忍者ブログ

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

6月第3号 俺の生き方

 
江戸本所相撲

辰巳芸者

     
世は(与力の付け届け三千両)と言われるご時世。
町の治安も乱れ、江戸詰方の目に余る行状に諸藩は町方で犯罪を直接取り締まる与力同心などに
まいないを送るのはごく普通の事であった。

事を穏便に図りたい、この内輪話しの姿勢は商人の間でも必然であり、役人とこれらの癒着は
黙認されていた。

本所深川一体は材木問屋が建ち並び、それを目当ての料理屋、居酒屋が雨後の筍のごとく
増し増えていた時代である。

南町奉行所本所町廻役与力黒田左内、本日もいつもの様に朝からのんびりとこの界隈を
流していた。

「喧嘩だ!喧嘩だ!!!」
バタバタと人が駆け寄ってゆく、まぁいつもと変わらない見慣れた風景である。

ここは本所二ツ目橋を南に渡ったところの弥勒寺門前、二十歳前の若者が数名の
遊び人風体の男どもに取り囲まれ抜刀している。

いずれも匕首を構えての真渡り、(こいつはいかん)左内は十手を懐から抜き出し
「南町本所見回り与力黒田左内である、双方とも獲物を収めよ」
と叫びながら駆け寄った。

その姿を見て
「クソォ!おぼえてやがれ!」
罵声を残して遊び人風体の男どもは逃げ去った。

「やれやれ また若様ですか・・・・・・
喧嘩も程々になさりませ、母上様が嘆かれましょうぞ」
とその若者を諌める。

その若者は左内を見ながら吐き捨てるように
「俺のことなどどうでもよいのだ!所詮俺は要らぬ子、何処で何をしようがお構いなしだ、
こんな世の中面白おかしく生きるのがどうしていけねぇんだ!」
と喧嘩仲裁でくすぶったままの気持ちを左内に投げつける。

見れば何日も着替えをした形跡もないひどい有様である。

「若様! 若様はご大身のお旗
本、我らと違ぅてご身分がございます、
それを軽んじてはなりませぬ」
と諭す言葉にも耳を貸す様子すら無く
「うるさいなぁ俺のことは放っといてくれ!お前には関係のないことだ!」

顔は土埃に汚れ袖口はほころびかけ、まるで野獣のような荒々しい姿でその場に座り込む。
「若様 人は皆それぞれ定めを持って生まれてまいります、
若様には若様の為さねばならぬものがこの世にございます故、
こうしておられるのでございますよ、それを見つけ出すために、
人は歯を食いしばって日々を過ごしております。

人は短い生涯をどのように生きたかではなく、生きた証を残すためにどう生きるか
それが最も大切なことでございますよ、日々喧嘩三昧に明け暮れてそれが見つかると
お想いでございましょうか?」

黒田左内の言葉はこの若者の中に少なからず小さな明かりを灯したようである。

若者の名は人呼んで入舟町の銕三郎 後の長谷川平蔵その人であった。

深川北川町万徳院圓速寺を東に、前の坂田橋を渡り緑橋を越えて千鳥橋を過ぎ、
北に進むと松永橋が見えてくる、それを西に曲がれば今川町仙臺堀の桔梗屋に着く、
その(桔梗屋)・・・・・・

「染ちゃん、又木曾やの旦那さんからご指名だよ」と女将の菊弥が手もみしながら
愛想を浮かべる。

「またでござんすか、嫌だねぇあんな嫌味な奴のお座敷なんか断っておくんなさいよ姐さん」と、染と呼ばれた黒い羽織を粋に羽織った娘が飲みかけのお茶を長火鉢の横に
(タン!!)と置いて応えた。

「そうも言ってられないんだよ、こっちも客商売なんだから、ね!
嫌でも相手はお大臣様ってわけだからさぁ」
どうやら懐にいくばくかの金を握らされているようである。

「後生だからさぁねっ! 嫌だろうけどお願いだよ!、
ほんのちょっとの間でいいからってことだからねっこの通り!」と両手をすりあわせて拝む。

「はん! 蝿じゃぁあるまいし、両手合わせて弁天様でも拝むような顔しないでおくれね!
こっちは気分がすぐれないんだよ!」
伝法な口調はこの界隈の芸者の気質。

何しろ吉原を相手取り江戸でも一番の岡場所がひしめく界隈であり、
その相手は相撲取りから木場の木遣り職人、荷船船頭、江戸市中から流れこんできた逸れ者、
半助なぞの博徒なぞあらゆる階層の者が集まり徘徊する南本所一体、荒っぽいのが
当たり前である。

口より先に手が出るほど喧嘩っ早いがからりとした男伊達が売り物である。

役人の目をかすめるために男勝りな名前を使い、羽織を掛けてのいでたちは
辰巳芸者と呼ばれるほど異種な存在であった。

この(染千代)桔梗屋では一番の稼ぎ頭、女将の菊弥も一目置いている存在である。

「ちょいとだけでござんすよ!」
と染千代は渋々二階へ上がっていった。
「お待たせいたしました・・・・・」
眉一つうごかさず客の顔をじっと見据ええてのあいさつ

「おう 染千代 よく来ておくれだねぇ!
ささっ まあまあこっちに座ってまずは注いでおくれ!」
派手な形(なり)で成金お大尽丸見えの材木商木曾やが待ち構えていた。

染千代は木曾やの左側に座り、扇子を胸元に納め徳利を捧げた。

「なぁ染千代 この前からの話し、考えておくれだろうね、悪いようにはしないから、
ねっ どうだい?」
蛇のような冷ややかな目つきで眼を少し流すように染千代を見た。

「旦那!この前のお話ならきっぱりお断りいたしました通り、
私には囲い者になんぞなる気は一切ござんせん」
徳利を膳の上に置いて、木曾やの顔を睨み返した。

「おまえさんそんな心得方でこの界隈を生きて行けると思っているのかい?」
と木曾や

「今度は脅しでござんすか!そんな脅しでなびかせようなんて、ははん!
男を下げちまいましたねぇ木曾やの旦那、この深川芸者の度胸をご存じないとは
所詮が田舎者、粋な遊びの一つも覚えて出直すんだねぇ」
と小気味のいい啖呵を切った。

「なななっ 何だと!甘い顔を見せりゃぁつけあがりおって、わしをなんだと思っているんだ」

「はん!ただの色ぼけ爺ぃじゃござんせんので?」

「おのれ、たかが芸者風情がなめたことを言いおって!
此処でわしの顔を潰せばどうなるか判っているのか、
明日からここら辺りじゃぁ生きて行けないことになるんだぞ」

「おや?さようでござんすか、ならやってみてもらおうじゃぁござんせんか!」

「お、おっ染千代!!」木曾やはよろよろ立ち上がり、
染千代を後ろから羽交い締めにして染千代の胸元に手を挿し込もうと伸ばした。

「何しやがんでぇこの唐変木!」
染千代の右手が珊瑚玉の一本かんざしに掛かった。

「ぎゃぁ」
と木曾やが悲鳴を上げて手を染千代の胸元から引きぬいた、
その右手から真っ赤な血がぷっと吹き出した。

「誰か来ておくれ!染千代が私を殺そうとかんざしで・・・・・・!!!」

染千代が急いで階段を駆け下りたところへ若い衆がずっと詰め寄った。
いずれも木曾やの用心棒である。

「どいとくれ!女を手篭めにしようなんて魂胆が許せないんだよ!」
染千代の気迫に一瞬たじろいたすきを突いて、だっ!と外へ飛び出した。

「あいつを逃すんじゃァ無いよ!」
右腕を手ぬぐいで抑えながらよろけつつ木曾やが下りてきた。

「だだだ、旦那ぁ!どうぞご勘弁を!」
とすがる女将を蹴たおして

「覚えておいで!明日から商いが出来ないようにしてやるからね」
と口汚く罵りながら出て行った。

この日平蔵は登城後昼を過ぎて清水御門前の火付盗賊改方役宅を出た。
「本日は本所に戻ろうと思う故、何かあらば本所の方へつないでくれ」
筆頭与力佐嶋忠介にそう言づてて表門から出かけた。

見廻るその前に南町奉行所に顔を出し、父宣雄が京都西町奉行職に就いたため
供をして京にいた頃知り合った池田筑前守長恵に目通りし、しばしの時を費やした。

それからゆらゆらと鍛冶橋御門を出て、炭町から弾正橋を渡り本八丁堀を突ききって
高橋を渡った。
東湊町を広大な松平越前守下屋敷を右に眺めながら、長埼町から銀町へ、
二ノ橋を渡り南新堀に出る。

豊海橋を越えて高尾稲荷前の大川をまたぐ永代橋を越えて渡りきったところが佐賀町、
右手には御船手組の御船蔵が見える。

これを左に取り、中の橋を北に進めば仙臺堀に架かる上ノ橋、その先の御船蔵を左に取ると
そこは万年橋・・・・・・いつも平蔵が通る道の一つであり、
この小名木川北詰を東に取れば高橋・新高橋を越したところに扇橋があり、
それを南に下れば石島町、平蔵の密偵小房の粂八が守る船宿”鶴や”があり、

小名木川を北にとって万年橋を渡り東へ取り俳人松尾芭蕉が(古池や・・・・)
と詠んだとも言われている芭蕉ゆかりの紀伊徳川家下屋敷裏を北に上がり猿子橋・
中ノ橋・北の橋・を横目に六間堀を進み、山城橋・松井橋に突き当たったところが竪川、

松井橋を東に折れ、松井町二丁目に架かる二ツ目橋を越えるとそのたもとに言わずと知れた
軍鶏鍋や五鉄が待ち構えているわけだ。

幼少の頃より駆けまわった、いわば平蔵にとっては目をつむっても行ける地域で、
多忙を極める平蔵にとってしばらくぶりの本所深川である。

時は大川が夕闇を少しづつ飲み始める頃となっていた。
永代橋を渡って千鳥橋を渡り仙臺堀に歩を進めていた時、
松永橋の方から駆け出して来た女とぶつかりそうになった。

「おっと!」

平蔵は素早く横っ飛びに避けて女をかわした。
みれば芸者の姿であるが、裾を左片手に持ち上げ、素足のままである。
そのうしろから

「野郎あそこを逃げていやぁがる」
大声で叫びながら見るからに遊び人風の男どもが尻からげで追ってきた。

「おい待て待て!」
平蔵は女を左手で背に回し、右手は刀の柄に掛けて男どもを制した。

「旦那ぁそいつをこっちにお渡しくだせえやし」
中でも少し格上と思える男がいんぎんに口を出した。

「おう これかえ?」
平蔵はチラと後ろを見るように眼を流しながら、あくまで阻止するふうに腰を落とし、
「話によっちゃぁ渡さぬでもないが・・・・・・のう女!」

「旦那ぁ・・・・・そんな!」
女は平蔵の背に右手をかけて少し力を入れた。

「おう 旦那此処は深川だぜ、野暮は言いっこなしでおとなしくそのアマ、
こっちに渡したほうがお為ってもんですぜ」
ドスを聞かせて格上と見える男が一足歩を進めた。

「まぁ待て待て わけも聞かずハイ左様でと差し出すにゃぁちょいと惜しい美形、のう」
と女を振り返りつつ 
「理由を言えねぇのかえ?ええっ!」
と平蔵も伝法な口調で亙(わた)った。

すると、中の一人が
「そのあま よりによって材木問屋の寄り合い頭にかんざしで傷を負わせて逃げやがった
ふてぇ奴、御託を並べずこっちに渡してもらおうかい、それとも何かい・・・・・・」
と片足を引いて懐に手を差し入れる。

「ほほう それとも何か?こっちで盗ろぅてぇ話かえ?」
じっと相手の動きを制しながら平蔵粟田口国綱の鯉口をプツリと切った。

「二本差しが怖くっちゃぁ鰻も食えねぇ!野郎やっちまえ!」
一斉に匕首を構えバラバラバラと左右に散り、二人を取り囲むようにジリジリ
その輪を狭めてくる。

平蔵、ゆっくりと女をかばいながら背に掘割を見据えて一歩二歩と下がった。
退路を断った形に、女は怯えたように平蔵の背中に寄り添う。

「少し離れておれ、その柳の陰に居ればでぇ丈夫だ」
平蔵、女をゆっくりと離しながら正面と左右に男どもを誘った。

これで最早退路はないものの、背後から襲撃されることだけは避けられる。
つまり女に災いが降りかかることだけは避けられたのである。

左横手に回った男が平蔵の脇を目指して匕首で一気に突きに入った。
体を間髪反らせて切っ先を泳がせ、男の足をすくったからたまらない、
そのまま目の前の掘割に飛沫を上げて飛び込んだ。

「クソなめたまねしゃがって!!」

今度は右から脇を固めた姿勢で打って出た
平蔵は腰だめにためた柄をつきだした。

「ぐえっ!」
悲鳴を上げて腹を抑え、その場に崩れ落ちた。

「ややややっ野郎!」

今度は一気に三人が匕首を構えて直して突き進んできた。

「懲りねぇ野郎どもだなぁ」
平蔵は粟田口国綱を鞘ごと抜き出しパパパッと叩き伏せ二名は
そのまま掘割に叩きこまれてしまった。

最後まで残っていた影がずいと前に出た。
(侍ぇ崩れだな、だがこいつは少しばかり出来る)

平蔵は女に
「下がっておれ」
と促してゆっくりと刀を腰に手挟みながら目で牽制しつつ一歩前に踏み出した。

その動きを見切ったように浪人は抜き打ちにすさまじい気迫で胸板めがけて突き出した。
ビィ~ンと刀のぶつかる音とともに平蔵の半分抜きかけたしのぎに火花が散り、
鋼の焦げる匂いがする。
(しのぎとは刀の肉厚の部分で、鎬(しのぎ)を削るとはこの部分が磨り減るほど
激しく争うという意味である)

平蔵は素早く刀を相手の鍔先に逃し、滑らすように刃を振り抜きざま返す刀で切り下げた。
(ぎゃっ)と悲鳴を上げながら男が右肩口を抑えた。

その腕にはもう剣はなかった、仄かな明かりに照らされた川縁に鈍く光を放って
刀を握った腕が転がり、血にまみれていた。

「おい 早く手当をせねば命取りになるやも知れぬぞ!」
と川から這い上がった濡れネズミに声を飛ばした。

「この礼は必ずやするぞ」
男は手ぬぐいを押し当てて、呻きながらその場を去ってゆく。

「危ういところを・・・・」
と頭を下げる女に

「ところでお前ぇ一体何があった?」
と尋ねた。

「どうってことはありませんのさ、女一人をものにするのに脅しすかしで出来ると
踏まれちゃぁ深川芸者の恥ってもんでござんすよ」
と、言い放った。

「気の強いおなごだのう、したが・・・とにかくその形ではどうにも格好がつかぬ、
籠を拾って・・・・・おい誰か籠を拾ってくれぬか!」
と、そばの店先に声をかける。

しばらくして町籠がやってきた。
「まだ奴らが見張っているやも知れぬ、どこまで帰ぇるんだい?近くまででも見張ってやろう、
おっと 送り狼なんてぇんじゃァねえから安心しなあははははは」

平蔵は遠くでこの光景を見張っている男たちの眼を感じ、そう聞こえよがしにかけた。

ゆらゆらと籠は南に下った深川北川町万徳院圓速寺そばで止まった。
「今夜はでぇ丈夫だと思うぜ、明日から難儀だがなぁ」
平蔵はそう言って裾を返そうとした。

「あのぉお名前だけでも・・・」
と、しおらしい口調が追いかけてきた。
「おれかい?ただのやさ浪人だよ、気にするこたぁねぇ、
戸締まりだけはきっちりやっておけよ」
と踵を返して菊川町の方へ歩みを進めた。

両手を合わす染千代の忍び香(誰が袖)の気配が闇の中に静かについてきた。

その翌日平蔵は昨夜のことが少々気がかりで、朝餉を済ませると
「ちょいと出かける」
と妻女の久栄に市中見廻りの支度をさせて表門から出かけた。

(いやどうにも心配なことだ、奴らがあのまま済ますわけはねぇ、
収めるところへ収めねばまたけが人が出るやも知れぬ)

そんな思いを巡らせながら、昨夜送り届けた深川北川町万徳院圓速寺に向かった。
伊予橋を渡り北ノ橋を越えて万年橋を過ぎ、大川の穏やかな流れを右に見ながら更に
下がって仙臺堀に架かる上ノ橋をまたいで東に取り、今川町にある料理屋桔梗屋を覗く。

店は昨夜の事件を忘れたかのように静かに戸締まりの中人の気配すらしない。
(うむ まだ店は開いてはおらぬか・・・・・・)平蔵はそのまま仙臺堀を川沿いに進み、
松永橋のたもとを南に折れて豊島橋を越えて千鳥橋を渡った。

その東側に油堀をまたぐ緑橋が架かっている。
往来する川船の慌ただしく行き来しているのを平蔵は眺めながら南下して坂田橋を越えた。
油堀に沿って進むと、万徳院圓速寺の大屋根が見えてきた。
その中ほどに目指す家がある。

ささやかな開き戸を開けるといきなり目の前に何者かが飛び出してぶつかりそうになった。
「おっと!」
叫ぶと同時に右に身を捩って衝突をかわした。

「あっこれは失礼を」

「いや こちらこそ急に開けてすまなんだ」
と互いに会釈をして顔を上げ
「あっ 昨夜の・・・・」

「おう変わりがのうてよかった」
それにしても・・・」
と平蔵

「それにしても?」

「いや何・・・・ははははは」
平蔵は頭を掻き掻きバツの悪そうな顔で素顔の女を見た。

「今日は出かけませんのでこんななりで」
と化粧っけのないハツラツとした笑顔がそこにあった。

「まぁお茶でも差し上げたいと存じますが、よろしいので?」
と前掛けを外しながら振り返った笑顔の口元から笑みがこぼれていた。

「父上! こちらの御方が昨夜私の危ういところをお助けくださったお武家様でございますよ」
と奥に声をかけた。

(やはり武家の出の者であったか)平蔵は少し得心がいった風に歩を進めた。
縁側に腰を下ろし咲き誇るささやかな庭の花々に目を細めていると、

「このような姿でご無礼仕る」
そう断って質素な風体の七十前と見受けられる老人がゆっくりと出てきた。

「これは・・・・・」
言葉に詰まった平蔵の顔を見ながら

「いやいやお気遣いなく、もう四年になりますかなぁ、無理がたたったのか、
身体があまり良くなく、長いお役を退いてこうして長屋住まいをすることになりました。

糊口(ここう=おかゆ、つまりほそぼそとした質素な暮らしぶりの意)をしのぐとは申せ、
昨今の町で中々おなごの仕事はございませぬ。

それでやむなく勧めもあって、昔習い覚えた芸事が役に立とうかと苦海に身を落とさせて
しもうたわけでございます、誠に持ってお恥ずかしい・・・・・」
とその家の主は平蔵の突然の訪問を快く出迎えた。

「何を申されます事やら、身共とていつ何時そのような境涯が訪れるやも知れませぬ。
生きてゆくとは真二つの道を日々選びながら過ごしておるように思いまする。
身共はこの界隈が懐かしゅうて時折見回るのでござりますよ」
平蔵塀越しに圓速寺の桜のあでやかな姿が大屋根を背にほころんでいるのを眺めている。

圓速寺には”め組の喧嘩”で知られる相撲取り四ツ車大八の墓がある、
またこの頃は江戸市中から運び込まれる膨大なごみや糞尿の捨場であったために
積もり積もったこれらが腐葉土となり肥沃な土地が形成されていた。

その寛文年間(1661~1672)に篤農家(とくのうか=熱心な研究家)が油紙を継ぎ合わせて
野菜の苗の上を覆えば成長が早まり、落ち葉やゴミの上に土を置いて種を蒔くと
芽が早く出ることを発見、この野菜の促成栽培法を工夫し普及させた松本久四郎の墓がある。

それに陸奥弘前藩家中千葉源左衛門の子で江戸市村座で長唄の立を務めたお座敷風長唄の
荻江節創始者荻江露友(ろゆう)の墓も残っている由緒ある寺である。

「見まわるとおっしゃいますと?」
奥から出てきて茶を勧めながら染が口を挟んだ。

「おおこれは失礼をいたした、まだ名乗っておらなんだ許されよ、身共は長谷川平蔵、
いやぁ昔この界隈はわしの庭でござってのう、特に南本所入江町辺りは懐かしくもあり
悲しくもある特別な所でござるよ」
と苦笑いをする平蔵に、それを聞いた老人が身を乗り出して・・・・・・

「もし・・・もし間違いとあらばお許しを・・・・・もしや幼少を銕三郎さまとは
申しませなんだか?」
と眼が一瞬輝いた。

「おっ 何故それを・・・・・確かに身共は二十歳前はその名前でござった。
だがそれをどうしてそこ元が」
と、今度は平蔵が驚いた。

「これお染、そなたが子供の頃よくわしが話していたであろう、入江町の暴れん坊・・・・」

「はい よく覚えております、あのお方がおいでにならなくなって入江町も静かになったが
寂しい町になったとよくこぼしておられましたので」

「そのお方よ、長谷川の若様銕三郎さまだよ、ほんに夢の様でござりますなぁ若様!」

「おいおい ちょっと待ってくれよ、先ず若様だけはやめてくれ、おれも見ての通りこの歳だ、
で そこ元は?」

「お忘れになられるのも無理はございますまい、幾度かお目にかかっただけのことで
ございますから、あの頃私は南町奉行所深川町廻り役与力を勤めておりました」

「なんと!あの時の・・・・・・忘れはしておらぬ、ふむもう二十年にもなるかなぁ、
あの頃のわしは、はぐれ鳥のように身も心もすさみ枯れ切っており、本所の銕、
入江町の銕っつあんと二つ名で呼ばれ、無頼の限りを尽くしておりもうした。

その頃そなたの父上がこの我が身を諌めてくれもうしたのだよ。
その言葉は今も忘れることはござらぬ、いやあの時の諌めがなくば
今のわしはおらなんだであろう、これこの通り、改めて礼を申しますぞ」
平蔵は深々と頭を垂れた。

「長谷川様もったいない!私も当時は商人や大名の抱え込みが嫌で嫌で幾度与力のお役から
逃がれようかと迷うたことか、商人や諸藩上屋敷からの付け届けを懐に
何事も見て見ぬふりをする同輩が情けなくて情けなくて、
ですが、せめて私だけでもまっとうにありたいと思う気持ちでこの深川を廻りました。

そのような中で長谷川様と出遇うたのでございますよ、その清々しい顔に苦しみの影を見た時、
何と哀しい眸(ひとみ)をなさっておいでだと想ったのでお声をおかけしたのでございます、
それが今や火付盗賊改方の長官にまで、こんなに嬉しいことはござりません、のうお染」

左内は溢れてくる涙を袖で拭いながら我が子の事のように喜びを表してくれる。

「はい このように輝いた父を久しく見たことがございませんでした、
長谷川様時折はこの家にもおみ足をお運び下さいませ、
どんなに父が元気を取戻しますことやら、ねえぇ父上!さようにございませぬか?」
と、染は目をキラキラ輝かせ、居住まいを正している父親を見やった。

「いや身共も何と申すか亡き親父殿に会ぅたような心地でござる、ぜひ又寄せていただこう」
平蔵、軽く受けながら
「ところで昨夜の事じゃが」
と、話を昨日の事件に振り向けた。

「はい 木曾やの件でございますね。」

「うむ、あ奴の用心棒の片腕も頂いてしもうたゆえ、何かうごめくやも知れぬ、
この所しばらくはすまぬがこの家(や)からあまり出ぬように、
奴らはこの家を存じてはおるまいのう?」

「はい 家までは誰にも教えてはおりませぬので」

「あい判った!その方は身共に任せていただきたい、片がつくまでの辛抱じゃ、
その間父御殿の看病をな!頼みおきますぞ」
そう言って平蔵は見回りに出かけていった。

深川仙台堀の桔梗屋に顔を出し、
「染千代のことで何かあらば火付盗賊改方長谷川平蔵が仲を取る故、
いつでも出かけてまいれ」
と伝言した。

その翌日清水御門前の役宅に北町奉行所の与力が訪ねてきた。
「こちらにお預かりの深川蔦屋内染千代の身柄をお引き渡し願いたい」
という申し出でございますが、いかが取り計らいましょうか?」
と筆頭同心酒井祐助が取り次いできた。

平蔵自ら玄関前に出張り
「ほう そのわけは何でござろう?」
と、平蔵立ったまま問い返した。

「木曾や殺害未遂の容疑でござる」
四十過ぎと思えるその男は朱房の十手を献上帯にたばさんだ八丁堀伊達の強面であった。

「うむ その件ならば確かに身共が関わってござる、で、木曾やの傷はいかがかな?
すでに痛くも痒くもござるまい、ならばこうお伝え願いたい、
火付盗賊改方長谷川平蔵の命を狙った男の右腕を切り落としたのはこの長谷川平蔵、
そのわしの命を狙わせたのは何処のものか存ぜぬが、こたびはこちらからそこ元の上司に
この件につきお尋ねいたしたく、近々推参つかまつるがそれでよろしいか?」
と、きっと睨んで返答を待った。

「ははっ!! その儀はそのぉお奉行には関わりなく、与力係にて・・・・・」

「馬鹿者!帰ぇって木曽やに伝えよ、何かあらばこの長谷川平蔵がいつでも出張るとな!」
平蔵のすさまじい剣幕にたじろいて

「ははっ!!恐れ入りました」
と、ほうほうの体で退散した。

こうして事件は一件落着。
染千代は今まで通り桔梗屋の看板を背負って、深川辰巳芸者の気風を背中に
今日も生きのいい啖呵を吐いている。

木曾やは袖にされた腹いせに染千代を襲わせたことが知れてしまい、
この界隈に姿を見せることはなかった。
無論密かに平蔵が流した流言(うわさ)話であろう。

それからちょくちょくと平蔵の姿をこの深川圓速寺界隈に見られるようになった。
その日は朝から明るく華やいだ声が一日中聞こえていたという。

「おられるかな?そこで出会ぅた棒手振(ぼてふ)りがコヤツを持っておった故、
下(さげ)て参った」
平蔵が何やら竹籠をお染に差し出した。頃は初夏の爽やかな川風がたもとを掬う六月

「まぁきれいな鮎」

「ウム早速骨酒でこう!1杯・・・・」
と、盃を空ける仕草を見せる。

「まぁ長谷川様ときたら、いつもお酒がついて回りますのね」
と楽しそうにお染が微笑んだ。

「春ともなればカジカの骨酒が最も珍味、じっくりと遠火にて焼き上げ、熱燗で蒸らして・・・・・いかんいかん思い出してしもうた、あははははは。

鮎はな!こうワタとウロを取り除き、塩少々を振り、こんがりと焼く、
大きめの器に鮎を入れ熱燗の酒を二合ほど入れてしばらく置く、
さすれば何ともこの薫りのよき、
まさに香魚と呼ばれるように得も言われぬ薫りがするのじゃ」
もう平蔵がその光景を目のあたりに見るが如き顔つきに、
お染は思わず「うふふふふっ」と笑った。

「可笑しいかえ?」
平蔵は真顔でお染の顔を見る。

「この鮎は年魚と申してな、一年でその生涯を終えるところからさよう呼ばれるそうじゃ。
己が一代にてすべてのことを成就致す、いやそこにまた新たな価値を見出だすのであろう。
我が身を振り返る時左様に終えることができようかとな、あはははは。
おうおう 親爺どのには骨酒があるがそなたには鮎雑炊も良かろうと思うてな・・・・・

こいつには頭、ワタ、ウロコをのけて洗い、三枚におろし、身と骨にかるく塩少々を振りかけて
焼くのじゃ、土鍋に鰹の出汁をとり、焼いた背骨を入れて少々煮出さば、骨を取り出し、
洗ぅて水気を切った飯を入れて再び煮る。

煮立ったらば鮎の身を乗せ溶き卵を回し入れて蓋をいたし、火を止め、
ちゅうちゅうタコかいなぁと六っぺん数えて蒸らすそうな。
むふふふふ どうじゃ美味そうではないか!これにな 紫芽(むらめ・赤しその双葉)や
三つ葉を飾れば出来上がり!いかがかな?我らはこっちの方・・・」
と 盃を空ける真似をして、
「そなたはこの鮎雑炊・・・・・」

「あら 私は骨酒を頂けないのでございますか?それは片手落ちと言うものでございますよ、
私とて武家の娘、酒々のいただき方も心得てございますのに、仲間はずれはひどうございますよ
ねぇ父上」と少々おかんむりの様子に、

「いやこいつばかりはのう親父殿・・・」
と助け舟を出すが、

「あっ おなごに飲ますにはもったいないと・・・・・」

「うっ 左様なことではござらぬが、いや困った!」

「あれ 何がお困りで・・・・・・」

「ふ~む 親父殿お染どのは酒々は強うござるか?」
再び左内に救いの手を求めたものの

「もしや長谷川様はこのわたくしがうわばみかと・・・・・まっ!それはあんまりな、
父上の仕込みもございまして少々は嗜みますが・・・・・」
染は口を一文字に結んで平蔵を見返す。

「うむ あれば一升でも二升でも嗜むとか・・・・・」わはははは

「ひどいことを!もう知りません」
と染は大むくれである。

そんな二人のやりとりを左内は団扇をゆらゆら揺らせながら目を細めて眺めている。
このような事があった後、染千代に幾度も見受けの話が持ち上がったものの

「私の心を動かせるほどのお人はただ一人、そればっかりはまっぴら御免をこうむります!」
ときっぱり断るので、やがてそのような話は立たなくなったと言う。

後に染千代は桔梗屋を始めとする界隈の芸子に習い事を教える事を生業にするようになり、
平蔵の元へもたらされる華やぎ界などの動きが、幾度も事件解決の糸口につながったと
言われている、その陰に染千代の働きがあったことは言うまでもあるまい。

お染の父親左内が七十を1つ2つ超えて天寿を全うしたおり、あたり構わず号泣したのは
平蔵であった。
無頼の平蔵を温かく見守り育んでくれた亡父長谷川宣雄の姿を重ねていたに相違いあるまい。

「人は何かを目的に生きてゆく、それを見つける為に人は生きている、どう生きたかではなく、どう生きるか!そこが何よりの大事」
左内の言葉は平蔵終生忘れない垂訓であった。

文化十四年十一月亀戸天神に木喰上人によって太鼓橋が落成、その時橋の形に結ぶ帯を
時の歌舞伎役者瀬川菊之丞が流行らせていたものをさらに発展させた形に考案して、
深川芸者が揃ってこれを締め、渡り初めをした事から始まった帯の形お太鼓結び、
これを工夫したのがこの染千代であったとか。

拍手[0回]

PR

6月第2号 周防の風 ゆうれい寿司






この日も平蔵は単衣の擦り切れた長着の上に
洗いざらしの馬上袴を着けて市中見廻りの用意を始めた。

内儀の久栄は、この所平蔵がいそいそとこの支度を好むので、
どこか腑に落ちない風で「本日も目白でございますか?」
と問いただす。

「うむ ちと諸用があってな・・・・・」

平蔵はと見るとどこかウキウキとした紅潮が感じられる。

このような平蔵の態度は、平蔵が姑の長谷川宣雄に付いて
京へ上った時によく似ている。

「銕さま、都は江戸とちごうて華やぎの多いところゆえ・・・・・」
と、あちらの方を心配するのを

「拙の事は案ずるな」
と意気揚々と出かけ、浮き名を流したことも判っている。

袖に包んで、愛刀粟田口国綱ではなく、
鞘も剥げかけた赤鰯を差し出せば
「行ってまいる」
とそそくさと裏木戸を抜け出す。

実はこのところ面白い店を見つけたのだ、
名は(茶巾)ただそれだけのものだが、此処の茶がまたうまい。

「何ともこの味わいが旨い」
平蔵は久方ぶりの旨い茶に出会った。

「おやじ この茶は何処のものだえ?」
好奇心旺盛の平蔵納得がいかぬ様子である。

「へぇ、釜炒り茶と言いやして、茶は裏の畑で作っておりやす、
カカアが若くて柔らかい茶葉を摘み取りやす、
こいつは一芯二葉と言いやして、一本の芯に葉が二枚のものを
すぐに熱くさせた鉄鍋に入れてよく混ぜながら、
しんなりするまでかき混ぜやす。

しばらくすると青臭さが消えて良い香りに変わりやす。
そこで茶葉を出して風を入れながら冷ましやす。

そのあと葉を茣蓙(ござ)に振り拡げて水気を飛ばし、
茶葉を転がすようにしっかりともみますと水気が更に飛びます。

水気がなくなるまでこれを繰り返して、その後茶葉を揉みながら形をつけ、
摺り合わせて細く針のように仕上げ、光るようになるまでくりかえしやす。

「なるほどなぁ それでこの香りがまた格別なのじゃな?」

「へぇ鉄釜で煎られた茶葉は特に薫りがよろしゅうございやす、
それに又色目が綺麗で黄金色に輝くのが上質と・・・・・」

「う~む まさにその通りよ、この色といい香りと言い中々に至福の時じゃ」

「ありがとうございやす」

「ウムそれにな、この菓子、こいつが又旨い」

「ははぁ お気に召しましたでございやすか」

「うむ こいつは一体ぇ元は何だえ?
口当たりからは芋のようであるが・・・・・」

「あははは お武家様 よくお判りで、
そいつは芋を薄切りにしてカラカラに乾かし、
それを蒸かしてお天道さまに乾かしていただくんで」

「やはり芋であったか、それにしてもこの甘さは又・・・・・」

「幾日もお天道様に乾かしていただきやすと、
飴のような甘みが出てまいりやすこれをすりつぶして茶巾で包み、
形を整えやす」

「ふ~む それで絞った形が残るというわけだな、
それで茶巾か、わははははいや恐れいった、
それにしても茶と言い茶巾包と言い、中々に手間ひまかけた物よのう」

「お武家様 なんであれ、手間暇惜しめばろくなものにはなりませんや。
手間がかかる・・・・・・こいつぁいけません、
ですがね、手間ひまかける・・・こいつぁ先が楽しみで
それだけの値打ちが出ようってもんでございやすよ、

あっしはその手間ひまかけた末のものをお客様が楽しみ、喜んで下さる、
それを頂くのが一番の贅沢かと・・・・・・」

「おお こいつは良いことを聞いた、なるほどなるほど まさにその通りじゃ」

平蔵はこのどこにでもいるおやじの言葉が大いに気に入った様子であった。
こうして平蔵がこの茶店に寄るようになったのが今の経緯である。

「気をつけろい!」

罵声に振り返った平蔵の目の前を初老の男がよけながらべたりと
地べたに倒れこんできた。

「おい 大丈夫かえ」
平蔵はその男をかかえるように抱き起こした。

「これはどうも とんでもないところをありがとうございました」

「近頃の駕籠かき共はまるで神風みてぇで危なくてしょうがねぇな」

「全くでございますよ」
これがふたりの出会いの始まりであった。

見れば右の肩口が裂け、肌着が朱に染まってきた。

「おうこれはいかん 肩を怪我なさっておる、
これ亭主!水と、それから焼酎があればそれを、無くば酒だ!」

平蔵は亭主の持ってきた酒を、懐から手拭いを出し二つに裂き、
それに酒を振りかけ軽く絞って
「ちとしみるが我慢いたせよ」
男の襟元を押し開き傷口に押し当てた。

「おおっ」
思わず平蔵が驚きの声を小さく発した。

ううっっと声を殺し、歯を食いしばった後、ほっと息を抜いて
「お見苦しい物をお見せいたしてしまったようで」
男は苦笑いをしながら襟元を正した。

「いや 見事な物でわしも目の保養をさせてもろうた」

「お恥ずかしい、若い時分に粋がって彫ったもので、
いまじゃぁしわがれた姿に成り果てました、
この私のように・・・・・ははははは」
男は茶をすすりながら街をゆく人々の動きに目をやる。

「のう ご老人、わしはこの茶と茶巾が気に入って、
時折寄るのだが、いかがであろう?」
平蔵の問に
「ああ左様で御座いますな、私もこの茶が好きでこうして
時折出かけてまいります」

「いやぁ そうであったか、うむ 誠にこの茶は旨い」
平蔵も目を細めて茶を口にすすり入れる。

それから数日後、再びこの老人と出くわす。

「おおご老人 その後怪我の具合はいかがかな?」
軽く会釈する老人を見ながら平蔵が店に入っていった。

「お武家様その節は大変お世話になりまして、
おかげさまで傷もすっかり元通り、
ちと梵天様のシワが増えたようにございますが」

「わははははは さようか、梵天様とはいやなかなか」

「しかしなぁ 何で又梵天様なんぞを・・・・・」

老人は恥ずかしげに笑いながら
「私は周防長門の国厚狭郡中村の在でございます。
子供の頃から遊び下手で、ほとんど毎日近所の浄圓寺の境内で一人遊び、
そこには大きな公孫樹の木がございまして、秋ともなると葉が色ずき、
毎日ハラハラと舞い散ります。

公孫樹には男樹と女樹がございまして、
男樹は葉が真ん中から分かれておりますが、
女樹はこれが裂けておりません。

秋になるとたくさんの実が落ちこぼれてまいります。
落ち葉に折り重なったまましばらく致しますと異臭がいたしますので、
たいていは毎日清掃とともに取り入れます。

竹籠に入れてしばらく放置いたしますといやはやこれだけは言いようのない
異臭が漂うようになりますが、これを近所の小川の棒杭に引っ掛けておきますと、
水の力で綺麗に取れます。

それをお寺の境内に持ち寄って掃き清めた落ち葉に火を着けて
焚き火を致すのがほとんど毎日の事、そ
の焚き火にこの銀杏を放り込みますと、
しばらくしてパチンと実がはじけて淡い翠色の実が赤い衣を脱ぎかけて
飛び出してまいります、
これを拾ってふうふう言いながら食べるのが私ら子供の遊びでございました。

何しろ貧しい土地柄でございましたから、
稲刈りなどもハゼ掛けした後残された落ち穂を拾うて集めるのも
私らの仕事、一日掛けて拾えば結構な量になります、
それは皆で食べる芋粥の種になるのでございますよ」

「ほうほう!!」
平蔵は自分の幼少時代の遊びとはかけ離れたこの老人の子どもの遊びや
暮らし方にひどく興味をそそられたようであった。

「だがご老人 稲穂を拾うのは罪ではないのかえ?」
ついつい日頃のお努めが顔をのぞかせる。

「はい それは皆様お天道さまの取り分と申しまして、
貧しい者たちへの恵美(めぐみ)と思うておりましたようで」

「恵美とはまた美しい響きであるなぁ」この言葉に平蔵感無量の面持ちであった。

「そいつをどうやって遊びにしたんだえ?」
もう平蔵もその時のその場所のガキ大将になった気分の様に興奮して
膝を乗り出して老人の話を催促する。

「はい ひと掴みの稲穂を焚き火の上にかざして動かしますと、
パチパチと稲穂がはじけて、中から真っ白な実が覗きます、
これを手でしごいて集め、口に頬張るのでございますよ」

まだ青臭い米の薫りが何とも・・・・・・懐かしい思い出でございますよ、
はははははは」

「何と羨ましい話だのう、でその背中の梵天様はどうして
背負うようになったんだえ?

こいつは伺ぅてはまずいかのう、いやどうもこう好奇心が先走ってしもうて
相済まぬ」
と頭を掻き掻き笑いかける。

「いやいやそのようなことではございませんが、
その頃よく遊びに参っておりましたのが沖仲仕の親分の所でございました。
ある暑い日に
「坊!水浴びせんか」
と木陰にたらいを置いて子分衆に水を運ばせ、
たらいの中に私を入れて遊んでくれました、
その時に片肌脱いだ背中から胸にかけて梵天様が彫ってあったのでございますよ。

それを見た私に
「坊 大きゅうなってもこんな彫り物するんじゃ無いぞ、
おやごさんがかなしむでなぁ」
って言われましたがね。

周防長門の国は先が瀬戸内で魚介類はそれはもう手ですくうほどの
場所でございましたが、その親分さんにはお子がなく、
私が遊びに行くととても喜んで、私はその親分さんの膝の上が
親の膝のようなものでございますよ。

その御方は中国を股にかけた勢力をお持ちのお方でしたので、
そこいらの親分衆がよく集まっておりました。

そんな中で育ちましたので、いつのまにやら私も渡世の世界へ
足を踏み入れてしまい、まぁよろず揉め事承りみたいな事を
始めたのでございます」。

「てぇと何かい取り立てとか・・・」

「あっ いえ そのようなものではなく、貸し倒れとかその後のことを
うまくまとめる仕事でございますよ。
何しろたいていはそんなところには土地の親分衆がからんでおります。

そこでまとめ屋が必要になるのでございます。
双方をうまくまとめる仕事、これは親分衆には出来ません、
かと言って上辺だけで片付くほど甘いものでもございません。

そんな時子供自分から慣れ親しんでいた親分衆の出入りが
役に立ったのでございますよ」

「なるほど、子供の自分から顔が知られていれば、
いずれも仲間内みたいなものだわなぁ、
さすれば話もまとまりやすい・・・・・・
うん確かに確かに」平蔵納得の様子に

「まぁ私もお上のご法度以外は何でもやって来ました、
すれすれの世界で世渡りしてきたのでございますから、
その頃勢いに乗ってやっちまったのが背中のモンモンで、あははははは」

「それが又何故このお江戸に来ることになったんだえ?」

「あはははは まるでお取り調べのようでございますねぇお武家様」
男は笑って愉快そうに腹を揺する。

「いやいやとんでも無い、だがしかし、ご老人の話はいや中々に楽しい、
こう胸がざわめくほどでござるよ」
平蔵は老人の指摘が当たっていただけに慌てて話を反らせた。

「真締川の付け替え工事の利権に絡んで親分が闇討ちにあいまして、
まぁ親分の仇はどうにか討ち果たしましたが、
とうとう戒めを犯しての凶状持ち・・・・・・
で誰も知らないお江戸でこうひっそりと・・・・・・ははははは」
さみしげに男は笑った。

それから半年が瞬く間に過ぎた。

二人にとっては相変わらずこの茶店は憩いの場となっていた。

「一つ我が家においで願えませんかな、ここほどの旨い茶は出ぬとは
存じますが一つ碁のお相手でも一手ご指南頂ければありがたいことで」

「さようか、それも又目先が変わればなんとやらと申しますな」
平蔵乗ってきた。

「おさよ 今帰ったよ」
老人は声をかけて戸口を開けた。

「お帰りなさいませ」
中から華やいだ声が飛び出してきた。
まだ二十歳を回ったばかりと見える若女であった。

「おう これは!」
驚く平蔵に

「私もこの年で、身体も思うに任せません、
それで身の回りを世話してくれるおなごを雇ったというわけでございますよ。

近所では色好みのご隠居で通っておりますがな、
このおさよには好いた男が居りますのじゃ、のうおさよ!」

「あれ そんなぁ・・・・・」

おさよと呼ばれた小女ははにかみながら平蔵に座布団を薦めた。

「今日は何を作っておくれだい?」

「はい先日ご隠居様がお話しされていましたゆうれい寿司を作ってみようと」

「おうおう それは懐かしい、ありがたいねぇ」

「ゆうれい寿司?それは又奇っ怪な名前で何と申すか」
平蔵の好奇心もすでに上り詰めた面持ちである。

「はい 古くは酢飯に冬は柚子の絞り汁、夏場は青柚子の
絞り汁を入れただけの酢飯、これに仙崎あたりから運ばれてまいります
塩さばや干物、しおくじらなどを酢じめにして乗せたり致すようになりました。

今日はどのような物が出来ますやら、ははははあ 
楽しみでございますなぁお武家様」

ゆうれい寿司の出来るまで碁を打ちながら茶をすすり、
静かな時間がゆるやかに流れていった。

「おまちどうさまでした」
そう言って膳が運ばれてきた。

「ほう これは又何とも・・・・・」
四角に切り分けられた表はただの白酢飯に平蔵は
少しばかり意表を突かれた面持ちではあった。

「春ならばこの表に青柳の葉を二枚ならべて・・・・・・」

「わはははは 幽霊も出そうな・・・・成る程こいつは愉快でござる」

「はい この酢飯は白魚のエソをすり身にしまして、酒、醤油、
塩を合わせたすし酢にこのすり身を加え出来上がりで、
中に入れますゴボウや人参、油揚げに戻した山菜を混ぜて砂糖や、醤油、
酒、味醂で煮付けます。

昆布で炊きあげた白飯に先ほどのエソのすり身を混ぜ込んで酢飯を造ります。

この酢飯を三ッ割に取り分けて二ツにかやくを混ぜ込み、
下に芭蕉の葉や,葉蘭を敷いて、その上にこの酢飯を敷き詰め、
錦糸卵やおぼろを敷いて、その上に白酢飯を敷き、又詰めながら繰り返し、
数段重ねた上に白酢飯を重ねて、表に芭蕉葉や葉蘭を敷き詰めて蓋をし、
重石をかけて木枠を外し、目付板を置いてそれに合わせて包丁を入れます」。

「何と手のかかる仕事よのう」
平蔵はこの素朴な物にそこまで手を掛ける料理へのこだわりを感心していた。

「先の茶巾のご亭主がよく申しております、良いものは手間暇掛けねば造れないと」

「おうおう わしもそれをあの亭主からご教示頂いたぜははははは」

「さようで・・・・・まぁ早速お口汚しに」
と箸を取り上げた。

「うむ では馳走に相成るか!」
平蔵も箸を取り上げ口に運んだ。

「うむ この薫りは青柚子だのう、それにこの酢飯の具合がいや 
これはこれはまろやかで口の中で拡がる心地の良いこと、
これは一朝一夕で出来るものではござるまいわはははは」

平蔵ほとほと感服の体である。



帰り際老人が「こいつぁお口汚しのついでにお手間じゃぁござんしょうが
奥方様へのおみやげと洒落こんで・・・・」





「ほぉそいつぁまた・・・・」





「なぁに、ただの醤油でございますが、周防柳井津の甘露醤油でございますよ、
こいつぁ刺し身がよう合います」





そう言って持たされたのがさしみ醤油であった。





それから数日、又もや妻女久栄の白眼を横目に平蔵赤鰯をたばさんで出かけた。
すでに袷を着る頃となっていた。

「何!あのご老人が見えぬと?」

「へぇ この所一度もお目にかかっておりやせん」
おやじの返事に平蔵胸騒ぎを覚えた。

くだんの家に出かけてみると、すでに空き家の貸札がゆらゆらと
無表情に揺れていた。

近くのものに尋ねると、二日程前に押しこみがあってその老人が殺害された
という話しであった。

「で 若いおなごが居ったはずだが・・・・・・」

「へぇ それが不思議なことにその翌朝からぷっつり姿が見えねぇんで」

「くそ!!! やられた!」
平蔵は僅かではあったが腑に落ちない事があった。
それはゆうれい寿司を作った時の手際の良さであった。

「あれほど手際よく聞いただけで出来るものではない、
おそらくは昔作った覚えがあったからであろうよ・・・・・
のう佐嶋!そうは想わぬか?

俺はあの隠居が親爺と慕ぅておった沖仲仕の親分の仇を討ったと言っておったが、
もしかしたらそのやられた相手の遺恨返しであったのかも知れねぇなぁ・・・・」

お互い名を告げることもなくあえて名を知ることもないまま
心の隙間に流れた秋の風をいつまでも平蔵は忘れることはない。

平蔵には唯一の隠れ家であったあの茶巾をその後再び訪れることはなかった。

柳の裸枝がゆらりとひとつ揺れた。
「秋の風は心寂しいものだのぉ・・・・・・・」



拍手[0回]


徘徊 6月第1号


相模無宿の彦十 この上に猫さんはなく、
この下に猫さんは居ない・・・・・当たり役だったなぁ

此処は半蔵御門を真っ直ぐに西へ取った麹町九丁目
お店の名前を(大坂屋)という穀物商、主は五十がらみの優男で、
名を菊次郎という。

奉公人は十名ほどで、さほどの店ではない。
今朝も今朝とて朝餉8あさげ)を済ませた老人に、
丁稚がのれんを分けた間からこれもか細い体つきの腰を曲げた格好で
ヨイショと声をかけながら空を見上げた。

「ほな 行って参じます」
「へぇお気をつけて行っておいでやす」と店の者に見送られて、
杖をつきながらよたよたと半蔵門の方に向かって歩き始めた。

いつもと何の代わり映えもない一日の始まりであった。

この老人、名を久左衛門といい、上方でも同じ穀物を商っている。
大坂の店は長男の菊太郎が引き受けており、上方と江戸の両方で
更に商いを拡大しようという触れ込みでのことのようである。

そのために、この度江戸にも店を出すことになって、
次男の菊次郎が主を務めることになった。

あちこちの茶店に寄ってはしばらく休み、世間話をしながら
めぐるのが楽しみのようで、
ほぼ毎日朝出かけては夕方帰ってくるというのが日課のようであった。

先々の茶店でも居酒屋でも(ご隠居さん)で通っていた。
何しろすでに七十近くになると見えて、それなりに耳も少し遠い
多少は大きな声で話さないことには、馬の耳に念仏の例えのように、
仏様のような笑顔でニコニコ笑っているだけである。

立ち寄る店の者もすっかりそれには慣れてしまっているようで、
さほど気にもしていない。
それでも時には心配だからと一人手代がついてくることもあった。

そんなある日の出来事である。
「ご隠居さん本日もごきげんでございますね」
と茶屋の親爺が迎え入れる。

「はいはい今日は向かいの相模屋さんが又大賑わいでございますねぇ」

「へえへえ 本日は相模屋さんの荷物が届きまして、
それで人出が多いのでございますよ」

「はぁさようでございますかぁ いつもこの頃で?」

「へぇ 船の都合とかで毎月決まっているようでございますよ」

「はぁそりゃぁ又大事で・・・・」
と 人足の出入りを眺めながら茶をすすっている。

茶をゆっくり飲み、饅頭をつまみながら供の手代に
「ありゃぁ大変な荷物じゃなぁ清どん」
と声をかけた。

「ほな又寄せてもらいまひょ、おおきにごちそうさんでした」
老人は供の者を従えてよたよたと歩き出した。

こんなことが一年以上続き、すっかり馴染みになった店のものからも、
知りたがりやのご隠居様で通るようになった。
それほどこの老人は物を尋ねるのが好きなようである。

「こんな雨の中を、足元の悪いのにわざわざ・・・・」と 言えば、

「じっとしていると身体が生っちまってねぇ、雨も又風情があってようござんすよ」
との返事。

まぁ人は好き好き、こんな日は雨宿りの客くらいしかないものだから、
店の亭主も座り込んでの長話、世間話に花が咲くというものである。

「おや 雨の日でも荷物は運んでくるのだねぇご苦労なことで」

「そりゃぁご隠居さん、雨だろうが風だろうが荷役は待ってはくれませんやぁね、
ああして雨の日は人足の数も少なく、蔵まで運ぶには時がかかりまさぁ」

「ふ~んそんなに蔵まで遠いのかいなぁ」

「さようでござんすね、大黒様の鏝絵(こてえ)が見えるのが一ノ蔵、
弁財天が二ノ蔵と聞いておりやす」

「はは~ 鏝絵でっかぁ何ですかそれは」

「あれまぁ ご隠居さんもご存知ねことが・・・・・ははは。
鏝絵は左官が壁を塗る時にコテで絵をかいたものでございやすよ、
漆喰は貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作るそうで、色目には色土や岩、
貝殻から松脂(まつやに)のススまで、何でも使うそうで、
特におめでたい絵柄は大切な蔵や土蔵に飾るようでございやすよ」

「はぁ~そいつはまた豪気な話で・・・・・」
呆れた表情でキセルに煙草を詰めてぷは~っと気持ちよさそうに
雨の向こうの喧騒を眺めている。

「おやおや清どん、今日は又荷車がひいふうみい・・・・
五つも並んでおるによって、荷が雨に濡れたら大変だすなぁ」

「左様でございますなぁ大旦さん!あの荷は何でおまっしゃろか?」

「ああ あれは堅魚でございやすよ、荷函に字が書いありますやろ、
今のじぶんは土佐物が多く、四国沖の物が出回ります、へぇ」

「へ~堅魚でっかぁ、あの出汁にする」
とご隠居さん興味津々で言葉を引き継ぐ。

「へぇ 堅魚とか松魚とか言うそうで、土佐から阿波、紀州、駿河、
伊豆、相模から安房、房総、上総、陸奥と最後はなんと蝦夷まで行くとか、
で、それぞれ捕れる時期が変わるそうでございやすよ」

「へへ~それにしてもご亭主どん、よう存知でんなぁ」

「そりゃぁもうご隠居さん、しょっちゅう相模屋さんの大旦那から
聞かされますんで へぇ」
「特に堅魚はあっしらには縁のねぇもんでござんすがね、お武家様や大店、
はては将軍様までこの堅魚で出汁を取るのが一番とかで、
そりゃぁ大層な値段で売れちまうそうでござんすよ」

「ほっほっほっそれじゃぁあのお店はおぜぜがぎょうさん貯まるばかりでんなぁ」

「さいですなぁ あっしらにやぁ関わりござんせんですがね、
まぁそれで蔵が二つも三つも並ぶってぇこってござんしょうね、
はぁ何とも羨ましい話でござんすよ」
亭主はそう言って新しい茶を出してきた。

それからひと月あまりが流れた。
「おやご隠居さん、お久しぶりでございやしたね」
と茶店の亭主。

「おおっ これはこれは 何ね ちょいと身体をこわしたもんで、
ひきこもりぃだす。
やっとお天道さまの下を歩けるようになりましてん」

「そりゃぁ又難儀でございやしたねぇ」

「おや ご亭主どん 向かいのお店がえらい騒がしいようだすが・・・・・」

「へぇ 何でも昨夜お店に盗っ人が入ったとかで、
今朝からお役人様方が色々と出入りされておりまして、
あちこち聞いて回っておられますようで」

「さいですかぁ、そりゃぁ又大事っちゃ、のう小吉どん」

「でどないな様子だす?」

「それがでんね、何でも朝方押し込みがあって大旦那やおかみさん、
番頭さんなど主だった奉公人が皆目隠しの上に猿ぐつわまでされて、
今日入る荷のための為替金100両と、この月のお店の売上などが
盗まれたそうでございやすよ」

「やれやれ 何とお気の毒なこって」
と相変わらず美味そうにキセルをふかす。

「わてらも気ぃつけとかんとあきまへんなぁ清どん」

「ほんまでっせぇ大旦さん、江戸はきついところでおますなぁ」

ところがこのような事件がこのところ頻発した。
狙われるのは荷が入る前日か、その前日・・・・・・
判でしたように似通っており、町方だけでなく火付盗賊改方にも
この話は舞い込んできた。

「うむ 近頃では珍しい押し込みではあるなぁ」
平蔵は昨今頻発している急ぎ働きの悪辣(あくらつ)な手口に
胸の悪くなる思いであったから、余計にそう思えたのかもしれない。

「小林!お調書をもう一度洗いなおしてみよ、他に手すきの者は
被害のあった店に出張り、更に詳しく、落ち度なきよう聞き取ってまいれ、
ああそれから近所で不審なものや話などなかったかそれも忘れるでないぞ!」
と命じた。

その数日後密偵や同心などが聞き取りしたお調書が集められた。
筆頭与力の佐嶋忠介をあたまに、盗賊方の主だった面々が
清水御門前の役宅に集められた。

平蔵は大きな紙を広げ、そこに日時、場所、時刻、店の内容、
奉公人の規模、被害額など判る限りを書き出させた。

ところが面白いことに忠吾が気づいた。
「おかしら、どうも先ほどから私めが担当いたしております不審なもの、
あるいは特定の者の中に知りたがりやのご隠居とか申すものが度々見えまする」

「何ぃ!」
平蔵の顔が一瞬引き締まった。
「忠吾 其奴は一体何者だえ?」

「はぁ 何でも久左衛門とか申すようでございますが、
皆は知りたがりやのご隠居様と呼び親しんでおるようにございます」

「うむ 知りたがりやとはちときになるのう・・・・・」
これはいつもの平蔵の感ばたらきにすぎない。

「よし!とりあえずそちはその知りたがり屋のご隠居を・・・・・
おおそうだ、伊三次とあたってみてくれ」

「ははっ!」
木村忠吾は早速密偵の伊三次を清水御門前の役宅に呼びつけ、
事の次第を告げ、話が出ていたお店を回らせることにした。

数日後忠吾は平蔵の報告書を持ってやってきた。

「おかしら 例の知りたがり屋のご隠居の身元が判明いたしました」

「おう ご苦労ご苦労 で、 お前ぇはその間何を致しておった」

「はぁ?」

「これ忠吾 お前はこの俺の眼が節穴だとでも想っておるのか?」

「はぁ~一体何のことでござりましょう」
と、とぼける忠吾ではあったが

「馬鹿者!お前ぇが一切を伊三次に背負わせて、
昼日中から茶屋に出入りしておることを知らぬとでも思うたか!
此度の事を何と心得ておる忠吾!」

「ははっ!!!!!何ともその、あのぉ・・・・・」
忠吾は廊下に頭を擦り付けてなお顔の埋もれるほど低頭した。

「忠吾、わしはなぁお前ぇに茶屋通いを致すなと申したことはない、
だがそれも時と場合を考えるであろうと想うたからじゃ、
その俺の気持ちをお前はいかように想うておる!」

「ははっ 申し訳もござりませぬ、親の心子知らずとは
誠に持ってお恥ずかしく・・・・・」

「もうよいわ! で、いかように判明いたした?」

「はい 伊三次の申すには、この知りたがり屋のご隠居は
麹町九丁目に大阪屋と申します穀物商の隠居だそうでございます。

名を久左衛門と言い、1年と少し前に上方からこの江戸にやってきて
商いを始めたそうに御座います。
商いの方も手堅くやっておるようで、店の評判もなかなかよろしいそうにござます」

「ふむ こたびはちとわしの想いと外れたのう・・・・・・・
だがどうもこう、歯に何かがはさまったような、
う~ん いやさっぱりと致さぬ、ふむ」

平蔵、腕組みをしたままじっと目を閉じて、散逸した駒を頭のなかで組み替える、
そのような面もちである。
「他に駒が見つからぬか・・・・・・
「もう一度そこいららあたりを更に深く探るように伊三次と、
おう彦十にも左様申し付けておけ、それとな、忠吾程々に致せよ」

「はっっ!!!!」

平蔵はこれまで被害のあった店を中心の探索から、
知りたがり屋のご隠居の徘徊先を洗いなおしてみることに切り替えた。

平蔵の部屋に拡げられた絵図面には、このところ立て続けに被害にあった店の
印が記されてあった。

「どうもこの目の端がぴりぴりするでなぁ」
と筆頭与力の佐嶋忠介に話した。

被害の範囲が一定の広さから出ていない、要するにどこからであれ、
1日かかって歩ける範囲に集中していることが平蔵のピリピリに
つながっているようである。

したがこの範囲内に在る商家といえば、まるで途方も無い数に登る、
何かに的を絞らねば・・・・・・・
だが、その何かが判らぬ・・

ほころびとは想わぬ時に見つかるもので、日常ではさほど多く目にすることではない。
この度の事件も想わぬところからその糸口が見えてきた。

伊三次が相模の彦十を伴って麹町の大阪屋の隠居、
通称知りたがり屋のご隠居を微行すべく店の斜向かいの建物陰で待ち構えていると、
それらしい風体の品の良さそうな老人と共の者が出てきて
店先で何やらふたことみこと言葉を交わして歩き始めた。

「彦十さんあれが例のご隠居さんだ、後に付いているのが手代の清吉ですぜ」
と伊三次が顎で指す。

「ふ~ん あの野郎かい 銕っつあんの言っていなさる野郎は・・・・・」
彦十はさほど気にすることもなく漠然とその老人を眺めた。
通りがかりの者がその老人に挨拶を交わした、その後供の者が振り返りながら
世辞を言ったようだが・・・・・

「あっ!」
彦十が小さく驚きの声を漏らした。
「伊三さん、確か清吉って・・・・・」

「ああ そうだよ、清吉ってえんだ」

「清吉ねぇ・・・・・・」
彦十は何かをつなぎ合わそうとするように首を傾げたまま集中している。

「あれっ 珍しいじゃござんせんか、彦十のとっつあん考え事をするってぇのは」

「おいちょいと待ってくれよ、あの顔どこかで見たんだよなぁ」
彦十は伊三次のからかい半分の言葉を制しながら記憶の糸を
浮かび上がらせようとしているふうである。

「まぁそいつは歩きながらでも思い出せばいいや、
それより長谷川様のお言いつけ通り、後を微行けなきゃぁ」

「おっとがってん承知之助」
彦十も頭を切り替えたらしく、ひょこひょこと微行を始めた。

「う~む どうもねぇ・・・・・」
彦十はそれほど前をゆく若い男にひっかるようである。

いっ刻程後を尾行(つけ)たとき、浅草の柳原同朋町にさしかかった所で
茶店に立ち寄った。
いつものようで、いっぷくふかしながら、
出された茶をすすり浮世話しでもしている風情である。

両国橋を抜けて左に曲がり、柳橋を潜った所で一双の川船が荷揚げを始めた。
上げたところは川向うの平右衛門町、その向こうは浅草御蔵が続く蔵前である。
しばらくして隠居主従は立ち上がってまた歩き始めた。

「とっつあん、あっしはこのまま奴の後を微行やすんで、
とっつあんは先ほど奴らが何を話したか、茶店の親爺に探りを・・・・」

「がってん承知!任せてくんねぇ」
と掌を叩いて茶店に向かった。

「とっつあん 茶代だ!」と伊三次が気を利かす。

「へんっ!オイラだって茶代くらいは持っているよう伊三さん、
後は任せな、それより・・」
と首をひょいとしゃくって先立った主従の方を見やる。

「任せねぇ」
伊三次は素早く後をつけはじめた。

「おう ご苦労であった!」
本所菊川町の長谷川平蔵役宅で報告を待ちわびていた平蔵が
キセルをふかしながら畳縁に腰掛けて庭の紫陽花の色移りを眺めていた。

「で、 彦 いかがであった!」
平蔵は相模の彦十の収穫に期待をしていた様子であった。

「それがね銕っつあん、どうにもこうにも、あっしは伊三さんと分かれて、
野郎が何を聞いたか喋ったか、そこんところを探ろうと茶店に入ぇりやした」

「おうおうそれでどうした」
平蔵はその先を聞きたくてウズウズしているようである。

「ところがドッコイでござんすよ、なんてぇこたぁねえありきたりの世間話でね、
へっ面白くもおかしくもねぇや」
と、彦十、あてが外れてようでふてくされている。

平蔵もその返事に少し腰砕けを感じつつも、一日中歩き回された
この元老盗の働きをねぎらうように言葉を返した。

「なぁ彦十 お前ぇは世間話に聞こえたやも知れぬがな、
そんな普通の話の中に思わぬ者が潜んでおる、
いやさ、老獪になればなるほどその辺りの仕掛けは巧妙でな、
それがわかっちゃぁお前ぇおしまいだぜ」

「へぇ~そんなもんでござんしょうかねぇ、
野郎(今日は又弁財船でも入ったのかねぇ、川船が幾双も寄せて、
お向かいは賑やかで、とか何とか平右衛門町の船着場の様子を
供の男に話していたそうで。

一瞬平蔵の顔色が変わった。
「なにっ 弁財船だとっ!!  むむっ ぬかったわ そいつだ!
彦十そいつが奴らの狙いだったんだ、でかしたぜぇ えへへへへへへ 
う~むでかした!」

狐に包まれたような顔で彦十
「ててて銕っつあん いったい何がどうなっちまっているんで?」
とひょうきん顔で問い返したものだ。

「彦 川だよ 川が絵解きの糸道だったんだ」

「へっ? そいつぁ一体どのような仕掛けで・・・・・」

「仕掛けも糞もあるか 大坂屋は上方にも店があると申したな」

「へい 江戸の方はその出先と聞きやした」
と答えたのは朝熊の伊三次

「そいつだ !そいつよ、うむこいつを見逃しておったゆえ
的がひとつ絞り込めなんだ」平蔵の目にメラメラと炎が立ち始めた。

「伊三次 奴らは結局そのまま店に戻ってのではないかえ?」

「あっ 長谷川様よくまぁお判りで、全くその通りでさぁ、
野郎その後はまっすぐ横山町を抜けて大伝馬町から本町と抜け、
途中何度か茶を飲みに立ち寄りやしたが、
それもちょいの間の一休みってぇところで、常盤橋を右に折れて
鎌倉河岸から一橋御門、俎坂橋をわたって九段坂を越え
お堀端一番町から麹町のお店へ戻りやした」

「ふ~むやはりそうであったか、よし、押し込みは今夜か遅くとも明日と読んだ、
早速手すきの者共を集めるよう手配いたせ!」
平蔵は同心筆頭の酒井祐助に下知を飛ばし、奥に引こうとした時

「てててっっつあん いや長谷川様!思い出しましたよ」
彦十がどんぐり目をむいてのりだした。

「何だ えっつ 彦十 素っ頓狂な声を出しおって!」
平蔵は振り返りながら彦十の驚いた顔を見た。

「あいつぁ牛尾の・・・・・」

「何だその牛尾の何とやらは」
平蔵は彦十の記憶をたどる顔を覗き込むように再び尋ねた。

「確か牛尾のえ~っ何とかぁ・・・・・」

そこへ駆けつけた五郎蔵が
「相模の そいつは牛尾の太兵衛じゃぁござんせんか?」
と言葉を挟んだ。

「そそそっ そいつだぁ」
彦十はシワだらけの顔を余計しわくちゃにして目を輝かせる。

「誰だその牛尾の太兵衛ってぇのは」

「牛尾の太兵衛と申しやすのは遠江の国山名郡金谷宿牛尾郡の出とか、
駿河、遠州、伊勢が奴のおつとめのようで、岡部の宿で呉服屋を商っていたとか。
ただ中風になって子分どもは散り散りと聞きやしたが・・・・・」

「そいつだよ五郎蔵さん、その一人泥亀の七蔵とよくつるんでいたやつ、
名前はおぼえてねぇけど間違いございやせん」

「急ぎ牛尾の太兵衛のお調書を捜しだせ」
平蔵はこの事件に王手をかける面持ちでてぐすねした。
だがいっ刻過(た)ってもお調書は見つからない。

「こうなったら是非もなし、おそらく奴らは船を使うに違いない
、川筋を厳重に見張るよう、それと押し込み先が知れぬ今、
麹町の大阪屋の動きを張るしかあるまい、皆心して臨め」

その夜半平蔵の指揮のもと火付盗賊改方の面々が麹町九丁目の
心法寺門前に集結していた。

「おそらく奴らは四ツ谷御門辺りから川筋を取って速やかに
目的地に進むに違いない、これまでの被害におうた店の近くには
必ず水路が通っておる」
平蔵のこの読みは的中した。

暁の九ツ(午前0時)を回る頃、ひたひたと人の足音が暗闇に聞こえてくる。
遠くで犬がけたたましく吠え、静けさを破った。

(来る!)

平蔵は四ツ谷御門に向かう一団の前に立ちはだかった
「火付盗賊改方長谷川平蔵である、おとなしく縛につけ!
」と呼ばわり、廻りを提灯が囲んだ。

塀際から掲げられた高提灯の中で、無言の気迫がせめぎ合った。
黒装束の一人が、ゆらり・・・・・前に進み出て、平蔵の前に腰を落とし、

「お手向かいはいたしません」
とその男は静かな口調で、しかし毅然とした態度であかあかと照らしだされた
平蔵の顔を見上げた。
それを見た他の者も黙って座り神妙である。

一味は総勢十名、残された者は、かの知りたがり屋のご隠居を含め三名が
大阪屋店内で捕縛され、川船で控えていた二名も逃れることはなかった。

「それにしてもおかしら、何故川筋が怪しいとお思いになられましたので」
沢田小平次がまず口火を切った。

「うむ あれか、ほれ、彦十が拾うてきた船荷の話しよ、
あのおやじの話題は何だったえ?」

「そういえば荷車がどうのとか船がどうのと・・・・・・あっ!」

「その通りよ、奴はそれぞれの店の前でその月のいつ、
どの時刻にどのくらいのものがどのような形で運ばれるかを
丹念に探っておったわけだ、
そいつを一年も掛けて調べるたぁこいつははぁ何とも用心深い奴らよ、
さすが牛尾の太兵衛の手下どもだ、いやそれにしても長い捕物になったが、
こうして皆の者の苦労が実ったってぇことだ、目出度ぇ事だ。

「もうひとつ、これはぜひともお伺いいたしたきことが・・・・・」
と沢田小平次

「うむ 何だ?」平蔵はゆっくりと沢田を振り返った。

「はい お頭は何故奴らが押し込みに入る日時がお判りになられましたので」

「おお そいつか それはな、上方訛りであったことからよ、
江戸の商人と違ぅて時価もの取引を致さぬそうな、江戸は金座で金が通り相場、
だが上方は銀だそうな、そこで品物を受け取る時銀と金の交換が必要になる、
そこで上方の商人が編み出したのが為替という換金方でな、
こいつは前もって金を両替商に持ち込み為替に交換しなければならねぇんだ」

「あっ 判りました、つまりはそのための金が前日に手元に在るということで、
それを判断するのが荷物の運び込み日時・・・・・」

「さすが沢田 鋭い指摘じゃ、その通り、だが此度はその上を行く事が起こったのだ、
何故奴は船荷がつく日にちを前もって判って、それを確かめに見聞に行ったと想う?」

「はぁ~そこまでは」

「そこだよ、上方で商いを致しておるという話しであったなぁ」

「はいそのようで」

「そいつだ、上方に出入りする船を見張っておれば、いつどこへゆく為の荷物か
見聞きできるであろう?東回りの千石船だ、風待ち潮待ちで時もかかろうよ、
それを飛脚便などで知れば前もって中身を知ることが出来、手を打てるという、
うむ さすがに牛尾の太兵衛の流れを汲む盗っ人、読みが深ぇってことだな」

「時の流れというもの、時に面白ぇ物を生み出しちまうものらしい。
紙切れ一枚ぇが小判と同じ仕事をやってのける、
こいつぁお釈迦様でも気が付かねぇことだったろうよ」
平蔵は時の流れを身にしみて感じているようであった。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座   http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鬼平覚悟







春もようようにして、曙もゆるやかに江戸の町を包む弥生の頃となった。
本所深川から永代橋を渡り南町奉行所へと歩を進める平蔵の後ろを
つかず離れず微行する気配を感ずるものの、
その気迫の薄さが平蔵には気になっていた。

稲荷橋から中の橋を通り八丁堀をまっすぐ西に向かい真福寺橋を
渡ったところの稲荷社にさしかかった所で、いきなりその気配が後ろから
追いかけるように平蔵に飛びかかってきた。

「鬼平覚悟!」

「なに!」
少々のことでは驚くこともない平蔵だったが、この度だけは一瞬戸惑った。

腰を捻り一の太刀をかわして愛刀粟田口国綱の柄に手をかけて驚いた。
(何と子供ではないか!)
あまり突然の展開に平蔵は面食らった様子が見て取れる。

二の太刀がまっすぐ平蔵の胸を目指して突き進んでくるのを
慌てて鍔口でかわしながら
「待て待て!確かにわしは長谷川平蔵だが、子供に命を狙われる筋合いは持たぬ、
何か間違ぅてはおらぬか?」
穏やかな言葉で相対に話しかけた。

「間違うはずもない、先に小塚原でさらし首にかかった元会津松平家藩士
崎森勇四郎が嫡男崎森小四郎、父の仇、長谷川平蔵覚悟!」
これにはさすがの平蔵もたじたじとなった。

「まままっ 待て待て!」
鍔先で押し戻しながら平蔵、相手の柄中を掴んだ
「問答無用!」
と再び激しい気迫が平蔵を押し返そうと迫った。

「やむを得ん」
平蔵はその手をひねり倒して刀を取り上げた。
見ればまだ10を出たばかりのような幼い顔である。

「離せ!離せ!さもなくばこの場にて殺せ!」
と喚くばかりのこの身柄を、さていかにしようと平蔵思案顔である。

騒ぎを聞きつけて野次馬が集まってきた、何しろ稲荷社と言う場所からも
人が集まりやすい所、まずい所で又このような・・・・・・・
平蔵はひとまずこの子供の帯を掴んで稲荷社の後ろに連れて行った。

「まず訳を話せ、わけもなく仇呼ばわりされるのはちと合点がゆかぬ故な」
すでに覚悟をしたのか、その小さな刺客が少しおとなしくなった所で
平蔵は言葉を引き出そうと石垣に腰を据えた。

「お前もそこに掛けたらどうだ?」
押し黙ったまま立ちすくんでいる幼子に声をかけた。
やがて少年は黙ったまま石垣にもたれるようにしながら平蔵を睨み据えた。

「のう わしはいかなるわけがあってそなたの仇となるのか聞かせてはくれぬか?」
穏やかに話しかける平蔵に、危険を感じないと判断したのか
口ごもりながらぽつぽつと口を開いた。

話を聴き終わった平蔵は、予想だにしなかった展開に深い戸惑いを見せた。
「のう小四郎とか申したな、お前は父御の仕事を存じて居ったのか?
どうして小塚原の獄門にかかったかその訳を存じておるのか?」
と言葉を選びながら気分の高揚が収まるのを待つように話しかけた。

「私は何も存じません、ただ父上をさらし首にした相手が鬼平と呼ばれる侍だと
聞かされたまでのこと」

「で 母御はいかが致しておる」

「母は三年前に病に倒れそのまま亡くなりました」

「そうか・・・・・・それは又大変であったろうな」
平蔵はこの幼子の置かれた立場や境涯を追うような目つきで眺めている。

「父上は何故獄門台に上がらねばならなかったのでございます、
何故殺されねばならなかったのでございます?」

「そうか、何も聞かされてはおらなんだか、いや そうであろう、
言えるはずもなくつらかったであろうな、
だがな小四郎、お前の父上は盗賊の仲間であったのよ」

「嘘だ!あの優しい父上が盗賊などあろうはずもございません、
騒ぎに巻き込まれたか何かで、きっと間違いに相違ないのです」

「うむ 俺とてそう思いたい、だがのう、あの日は長きに渡った探索の末
掴んだ押し込みの現場であった。
そこに居合わせた者達にどのようないわくがあったにせよ、
わずかに残された者の自白にて、これまでに押し込んだ商家の者は
常に皆殺しとなり、凄惨をきわめたそうな。

こやつ以外に捕縛された者は殆ど無く、刃を向けて歯向かいおる者共は
皆切り伏せられ打ち倒された。
おそらくその中にそなたの父御もおったのであろう」

「嘘だ!そんな話は嘘だ!うそだぁ・・・・・・・」

泣き崩れてゆく小さな身体が震えているのを平蔵は抱きかかえながら
かける言葉がないことをどれほど無念に想ったか知れない。

会津松平といえば明和4年(1767年)財政再建を担っていた藩主
井深主水が俸禄や借財問題から藩放棄事件を起こしたことで知られていた。
この時俸禄を離された浪人の中にこの小四郎の父も含まれていたのあろう。

禄を離れた武士が生きてゆくにはこの時代あまりに平穏すぎる。

剣術で食べて行ける時代はもう終わり、才覚一つを元手にのし上がってくる時代である。
江戸に流れ着いた食い詰め浪人のたどる道はさほど多くはない、
女と違って身体を張ることも出来ず、さりとて力仕事や町方に混じっての
下働きなど武士のこけんに関わるから、余程のものでない限りは無理な時代である。

多くの者が商家の用心棒や博打場の用心棒と殺伐とした時代を背景とした
生業が生まれたのも否めまい。
小四郎の父親が悪の道に手を染めてしまったのも、
家族を養わねばならない男の意地であったのかもしれない。

今の世の中、侍らしく生きるとは何と虚しい生き方なのか・・・・・・・
平蔵の脳裏にこの時の記憶が薄らぐことはなかった。

平蔵は思案の末嫡男辰蔵のいる目白台に預けることとした。
これには二つのねらいがあった。

一つ目は辰蔵に責任を持たす役目、もうひとつは言わずと知れた
この小四郎の行く末である。
目白台には若党の井上武助、用人松浦与助、下女のおさわなどがおり、
おおらかに育つ環境があると見たのであろう。
だが、この目論見は見事に外れるのである。

平蔵と違って剣の腕よりも色道にはその能力を発揮する辰蔵、
いつのまにやら良き仲間に小四郎も染まってゆくのであるが、これは又後々の話。

ひとまずこの事件は目白台で事は収まったかに見えた。

だが、平蔵の心中は波立ったまま静まることがなかった。
(おれはこれまで幾人、人を切り倒したであろうか?外道極悪と呼ばれるも、
相手は人の子・・・・・鬼でも畜生でもない)。
それを想った事は一度たりとも考えたことはなかったからである。

この崎森小四郎の出現はこの後の平蔵の行動によって形となってゆく。
寛政元年(1789年)時の老中松平定信に建言して、
加役方人足寄場が誕生するのである。

別名石川島人足寄場の名で知られている、軽犯罪者や浪人などの
自立支援厚生を目的とした画期的な施設である。

平蔵はこの加役方人足寄場をも拝命、寄場お役を御免になるまでの
2年間を盗賊改めとの2足のわらじで務めた。

長谷川平蔵44歳のことである。

悪を犯さねば生きてゆけない事実と一旦人の道からはみ出した者が
正業に戻る難しさを平蔵は身を引き裂かれるほど痛く感じていた。

「人の中には鬼が巣食うておるもの、その鬼を退治するのも
これ又鬼でなければあい務まらぬ、内なる鬼を呼び覚まし、
我も又鬼となろう」
これが長谷川平蔵の死ぬまで変わらない覚悟であった。

この事件以後、平蔵は更に読書に熱が入るようになった。
その分「忠吾ついてまいれ」
という場面が大幅になくなったことは木村忠吾の寂しいところではあった。

だがこの木村忠吾ただの飾り猫では収まらない。
目白台の若様長谷川辰蔵の師匠ぶりを発揮・・・・・・
辰蔵からは「私の良き理解者」と言われる・・・・・・・

左様色道にかけての話しであることはいうまでもあるまい、
その横にいつのまにやら崎森小四郎が控えて来るのはもはや時間の問題であった。

市中見廻りの途中を「木村さん!」と声が聞こえてきた。

振り返る木村忠吾の顔はすでに目尻が下がり始めている。
言わずと知れた長谷川平蔵の嫡男目白台の辰蔵のいつも変わらぬ声であったからだ。

「これは若様!」

「嫌だなぁその若様はやめてくださいよ、辰蔵、辰蔵殿で結構ですよ。」

「左様でございますか、では早速辰蔵殿拙者に何か御用でも」

「いいなぁいいなぁその響きが何とも、こう私も木村さんと同等の
大人に扱われたようで、いやぁいいなぁ」
単純に辰蔵は忠吾の言葉の響きに喜んでいる。

「辰蔵殿、ところで拙者に何か?」

「あっそうだ、木村氏 チトお願いごとがござるのですが・・・・・」

「はぁ何でございましょうや?」

仲間内や平蔵からも、うさ忠うさ忠と呼ばれ慣れている忠吾だけに、
木村氏と呼ばれて忠吾も少し舞い上がったようであった。

「実はそのぉ、この近くで安く遊べるところはないものかと
こいつと話していた所で・・・・」
と振り返るその先には安倍、市川の悪友が揃って控えていた。

「アッ!これはまたまた皆様おそろいにて、
うふふふふ これから出陣という訳でござりますな」

「そそそっ そのようなところでございますよ、
所で木村氏、先ほどの話でござりますが・・・・」

「はいはい!しかと承っておりまする・・・・・が・・・・・」

「が?」

「左様! 軍資金はお持ちで?」

「無論のことでござります、巣鴨の叔父上からしっかりと
(遊びも修行の内じゃぁ)と・・・・・」

「それならばご心配ご無用、むふふふふ。
この木村忠吾メにおまかせあれ!」
と太鼓判を押すのだから平蔵の心配もうなずける。

「この近くにある(やぶさめ)はチト面白うございますよ」

「やぶさめ?あのご神事の・・・・・・」

「左様 あれはいかなるいでたちでおりまするか?」

「うーん 馬にまたがり矢をいかける騎射・・・・・・
アッそうかぁ さすが盗賊改方の中でも、この道は他に出るものなしと
聞こえた木村氏、いやぁなかなかでござるなぁあははははは」

ここまでくればもう手の施しようもない。

「ささっ 善は急げともうしまするによって・・・・・
ああ そこのお二方もどうぞどうぞ、むふふふふふっ」
木村忠吾すでに鼻の下は錠前も掛けられぬほど伸びきっている。

親の心子知らずとはよく言うが、お頭の心も知らぬ者もいたのである。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鍋に入ぇったか・・・・死ぬも地獄生きるはなお地獄




舟形の宗平・大滝の五郎蔵
 
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。


襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。


被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。


しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。


この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。


だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう


そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。


特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。


だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。


「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」


平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。


「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。


すでにふた月を無意味に流してしまっている。


「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。


ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。


「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。


「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。


書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。


だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。


表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。


「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」


「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」


「何?船が消えただと?」


「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」


「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」


「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」


「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」


「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。


「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」


「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」


こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。


「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。


「何! でたかっ!」


「で 何処であった」


「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」


「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」


「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」


「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。


「忠吾!!」


佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。


「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!


どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」


「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。


「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。


船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」


平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。


だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。


それからほぼ1年目の12月初旬


江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。


あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。


「そいつは一体ぇどういうこった?」


平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた


「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・


どうも大口の掛取りができなくなったようで」


「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・


なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」


「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」


「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」


平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。


不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。


「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」


それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。


「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」


その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。


「おおお おかしら これこれこれっ!」


「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」


「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」


「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」


「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。


蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」


気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」


「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・


左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。


そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。


本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて


「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」


と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。


「あっ!千成の・・・・・・」


「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」


「それでお前さん、今もおつとめを?」


「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」


「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」


「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」


「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」


「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」


「何だって!・・・・・・」


宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。


あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。


「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」


「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。


「そうそう そう言うこった! 
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」


「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。


「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」


九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。


「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。


「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」


九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。


「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」


まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に


「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」


何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で


千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。


判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」


「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。


こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」


「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」


「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」


「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」


「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」


「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」


「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。


まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。


まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。


「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」


明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。


おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。


ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。


「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。


ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。


その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて


「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。


「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」


平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。


翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。


「なんだ  申してみよ!」


「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。


平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、


「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」


「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」



「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」


「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。


店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。


だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。


船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。


何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・


でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」


「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」


「はははははっ 
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」


「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。


「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」


「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」


「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」


「ご冗談を!」


「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」


げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、


「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」


「義理があると申すのだな」


「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」


「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」


こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。


その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。


そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。


お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」


あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。


「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」


「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。


治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。


何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。


「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。


「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」


平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。


「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」


「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」


「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」


「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」


それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。


治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・


「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。


「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。


しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。


「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。


「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。


長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」


こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。


その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。


盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。


 



絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」  http://jidaigeki3960.sblo.jp/



拍手[0回]



舟形の宗平・大滝の五郎蔵
 
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。


襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。


被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。


しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。


この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。


だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう


そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。


特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。


だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。


「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」


平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。


「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。


すでにふた月を無意味に流してしまっている。


「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。


ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。


「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。


「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。


書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。


だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。


表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。


「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」


「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」


「何?船が消えただと?」


「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」


「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」


「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」


「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」


「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。


「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」


「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」


こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。


「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。


「何! でたかっ!」


「で 何処であった」


「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」


「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」


「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」


「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。


「忠吾!!」


佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。


「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!


どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」


「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。


「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。


船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」


平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。


だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。


それからほぼ1年目の12月初旬


江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。


あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。


「そいつは一体ぇどういうこった?」


平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた


「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・


どうも大口の掛取りができなくなったようで」


「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・


なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」


「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」


「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」


平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。


不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。


「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」


それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。


「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」


その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。


「おおお おかしら これこれこれっ!」


「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」


「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」


「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」


「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。


蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」


気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」


「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・


左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。


そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。


本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて


「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」


と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。


「あっ!千成の・・・・・・」


「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」


「それでお前さん、今もおつとめを?」


「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」


「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」


「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」


「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」


「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」


「何だって!・・・・・・」


宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。


あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。


「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」


「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。


「そうそう そう言うこった! 
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」


「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。


「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」


九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。


「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。


「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」


九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。


「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」


まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に


「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」


何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で


千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。


判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」


「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。


こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」


「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」


「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」


「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」


「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」


「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」


「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。


まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。


まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。


「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」


明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。


おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。


ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。


「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。


ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。


その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて


「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。


「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」


平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。


翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。


「なんだ  申してみよ!」


「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。


平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、


「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」


「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」



「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」


「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。


店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。


だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。


船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。


何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・


でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」


「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」


「はははははっ 
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」


「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。


「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」


「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」


「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」


「ご冗談を!」


「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」


げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、


「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」


「義理があると申すのだな」


「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」


「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」


こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。


その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。


そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。


お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」


あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。


「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」


「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。


治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。


何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。


「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。


「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」


平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。


「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」


「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」


「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」


「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」


それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。


治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・


「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。


「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。


しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。


「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。


「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。


長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」


こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。


その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。


盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。


 



絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」  http://jidaigeki3960.sblo.jp/



拍手[0回]

" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/81/" /> -->

鬼平罷り通る  5月第2号 深川万年橋


深川万年橋



「おたみちゃんじゃぁないかい?」

ここは本所深川永代橋を北に7町程上がった万年橋たもとである。

声をかけたのは50がらみの渋い男、見るからに商人風の風体である。

振り向いたのは少しやつれては見えるが、ほっそりとした小面の町下の女・・・・・・

「えっ?」後ろから追いかけてきた言葉に身を少し傾けて振り返る

「あっ やっぱりおたみちゃんだ」

「あれ? もしかして長さん?」

「久しいねぇ 突然行く方知れずになってしまって、もう何年だろうね」
男は女の傍に寄りながら遠い思い出を探るようにおたみを見つめた。

「あれはお父っつあんが商いに失敗して、取り立てから逃れるために夜逃げした時だから
30年は過ぎたかしら・・・・・」
おたみと呼ばれた女は懐かしげに過去を思い出したような風情で空を見上げた。
真っ青な空に筋雲が刷毛で引いたように一筋深川の空をよぎっていた。

たもとの茶店に腰を下ろし、出された茶をすすりながら
「そうだったのか・・・・・私はおたみちゃんの姿が谷中から突然消えたので
神かくしにでもあったのかと、随分心配したもんだ」
おたみに長さんと呼ばれた男が茶を口元に運びながらおたみの横顔を見つめる。

この男長次郎はおたみとは同郷の谷中天王寺そばにある百姓町屋の生まれであった。
当時おたみの二親はろうそくや数珠などを店先に並べろ小商いをしていたが、
山師っ気があり人のよいところが裏目に出て、度々騙され、
とうとう夜逃げを余儀なくされた経緯(いきさつ)があった。

「長さんはあれからどうしたの?」
おたみは長次郎の横顔にそう問いかけた。

「俺かい、おれはおたみちゃんが消えた後丁稚奉公に出たのさ、
奉公先は北本所の吾妻橋たもとの中郷竹町にある呉服屋(結城屋)
ちょうど前を竹町之渡しがあって、大川を登り下りする船が色んな所から
出入りしていて賑やかなところだよ。

「ずっとそこに?」

「そうだなぁ お店(たな)に奉公に上がった頃は大旦那がいらして、
そりゃぁとても優しい方だった。
俺みたいなはなたれ小僧にも、お店が終わって夕餉(ゆうげ=夕食)を済ませたら、
大旦那様が自ら手習いとそろばんを教えてくださった。
丁稚小僧でも末は店の一つも構える心構えが大切だといつもおっしゃって、
そりゃぁ上下無く教えてくださったもんだ。
おかげさまで俺も今じゃぁ番頭を勤めさせて頂いているんだ」

「へ~ 偉いんだぁ」
おたみは嬉しげに長次郎を見あげた。

「俺の話ばっかしで、おたみちゃんはどうしていたんだい?」

「あたし・・・・・・あたしは・・・・・・」

おたみは返事をつまらせてじっと目の前に流れる大川を上る川船を眺めていた。
「長さん、船を見ているとゆらゆら揺れる姿が何だかこれまでの生きた証のように
見えるわねぇ」

ふと漏らすおたみのかすかな震えを帯びた言葉に、長次郎はおたみのこれまでの人生が
あまり楽しい思い出がなかったことを感じ取った。

「長さん女将さんや子供さんはいるんでしょう?きっと素敵な人なんでしょうね」
おたみは足元の日向にそっと足を伸ばしてその影をゆらゆら揺らせた。

「俺が40になった時、大旦那様が(そろそろ身を固めて、さらに商いに精を出せばと
薦めてくださって、同じ呉服屋(那賀屋)さんの下働きをしていた
(すず)と言う娘と縁を結んだのだがね、5年後の流行病であっけなくあっちに逝っちまった。
 
子供もいなくて、それ以来俺はお店の離れに棲むようになって、
今じゃぁ大旦那様も亡くなり、後を継がれた若旦那の後見役も兼ねた気楽な身分さ」

「そう それは寂しいわね・・・・・」

「おたみちゃんはどうなんだい?おたみちゃんの器量だ、
きっといい旦那と巡り会えたんだろうね」
長次郎は少しさみしげなおたみの顔色を読むように振り向いた。

柳が川風に揺られて草緑の風を爽やかに運んでくる。

「あぁ 気持ちがいい・・・・・・」
おたみは長次郎の話をそらすように風が頬に触れるのをいつくしむように眼を閉じた。
鬢のほつれがゆらりと流れてキラリと光った。

こうしておたみと長次郎が会瀬(おうせ)を重ねるようになって1年が過ぎた。
これまでに長次郎がおたみの口から聞いたうちでは、おたみも18で商家に入ったが、
5年たっても子が授からず石女(うまずめ)と呼ばれて、散々いじめられ、

挙句逃げ出すように家を飛び出し、東橋から大川に身を投げようとしたところを、
通りかかった花川戸の香具師の元締めに助けられ、
そこで下働きをして生き延びたという。

その頃の仕事が助けになり、今はよろず承り家業の看板を出すまでになったと言う事であった。

よろず承りとは、今で言う何でも屋、引っ越しから買い出し、
部屋の掃除からおさんどんまで困り事全般引受処という漢字である。

何しろ江戸は女が極端に少なく、箱根の関所でも「出女に入り鉄砲」
と言われるほど江戸から出ることを厳しく戒めていたことでも判る。

いわば男尊女卑どころか実際は全くその逆で、
一度女房に逃げられたら再び女房を持つのは至難の業、
この時代をしたたかに生き抜いていたのも実権を握っていたのも実は女であった。

髪結いの亭主なんてのは、まさに男のあこがれの姿である。

まぁそんなことは横に置くとして、おたみは仕事の内容次第で人足手配をやっていた。
これは花川戸の香具師の元で培った人脈が物を言ったわけだ。

こうして時折この万年橋のたもとの茶店で会うのが、
二人にとって一番のやすらぎであり心やすまるひとときでもあった。

今は本所深川千鳥橋を渡ったところにある堀川町に間口2間のささやかな店(千鳥屋
)を構えている。
近所の者からも千鳥屋の姐さんと親しまれているおたみであった。

このところ度々外に用事を作っては出かける大番頭に結城やの主人藤二郎は首をかしげ、
「長さん今日はどちらまで?」
と意味深な顔でにこやかに笑う。

「へぇ ちょいとそのぉ」

「まぁ時には腰を据えてお店のまもりもやってくれないものなねぇ」
と笑うほど、この長次郎はよく外出をするようになっていた。

夕餉の食事をしがら
「この頃の長さんはどうも様子がおかしいね!
何処かにいい人でも見つけたんじゃァないかねぇ、
それならそれで私も死んだお父っつあんに嬉しいご報告が出来るってものさね」
藤二郎は女房のお静にそう話していた。

どうにも気になって仕方のない藤二郎は、長次郎が出かけたその後を丁稚に微行させて、
本所深川の万年橋たもとの茶店で女と親しげに話している長次郎を目撃して報告した。

その日も夕刻に店に戻った長次郎に「長さん好いたお人がいるみたいだねぇ」
と誘い水を向けた。

「えっ 旦那様は何でそのような事をご存知で?」
長次郎は一瞬驚いて藤二郎之顔を見た。

「あんまり長さんが度々出かけるもので、店のものも女房のお静も気になってね、
それで今日はお前さんの出先に小僧をつけたのだよ」

「やれやれ それは又申し訳もございません、
旦那様にまでいらぬ気遣いを致させましたようで、長次郎深くお詫び申し上げます。」

「おいおい長さん、私は嫌味を言っているんじゃぁ無いんだよ、
それどころか長さんにいい人ができてくれたらこんなに嬉しい事はない、
出来ればここらで身を固めて暖簾分けでも出来れば、
私は死んだお父っつあんとの約定が果たせるってもので、
これでやっと肩の荷が下りるというおめでたいことじゃァないか」

「旦那様・・・・・」

「私はね、小さい時から長さんを兄さんみたいに想って育ってきたんだよ、
それは長さんもよく知っているだろうね。おとっつあんからいつも聞かされる言葉は
「長次郎を見習え」だったのさ、時にはシャクでもあったし悔しくもあった、

でも長さんが私に与えてくれた気持ちの優しさはいつも寂しい一人ぼっちの心を
温かく包んでくれたものさ。

長さんの女将さんが流行病(はやりやまい)で亡くなった時は、
私も自分のことのように悲しかった、
それだけに長さんがもう一度女将さんを迎えてくれればこんなに嬉しい事はないんだよ」

「旦那様・・・・・・そこまでこの私のことを」

「あたりまえだよ、私が近所の子供にいじめられていると、
いつも長さんが身を張ってかばってくれた、ひどい時は体中アザだらけになって、
鼻から飛び散った血を拭いもしないで私の前で仁王立ちにかばってくれた、
今もはっきりと覚えてますよ」

あははははは 「そんな時もございましたねぇ・・・・」

「そうだよ、今でもこの店にとっては長さんは大黒様みたいなものだよ、
でもね、そんな長さんにいい人がいるなんて知ったからには
、これはお赤飯で祝わなきゃぁねぇお静」

「その通りでございますよ、まだまだ男盛りの長さんだもの、
旦那様に暖簾を分けて頂いて、新しい店を出されればこんなに喜ばしいことは
ございませんよ」
お静も心から長次郎の事を案じていただけにこの小僧の報告に心が踊っていた。

それから半月あまりの時が流れ、柳もめっぽう色艶を増し、
流れる風にも涼しさが感じられるようになっていた。

長次郎がおたみの店に姿を現したのはその頃であった。
店の用事で南八丁堀の呉服問屋(あかね屋)に出かけたついでに立ち寄ったものだ。

おたみも突然の長次郎の訪問を驚きを交えて喜んだ。
「ちょっと待っててくださいね、この手配が終わったら手が空きますので」
そう言っておたみは出入りの男衆に指図をし、帳面つけを終えて戻ってきた。

「今日は良い所に来てくれたわ、出入りの棒手振り(流し商い)が
生きのいい甘鯛が手に入ったからともってきてくれたので、
それをさばこうと思っていたところだから、ね!食べていけるでしょう?」
と水屋の方に消えた。

女の城にしては殺風景な居間で長次郎はおたみの用意した酒肴を膝前に、
キョロキョロと辺りを見廻した。

「いやですよ長さん!そんなにジロジロ辺りを見回さないでくださいな、
何だか裸の自分を見られているようで・・・・・・」

「ああ こいつは済まなかった、久しく女っ気のない生活だったもんで、
それにしてもおたみちゃんは・・・・・・」

「女っ気が少ないって思っているんでしょう」
おたみは笑いながら手料理を運んできた。

「いやそんなつもりじゃぁ・・・・・でも確かにそう言われればそうかなぁ」

「あっ! やぁね こう見えてもまだまだあたしは女を捨てたわけじゃぁありませんからね!」

「やぁこりゃぁ一本取られましたよ」
長次郎は苦笑いしながら杯を取り口に運んだ。

「こうして女の人を前に酒を飲むなんて久しくなかったからどうもいやぁ
こりゃぁバツが悪くて・・・・あはははは」

「あたしだって、嫁に行った先でも姑が何でも仕切ってたので、
二人で御膳を囲むなんてことはなかったし、ふたりきりの生活はなかったから、
そうねぇ確かに気まずいことは判るわ」
おほほほほ、と顔が耀いた笑顔で心のなかから楽しいという思いがにじみ出ていた。

「甘鯛はね京都ではグジっていうんだって、白身で脂肪が少なく、
水っぽさがないのがいいんですよ。
中でも静岡の興津白甘鯛は美味しいと評判なんですって

身が柔らかいので薄塩で身を締め昆布シメにして刺し身にしますのさ、
身を千切りにして酒で表を拭いた塩昆布とおろしワサビで昆布がしっとり
馴染むまで挟んで置いておき、しばらくしたら昆布を細く切りそろえ
塩と酢橘を振って頂くのが一番美味しいそうですよ。

その間に松川造りを、こちらは皮と身の間に旨味があるので3枚におろして
ハラスをそぎ落として小骨を抜き取り、皮の表に晒を掛けて煮え湯をかけますのさ、
すぐに水に浸して熱を取り晒で水気を吸い取らせ、切りそろえて器に盛る、
それだけのことですけど・・・・・」

「ううん 旨い!この皮目が又綺麗で歯ごたえもよく、なんといっても甘い!
おたみちゃんの気持ちが現れているようだよ」
長次郎は家庭料理の温もりを初めて味わったようである。

「ねえねえ このお汁はどぉ?」
待ちきれないようにおたみは次々と料理を並べる。

「おたみちゃんも食べなよ、俺一人食べるのは気が引けて気が引けて・・・・・」

「まぁそんなぁ あたしはこうして手料理をこしらえて、
それを美味しそうに食べてくれる長さんの顔を見るのが一番嬉しいし幸せなんですよ」
とそそくさと水場に戻る。

「おたみちゃん この汁も美味いねぇ!」

「ああ それはね甘鯛の潮汁といって、お酒で拭いた昆布を土鍋に入れて
しばらくつけ置きしてから出汁を取るのよ、
煮立つ前に昆布を取り出し、アラに煮え湯を掛けて血合いや余分なものを流すの、
綺麗に取れたら昆布出汁に身とお酒を入れて少し弱めの火で煮立つ寸前に
弱火にするのがコツかなぁ。

アクは丁寧に取り除かないとせっかくの色目が壊れちゃうから、
身に火が通ったら塩で味を整えて香りつけに醤油を垂らすの、
仕上げは柚子の皮二欠け三欠け・・・・・・

は~いお待ちどうさま、甘鯛の鯛めしですよ、
これはね、ウロコを落として臓腑を抜き綺麗に洗って水気を取り、研いだ後、
少し上げざるにして水気をとったお米を土鍋に入れて、
昆布出汁やお酒、薄口醤油にみりんを入れて、甘鯛を乗せて炊きあげるの。

仕上げはお酒を振りかけて、なべに水気を絞ったフキンを掛けて蓋を閉め
少し蒸らしを入れると出来上がり!ねっ!」

「うん、こいつもおいしい 香りもいいし・・・・・・けど・・・」
と途中で言葉を濁した長次郎に

「けど何よ?」

「うん 毎日これだと大変だぁ、作るだけで日が暮れちまう」

「だからあたしの商いが成り立つのよ」

「そうか そうだよなぁ、おたみちゃんは頭がいいからなぁ」

「それは関係ないわよ、これも私を拾ってくれた花川戸のお頭のおかげなのよ」

この温もりを大切にしたい、そう想ったのは長次郎だけではないようだ。

「ねぇ 長さんまたいつでも来てくださいな、こんなに楽しい時を過ごせたのはほんと 
初めてよ」
おたみは心の底からそのように思っている。

「うん また寄せてもらうよ」

「約束よ 指切りげんまんしようよ!」

「よし 指きりげんまん 嘘ついたら針千本飲ます!!指切った!」あはははははは
初夏の香りが大川から上がってくる静かな、そして幸せなひとときであった。

数日後おたみの元へ長次郎が訪れた。
手に鍋を提げている。

「なぁに鍋なんか下げて・・・・・」
おたみはおかしそうに笑った。

「昨夜相生町の軍鶏鍋(しゃもなべ)や五鉄と言う所で寄り合いがあって、
そこで食べた軍鶏の臓物鍋が実に美味しかったので主の三次郎さんにご無理を言って
こうして鍋を借りてきたというわけさ、なぁに二人で食べにゆけば済むことだけど、
おたみちゃんとふたりきりで囲むのが俺には一番の楽しみなんでね、

そんな話をしたら、三次郎さんは快く胸を打って(ようがす、どうぞお持ちになすって)
と鍋を用意してくださったのさ」

「まぁ長さんったら可笑しな人!」

そう言いつつもおたみも楽しげに夕餉の支度にかかった。

「こいつはねぇ新しい軍鶏の臓物と新ごぼうのササガキと一緒に
出し汁で煮ながら食べるのが一番!、暑い時にふうふう言いながら流れる汗を
拭い拭い食べる、その後ひと風呂浴びる、こいつがもう堪らないんだよおたみちゃん」

長次郎はまるで子供のように目を輝かせておたみの反応を確かめる。

「何だか聞いているだけでもう あたしなんか鳥肌が立っちゃう ほら 見て見て!」

そう言って腕をまくってみせた、そこには一筋の傷跡が・・・・・・

慌てて隠そうとするおたみ
「おたみちゃん 苦労したんだね、おれがおたみちゃんを探し続けてさえいれば
そんなことまでおたみちゃんを追い込むこともなかったろうに、
ごめんよほんとにごめんよ・・・・・」

おたみはその場に泣き崩れた。

「実はねおたみちゃん、今日は旦那様からお許しを得て俺は暖簾を分けてもらえる事になり、
お店の場所も決まったんだよ、旦那様のご紹介でね南八丁堀に一軒お店を出させ
ていただくことになったのさ、
そのお祝いにとこうして軍鶏鍋下げてやってきたってわけさ」

「まぁほんとに鍋釜下げってって言うけれど、可笑しい!どんな顔して二つ目から
歩いてきたのかしら、うふふふふふ」

おたみはその長次郎の姿を想像して楽しそうに笑った。

その翌月、ここ南八丁堀5丁目角に呉服屋(笹乃屋)が店開きの準備にかかっていた。

無論この店は長次郎が暖簾分けしてもらった呉服店である。
店の前でかいがいしく男衆に指図しているのはおたみであった。

長次郎は最後のご奉公にと結城屋の集金に出かけていた。

夕方近くおたみは夕餉の支度を整えて、明日から始まる長次郎との新生活に
胸を膨らませていた・・・・。

だがいつまで待っても長次郎の姿はこの新所帯に現れることはなかった・・・・・・

翌日朝、本所菊川町の長谷川平蔵役宅に番屋から通報があり、
深川の御厩川岸で昨夜辻斬があり50がらみの男が殺害されたということで、
早速筆頭同酒井祐助ほか数名が駆けつけた。

懐に残されていた掛取り証から北本所の中郷竹町にある呉服屋
(結城屋)の者であることが判明した。

どうやら懐の集金した金子を狙っての辻斬であった。

「銭金を盗むのは理由(わけ)もあろう、だがなぁ、幸せまで盗むのは誰にもありはせぬ!
許せねぇ、だがそいつをひっ捕らえたとて、盗みとられた幸せは、戻っちゃぁ来ねぇんだ、
あまりに不条理ではないか・・・・・・

のう酒井!虚しすぎるぜ  胸が痛んでいかぬ、せめて盗人を捕まえて・・・・・・
辛ぇだろうなぁ・・・・・・」

平蔵は役宅の庭に咲き誇っている梅花ウツギの白さが残された女の哀しみに重なって目に染み、
時折吹いてくる優しさを伴った微風に目を閉じたままいつまでも佇んでいた。



絵図入り 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鬼平罷り通る 5月第1号 「赤い糸」



結城紬


長谷川様やっとご注文のお仕立て物が出来上がりまして、

と上州屋が持参した袷に袖を通しながら平蔵
「ウムこれはまた着心地の良い、中々仕立てが良いと見ゆるのう、
わしはちと右腕が長うござっての、それがちゃんと合わせておる」

「はい 仕立てましたのは手前どもの針子の中でも一番の腕前にて
過日お屋敷にて長谷川様に着尺を合わせましたる者でございます」

「うむ 仕立て上がりというものは、どうもどことなく肩が張って
叶わぬのだが、此度のものはそれがなく初めから着馴染みた着心地で、
おう中々うむ よいよい」

「恐れいります、お着物は着込まれた結城紬でございますが」
「うむ 俺の親父殿から下りてきたものだがな、親父殿もその親父殿からの
下がりものじゃと言うておったわ」

「さようでございましょう、特に結城は幾代も着込まれて初めて
その真価が出ると申します。

茨城の結城は絹川(鬼怒川)と呼ばれるように、
絹の生産が盛んでございました。

元々は屑繭をほぐしまして綿の状態から紡ぎ直し致します、
煮繭(しゃけん)と申しまして、マユを重曹を加えた湯で
一刻(2時間)ほど煮込みまして、柔らかくしたものをたらいに移し、
ぬるま湯の中で5つ6つを拳にて広げながら重ねて1枚の真綿袋を作ります。

この時、中のサナギが生きたまま煮たものを(生き掛け糸)と申しまして、
艶のある丈夫な糸になります。

真綿をのしたものを更に拡げて、端から糸を引き出します、
この時指先にツバをつけてヨリをかけながらまとめ糸に致します。

特に女ざかりの物はツバに粘りがあり、照りの有る良い糸が紡がれると申します」

「ほほ~女ざかりとはこれまた上々 う~んなるほどのう、
中々粋なことを申すものじゃな」

「はい そのようで、これをくくります、カスリは絵図面にあわせて
墨をつけたところを綿糸でくくってゆきますが、これは男手でなされるようで、
始めからおしまいまで一人で為されます、人が変われば染も違うてまいります故・・・・・

括(くく)り作業も少ない所で80亀甲から200亀甲まであるそうでございます」

「ほう、その亀甲とはどのようなものかのう?」

「それは一反の一幅に80の模様が入ったものを80亀甲と呼びますので、
200亀甲ともなりますとかすり模様が400となり、
一反では10万箇所にもなり、手の早い男ででも数ヶ月はかかるそうにございます」

「なんと 数ヶ月も手間ひまかけたものか・・・・・」

「結城は甘撚りのために、織る前にノリを付けます、そのために
織り上がったものを湯通しいたしまして糊を落とし、
仕立てに入ります、これが中々の作業で、
もっぱらこの作業のみ行う商いがあるほどでございます」。

「いやいや さような手間ひまかけたものをこうして我らは
着ることが出来るのでござるなぁ」

平蔵は結城紬の温もりがそこからも伝わってくるような面持ちで渋く燿く袖を眺めた

ところでその‥‥何と申したかなこのお針子は?」

「はい 私どもは(おさえ)と呼んでおりますが、本当の名前は明かしてくれませぬ」

「なんと 本名ではないのかえ?」

「はい 何でも昔好きおうた男が居たそうでございまして、
その男が佐渡から帰ってくるのを待っておると申したそうにございます」

「佐渡だと?てぇ事はよほど重てぇ罪を犯したことになるが・・・・・・」

「なんでも人を手に掛けたとか・・・・・・」

「ふむ いつごろの話だえ?」

「もう5年になりましょうか・・・・・・」


さて、その頃に時を戻さねばならない。
師走を控えて江戸の町も慌ただしさが日増しに色濃くなり始めた12月も終わりの頃
昌平橋を渡った神田明神前の金沢町の呉服店(黒姫屋)の
戸口を開けた丁稚が門口で震えている子供がいると主の清兵衛に報告した
ことが事の発端である。

何はともあれと店の中に入れて風呂を沸かし体を温め、
店のものと一緒に朝餉をすまさせた。

半年ほど前に同じ年頃の娘を流行病で亡くしたばかりの夫婦には、
まさに神様からの授かり物にさえ想え、そのまま育てることにした。

ただ、身にはお守りひとつ持っておらず、名を聞いてもただ泣くばかりで、
それではととりあえず亡くした娘の(おさえ)で呼ぶことにした。

それからの5年程は他人も羨むほどの可愛がりようであった。

だが、おさえが拾われて5年目の12月半ば、清兵衛夫婦に子供が授かったのである。

それまで我が子と思い育ててきた娘よりも実の我が子が可愛くなるのは
何時の世にも変わらぬ事のようで、年がいってからの授かった子供だけに
溺愛も一段と激しく、その分おさえに対して手のひらを返すが如き扱いに
なっていったのは自然の成り行きだといえよう。

「おまえを拾うてこれまで育て恩を忘れるんじゃァないよ!」

女房の(お妙)はおさえに事あるごとに口やかましく言うようになった。

子供が泣いたりむずがったり、挙句は子供が自分たちになつかないのは
おたえがそうしているのではないかと、おたえの子守の仕方が悪いと
折檻する始末、それも身体の見えないところを責めるものだから
そんなことは誰にも気づかれない。

おたえの背中と言わず足と言わず、外から見えないところはアザだらけであった。

寝床についた時から翌朝食事が終わるまでがおたえの唯一の慰めの時でしかなかった。

そんなある日、朝からぐずる子供に手を焼き、
又もやおさえに八つ当たりする女房のお妙。

その場にいたたまれなくなったおたえは、いつも子供を背負って
行く近くの神田明神の門に腰掛けて泣いていた。

まだ10才を出たばかりの子供である。

そこへ通りかかった20そこそこと想われる男が
泣いているおたえに腰の手ぬぐいを渡した。

おさえはもうこの男をここで見かけるようになって半年近くになっているので、
あまり警戒する様子もなく手渡された手ぬぐいで涙を拭った。

男はそのおさえの顔を見てにっこり微笑んだ。

おさえは男に名前を聞いたが男は黙って微笑むだけであった。

この男をよく見かける近所の女の話では、どうも口が聞けないようであった。

ただ定職は無いもののこまめに働くところから薪割りや水汲みなど
力仕事に皆重宝して使っているようだが、
棲んでいる場所も定かではないようである。

実はこの男、名を与助と言い奉公先の主から暴行を受け、
争った挙句主に怪我を負わせ逃亡した時、
主の枕金庫から金子が少々無くなっていたと番頭より届け出があった、
そのために厳しい取り調べがありその際の拷問で口が聞けなくなったようである。

そんな与助の気持ちがおさえには唯一の気の安らぐひとときであったのは
当然といえば当然であったろう。

あるときおさえは与助に
「あたしが15になったらあんたのお嫁さんになってあげる、
その時あたしの本当の名前を教えてあげる」と話した。

与助は黙って静かに微笑みを返した。

それを遠くで眺めていた黒姫屋のおかみお妙が、
「こんな薄汚い奴といたんじゃぁ娘に何をするかわかったもんじゃァない、
お前もお前だよこの島帰りのろくでなしと話をするなんてとんでもないことだよ」

と平手打ちでおさえを攻めた、驚いて泣き叫ぶ娘に
「お前のおもりが下手くそだから娘が変になっちまったじゃぁないか!」
と再び手を上げた。

それを与助がおかみの腕を握って押さえつけた。

「何すんだよこのゴロツキが、汚らわしいその汚い手をお離し!」
おかみはかんしゃくを起こし、「奉行所に訴えてやるから覚悟おし!」
と、毒ついて背中におわれた娘を奪い取るように引き剥がして帰っていった。

その夜おさえが再びおかみのお妙にいじめられたのは言うまでもあるまい。

折檻の激しさは店の者が陰で見ていても怯えるほど凄まじいものであったと言う。

翌日与助はお妙の訴えで捉えられ、
町奉行所の門前で100叩きにあい、放免となった。

その3日後黒姫屋に明け方押し込みがあり、黒姫屋夫婦が殺害され、
番頭の話では手文庫の100両あまりが盗られていた。

店の奉公人は奥の離れに皆休んでいたために朝まで何も気ずかず、
丁稚が戸を開けようとして戸が開いているままになっていることに気づき、
その報告をするために主の部屋に番頭が出向いて事件が発覚したと
町奉行所に届けがあった。

奉行所は先日のおかみの訴えを元に与助を捕縛、
拷問の末与助が恨みを持ってやったと自白、佐渡送りになった。

奉行所では与助とみ知り合いであったおさえが手引をしたのではないかとも疑り、
おさえも捕縛されたが、店の奉公人がおさえと同じ部屋であったために
疑いは晴れお解き放ちになった。

与助が拷問によって自白した事を知ったおさえは取り調べに当たった
奉行所与力の帰りを待ち伏せて与助の取り調べの再考を願い出た。

無論一旦決まった事件を蒸し返すことなど出来るはずもなく、
押し問答の中で、はずみからおさえは与力の首を与助のくれたかんざしで刺してしまった。

幸い一命は取り留めたものの、事の重大性は殺害の意思があったと断定され、
おさえは殺人未遂で石川島寄場送りと決まった。

上州屋は話を続けた。「それから2年の歳月が流れまして、
おさえは再犯の恐れなしという事と、
行状すこぶるよろしいと言うことで1年早く釈放された後、
深川のひょうたん長屋に棲みついたそうにございます。

寄場の中の授産所で読み書きや針仕事を学んで、
それが今のおさえの生業になって生きたと申しておりました」

「おお 加役方人足寄場がお役に立てたか・・・・・
何とも嬉しい思いだのう」
平蔵は自分が老中に言上して、石川島に軽い咎人や無宿者を収監し仕事を与えて、
出所厚生の基盤を築いた。

その結果がこうして花開いたことに少なからず喜びを見出したのである。

ところで上州屋、先程の押し込みの件だがな、確か黒姫屋ともうしたな?」

「はい 間違いございません、神田明神前の金沢町でございます」

「フム確かどこかで読んだような・・・・・・

おい誰かある!」

「おかしらお呼びで!」と筆頭同心酒井祐助が控えた。

「おう 酒井、定かではないのだがこの春ひっ捕らえた急ぎ働きの事件で
神田の押しこみ事件の控えを探してはくれぬか」

「ははっ 早速に!」

しばらくして「おかしら!ございました。
神田明神前金沢町呉服屋黒姫屋押し込みのお調べ書でございます」

「おお すまなんだ!
のう酒井そちも覚えてはおらぬか、
忠吾めが出会い茶屋で拾うてきた話が糸口で奴が捉えて参ったこそ泥、・・・・・・
このお調べ書ではあぶはちの千六と書かれておるが」

「はい たしかそのような名前で、
捕らえた忠吾がクモでのうてよかったと申しておりました。」

「はははっ!虻蜂取らずよのう 忠吾めそこまで読みおったか!わはははは。
うむ、やはりそうであったか、のう伊勢屋、先ほどの与助の話だが、
どうやら下手人は他に居ったようだ」

「何と申されます?では与助は下手人ではなかったと・・・・・」

「うむ これは奉行所の勇み足のようだのう・・・・・・」

「何とも酷い話で・・・・・・
長谷川様なんとか与助の身の証を立てることは出来ないもので?」

「あい判った!明日にでも奉行所に出向き冤罪であることを証し、
その与助とやらを佐渡より呼び戻そうではないか、お上とて人の子、
まして採決間違いとなれば文句も出まい」。

翌日平蔵は奉行所に出向き、事の次第と盗賊あぶはちの千六の
聞き取りお調べ書きを提出。

与助の冤罪はこうして晴れることになった。

それから2月あまりの歳月が流れ、長谷川平蔵のもとに一通の書状がもたらされた。

「何と・・・・・・・」平蔵は深い溜息を漏らして空を見つめた。

平蔵は伊勢屋にお針子のおさえを伴って役宅に出向くよう指示を出した。

翌日伊勢の主がおさえを伴って清水御門前の火付盗賊改方役宅に出向いた。

「おさえと申したな、そなたの仕事はいや実に良い、
ほれこうしてわしは気に入って毎日着させてもろうておる、
ところでな、昨日佐渡のお山より与助のことで返事が参った」

その言葉を聞いておさえは目を輝かせて膝を乗り出した。

伊勢屋から与助が冤罪であった話を聞いて、
密かに本日の知らせに胸も高鳴っているのであろうことが平蔵にもよくわかった。

「おさえ・・・・・・
与助は昨年暮れに労咳で倒れ、そのままもう戻っては来れぬそうだ、
最後までお前が与助に渡した神田明神のお守りを離さなんだそうな、
誠に相済まぬ、お取り調べにもっ
と深く当たればよかったものを、
誠に無念でならぬ・・・・・」
平蔵はおさえの顔を見ることが出来なかった。

おさえは平蔵から渡された与助に持たせたお守りを握りしめ、
声を殺してその場に崩れ落ちた。

この哀しみは声さえ奪うほどの重さであることを平蔵は胸にたたんでいた。

「罪を憎んで人を憎まず、のう伊勢屋、人が罪を犯すのではない、
世間や人が罪を犯させるのだ、
その罪を誰が裁けよう、俺とて罪を犯してはおらぬと言い切れるものではない、
人はみなそれなりに罪を犯し、その重さを胸に仕舞いこんで生きておるものよ、
だがそれをせねばこの世も又地獄、誰かが為さねばならぬ辛ぇ仕事だと想わぬか?

皆それなりにわけがあって道を誤り外道の道に進んでゆく、
その裁き場所を間違わぬよう我らとて心を引き締めて当たらねば、
こたびのおさえのような事件は無くならぬ」鬼と呼ばれる平蔵の頬を
止めどもなく涙が流れていた。

後に市中見回りの途中立ち寄ったとおさえの元を平蔵が尋ねたことがあった、
無論これは口実で、その後のおさえを案じての平蔵の優しさである。

「ところでおさえ お前ぇの本当の名前ぇは何てぇ言うんだぇ?」
と水を向けたが、おさえはただ笑って
「あたしの名前は忘れました」と小さく答えたそうだ。

おさえ15歳の春の出来事であった。

拍手[0回]


鬼平まかり通る 4月第4号 うぐいすの谷渡り


筆頭与力佐嶋忠介

「下等改めと町奉行からもやゆ揶揄されて、俺は火付盗賊になどなりとうなかった。
元の御先手組でいたほうがよっぽどましだ」

下谷金杉町の居酒屋(ちろり)は岡野の居宅のある竜泉寺町からほど近いこともあり、
よく立ち寄る店である。

酔い潰れて居酒屋の土間に座り込んだ同心岡野清三郎、
どうにも手のつけようもないほどにめいてい酩酊している。

「旦那又喧嘩ですかい?その挙句がいつもこうなんだからいけませんやぁ」
「俺はなぁこの太平の世の中、
お先手組なんてぇ今じゃぁなんの用もないお役所で日々のんびりと暮らしていてえんだ、
解るか親父それが何で火付盗賊なんてぇ嫌われものに

この身を預けなきゃぁならねえぇんだ、えっ!クソいまいましい!
見ろよ十手を見せて(火付盗賊改方だ)っていやぁ、皆ビクビクしやぁがる、
その陰でなんて言ってるか知っているかぁ!

下水の蓋だとよ臭ぇ者にフタをする御役目だとさ。
お陰でお前ぇたちの暮らしが守らているってぇのにその言い草は無ぇだろうええっ!
おまけに俺はうちつと内勤め、
日々同心共の報告をしたためる面白くも何ともぇ毎日と来ている。」

「判った判ったよっく解りましたよ旦那、
ですから今日のところはもうお帰りになったほうがよろしいんでは」

「何だとぉ 家に帰れというのか、家に帰りゃぁ帰ったで
クソ面白くも無ぇ女が冷ややかに出迎えるだけの毎日だ!

姑は姑で見栄ばかり張りやがって、俺が火盗改だと言ってくれるなとよ!
あのおやじ義父め!何が旗本でぇ今じゃぁお上の穀潰しじゃぁねぇか」

すでに眼が据わっている岡野を見て、
「やれやれ又岡野の旦那だぜ、又いつものようにざまぁないやね、
お旗本とはいえ3人目ともなれば、あそこまで駄目になっちまうのかねぇ、
上の旦那はたいそうご立派なお役だと聞いちゃぁいるが・・・・・
可哀ぇそうに冷や飯食いはつらいねぇ」

その場に居合わせた旗本奴風体の男が声をかけてきた。
「ねぇ岡野の旦那ぁ酒で憂さ晴らしもなんですがね、
ちょいと面白ぇとこへでも行ってみやせんか?」

「何だぁ 面白ぇところとは何だぁえっ!
この世に面白ぇところなんざぁあるもんけぇ、
どいつもこいつも腹ン中でベロ出しながらロクでもねぇ
御託ばかり並べやがって・・・・・・・

「旦那行きましょうよあたしがご案内しますからさ!」

「女!お前が相手をするってぇんだな?」
「はいはい私がお相手いたしますよ」

「よし!そうと決まれば断るわけにも行くまい、参るぞ何処えでもなぁ」
岡野はよろよろと身体を起こしたが、
ろれつも中々回りにくいほどの酔いたんぼうである、
男に肩を貸してもらいながら店を出て行った。

「大丈夫かいなぁあんなゴロツキ奴の口車に乗りなさって」
店の亭主も少々気になる様子であった。

女と二人の旗本奴に伴われてどこかの居酒屋に入ったまでは覚えている、
だが記憶はそこまでで、後はぷっつり途切れている。

頭が割れるほど痛い、飲み過ぎも度を越すとこのザマだ、
どうにも辛い、それにしても静かだな?

此処は一体どこなんだ?あたりを見回すがとんと覚えのない場所である。
ぼんやりと障子越しに明かりが見える、
目を細めて焦点をゆっくり合わせながら今の居場所の情報を読み取ろうとして、
手が滑っていることに気がついた。

(んんっ?!)みれば右手が真っ赤に染まっている・・・・・・・
ゆっくりと身を返すと、背中沿いに誰かが倒れている、
「おい!」揺り起こそうとしたその者の胸から真っ赤な血潮が
噴き出しているのが薄闇でも観えた。

「んっ!!」・・・・・・
まさか・・・・いや覚えはない、この顔も場所も・・・・・・
一体何があった?

めまぐるしく意識を振り絞りながら状況を把握しようとするが、
記憶が途絶えたままでどうにもならない。

とにかくこの場を離れなければ・・・・・・・
人間というものはこのような時必ずと言ってよいほど同じ行動に出るもので
グラグラする頭を振りながら神経を集中しようと柱に捕まり身体を引き上げる
脇差しの血糊を拭い、鞘に収めてよろけながら外にでる。

(ここはどこだ?)
店の出入口につかまって見渡すと遠くにどこかの寺らしき大屋根が観える。

広い道に向かってふらつきながら歩を進めると、
そこは見覚えのある下谷坂本町のようであった。
寺や寺院がひしめき合うように立ち並ぶところをいつも通るのですぐに判った。

とにかくひとまず家に帰り、ひと風呂浴びねばどうにもならぬ・・・・・・
血と泥にまみれた格好はひど酷いものであった。

「また朝帰りでございますなぁ・・・・・・」
冷ややかな女房の声を背に岡野は水を被り気持ちをシャンとさせようと
風呂場で何度も水を被った。

まだ昨夜のことが飲み込めない・・・・・・
人を殺めた記憶もないし、あの居酒屋に行った記憶が定かではない。
解せぬ!死んでいた奴は一体誰なんだ?

俺とどんなかかわり合いがあったというのか、
どんな経緯で殺めねばならなかったのか・・・・・

岡野は衣服を整え清水御門前の盗賊改めの役宅に向かった。
九段坂をさしかかった時

「あのぉ~お武家様」と声をかけてきたものがあった。

「何物だお前は」怪訝そうな顔の岡野を覗きこむように
「ゆんべは大変なめにお逢いなさいやしたねぇへへへへへっ」

「誰だ貴様は!」

おっと!そのままそのまま・・・・・
油断すりゃぁこっちもついでにバッサリじゃかないやせんからねぇ旦那」

男は間合いを計りながら一定の距離を保つ。
「それにしてもゆんべの旦那はひどく酔ってなさって、
覚えていらっしゃらねぇんじゃぁねえかってね?」
男は誘うように脇道の方へ下がってゆく。

「貴様何を存じておる!」
岡野はその男の後をついて行く格好になりながらも何かを探りだそうとしている。

「何?岡野が出所していないと?」
木村忠吾からの報告を受けて佐嶋忠介は平蔵にそのむね旨を報告した。

「ふむ それで岡野の屋敷では何と申しておる」

「はぁ それが何とも冷ややかなもので
(いつもの気まぐれ、どうぞお構いなきよう)との返事に、こちらが戸惑いました」

木村忠吾が頭を掻きながらそう報告してきたものだ。

それにしてもおかしら・・・・・
忠吾は同輩の岡野の行動が近頃荒れていることは
薄々感づいていたようで「なにか起こさねばよいがと案じておりましたが、
まさか行方不明とは・・・・・」

「おいまだ行く方知れずと決まったわけではないぞ」
平蔵は腕組みしながらじっと眼を閉じている。

「おかしら、岡野の探索に手を回したいのではございますが、
町奉行より先月のお手配引き継ぎにて上方の大盗賊天野大蔵一味が
江戸に向かった形跡があるとのうわさもあり、

此処で探索を分散させるわけにも参らず、いかが致しましょうや?」
佐嶋忠介は困り果てて平蔵の指示を仰ぐ。

「五郎蔵の話では天野大蔵は蛇の平十郎や葵小僧を育て上げた浪人崩れの盗賊で、
そのやり口は凄惨きわ極まりなく、
むごたらしい殺しを平気で犯す悪党とのことだのう」

「はい そのように聞き呼びます」。

「とにかく今は密偵も手一杯であろうし、与力、同心力を合わせて
奴らの動きを探り当てねばなるまい、それが先決ではないかのう」・・・・・・

平蔵もこれ以上密偵や同心達に過剰なおつとめをしいる事には胸が傷んだ。
そうこうしているうちに事件が起こった。

しかも火付盗賊改方が回った後を舐めるように数カ所で同時に勃発した。
まるで小手試しのように目立たないところから炎が上がった。

探索や見回りの情報が漏れている、
まさか・・・・・・平蔵の胸中にそんな火種がくすぶり始めてきた。
「岡野の足取りはつかめたか?」
平蔵の問に木村忠吾は
「それがそのぉ 全くといって掴めませぬ、
あれ以来家にも戻っていない様子で、
さすがの御内儀もあきれ果てておる様子にございました」。

「むむむむむうっ」平蔵の険しい顔が忠吾を震え上がらせた。

重苦しい空気が火盗改の役宅に満ち満ちている。
そんなよどんだ空気の中に岡野の姿を見かけたという密告があった。

「どこだ!」
佐嶋忠介はその情報の出どころを確かめるよう筆頭同心の酒井祐助に下知した。
出処はすぐに知れた。

しかもその出処は岡野清三郎の出入りしていた居酒屋(ちろり)の亭主からであった。

「いえね、今朝ほど岡野様が印籠を此処に落としたようなので
もらってくるように頼まれた使いのもんだと言いやして
遊び人風の男がやって参ぇりやして、

確かに岡野様の印籠はお預かりいたしておりやしたので
渡しやした。お預かりいたしやしたおり、岡野様が
(これを取りに来る奴がおるかも知れぬ、
その時は面倒でもご亭主その者の後を微行てくれ、

決して深追いはするな!遠くで様子が分かる程度で良い、
その後そのことを火付盗賊に伝えてくれ)と申されやしたので、

早速娘のおきよに後をつけさせました」
そばから娘のおきよが
「岡野の旦那様は男連れで、お侍に囲まれるように路地の奥に消えてゆきました」

「で、どこらあたりだ?」
「へぇ 坂本町の養玉院のあたりでございます、
その奥の沼のそばの家にお入りになられました」

「早速その辺りをくまなく探索せよ」
佐嶋忠介の声にも少し力が湧いているようであった。

坂本町を東に入った突き当りに沼があり、
更に向かいは小屋敷などが立ち並び、賑を見せている場所であった。

その傍らにひなびた居酒屋のようなたたずまいの家が見えた。
反対側の沼のはずれにある空き家の土塀の陰に
身を潜めた小房の粂八の姿が見えたのはその後すぐであった。

翌日もその又翌日も交代で密偵たちが二人一組で昼夜なく張り込んだ。
その日は朝から雨が降り止まず、見通しは極端に落ちた。

だが、その雨の中を利用して家の外から動きが見え始めた。
一人二人と三々五々入る人影が増してきた。

「長谷川様にお知らせを!」
五郎蔵が伊三次に指示を出す。

「動きが出始めやしたね頃五郎蔵さん」粂八が口を切る。

「実はね粂さん、この家を張ることが決まった時、
長谷川様が妙なことをお言いなさってね、
おれにもとんと見当はつかねぇんだが、
とにかくお言いつけ通りあの家を見張ることだよ、
ほんの些細な事も見逃しちゃぁならねぇ、
これが長谷川様のお言いつけよ」

「何でござんしょうねそいつは・・・・・」

粂八にもおまさにも全く理解できない様子である。

周りはだんだんと夕闇が迫り始め、人の出入りもそろそろ終わりかと想われた。

「今日はこれでおしまいかねぇ」

そんな話をしていると、沼の方に人影が現れ何かを沼に捨てたように見えた、
人影はもう判別がつかないほどではあったが、
何かを捨てたことだけは水音で確かである。

「粂さん!これまで何日も張っているが、こんなことははじめてじゃぁないかい?」

五郎蔵の言葉に粂八も
「確かに・・・・・」

じゃぁこいつが長谷川様がおっしゃった気を配るってぇ奴?」

「違ぇねぇ、すまねぇがこのことを急ぎ長谷川様にご報告してくれねぇか」
五郎蔵の顔が引き締まっている。

それから二刻(四時間)あまりが過ぎた頃、
平蔵を始め火付盗賊の面々が駆けつけ、
蟻の這い出る隙間もないほどにその居酒屋を取り囲んだ。

月は満天に昇り明々と沼にその姿を映し込んでいた。
「家の前後を固めた捕り方に
「かかれ!」平蔵の号令が闇夜を切って飛んだ。

大槌を振りかざして酒井が戸を叩き壊した。
「火付盗賊改方長谷川平蔵である、神妙にお縄につけ、
さもなくばこの場にて切り捨てる」
と大声で呼ばわった。

「クソぉ!」あちこちで叫びと悲鳴や罵詈雑言が飛び交い、
月夜の明かりだけの交戦が始まった。

素早く盗賊方により明かりが長押などに打ち込まれ、
外には高張提灯が掲げられた。

ぎゃ!グヘッ!
切り伏せられ、あるいは十手で骨を打ち砕かれて悶絶する声にならない声が
飛び交う混戦の様子ながら次々と捕縛や打ち倒された者が外に転がり出て来た。

「きさまぁ岡野清三郎!」
木村忠吾が外に飛び出した男を追って飛び出してきた。

それを認めた平蔵が
「忠吾!岡野はわしが命じ、奴らの懐に飛び込んでくれたのよ、

岡野ご苦労であった、それ!残りのものを残らずひっ捕らえよ」。

こうして今までどうしてもしっぽさえ掴めさせず、
上方から江戸に向かってその名をはせた名うての大盗賊天野大蔵は
平蔵によって切り伏せられ、この地を朱に染めて果てたのである。

斬り合いが始まって小半刻(三〇分)、やっと元の静けさに戻った。

「おかしら!これは一体どのような訳がござりますので」
木村忠吾が平蔵に詰め寄った。

横から佐嶋忠介が
「忠吾、お前も天野大蔵が上方よりこの江戸に入るという町奉行よりの通達は
存じておったであろう、

だがなぁそれ以外何の手がかりもなくこの狂気じみた獣を
江戸に入れる事はいかにしても避けたい。

盗賊改めとしては手をこまねいておるわけにはいかんのだ、
それでおかしらより岡野清三郎に白羽の矢が立ったというわけだ」

「天野大蔵の事は我らもよく承知いたしており、
市中見廻りでもそれとなく眼は光らせておりました」

忠吾は憤懣やるかたなしと、鼻の穴をふくらませてふくれっ面の面持ちである。

「そこでだ、岡野に因果を含めてこの大事なお役を隠密裏に与えたのだ。
お前ぇ達だと顔が効きすぎておる、どこで面が割れるやも知れぬでな、
岡野の腕と知識に頼っての隠密行動であった。

相手が引っかかるかどうかは5分と5分、不案内の土地で仕事やらかすにゃぁ
何が一番大切だと想うかえ?土地カンであろう?

そこで岡野の仕事を逆用させるという戦法に打って出たのさ」

「と言うことは、岡野様の帳面つけ・・・・・
成る程岡野様ならば市中見廻りの刻限なども承知しておりますゆえ・・・・・・
あっ そういう裏がござりましたか」
忠吾もやっと納得がいった様子である。

「そこで下谷の居酒屋(ちろり)での度々の大芝居よ、
美味ぇ事に相手が乗ってくれたまでは良かった」

「はい そこからが問題だと考え、前もって亭主に印籠を渡し、
これを受け取りに来る奴があらばそいつの後をつけてくれるよう頼んでおきました」

「それよ!それがこの度の糸口になったと言うわけさ」。

「しかし岡野、そちを取り込むにはどのような手口を用いたのだえ?」
平蔵は岡野がいとも簡単に仲間にならされた手口に興味があった」

「それがおかしら、私を酩酊させ、その後で殺人の芝居を打ったのでございます」

「おいおいちょいと待てよ、人殺しとな?」

「はい それが又手の凝った芝居でございまして、犬か何かを殺ったようで、
その血を私の脇差しに塗りつけ、
傍に見知らぬ男が血まみれになって転がっておりました。
無論そいつの血も犬の血でございましょう、

私はこれが奴らの仕掛けだと勘付いて、芝居を続けたのでございます」。

「な~るほどなぁ、道理で殺しの話が町方にも届かぬはずだわい。
死人が出れば仙台堀の政吉からつなぎが来るはずだからのう」

「えっ おかしらはそこまでお手配済みで・・・・・・」
と忠吾

「忠吾 人の上に立つということはそこまで気配り無くば、
あい務まらぬものよ裏の又裏それを読み取ることが最後の詰めにつながると言うものだ」
佐嶋忠介の言葉に忠吾、深く納得の様子である。

「で その後はいかが相成った」

「はい 翌日お役宅に出所いたそうと九段坂にさしかかったおり
小者から声をかけられ、私が昨夜仲間に口論の末手にかけたと申すのでございます。
其奴の始末は済ませてあるので心配はいらないと、
その代わりちょいと手伝ってほしいことが・・
とこれが引き込みの手口でございました」。

「ふむ よくある手だなぁ、だがお前の事は相当探ったはずだぜ」

「そのために、あちこちで喧嘩をふっかけ、
酒を喰らいそれなりに仕上げておりましたので」

「うーむ よくぞ耐えてくれた、父御にもさぞや迷惑をかけたであろうのう、
申し訳ないとこう長谷川平蔵が申して居ったと伝えてはくれぬか?」

「いえ それがでございます、
義父どのは、私が火付盗賊になったことを無念に思っているような節がございます」

「さようか・・・・・・」
平蔵はその言葉の意味をよく承知している。
盗賊改めには今以上の立身出世はないのである。

「すまぬなぁ岡野 お内儀もそなたの働きをいずれは判る時がまいろう、
さんざんの悪口雑言を流してくれるほど器が大きければよいのだが・・・・・」

その翌日岡野が息せき切って役宅に出所した。
「おかしら!家内に此度の一件の顛末を話しましたら態度がガラリと変わりまして、
それはそれはよく仕えてくれます、

大盗賊を相手によくぞお勤めを果たされましたとそれは
まぁ今までとは天と地の開き、あはははははは、
おまけに義父どのも(手柄であった、岡野家の面目が立った)
とあちこちに話しておるようでございます」

「ほほう 雨降って地固まるの例えではないか、
いやいや誠に祝着至極!」平蔵もその嬉しさは格別の思いで聞いた。

かつて自分の義理の母親に邪険な扱いを受け放蕩無頼を続けた思いがあったからである。

のどかな春の日差しが役宅の庭にも満々と満ち、
どこからかうぐいすが鳴きながら飛び去った。

ほ~鶯の谷渡りか・・・・・

「はっ?あっ おかしらもまだまだ元気でござりますな」
と控えていた忠吾が口を入れる

「忠吾、そちの申しておるものとはちと違うのだな」

「はぁ何がでございましょうか?」

「忠吾お前は少し心構えが間違ぅておるようじゃな、
うぐいすわな、己の縄張りに鷹なぞが入り込んだおり
巣のあり場所を悟らせないために警戒の声で移動しながら遠くへおびき寄せるのよ、
これを鶯の谷渡りと申すのじゃ、」

「えっ さようで・・・・・・私は又・・あの・・・」

「フム であろうよ!お前はな」

「あっ おかしら、只今のお言葉は少々そのぉ何と申しますか魚の小骨のような響きが」

「おう 判っておるではないか、いやそちも中々修行の甲斐があったと言うか 
わはははは何とも情けないと申すか いやはや わはははは」

「おかしら・・・・・そのわはははは更にこの木村忠吾の胸に・・・・・・

「おい忠吾 岡野はのう、己が隠密同心であることを奴らに悟らせないために
我が身も家名の立場も振り捨てて大芝居を打ったんだぜ、

何事も大声で喚くほど真から離れるものよ、それを吟味する力を養わねばのう!」

「ははっ!真に仰せのとおりかと存じます、
ところでおかしら此度の首尾をいずこかにて喜び合いとうございますなぁ」

「はははっ こ奴め、そういうところだけには目が届きおる、
あい判った!何しろ大物を釣り上げたのだからな、
よしおしはら鴛原の九兵衛のところへ繰り込もうではないか!」

「えっ!あの芋酒の・・・・・
よろしゅうございますなぁ、その後が更にお楽しみでふふふふ」

「おい忠吾 お前ぇ随分と嬉しそうではないか!」

「だって おかしら!芋酒とくれば九兵衛も申しておったではござりませぬか
(今夜はもう岡場所へなと繰り込んで白粉くせぇのでも抱いてみるかぁ
なんて勢いも出てねぇ!)
いやぁ あの親爺の口車に乗っかってみとうございます」

「やれやれお前ぇはどうしてもそこに落ち着かねばすまぬようだのう」
「はぁ かたじけのうございます」
「・・・・・・・・・・」

拍手[0回]


4月2号 なめろう 鬼の居ぬ間に



忠吾は谷中いろは茶屋事件以来市中見廻り区域を新宿方面に振り変えられ、
しばらくはおとなしくしていた。
が、
さよう が、である。

おとなしくしていては忠吾のなおれ・・・・・
と言うわけでもあるまいが、
牛込弁天町の宗参寺の門前近くにある
新しい出会い茶屋をしっかり確保していた。

今日も今日とて見回りの途中をこの(けころ茶屋よしみ)に潜り込んで油を売っている。

昼間の客だから、まぁお忍びという事は承知で、
女将もうるさい詮索もなし、
女もあっけらかんとしたもので、

キセルの吸口を忠吾に向けながら気だるそうに
「ねぇ あたし眠たいわ、昨日の晩の客がしつっこくてさぁ、
あんまり寝てないのよぉ」
と背中を向ける。

「おい それはないだろう、俺は金を払ってこうしてお前のために通っているんだ、
もう少しは気を使うことは出来ないのか」
少々むくれ気味に忠吾は女を仰向けに起こす。

「だからお願いって言っているじゃァないのよぉ」
大の字になって天井を睨みながらうそぶく女に忠吾は少々持てあまし気味のようで
「なぁ もう一度だけ もう一度だけでいいから・・・・・・いいだろう!」

「早くしてね!」
女はふてくされながら忠吾のなすがままに知らぬ顔である。

これじゃぁまるでカエルの面にションベンだ!
忠吾は味気なさに、それでも払った分は取り戻そうと頑張ったようである。

ひとときほどして茶屋を出た所で、小雨が降りだし、
やむなく済松寺門前に雨宿りするはめになった。

「くっそう!何が春雨だ!あ~あ こんな時はいい女に出会って
「あら 忠さま雨が・・・・・
とか何とか相合傘でむふふふふっ!
どこかでしっぽり濡れて・・・・・・」
あ~あ 市中見回りかぁつまらねぇなぁ。

そこへ少し年増の女が寺の中から出てきた。

忠吾は、ちらっと見るでもなくその女を目で追った。

すると女が寄ってきて
「嫌な雨でございますねぇ」
と忠語の眼を流し気味に見た。

ぶるぶるぶる!
と忠吾は心の身震いを覚えた。
(いい女だなぁ少々増の女だが、
それが又この雨の中色めき立っていや中々・・・・・)
すでに目尻は下がっていたのかどうか、
「お武家様はどちらまで?」
と艶然とした恵美で忠吾を見た。

「わしか?飯田町まで帰るのだが、お前はどこまで帰るのだ?」
と 問い返した。

「この雨は当分止みそうにもありませんねぇ、
ねぇお武家様この先にちょいとした店がありますのさ、
そこで濡れたお召し物も乾かしがてら一休みはいかがでしょう?
1杯お付き合いくださいましな」
と忠吾の袖を引くように誘いをかけてきた。

ここまで誘われて断る忠吾ではなかった。

「さようだなぁ それもよし!よく見ればそなたも中々の美形、
美しいおなごの誘い水を断ってはこの木村忠吾男がすたるというもの、
よし!さよういたそう!」
と大見得を切ったものの心の中はもう天にも昇る心地、
相合傘でいそいそと向かった。

「奥を借りるわよ」
と声をかけてかつて知ったるふうに奥の部屋に上がる。

「ここはよく来るのか?」忠吾の・・・
いや盗賊改めの癖というか習慣というべきか、踏み込んだ問をした。

ふふふふふふと笑って
「あら 気になります?あたしの知り合いがこの近くで
それで教えてもらっただけで、初めてですわ」
と含み笑いで応えた。

夕刻間近とあって、ついでに飯でも食って帰ろうかと
「美しいおなごに酌をされつつの腹ごしらえも悪くはないなぁ」
と、
忠吾は飯の注文も出す。
「今日はなめろうでございやすが、それでよろしいでござんしょうか?」
と亭主が声をかけてきた。

「なめろうかぁそいつは良い、それにしてくれ」
さっそく熱燗が出され、
勧められるままに忠吾は盃を空けた。

なめろうとはアジ・サンマ・イワシ・トビウオなどを3枚におろし、
味噌・ショウガ・シソなどを乗せ、そのまままな板の上で細切れに
粘り気が出るまで細かく叩く。

ホタテやアワビの殻に詰めて焼くのをさんが焼きと言い、
飯の上に乗せてお茶や出し汁をかけたものを孫茶と呼ぶ、
元は漁師のまかない飯である。

(ゆっくり飯を済ませ、酒も程々、今からしっぽり濡れて程よい時刻、
後は役宅に帰るだけだ)
忠吾は程よく酒も廻り、ほのかに肌の色も桜色に染まりかけた女の
首筋から胸元にかけての色香に眼を投げつつ、
これから先の出来事に思いをはせ・・・・・

(ドカリ)と前のめりに倒れこんでしまったのは忠吾。

「お武家様 お武家様!」
揺り動かされてぼんやりとした頭で意識で首をもたげた。

そこには亭主の顔が・・・・・・・

「ううんっ?何だぁ~どうしてお前が此処に!女はどうした!?」
忠吾は現状がまだ飲み込めず亭主に問いただした。

「とっくにお帰りになりやした、お連れ様はお疲れのようなので
もうしばらくそっとしておいてくださいな」
 と、あっ それからお代はお武家様から頂くようにとのことでございましたので、
よろしくお願い致します」

「何!帰った!? うううううう!くそ!やられた!」

忠吾は女の話が今更良く出来ていた事にここにきてやっと気がついた様子である。
「金か!・・・・・」
と懐に手を入れて・・・・・・・・

「しまった!やられた!無い無い無い!金が無い」

「お武家様ご冗談を!」
亭主が忠吾の袖を掴んで酔の覚めた忠吾の顔を覗き込む。

「冗談ではない!それどころか大切な十手までもやられた!」
忠吾は顔面蒼白になった。

(おかしらに何と申し開きをたてよう、
いやそれどころか腹かき切ってお詫びしてもおっつかないことを起こしてしまった)

胡散臭い顔で忠吾を見る亭主に
「俺は盗賊改め同心である」
と吐き捨てるように名乗った。

今度は亭主がたまげた。
「火付盗賊のお役人様で・・・・・・
解りやした、本日のお代は後日ということにさせていただきやす」
と切り出した。

「亭主!それよりも先ほどの女だがな、此処へはよく来るのか?」

「いえいえ 本日が一見のおかたでございやす」

「と 言うことは、どこの誰かも判らぬのだな!」

「はい 全くさようで・・・・・・」

忠吾は途方に暮れた。

(おかしらにバレずになんとか女を捕まえる算段をせねば・・・・・・)

師走に扶持米の代金を落とした気分よりももっと輪をかけた
悲惨な心持ちで店を出た。

「忠吾どうした、そんなに青い顔をして、腹の具合でも悪いのか?
うさぎ饅頭の食い過ぎではないのか?」

同心の心配そうな声も忠吾の耳にはまるで他所事の様に聞こえるばかりであった。

それから半月ばかりが逃げるようにすぎさったが、
一向にあの女の足取りは掴めないまま、いささか呑気者の忠吾も困惑の究極である。

(事件はふりだしに戻れ、そこに必ずつながるものが残されているものだ)
平蔵の日頃の口癖を思い出した忠吾、くだんの店に出向いた。

忠吾の姿を見て「アッお武家様!」
と、亭主が寄ってきて
「実は先日女がやってきて、旦那のことを聞かせてほしいと言いやすんで、
盗賊改めの旦那だと教えやしたらポンと2朱をくれやした」

「何!あの女が来たのか!、
で どこに住んでるか聞いたであろうな?」

「へっ?何故でやす?あっしには関わりのねぇこって」

「このぉ!」
忠吾は亭主の胸ぐらを掴みあげて拳を振り上げた、だが

「あっしに振り下ろされやしてもわっしはなにか悪いことをしたって
おっしゃいやすのならそれもしかたがございやせん、けどねぇ旦那ぁ」

むむむっ!忠吾は振り上げたゲンコをブルブル震わせて真っ赤な顔で
「おのれ おのれ!!!!」
と 喚くしかなかった。

その数日後、四谷塩町1丁目の小料理屋「音羽屋」に賊が入ったと
清水御門前の火付盗賊改方役宅に届けがあった。

知らせを受け取ったのは筆頭同心酒井祐助であった。

酒井の聞き取りでは、店の者の話だと
「火付盗賊改方だと名乗られ、朱房の十手を見せられたので
潜戸を開けたら目だけを出した数名の盗賊が押し込み、
いきなり殴り倒され、寝ていた家人3名も縛り上げられさるぐつわをされ
手文庫にあった金子30両程が盗まれていた。

あっと言う間の出来事で、盗賊の人相も皆目見当もつかない状況であった。

火付盗賊改方役宅ではこの話で持ちきりのところへ、
朝の挨拶に立ち寄ったものだから、木村忠吾は仰天して立ちすくんでしまった。

「忠吾が出所致さば即刻部屋に来るように」
と平蔵からのお達しが出ており、
酒井が
「おい忠吾お頭がお部屋に参れとのお言葉が出ておるぞ」
と同心部屋に控えていた。

「どうした、やけに顔色が悪いぞ、まぁとにかくおかしらの元へ早く行け!」
と背中を叩いた。
よろよろっと忠吾は腰が砕けたかのようによろめき、
顔面蒼白で平蔵の部屋前に両手をつき
「木村忠吾ただいま参りました」
と震えながら小声をかける。

「おお 忠吾か・・・・・」
平蔵の重たい声が忠吾の身をすくませた。
「忠吾、確かそちの持ち場は牛込方面であったよな」

「ハイさようにございます」

「忠吾!そなたの十手を持っておろうな!」

「ははっ ・・・・・・アノ・・・・・そのぉ・・・・」

「持っておるのだな!」

「はぁ‥‥‥‥‥‥実は・・・・・・」

仕切りの戸がグワッ!!と開き、怒りの形相で平蔵が立ちはだかっていた。

「ははっ~~~~面目次第も」

「この大馬鹿者!貴様のしくじりがこの火付盗賊改方を窮地に
追い込んでおることを承知いたしておるのか!」

平蔵のかつて無い激しい言葉に木村忠吾はつまみ上げられたオケラのように
両手を頭の上であわせながら床板に顔を押し付けて震えている。

「忠吾!何故だ!何故だ!火付盗賊改方同心ともあろうものが、
何故かようなことにあいなったかわきまえておろうのう!」

平蔵のすさまじい剣幕に忠吾は為す術もなくただただ頭をこすりつける以外なかった。

「おかしら・・・・・・」

横に控えていた佐嶋忠介が小声で平蔵をなだめる。

(むむむむっ!)
平蔵は思わず大きな声になったことをいかようにすればよいか言葉をつまらせた。

「ところで佐嶋、十手の出どこは判ったが、相手がこれでは皆目見当もつかぬ、
急ぎ密偵共を集めことの重大さを知らせ、皆で手分けして探索に当たれ!
よいな 他言無用だぞ!」
そう言って平蔵は戸をピシャリと閉めた。

そしてその障子の向こうから
「忠吾!腹を切るでないぞ」
と言葉が続いた。

「おかしら・・・・・・・・」
忠吾はあふれる涙を拭うことも出来ずその場にうずくまっていた。

それからひと月あまり立った梅雨のまえぶれか、
あじさい色の煙の中で事件は起こった。

小石川の船河原橋たもとにある小料理屋(田嶋や)に賊が入った。
手口が同じ所からも、過日の一味であることは調べるまでもない。

どうにも打つ手が無い、証拠らしきものを何一つ残さず、
あっという間の押しこみである。

このたびは町奉行所に届けがあり、
事の重大さが町奉行のところにまで露見してしまった。

仙台堀の政吉がこの情報を平蔵に持ち込んだことから火盗改に判明した事件であった。

その後2月あまりの間に立て続けに3件の同じような手口で押し込みが発生。
いずれも小商いの店が襲われている。

それからまもなく、老中若年寄京極備前守高久下屋敷に呼び出された平蔵は、
大構えの門をくぐりながら、ふっと振り返り
(再びこの門を潜って表に出ることはないかも知れぬ)
と深くため息を残し、取次のあないされるままに屋敷内に入った。

京極備前守は正座したまま懐に両手を預けて眼を閉じたままである。

「長谷川平蔵お召により参上つかまつりました」
低頭したまま面を上げることも出来ない。

「平蔵!此度の1件、単なる物盗りだけでは済まされぬ、
そちは言わずともよく判っておろうが、事は十手を使っての物盗り、
お上のご威光にも差し障りが出よう、何か方策は考えておろうな」

「ははっ この長谷川平蔵が腹を召せばすむことならば即座にこの場にて
腹は切る所存で出向いてまいりました。しかし、
それでお上のご威光が戻るわけではござりませぬ。

この一命を賭してでも解決いたし、そのあとにて備前守様のご裁断を仰ぎたく、
何卒もうしばらくのご猶予を頂戴いたしたく存じます」

白装束姿の平蔵を見て
「あい判った、老中や町奉行からも厳しい批判が噴出いたしておる、
だがなぁ平蔵、そちをおいて他に誰がこの厄介な問題を引き受けるものがおろうか、
わしも此度は腹を決めてお上に言上いたした。

そのつもりであい努めよ、決して早まるではないぞ、頼むぞ平蔵!」
京極備前はそう言い残して座を立った。

低頭したまま平蔵は、流れる涙を畳が吸い込むに任せて胸の熱いまま
動くことも出来なかった。

だが、平蔵の思いをよそに密偵たちの必死の探索や聞き込みも、
全く霞の上の出来事のように影すらつかむことが出来なかった。

平蔵と筆頭与力の佐嶋忠助は絵図面を開いて、
これまでに届けのあった被害者の場所や店、奉公人、被害額など詳しく書き込んでいた。

そこに浮かび上がったものは常に同じ条件が揃っていたのである。

「のう 佐嶋!こいつは少々変だと想わねぇか、
押し込みに入られているところは皆小料理屋や小商いの茶屋ばかり、
おまけに被害額はその場で即座に手に入ぇる小金と来ている。

こいつぁ大掛かりな仕掛けなどなく、行き当たりばったりと見るがどうだな?」

「確かに・・・・・おかしらの申されます通り、
計画的と言うには稼ぎが少のうございます。

おまけに小料理屋や茶屋など店構えも小さく、
従いまして中に詰めている人数も限られたものばかりと見受けられます」

「ウム まさにその通りよ、
こいつぁ俺達が抜けておったやも知れぬ、
早速町方より被害の届出書を借り受けてまいれ、
それとな、
この間に料理屋などに連れ込まれて懐をやられた者がいないか、
それも解るだけでも聞き出してくれ。

ついでにだが、女に誘われて懐をやられたものの被害届があらば、
其奴の身元も確かめておけ。

う~む 確かにうかつであった」

平蔵の顔に暗闇の中にも遠くにささやかな明かりの見えたことを
読み取ることが出来た。

届けのあった被害者の聞き取り書から、
本人のお店(たな)の名前と主の名前が書きだされた。

「よし、明日から俺とお前でこの店の主から聞き取りをいたそう」
そういった平蔵の顔はどこか安堵の色が浮かんでいる。

翌日から二人の聞き取りが始まった。
無論与力・同心にも隠密の行動である、
これは木村忠吾の立場を配慮してのことであり当然であろう。

それから数日後には情報が集まった。

それによれば、賊は3名で、一人は女のようであり、
左の目尻にほくろがあることが判明した。

他の一人は上背もあり、
がっしりとした体躯からもこの中では頭分のようであること、
残りの一人は痩せ型で、甲州訛りがあった。

連れ込まれて懐をやられた数名の物の口からは確かに左の目尻にほくろが
あったことが一致している。

その日遅く再び密偵たちにつなぎが届いた。

「遅くからすまねぇ、集まってもらったのは外でもねぇ先にあった十手を
小道具に使った押し込みの一件だがな、
明日からお前ぇたちにこいつらの条件で聞き取りをやってもらいてぇんだ。

聞き取り先は牛込・四谷・小石川あたりの小料理屋で、
一見の客で男連れで立ち寄った女を当たってくれ、
左の目尻にほくろのあるのが特徴だ。

沢田はこれまでに被害のあったお店(たな)の主に、
このほくろの女がおったか確かめてくれ。

おそらくはこいつが決め手になるだろうから、心してかかってくれよ、
頼むぜ、そしてな、こいつが大事の一番だが、
もし其のような女連れがあったというおたながあらば後日十手を見せて
お上のご用と言ぅて店を尋ねる奴があらば、決して店を開けるではない、
そやつらは盗人だと言い含めておけ、そうして近くの番屋にすぐ届けるように
申し渡しておけ」

平蔵の言葉に密偵たちは気の引き締まる思いで耳を澄ましていた。

数日が瞬く間に過ぎ去った。

その間にまた一件押し込みがあった。
町方からも盗賊改めに非難の矛先が向いたことは当然のことであったが、
平蔵は自分の胸一つに納め、盗賊改めとして表立っての騒ぎは控えていた。

その日は日差しも高々と上がり、川風も無く重苦しい時ばかりが流れていた
7月も半ばに差し掛かっていた。

密偵たちの昼夜を問わない聞き込みの成果が見えてきた。

真っ黒に日焼けして見る影もないおまさの肌から汗が滴り落ちていた。

「長谷川様、どうもその女は(おかじ)という名のようで、
内藤新宿法善寺前の小料理屋にしては少々大商いのおたな都留屋に
幾度か客連れで寄ったそうで、
店の者もよく覚えていたそうでございます」

「なに!女の身元が判明いたしたか!おまさよくやった!
いやよくやってくれた!でかしたぞ

おそらくは奴らもそろそろ潮時と読んでいるのであろうよ、
其の都留屋ともうしたな、奉公人は何名ほどかな?おまさお前ぇのことだ
そこんところも・・・・・」

「はい そのところはまかないの話しによりますと、
主人夫婦と番頭それに板場の板長の四名が寝泊まりをいたしておりまして、
後は通いだと申しておりました」

「それだ! 大商いの割に寝泊まりは少人数、こいつは押しこむにゃぁ
好都合ってぇもんだ なぁ!よしそこに的を絞って昼夜交代で見張れ!
わしも出向こう、ああ五鉄の三次郎に差し入れの手配も頼んでおこう、
済まぬが早速五郎蔵や彦十にもかようわしが申していたと伝えてくれ!
暑いさなかをすまぬのうおまさ」

「長谷川様、まさはそれが仕事でございます、では早速つなぎを」
と、おまさが裏木戸を開けて出て行った。

その夜からおまさに彦十、五郎蔵に粂八、それに伊三次が応対で昼夜見張りを続けた。

それから二日目の夜、軒にさげた風鈴の音が絶え間なくなり続ける夜半動きがあった。
法善寺脇の小間物屋上総屋一兵衛宅の店の二階が雑貨の置き場になっているのを
無理を言って借り受けていたが、
少し斜向かいではあるものの都留屋の店はよく見える。

「五郎蔵さん 起きておくんなさい!」
粂八の声に五郎蔵が大きな体をむっくりと起こした。

「動きが出たかね粂さん・・・・・」

「へぇこう暑くっちゃぁ寝てもいれやせんや、風鈴の音がやんだので
風も止まるかとひょいと外を覗きやしたらこの月明かりでさぁ、
人影の動く気配がしやしてね目を凝らしてい見ると三人の影が都留屋の戸を
叩いているじゃぁござんせんか、もう子の刻なんで店の者はとっくに休んでおりましょう、
そこをついたようで、店の中に入って行きやした」

「わかった!おまささんは彦十の親父っつあんとこのことを
すぐに長谷川様におつたえしてくれ、伊三さんは残って、
向かいのおたなを見て来てくれまいか、その後長谷川様に報告を頼みてぇ、
俺は長谷川様のお言いつけ通り奴らの跡をつけて行く先を突き止める、
お前ぇさんは俺と一緒にきて、奴らの逗留先をつき止めたら長谷川様につないでくれ、急げ!」

4名が上総屋の店の陰に潜んでいると、都留屋から3人の姿が出てきてそのまま
内藤新宿をへて甲州街道の方へと向かっていった。

五郎蔵と粂八はひっそりとその一行の後を粘りながら微行(つけ)ていった。

一行が足を止めたのは下高井戸宿の曹源寺裏手の奥にある百姓屋であった。
落ち着く先が決まった所で粂八が清水御門前の役宅に走った。

下高井戸から清水御門の役宅まで片道三里の道を粂八は駆けた。

役宅ではすでに出かける用意の整った平蔵や佐嶋忠助が控えており木村忠吾の顔も見えた。
平蔵一行が下高井戸に到着したのはすでに日がゆるやかに昇った頃である。

相手は3名ということもあり、捕り方もなく平蔵以下少数の手勢で廻りを固めた。
寺の奥まった場所なので、普通には人の通りも無い、

「どうだ 動きはないか?」平蔵の登場に五郎蔵は安心した風で

「へい 昨夜以来全く出入りもなく、廻りを確かめやしたが裏から逃げた様子もございません。今朝ほど男が一人井戸端に出て水を組んでいたようでございますので、
まだ中はそのままと存じます」と報告した。

「おおご苦労であった!、奴らが動きを始める前に打ち込もう、
佐嶋は忠吾と五郎蔵達で裏手に回れ、残りの者は家の前を3方から囲むように
包み込んで逃さぬように打ち込みをかける、いそげ!。

表から平蔵が戸を蹴破って打ち込みをかけた、おまさと彦十、それに粂八、
伊三次が両翼で睨みを効かせ、横からの逃亡を監視する体制であった。

ドン!と大きな音とともに戸が打ち倒され、
「火付盗賊改方長谷川平蔵である!
神妙に縛につけばよし、手向かい致さば切り捨てる!」
と 語気も鋭く飛び込んだ。

まさか盗賊改めが打ち込もうとは予想もしなかったらしく、
抵抗する暇もなくあっという間の捕縛劇は終焉を迎えた。

平蔵の見込み通り女達は旅支度の真っ最中であった。
下高井戸の番屋に連行され、軽く平蔵の取り調べを受けた後翌日
清水御門前の火付盗賊改方役宅の庭に引き据えられた。

立会は与力筆頭同心佐嶋忠介と同心木村忠吾の2名であった。

「おかじとか申したなぁ、お前ぇこの男の顔に見覚えはねぇか?」
と渋扇で忠吾の方を指し示した。

「旦那 男なんてどれもこれもおんなじで、みな鼻の下が長うござんすよ、
特にこの旦那は簡単に私の誘いに乗りましたのさ、それがまさか
火盗のだんなとは・・・・・
ははん!ご時世もおしまいでござんすね」
と木に竹をくくった返答に
「んんっ き、きさま!」忠吾が思わず腰を上げた。

「控えい!お取調べ中である」
佐嶋の重く響く声に忠吾はしぶしぶと腰をおろした。

「おい女!お前の申す通り、男はおなごに弱ぇものよ、
だがな その男がなくちゃぁこの世は成り立たぬ、お前ぇもそうであろうが、
この世のからくりはどちらが上でも表でもない思い様でどっちにでもなっちまうものよ。

だますほうが悪いのか騙される方が悪いのか、
のう お前ぇは騙す方に回っただけのこと、
この男は見ての通り人のよいのが表看板故に騙される方に回っただけの違ぇで
罪としちゃあぁ可愛いものだぜ、
だがな!流れ働きとは申せ盗人に上も下もねぇ
行く先は定まっておろう、
少なくとも閻魔様のお見逃しはねぇぜ、
おれも鬼と呼ばれた火付盗賊、手加減はせぬ故覚悟いたせ

厳しい詮議が待ち構えておるからな、お前ぇがこれまでにたらしこんだ男が
己の行く先を踏みにじられて追われた者や店を畳んだものもおる、
その難儀を想えば簡単に口を割るんじゃぁ面白くもおかしくもねぇ
世間を騒がせ人身をかき回した報いを今から覚悟して待つのだな。

死罪には致さぬ。

その言葉を聞いて取り調べ中の3名の顔にほっと安堵の色が浮かんだ。

「だがな!それより苦しい余生が待ち構えておるぜ、それを今からじっくり
生涯に亘って噛みしめるが良い!
佐渡はさしもの閻魔様も逃げ出す所だそうな、
何しろ無事に帰ぇった者がおらぬでな」

平蔵は歯をくいしばって睨み返すおかじを見下ろしながら、
「佐渡の金山(おやま)は男も大勢居るゆえお前ぇも色香で困ることはあるめぇ
、せいぜい励むがよかろう、
最も何日持つかはお前ぇ次第だがなぁ己の報いをしっかり受けろ!」

平蔵の突き放す言葉に打ち捨てられた枯葉のごとくその場に崩れてゆく。

こうして長い苦労の末の事件は解決した。

平蔵は軍鶏鍋屋五鉄の2階に集まった密偵たちにねぎらいの宴を設けた。

「こたびは皆に心配ぇをかけた、
暑い最中昼夜を問わねぇお勤めはさぞや大変であったと、
この長谷川平蔵改めて礼を申す」平蔵は深々と頭を下げた。

「長谷川様!!」
密偵たちはこの平蔵の気持ちが痛いほどよく判っている。

この御方のために、この御方だからこそ犯罪者という名を
背中に背負っているにもかかわらず何も変わらず扱って下さる、
この方に出会わなければ先の盗賊同様、
佐渡の土になる定めだったのかもしれない。

一同は顔を見合わせ、改めて平蔵の嬉しそうな横顔を見つめた。

「ううん 美味ぇぜ!さぁ早く盃を干さねぇか ええっ!
いやご苦労であったなぁ」

この場に木村忠吾の顔が見えない、これも平蔵の気遣いである。

だがこの平蔵の思いも、当の忠吾はいかように受け止めているのであろうか?

それから半月も過ぎないうちに、
木村忠吾の顔は雑司ケ谷西青柳町の出会い茶屋(たむら)にあった。

「おさき!お前に逢いとうてこうして御役目の途中をぬけだしてきたのだぞ」・・・・・

拍手[0回]


秋刀魚は目黒に限るのう忠吾 4月第1号



村松 お頭 棒手振りの辰五郎がお頭にと
   三陸の秋刀魚を持参いたしております

鬼平 おお そいつはありがてぇ  どれどれ
   おう 辰五郎三陸の秋刀魚とは又、久しぶりじゃァねえか

辰五郎 殿様 こいつが中々手に入ぇらねえもんで
    今朝ほど猫印飛脚で届きやしたんで
    久しぶりに殿様に召し上がっていただこうと

鬼平  すまねぇすまねぇ 気ぃ遣わせたなぁ

辰五郎 とんでもねぇ いつもうちのカカアがご厄介になっておりやす

村松  お頭 秋刀魚は生サンマよりもこの氷漬けが宜しゅうござります
    生サンマは陸揚げされて魚河岸から大卸、仲買と周る間に
    生きが落ちてしまいまする

    三陸物はとれた先から氷漬けに致しますので
    鮮度が保たれておりますんで、眼の色もギラギラとほれこのように

忠吾  あれ! お頭、秋刀魚は目黒に限ると申しますが・・・・・ 

鬼平  忠吾 それはな 小話の世界よ

忠吾  は~小話でござりますか

鬼平  なんだ お前ぇは知らなんだか
    在る殿様が目黒まで鷹狩りに出かけたんだがな
    お前ぇの様なそそっかしい供の者が弁当を忘れちまった

忠吾  アッ!なんでそこに私めが引き合いに出されますので

鬼平  まぁ良いではないか例えの話だ

忠吾  いえ 何と申されましても例えであれこの木村忠吾そこまでは!

鬼平  あい解った  ンでだなぁ その時何やら美味そうな香りが漂うてまいった
    殿様が「この匂いはなにか」と仰せになられたので
    供の者が「これは下衆魚で秋刀魚と申すもので、
    とても殿様に差し出せるものではござりませぬ」と申したそうな。

    しかし腹が減った殿様は「このようなときにそのようなことは言っておれぬ」
    と、秋刀魚を持ってこさせた。
    ところがそいつは隠亡焼きであったために、脂が乗ってそりゃぁ美味かった

    それから 殿様は秋刀魚が食べたくなり、「秋刀魚を所望じゃ」
    と家来に調理させたが、油や小骨も全て取り去った秋刀魚は
    姿も崩れて皿に載せることも出来ず椀に盛りつけて出した

    それを食った殿様は「この秋刀魚は何処から参ったものか?」
    と尋ねたら、家来が「芝浜より取り寄せましたるもので」
    すると殿様は「ウムやっぱり秋刀魚は目黒に限る」・・・・・

忠吾  はは~~~~ 中々よく出来ておりまするなぁ

村松  秋刀魚の一番旨い食べ方は、何と言っても炭火焼き
    それも紀州の備長炭で、なおかつナナカマドを極上と致しまする
    ナナカマドは七度カマドに入れても灰にならぬと言われるほど
    火持ちも宜しい

鬼平  さすが猫どの、奥が深うござるのうぅ

村松  なんのなんの  この備長炭は紀伊の国田辺の備中屋長左衛門が
    発祥と聞き及びまする。
    特に備長炭は炭琴と呼ばれる如く、金気の音がするほど焼きが深いとか
    されば中々に火が着き難うござります
    従いまして、長七輪に黒炭にを入れましてこれに火を点けまして、
    その周りに炙るように備長炭を載せ予熱致しまする
    四半時足らずで火の着いた黒炭の中に入れます、

    しかし、備長炭は爆ぜますゆえ金網を七輪に被せ
    しばし遠巻きに養生いたしまする

鬼平  おいおい 然様に面倒なことを致さねばならぬのかえ?

村松  当然でござりまする
    手間暇を惜しんで良い料理など生まれは致しませぬ

鬼平  いや こつぁ一本取られたな

村松  この村松忠之進 お頭のためならこの程度の手間なぞ
    骨惜しみいたしませぬ

鬼平  こいつはすまぬ  猫どのの気持ち 
    この平蔵いつも手を合わせておるぞ

村松  お頭にそこまで思って頂けておれば 
    やる気も起ころうと言うものでござります
    やがて備長炭が白くなり始めましたら
    秋刀魚を網に載せる頃合いでござります

    この備長炭には遠赤外線が発しまするゆえ、
    ゆっくりと焼きあげるのが秘訣でござりまする

鬼平  おいおい猫どの 講釈はそれぐれにして
    食わしてはくれぬか?

村松  お頭 それだけでは片手落ちになりまする
    突き合わせには大根 それも普通の大根ではなく
    練馬大根が宜しゅうござります
    コヤツは少々辛味が強うござりまして
    タカジアスターゼとか申す消化酵素が豊富でござります

    コヤツが秋刀魚の油を中和するという次第で
    昆布と鰹で煮だしましたる濃い目の出し汁
    ここに薫りつけの酢橘なぞ絞り込み

鬼平  おいおい猫どのこれ以上は待てぬ
    まるで拷問ではないか
    火付盗賊の拷問よりも恐いぜ

村松  ではまずは食しながらということで

鬼平  おうおうそれで良いそれで良い  あ~たまらねえなぁ

 

拍手[0回]


鬼平犯科帳 薬食同源 3月第3号



夜見世



鬼平 「千住女郎衆は、碇か綱か、今朝も二はいの船とめた」
   とか申すそうじゃのう忠吾 お前ぇの ほれ ! 
   これが居った谷中はそちの持ち場であったのう


忠吾 お頭 ! 
   それはすでに決着が付いております
   今の私めは、御役目第一と日夜駆け回っておりまする


鬼平 まぁそういきり立つな
   益々怪しく想えてくるではないか


忠吾 そそそっ そんなぁ


鬼平 ところでのう忠吾 
   人間というやつ、遊びながら働く生きものさ
   善いことを行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける
   悪事を働きつつ、知らず知らず善いことを楽しむ
   これが人間だわさ


忠吾 お頭・・・・・・


鬼平 覚えておるであろう !  網切の甚五郎


忠吾 料亭大村事件でござりますな


鬼平 彼奴をお縄にするきっかけを作ったのが鴛原(おしはら)の九兵衛


忠吾 あの 芋酒屋の・・・・


鬼平 ああ 九兵衛のいもなますは天下一品だぜ


忠吾 村松様が嘆かれましょう


鬼平 おお そいつはうかつであった  
   猫どのは別格じゃ・・・・・と 言うことにしておけ


忠吾 仰せのとおりに
   ところでお頭本日は何処へお供に


鬼平 な~に 「いせや」にちょいとな

忠吾 いせや と申しますと
     板尻の吉右衛門・・・・・


鬼平 フム その通りよ
   この度の九兵衛の働きでわしも九死に一生を得た
   そこで「いせや」の親爺と俺とで九兵衛に店を出さすことになった
   本日はそのお披露目というわけさ


   芋酒はな、皮を剥いた里芋を小さく切り
   これを熱湯に浸し置き、ぬめりが取れたら引き上げて
   すり鉢で摺り、ここへ酒を入れる、それを燗にして出す
   こいつは精がつくらしいぜ忠吾
   芋酒をやったら、一晩で五人や六人の夜鷹を乗りこなすなんざぁ
   理由もねぇとよ


忠吾 おおっ お頭! それは真で!


鬼平 おいおい 忠吾 眼の色が変ぇっているぜぇ
   まぁまぁ 落ち着け忠吾
   で、 お前ぇにもそのイモナマスを食わせてやろうと思うてな


忠吾 いもなます で、ございますかァ
   私めは 出来ますれば芋酒のほうが、このぉ~


鬼平 はしかい奴め!


九兵衛 これは長谷川様


鬼平 おう 父っつあん こいつに芋酒を出しいてやってくれ
   俺は芋ナマスでよいぞ


忠吾 お頭 !! 


鬼平 おうおう 気にするな
   だがな あとは知らんぞ なぁ父っつあん


九兵衛 へぇ
    木村様
    まぁ 出来るまでの間 芋ナマスでも食いながら
    飲んで食っておくんなせいその内、
    今夜はもう岡場所へなと繰り込んで
    白粉くせぇのでも抱いてみるかぁなんて勢いも出てねぇ! 


忠吾 おおぅ そうなるか!


鬼平 そうさなぁ 最も役に立つか立たねぇか
   そいつはお慰みってぇもんだよなぁ


九兵衛 へへへへへ 最もで


忠吾 ククククッソぉ~
   いけ好かぬ親爺だなぁ
   クソ おかわりもう一杯


鬼平 旨ぇだろう そいつが腰を抜かすから 
   俺はやらんのだよ忠吾 わはははは


   父っつあん おもんは寄るけぇ


九兵衛 時折来やす
    「あのお侍さんどうしていなさるかねぇ」って
    長谷川様の事を・・・・・


鬼平 さようか
   人は皆一枚脱げば、何も変わっちゃぁいねえさ
   俺もお前ぇも なぁ父っつあん


九兵衛 長谷川様・・・・・・



週刊連載 鬼平犯科帳外伝    http://onihei.nari-kiri.com/

画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/


                                                                    

拍手[0回]


鬼平犯科帳外伝 川越うどんと唐桟 3月2号


唐桟織り

旅支度の平蔵が本所2つめの軍鶏鍋や五鉄に現れたのは
秋の色香が野山を染め始める頃の夕刻であった。

「あっ こりゃ 長谷川様」旅姿の平蔵に驚きながら出迎えたのは相模の彦十

「おう 彦 おまさはいるけぇ」そう言いながらかって知ったるで、
さっさと二階へ上がってゆく。

「へぇ 先ほどけえって参ぇりやしたが、又今日はどんな御用向きでござんしょう」
と相模の彦十、平蔵の顔を見上げる。

「な~に 過日忠吾の手柄で墓火の秀五郎をお縄に致したであろう」

「へえへぇ 例の・・・・・」

「そうよ(人間という生きものは、悪いことをしながら善いこともするし、
人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている)
そう言いおった兇賊よ

「へい よっく覚えておりやす、あの 木村様が、そうとも知らず
菱屋のお松に入れ込んで、そのお松をひいきにしていた男が
10両をお松に与えたってぇ話でござんしょう?」

「そこまで知っておったか、人の口には戸は立てれれぬというが、まさにのう」

「へぇ 何しろ当の木村様が最後までお気づきにならなかったそうで、
笑っちゃぁいけやせんがね、ついその・・・・・へへへへへ」

「武州粕壁の小川屋でやつを捕縛いたした折、お松の話をしたらな、
奴め(そんな酔狂もございましたか)と、さすがひと頃は血頭丹兵衛の懐刀と
呼ばれただけの男、度胸もすわっておったよ」

「へ~ さようでございやしたか、ところで本日のご用向きは」

「おう それよ、おまさを呼んではくれぬか」

「長谷川様 どんな御用でございましょう」平蔵からの名指しである、
事件ならともかくも、別に何も耳にしていないものだから、おまさも戸惑いつつ控える。

「何な ちょいと川越まで足を伸ばしてみたくなってのう」

「川越でございますか?」おまさはますます判らない様子で平蔵の顔を見る。

「ウム 先程から彦十と話しておったのだが、お前ぇも存じておろうが、
川越の旦那・・・・・」

「あの~墓火の秀五郎・・・・・・」

「まさに そいつよ、そいつの事をふと思い出してな。
ちょいと川越がどのような所か、この目で見てみてぇと思い立ったまでのことよ。

それがな、思わぬネタを拾ってきたのよ、忠吾めが良く懐に致しておる
芋せんべいになる芋、こいつの出処が川越であったのよ」

「まぁ~木村様の好物の・・・・・うふふふ」

「であろう?儒学者の青木昆陽先生が小石川薬園にて始められた甘藷が、
川越で作られており、芋は紅赤種で皮も赤く中身は黄味でほくほくして甘味が多く、
九里より旨い十三里と申す焼き芋、いやなんとも忠吾でなくとも旨い、
わしは別名金時ともいわれる焼き芋が気に入ったあはははははは」

「墓火の秀五郎が褒めて居った(いせ清)のうどん、
こいつを一度食ってみたかったのもあるがな、ははははは。

何しろ芋をすり込んだ芋うどんは、芋の薫りがほのかに残り、
昆布と干ししいたけの出汁に黒酢を隠しており、
刻み大葉と大根のすり下ろしに刻んだ赤唐辛子こいつがが又色っぺぇ」。

「銕っつぁん 話だけとはちょいとその罪ってぇもんでござんすよ」

「彦十おじさん 長谷川様に!」

「おっといけねぇ 口は災いの元とくらぁね」彦十あわてて口を抑える真似をする。

「でな おまさ、お前ぇにと思うてのぉ、てえしたもんじゃぁねえが 
土産よ、いつもお前ぇにゃぁ何かと世話をかけるによってな」
平蔵はさげた荷物を解いて渋を引かれた帖紙(たとうがみ)
に包まれた物を取り出しおまさに手渡した。

「もったいない長谷川様 まさは・・・・・・」

「おっと そこまでそこまで・・・・・なぁ彦 」

「全くでさぁ、さすがの長谷川様も、まぁちゃんには頭が上がらねぇ」

「俺は弱みなどねぇぜ なァおまさ」

「おほほほほほ」

「やっぱり無理かぁ」

こいつはな 川越で織られておる唐桟だ、うどんを食いに入ェった向かいが
機屋でな、まぁついでということよ」照れくさそうに頭をかきながら、
だが楽しそうな顔である。

「さすが銕っつあん 言い繕うところがにくいね」

「おいおい彦 そうではない そうではないぞ、いや参ったなぁ」

「判っておりやすとも 長谷川様、へへへへへ、それにしてもねぇ まぁちゃん」

「おい彦十!久栄には内緒だぜぇ、おなごは恐ぇからのう」

「まっ! 私も女でございますよ長谷川様」
おまさは藍の地色に浅葱の細縞と黄土の縦縞の柔らかな縞木綿を胸に抱え、
その温もりをいとおしそうに抱きしめた。

「なぁに、俺にとっちゃぁ盗人酒場の10かそこいらのおまさ坊だよ」

庶民にとって着物を新調できる時代ではないこの時期、
おまさの日頃の働きにも、なかなか労ってやれない平蔵の気持ちであった。



時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鬼平犯科帳外伝 3月1号 女賊別伝




この日同心木村忠吾は市中見廻りの途中雨に降られて少々腐っていたが、
少し前を歩く女の後ろ姿に目を奪われた。

傘をさし、片方の手で裾を少しばかりからげた姿が何とも色っぽい。

スッキリと切れ上がった小股が、赤い襦袢にからみつくように踊る
(むふふふふふ・・・・こんな色っぽい後ろ姿はきっといい女に違いない)
自分勝手に妄想を重ねながら木村忠吾は女の後をつけてゆく。

(こんな時はしっぽりとさしつさされつ「忠さま おひとつ・・・」
なんて、悪くないなぁ、お前もどうだい、

あら 今度は口移しにいただこうかしら・・・・・)むふふふふふっ

ここは小石川伝通院前を背に南にまっすぐ下る安藤坂、
白壁町辺りを過ぎ、右に安藤飛騨守屋敷の高く長い塀があるあたりで
まっすぐ下りて小石川龍門寺門角を曲がれば別當龍門寺牛天神があり、
少し手前が桑名屋橋となる。

折しも梅雨の入間、偲ぶようにあじさい色の雨が降りしきっている。

雨宿りのつもりか女は角の菓子屋に入ろうとした。

忠吾は素早く女の前に回り「御役目がらちと尋ねたいことがある・・・」
と懐の十手をチラリと見せた。

無論これは忠吾のハッタリで、なんとか女を口説こうとする
思いつきにほかならなかった。

だが、事は一転 事件はここから始まったのである。

「おお怖い!」と言いつつもしなだれるように胸乳を忠吾の腕に
すり寄せ押し付けながら、上目遣いにしっとりと見上げた。

(ぶるぶるぶる・・・)忠吾の眼は下がるだけ下がり、
もはやこの女の色香に飲み込まれてしまっているようすである。

「ねぇ旦那、雨も止みそうにもござんせんし、
こんなところじゃぁなんですから、奥に入ってそれからって言うことに
なさいましよ」と流し目に店の奥を示す。

「よし、あい判った!」忠吾は女のさそいに安々と乗り、
(まずは手始めに・・・うふふふ)と気分はもうあらぬ方向へ勝手に飛ばし、
自ら進んで奥に入った。

こうなると女郎蜘蛛の糸に絡められるのは時間の問題であろう。

後ろからついてきた女が心張り棒で一撃したから堪らない、
ガツッ! 鈍い音とともに忠吾の体が前のめりに土間に倒れこんだ。

「早くこいつを穴蔵に押し込めておしまい」鋭い語気で女が奥に向かって叫ぶ。

「何んでぃこいつは」と言いながら40がらみのでっぷり太った男が
のっそりと現れ忠吾をずるずる奥に引き込んでいった。

この京菓子屋井筒屋の主は井筒屋徳右衛門と言う。

元は近江国、高宮の出身という触れ込みで15年ほど前、
(近江落雁)と名づけた京菓子を売りだした。

その主人徳右衛門が死んだのは10年ほど前だが、
60を越えた徳右衛門が死ぬ半年前に女房を迎えていて、
今もそのままこの京菓子井筒屋はその女房が引き継いでいる。

だが、店を切り盛りしているのは番頭の勝四郎、
年は40を回った頃で小太りでありながら、身のこなしは軽やかである。

「よござんすか!」とふすまの向こうから声をかけた。

「勝さんかえ、こっちにお入りなよ」と女はキセルを煙草盆に預けながら
声をかけた。

お頭!先ほどの奴郎は一体ぇ何でござんす」と奥の土間を指さした。

「あたしにも合点がいかないんだけどね、伝通院を出た頃から
ずっと後をつけてきて、いきなり十手をちらつかせて
「お役目柄ちと尋ねたいことがある」と言われて、
まさかとは思うけど身なりからもお上の御用を承っている者としか思えない。

もしやあたしの素性を探索中であったらと、ここまで誘いこんだということさ」
ふっ とキセルを空ふかしして、ごろりと向き直った。

「まさかお頭がここで男をくわえ込むとは想えねえし・・・・・・」

「若い男なら大坂屋のあいつでいいよ」

「しかしお頭も今度ばかりは ひどくあの若いのにご執心のようでへへへへへ」

「ああ 若い男の体はこたえられないもの、おまけにあの男は
私が初めての女だそうな。
そりゃぁ可愛いものさね、初(うぶ)っていうのはああいうのを言うんだろうね、
お陰であたしも後をひいちまってるところだよ、だがね・・・・・・」

「始末をつけるんで?」

「そうだねえぇ・・・・・・もう1日だけ、最後の楽しみをさせてからにしようと
思っているのだがね」 

「やれやれ お頭の男狂いにも参っちまいやすね」勝四郎は舌打ちしながら、

所で穴蔵のやつはどうしやす?いっその事バラして土左衛門にでも・・・・・」

「その前に、どこまで探索の手が伸びているか探りださなきゃぁ
こっちもいつ火の粉が飛んで来るかわかったものじゃないよ、
土蔵の2階へ引き上げて傷めつけておやり」

それからの数日忠吾は拷問に耐えていた。

「お前がお上の御用をつとめていることは承知さ、
どこまでこっちの手の内を知っているんだえ?素直に吐いたほうが
お前の為になろうというものじゃないか」

猿ぐつわをかまされ、両手を後ろ手に縛られたまま忠吾は土蔵の床に転がっていた。

女が忠吾の前に廻り、片膝突いて忠吾の顔を手で抱え上げた。

裾前がバラリとはだけ、真っ白な素足が蹴出しの薄影の中に消えるのを
忠吾はゴクリと生唾を飲み込んで見とれた。

「どこ眺めてんだよう!」女の平手打ちが飛んできた。

「着流しということは手前ぇ町奉行所のものじゃぁねぇな」
勝四郎が忠吾の前襟を掴んで首根っこを締めあげた。

忠吾はただ睨み上げるだけで、それ以外の反応を見せない。

「お頭、と言うことは、こいつ火盗・・・・・・・・」

「冗談じゃぁ無いよ、こんなひょろひょろして、女とみりゃぁ
鼻の下を伸ばす奴が盗賊改め?はんっ!だとしたら、
盗賊改めも落ちたもんだねぇ、話さなくていいよ!
その代わり悲鳴も上げるんじゃぁないよ、

そのくらいの根性はあるんだろうねぇ えっ! 
お願いですからと言うまで痛めておやり」女はそう言って下に降りていった。

それからひととき勝四郎の殴る蹴るの責め上げ方は、息つく暇もないほどで、
猿轡(さるぐつわ)の上からも漏れる声は、生半可な攻め方ではない事が伺える。

気を失い、ぐったりした忠吾をそのままま放置して勝四郎も階下に降りていった。
しばらくして気がついた忠吾、何という事はない
例のものがもようしてきたのである。

バタバタと床をかかとで打ち続けた。

ハシゴの引っかかる音がして「うるせぇな、静かにしやぁがれ」と
勝四郎が上がってきた。

顔を真赤にしている忠吾を見て、それと察し
「なんでぇそこんところの小窓にでもひっかけな!
飛べばのもんだがなぁ へへへへっ」

股間を蹴り上げられて腫れ上がっているのを承知の嫌味であった。

手をほどいてもらい、やっとの思いで用を済ませた忠吾に
「どうでぃ ちったぁ話す気になったけぇ」と胸ぐらをつかまれた。

眼をむいて睨み返す忠吾の喉へ鋭い蹴りの一撃が食らわされた
「げふっ!!」忠吾は激痛にもんどり打ってつっ伏した。

「口を割らねせんなら、しゃべることもいるめぇよ、
そこいらにいい子でねんねしてな」

明けて3日目の朝である。

夜半になっても帰宅の報告がなされない
「まぁ、あいつの行状から言えば一晩や二晩の無届外泊は
取り上げるまでもなかろう」と
同心筆頭の酒井祐助は筆頭与力の佐嶋に報告をあげなかった。

それが三晩となり、(もしや・・・・・・)と
佐嶋から平蔵に報告が上がった。

「何ぃ 三日もつなぎがないというのは、いかに忠吾といえども
御役目を忘れるものではあるまい。
急ぎ密偵共を呼び出し、火急のつなぎを取れ」
珍しく平蔵は心の乱れを感じた。

「忠吾も火付盗賊の端くれ、いつなんどきであれ、
そのための覚悟は出来ておろうと存じます」と筆頭与力の佐嶋忠介が口を切る。

(やつだけは死なせとうない・・・・・・)
平蔵の心のなかに大きな不安が秋の叢雲のごとく吹き上がってくるのを
抑えようもなかった。

浅草観世音境内では、梅雨の晴れ間とあって久しぶりの人々が
大勢集まって賑わっていた。

密偵のおまさが参詣を済ませて元来た参道へ道を取ろうとした時
「や おまさちゃんじゃァねえか」と声をかけてきたのが瀬音の小兵衛であった。

「瀬音のお頭・・・・・まぁお久しぶりでございますねぇ」

「やっぱりおまさちゃんだね、見違えちまったよ」

この瀬音の小兵衛、おまさの父親 鶴(たずがね)の忠助とは昔なじみで、
平蔵がまだ本所の銕と二つ名で暴れまわっていた頃からの付き合いである。

「おまさちゃんお前さん 幸太郎のことはしっていなさるねぇ」

「ええ」

幸太郎は瀬音の小兵衛のただ一人の子供であった。

小兵衛が40を過ぎた頃、浅草今戸の料亭(金波桜)の女中をしていた
気立てもよく、よく気の利く女にすっかり夢中になり
その(おしま)と世帯を持ってしまった経緯はおまさも忠助から聞いていた。

しかし、産後の日立ちが悪く女房おしまはあっけなくこの世を去ってしまった。
取り残された小兵衛は忠助の口利きで下谷広徳寺門前の数珠や
名倉屋太吉が幸太郎をもらってくれることになってひとまず安心となったが、
その2年後に名倉屋に男の子が生まれた。

そんなわけで幸太郎は立花町のある乾物問屋大阪屋伊之助方へ奉公に出された。

足を洗って岡部の宿へ引きこもる前に、よしみの盗賊福住の千蔵に
「陰ながら、幸太郎の事を見ていてくれ」と頼んだ経緯があった。

「さようでございましたか、私もお父っつあんがなくなってからは、
本所から出てしまい、幸太郎さんの事はちっとも知りませんでしたけれどねぇ」

この前岡部の宿で福住の千蔵さんが「お前さんの息子が
とんでもねぇことになっている、「幸太郎さんの奉公している大阪屋さんへ
狙いをつけた猿塚のお千代が、色仕掛けで・・・・・

そうと知らない幸太郎さんがまんまとお千代の手練手管に
取り込まれちまって・・・・・」って聞かされて、
わしはたまりかねてお江戸に出てきたってわけなんだよ、

こんな薄汚い年寄りだ、お店の前をうろついたんじゃぁ眼にも
つこうってもんで、お頼みってぇのはこの事で、
どうかおまさちゃん一つ幸太郎の事を引き受けてくれちゃもらえないかい」

これが平蔵にもたらされた別の一件であった。

平蔵もおまさもこの小兵衛の件は昔なじみとあって盗賊改めとは
無縁の件であり、二人だけの探索ということで行動が為された。

この時、忠吾は納屋の屋根裏で嬲(なぶ)られ拷問に耐えながら
瀕死の状態であった。

忠吾は飲まず食わずでもうすでに4日は過ぎ、脱糞と小水で
狭い屋根裏は悪臭がただよい、すでに意識も朦朧としてきている。

(このままでは・・・・・・)萎えそうになる意識を奮い立たせて
忠吾は下帯を抜きあげた。

(この下帯を誰かが見つけて異様に想えば・・・・・・・)

儚い望みではあった、だが何もしないのは更にはかないと想ったのである。

這いずりながらようやく小窓に寄り、下帯を格子に括りつけた。

その向こうに川をはさんで牛込の小屋敷の家並みが雨の中ぼんやりと
霞んで観えた(叫んだとて届くはずもない・・・・・)
再び忠吾は意識を失った。

一方おまさは幸太郎が奉公している乾物問屋大阪屋伊之助宅を見張っていた。

夕刻籠が1丁呼ばれ、幸太郎らしき男が乗り店を出て行った、
その後をつけて行った先は上野池之端の出会い茶屋(ひしや)であった。

そこへもうひと籠が着いて、少し年増には観えたものの、
中々艶っぽい女が出てきた。

これが福住の千蔵から聞いていた猿塚のお千代と睨んだおまさは、
ひととき半ほど後に出て来た2丁の籠の後をつけた。

途中から籠が別々に別れために、お千代の方をつけ、
行く先が小石川別當龍門寺牛天神まえの金杉水道町で降りるのを見届けた。

空には月が輝き、梅雨の雨に洗われた空は碧々と雲ひとつなかった。

やれやれと踵を返そうとしたおまさの眼に納屋の2階から妙なものが
ぶら下がっているのが観えた
(何かしら?)いぶかしく思いながら平蔵の待つ上野池之端の出会い茶屋
(ひしや)に向かった。 

「おう おまさ ご苦労であった、で何か変わった様子はなかったかえ?」

「はい 長谷川様のお見込み通り2丁の籠が出ましたので、
幸太郎の方は帰るところは大阪屋と踏みまして、もうひとつの籠をつけました」

「ふむ で、行く先はつかめたのであろうな」

「はい 小石川の牛天神前の京菓子や井筒屋に入るのを見届けました、
しばらく張っておりましたが、その後店の戸を閉めた模様なので
急ぎ帰ってまいりました」

「そいつはご苦労であった、で 他に変わった様子はなかったかえ?

「そういえば妙なことが一つ・・・・・・」

「何妙なことだぁ?」

「はい 隣の納屋の2階の小窓からなにやら白い晒のような物が
下がっておりました」

「何!晒しだぁ・・・・・・・くくくくくくっ 
おい!でかしたおまさ!そいつはうさ忠だぜ、
奴めまたもや下帯に救われたか うわははははは」

 
木村様・・・・・でございますか?」

「ほれ 深川、蛤町の海福寺門前の茶店(豊島屋)の一本うどん事件よ」

「あっ そういえばあの時も・・・・・うふふふふ」
思わずおまさも笑ってしまった。

「こうなると相手は猿塚のお千代と判明いたした、
どうにも俺たちだけでは手が足りぬ、急ぎ籠に乗って役宅へ行き、
手すきのものを差し向けてくれそれまで俺はここにおる。

急げ、彦十と粂も駆り出してここへ連れてきてくれ」

やがて東の空が白白と明け始めた7ツ頃、雨支度を整えた定六が
井筒屋から小石川金杉の通りへ現れた。

「長谷川様、あの男でございます」陰で張っていたおまさが声をかける。

「よし、お前たちは奴の後を追え、他の者は井筒屋から出てくるものあらば
離れてから捕縛せよ、俺が戻るまで決して打ち込んではならぬ」
平蔵はそう指示しながら彦十おまさや粂八の後を追った。

こうして根岸の里の大捕り物は無事に終え、馬で取って返した平蔵指揮のもと
井筒屋に打ち込んだ。

猿塚のお千代は平蔵の顔を見るや道中差で自らの喉を一突きに自害して果てた。

隣の納屋の2階から木村忠吾が救出されたのは言うまでもあるまい。

「やれやれ 忠吾!お前はまこと下帯に縁があるとみえるなぁ、
今度からは下帯に名前ぇでも書いておくと良かろうぜ、
すぐにお前ぇと判るからのう、いや下帯を解くのは程々にいたせよ、
まぁせめて出会い茶屋あたりで止めておくこったなぁ あはははははは」

「おかしら それはあんまりなぁ・・・・・・」

忠吾は殴られ蹴られて顔を風船のように腫れ上がらせたまま、
更にふくれっ面でぼやくのであった。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/ 


拍手[0回]


鬼平犯科帳外伝 2月第3号 富山のべっ甲


うさ忠 こと木村忠吾

芝・神明の菓子舗〔まつむら〕で売り出している
〔うさぎ饅頭(まんじゅう)〕そっくりだというのである。
芝明神前の名物うさぎ饅頭に顔つきだけでなく、
甘みもほどほど、塩味もほどほど。

いくつ食べても腹にたまらず、何よりも一個一文は安い、
毒にも薬にもならん娑婆塞げ(しゃばふさげ=生きていても
何の役にも 立たず,ただ場所をふさいでいるにすぎないこと。
また,そのような人、ごく つぶし)ということだ。
と酒井に言われ、同輩たちに(うさちゅう・うさちゅう)と言われている。

ここは清水御門外の火付盗賊改方長谷川平蔵の役宅

夏場の暑気を少しでも和らげようと妻女久栄が同心部屋の軒に下げた
釣り忍が翠の葉を精一杯伸ばし、時折の風にゆらゆらと揺れ、
風鈴の音が軽やかに流れている。

そこには珍しく非番をこの同心部屋で潰している木村忠吾がいた。

庭から流れ込む微風は涼しいと言うには程遠く、
バタバタと扇を揺らしながら忠吾は暇にあかして鼻毛を抜いている。

「ねぇ村松様 このように暑い日はお役宅のほうが涼しいかと
思い役宅に参りましたが、何処も同じ あ~ぁ 暑うござりますなぁ、
私は汗かきゆえ その こう 股ぐらも汗をかきましてたまりませぬ
」と前をはだけた股ぐらに風をバタバタ送りながら憮然としている。

「忠吾 その暑いさなかを、わしはこうして皆のためにゆうげの支度をと
朝からかまどの番をしながら立ち働いておる、文句を言うではない。

おかしらはこの暑いさなかにも市中見廻りにお出かけなさっておられる、
それに引き換えお前はどうじゃ!役宅でただゴロゴロ寝転がって
グタグタ文句を言うておるだけではないか」

「お言葉がですが村松様、本日はこの木村忠吾非番にていかように
過ごそうとも勝手気ままでございます」と少々村松の言葉が気に食わない様子。

「だがな 忠吾!おかしらはいつが非番じゃ?お頭が(本日は非番じゃ)と 
仰せられたことがあろうか?」

「・・・・・・・・・それは・・・・・」

「であろう、おかしらは我らには何も申されず、日々お役に励まれ
下々の者の暮らし向きにまでお心を痛めておられる、
そこでわしはせめてもの気持ちで、暑気払いにとべっ甲を作っておるのよ」

「べっ甲でござりますか!それは又いかようなるもので・・・・・」
食い物とおなごには目のない木村忠吾、聞き逃すはずもない。

「まぁこいつをちょっとつまんでみるがよい」
村松忠之進は何やら妙なものを忠吾に手渡した。

「何でござります?このわけもわからぬ物は」と言いつつ、
村松の勧めるままにひとつまみ・・・

(ぶっ!)「これは又何でござります、味も素っ気もない
ぼそぼそしただけの妙なものでございますなぁ」と、いかにも不味そうに

「忠吾 それはカンテンともうしてな、海に漂うておるテングサで
工夫したるものよ、味も素っ気もないからこそ、
こちらの想うように味付けが叶う、良いカンテンほど味も素っ気もない物よ、

そもそもカンテンは京都府伏見の旅館『美濃屋』の主・美濃太郎左衛門が、
戸外に捨て置いたトコロテンが日中は融け、夜間には凍結したる物が
日を経て乾物になっていた物を発見した。

これにてトコロテンをつくったところ、前よりも美しく
海藻臭さも無いものができた。

そこで黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、
精進料理に良いと言われ、隠元は「寒空」や「冬の空」
を意味する漢語の寒天に寒晒心太(かんざらしところてん)の意味を込めて、
寒天と命名したそうな」

「はぁ~さようでございますか、なれど私は講釈よりも
出来上がったものの方に興味をそそられます」

「さもあろう お前は食い物とおなごには特に興味があるからの」

「むむむっ 村松様、まるでおかしらのようなお言葉、
それではこの木村忠吾がまるで御役目をないがしろにしているふうに
聞こえまする」

「はぁ~違うておるか?」

「そこまで言われますと少々 とは申せ、おかしらもお目こぼし
くださっておられます事ゆえ」

「そこよ お前がその辺りから盗人のねたを拾うてくることもある故、
おかしらも我らもあまり小言は申さぬであろう」

「確かに・・・・・・」

「このカンテンはな、伊豆のものが上等と言われておる。
採取したるテングサを砂浜にひろげ、ときおり淡水を注ぎて
十数日ほど干しいたさば、薄黄色のさらしテングサとなる。

貝殻、砂その他を取り除いたあとこれを水に浸し、
柔らかくしたものを水車でつき、流水にさらして塩分、色素を除く。

テングサのみではあまりに硬すぎるのと、
テングサが高価なため同じような海藻を配合するのだがな、
これが肝となる、普通には2:8とか4分6と申すそうな。

熱湯にテングサを入れ、酢酸少量を加え、2刻半煮出す。
これを濾して上澄みの1番を取り、絞り汁にこれを混ぜ
器に移して固まらせし物がトコロテンとなる。

角カンテンはこれを1寸5分の太さに切り分け、
高さ1間ほどの防風壁を設けて棚を作り、
そこへむしろを敷いて2晩かけて凍結させる。

これが一晩だと変質いたし、数日過ぎるとこれまた
腐敗いたして使い物にならぬ。

ここまで出来たものを陽に当て、氷結いたした氷を溶かし
水分を取り除き、更に数日晒して出来上がる、
誠に手間暇のかかる奴じゃ」と忠吾をちらりと見るが・・・・・・

「村松様の講釈を聞いておるだけでもうこの木村忠吾意欲を削がれます」

「お前は何をやっても続かぬからのう」

「あっ それは何かの間違いでござります、
私めはそのように申されますことにトンとおぼえがござりません」

「まぁよいよい おかしらはそれも解った上でお前を使ぅてくださるのだからな」

「さようでございますか?私はいつもおかしらが市中見廻りのおりには
(忠吾忠吾)とお引き回し下さるものですから、
お気に入られておるものと想うておりました。

先日も(忠吾ついて参れ)と仰せられて、谷中に・・・・・・うふふふふふっ」

「やれやれ お前には叶わぬ、親の心子知らずとはよくぞ申したものよ」
村松忠之進半ばあきれ返っている。

夕刻平蔵は役宅に戻ってきた。

「おかしら お疲れ様でござりました。

本日も日差しが高うございまして、さぞやお疲れの事と存じます、
そこで暑気払いにと」

「おお さすが猫どの、そこまで気を使ってくれておるか いやすまぬ」
平蔵は村松の気遣いを労いながらも
「所で猫どの その暑気払いをこう なんだ 早いとこ食いてぇものだなぁ
ええっ!本日の献立は何だえ?」

「はい トコロテンの摺り胡麻和えに、べっ甲、
食後にカンテンのわらび餅を用意いたしております」
甘いものにも目のない平蔵の痒いところに手の届く村松の気遣いを
平蔵はよく心得ている。 

「へへへぇ カンテンにトコロテンかえ、こいつぁひと風呂浴びて
さっぱりした後の1杯ぇが、又楽しみだわい、
早速ひと風呂浴びてまいろう」と、そそくさと湯殿に消えた。

しばらくして平蔵が部屋に御内儀の久栄ともどもくつろいでいるところへ、
村松忠之進、いそいそと酒肴を運ぶ。

「おお 久栄 来たぞ来たぞ、猫どのの心尽くしの暑気払いじゃ。
うむ どれどれ・・・・・・
う~ん 深水にて冷えたトコロテンにさっぱりとした酸味、
これに柚子胡椒のピリリと辛い旨味がからみ、
ごま油と摺りゴマの香りが な~るほどのう、
きゅうりの歯ざわりと程よく口の中で・・・・・う~ん さすが猫どのじゃ」

「もう一品 こちらはべっ甲と申しまして、富山の名物でございます。
寒天は四半時ほど水に浸し、卵は割りほぐしておきます。

鍋に手でちぎって硬く絞った寒天と水をいれて火にかけ、
煮溶かしましたる物に出し汁・砂糖・醤油・塩少々を加え、
火を止めてから卵を糸が引くように流し込み、
ぬらした型に流して冷やし固めまする」。

「それがこいつだな!」

平蔵はまるで子供のように頬をほころばせて次のひと椀に箸を伸ばす。

「へへへへぇ こりゃぁまた色目も良いが、味も格別  
うむうむ 久栄そなたも早ぅ食してみるが良い、
カンテンの適度な歯ざわりがこう 何と申さばよいか、
口の中でとろりと溶ける、その時の出汁のこう 何と申すか 
うむうむ 打ち水をしたる後の草木の色艶、爽やかさとでも申すかのう、
適度の硬さにしょうが汁の風味が涼しさを招いてくれる、誠に甘露じゃなぁ」

「殿様、わたくしはこちらのわらび餅が好物にて、気になりまする」
と久栄は深水で冷やされた皿に盛られたわらび餅に食指を伸ばす。

「はい 奥方様のお好みではないかと存じまして、
カンテンにて工夫いたしてみました物、お気に召さばこの村松忠之進
整えた甲斐がござります」

「ほうほう どれどれ いや うむ・・・・・
おお!この黒蜜が曲者じゃなぁ、程よくきな粉とあい混じりおうて、
葛とは又違ぅた感触が成る程成る程・・・・・・・

いやぁさすが猫どのにかかると何の変哲もないカンテンが
かように変化いたすとは、いやいや全くこの平蔵兜を脱ぐぜ。

これを至福と申すのであろうなぁ、良き部下を持ち、良き妻女殿に恵まれ、
こうして美味きものにも恵まれる、のう久栄! 
そう想わぬかえ」平蔵はしみじみと今のこのひとときが愛おしく想えてならなかった。

月は満々とみちて空を彩り、隅々まで晴れわたって碧々と清らかに拡がっていた。
(チリン)と釣忍が鳴った・・・・・・

「夜風か・・・・・・・この静けさと穏やかさがいつまでも続けばよいが」、
ポツリと平蔵は箸を置いて漏らした。
  

拍手[0回]


俺を試すか! 2月3週号


平蔵が懐刀と呼ぶ筆頭与力 カミソリ佐嶋忠介


おかしら、昨日私めがしたためましたる錣(しころ)十兵衛のお調書でござりますが、
お頭ならばいかがなされるかお聞かせ願えませんでしょうか?

「何ぃ 忠吾、そちはこの俺を試そうとてか!」

「えっ 滅相もござりませぬ、私はただ・・・」

「ただ? ただ何とした!!」

「いえ 私の調べましたる事につき、おかしらのお考えが承りたく・・・・・」

「だからそれがわしを試すと言うことであろう。
忠吾!人の意見を参考に伺うおり、さような物言いはことの内容を比べようという
働きがあるからじゃ、それがどうして解らぬ」

「ははっ!! 誠に持って面目次第もござりませぬ」

「もしもわしの申すことがそなたと違ぅておった場合、いかがする所存じゃ、
有り体に申してみよ」

「ははぁっ この木村忠吾ただただ恐れ入ってござりまする」

「もう良い 下がってよし」

「はは~~~っ」

木村忠吾はコメツキバッタのごとく床に頭を擦り付けながら引き下がった。

「のう佐嶋、これまでの(しころ十兵衛)の手口じゃが、
忠吾の調書に加える事があるかの?」

「はっつ 今のところ別段書き加えることは御ざりません、
こたびの忠吾の調書はよく出来ておると存じます」

「ふむ さもあろう、だから奴め鼻を高うして俺の意見を求めたに相違あるまい」
あれさえなければのう・・・・・・」

「はははは 全くでござります」佐嶋忠介もよく心得ている。

「所で佐嶋、十兵衛の獲物はやはりシコロか」

「はい これまでの調ベ書きにて、奴のやり口であろうと想われます
幾つかのお店(たな)に残されましたる押し込みの手口が共通しております。

たとえ土蔵であろうが土間であろうが、シコロを使っての破り方」そこから
錣の十兵衛とあだ名されておるそうにございます」

「シコロとは又 はぁ~何時の世まで透破が世間を騒がせるのかのう。

御政道が間違ぅておるとは想わぬが、正しいとも俺には言えぬ。
下々の者が有りてこそ、初めてお上がなりたつであろうに、そこんところが
お上にはわかっておらぬ。

富むものが貧しきものを助けてこそ御政道、だが、今の世の中貧しきものが
富むものから手段を選ばず強奪いたしおる、これでは盗人社会は収まらぬ、
のう佐嶋 そうはおもわぬかえ?」

「おかしらの申されます通り、誠に今の世の中不条理に満ちております」

「わしも筆頭老中松平越中守様に進言いたし、可役人足寄場の設置を
お赦しいただいた。

だがな いくら悪人をひっ捕らえても浜の真砂と五右衛門が言いおったように、
盗人は減る様子とてない。

八代様が享保の改革にておつくりあそばした小石川養生所とて、
いまや博徒の根城とかしておるとか。

お医師も薬代をごまかし、私腹を肥やすなぞと巷の噂は消すことも出来ぬ、
俺には何が正しくて何が間違ぅておるのか、その判断を決めかねることもある」

「おかしら・・・・・」

のう 腹が減って死にそうなものが飯を望むどこが悪いのじゃ、
生きるとはまさに其の所であろう、生きるために盗みを働く、
これは確かに悪いことではある、
だがな、その一人一人が生きておるから御政道は保たれておる、違うか佐嶋」 

「さようでございますな、今の世の中何が不足しておりましょうか、
厳しく取り締まるよりその不足したるものを与えることが罪人をなくす方法
と心得ますが」

「しかり しかり まさにそこ元の申すとおり、俺はそのために加役人足寄場に
授産所を設け、寄場人足は水玉の着物を着せ、一年を過ぎるごとに水玉の数を減らし、
釈放前には柿色無地の衣服を着せ、施設の外での仕事、町への買い物を許し、
手に職を付けさせ、作業にあたっては其の収益を施設の運営にあて、

一部を労働の代価として当人に与え、出所後の暮らし向きを立て直す機会を願ごうて
作った。

読み書きを教え神道を学ばせ、これを収めたる者は釈放して世のお役に立てる。
それが俺のすべき答えであった。

だがなぁ一度悪に染まった者は、中々元には戻れぬものよ、
いくら本人がその気であっても、世間がそうは見てくれぬ、そこに
俺はぶちあたっておるのよ。

人とは何と寂しいものか、罪を犯す物が悪いのではない、罪を侵させる世間も悪い、
俺はそう想うのだがな、いやどうも俺の想うように事は運ばぬ。

飢饉で田畑が荒れ、年貢を取れねばお上が立ち行かぬ、
では何がはじめに悪いのであろう、
こいつばかりは いやぁこの俺にも皆目判らぬ。せめて罪を憎んで人を憎まず、
そのように想ぅてはおるのだがなぁ、近頃の盗っと共の急ぎ働きを見ると、
其の気持ちも揺らいでしまいそうじゃ。

雑草というやつ、踏みつければ踏みつけるほどたくましくなる。
その芽を刈り取ってもすぐさまより以上に力を増して生えてきおる、
力任せに引き抜いたとてわずかでも根が残っておれば、一夜の雨でよみがえる。

あれが火盗よと町方からは煙たがられ、庶民からは鬼とやゆされ、老中からまで
過剰と非難を浴びる。

俺に代わって誰かが収めてくれれば、俺はいつでもお役を降りる。
斬り捨てお構いなしはご法度なれど、いちいち詮議立ていたさば、
いやどうにもたちゆかぬ場合もある。

世の中に生かしておいてもどうにもならぬと想うた時、俺は切り捨てる。
備前守さまもそのところをお判りくださり、我らの為したる行いをかぼうてくださる。

おれとて立身出世は嫌いではない。
町奉行にでも昇進いたさば、どれほど久栄も俺も楽になるか、のう・・・・・・

だが、今俺がここで踏ん張らねば誰が代わりにおろう。
お前達が自由に動くにゃぁ多くの手下がいるであろう、
密偵を手足のごとく動かすにぁ金子もかかる、
その苦労を備前守様は影でお手元金をくださり、我らの働きを助成くださる。

なぁ佐嶋、この御方のためならば、俺はこの生命捨てても惜しいとは想わねぇ、
庶民が暮らしよい世の中を一日も早く創りてぇ・・・・・・」

弓張の残月が雲間に浮かんで、江戸の町をじっと照らしている。
時すでに師走に入ったある日の出来事であった。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


平蔵暗殺 2-2


 



 

 その日平蔵の姿は神田橋御門の鎌倉川岸にあった。


夕刻より平蔵は清水御門役宅の裏から、
ぶらりと気晴らしに出かけたその最中に事は起こった。


平蔵が思いつきで出かける事はよくあり、別段変わった行動ではない。


その時々で行く先は気分次第ということは多々あるものの、
目的もなくというのがいつもの事。


十二月に入って、さすがに冷え込みも厳しくなり始め、
夕刻ともなると日差しの失せた道は底冷えを運んでくる。


(ちょいと寒くなってきたな)懐に両手を入れて、
(さて本日はどの道筋を選ぼうか)と塗笠を上げて見る先に
いつも立ち寄る居酒屋の明かりが目に入った。


(うむ ちょいと引っ掛け温まって帰ろう)


「いらっしゃいやし」


「おう いつもの奴を二本程持ってきてくれ、
それに何か適当にみつくろってな


この居酒屋は伊丹の丹醸柱焼酎の剣菱を出していた。


このすっきりとした辛口の男酒が平蔵の好みに
合っていたのであろうか。


「きょうの酒肴は何だえ? おう たたき牛蒡か」


「へぇ 大浦牛蒡が手に入りやしたもので、
藁束で泥をこすり落として、すりこぎ棒で軽く叩いて
筋離れさせやす、こいつを一寸五分ほどに切りそろえて
鍋に酢を少々、煮上がったものを取り上げて、


白ごまをホウロクで炒り上げてさましたあとで
すり鉢にて軽く摺ります。


酢に味醂、昆布とカツオの出し汁に塩少々を入れて
煮立てたところへゴボウを入れて汁気を飛ばし、
ゴマを加えて和えます。


「ウム いやなんだなぁ この牛蒡の香りとゴマの香りの
程よい絡み方がふ~ さすがに上手ぇ、
火の落とし所が肝だな?」


「恐れいりやす お武家様にかかっちゃぁ叶いませんや」
そんなやりとりをしながら徳利が二本あいてしまった。


「おう 済まぬもう一本持ってきてくれ、程よく体も温まり
夜道もこれだと大丈夫であろうからのう、ところで親父女房の
(おふじ)の顔が見えぬが・・・・・」


平蔵の言葉を聞いた親父の顔が一瞬戸惑いを見せたのに平蔵は気づいた。


奥から追加の酒を運んできた親父に「うむありがとうよ 
お前ぇも1杯ぇどうだ?」と盃を向ける。


「ととととんでもねぇ!」亭主の語気の強さに平蔵はますます
疑念を抱いた。


「さようか、まぁ無理には勧めるめぇ」と盃を出した。


亭主の得利を持った手が小刻みに震えている。


「おい お前ぇ熱でもあるんじゃぁねえか」と、
おやじの額に手を当てつつ盃を干した。


「いえ 熱などございやせん へぇ」そう言って
そそくさと奥に引っ込んだ。


しばらくして「ぐへっ!!と表の方で声がした。


「親父 お前ぇ酒に何を仕掛けた!   ぐはっ!!」
何かを吐くような音とともにドウと倒れる音がした。


そのあと奥のほうで「ギャッ」と言う悲鳴が二度ほどして
静まり返った。


火付盗賊改方長谷川平蔵暗殺を外部に漏らすまいと
町奉行も盗賊改めも隠密裏に動いたのは言うまでもあるまい。


もしこれが巷に流れるようなことあらば、
この時とばかり盗賊どもが暴れまわるに違いないからだ。


そうこうしている間にも時は瞬く間に流れ去り、
江戸の町を雪が白く染めてゆく頃となった。


どこから漏れたのか、(長谷川平蔵死す)の風評が立った。


明けて睦月半ば、東に砺波(となみ)平野、
西に金沢平野の広がりを見せる倶利伽羅峠に綱切の甚五郎一党が
金沢に向けて越そうとしていた。


峠の頂上付近にポツリと地蔵堂が建っている、
その縁に腰掛けて握り飯をつまみながら、
「それにしてもお頭、平蔵の最後があまりにもあっけねぇんで、
ちぃっとばかりがっかりしやしたねぇ、
もっと骨があると想っておりやしたもんで」


「だがよ、これで俺は兄貴の敵が討てたんだ、
お前ぇが平蔵の動向を探り、決まって帰り道は行きつけの
(かどや)に立ち寄ることを突き止め、平蔵の先回りをして、
女房に短刀突きつけて亭主を脅し、


酔って警戒心をなくした頃合いを見計らって酒に毒を仕込ませ、
奴に飲ませたそのあとお前ぇは亭主と女房を刺し殺して
ずらかったわけよなぁ」


「そのとおりでさぁ、見たら野郎血へどを吐いて
くたばりやがったんだぜ、 ざまぁ見ろってんだ。


半年もかけて平蔵の動きを見はった甲斐があったってぇ事よ、なぁ!」


その言葉の終わらないうちに、


「誰が血反吐を吐いてくたばったってぇ言うんでぇ」
藪から棒に地蔵堂の中から声が飛んで来た。


何ぃ!!」驚いて甚五郎が振り返った。


地蔵堂の扉が観音開きに開け放たれ、旅姿の男がぬっと現れた。


「誰だ 手前ぇ」


「お前ぇの手下(てか)に毒を盛られた長谷川平蔵よ」


「てめぇ死んだはずじゃぁ・・・・・・」
 
予期もしない平蔵の出現に、甚五郎は残忍な眼をいっぱいに
見開いたまま持っていた水筒をとり落としてしまった。


「残念だったなぁ網切の甚五郎、あの時俺は親父に
(女房のおふじの顔が見えねぇが)、と聞いたら、
亭主の返事がこわばった。


そのあと酒を運んできたので「お前ぇもどうだと勧めたら、
いつもなら盃を受けるのに、そん時ばかりは手を振って断りやがった、
こいつは何かあるなと勘づいたってことよ。


そこで俺は亭主に(熱でもあるんじゃァねぇか)と
ヤツの額に手を当てて目線を防ぎ、その隙に盃の酒を
俺の懐紙に飲ませたってぇ寸法だ。


お陰で女房殿に着物がシミになったと小言を食らっちまった。


それから先は、その手下(てか)の後を密かにつけ、
お前ぇの盗人宿を探り当てたのよ。


だがいつまでたってもお前ぇは現れねぇ、
しかもそいつらが一人づつ別々に出たまま帰えってこねぇ、
そこで九兵衛が申しておった、
お前ぇたちがここを通って江戸に入ぇったってぇ事を思い出してなぁ、


昨日からこうして待ち伏せておったのよ、今にして思えば、
そいつが俺のとどめを刺さなかったのが運の尽きってぇことだなぁ」


「けど 俺が見た時にぁ確かに血反吐を吐いて・・・・・」と
野尻の虎三


「おうさ お陰で掌の傷がこうして残っておるわ、
酒をこぼして血を少し溶けば、おめぇ、
結構な血反吐に観えるんだぜぇ へへへへへっ!
俺のからくりが引導代わりよ、網切り甚五郎、
この倶利伽羅峠がこの世とあの世の渡し場と観念いたせっ!」


「くくくっ 糞野郎!!」


甚五郎は道中差を引き抜きざま平蔵に襲いかかった。


「甚五郎!手前ぇだけは俺が手で地獄に送ってやる、
なぶり殺しにしても飽きたらぬ奴、きさまなどどのような
死に様であろうと地獄の閻魔様とて手加減はしねぇ、
これまで貴様が手にかけてきた人々の恨みを思い知れ!!!」


平蔵は河内守国助を腰だめのまま一気に甚五郎の顎から頬にむけて
切り上げ、二の太刀で右腕を切り落とし、
さらに三の太刀で残る左腕を切り落とした。


甚五郎は顎を打ち砕かれて物も言えず、
ひざまずいたまま形相凄まじく平蔵を睨みながら仰向けに 
ドスッ と崩れた。


数日前から降り続いた雪は甚五郎の両腕から吹き出す血潮を
音もなく吸い込み、辺り一面まるで真っ赤な花が咲いたように観えた。


「地獄花を咲かせやがったか」
平蔵は河内守国助をビュッと血振りして鞘に収めた。


あまりの出来事に腰の砕けた野尻の虎三と文挟の友蔵は、
その拍子に雪に足を取られもんどり打って転げたところを
沢田小平次と小林金弥によって逃さず打ち倒された。


倶利伽羅峠は金沢平野をはるか下に見下ろしたもやの中、
白くけむっているばかりであった。


数日後、清水御門前の平蔵の役宅に京極備前守より
「下屋敷に出ませい」という通達があり、
平蔵はこの度の事件の引責を言い渡されるであろうと与力、
同心たちに伝えて出所した。


かみしも姿の正装での出所である。


平蔵より事後報告を聞いていた備前守が
「筆頭老中よりそちのやり方に対して引責を求めて参った、
さすがのわしもこれ以上逆らい切れるものではない」
其の言葉に平蔵は腹を切る覚悟を決めており、
白装束の上に着衣しての正装であった。


「わしはなぁ平蔵(今の世の中長谷川平蔵を置いて
他に誰にこのお役が務まりましょうか、
おられるならば即刻お申し出くだされ)と 
言ってやったらばな、誰も一言も申さなんだ、はははは 
さぁ近う寄れ盃を取らす」


「ははっ!!」
感慨無量の面持ちで杯を飲み干し、
懐より懐紙を取り出し盃を拭おうとするを、


「そのままそのまま・・・・・」


「ははっっ!!」


「いやご苦労であった」平蔵はこの備前守の言葉に
心から救われた面持ちであった。


役宅に戻った平蔵を与力、同心全員が打ち揃って出迎えた


裏庭には密偵たちがこれも全員揃ってかしこまり平
蔵の無事を待っていた。


「お前ぇたちにも心配をかけたなぁ、ありがとうよ」


誰も言葉を一言も発せなかった、
ただただ涙のあふれるまま平蔵を迎えた。


いつの間にか雪が音もなく降り始めていた。


「雪か・・・・・・この世の地獄も極楽も
みんな消せるものならばなぁ」


平蔵はそのまま立ち尽くしていた。



時代劇を10倍楽しむ画像入り講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/ 




拍手[0回]


拍手[0回]

" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/70/" /> -->

平蔵暗殺 2-1 あぶりだし 2月第1号


  筆頭与力佐嶋忠介


過去に大村事件で浅手ながらも平蔵の左肩を切り裂いた急ぎ働きの凶悪犯、
網切の甚五郎が江戸に入ったと言う噂は、馬蕗(うまぶき)の利平治から本所菊川町
の平蔵が役宅にもたらされたのは、江戸の町も師走に入り、
どことなく慌ただしい気持ちになる頃であった。


それから数日後、長谷川平蔵が三十日の逼塞(ひっそく)を申し渡されたと言う
噂が盗賊仲間のうちに広まった。


逼塞とは当時の武家や僧侶に対し不始末ありと
の理由で申し渡される刑罰の一つ、門を閉ざし、昼間の出入りを禁じる軽くて
三十日、重い時は五十日という決まりである。

出処は上役である南町奉行所が、長谷川平蔵の取り締まりに行きすぎ多々あり、
上役である奉行所への風当たりも強くなる一方、このようなことは、
江戸を預かる奉行所としては、誠に遺憾である。


というのが事の発端のようではあった。

庶民を守るものが庶民に不安を与えることは如何なものか。


幕閣にもその意見を声高に述べるものも現れ、京極備前守も抑えきれず、
このような処置になったと言うのが大筋の見方のようである。


清水御門前の役宅は門を閉め、門番も中に入ったまま人の出入りの気配も全くなく、
不気味なほどだと谷中三崎町の法受寺門前の花屋鷹田(たかんだ)平十の耳にも
達していた。


この男、鷹田の平十は品川の上郎上がりの女房おりきと暮らしており、口合人を
十五年もやってきた盗賊の間では名の知れた男である。

そこへ網切の甚五郎の配下、野尻の虎三から、腕の立つ助っ人をお頼みしてぇと
網切の甚五郎からの口合話が持ち込まれた。


断るわけにもいかず、さりとてこの網切の甚五郎の悪どい評判はいやというほど
聞かされている。



なまじの助っ人では務まりもしまいし、第一この網切の甚五郎のやり方が気に入らなかった。

盗人にもそれなりの仁義というものがある。


(殺さず・犯さず・貧しき者からは奪わず)せめてそれが盗人にも三分の理だと
思っている平十は困り果て、同じ口合人の本所相生町で表向き煙草屋を営んでいる
舟形の宗平に困り事を持ち込んだ。

この舟形の宗平は初鹿野音松の盗人宿の番人をしていた頃平蔵に捕縛された経緯が
ある男である。

宗平が少しばかり年上ということもあり、「お願い致します、舟形のどうか私を
すけておくんなさい。



いやね、あっしだってこんな急ぎ働きのおつとめなさる網切のお頭の持ち込み話しは
出来ればお断りしたいのですが、その後のことを思うと、女房のおりきに
類が及ぶんじゃァないかってね・・・・・

困り果てて相談をと言うわけさ、何とか・・・どうにかならないかねぇ」
ほとほと困った様子で差し出された茶をすすっている。


「平十さん、ご覧のように私も年で、今じゃぁ気質の煙草屋で何とか暮らし向きも
溜息ほどだが続いております、だからと言って、昔はご同業のよしみってぇものもありますから、
どうでしょう間に入る人をご紹介することでこの場を繋ぐってぇことは出来ないものでしょうかね?」


宗平はそう断って平十の顔を見た。

「分かりました、これでやっと私も肩の荷が下りたような気分でございますよ、
所でその仲立ちのお方は何とおっしゃるのでございましょう?」

馬蕗の利平治さんと言います。
元は上方にいなすった頃は高窓の久五郎お頭のなめやくを受けていたお人さ」
宗平はじっこんの間柄でもある馬蕗の利平治を仲介役に薦めた。


「上方で、さようですか、ならば間違いもございませんでしょう、
何しろ網切のお頭の所業はこの道では知らぬ者とておりますまい。

血なまぐさい事では盗人仲間でさえ一目も二目も置いているお人ですからねぇ、
これで私も今夜から枕を高くして休むことが出来ます、ほんに ほんにありがとうございます」
平十は涙を流さんばかりに喜び、幾度も幾度も宗平に両手を合わせて伏し拝んだものだ。

翌日、本所石島町の船宿(鶴や)に平十の姿があった。

「もし、ちょっとお伺いをいたします、こちらに馬蕗の利平治さんはおられますでしょうか?」


出迎えた小女は「どのようなご用事でございましょう?」と怪訝な顔で問い返した。

「相生町の舟形の宗平さんより、こちらにお伺いするよう伺ったもので鷹田の平十と申します」


小女は「ああ それならばどうぞお入りなさってくださいまし・・・・・」と
言いながら丁場の方をチラと見やる。

先ほどまでいた主の粂八の姿は見えず、丁場の机の横にそろばんが立てかけてあった。

小女は客を二階へ案内し、茶を運んできた。

程なくそれらしい男が部屋を訪ねてやってきた。

「鷹田の平十さんで?・・・・・馬蕗の利平治でございやす」と 色黒のこの男、
まさに馬蕗(ゴボウ)の様に顔も手足もひょろ長く、(なるほどその名が表している)と
平十は一人合点したものである。

丁度その頃鶴やの奥座敷、主の部屋に小房の粂八の姿があった。

押し入れを開け、中にはった粂八は隠し階段を引き下ろし、静かにゆっくりと登っていった。


この部屋は、鶴やの持ち主で伊予の大須藩士森為之介のものであったが、
平蔵を付け狙う暗殺者金子半四郎の兄を切り倒して脱藩したのちに、
密かに身を隠して営んでいた店である。

平蔵と岸井左馬之助と居合わせた事件にて、暗殺者から身を隠す暫くの間預かっているもので、
その間に粂八が部屋を改造し、盗み見が出来るようにした小部屋である。

当の森為之介はすでに江戸に女房と二人して戻り、この鶴やの料理人として復帰しており、
時折平蔵をしてうならせる料理の達人でもある。

話はそれたが、馬蕗の利平治と鷹田の平十との会話は当然粂八がすべてを聞き、
又顔の確認もしてのけたのは言うまでもあるまい。


この平蔵暗殺計画の一部始終はその翌日粂八と馬蕗の利平治によって平蔵の耳に達していた。

網切の甚五郎はかつて向島の料亭(おおむら)の奉公人を含む二五人を惨殺して、
平蔵を待ち構えていた「大村事件」の張本人であり、平蔵に父親の土壇場の勘兵衛を
殺された恨みを持ち、執拗に刺客を放つなど、幾度も平蔵は窮地に追い込まれていた。

この網切りの甚五郎が舞い戻ってきたという事は平蔵に計り知れない威圧を与えた。

その 甚五郎が平蔵の暗殺目的に江戸にまたもや舞い戻ってきたということは尋常ではない。

(余程の覚悟であろう、それならばこちらとてそれ相応の手立てを講じねば
再び大村事件のようなはめに落ちるやも知れぬ)平蔵は深い溜息をついた。

(俺だとて、親を殺されれば事の善悪は別にして相手を憎むであろう、
それに関して甚五郎の気持ちは解らぬでもない、だが仇を打つということで
関係のないものにまで手を下すことは人間のやることではない)。

馬蕗の利平治に紹介された浪人大崎重五郎を鷹田の平十が訪ねたことも
すでに平蔵の耳に達していた。

だが、それ以後ぷっつりと網切りの甚五郎の足取りが途絶えてしまった。

いつ又あの網切りの甚五郎が江戸市中を恐怖のどん底に陥れるかと想像するだけでも
身の毛がよだつ思いである。

何としても捕まえねば、これ以上やつをのさばらす訳にはいかぬ。



平蔵は密偵たちを軍鶏鍋屋の五鉄に召集した。

翌日夕刻、清水御門前の長谷川平蔵役宅は大門が閉ざされ、
門番までも引きこもって全く人の気配が消えてしまった。

長谷川平蔵逼塞(ひっそく)の噂はこうして市中に拡がったのである。

平蔵としてみれば、この度の甚五郎の目的が我が身の暗殺であるなら、
それを逆手に取れば良いという考えに至ったわけである。

一日中張り付くことよりも、時間を決めて行動するほうが相手にわかりやすく、
その間密偵たちも休息をとれるし、都合が良いであろうと考え、
その旨を京極備前守に密かに書面を持ってお伺いを立てた、
当然使者は筆頭与力佐嶋忠介である。


佐嶋仲介は平蔵に借り受けられるまでの間、同じ御先手組頭堀立脇の筆頭与力であった。

このような経緯から平蔵の役宅が逼塞の沙汰がおりた事となった。




時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/ 


 


拍手[0回]

 


拍手[0回]

" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/69/" /> -->

かまいたち

 

このところ江戸市中に辻斬が横行し、奉行所の総力上げての探索も後手後手に廻り、
公儀からもご威光に関わる一大事と圧力が日増しに高まるばかりで、
手掛かり一つ無いまま落命者は十名を超えた。

殺人は本来火盗改の持ち場ではないために、進んで探索することはないのである。

庶民からは不安が増すばかりで公儀への非難が噴出し、ついに老中筆頭松平越中守は
火盗改に助成するよう京極備前守に下知する。

木挽町3丁目にある備前守下屋敷に呼び出された平蔵に「なんとしても庶民の不安を取り除くために
力を貸してはくれまいか」と言う話しであった。

日頃町奉行は盗賊改めのやり方に批判的で、特に平蔵が無頼の者や博徒など
前科者を使っての探索方法が過剰であると老中に訴えてきた経緯がある。

その矢面で平蔵を理解し、ある時はかばい、幕閣にとり成しをするなど多方面の援助を
行っていたのが京極備前である。平蔵は低頭し、備前守の言葉を聞いていた。

「そちの行動が、たとえいかように非難されようとわしが留め置く、遠慮せず思うがままにやってはくれぬか」
この言葉を聞いた平蔵「備前守様のお言葉、この長谷川平蔵一命を途しても沿うよう努力いたします」と
答えた。

だが、町奉行からの入る情報は皆無に近かった。事件は月明かりの夜に起こっていること。

いずれも頸動脈を鋭い刃物のようなもので切り裂かれており、即死の状態ではなく、
四半時程度は生きておられたことも判明している。

事件に遭遇したその切れ切れの証言によれば、不意に足元を救われて前のめりに
転倒ていることが共通している。

加えて不思議なのが、江戸でも評判の剣客が数名混じっていることであった。

しかもそのすべてが刀を抜く暇も無く襲われているという。

奉行所の見立ても「わざと手当を施しても間に合わない程度の致命傷であり、
かまいたちの仕業ではないか」と結んでいる。

「ふむ 腕に覚えのある剣客が抜く間もないとは解せぬ」平蔵はこの難問がまるで雲をつかむように思えた。

おまけに懐を狙っての辻斬ではないことも特別の的を絞っての殺害ではないことがわかったからである。

それからの平蔵は夕刻になると市中見廻りに出かるという日課に変わった。

辻斬の出たという報告場所を絵図にしたためてみると、
いずれも浅草御門から牛込御門の土手に集中していることが判明したために、その辺りを毎夜流していた。

平蔵は市中見廻りの途中、両国橋東たもとの米沢町三丁目にある居酒屋(百味)に立ち寄った。

「じゃまするぜ」「いらっせえやし」奥からぶっきらぼうな声が飛んできた。

「親爺何か酒の相手を見繕ってくれぬか」
「へぇ かしこまりやした」そう返事をしながら、「おい おきぬ、 食った茶碗、はすりさ下げでおげ」と
言った言葉が耳に入った平蔵「おい 親爺 お前ぇ国はどこだえ?もしかして 陸奥とか?」
「お武家様 良くご存知で、確かに あっしは宮城が出処でございやす」

「そいつはてぇ変な所からご苦労だったろうなぁ」

「へぇ もうお江戸に来て二十年になりまさぁ・・・・・へい お待ちどう様で」

「おお!美味そうじゃぁねえか、こいつは何だえ?」

「ホヤの酢物でございやす」

「ウム この磯の香りがまた格別だのう、それにだなぁ コリコリした身とこの歯ざわりと申すか
歯ごたえ言うべきか、いや こいつは参った!。

この酢のシメようにどうもコツが有ると見たが」

「恐れいりやした。そこまでお判りになられるお武家様は並のお方じゃあねぇとお見受けいたしやすが」

「何の何の そこいらの素浪人と同じょ、ただちょいとばかし食いしん坊と言う違いはあるがな。
おお そいつけぇ なかなか面白ぇ面構えだのう」

「へぇ 元々は魚みたいに泳いでいるのだそうで」

「おい待て待て! こいつが泳ぐってぇのかえ」

「へい 生まれてしばらくは海の中を泳いでいても、やがて岩に取り付いてからこのような形になるので、
そのためにそこんところから切り取って皮を取り除かねぇといけませんや」中を綺麗さっぱり取り除きやして、
食べ頃に刻みやす。

上方の薄口丸大豆醤油と京の千鳥酢に砂糖少々、キュウリや塩抜きした三陸の若芽を合わせやす」

「ほほぉ そこまでこだわっておるはずだ、旨ぇ旨ぇ  いや恐れいったぜ親爺」

「ありがとうございやす。
お武家様にそこまで言っていただくと、差し上げる甲斐がったというものでございやす へぇ」

「ところで、 こっちの方は何だえ?」

「へぇ ごろんべ鍋と申しやして、早ぇ話ドジョウ鍋でございやす

「泥鰌かえ こいつはまたありがてぇ、俺はな 軍鶏鍋とドジョウ鍋が好物なんだよぉへへへぇ」

「それは良うござんした、栗原のごろんべ鍋はウナギと同じ位ぇ滋養があるそうで、
土の中で生きているので土生(どじょう)と呼ばれ始めたとか、聞いておりやす」

「なるほどな それで泥鰌か ふむふむへ~ぇ」

「しかし、泥臭いので二日程真水で泥抜きをいたしやせんと、鍋に油を少々入れて熱し、
ドジョウを入れ蓋をしやす、暴れなくなりやしたら酒と水を入れやす。

福井の小越小芋を四ツ切りにして茹でて、ぬめりを取りやす。
凍み豆腐はぬるま湯で戻し短冊に切り、香り付けのゴボウを入れて一煮立ち。
根深以外の野菜は短冊に切りそろえて酒粕と一緒に入れ、コトコト煮やす。
仕上げに醤油と塩で味を整えネブカを放しこんで火を止めやす。」

「ううん 美味ぇ!大ぇしたもんだ、何であれこだわりや極めはでぇじな事だなぁ。
いや! 気に入った また来るぜ、釣りはいらねえ とっときな。
春先の風が こう 心地よくそよいだようだぜ。」

腹ごしらえもすみ、くだんの辻斬現場浅草御門にゆらゆらと足を運ぶ。

神田川沿いに気ままに流しては見たが、夜鷹の話でもこの数日辻斬の話は聞かず、
もうどこかへ定めを変えたのではないかと言う仲間内の話で、そろそろと稼ぎに出たと言う。

誘いをかける女に小銭を握らせて、再び歩を進めた。
小石川御門付近は松平讃岐守上屋敷などもあり、ここを左に曲がれば清水御門の役宅にも近い。

さていかがしたものか・・・・・とおもいつつ(まぁついでだ牛込御門まで行って九段坂を取ればよかろう)と、
少し酒も入って心地よく神田川の夜風を裾に感じながら牛込御門まで一町ほどの所で足を止めた。

見上げれば月はおぼろではなく、秋の澄み切った輝きとも違い、
また冬の凍てつくような冴え渡る光でもなく、満々と満ちて柔らかに辺りを照らしている。

平蔵が米倉丹後守上屋敷にさしかかった時、何かがピュピュと風を切るような音を聞いた。
その刹那平蔵は足元を救われ無様にその場にドウと倒れてしまった。

(うっ来るな)足は何かで巻きつかれたように金縛りにあって動かせない。
素早く横に転げ見上げた空は、雲の合間に満月が明々と輝いていた。

一瞬空が真っ黒にかき消され、何かが覆いかぶさってきた。
平蔵は脇差しを素早く抜いて満天の月を貫くようにつきだした。

「ぐはっっっ」異様な低いうめき声が平蔵の上に倒れこんだ。脇差しと共に横にはねのけ、
半身を起こし大刀を抜き、足に絡まった何かをすかさず切り離し素早く立ち上がった。

その目の先に胸に深々と突き刺さった脇差しが、月光を浴びてキラリと光っていた。
曲者の胸に足をかけ、脇差しを一気に引き抜いた。びゅうと血潮が宙に吹き上げた。

平蔵はその曲者を背中から抱き起こし「ウヌ 何物だ!」語気も荒く締めあげた。

「へへっ へへへっ・・・・・」薄ら笑いを残して息が途絶えてしまった。

当たりは又元の静けさを取り戻し、夜風のみが何事もなかったかのように流れてゆく。

平蔵は先ほど己の足元をすくったもの正体を確かめようと、月明かりの下草原を当たってみる。
大刀の切っ先に(チン)と音がして、何かに触れたようであった。 

草叢をまさぐりながら拾い上げてみると、1寸五分ほどの玉に紐がついたものが手に触れた。
(何と微塵ではないか)平蔵はこのかまいたちの正体が微塵であったことに驚いた。

むくろを戸板に乗せ、近くの番屋に運び込ませ、清水御門の役宅に控えていた与力筆頭の
佐嶋忠介につなぎを取らせた。佐嶋が急いで番屋に飛び込んできた。

「お頭!ご無事で!!」

「ウム 危ないところであった、まさかかまいたちの正体が微塵とはさすがの俺もうかつであったよ」「

微塵? でございますか?」と佐嶋忠介が言葉を挟む

「ウム こいつはな古くは野山を駆けるウサギや獅子など獣や鳥を絡めとる道具でな、
ほれ、このように三つの玉をそれぞれ二尺ほどの細紐で三ツ巴に結わえた投てきだよ。

こいつを、ぶんぶん振り回して相手の足元めがけて放てば瞬時に足元に巻きつき動きを封じる。

しのび道具だよ。昔、たずがねの親父っつあんところに出入りしていた水蜘蛛の与五郎から
見せてもろうた事があった。

「あのおまさのてて親の・・・・・」

「うむ、今じゃぁ軒猿という店を構えておるが、元は伊賀の出で陰忍よ。
成る程これならば余程の剣客でも戸惑うであろう。

俺はな、町奉行の探索録を呼んだおりから、気になっていたのよ、皆一応に足元をすくわれていることを、
それで足元をすくわれたおり、とっさに横に転げて脇差しが抜ける体制に移ったのよ、

案の定馬乗りになろうと飛びかかって来おった矢先に俺が脇差しをそ奴目指して突き上げたものだから、
こやつはかわす暇もなく俺の刃をまともに胸に食らっちまったと言うわけさ。

「しかし、ただひとつ不審な点が・・・・・・」と佐嶋忠介が

「ふむ なぜ奴がとどめを刺さなんだかという事であろう」

「まさに・・・・・」

「それはなぁ 江戸市中に不安を撒き散らそうと言う魂胆であったろうよ、
恐怖なぞは口伝えに聞くほど更に膨れ上がるもの。

不安が渦巻けばお上への風当たりも強まろう、御政道が非難を浴びればいかがなるや?
天下を取って代わろうと想うものも無きにしもあらず、先の飢饉で難渋うしておる諸藩や百姓、
離藩したり浪々の身となりし者も多くおろう、それらを扇動してあわよくばと目論む奴も出てくるであろう?」

「先の張孔堂・由比正雪事件でございますな」

「うむ さすが佐嶋 よく存じておるのう、そのとおりじゃ、
誰が影で糸を引いたかまでは今となっては判明致さぬが、こ奴の身のこなしや着用いたしておる物からは
少なくとも山の者ではないとだけはいえよう、まぁ町奉行では手に負えぬであったろうよ。

想えば戦国の世を生き抜いてきた陰忍達も禄を干されてかような仕事を請け負ったのであろう。

いずれにせよ所詮雲の上の企みは、我らには関わりのねぇ事さ、
それが政という魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界さ。

おれも水蜘蛛の与五郎に出会ておらなんだら今こうして減らず口を叩いてはおらなんだかもしれねぇぜ」

すでに月は西の空に消えかけ 朧な輝きを、明けて来る朝に手渡そうとしていた。

「ウム この茶の1杯ぇが 何と旨ぇ事よ、のう佐嶋、ご苦労であった」平蔵は深くため息を漏らし、
しらじらと明けてゆく江戸の空を見上げた。

拍手[0回]


忠ちゃんおいで


 木草学者小野蘭山

春もようやくその翠色の深みを増し、猫は1日日向でゴロゴロ、
まぁこんな時は兎も同じかもしれませんなぁ。

我らが愛すべき同心木村忠吾も御多分にもれず、春にいそしんでおるようで、
本日も御役目の市中見廻りの合間を縫ってのお茶屋通い・・・・・・

壁に耳あり障子に目ありということわざもトント忘れてのしけこみであった。

夕刻清水御門前のお役宅に戻った忠吾を「お頭が待っておられるぞ」と
筆頭同心の酒井祐助が耳打ちした。

「えっ おかしらが?」と忠吾はけげんな顔で平蔵の部屋に向かった。

「おかしら木村忠吾只今戻りました」

「んっ おう忠ちゃんちょいとおいで、で、本日のお勤めはいかがであった?」

「はぁ お言いつけ通り加賀屋の佐吉を1日微行いたしまして、
上野幡随院門前町の小料理屋に入るのを確かめ、一時ほど見張りましたが
何も変化なく、それで・・・・・」

「うんうん で、立ち戻ったと言う訳じゃな?」

「はい全くそのとおりでございます」

「フンフン その時お前ぇ店の前で色っぽいおなごに出会わなんだかえ?」

 えっ!! どうしてそれを」と、この平蔵の思いもよらぬ問に
目の玉をまん丸くして見返した。

「この大馬鹿もん!」平蔵は忠吾を一喝した。

「ははっつ!!」忠吾にとってまさに青天のへきれき、
平蔵の鋭い語気に肝をつぶして平蜘蛛のごとくひれ伏した。

「お前が店先で出会ったおなごは(おとき)と申す佐吉の色女だ、
おときが身をすり寄せてお前の懐に手を挿し入れたであろう、
お前は鼻の下を伸ばし、おときの身八つ口から胸乳にすかさず手を
挿し入れはせなんだか?」

「ええっ!!!!!」あまりの信憑さに忠吾は真っ赤になり
「どどどどうしてそのような!!」と思わず問い返した。

「愚か者めが!おときはお前の懐に十手が忍んでおることを確かめ、
奥に潜んでおった佐吉に目配せを送ったのよ、
佐吉は慌てて裏口から逃げ出しおった」

「どうしてそのような事をおかしらはご存知で」
忠吾は平蔵のあまりの言葉を飲み込めず戸惑いながら問い返した。

「この粂八が向かいの小料理屋の2階からすべてを見ておったのよ」

「粂八!!きさまぁ」思わず忠吾はいきり立った。

「愚か者!己の所業を粂八に転嫁するとは情けない、恥を知れ恥を!」

平蔵の言葉の激しさに忠吾は顔面蒼白となり
「ははははっ!」後ずさりしつつ畳に頭を擦りつけた。

「粂八はわしが指図でその女おときをずっと張っていたのよ、
そこへお前がノコノコとやってきて、くだんの行いに及んだという訳だ。

粂八はすぐさま佐吉を追いかけたが、2階から下りて
向かいの裏手に回るにゃぁ時がかかりすぎた、
結局お前ぇの愚かな行いのために、佐吉ともどもおときまで網の中から
消えちまったと言うことよ」平蔵は吐き捨てるように忠吾を睨みつけた。

「ははっ 全くもって誠に申し訳もござりませぬ、
この木村忠吾一生の不覚でござります」忠吾は畳の下に穴があくのではないかと
想われるほど平頭して上げることもできなかった。

それ以後加賀屋の佐吉とおときの消息はぷっつりと途切れてしまった。

数日後、平蔵は忠吾のあまりのしょげかたに、少々胸が痛み
「おいうさぎ、本日は市中見廻りについて参れ」と
忠吾を伴って先に寄った覚えの(くじらや)に足を向ける。

客もまばらな奥に座り、「おやじ 今日はもう山鯨はあるまいのう」
平蔵は冬場のみという猪鍋はもう無いと想ったからである。

「へい あいすまんこって!」と亭主は頭を下げ、
「ハマグリ飯なぞいかがなもんで?」と伺ってきた。

「おう そいつは美味そうだなぁ、よしそいつを二人前ぇ頼む、
その前に何ンだ、くじらと、こう」と酒を引っ掛ける仕草に
「へい すぐにお持ちいたしやす」と二つ返事で引っ込んだ。

「えっ!あの くじらでございますか!」案の定忠吾は目を丸くして問い返した。

「うむ まぁ食ってからのことよ」平蔵はにやにや笑いながら
出てきたくじらを口に運ぶ。

「あっつ これはまた歯ごたえもよろしゅうございますな、
しかし、何と申しますかコンニャクを食っているようなところも
ござりますが・・・・・・」 

たまらず平蔵「わはははははっ 忠吾!お前ぇの申すとおり、そいつはコンニャクだ。

元々は 山鯨と申してな、イノシシを食わせておったが、今はその肉が手に入らぬ、
おまけにここらは人足寄場も近いとあって、懐のちょいと寂しいお前ぇでも
くじらが食いてぇ、そこんとこをこの親父が工夫して、このコンニャクが
くじらに化けたと言うことよ、なぁ親父」平蔵は過日仕込んだ講釈を忠吾に聞かせた。

「へへへへ そのとおりでさぁ、おまたせいたしやした」

「おお 出てきたぞ忠吾!こいつはなぁ、米を洗ってザルにあげておき、
砂抜きしたハマグリに酒を入れて煮立て、煮えたら貝を取り除き、
身に醤油と生姜汁を入れて軽く煮立てる。

いい湯加減であったはずなのにだんだん熱くなって、こう蛤が口をパクパク
その身だけを鍋から出してよけておいて、身は最後に飯の上にあずけるのよ。

蛤の煮汁に鰹と昆布のだし汁を混ぜて、米と一緒に炊きあげてな、
炊き上がりの蒸らし直前に、先ほどの蛤の身を入れて蒸す。

こうすると形も崩れにくく味もしっかりつくと言う訳よ、なぁ親父!」

「いや こいつは驚いたねぇ、そこまで言われちゃぁこちとら鉢巻取らねばなんめぇ、
あははははは」親父は頭をコンコン叩きながら大笑いである。

それを観た忠吾が「おかしらは何でもよくご存知とは存じておりましたが、
まさか蛤飯の作り方までご存知とはいやはやなんとも・・・・・・」と
羨望の眼で平蔵を見ると、 

「実はな、過日猫どのに教わったのよ、わはははは・・・・・」

「何だぁ それにしてもおかしらはお人が悪い、村松様の受け売りとは」
忠吾は平蔵の答えに呆れた表情である。

「よいか忠吾、人の意見も己が身に取り込み、咀嚼致さばそれはおのが意見となる、
知識とは泉のごとく湧き出るものでもない。

教えを請い、学ぶ気持ちで眺めれば風とて今の季節を教えてくれる。

本日はお前に人足寄場を見せてやろうと想うてな、人はこの世の吹き溜まりと申すが、
俺はそこに花を咲かせたい。

世をすねるだけではなく、まっとうに生きることを見つける手立てにしてほしいのよ。
泥田の中から蓮は咲く、身は落としても心まで落とさせてはならぬ」。

この事業は、平蔵が火付盗賊改方長官と兼務という形で遂行しているもので、
肥大化しつつある江戸を更に拡げるために石川島干拓工事に刑罰の軽い罪人を
使役につかせ、三年という刑期の中で手に職を付けさせて、自立構成させる
授産所を兼ねている。

平蔵が時の筆頭老中松平越中守定信に、この人足寄場の建議を申請し、
受理された大仕事である。

人足寄場からの帰り、忠吾が寄場の出口付近で何やら屈みこんでいる男を見つけ
「何やら怪しゅうございますな」と平蔵を見返し、
「ちょっと見てまいりましょう」とその男に近づいた。

「おい お前 こんな所で何を致しておる俺は火付盗賊改方だ」と威嚇するように正す。

「ああこれは失礼をいたしました」男は立ち上がって何やら手に持っているものを見せた。

「なんじゃぁそれは?」忠吾はいぶかしそうにその差し出されたものを見やる。

「はい 草木絵図でございます」と穏やかな口調で答えた。

「草木絵図とな?」今度は平蔵が口を挟む。

「どれどれ おお これはまた見事な」平蔵は絵師中村宗仙の絵をよく見ているので、
その絵が本物かまがい物かは区別が付く。

「いやご無礼つかまつった、ところでなぜかような場所で草木をお描きで?」と尋ねた。

「私は小野蘭山と申します、諸国をめぐり、様々な木草の図を描き写しております。

これまで我が国には固有の木草図がなく、それを苦心いたしております」と
白髪を低く下げた。

「おお これは失礼をいたした。身共はこの人足寄場の監督を仰せつかっておる
長谷川平蔵と申す」平蔵はこの老絵師の飾らない中に凛としたものを感じ取り名乗った。

「これはご苦労様でございます」蘭山はにこやかに平蔵の眼を見返す。

「そつじながら木草ならばかような所でなくとも小石川の薬草園なぞ、
種類に困ることもござるまい」と水を向けたが

「ははははは 小石川の薬草園なぞ私ども下の者が入れる場所ではござりませぬ、
それに、私は薬草にこだわりを持っておりませぬので、諸国の路傍に生えし木草に
惹かれまする」

と、手に携えた画帳を開きながら「このタンポポなぞ種類だけでも十種は超えます、
これらには解熱・発汗・健胃・利尿・催乳などの作用ありと言われておりますが、
これらは漢方がたのお仕事、私は同じものが地域や土地により育ったり
育たなかったりしている分布にも興味がございまして、
それをまとめ上げて見たいと願うております」

「なるほど それは又遠大なる仕事にござるなぁ」平蔵はこの老絵師の壮大な夢を
今始まったばかりの人足寄場にかける自分の望みと重ねて見る思いであった。

「のう長谷川殿、植物と言うもの、我が身に足があるわけでもなくそれを又、
望んでもおりますまい、与えられた場所で限りの力を持って精一杯にほころび、
痩せ地であらば又、それに似合って美しゅう咲きます。

気張りも卑下もなく、ましておごりなどなしに、其の地に似おうた咲き方や
育ち方を致します。

良き所も悪しきところもすべて抱え込みて、それでいてなお観る者の心を慰めても
くれます。
さて、人はこの花の一つにも勝っておるでございましょうか?」
蘭山は平蔵の心を見透かしたように微笑んでいる。

「確かに・・・・・・
身共はこの寄場を造り、わずかでもまっとうな暮らしを見つける手立てにと
思うておりましたが、それは身共が想うことではなく、
ここから芽生えさせねばならぬということでござりますな、
誠にこのたびのご教訓この長谷川平蔵キモに命じましてござります」
平蔵はこの老絵師の眼力に心から心服した。

「スギナやわらびなども愛でるには良き物の、食するには程の良さもござります、
いずれであれ花も人も表が有らば裏もある、これ両者交わってこそ(それ)
でござりましょう」と平蔵の立場を見事にあやで言い表した。

「誠にございますなぁ、・・・・・・・・」

平蔵は、ひたすら路傍に咲く花を写しとるこの絵師の後ろ姿を
まばゆいものを見るかのように佇んで眺めていた。

「泥にまみれて初めて花の美しさを知った思いじゃ、
寄場をそのような場所にしたいものじゃなぁ」

さわやかに吹きすぎさる風に花が小首を傾げて笑ったように観えた。



時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/


 

拍手[0回]


2015年1月1号 あるがまま   木喰上人

木喰上人自身がモデルと言われている

「この処おかしらは変でございますなぁ」
呑気者の木村忠吾でさえそう想うほど、近頃平蔵は黙りこむことが多くなった。

筆頭与力の佐嶋忠介でさえ言葉をかけにくいと思う日々である。

妻女の久栄がその空気を読み取ってか「殿様 あまりこんをお詰めにならず、
いっそ気晴らしに旅になとお出かけにでもなられましては」と案じる。

市中もこのところ少しばかり落ち着きを見せており、
与力・同心の腑に落ちない様子が役宅の中に拡がりつつある。

久栄の勧めもあり、墓参りを兼ねて四谷御門前の戒行寺に出かけた。

いつもなら妻女久栄のために油揚坂途中の豆腐屋で名物の油揚げを
買い求める平蔵であったが、本日はそれも横目に、
だらだらと石段を下り伝馬町当たりまで下りてきた。

(ふむ・・・・・・)深い溜息とも想われる息を残してゆらゆら歩を進める。

茶店で休んでいたとおぼしき修行僧が「もし!そこな御仁・・・・・」
と声をかけてきた。

(んっ 俺のことか)と目を上げると、「お前様何をそのように案じておられる」と
再びその修行僧がにこやかな笑顔で問いかけてきた。

平蔵は何故かこの僧の笑顔にふと心が緩み、床机に腰を下ろし
「身共のことでござるか?」と聞き返した。

「さよう お前様じゃぁ 人はおのが心に石を置かば、其の重み故に難じゅう致す、
野の花を観、喜びや慈しみを覚え、空を見て心安らかを知る、
物皆あるがまま、何に心を砕きてか苦を求むることもあるまい。
そうではないかの?」

「出された茶をすすりながら、平蔵はこの僧の言うことに安らぎを覚えた。

「御坊、人はなぜ善悪に別れてしまうのでござろうなぁ」と言葉を吐いた。

「さよう、風に抗すれば花も又散ろうに受けて流すは天の恵み、
種を運び増し増やそうほどに、迷い迷うたとて変わらぬものは変わらぬ、
仏も夜叉も身は一つ。

何をためろうとて明日の命を伸ばすことも叶わぬものを吹く風に身を任せ、
おのが心を解き放たれば悩みなぞという物無のごとし。

おのが望みを知る事こそ為さねばならぬ悟りとは想わぬかのう・・・・・・
凡そこの世に在るものすべて味おうても楽しみても禁ずることもなく
尽きることもない。
鳥は己が身をはじたことも嘆いたこともあるまい、しかるに何をか悩むことあろう。
お前様の上にお前様はなく、又お前様の下にお前様はあるまいに。

わしは諸国を旅しつつ、神仏を彫り続けておる、だが、これはおのが心を無にする試し、
無になろうと一心に彫ることがすでに無になってはらぬのよ。
なぜ彫るのであろうのう・・・・・・

そう言葉を続ける僧のずきんにとんぼが止まる。

不思議そうに眺める平蔵に、今のわしには帯びるものとて何もない、
ひたすらこの町並みを眺め、その一部であることを気にもせず、
只々有難く茶を頂いて心安らか。

人は人それだけの事じゃ、生まれながらに悪人はおらぬもの、
罪は罪なれど人は又人なのじゃ。
人を裁ける者がこの世に一人とて居るであろうかの?

善悪は一対のもの、どちらの立場におるか、その違いがあるだけだとは想えぬか。
人は時として夜叉にも仏にもなる。

それを見極めるのも己を解く事かもしれぬ。路端に咲く花をみなされ、
童は摘み取りて喜ぶが、牛馬はこれを喰らいて腹を肥やす。

さて花はいかがおもうであろうかの。

花にとってはいずれも同じ生命を縮めることに変わりはあるまい。
のう、お前様」。

平蔵は腕組みをしたままじっとこの僧の言葉に耳を傾けていた。

僧は静かに茶をすすり終えると茶代を置き、奥に向かって両手を合わせ
「お前様がもの想うておることそれ自体が地獄と言うものじゃ、
この世で預かったものを受け入れる、そこに極楽はあるとみたがのう」
と平蔵の顔をにこやかに眺めた。

「御坊の申される通り、わしは迷うておった、世に災いを為すものを捉えるわしは
はたして善人なのであろうかとな、これまでの御坊の垂訓に鱗が剥げ申した。

「ほほほほほほ 今の気持ちがそれ極楽なのじゃ、何も構えずともよかろう、
大海を知った大河は山に向うては流れぬもの」

「おお 良く解り申した、して御坊のご尊名をお聞かせ願えまいか、
身共は長谷川平蔵と申すもの」平蔵は丁寧に尋ねた。

「木喰と申しまする遊行僧にござります」と絶えない笑顔で平蔵を見やり
両手を合せて立ち去った。

「俺はこれまでお上のお役に立てばと思うて働いておったが、
老中などからまで利益をむさぼる山師のような姦物と言われては
俺のつとめは何のためであろうかと迷っておった。

今の世の中庶民の安らかな暮らしを守るのがわしが役目。
それをとんと忘れるところであったわい」。

後に平蔵はこう側近の佐嶋忠介に語ったという。

菩提寺の帰りに出会うた遊行僧木喰の懐を心地よく抜けてゆくような
爽やかさを忘れることはなかった。



時代劇を10倍楽しむ講座   http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]