなぞはない、だがその行為は浪人の心底にこびりついていた自尊心を大いに傷つかせた。
「余計な世話だ、我らに構うな!」
浪人は平蔵を睨みつけて、更にその腕を高々と差し上げた。
「ううっ!!」
侍は顔を歪めて痛みをこらえている。
「解らぬのか?その手を離せと申しておる」
平蔵渋扇を帯に手挟み、ぐっとにらみを据えて刀の柄に手をかけた。
「きっ 貴様ぁやる気なのか!」
酔も手伝ってではあろうが、相手の気迫が読めていない。
手を離したや否や(シュッ)と鋭い鞘払いの音を残し、一気に抜刀し平蔵に斬りかかった。
「無粋な!」
平蔵 つっ!と半歩引いて太刀先を躱し、身体をひねって男の腕の脇に沿うように入り、
柄で刀をたたき落とした。
「おおっ!! おのれがぁ!!」残る浪人者が罵り声を上げて平蔵に襲いかかった。
平蔵体を躱してこれを避け、手首を握ったままの男を投げ飛ばした。
その勢いに散った花びらがフワと舞い上がった。
「喧嘩だぁ喧嘩だぁ!!」
周りは野次馬たちであっという間に黒山の人だかり。
さよう、火事と喧嘩は江戸の華・・・・・人の不幸は一番笑える・・・
対岸の火事とはよく言ったものである。
「やれやれ どうしようもねぇ野郎たちだなぁ」
平蔵、伝法な口調で周りを取り囲んだ男どもを眺めた。
「おうおう 勇ましいのが御登上だぜ!さぁ殺ってやれ、
町の屑を綺麗さっぱり大掃除と願いやすぜ」
野次馬の中から声が飛んだ。
「そうだそうだこんち花見の余興にゃぁ中々もってこいの場面!いよっ喜の字屋!!」
「ちっ!」
平蔵、事の成り行きを芝居でも観るような衆人に舌打ちをして
「おい うさぎ奴らを追っ払え!」
と野次馬を散会させるよう忠吾に命じる。
忠吾は懐の十手を抜き出して(チラリチラリ)と人だかりの周りを廻る。
それを確認(みた)野次馬たちはしぶしぶと散り始めた。
「おいおいおい 何処へ行くんでぇ・・・」
博徒風の男が後を追うように追いすがる。
「くっそぉ!やっとのところまで漕ぎ着けたのによぉ・・・・・」
思わずぼやいたのが平蔵の耳に達した。
「けっ やはりこいつぁ仕掛けだったんだな!とっとと消えろ、
さもなくばこの手で嫌でも追っ払うぜぇ」
刀を少し抜身に構えて平蔵一同を睨んだ。
しぶしぶと抜身を鞘に収めて四方八方に逃げる者共をじっと見やりながら、
後ろを振り返り
「お怪我はござらなんだか?」
平蔵はただ一人で無謀にも無頼の中に飛び込んだ武士に言葉を掛けた。
「誠にお恥ずかしい処をお目にお掛け申し、又危うき所をお助けいただき
誠に持ってかたじけのうござる、身共北町奉行所同心前橋茂左衛門と申す、
ところでお差し支えなければお手前の姓名なぞ伺ごうは失礼でござろうか?」
平蔵、相手が同心であると名乗ったものだから
「拙者長谷川忠之進と申す」
と何故か偽名を使い役職を名乗らなかった、
これは相手が同心であり、目上と見たことも含まれ、
盗賊改とは何ら関係の無き事柄でもあったからだろう。
「先程もご覧のように、私は剣術の方はからっきし、どちらかと申さば内勤(うちつとめ)が
性におうてござる、だが親代々の同心ゆえ、そうも行かず、
せがれには殊の外厳しゅう当たってしまい申した。
お笑いくだされ、その末が無頼の仲間に身をうずめ世を憚(はばか)って生きる先ほどの
無頼の者と同じにて、思わず己が腕も忘れ飛び込んでしもぅた、真 情けない始末にござる」
「ほほぅ で、そのせがれ殿は幾つになられた?」
平蔵我が身を翻(ひるがえ)っているようで、少々胸が痛む思いである。
「はい 間もなく二十歳、家を出たまま、元服もかなわず今は何処で何を致し、
いかが相成っておるやら・・・のう長谷川殿」
茂左衛門の言葉は平蔵にとって在りし日の父信雄の痛みを思い出していた。
「前橋どの、身共も若き頃似たような境涯を背負うたことがござる、
親の背の温もりが解った時にはすでにその父御(ててご)は此の世に無く、
いかにしようとも伝えることも叶わず無念の心地にござりますよ」
「儂もあやつが左様に想うてくれれば良いがと祈(ね)ごうておりますがなぁ・・
あは あはははは」
茂左衛門、肩に舞い落ちる桜の花を見上げ佇んでいる、
その両瞼(りょうめ)から熱いものがこぼれ落ちるのを、
花びらの舞う向こうに平蔵は観て取った。
「では又何処でかおめもじ叶ぅ事もござりましょう」
と別れ、再び土手上に戻った。
「お頭 何故盗賊改と申されませなんだので?」
と木村忠吾
「なぁうさぎ、儂はな、あの御仁の実直そうな態度に身元を伏せたのよ、想うても見るが良い、
ゴロつきとはいえ相手も二本差し、こっちはれっきとした八丁堀、
それだに赤子のごとくひねられて面目も消え失せておる、
そこに持って追い打ちの盗賊改はなんぼ何でも辛かぁねぇかい?」
「はぁ然様でございますか・・・・・武士の情けでございますなぁ」
「なぁに、儂はあのような御仁に心惹かれるのであろうよ」
平蔵 土手下で宴の最中の人々を眺め、自分の記憶にはこのような想い出の一つもないことが
無性に寂しく感じられた。
「あのせがれもこうであったのであろうか・・・・・」
胸に熱いものがこみ上げてきた。
「お頭!少し休みませぬか?先ほどの仲裁で喉もお乾きになられたのではと????」
「ふむ そうさなぁ それも又良かろう、よし!そこな茶屋で少し喉を潤わせると致すか」
平蔵はにこやかな笑みを浮かべて簡素な造りの茶店に入った。
縁台に腰を落とし、爛漫に咲きほこる花の下、遠くには都鳥が貝やカニなどを食べているのか
捕食の様子が見え、後ろには廣楽寺や妙高寺が控えている浅草は今戸町
「精が出るのぉ親爺!かような人出では、笑いも止まらぬであろうな?」
見るからに百姓という形(なり)の亭主は、歯の抜けた口元を緩めて
「へぇ 八代様のお鷹狩のお陰で、この辺りの俺等(わしら)百姓もこうして田畑を耕しながら
米の飯にもありつけやす。
まぁ時にゃぁ喧嘩やいざこざもございやすが、普段は静かなところでございやすからねぇえ
へへへへへ」
言いつつ、通い盆に茶と餅を載せて出てきた。
「おおっ これは見事な!」
平蔵 茶とともに出されたそれを観て驚いた。
質素ながら生地に素掛けの墨塗り盆、そこへ若竹を切りそろえた物に入れた煮だし茶の色目が
又美しい、それに添えての桜餅、その横に今を盛りの桜の花が一房添えられてあった。
「う~~~ん!・・・・・・」
平蔵このさりげない亭主の心遣いに感服した様子である。
「のぉご亭主、この気配り・・・
中々に出来るものではない、おまけに茶のたしなみなぞ縁もないと見ゆるが・・・」
「あはははは さようでございやす、浅草のお頭が時折お見えに御成なすって、
その折このような工夫を教わりやした」
「何とな!左衛門も参ったのか」
「へぇお屋敷がついこの奥でございやすから、時折寄ってくださいやす」
「うむ 然様か・・・いかにもあ奴の好み・・・・・・」
平蔵、茶を一口喉を湿らせ、葉に巻かれた桜餅を取り上げ、
添えられた黒文字で二つに分け口に運んだ。
「この葉の塩梅ぇが、いや中々餅に葉の薫りの移りが・・・又美味を増す」
「恐れ入りやす、こいつあ去年摘んだもので、ちょいと古ぅなっておりやすが、
聞くところでは、八代様のお奉行大岡様が町奉行になられたおり、大川土手の桜の葉を摘み、
樽にて塩漬けし、中に漉し餡を仕込んだ餅をこれで包んで長命寺門前で、
山本新六というお人がお出ししたのが始まりとか」
「おいおい 亭主!お前中々隅にはおけぬなぁ、儂は初めてその講釈を聞かされたぜ、
のぉ忠吾」
「いやはや全く仰せの通り、驚きましたなぁ、かえって村松様に伺ぅてみるのも、ふふふふ」
「やれやれお前ぇも悪だのぉ」
平蔵呆れながらも
「そのような講釈をお前ぇは一体何処から仕込んだのだぇ?」
と好奇心を満たそうと誘い水を向けてみた。
「へぇ 北町奉行所のお役人様でこの辺りの町廻りをなさって居られやす、
前橋茂左衛門様から伺いやした」
「何と!先ほどの御仁ではないか忠吾・・・・・
へぇ なるほどヤットウは得手ではないはずだ」
「まっこと!」
「いやぁ旨い!この餡の甘さを葉の塩味が引き立てて、焼いた皮を塩漬けの葉が
しっとりとなじませ、香ばしさの奥に潜めた餅の歯ごたえ・・・うむ!実に旨いぜ亭主!」
平蔵大満足の体で菊川町の役宅に戻った。
「誰ぞ!村松は居らぬか?」
「お頭、村松様で?」
御用部屋に控えていた同心沢田小平次がやって来た。
「おお 居らぬか?」
「間もなく戻ってまいると存じますが、お呼びいたしましょうか?」
「うむ、戻り次第ちと野暮な話につきおうてほしいと然様伝えてはくれぬか?」
「承知つかまつりました」
沢田が去った後、平蔵が妻女、久栄が茶を持って入ってきた。
「殿様今日は又ご機嫌が宜しゅうございますな、何かよろしきことでも後ざりましたか?」
と探りを入れてくる。
「おお こいつぁそなたに土産だ」
「はて何でござりましょう?・・・・・・
まぁこれは・・・」
「おう 長命寺の・・・」
「桜餅!!」
「ほう 流石よく存じておるのぉ、いやはやおなごは甘いものには目がないと申すゆえなぁ」
そこへ慌ただしい足音がして
「お頭 村松忠之進只今戻りました、何か火急のご用とか沢田殿が・・・・
「あっ!!!それはもしや長命寺・・・」
「わははは やはり猫どのには存じておったか」
「無論でござります、そもそもこれは八代様が先の南町奉行職に紀州よりお連れなされました
大岡忠相様をお据えになられたる亨保二年、大川沿いに桜を植栽なされたる落ち葉を
醤油樽にて塩漬けを工夫いたしたる山本新六なる者が、
長命寺門前にて一個4文で売り始めたもの。
元々は長命寺に墓参りを致す者共へ供したのが始まりにござります」
「あはははは いや 流石猫どのようご存知じゃぁ」
「いえぇ さほどのことではござりませぬ、元々は下総國銚子の在にて、元禄四年(1691年)
ころ長命寺の門番を致しておりましたる山本新六が、果てるとも知れぬ落ち葉の始末に困り、
その落ち葉を醤油樽に詰めておきましたる処これが中々に良き香りが致したそうにございまし
て、
これを小麦粉や微塵粉(みじんこ)、すなわちもち米を蒸しあげて後平たく伸ばし、
乾かさせたる後これを再び細かく砕きしもの、また、これを更に薄く伸ばし、軽く焼き込み、
砕きしものを焼微塵粉と申し、焼き色が着かない程度に焼いたものは寒梅粉と呼びます。
こちらは寒梅が咲く頃に前の年の秋取り入れましたる新米から作るゆえ、
かように申すそうにございます。
「ほほぉ寒梅粉とは、又雅味のある名じゃなぁ」
「はい!桜餅は、葉を水につけて塩抜きしておき、生地の粉を餅粉や白玉粉と少しづつ
取り混ぜ、それを薄く伸ばして焼きます。
餅がしっとりするほどに水気を残すところが塩梅と申せましょうか。
漉し餡を丸めて置いたものをこれにて包み、真水にて塩気を洗い落としましたる葉の
水気を取り巻き合わせます。
この焼いた香の匂い立つそれへ、葉のわずかに残れし磯の味が、
こう 口の中にて絡みおうて歯応えを持ちつつもしっとりと、
このあたりの塩梅が秘伝と・・・・・」
「やぁ 参った!そこまでとはこの儂も想わなんだ、感服じゃぁわぁははははははぁ」
「嫌ぁそこまで頭にお褒めいただきますと、この村松忠之進少々こそばゆうござります」
「と申されつつも、満更でもなさそうなお顔にございますなぁ殿様」
「うむ まこと久栄の申す通り、そうでもなさそうな顔だぜ猫どの、わはははは」
"この山本新六が務めた向島長命寺の山本屋2階を3月ほど借り受け、
自らその場所を月光楼と名付けた俳人正岡子規が逗留し、
「花の香を 若葉にこめて かぐわしき 桜の餅 家つとにせよ」
と詠んだのはよく知られている。
前橋茂左衛門の嫡男真二郎が亀島町の屋敷に戻らなくなってすでに久しい時が流れた。
心労の所為(せい)か、母千代女は床につく日々が多くなり、
下男夫婦も案じて真二郎の探索に駆けまわるが消息は不明のままに終わっている。
その日は朝から冷え込みの厳しい始まりであった。
五代将軍綱吉の慰安所として建てられた(麻布御殿・冨士見御殿)とも呼ばれた白金御殿に
引水した三田用水分水の白金分水、近くの山下橋には水車があり、
ここでそば粉を挽いたと言われている狸蕎麦、ここは四の橋を堺に渋谷川と古川に分かれている
起点にもなっている。
狸橋南側には、かつてこの辺りを慶應義塾の創設者、福沢諭吉が買い取り別荘(梅屋敷)に
使っていた。
後に慶應義塾幼稚舎と、コッホ、パスツール、に並ぶ世界3大細菌研究所である北里研究所が
建てられた。
その水車営業権の米搗(こめつき)水車で米を搗き、塾生の経費に当てたとか言われている。
この三丁ほど西に修験屋敷がある。
はじめは世をすねた小さな集まりであったものが、徐々にその勢力を拡大、
やがて100名を擁する集団にまで発展。
彼らは時の御政道に反旗を翻した。
松平定信による寛政の改革では蘭学の否定、身分制度の見直しに極端なまでの倹約令など、
庶民にも極めて厳しい締め付けが行われた。
加えて政治批判を禁じ、これにより洒落本作者山東京伝、黄表紙作家恋川春町、喜多川歌麿や、
東洲斎写楽版元の蔦屋重三郎なども処罰された。
蔦屋重三郎は曲亭馬琴や十返舎一九なども世に出した人物であったが、
過料によりその財産は半分を没収され、山東京伝は手鎖五十日という処分を受けた。
このような背景を元に膨らんだ組織だが、集団が共に暮らすには当然のことながら、
それなりの広さや物資、金品が必要になる。
そこで目をつけたのがこの白金の修験屋敷である。
この地を根城とする群狼"正義隊"(しょうぎたい)が結成されたのは、
このような経緯(いきさつ)であった。
こうして彼らは、市中を徘徊し、軍資金を調達し始めたが、それは徐々に過激さを増し、
ついには集団化してしまった。
だが、彼らを取り締まろうにも打つ手が見つからない。
何しろそれぞれが別々に数名で組み、いざこざや難癖を吹きかけ、
それを止めに入るという格好を作って手打ち金を要求搾取する。
これはいつなんどき何処で起こるか皆目見当すらつかない厄介な事件である。
過日平蔵と木村忠吾がぶつかった浅草大川土手の花見事件もその一つではなかったろうか?
南北町奉行でも昼夜を問わずこれらの警戒や探索も行われてはいたものの、
後の仕返しや店前に屯(たむろ)して、客の出入りを暗黙の武力で阻止し、
時にはいやがらせ等も行い、かと言ってその頃のお定めではこれを取り締まる法もなく、
泣き寝入りが普通であった。
むしろ地廻りのゴロツキよりもしつこさはなく少金(こがね)で片付いたし、
何よりその口上が共鳴する部分もあった。
「我らはお上がなされる御政道に苦しめられておる百姓・商人共を救済すべく
立ち上がりし志士、だが軍資金枯渇のゆえに我らが志に支援金を賜りたし・・・・」
と声高に口上を述べ、決して店中には入らない。
店中に入れば恐喝になる事も考えられるからであろう。
これは来客も気色悪がり、次第に店には寄り付かなくなる。
町役人に訴えても
「我らが些かの法も犯したと申されるならば、その証をお見せいただきたい」
と相成る。
このように被害届もでず、捉えても裁くところまで辿りつけない、全く厄介なものであった。
こうした中で江戸市中に入り込んでいた浪人たちが、更に群れをなすようになり、
一部ではこれらが日中強奪、略奪という形に暴徒化し、
江戸市中を恐怖のどん底に落とし込んだ。
このために昼夜を明かさず駆り出されたのが南北奉行所統括の与力・同心・・・・・
南北合わせて与力25騎、同心200名、これで100万の大江戸の治安に当たるのである。
当然、この中には秘書・人事・管理など捕物や探索に無関係の役人も含まれる、
しかも南北の月番があり、この半分以下が動けるに過ぎず、正に焼け石に水、
ほとんど効果はないと思える。
あとは同心たちが自腹を切って使っている目明しや、
その下っ引などからの情報に頼るしかないのが実情であった。
芝増上寺大門前、片岡門前町1丁目蝋燭問屋"丹波屋"娘"ゆき"が下女を伴い、
木挽町五丁目にある森田座の芝居見物に来ていた。
当時蝋燭はまだまだ一般的ではなく、菜種油やえごま油、更に安価な鰯(いわし)などを
絞った魚油が一般的であった。
"鰯油”といえば今の御時世DHA(青魚血液サラサラサプリメント)で
知らない人は少ないだろう。
蝋燭は漆(うるし)や櫨(はぜ)の実を砕き、それを蒸して圧縮し、木蝋を精製する。
もろこしや葦の葉を芯にしたが、上方(京都大阪)では木蝋に魚油や獣脂を混ぜ込み、
廉価なものを作った。
両者の明るさに差はないものの煤や匂いは強かった。
井原西鶴の(好色二代男)に贅沢のたとえで「毎日濃茶一服、伽羅三焼、蝋燭一挺宛を燈して」
とあるように、貴重なものであった。
庶民は魚油や菜種油を用いた行灯や、農村部では松脂蝋燭(松脂を笹の葉で包んだもの)
囲炉裏の明かり、また石鉢で松根(しょうこん)を焚いたり細割の竹に燈す等色々であった。
3匁5分掛(5本入り)で、1丁9文(225円)1本で1時間10分燃える。
菜種油1合40文(1000円)魚油1合20文(500円)を考えれば、かなり高額になる。
棒手振り1日200文(5000円)浅草紙100枚(再生紙のちり紙)100文(2500円)
の時代である。
蝋燭の灯は光源の光度を表す単位のカンデラ(燭灯・蝋燭1本の光度)から来ている。
家庭用電球の豆球が2カンデラだから、まぁほの明るいといったものか・・・
行灯となると更に暗く、60ワット電球の50分の1となるわけだから、
暗闇ではないという程度と想ったほうが良い。
この明かりを白紙に近づけると明るさは格段に向上する?
撮影現場でレフ板という物を使用するが、これはその効果を利用して光を反射させ、
影を消す効果に用いられる。
このように高価であった丹波蝋燭を一手に扱っていた"丹波屋与兵衛"
それ以外にも丹波で取れる桐油(とうゆ)は灯火用には不向きで
あったが、雨傘や提灯などの防水材として重宝された物を取り扱うゆえに、
その懐は小判が唸っていたはずである。
当時芝居小屋は、山下御門から東南にまっすぐ西本願寺に向かうと三十間堀に架かる
木挽橋を渡ることになる。
当時の木戸銭は平土間で三十四~四十文(850~1000円)元々芝の上に座ってみたところから
芝居と呼ばれたように、半畳と呼ばれる敷物を借りて座ってみた。
下手な役者にはこの半畳を舞台へ投げ込んだところから、半畳を入れると言う言葉が生まれ、
現在相撲などで観られる座布団が飛ぶ光景に繋がっている。
平土間以外の高級席が桟敷で、舞台正面と左右両側に上下二段に設置され、
六名がひと枡に入れた(一人2833~5000円)。
"家賃より 高い桟敷へ のっちゃがる"(載って居やがる)と言われた。
この木挽町五丁目にある森田座の芝居見物を終え、表へと出た"丹波屋"の娘ゆき"、
下女を供に三十間堀を左方南に下がり、木挽町七丁目に架かる汐留橋を越え新町に入った。
この一つ先を入れば、そこからは播磨龍野藩脇坂淡路守・松平陸奥守・松平肥後守・森越中守・
關但馬守・大久保加賀守の大名上屋敷や中屋敷、下屋敷が並び、何れも門には手持辻番所
(大名辻番)が置かれ治安にも不安がない。
この道、一つ西は柴口一丁目から源助町、露月町、柴井町、宇田川町、神明町、
浜松町と増上寺大門前まで町家が並んでいる。
浜松町を右に折れると増上寺大門の通りになり、少し手前に飯倉神明宮があり、
この大門通りを挟んだ辻向いが片岡門前町である。
芝居見物は、行きも帰りも大概この道筋を選ぶ。
いつものように二人は木挽町七丁目に架かるお堀と呼ばれる汐留川(新橋川)
をまたぐ汐留橋を越え柴口新町に入った。
角を曲がりかけたその時、反対側から曲がって来た町衆と鉢合わせ
「おっとっとっと!」と、お互いに避けようとするものの、
どうも同じ方へ避けるものだから鉢合わせになったまま・・・・・
「どどど・・どうも申し訳ございません」
とあわてて下女が前に出て頭を下げた。
「危ねぇじゃぁねぇか!こんな角で駆けだしてよ・・・・」
「えっ?駆けてはおりません!」
きっぱりとした態度で下女が言い切った。
「おんやぁ何かい?俺が文(あや)でもつけたと言うんじゃぁねぇだろうなぁ えっ おい!」
そこへバラバラと3~4名の男が近寄ってきた。
「ななっ 何をなさいますご無体な!」
少し怯えながらも、再び強い語気で下女が娘をかばうように立ちはだかって叫んだ。
「無体?誰がぁ 何が無体なんだぁ? とっくりと聞かせもらおうではないか」
怯える二人をぐるっと取り囲んで威嚇してきた。
すっかり怯えたこの二人、背中合わせに身体を寄せて、救いの眼を向けるものの、
街行く人々は眼差しを避けるように足早に立ち去る。
「なんとか言えよ こっらっぁ!!」
もう蛇に睨まれた蛙も同然、寒空に脂汗がふつふつと噴き出している。
この時沢田小平次、同じ町内の播磨龍野藩脇坂淡路守の手持辻番所で、
近頃のこの界隈の話を聞いて汐留橋に向かい、歩き出したところであった。
「待て待て・・・」
小平次群れの中に割って入り、
「経緯はよくは判らぬが、まずお前たちが退け、おなご二人を取り囲んで何とする!」
と、両者を制した。予定外の登場人物に
「だだだっ誰でぇお前ぇは」
そこへ、遅ればせながら浪人姿の男が楊枝を咥えたまま懐手に寄ってきた。
一行はチラとその浪人に目線を送り、素早く元の目線に戻ったが、
それを見逃すはずもない沢田小平次
「ははぁお前が媒(なかだち)か!」
と、じろっとその浪人を見据えた。
居合わせた一同が一瞬動揺した所へ沢田小平次(くっ)と懐から十手を覗かせたものだから
「ちっ ここはまずい!」
誰かがそう吐き捨てるように言ったのを機に、パラパラと散開した。
「危ういところをお助けいただきまして誠にありがとうございました」
下女と娘が頭(こうべ)を低く垂れて礼を述べた。
「あっ いやいやこれしき、何でもございません、が 何処へお行きになられますので?」
つっ と娘が前に出て
「はいこの先の片岡門前町まで戻ります」
と小腰をかがめた。
「さようで・・・」
沢田小平次少しためらったが
「そこまでお供いたしましょう、先ほどの奴らがまだそこいらに居るやも知れませぬから」
と警護を申し出た。
「本当でございますか?」
娘の眸に安堵の色が浮かんだ。
「お嬢様本当に宜しゅうございましたねぇ」下女も胸をなでおろしたふうであった。
小平次は再び今きた道を戻り始めた。
先ほど別れたばかりの辻番所前で若党が
「あれまぁ沢田様又どうしてお戻りに?」
と前をゆく二人に好奇の目を向けながら寄ってきた。
「先程妙な奴らに絡まれてな・・・・・」
と前へ目線を移した。
「はぁさようで、先程も申しました通り、この辺りも媒(なかだち)やが
出没するようになりましたねぇ、ご用心なさいまし」
と気の毒そうに二人を眺めた。
十五丁弱(1.6キロ)の道のりを沢田小平次付かず離れず同行した。
關但馬守上屋敷の番小屋前で掃き掃除をしていた番太が
「あれっ 沢田様ぁ本日はこの界隈を?」
と、鉢巻を外しながら声をかけてきた。
「おう文助!毎日ご苦労だなぁ・・・女房のおしげはいかがした?」
「はい それが先日この先の七軒町飯倉神明宮前に蕎麦屋が出来まして、で
そっちの方へ奉公にでております」
「何だぁ 蕎麦屋が出来たと?」
「はい 更科布屋の白蕎麦でございますよ、時には覗いてやってくださいまし」
と腰を折った。
それを聞いた下女が
「あのぉ お武家様のお名前は沢田様とおっしゃいますので?」
「ああ 然様 火付盗賊改方同心沢田小平次と申します」
「ああっ ああ、、、あの盗賊改めのお方で・・・・・」
今度は娘が驚きの声を上げた。
「これは誠に・・・・・何卒我が家にお立ち寄り願えませんでしょうか?
まだお礼も申し上げておりませんので、どうか父に会っては頂けませんでしょうか?ねぇお芳」
「然様でございますよお嬢様、あのように危ういところをお助けいただき、
おまけにこのようにお送りまでいただきましたのでございますから・・・
お武家様、どうかそのようにお願い申し上げます」
これにはさすがに朴訥(ぼくとつ)な沢田小平次、困った面持ちで引き下がろうとするところを
娘に袖をつかまれ
「どうぞ!どうぞお願い致します、このままお返しいたしましたら、
私がお父様に叱られてしまいますもの」
とすがる目つきで小平次を見やる。
「むむむむ・・・ふぅ・・・・・仕方ありませんなぁ」
沢田小平次しぶしぶ店の中に入る。
「お嬢様おかえりなさいまし、旦那様!お嬢様がお帰りでございますよ、
それにお客様もご一緒で・・・・・」
大番頭らしき五十がらみの男が帳場の中から奥に向かって声をかけた。
「おお おかえりおかえり、で芝居はどうだったかね?」
と言いつつさすがに丹波の木蝋を扱うだけあって、当時はまだ珍しい臈纈染(ろうけつぞめ)
の暖簾を分けて奥から出て来
「あっつ これはお客様で・・・」
沢田の拵えを見て取り
「娘がどうかいたしましたので?」
と、怪訝な顔で代わる代わる見返す。
「そうじゃァないの、お父様!汐留橋を渡って芝口新町に差し掛かったところで
嫌な人たちに囲まれたところをこの盗賊改めの沢田様にお助けいただき、
ここまで送っていただきましたのよ」
と、事の顛末をかいつまんで話した。
「何とまたあの者達が・・・然様でございましたか、これはこれは大変ご無礼を致しました、
私この蝋燭問屋丹波屋が主庄左衛門と申します、誠にこの度はかたじけのうございました、
ひとまず奥へお上がり頂けませんでしょうか?」
と慇懃(いんぎん)な態度で沢田を誘(いざな)った。
小平次無事に店まで届けたので、すぐにも戻るつもりでいたが、(またあの者達)
という丹波屋主の言葉が気にかかった。
「少々うかがいたこともあるゆえ、店先は商いにご迷惑、ご無礼して上がらせていただこう」
と、あないされるままに奥座敷に通った。
さすがに豪商と見えて、奥座敷の中庭に設(しつら)えられた庭は見事なもので、
これまであまり縁のなかったものだが、その沢田にさえ(これは・・・)
と驚く極められたものであった。
大きな梅の古木が軒を支えるようにしなり、対の部屋には枝垂れ桜の戯れが振り分けられ、
その中に細やかな造りの箱庭が位置を変える度に新しい景色を眺めさせる工夫がなされている。
それを眼で楽しむゆとりもないままに沢田小平次
「早速だがご主人、先ほど耳に挟んだ(あの者達)という話し・・・」
「はい この頃はこの辺りにも入れ替え立ちかえ店の前に座り込んで念仏なぞ唱えたり、
何やら口上を申されたり致しまして、その挙句幾ばくかの金品を受け取る新手のたかり。
先日も十人ほどがこの店を囲んでのお念仏、それも聞き取れぬほどの小声なのでお客様が
気味悪がりより付けません、そこで大番当が出て行きまして
「どうぞお通りください」
と申し上げました、ところがそれでも立ち去ろうと致しませんので、
やむなく私が出てまいりまして
「いずこの宗門のお方もお通り下さいと申しましたらば、すみやかにお立ち退き下さいます」
と申しましたらば、墨染めの片袖を挙げられましたので、私はそれも観ぬふりを致しまして
頭を下げておりました。
諦めたのかやがて姿を消しましてございます」
「で、金品は渡さなんだのだな?」
「はい、あのようなやり口はこの丹波屋庄左衛門受けるわけにはまいりません」
ときっぱりとした口調で言い切った。
その夜本所菊川町の長谷川平蔵役宅に戻ってきた沢田小平次、
早速本日の出来事を平蔵に事細かく報告した。
「うむ 事件にはならなんだのだな?」
「はい どうも近頃あちこちで似通ぅた話を聞きますので」
「うむ 先日儂もそのような奴らに遭ぅた、いやなんとも情けねぇ、
芝居掛かって反吐(へど)が出る。
平蔵思い出したくもないものを思い出さされた不愉快さを珍しくも顔に出した。
「誠に申し訳もござりません」
「おお!何のお前が謝る事っちゃぁねぇ・・・
なぁ沢田、世の中こうも廃れた世になったのは、やはり越中様の改革が首尾よぅ行かなんだと
いうことであろうか・・・・・」
平蔵腕組みをしながら鉛色に沈んでゆく江戸の空を見上げた。
この数日後、芝増上寺門前の蝋燭問屋"丹波屋"に押しこみが入り七百余両が強奪されたと
南町奉行配下の仙臺堀の政七が、平蔵が役宅に駆け込んできた。
「なにぃ!」
飛び出たのは沢田小平次
「で、家人のものに怪我などはなかったのか!?」
「へぃ それが大勢で押しかけ、皆刀をつきつけられて縛られ、猿轡(さるぐつわ)を
噛まされて身動きできないようになっていたそうで、主の丹波屋庄左衛門が蔵の鍵を渡し、
為替に換金する余金を強奪されたそうで、盗賊はその後庄左衛門の水月を刀で打ち据え
その場に打ち倒し逃走したようでございやす。
皆頬被りなどで顔を隠し手燭の明かりだけでは人相は読めなかったとか、
まぁ刃傷沙汰がなかっただけ救いもあろうかとお奉行様も・・・」
「筑後守様が然様申されたのか?」
平蔵が父宣雄と京都町奉行以来親交のあるこの池田筑後守長恵の胸の内を痛いほどに
よく判っていた。
「あの剛気豪快な筑後守様がなぁ・・・・・」
沢田小平次はすぐさま芝増上寺片岡門前町の"丹波屋"を尋ねた。
「嗚呼・・・・・これは沢田様・・・」
丹波屋の主庄左衛門と娘の"おゆき"が連れ立って沢田を出迎えた。
「まずは怪我がなく・・・宜しゅうござった」
沢田は言葉に困りながらそれだけ伝えた。
「沢田様 さようでございます、あのように大勢の押し込みではもはや命はないものと
その時は思いました、ですが、向こうは金子だけが目的だとはっきり申されまして、
まぁそれでひとまずは気を落ち着け、先方の言うことを聞き、
金蔵に残しておりました為替の代金を差し出しました。
あとは私もここを刀で一撃されまして気を失い、朝まで気付きませんでした」
「して その折の傷の方はいかがでしょうかな?」
「はい 何しろいきなりでございましたし、夜着だけでございますから今もって痛みは
残っております」
と、水月の辺りをさすってみせた。
「何か変わったこと、気づいたことはありませんでしたか?」
「はぁ・・・・・ああ、そういえば首領らしきものが左利きということぐらいしか」
「何左利き?」
「はい 刀は左に手挟んで居られましたものの、私の胸を掴まれましたおり左手で・・・・・」
「何故左様に想われた?」
「はい たいていは利き腕が先に出ます、私が襟を掴まれましたおり、
左側から腕が伸びましたのでとても不思議な面持ちが致しましたもので」
「なるほど・・・これまでさほど気にも掛けておりませなんだが、
確かにとっさの場合は利き腕が出ますからなぁ」
沢田小平次ひとまず家人の無事も確かめられたし、一つだけではあったものの
首謀者の中に左利きがいたということは、僅かの進展があったと言えよう。
このことを平蔵に報告すると
「うむ 間違いはなかろう、其奴確かに左利きであろうよ、儂が高杉銀平先生の道場で
稽古に励んでおったおり、左利きの門弟がおった、先生はそれを見て取られ
「左利きを嘆くではない、むしろそれを誇りに思え!通常剣は平常時右脇に控えるのが習わし、
これはとっさのおり右手では抜刀しづらいというところに意義がある、
だが左利きならばたとえ座して居っても、いとも簡単に抜刀できる、
しかも剣は常に右手が鍔元にあり、左手は柄頭におき、身体の正中で動きを制する、
従い遠刀での振り切りにはむしろ左利きの方に分がある。
それを会得するために右利きは片手でのみの素振りを余計に稽古せねばならぬ、
と仰せであったことを思い出したぜ。
たしかかような抜刀術を修めた流儀があったなぁ・・・・・水鷗流・・・であったか」
「然様な剣法がございますので・・・・・
一度手合わせ出来れば、見切る事も出来るやも知れませぬなぁ」
平蔵をして(まともにやりおうたら、この儂とて果たして勝てるかどうか)
と言わしめる小野派一刀流名手の沢田小平次である。
その数日後、麻布十番飯倉新町の江戸口油問屋"大津屋江戸前店"に賊が押し入り
油五樽が強奪された。
五樽といえば二百升(一樽72リットル、中身だけでも一樽三十六キロ)
さすがにこれは抱えるわけにもいかず荷車を仕立てて運ばれ、
飯倉町の堀留船着場から小舟は闇夜を継いで何処へかに消えていった。
油は上方から運ばれて来たために"大津屋"は川船がそのまま着けられる
麻布飯倉新町に構えていた。
翌日になって店の開かないのを、不審に思った隣の薬種問屋の小僧が主に報告してこれが発覚。
こちらも店の者には一切怪我もなく、一箇所に集められていいた所を北町奉行の調べで
開放され犯罪が判明した。
荷車はすぐ傍の堀留にある船着場に放置されており、荷車もこの"大津屋"のものと判明、
盗賊一味は用意周到にことを運んだと想われる。
物が油と言うだけに奉行所でも神経をとがらせては見たものの、霧のごとく容易にその行く先は
つかめない、まさに五里霧中、打つ手はなしであった。
以前は麻布広尾田島町古川四之橋(よのはし)たもとに汁粉屋があった、
あまりの旨さに狐が買いに来たという風評で評判となった、その主は尾張屋藤兵衛、
この藤兵衛これが元で大儲けをし、京橋三十間堀に移った。
そのあとをそのまま鰻屋が開店したが、何故かそのまま狐鰻と呼ばれ、繁盛していた。
江戸はすでに師走を迎え、町行く者もどこか慌ただしさを増していた。
その数日後、過日沢田小平次が折よく無頼の者達から窮地を助けた芝増上寺片岡門前町の
"丹波屋"主人庄左衛門から、たってのお願いと、沢田小平次に誘いがあった。
その日は沢田もちょうど非番であったために平蔵
「おお沢田調度よいではないか、お前に助けられたことが余程有り難かったのであろうよ、
無下にするのも何だ、良いではないかたまには羽を伸ばすもよかろう、遠慮致さずとも良い」
と奨められたこともありこの日朝から芝増上寺片岡門前町の"丹波屋"に出かけた。
海賊奉行(御船手奉行)向井将監忠勝屋敷のある、新堀河岸の将監橋(海賊橋)から
屋形船を仕立て"丹波屋庄左衛門と娘ゆきの三名を乗せた船は、ゆらゆらと古川をさかのぼる、
この1ノ橋までが汽水域で、風次第では微かに潮の薫りがした。
麻布飯倉町1ノ橋を南へと曲がり、橋西側の間部若狭守下屋敷があるために間部橋と
呼ばれていた2ノ橋を潜り新堀川へと続く。
1675年河口の金杉橋から1ノ橋までを掘り下げて、荷船が通れるように改修した、
このためにこの域を新堀川と呼び、1ノ橋西側に地下から水が吹き出す井戸があり、
この井戸の名水を使って傍処"永坂更科布屋太兵衛"が繁盛したものである。
2ノ橋を過ぎた辺りから新堀端の荷揚げ場の華やかな声が屋形船の中にも届いてきた。
障子を開けると師走の荷揚げで活気のある声があちこちで飛び交っている。
「この辺りお武家様のお屋敷も多く、さすがに賑やかは又格別でございますねぇ」
と丹波屋。
傍から娘の"ゆき"が
「お父様今度は沢田様を夏にお誘いいたしましょうよ、ねぇねぇ宜しゅうございましょう
沢田様!」
ゆきは眸を輝かせて沢田の顔を覗き見る。
「これ"ゆき"!沢田様はお武家様、しかも盗賊改めの大切な御用をお勤めのお方、
そのようなお方に無理のお誘いはご無礼というものですよ」
と娘の気持ちを感じながら穏やかに諭した。
「でもぉ あっ 夏になると夕涼みがてら蛍を眺めにねぇねぇ沢田様!
夕方から鮎を頂いてゆっくりと・・・・・いけませんか?・・・・・」
娘の天真爛漫な態度に武骨者の沢田小平次汗が出来た。
「あら 沢田様!何かお困りでございますか?」
「これ ゆき!ご無礼があってはなりませんよ、沢田様がお困りのご様子ではありませんか」
と、再び窘める」
「ねぇ だめでございますか・・・・・・?」
「弱りましたなぁ・・・」
沢田小平次、鬢(びん・横髪)を掻きながら丹波屋の方へ救いの目を向ける。
「申し訳もございません沢田様、何しろたった一人の娘なもので甘やかしてしまいました。
これまでかようなことを言い出したこともございませんので、私自身が戸惑うております、
もしご迷惑でなければ娘のわがままをお聞き届け願えませんでしょうか?」
救いを求めた相手にまでこう迫られは、武骨者の沢田小平次タジタジで
「はっ はぁそのぉ・・・・・」
「だめでございますか?」
「だだだっ 駄目とは・・・・・」
「宜しいのでございますね!まぁ嬉しい! ねぇお父様それまでにどこぞへ沢田様をお誘い
いたしましょうよ、ねっ!あっ そうだわ!森田座のお芝居はどうかしらねぇねぇ・・・
あ・・沢田様奥方様はお迎えなされて居られますの?」
無頼の者相手ならば臆することも無く切って捨てる沢田であったが、あいてがこの無邪気な娘、
はてさてどうしたものかと、まぶたに浮かぶのは長谷川平蔵の顔であった。
「これ!ゆき 沢田様がお困りのご様子ではありませんか、
誠に申し理由(わけ)もございません沢田様、年頃の娘の申します事ゆえ、
あまりお気になされませんようお願い致します」
丹波屋、いささか恥じ入った風に笑いながらも目を細める。
どれほどこの娘を愛しく思っているか、沢田小平次にもそれはよく伝わっていた。
「まぁお父様、私は沢田様にお伺いいたしているのでございますよ、
だっていつも想ったことは素直に口に出す、それが一番大切な生き方だと
おっしゃって居られますのに、ねぇ、で 奥方様は?」
と困り果てた小平次の様子に上気した笑顔を向ける。
「はぁ 母ひとり子一人の侘び住まい、まだまだ嫁取りなぞは・・・・・」
沢田小平次冷や汗を拭いながら小声で応えた。
「まぁ・・・・・・よかった!」
「何を言っているのですお前は・・・・・」
この時船が急に向きを変えたために船がぐらりと揺らいだ。
「きゃっ!」
と小さな悲鳴を上げてゆきが横に倒れかけた。
向かいに座していた沢田小平次思わず片膝立ててこれを支えた。
あとで思えば芝居がかった倒れ方ではあったが、その時はとっさの出来事、
そこまで思い量る余裕はなかった。
「あっ これは失礼をいたしました!」
小平次慌ててゆきを支えていた腕を抜いた。
若い娘の柔らかな感触が微かに残っていた。
肥後殿橋(3ノ橋・会津藩松平肥後守下屋敷脇にあったため)を急角度に西へ折れたあと、
青々と茂った被り松がゆらゆらと川面に影を落とす堀石見守下屋敷脇を
(土浦藩主土屋相模守下屋敷)4ノ橋(よのはし)に向かった。
「この廣尾原辺り(うぐひすを尋ね々々て阿在婦まで)と詠まれたように、
なかなかのどかで、時折喧騒を嫌ぅて船を仕立ててまいります。
春ともなれば花見の宴で賑わいますが、季節も下がれば侘しい処、
それが又宜しいのでございましょうかねぇ沢田様」
丹波屋庄左衛門手炙りに手をかざしながら、硬くなっている沢田小平次に笑顔を向ける。
お退屈様にございました」
船頭が障子を開けて声をかけてきた。
「おお 沢田様着きましたようで、道中さぞや窮屈なされたと存じます、
何卒この丹波屋に免じてお許しくださいませ、では早速ご案内を」
と小平次を先にあないした。
橋の袂に構えられた2階屋の小料理屋「狐鰻や」は、人の出入りも多く、賑わっている。
それからひとときの満ちた時を過ごし、戻りの船のなか、
「友助さん、ご苦労さんだったねぇ、これをおかみさんに・・・」
そう言って丹波屋が小さな包を船頭に手渡した。
「あっ これはどうも旦那様いつもお気遣いをいただきましてありがとうございます、
女房も喜びます、ありがとうございます」
「何の何の、いつもお前さんは無理をお願いしているのですから、
この程度気になさることはありませんよ、ところで面白い話は聞かなかったかね、
お前さんが仕入れて来る話は中々面白い」
丹波屋慣れた風に船頭と言葉をかわした。
「あっ そう言えば、さっきここの板場で、まぁ旦那様には面白いかどうかは判りませんが、
だいぶ前からこの先渋谷川の山下橋にある水車小屋に結構な米が運び込まれて、
米を搗(つく)のにも番取りが要るようになって大変なのだそうで、
しかもこの前なんぞは屋敷の前に置かれてあった油樽5つが昨日は綺麗になくなっていたよう
で、一体あんな量の油をどうするのかって不思議がっておりました」
その話を聞くとも無く聞き流していた沢田小平次(んっ!!??)油樽??
先日聞きこんだ麻布十番飯倉新町の江戸口油問屋"大津屋江戸前店の一件を
まざまざと思い出した。
「申し訳ないが、少々待ってもらえぬか丹波屋どの、
その話、もそっと詳しく聞かせてもらいたいので」
「えっ 沢田様何か御役目に関するお話でも?」
「はい 誠にすまぬのだが船頭、たしか友助と申したな、その話何時のことだ?」
「はい、丹波屋の旦那様を待っている間のことでございます、それがどうかしましたので?」
「いや詳しく話すことは出来ぬが、その話間違いはないな!」
「はい 間違いはございません、何しろ聞いたばかりなので・・・・・」
この日遅くなって菊川町の火付盗賊改方役宅に戻ってきた沢田小平次、
早速平蔵に目通り願い、事の顛末を話した。
「何ぃ 大津屋だと!!」
「はい まさかと、耳を疑いましたが真のことで、急ぎ立ち戻りました」
「おおっ でかしたぜ沢田!こいつぁもしかしたら切れた糸がつながるやも知れぬ、
夜分ですまぬが麻布は確か松永の持ち場であったな、すぐさま松永をこれへ、
ああ・・それから竹内と伊三次も呼んできてくれぬか」
暫くして松永、竹内両名と密偵の伊三次が平蔵の前に控えた。
「おお 誠に済まぬ、が 火急の用向きにつき呼び出した、お前達二人、
急ぎ麻布広尾原まで行ってくれ、目的は渋谷川の修験屋敷を見張って欲しいのだ、
繋ぎに伊三次を付ける。
伊三次お前は何か事あらば二人の繋ぎを頼む。
「お頭一体何ごとでございます?急と申されましたので通うな格好で参りましたが」
「うむ 実はな、先程沢田が聞きこんで参った話なのだがな・・・・・」
平蔵、沢田の聞き込んだ話を手短に伝え、
「外は冷える用心いたせよ」
と、3名を送り出した。
こうしてその日のうちにも麻布広尾原の修験屋敷は盗賊改めの監視下に置かれて、
翌日よりこの一帯に関する聞き込みが始まり、凡そのことが掴めた。
伊三次の報告ではこの数カ月の間に浪人たちが屯(たむろ)するようになり、
その数もますます増えつつあること。
加えて、何か大仕事をするらしいと言うことを、水車小屋に米搗きに来たこの修験屋敷に
まかないで駆りだされている女が話してくれた。
「何しろ百人近くのお侍さんたちの飯の支度だ、大根汁に根深の汁を作っております、
これだけでもおおごとで」
「油樽が置いてあるか?」
と問いただすと、
「何でもどこかに火を付けて、その間にひと騒ぎ起こそうとか、
そんな話し声が障子越しに聞こえました」
「よし、このことは誰にも話すではないぞと固く口止めしておきましたそうで」
と答えた。
「何ぃ!火を放つだと・・・・・この師走に・・・何処に火付けをするか、
風向き如何では江戸は火に包まれてしまう、このような多勢のおり、
我ら盗賊改めだけではとてもではないが手が足りぬ、馬引けぃ!」
妻女久栄に命じ、急遽衣服を整え南北両奉行所へ向かった。
向かうは南町奉行池田筑後守長恵を訪れ、事の顛末を手短に話し助成を嘆願、
踵(きびす)を返し北町奉行小田切直年に至急のおめ通りを願った。
長谷川平蔵とは老中が刑法の御定書を厳格化することに共に異を唱えた経緯もあり、
知古の間柄でもあった。
一行は白金村光禅寺に集結、南北両奉行の談合にて狸橋は北町が山下橋は南町の各与力2名に
捕り方十名づつで固め、万一の逃走経路を遮断、残り半数の者は吉田神道屋敷に
逃げ込まないようにこれらを固め、本来武力抗争を取り締まることのない実戦経験の少ない町方
は後方支援という形で火付盗賊改方に打ち込みの一切を託すことになった。
平蔵の指揮のもと、まずは古田神道屋敷に酒井祐介を密かに送り込み、
手早く戸締まりをするよう指示を出し、直ちに掃討作戦が執り行われた。
それと同時に南北奉行所の町廻り同心や与力が各々の持ち場にと散開する。
着流しの格好で松永弥四郎が修験屋敷裏手からまかない手伝いの百姓女を呼び出した。
打ち込み隊は表を長谷川平蔵が指揮(とり)、裏側は筆頭与力佐嶋忠介、
右翼を筆頭同心酒井祐介、左翼は沢田小平次がこれを務め、水も漏らさぬ布陣で取り囲んだ。
真昼の捕物とあって身を潜めるのも中々容易ではない、しかも二百名に近い大集団である僅かの動きも漏れれば全ては水泡に帰す・・・・・
物音一つにも注意がなされ、捕物道具の刺又(さすまた)や袖絡(そでがらめ)
突棒(つくぼう)これに金輪、六尺棒、四方梯子、投卵子(めつぶし)投網など
用意周到に柄物(えもの)を持った捕り方が打ち込み方の外を固める。
松永弥四郎は浪人風体のために、怪しまれることもなくたやすく手伝い女達と接触も叶い、
速やかに数名を外部に収容出来た。
慌ただしい空気に気づいたのか修験屋敷から二~三名のものが外に出てきた。
橋の袂に伏せている捕り方や、屋敷の周りも異様な空気に包まれていることが感じられた。
「お~い!何か妙だぞ、どうも嫌な予感がする!!」
その言葉にバラバラと数名の浪人共が飛び出してきた。
よく見れば橋の袂に捕り物道具がチラチラと覗いているのが散見された。
「しまった!役人どもがここを嗅ぎつけたようだ皆出てこい!!」
大声に叫んだものだから、どやどやと浪人たちが外に出てきた。
それを見て取った長谷川平蔵
「それ!!懸かれ!」
それと同時に左右に伏せていた、両奉行所の捕り方が一斉に投卵子を浪人共にめがけて投じる。
次々と命中し、辺りは石灰や唐辛子の粉で煙幕を張ったようになる。
顔や肩、背中ありとあらゆる場所に命中したものだから、
あまりの激しい痛みに戦闘意欲は失せ、急いでそこを離脱しようと試みる。
これを待ち伏せていた捕り方が袖搦で袖を巻き取り刀を奪い、六尺棒や八尺棒を投げつけ、
目潰しで視力を奪われた浪人たちはこれに足を取られその場に転倒、これを速やかに捕縛する。
目つぶしの舞う中にも、次々と内部から脇のとを蹴破って外へ出てくるおびただしい集団に
刺又や突棒が浴びせられ、足や腕、腹などいたるところをこれらで刺され、
戦意喪失した者共へ金輪が二つも三つも掛けられてその場に引き倒された。
あちこちで阿鼻驚嘆の声、罵声に怒声が入り混じり、ここは正に戦場と化していた。
だが、群狼共は怯まず抜身で散会し立ち向かってきた。
長谷川平蔵「すでにここは囲まれておる、逃げ延びることは出来ぬと覚悟致し、
すみやかに縛につけ!抗う者あらばこの場にて打ち取る!」
と呼ばわった。
こうなったからにはやむなしと投降するものもあらば、刃をなりふり構わず振り回し、
盗賊改めによって切り伏せられる者ありとまさに修羅場の様相である。
あちこちで剣戟の音が交叉され、鋼の焦げた匂いが時折漂ってくる、激しい戦闘は続いている。
平蔵一人を切り伏せ、ズイと奥に入った。
待ち構えていたと想われる浪人を認め平蔵右八双に構えたその刹那を狙って、
左に手挟んだ刀の鍔に手を掛け右手で柄口を握ったのを瞬時に見て取った平蔵、
その間合いの凄まじさに気を合わせる間もなく、無意識に大きく後ろに飛び退くも、
相手の放った一撃は左手そのままに逆手で一気に逆袈裟斬りに抜刀してきた。
左手は刀を逆手のまま振り抜き、右手で刀の峯を支えながら下から押し上げる実戦技である。
平蔵の装束丸胴に胸当てが、右下から左上にかけてざっくりと切り裂かれ、
かろうじて左の二の腕をかすめて引きぬかれた、はらりと平蔵の左袖が垂れ下がった。
その隙に相手は刀を返そうと右手に持ち変える刹那平蔵は八双から正眼に切っ先をさげ、
真っ直ぐ突き進んで敵の胸を貫いた。
平蔵の刃は深々と胸を貫き刀の真ん中辺りで止まった。
(ぐえっ!!)平蔵にもたれかかるように敵の体が被さってきた。
それを見越したもう一人が間髪をいれず平蔵に襲いかかってきた。
平蔵これをかろうじて避けながら脇差しを一気に抜き放った。
(ぎゃっ!!)と低い悲鳴を上げてそのまま平蔵の後方に崩れ落ちた。
平蔵先程貫いた己の刀を左手に握り相手の胸に足を掛け一気に引き抜く。
「お頭!」
近くで応戦していた沢田小平治が駆け寄って来る。
「ご無事で!」
平蔵右手の脇差しに血振りをくれてやり鞘に戻し、沢田を振り返った。
「おう いやなんとも凄まじい太刀筋と想いもよらぬ早業に儂としたことが
不覚を取ってしもうた、此奴が過日お前が申しておった左利きの奴に間違いあるまいよ、
いやそれにしても今想うても背筋が凍る、まるで狂犬のようであった、
げに恐ろしき者が居るものよ、世間は広いとつくづく思うぜ」
こうして一刻あまりの交戦の末、火付盗賊改方によって切り捨てられたもの十余名、
怪我を負いし者二十五名捕り物道具で絡め取られし者、投降捕縛されたもの六十余名を数えた
大捕り物であった。
打ち込みに加わった火付盗賊改方の中や南北奉行所の与力・同心・捕り方の中にも
怪我や傷を追ったものも多数出た模様である。
動けるものや歩けるものは屋敷前に集められ、南北両奉行所の係にて改めて正規の捕縛がなされ
ていた。
平蔵その中に過日大川土手で出会った北町奉行所同心前橋茂左衛門の姿を見
「やっ!これは・・・」
とねぎらいの声をかけた。
「??? あっ その節の・・・長谷川殿・・・何故ご貴殿がここに・・・・・」
「申し遅れ申立、身共火付盗賊改方 長谷川平蔵にござる」
と改めて名を明かした。
「何と・・・・・」
茂左衛門驚くばかりであった。
そこへ引き出された正義隊(しょうぎたい)最後の捕縛せし者の中に
息子真二郎を発見した前橋茂左衛門、信じられない光景に双瞼を見開き言葉を失った。
「真二郎!!」驚愕しながらも思わず声が出た。
その声に振り向いた若者が
「父上!!」
と叫んで身を乗り出した、が 小役人に制され押しとどめられた。
茂左衛門、手にしていた捕綱を離し真二郎に向かって走り寄り、その縄目を掴み、
目にも留まらぬ速さで脇差しを抜きこれを臆する事無く一突き
「真二郎すまぬ、許せ!」
と叫び、さらにそれを持って自らの首を掻き切った。
(おおっ!!!!)あまり一瞬の出来事に、平蔵も沢田もあっけにとられて突っ立ったまま
為す術もなかった。
「長谷川殿・・・見苦しき所を晒し申し訳もござらぬ、これが身共のけじめにござる」
苦しい息の下で、抱え上げた長谷川平蔵にそう言い残し茂左衛門は絶命して果てた。
「何と!!・・・・・何と言うことを・・・これがそこ元の始末であったのか・・・
肝胆相照らす友になれると思うたに、無念!無念!!」
長谷川平蔵はその場に片膝従いてがっくりとうなだれた。
平蔵、火付盗賊改方の捕り方に命じ、真二郎の縄目を解かせ、
この二人の骸を外れた戸板に乗せ、渋谷川三ノ橋を渡った先にある光林寺に一時保管をさせ、
茂左衛門は戦闘での殉死、捕縛された嫡男真二郎は同心見習い中の殉死とした。
後に当月番である南町奉行所でのお調書には、軍資金を稼ぐために鎌倉河岸に火を放ち、
その隙に本革屋町の金座を襲という計画であったことが判明。
「これが実行されていたらと想うだけでも空恐ろしくなる、
風向き次第では江戸の町がすべて灰に帰するやも知れぬからのう」
これは平蔵の偽らざる思いであった。
振り返ってみれば、忠吾との大川花見事件が、沢田小平次の丹波屋事件がなくば、
もしかしてこれは現実になっていたかもしれないのである。
正義隊頭領は駿河国浪人五林典膳、以下浪人、無頼の者など剣で生きられない世の中に翻弄され
続けてきた者達の集まりであったという。
翌日北町奉行所よりの知らせで、夫茂左衛門と嫡男真二郎親子の最期を聞いた千代女は、
その夜半、仏前に正座し、両足と膝前を細紐で縛ったまま短刀でおのが喉を刺し貫き果ててい
た。
翌日鉄砲町の文治郎より伝えられた長谷川平蔵
「あわれな・・・・・誰が、どちらが悪いのでもない・・・
だが水は高きから低きへと流れるが道理、人の力でどうになるものでもない。
人を生かすが政(まつりごと)、なれど、それも用い方次第では此度のような企ても
起こりうる、不条理と申すほか儂には解らぬ、それにしても無念でならぬ。
儂とてあの親父(信雄)がいなくば、このようになっておったやも知れぬ、
真、親子の絆を何処で保つか・・・・・想えば想うほど此度の事、虚しゅうてならぬ」
庭に佇む平蔵、見上げれば哀しみの化身とも想える白いものが舞い落ちて来た。
「雪か・・・・・寒い!身も心も冷え冷えと・・・・・寒い!」
天明2年(1782年~8年)天明の大飢饉が全国を襲い、
江戸時代の4大飢饉と言われる、近世で最も大きな飢饉であった。
天明7年(1787年)5月20日、商家8千軒、米屋980軒が
5千名ほどの暴徒によって5日間に亙り打ち壊しの対象となった江戸で暴動が勃発。
長谷川平蔵42歳の時この暴動を、先手組と与力75騎、同心300名を率いて鎮圧した。
9月9日御先手組弓二番組頭であった長谷川平蔵は加役火付盗賊改方助役(すけやく)
を拝命し、本役である先手鉄砲(つつ)の十六番組頭から弓の七番へ組換されていた
同じお先手弓組第十番組頭堀組堀帯刀に挨拶に赴いた。
「此度堀様の火付盗賊改方助役をお務め致すこととなりましたる長谷川平蔵にございまする」
平蔵は礼装で挨拶に望んだ。
「おお それはご苦労でござる、これでわしも肩の荷が下りると申すもの、
よしなにお頼み申す」
この堀帯刀という男、実直ではあったがあまりお役には熱心でなく、
したがって成果も上がっていない。
江戸市中は地方からの人の流入で溢れかえり、
治安は非常に不安定な状態の時であるにもかかわらずである。
「恐れいりたてまつります、ところで堀様、身共はこの御役目引き継ぎにあたり、
堀様にたってのお願いの議がござります」平蔵低頭したまま言葉を続けた。
「さて この儂にどのようなことでござろうか?」
「はい 出来ますならば堀組より盗賊改めの経験のござります者を一名
お貸し願いたく存じまする」と平蔵懇願した。
「あい判り申した、いやぁ何 巷では忠介で保つ堀の帯刀と揶揄されておりましてな、
どうも儂は生ぬるいと想われておる、我が堀組の要、この佐嶋忠介をお貸し申そう、
何かとお役に立つと存ずる」と心よく承諾された。
平蔵はその佐嶋忠介を供に、南町奉行所役宅に出向いた。
平蔵の父長谷川平蔵宣雄が京都西町奉行職を拝命し、職務遂行中に病死し、その後任に当たったのが今の江戸南町奉行山村十郎右衛門であり、平蔵一家が江戸に帰るさい何くれと気配りを与えてくれたよしみでもあった。
「おおこれは久しい銕三郎どの、あっ いや 今は平蔵殿であったな」
「ははっ 山村様におかれましては京でいろいろにお世話をいただき、長谷川平蔵無事お勤めをあい務めさせて頂きおります」
「おお 此度はまた火付盗賊改方に就役なされたと伺ぅておりますぞ」
「おそれ入りまする、そのことに付、京でのお禮方々ご報告にとまかりこしました、
今後共何卒よしなにお願い申し上げまする」
こうして平蔵はまず身の回りを固め、盗賊改めの職責を全うするための地ごしらえを整えた。
与力十騎同心三十が平蔵のお先手組弓から引き連れてきた組織構成要員であった。
この中で堀組より借り受けた佐嶋忠介が筆頭与力、平蔵配下の酒井祐助が筆頭同心となる。
天明三年(1783)土用になっても「やませ=東(こち)風の風」
により夏であるにかかわらず気温は低く、稲の成長は止まリ、おまけに大風や霜害が加わり、
稲作は壊滅状態に陥った。
その秋から翌年にまたがってこの一帯は大飢饉が襲い餓死者が続発した。
弘前藩では死者が十数万人に達したと言われる。
天明七年五月江戸や上方で米屋への打ち壊しが頻発、
こうした背景に寛政の改革が始まることとなる。
世は非常事態を迎えた頃であり、凶悪な事件が次々と引き起こされ江戸の治安は
悪化の一途をたどっていたこの年、
長谷川平蔵は火付盗賊改方長官を拝する事となったわけである。
この四年前天明三年三月十二日岩木山が7月六日に浅間山の噴火もあって
東北地方は壊滅的な打撃を受け、その後天明七年東北地方を始め全国的な冷害が起き、
こうして例外にもれず津軽黒石藩領内はずさんな新産業政策が裏目に出て
藩の財政は困窮を極め、年貢の増微や備荒畜米と言う無理矢理に備蓄米の買い上げ、
江戸表に送るが財政の穴埋めには程遠く、百姓は種籾(たねもみ)まで供出させられ
、長年住み慣れた故郷を捨ててしまい、人口の流出は更に藩や領民を困窮に追いやった。
その中の一人に津軽黒石藩が在所のお小夜一家もいた。
今日口に入れるものとてない状況下、土地を捨てて逃げるものが続出、
貧困に益々拍車をかけた。
南部津軽黒石藩藩士長岡由太郎の幼馴染お小夜の家も御多分にもれず
夜逃げ同然で藩を捨ててゆくこととなった。
それを知ったところで何一つ打つ手もなく、ただ歯を食いしばって故郷を離れる一家を
見送るのみであった。
「お小夜、俺は必ずお前を訪ね江戸に参る、俺が探しだすまでいかに苦しくとも
こらえて待っておれ」
と、善知鳥神社(うとう)のねぶた跳人の鈴のついた御守を手渡すのが精一杯であった。
ここは本所緑町二丁目「本所に過ぎたるものが2つあり津軽大名・炭屋塩原(塩原太助)」
と呼ばれたほど背を南割下水に配した広大な構えの津軽土佐守上屋敷屋敷があった。
相生町五丁目二ツ目橋たもとにある軍鶏鍋や五鉄のすぐ近くである。
上役より「月の半分以上が在宅となり、まぁ暇で暇で仕方がない」
と聞かされた長岡由太郎は翌々年の参覲交代に際し江戸勤番を願い出て江戸に来た。
平侍は大名屋敷内の御貸長屋の二階に住み、殿様について登城する以外平侍の場合は
暇を持て余す。
しかし外出するには許可が必要であり、岡場所などへは出入り禁止と厳しい定めがあったが、
飢饉によって生き別れになった身寄りのものを探すと言う名目で届け出し
江戸市中を探し始めた。
しかしこの広い江戸でただ一人の者を探すという事は砂浜に一粒の小石を求めるようなもの、
それでも暇を作っては捜索に出かける毎日であった。
だがお小夜一家の消息は雲をつかむような話で、全くその成果は見えないまま
帰国の時がやってきてしまった。
万策尽きてこの度は諦めて帰国せざるを得なくなり、
次の機会を待つ他由太郎に残された道はなかった。
こうして時ばかりが無情に流れていった。
四年目の春、津軽石黒藩は四月が出発と定められていたために、
その準備は半年前からとりかかっていた。
これまでに由太郎は江戸での消息探索のために出来るだけの費用を蓄えねばと
一切の無駄を配した暮らしをしていた。
その異常なまでの暮らしぶりを両親も理解し、出来るだけの備えをと心を砕いていた。
こうして迎えた四年目の春、由太郎は殿のお供で参覲交代に加わることがかなったのである。
相変わらず休みを作っては市中の探索に出かける由太郎であったが
その年も間もなく暮を迎えようとしていた十二月初め
同じ郷里の捨藩者木挽者の与兵衛と出会った。
与兵衛は浅草新町の長吏弾左衛門配下を頼り江戸に来ていたのであった。
「もし 長岡の由太郎様では?」
浅草今戸橋のたもとに座り込んで前を流れる山谷堀を行き交う
猪牙眺めていた時のことであった。
「ううんっ? おっ お前は与兵衛ではないか!何とこのような場所で
お前に出会うとは善知鳥神社(うとう)のお導きやもしれぬ、
お前も存じておろうお小夜のことだが・・・・・」とお小夜一家の行方を尋ねた。
「ああ 覚えておりやすとも、確かあっし等と前後して郷を離れたはず、
で そのお小夜がどうかなされましたので?」と話が通じた。
「儂は四年前から江戸に参る度お小夜を探しておったのだが、
お前はお小夜の居所を存じてはおらぬか?」
わずかでも良い、何がしかの手がかりでも見つかればと淡い期待をかけつつ尋ねた。
「さぁて 今お小夜ぼうはどうしているかあっしにも判りやせんがね、
五兵衛さんはこの先の中村町火葬寺裏辺りに住んでいるはずでございやす」と答えた。
「何と!」想いもかけない与兵衛の返事に由太郎は飛び上がらんばかりに喜び、
与兵衛の手を握りしめた。
これには与平の方も驚いたようで、
「そのように御苦労なさったので」とお小夜の消息を知るかぎり教えてくれた。
それによるとお小夜の母親は江戸に来てその翌々年無理がたたって病死、
それがもとで父親の五兵衛も床につく日々が増え、暮らしは日々に苦しくなり、
お小夜は奉公に出たというのであった。
与兵衛に礼を述べ、由太郎は急いで中村町火葬寺裏に赴いた。
山谷堀を川沿いに上がり、教えられた通り浅草鳥越町から山谷浅草町・
中村町と駆けるように火葬寺裏に向かった。
山谷浅草町を過ぎ、左手に仕置場を眺めつつすぐその先を西に曲がると
百間(約1.8キロ)ほど先に目指す火葬寺が見えてきた。
教えられた通り奥に入って行くと粗末な小屋が見えた。
由太郎は急いで駆け寄り戸を叩いた
「誰か!お尋ね申す お尋ね申す!」
戸に手をかけると抵抗もなく開いたので中に入り再び「お尋ね申す」と呼ばわった。
六帖一間の部屋で布団にうずくまった何者かの動く気配があり、弱々しげな声が「へぇ・・・・・」と聞こえた。
由太郎はたまらず「五兵衛か!?」と声を上げた。
「へっ!?へへへぃ!」由太郎は駆け上がって布団をめくった、
そこにはやつれ果てた五兵衛の姿があった。
「五兵衛!五兵衛だな!私は津軽黒石藩藩士長岡由太郎だ!私が判るか!」
と老人の枕元にしゃがみこんで大きな声で叫んだ。
するとその枯れ木の様に痩せこけた老人の眼から止めどもなく涙が溢れてきた。
細い腕がせんべい布団の中から伸びてきて由太郎のてをまさぐる。
「お小夜はいかが致した、お小夜は今何処におる!おい五兵衛!」
堰を切ったように思いが吹き出した。
やっと聞き出した話を繋げば、始め江戸に来た頃はこの火葬寺の隠坊(おんぼう)
の仕事にありつけ、糊口(ここう・粥をすする)を凌いでいるという。
隠坊とは寺院や寺社において周辺や墓地の清掃管理、又持ち込まれた遺体の処理から
死体が白骨になるまで火の番をするなどを生業としている者を言う。
火葬寺では、四方に柱を立てた雨しのぎの小屋根を設けた葬場に棺を置き、
日没後に寄り合衆の前で僧侶が読経を終え、役人の鐘の合図で火を放って
これを白骨化するまで焼いた。
その翌日、由太郎はお留守居役に届けを出し再び市中にお小夜の痕跡を求めて出かけた。
お小夜の父親五兵衛の話では、女衒の世話でどこかに奉公に出たという。
その時お小夜は十両で苦海に身を投じた模様であった。
先ずは手始めに吉原からと目的を定め 本所の津軽藩邸からまっすぐに西へ進み、
藤堂和泉守中屋敷前を通り藤代町にぶつかって駒畄橋をまたぎ両国橋へと掛かった。
広小路から柳橋を越え、平右衛門を横切り浅草五問を左に見ながら茅町を北に上がって
地獄橋(天王橋)を越えて成田不動を過ぎ本所から大川橋(東橋)を渡った広小路に出た。
雷門の横の戸口をくぐり仁王門を抜け浅草寺で両手を合わせ、
五重塔や大屋根が冬の青空に寒々と浮かび上がっているのを身を引き締める思いで眺めて、
両手を合わせ、そのまま仁王門に引き返し随身門から再び北上、
谷中の天王寺を西に日本堤を山谷堀にそって西北に進むと山谷堀が二つに分かれる
その先の泥町(田町)に孔雀長屋と言う編み笠茶屋の掛行灯が
20軒ほど土手下へと続いていた。
この辺りで吉原へ入るのをはばかる客は顔を隠すために編み笠を借りた、
借賃は百文(2600円)で、戻りに返せば六十四文(1664円)が戻ってきた。
日本堤から吉原へと曲がる所に吉原で遊んだ客が去りがたい思いを抱いて振り返ったと
いわれる見返り柳があって、これを曲がると日本堤を通る大名行列から
大門の中が見えないように曲がって作られた五十間道(約900米)にかかる、
客が衣装を整えたと言われる衣紋坂をゆらりと曲がりながら下った先が
吉原待合の辻に続く大門がある。
東西南北をすべて掘割で囲まれた俗世から切り離された治外法権の特別区であった。
堀は女郎たちがお歯黒を捨てたために黒くなったと言われる俗称お歯黒どぶ。
塀の高さは五間(9米)
大門の西北に榎本稲荷社、東北に明石稲荷社、西南に開運稲荷社、
東南には九郎助稲荷社が配置され、最深部が秋葉常燈明や火の見櫓があり、
元吉原から引き継いだ水道尻が行き止まりになる。
この水道尻、元々は元吉原に神田上水の水を木造の掛樋で引いた行き止まりの場所であった、
この名前をそのまま引き継いでいただけで、新吉原には水道はない、
おそらく山谷堀も近いために井戸が掘られていたと想われる。
東河岸は羅生門河岸、西河岸を浄念河岸と呼び、この界隈は横町と呼ばれ、
格子越しに比較的手頃な値段で個人交渉の出来る張り見世があった。
持ち合わせの少ない一般庶民は大門をくぐると、
すぐこの横町に入り小見世をひやかして楽しんだ。
ここは時間制を設けてあり、切り見世とか銭見世と呼ばれていた。
見世の格は置いている遊女の値段や評判で決まった。
最上級の見世は「大見世」といい、浮世絵に描かれるような高級な花魁がいた。
次が「中見世」と呼ばれるもので、規模も遊女の質も大見世より一段落ちる。
さらに、一分女郎(昼、夜共に一分)だけがいる見世を「大町小見世」、
二朱女郎(昼、夜共に二朱)が中心の見世を「小見世」と呼んだ。
この他に、前述の「切見世(銭見世)」がある。
同じ仲之町張りをする"昼三"は昼夜共で三分、暮六つに来て
その夜のうちに帰る片仕舞と称する遊びなら一分二朱の揚代で済む。
昼三の次には"見世昼三"という遊女がいた、これは仲之町張りをしない、
ひたすら自楼にこもって、馴染客なり、初会の客なりの来るのを待つ。
このように吉原は遊女にも様々な階級があった。
大門をくぐると右手には四郎兵衛会所、その向かい側には町奉行所から派遣された
御用聞きの詰め所もある。
大通りから仲之町に入ると魚屋や青物市場、酒屋から寿司屋、蕎麦屋に風呂屋、
蝋燭屋、質屋まで揃っており、必要な物はほとんどまかなえたため日常の生活には困らない。
大門は卯の刻(午前6時)に開き亥の刻(午後10時)に閉まる。
日没後再び見世を開き、大門が閉まった後も午前0時頃まで営業していた。
午前2時「大引け」の拍子木が打ち鳴らされ、賑わっていた吉原もこれを境に静まるのである。
男は出入り自由であったが、女は出るにも入るにも四郎兵衛会所で
出入り切手をもらわなければならなかった。
吉宗の時代に人口調査が行われ、吉原内部の総人員が15歳以上の男2375名、それ以下は463名、
女4003名、15歳以下330名、右の内家主182名、店狩り620名、遊女2105名、禿941名、
召使2163名ほどであった。
格の高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋、吉原では
「引手茶屋」に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、
その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。
茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)
が入る仕組みであった。
吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという掟が
あった。
ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、
裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、
髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいた。
由太郎は意を決して大門を潜った、すぐ右手に見える四郎兵衛会所に立ち寄り
「お小夜と申す名の女を探しております、何卒お力を冒しいただけませぬか?」
と正直に話した。
由太郎を一目見た若い衆が
「おいおい 今日び朝からとんでもねぇ野郎が入ぇって来やがったぜ、
お前さん何処の田舎からおいでなさったか知りやせんが、
そんな浅葱裏がうろうろされちゃぁはた迷惑、帰ぇっておくんなさいやし、
と取りつく島とてない有り様。
野暮の代名詞である「浅黄裏」をはじめ、一部のしゃれ者を除いた武士の多くには
大銀杏が好まれた時代、髷尻と呼ばれる髷の折り返しの元の部分が後頭部より後ろに
真っ直ぐ出っ張っているのが特徴で、町人の銀杏髷より髷が長く、
髷先は頭頂部に触れるくらいで刷毛先はほとんどつぶれない。
なかでも野暮ったい田舎の藩主などは髱はぴったりと撫で付けられて、
頭頂部より前にのめりだすような、まるで蒲鉾をくっつけた状態の太長い髷を
これ見よがしに結うものもいた。
また浅葱裏とは貧しい田舎侍が紺の羽織に浅葱木綿の裏地を用いていたことから
ちょっと小馬鹿にした時に用いられた。
その言葉をぐっと喉の奥に押し込んで由太郎
「待ってくれ!私はただ人を探しておる、この場所におるやもしれぬ奉公に出された女だ、
頼むなんとか見つけ出したいのだ、これこの通り」と頭を下げた。
ちぇっ!と舌打ちをしながら
「お侍ぇさん、一体ここにどれだけの女がいるかご承知の上でそのようなご無体なことを
申されて居られますんで?」
言葉は丁寧だが由太郎には慇懃無礼に聞こえた。
「私はただ・・・・・」
「ただどうしろとおっしゃいやすんで? おう お前ぇさん、
この大門は地獄と極楽の彼岸場所、大門くぐりゃお侍ぇもクソもねぇ
銭だけが物を言う浮世、蒲鉾マゲなんぞでうろつかねぇほうが身のお為ってぇもんですぜ、
さぁ帰ぇった帰ぇった!こっちゃぁお前ぇさんみてぇな田舎モンにかまっている暇なんざぁあ
りゃぁしませんのでね」と顎で出口をしゃくってみせた。
「武士に向かって無礼な!」
まだまだ若い由太郎ついつい刀の柄に手をかけてしまった。
「ほぉ 刀に手をおかけなすってどうなさるおつもりで?
ここは吉原2本差しが怖くっちゃぁウナギも食えねぇやぁあはははははは」と罵倒された。
「おのれ、無礼者!」ととうとう刀を抜き放ってしまった。
あっと言う間に人だかりの垣根が築かれたその時
「待て待て!」若い声がして二人の若者が間に割って入ってきた。
「聞いておれば双方とも落ち度もある、
どうだこの場は私の顔を立ててそこ元も刀を引いてはくれぬか?」
と由太郎の手元を抑え、制しながら若い衆に向かって穏やかに話を進めた。
「お前ぇさんは誰でぇ?!」小頭と思える男が一歩前に出てきた。
若者の一人が
「こいつを誰だと想うこいつの親父は火付盗賊・・・・・」と言いかけた時
「おい弥太郎このようなところでお父上の名を出すんじゃァない」
と慌てて制し
「とにかくあちらでゆっくりと話を聞かせてはくれませんか?」と会所の一角へと促した。
その場に居合わせた会所の若い衆も耳をかすった火付盗賊と言う言葉に
いきりたっていた気持ちも萎えたのか少し大人しくなった。
そこへこの騒ぎを聞きつけて会所の名主の大門四郎兵衛が出てきた。
「ここでは何でございますから、ひとまずこちらへお入りなさいませんか?」
とやんわりとした声で由太郎を促した。
偶然この場に居合わせた二人の若者一人は弥太郎と呼ばれた若者阿部弥太郎、
言わずと知れた長谷川平蔵の嫡男辰蔵の遊び仲間、と言うことはもう一人は、
くだんの長谷川辰蔵であった。
本日は巣鴨の三沢仙右衛門叔父上から男の授業料なる軍資金をしこたま頂き
出張ってきたところであった。
四郎兵衛会所は新吉原五丁町名主行事会所と言う所であり、
左は面番所与力と同心二名が昼夜を問わず控えている。
7代目大門四郎兵衛は腰の低い柔和な男で
「先ずはお武家様のお話をお伺いいたしましょう」と由太郎を見やった。
やっと話が通じそうな雰囲気に安堵したのか、これまでの経緯をかいつまんで話し、
その女衒によって奉公に連れだされたお小夜を探していることを話した。
「う~ん」
四郎兵衛は腕組みをしながら
「なんとも辛いお話ではございますが、この吉原には二千人以上の遊女がおります、
しかもそれぞれに源氏名を持ち、元の名前は判りません、
この中で手がかりをつかむということはまずご無理でございましょう。
まぁ出来る事といえば見世を覗き、一人ひとりのお顔を確かめる以外どうにもならないと
存じます」とやはり無理ということには変わらない返答であった。
「それでもとおっしゃいますならばお気の済むようにお探しなされば
よろしいでございましょう、この四郎兵衛が他の名主の方々にも申し添え致しましょう、
それでよろしゅうございますか?」
と由太郎の顔を静かに、だが毅然とした態度で見やった。
「何卒よろしくお願い申す」
由太郎は頭を下げて吉原の中でお小夜を探す事が出来るようになった。
とはいえ、そうやすやすと探せるはずもなく、吉原だけで二月を要した。
いつのまにやら由太郎の事が吉原の中にも知れるところとなり、
お小夜探しは奥のほうまで伝わって、
「あちきにもそのような主さんが・・・・」と羨む声を聞くようになっていたのである。
こうして浄念河岸から羅生門河岸まで探したが要としてお小夜の姿は見つからなかった。
最後の日由太郎は大門四郎兵衛に感謝の挨拶によった。
「おお それは誠に残念でございましたなぁ、この苦海に身を沈めたおなごは
生きてここから出られる者もございますが、そのままここで身を埋める者もおります、
どうかその御方がご無事で見つかることをお祈りいたします」と見送ってくれた。
すでに年は明け、浅い春がもう間もなく訪れようとしていた。
残された時間はさほど無い。
由太郎は他の岡場所へも足を運び探索を続けた。
上司や同僚からの嫌味な言葉もいまではまるで子守唄か励ましの言葉とさえ
思えるほどであった。
松平定信の断行した寛政の改革(1787~1793)で菎蒻島(こんにゃく島・霊岸島)、
あさり河岸、中洲、入船町、半蔵門付近の土橋、直介屋敷、新六軒、横堀、大橋、井ノ掘、
六間掘、安宅、大徳院前、回向院前、三好町、金龍寺前、浅草門跡前、新寺町、広徳寺前、
どぶ店、柳の下、万福寺前、馬道、智楽院前、新鳥越、鳥町、山下、大根畠、千駄木、
新畑、白山、丸山、行願寺門前、赤城、市谷八幡前、愛敬稲荷前、高井戸、青山、氷川、
高稲荷前、三十三間堂など五十五箇所が取り潰されたものの、深川仲町、新地、表櫓、
裏櫓、裾継、古石場、新石場、佃、網打場、常盤町、御旅所弁天、松井町、入江町、
三笠町、吉田町、吉岡町、堂前、谷中、根津、音羽、市ヶ谷、鮫ヶ橋、赤坂、市兵衛町、
藪下、三田の二十六箇所は残った。
これ以外にも水茶屋から飯盛旅籠、果ては船比丘尼に夜鷹となると
探す当てはもう星の数ほどになろう。
由太郎は俸祿が出るたびに米を買い、お小夜の父親の元を訪ね、
合間合間に隣の菜園に手入れをしながらの人探しである、
中々想うように進まない現実がそこに横たわっていた。
こうする間にも帰国の時は迫り、ついに探し当てることもかなわないまま
帰国せざるを得なくなったのである。
「五兵衛、私は一旦殿のお供で帰国致す、だが又必ずや江戸に戻りお小夜を探しだす、
それまで達者で居てくれ、貧者の一灯、少なくて済まぬ」
そう言ってこれまで爪に火を灯すように溜めた金子十両を五兵衛の枕元においた。
「由太郎様・・・・・」
五兵衛は枯れ木のような腕で由太郎の手を握り締め大粒の涙をこぼすばかりであった。
翌々年、葦の角ぐむ頃由太郎は再び参覲交代のお供を願い出た。
上役にも由太郎の一件は知れわたっていたもので、呆れ半分
「何故そこまで」と小馬鹿にさえする者も出ていた。
由太郎の両親さえも
「程々に致さねば、お役を果たしてこそ武士の面目、
たかがおなご一人にその道を間違ぅてはならぬ」と強く戒められた。
親からも周りからも言われれば言われるだけ由太郎の思いは熱く大きくなっていった、
それは若さゆえのことなのかもしれないが・・・・・
こうして、又由太郎の探索が引き続き始まった。
その年も巷に秋風が吹き始めた頃、間もなくして内藤新宿の飯盛旅籠に
それらしきものがいると探し当てた。
街道筋から一つ外れたその旅籠は土地の者や人足たちが多く出入りしている場末にあった。
「いらっしゃいまし!」と一歩入ると奥から低い老けた声が出迎えた。
「いや 泊まりではない、人探しを致しておる、少々尋ねるが、
ここにお小夜と言うおなごは奉公いたしておらぬか?」と切り出した。
「はァン 何だい泊まりじゃぁ無いんで・・・・・」
と由太郎の頭から爪先前じろじろ眺め
「お前さん あの子の間夫かい?」と切り出した。
「間夫?それは一体何だ?」と由太郎問い返した。
「はぁ やっぱり浅葱裏者ンだねぇ、そんなことも知らないなんて!
だからあたしぁかっぺは嫌いなのさ!」
と吐き捨てるように由太郎を一瞥して横を向いた。
「お小夜はおるのか!どうなんだ!!」
由太郎はこのやり手婆ぁの襟首をひっつかんで詰め寄った。
「判った!判ったからこの手を離してくださいよ!」
と急に弱々しい態度に出た。
「あの子にゃぁまだ奉公の貸しが残っているんだよ、
それをお前様が払ってくださるんでござんしょうね!」
と襟元を直しながら見上げた。
「それよりもお小夜は何処におる、早くお小夜のいる場所へ案内いたせ!」
と由太郎は詰問した。
すると女将はふてくされたまま「あの子は労咳に掛かっちまって、
裏の物置に住まわせておりますよ」と奥まった物置小屋に案内した。
炭俵や薪が積み上げられ、日も当たらず人の住めるような場所ではない。
唖然としながら「このようなところへ・・・・」
と言いつつ奥の暗闇を透かせてみると何やら塊があり、
弱々しい息が途切れ途切れに聴こえて来た。
「お小夜?お小夜か?」その声に黒い塊がズレるように動いた。
暗闇の中でその塊を抱き上げ、高い小窓からわずかに漏れる木漏れ日に照らした
その中にお小夜の変わり果てた姿があった。
「お小夜!!・・・・・・」後はもう声にはならなかった。
物置小屋からお小夜のか細い身体を抱きかかえて表に出た由太郎、声を失ってしまった。
閉ざされた物置小屋の中で陽の光を失ってどれほどの時が過ぎたのであろうか、
食べるものもろくに与えれれず、ただ死ぬまでの間放置される、
それが病を患った女郎の定め、娼家の主にとっては厄介者以外の何物でもないのである。
お小夜の眼はもう見えていないようですらあった。
「貴様ぁ!!」由太郎の激情した気迫に恐れをなし、女将はガタガタ震えている。
お小夜を抱きかかえて店に戻ったところを店の若党がばらばらと由太郎を囲んだ。
「そこをどけ!!奉公人をこの様に扱ってそれでもお前達は人間なのか!
人の皮を被った畜生者ではないか!」
由太郎のあまりの気迫に押されて囲んだ輪を大きく拡げ、皆後ずさりをしている。
「まだ奉公の・・・・」と女将が言いかけたものへ
「人を人として扱いもせずその上にまだ何を求める!」と睨みつけた。
「わわわ 解りました、ご自由にお連れください!」と逃げ腰で道を開けた。
表に出た由太郎そばの町駕籠を呼び寄せお小夜を乗せた。
宿駕籠は別名雲助駕籠とも呼ばれ旅人には嫌われていた。
それでも一里が四〇〇文、内藤新宿から日本橋まで二里であった。
今の価格で言えば一文二十六円として換算すれば10400円、この2倍であったから20800円
蕎麦が1杯16文416円程度であるから800文は蕎麦が50杯近く食べられる金額である。
薄給の平侍には目の飛び出る金額であったろう。
おまけに途中で酒手(さかて・チップ)が必要で、これが運び賃の半額、
酒手をはずめばそれなりの効果があるのは言うまでもあるまい。
下手をすれば山の中や川の真ん中辺りで酒手の交渉というハメになる、
これが雲助駕籠の常套手段である。
身ぐるみ剥がすなんてことはないが値上げ交渉は効果的にやったようだ。
無事中村町火葬寺についた時、お小夜の身体は弱り切っていた。
ひと通りお小夜を薄い夜具を敷いただけの床にねかせてた由太郎、
浅草新鳥越町まで足を運び薬種屋を探し、訳を話してみたが、
労咳(ろうがい=結核)は死病と恐れられており、打つ手はないと言うものであった。
「どうすれば良い!?」
困り果てた由太郎は種屋の主に問いなおしてみた。
「左様でございますね、まずは風通しの良い所に住まわせ、
後は滋養のつくものを食べさせる、それ以外無いと聞き及びます」
と、どうすることも出来ない状況を思い知らされるだけであった。
「せめて甘草などを煎じて差し上げられますならば多少の本復も見られるかと・・・・・
甘はまず脾に入ります。
物は酸・苦・甘・辛・鹸(間=塩辛い)の五種類に分かれ、
この五つの味は臓腑とも関わりがございまして、「酸」(酸味)=収縮・固渋作用あり、
肝に作用する。
「苦」(苦味)=熱をとって固める作用あり、心に作用する。
「甘」(甘味)=緊張緩和・滋養強壮作用あり、脾に作用する。
「辛」(辛味)=体を温め、発散作用あり、肺に作用する。
「鹸」(塩味)=しこりを和らげる軟化作用があり、腎に作用する。」
と伝えられております、しかし甘は長く続けるとよくございません、
そのあたりが難しゅうございます、取り敢えずこの度は最小限のお試しをお薦めいたします」
と煎じ薬を半月分120文(19200)支払い譲り受けた。
由太郎は早速これを煮だし、お小夜に飲ませ、五兵衛に粥の支度や薬草の飲ませ方を伝えて
帰藩した。
数日後やっとお暇を許され、飛ぶようにお小夜の元へ駆けつけた由太郎は、
床の中に少し赤みを加えたお小夜の白い顔が目に飛び込んできた。
「お小夜!少し血の気が蘇ったか!」
もう後は言葉が続かず横になったまま小窓から差し込む光のなかで口を利くのも
つらそうな涙にくれる愛しい者を抱え込むだけであった。
「由太郎様・・・・・・」
五兵衛は二人の姿をくしゃくしゃになった顔にいつ果てるとも無く流れる涙を拳で拭った。
こうして半月の時が流れ薬種もひと通りの期限がやってきた。
由太郎の一途な思いが通じたのかお小夜は少しずつ回復の兆しも見えてきた。
「お小夜 本日の具合はどうじゃ?」
本所を出た時通りがかりに棒手振りに出会い買い求めたドジョウを手ぬぐいで包んで
下げ持って入ってきた。
すぐさま鍋をかけ火を炊きつけて「
ドジョウは精がつくそうだ早く元気になって儂や五兵衛を喜ばせてくれ!」
由太郎はドジョウを背開きにして、前の畠でゴボウを抜いて
細く小さくお小夜が口に入れやすいように刻み、ほそぼそと芽吹いている葱を刻み、
懐から大切そうに卵を取り出して割り入れ、味付けといえば僅かな塩を添えるだけ、
それでもささやかな食卓は気持ちでいっぱいあふれていた。
「これはな!抜き鍋と言うてドジョウの頭と骨と腑を抜き、
臭みを取りそこへゴボウを刻みこんで味をつけるだけのものだが滋養満点だそうだ、
卵はこの近くの百姓屋で一つだけ分けてもろうた、もう少しましなものをと思うが済まぬ、
想うようにしてやれぬ儂を許してくれ」割れ欠けている器に熱々のドジョウをついで
お小夜の口元に運ぶ。
「どうした、なぜ食うてはくれぬ?左程に不味いか?」
由太郎はお小夜が想うように口を動かさないのをいぶかって尋ねた。
お小夜は小刻みに震える手で由太郎の手にすがるように握り涙をボロボロとこぼし見上げた。
「よいよい、とにかくお前の本復が何よりだからな、五兵衛も少しは動けるようにならねばなぁ、わしも毎日来てやりたいがお勤めがあるゆえ中々そうも行かぬ許してくれ」
こうしてまばたきをするほどまたたく間に師走を迎えようとしたある日由太郎は
出たばかりの俸祿を抱えてお小夜の元を訪れた。
わずかばかりではあるが餅代と称する手当も出た、不足している米、塩、卵などを買い求め
久しぶりの訪問であった。
近くの農家で干し藁を譲ってもらい、部屋に隙間なく敷き詰めた、
これで床の冷え込みが幾らかは和らぐだろう。
敷布団の中に籾殻を鋤きこんで身体が当たる部分や痩せこけて異様に思えるほど
骨が浮いて少しでも当ると痛むのを少しでも緩和させようと工夫してみた。
「どうだ?少しは身体が楽か?」
由太郎の問に、わずかに微笑みを見せてお小夜は由太郎の腕をまさぐった。
その弱々しいお小夜を由太郎は掻き抱いて涙の出るに任せ背中を優しく撫ぜてやる。
ほっそりとした背骨の感触が薄い着物を通して由太郎の指先に伝わる。
「このわしの胸の中でくつろげる日がいつか必ずややって来よう、
それを夢見て養生してくれよ」いつまでもお小夜の頭を抱え込んで温もりを伝え合っていた。
お小夜も五兵衛も小康状態を続けたまま年も開け、江戸にも葦原に水のぬるみが訪れ、
そこここに角ぐむ葦が水辺に顔をのぞかせるのも、もう間近であろう。
1月に入って中々出る機会が与えられず、やっと許可が出て飛ぶようにお小夜の元へ駆けつけた。
戸を開けると由太郎を認めて五兵衛が、
「お小夜がお小夜が!!」とにじりだしてきた。
「どうした五兵衛!お小夜がいかが致した」
と言いつつお小夜の横になっている姿を見て驚愕した。
息が荒く額に手をやると焼け火箸を掴んだような熱さである。
「五兵衛いつからこのようになっておった!」
いそぎ土間の水瓶から手水に汲み出し手ぬぐいを浸しお小夜の額に置き、
手早く消し炭をおこし湯を沸かして、やせ細った顔や肩口から胸乳と拭って少し身体を
横向きに起こし、何度も湯で温めながら先ずは身体自体が呼吸できるよう
丹念に清拭を済ませた。
師走に訪れたおり洗い替えておいた粗末な衣服に着替えさせる、
それだけで精一杯のお小夜の身体の状態である。
「五兵衛!水は十分に汲み入れておいた、そのままでも手の届くように土間に持ってきておる、
わしの留守のおりはなんとかお前がお小夜の面倒を見てやってくれ、頼むぞ」と五兵衛の手を
とって懇願した。
五兵衛は由太郎の顔を見上げ弱々しい声で「由太郎さまぁ・・・・・・」
それが精一杯であったろうか、せんべい布団にくずれた。
由太郎は湯を沸かし、幾度もお小夜の吹き出す汗を清拭してやり額を冷やした。
どれほどの時が過ぎたのであろうか、
ふと気がついていつの間にか眠りこけていたことに気づいた。
小窓の外を見ればすでに夜は明けて清々しい朝の日差しが1月と言う季節とも思えぬほど
暖かく差し込んでいた。
しまった!門限を・・・・・!由太郎は急いでお小夜の身支度を済ませた。
少し熱も冷めかけたうつろな目で由太郎をお小夜は探し求めている。
「お小夜、儂はここだ!本日は殿のお供で登城せねばならぬ、いそぎ戻らねば間に合わぬ、
許せ!」
とお小夜の手を握り締め、後ろ髪を引きずりながら本所の津軽藩邸に戻った。
当然といえば当然のことながら、すでに登城の行列は発った後であった。
お留守居役が駆け込んできた由太郎を認め
「貴様ぁ本日の御役目をないがしろに致しおって、それでお役が務まると想うてか!!」
激しい剣幕で詰め寄った。
「誠に持って申し訳もござりませぬ、急な病にて看病致しおりましたまま
つい寝込んだものと・・・誠に申し訳ござりませぬ」
と頭を土間にこすりつけて不徳を詫びた。
「愚か者!そのごとき事で大事なお役を投げ出すは怠慢以上のもの、
いかに厳しきお沙汰が下りるやも知れぬ、まかり間違えばこの儂とて
監督不行き届きの責めも負わされるやも知れぬ一大事を、よくもよくも貴様というやつは!!
こうも抜け抜けと申せたものよ、先ずは部屋にて謹慎いたせ」と眉間に青筋立てて叱責した。
夕刻登城から帰藩した藩主から留守居役を通し向こうひと月の謹慎が言い渡された。
「えっ!!・・・・・・・ひと月でござりますか!」由太郎はそれ以外の言葉を失った。
この言葉の重さをこれほど衝撃を受けて聞いたことがなかった。
「貴様だけではない、このわしも監督不行届けの儀ありと殿よりお叱りを被った、
この責めをどう貴様は受けるつもりじゃ」と激しい剣幕で由太郎に迫った。
「お許しのほどを、どうかお許しの程を願わしゅうござります」
もう頭をこすりつけて謝る以外どのような方法も由太郎には見いだせなかった。
「次の参覲交代はお許しも出まい、そこ元の家にもかよにう申し伝えられるであろう事を
今から覚悟しておけ!」激昂したまま留守居役は席を立った。
そのまま由太郎は平侍の部屋から最小限必要な当番の作業と厠への出入り以外は叶わなかった。
なんとかお小夜に連絡を取ろうと仲間の侍にも打診するが、
皆君子危うきにとそそくさとはぐらかして行ってしまい、どうにもならない。
動きの取れない気懸かりな二人の暮らしを、どうにも助ける手立てが思い浮かばない。
悶々とした日々を過ごし、やっと謹慎が解けたが外出の許可は叶わなかった。
こうしてついに国元へ帰藩する日がやってきてしまった。
由太郎は「江戸を去る前に気がかりとなっている者を訪ねたい」
と上司に懇願し、夕刻までに帰藩することを条件にやっとお許しを戴き、
津軽藩邸の道を一つ挟んで藤堂佐渡守屋敷角の質屋(ふくしま)に立ち寄った。
由太郎は暖簾をくぐり
「まこと無理をお頼みいたしたいのだが・・・・」と大刀を腰から抜き出し、
「これを買うてはもらえぬか、人助けの金子が必要になったゆえやむをえぬ選択なのだ」
と頭を下げた。
店の主は驚いた様子で由太郎の眸(め)を覗き入るように見たが、しばらくして
「お困りのご様子、判りました、お刀を拝見させていただきましょう
」と受け取り、懐紙をくわえ 一礼して刀と縁と柄頭につける飾り金具の縁頭の材質や彫り、
刀身が柄から外れないように留め釘を打ち込む目貫の材質や形を拝見し、
鞘尻を向こうに構えすらりと抜き、表・裏と眺め、刀身の長さ・反り・幅・厚さ・刃文・
沸でき・匂いでき・足・造り込み・鍛え肌と働きを切っ先まで見極めた後静かに元に納め、
鞘の色模様など色々と見定めて
「血曇りもなくよくお手入れされてございますが、ただそれだけの物にて
多くは差し上げられませんがそれでもよろしゅうございますか?」と念を押した。
「いくらなら引き取ってもらえるのであろう?」と恐る恐る尋ねた。
精一杯で15両(150万円)ほどならばお引き受けいたしますが、
それ以上はお引き受けいたしかねます」と答えた。
「・・・・・・・」由太郎の反応を見た主が
「その替りと申しますと誠に失礼とは存知ますが、
お腰しの物がなければご不自由と・・・・・この中からお好きな物を一振り
お持ちくださいませ」
と赤鰯(錆びたりして赤イワシと呼ばれる質草の駄剣)を持ってきた。
「かたじけない、ではそれでよろしくお頼み申す」
と15両を受け取り、剥げかけた真塗り(黒漆)の一振りを貰い受け腰に差して出た。
お小夜のために古着屋へ立ち寄り肌襦袢や長着を求め、必要な塩やろうそく、
食料などを買い込み、急いでお小夜の待つ谷中の火葬寺裏に向かった。
駆けつけた小屋の前に由太郎の目に想像だにし得ない光景が飛び込んできた。
戸口が開いた まま小屋の横の由太郎が手入れをしていたささやかな菜園に
五兵衛が前のめりに伏し倒れていたのである。
驚愕の眼差しで小屋に駆け込んだ由太郎の目に飛び込んだのは、すでに身体は硬直し、
ひび割れた唇に手ぬぐいをくわえたままこの寒さゆえに腐敗することもなく
冷たくなっていたお小夜の痛ましい姿であった。
これは水を飲む気力もなく湿らせた手ぬぐいでせめて喉を潤わせたのであろう。
嗚呼!!由太郎は悲鳴を上げて駆け寄りお小夜を抱きかかえた。
「お小夜!!!お小夜!!!!」あらん限りの声を上げて由太郎は絶叫した。
ただただ信じて待ち続け、人も寄り付かない場所のために食べるものが全くなくなり
餓死していたのである。
水瓶はすでに底をついていた、おそらく水ばかり飲んで腹を満たせていたと想われる。
このような理不尽なことがまかり通る世の中とは・・・・・
たった一度の己の油断からうたた寝したために、謹慎処分となり、
それがこの飢餓地獄を生み出したのである。
「お小夜!五兵衛!許してくれ、このわしの不甲斐なさを許してくれ!!!」
由太郎は頭を土間にがんがん叩きつけ両拳を血がほとばしるに任せたまま
涙が枯れ果てるまで打ち付けた。
湯を沸かし、お小夜の身体を隅々まで拭き清め、古着屋で求めてきた洗いたての肌襦袢と
長着に着替えさせ、五兵衛と二人を火葬寺の大八車に並べ、
由太郎は二人の亡骸を南に下ったところにある浄閑寺に運び込み、
刀を売却した金子の残り十三両を供え、脇差しで自らの首を切り裂き死に果てる
「ゆえあり、添えてある十三両にて三名の菩提を弔っていただきたく、
寺社門前を血で汚すことをお許し願いたし。
津軽黒石藩藩士長岡由太郎」と書き置きが添えてあった。
この事件は暫くのちに平蔵の知るところとなった。
久々に菊川町の役宅に現れた嫡男辰蔵が
「父上!過日弥太郎に連れられて吉原に冷やかしに出かけましたおり
妙な武家と出くわしました。
何でも遊女に身をやつした、好いたおなごを探しておるとか申しておりました、
まぁ何と申しますか、そこまで想われれば本望でございますなぁ」
とつい話のついでに漏らした。
「辰蔵!お前ぇ弥太郎に誘われたのではなく、仙どのから戦金(いくさがね)を
せしめたのであろう?」
とニヤニヤ笑いながら問い詰められ
「いやぁさすが父上!中々に鋭い読み!」と頭を掻いたのを思い出した。
「のう佐嶋、おそらく辰蔵の申しておったあの者達であろうよ、
南町奉行所より聞く所によると、寺社奉行稲葉正諶(まさのぶ)様より
津軽黒石藩に事の次第のお知らせがあったそうな。
だがなぁ
「そのようなものは当家には在籍致さず、打ち捨てて下され」
とつれない返事であったそうだ。
侍の掟とは何であろうかのぉ、掟とは人のためにあるものと想うておった、
人が人らしく生きるために政はあると想うておった、だが此度はそれは何の意味もなかった。
不条理とはかようなことを申すものなのか・・・・・・」
平蔵の心のなかに罪とは一体何を指すのかという問が重々しく敷き詰められていった。
不条理は、世界に意味を見いだそうとする人間の努力は最終的に失敗せざるをえないという
ことを主張する。
そのような意味は少なくとも人間にとっては存在しないからである。
この意味での不条理は、論理的に不可能というよりも人間にとって不可能ということである。