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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

8月号    めぐりあい  伊予吉田藩武左衛門騒動



「で、そのおかたは?」

「初めて愛おしいと思ぅたおなごだ……」

「まぁ……」

「焼くかえ?」

「ええ…、それも狂おしいほどに。
長谷川様、私はこの度のお供で心を決めました」

「ほう…、何と……」

「侘びであろうと」

「武野紹鴎であったかな」

「はい……」

「それも善かろう、儂も然様ありたい」


〈侘びといふこと葉は、故人にもいろいろと歌にも詠じけれども、
ちかくは正直に慎み深く、おごらぬさまを侘びと云ふ。
一年のうちにも十月こそ侘びなれ〉 


その3年後の寛政5年(1793)紙専売を吉田藩の御用商人
法華津屋(ほけずや=三引・叶両家)の高月与右衛門・少右衛門が
藩に資金の融通を行うその見返りに、この紙専売権を独占した。

法華津屋は農民にも金の貸付を行い、彼らの漉いた紙を安く買い叩き、
代金返済に当てさせた。

農民が借入した櫨(はぜ)・楮(こうぞ)作付の資金は年賦償還で、
五カ年の返済猶予が設けられていたものの、その利息は高額で、
ほとんど農民の手元には戻ってこなかったという。

このために再び製品の抜け荷・密売を模索するも、
取り締まりの強化で阻止される。

吉田藩領内、上大野村嘉兵衛は、桁打ち(ちょんがり)と呼ばれる
浄瑠璃語り部に身をやつしながら、三年の時を費やし83ヶ村を
回って同志となる人々をまとめ、吉田藩宗家伊豫宇和島藩に
是房村善六と連名でその窮地を訴えた。

「本に皆様、聞いてもくんない 四国のうちにも かくれもござらぬ 
宇和島御分地 吉田の騒動……」
吝薔(りんしょく=ちょむがり=浪曲のような語り部)の頭文である。


寛政4年(1792)2月9日夜、延川村"とぎが森"に集結していた荒野子村から
延川村までの農民が翌日13日宇和島城下八幡河原に集結、
その数83ケ村9600名に膨らんでいた。

この為に宇和島藩では伊藤五郎兵衛、代官二宮和右衛門を遣わし、
農民に仮小屋を提供するとともに、帰村する者には弁当料まで支給。

2月13日吉田家家老尾田隼人が出張り、農民と交渉するも決裂。

翌2月14日、農民の要求も考慮の上税制などの藩政改革を説いた
吉田藩末席家老安藤儀太夫継明は、三十七歳の妻女と十六歳の子息
富太郎と別れの杯を交わし、刀は常の物より良い物を持ち、白装束も用意し、
一揆の集結している宇和島城下八幡河原に出向き、

「昨年の嘆願が今日に及ぶも裁定なきは、やむを得ざる事情によるもの。
我、家老職に席を連ねながら事を執り行う事能(あた)わず、
この騒擾(そうじょう=騒動)を惹起(じゃっき=起す)
したるは悉(ことごと)く吾が不徳の致す所、
上下に対し一言も申訳なき次第なり。

汝等上(かみ)を恨む事なく即刻願書を差し出し裁断を得て家に帰り
農事に精励(せいれい)せよ」
と説得するも衆者納得せず。

「願いを聞いて取らすゆえ出てまいれ」
と安藤継明は集結している民衆に声をかけた。

そこへ罷(まかり)り出でたものが上大野村勇之進、
だがこの会見は民衆の罵声や怒声にかき消され民衆に届くことはなく、
この会見の後、安藤儀太夫継明、白無垢の小袖に手を通し、
挟箱(はさみばこ=若党が常々登城に担いでゆく箱)より取り出した
麻裃(あさかみしも)に着替え、挟箱を置かせ、それに腰掛け、
静かに煙草を四~五服吸い、裃を跳ね除け脇差しを鼻紙で巻き、
一気に腹を掻き切った。

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7月号  めぐりあい  伊豫吉田藩 武左衛門騒動



「うん そいつがな、大三島に下見吉十郎という六部僧のお方がおられてのう、
その御方が薩摩より持ち帰りし薩摩芋を島で殖産しておった。
で誰一人飢えることもなかったそうな。
しかも余った米700俵を伊豫松山藩に献上したそうな」

「まぁよくそのような事が……
で、六部僧とは又一体どのようなお方で御座いますの?」
染は平蔵の話に目を輝かせた。

「六部僧とは書写致しし法華経を全国六十六箇所の霊場に一部ずつ納めるため、
諸国を巡礼致す行脚僧の事だとか、あ奴から聞き及んだ」

「まぁぁ・・・・・そのようなお話をあの方がなされたのでございますの?」

「ふむ あ奴の心の中はいつもこの話で満ち満ちておった、
いつか人の役に立つ仕事がしたい、それが口癖であった。

想えば此度のことも、あ奴にしてみれば、正にそのような出来事で
あったのやも知れぬなぁ・・・」

平蔵受けた傷よりも、この心の中にポッカリと空いたままの痛みが、
志半ばで、しかもそれを我が剣で摘み取ってしまった痛みと悔恨の情(おもい)
の痛みが甦る。

道後の湯は、まこと傷ついた平蔵の身も心も癒やしてくれ、
新妻のようにいそいそと介護にあたってくれた染の健気な姿、
それは又、平蔵の胸の奥深くにしまい込まれた異国の思い出となった。

「長谷川様!この伊豫はお魚が美味しいそうにございますよ」

「おお!確かに確かに、安藤殿が然様申されておったのぉ、
何でも鯛は目先で釣れるとか……いや、さぞかし美味かろう」
平蔵持ち込まれた膳を見て

「こいつぁ鯛かえ?」
と女中に尋ねる。
「はい こちらは活鯛飯と申しまして、釣りたての鯛を刺し身にしまして
白醤油と出汁で合わせた物に生卵を流し込み、そこに鯛を取り、
よく絡めまして胡麻、刻み葱などの薬味と一緒に温かいご飯の上に載せて
頂かれますと宜しゅうございますよ。

何でも瀬戸内の海賊衆が敵に見つからないように岩陰などに潜んで
煙を出さずに美味しくいただく工夫をいたしたとか聞いております」

「へぇ そいつはまた面白ぇ話ではないか、のぅ染どの、あはははははは」

染にとって久々に聞く平蔵の笑い声であった。
こうして染と平蔵の苦楽をともにした長い旅は終わった。


ひと月ぶりの本所菊川町火付盗賊改方役宅は、平蔵無事帰還に湧き、
安堵の色に包まれ、隅々まで弾けるような笑いに満ちていた。

無論この知らせは沢田小平次により、密偵の面々にももたらされ、
本所二つ目橋袂軍鶏鍋や"五鉄"でも主の三次郎が腕によりをかけての
大盤振る舞いが開帳されていた。

一方南本所今川町"桔梗や"でも女将の菊弥と染香の二人が
ひっそりと二人の無事の生還を祝していた。

ひと月の後桔梗屋に顔を見せた平蔵 染に一寸玉の珊瑚簪を手渡した。

京より戻って以来長らく中間の久助に預けていた、
亡きかすみの髪を飾っていたものである。
「これは・・・・・?」
いぶかる染に京での事をかいつまんで話し聞かせた。

「もしかして・・・」

「うむ 儂も染どのの黒子(ほくろ)の話を聞いた折それを想うた・・・」

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6月号  伊豫吉田藩 武左衛門騒動




平蔵の左脇腹は幸いにも肋骨が凶刃を阻み、
内臓深くまで達しておらず一命はとりとめた様子である。

が、このままでは出血が止まらず意識も薄れてこようと染



「長谷川様耐えてくださりませ」
と横たわっている平蔵の口に、天棚(あまだな)から
ぶら下がっている干し肉を喰ませ、
チリチリと鳴っている囲炉裏の火で火箸を炙り、
真っ赤に焼けたぎるそれを遠慮もなく傷口に押し当てた。



「うぐっ!!」
平蔵たまらず顔を歪める。



干し肉は食い千切られ畳の上にこぼれ落ち、
両手は染の腕が折れんばかりにつかんだまま、
意識が遠のくのを確かめつつも手をふろ払い、
構わず脂の部分まで焼き切った。



「ぐわっ!!!」



体力は限界を超えていたであろう、
平蔵そのまま意識は奈落の底へと滑り落ちた。



こうして出血多量で意識はかすかであったものの、
長谷川平蔵は染の手で急の手当を受けた後、
村人たちが荷車に布団を重ねて拵えた寝床に両者とも横たわり、
2日後無事吉田藩の安藤家に戻り着いたのである。



染の急ごしらえの荒療治が功を奏し、医師の手当を受けるも
傷口からの壊疽も視られず、傷口も絹糸を持って再度縫合され、
深手の割には予後の心配もうすらぎ、
命への心配はひとまず遠のいたと言えようか。



しかしまだ身動きはままならず、
それらの総てを染は甲斐甲斐しく執り行い、平蔵も委ねた。



それから数日の時は流れた。



「染どの、すまぬが起こしてはくれぬか、外が見たい」



隣の部屋で休んでいるであろう染に声をかける。



外はやっと白白明け染め始めていた。



平蔵この穏やかなひとときを確かめるように身を起こしかける。



襖を開け
「ああまだご無理はなりません……」

言いつつ染は平蔵の横に膝をつき平蔵の背中に腕を回した。



かがんだ拍子に、染の寝夜着の合わせた掛襟が緩み、
透き通るように真っ白な染の胸元の膨らみが平蔵の瞳に飛び込んでき、
染のふくよかな胸の谷間に小さな黒子が観えた。



「んっ?そのようなところに黒子か?」



「あれっ!恥ずかしい・・・ご覧になられてしまいましたか……



幼き頃生き別れた姉にもこれと同じ黒子がここにございましたの、
双子でございましたし、人様にもよく間違われました・・・うふふふ」



平蔵を抱え起こした染は、耳朶を染めてうつむいた。



襖が開け離され、宇和島海に昇る朝日が暗闇を朱に染めて輝き、
辺りを金色の帯と見まごうばかりの神々しさを伴い明けている。



その逆光を背にした染に、幻の女を視たように平蔵は感じた。



「何と!・・・・・」



平蔵、京で出会ったかすみにも同じ場所に同じような黒子のあったのを
想い出したのである。



 



翌々日、吉田藩家老安藤継明邸の門前に二丁の町籠が用意された。



その三日後伊豫松山藩温泉郡道後に一組の男女の姿が見えた。



「染どの、此処は“にきたつ”と申してな、
煮え立つ湯の津から名づいた名湯で、傷に良いそうな。



昔足を傷めた白鷺が岩場より流れ出る湯に浸しておった所、
傷は癒え、その白鷺が飛び立った後に村人がそこに手を浸すと温かく、
それより湯の里として栄えておると安藤殿が申された」



「まぁ長谷川様!それは宜しゅうございましたわね、
早く傷を癒やし、元のお体に戻っていただかねば」



染に伴われた長谷川平蔵の二人連れであった。



「儂はよく存じておらなんだが、
儂がまだ32で、西の丸御書院番士を勤めておった頃
知り会ぅた小太刀の名手でな、無外流の剣客
秋山小兵衛殿の紹介にて、同じ無外流
“都治
記摩多資英”(つじきまたすけひで)
道場の師範代
都治の狼”と呼ばれておった小松俊輔に出遇ぅた」



「ああ・・あのお方ですわね?」



「そうだ!世が世であれば安藤殿を助け、
吉田藩を背負ぅて行けた武士(もののふ)であったろうに……



あいつがある時ふかし芋をくれてな」



「うふふふふ お芋でございますか?
さぞかし美味しゅうございましたでしょう?」



「うむ 美味かった、今も忘れてはおらぬ、
芋を見るたびにあ奴の事を思い出されようよ。



その芋だがな、中国と伊豫二名島(四国)筑紫国(九州)
を襲った亨保の大飢饉(17311732
この三国の中でも瀬戸内沿いが大きな災いになったそうな、
餓死者は百万に近く、250万以上が飢餓に苦しめられたとか。



ところが伊豫の大三島だけは誰一人餓死者が出なんだ」



「まぁそれは又!何故でございますの?」


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めぐりあい 5月号 伊豫吉田藩武左衛門騒動




薄明かりに目を凝らし、それらの一つ一つに眼指しを送り確かめてゆく。



(違・・・違う・・・あのお方ではない・・・・・)



屋根裏へと通ずるのであろうか、釣り階子が少し下がったまま
中に浮いて、そこにもうら若い骸が寄りかかっていた。



囲炉裏端には魚の彫り物を施した自在鉤に南部鉄瓶が架けられており、
天棚から獣の肉と思しき塊が下がり、
あたりに漂う血潮の匂いが一層染の心を萎えさせる。



投げつけたのであろうか竹籠や筵(むしろ)が散乱し、
そこにも黒々とした骸がいくつも転がっている。



これらを一躰ずつ引き起こし確かめて行く。



その板間はおびただしく血糊が流れ、足を取られそうになる。
それを用心しつつ奥の部屋へと用心深く進んだ。



蹴破られた襖の奥の、八畳はあろうかと想われるひと間に
出血と返り血にまみれ、倒れ伏し重なりあって
倒れた二つの骸が出迎えた。



その横に顔半分を切り取られた骸がのけぞった格好で
刃を畳に突き立てたまま果てていた。



「……!!」



残る二体を確かめようと、着ざらしの折り重なった上の骸を
押しのけたその下に長谷川平蔵を見定め、抱え起こし両腕に抱きしめ、「嫌ぁぁぁぁぁ・・・・・・・」



染はあらん限りの声で泣き叫んだ。



その哀しみが、全ての声は、陽の届かない空虚な屋敷の中に
無表情に吸い込まれるだけであった。



それは僅かの時間ではあったかもしれない。



が、染にとって忘れることの出来ないほどに長い刻が
過ぎたように想えた。



薄闇に慣れ、辺りの様子もぼんやりと視えていた中、
絶望の果の哀しみに震えている染の耳元に



「染どの・・・来てくれたのか・・・」



弱々しくはあったものの、聴き覚えの男(ひと)の声であった。



「ばか!ばか!ばか!ばか!ばかぁ!!」



染は胸に抱きかかえた平蔵の肩に顔を埋め、声を殺して哭(な)いた。



その時階上から物音が聞こえ



「誰だ 女の声は誰……」



細々とした声が漏れてきた。



「染どの……恐らく安藤どのと想う、
済まぬが行って様子をみてはくれぬか」



ぐったりと横たわった平蔵の言葉を後ろに、
染は平蔵の脇差しを抜き放って、下がりかけている階子を降ろし、
油断なくその歩を確かめつつ上がっていった。



天井裏は全く陽の光を遮られ、瞳のなれるのに刻を用する。



足元を確かめつつ
「何処に?」
と声をかけた。



声はその奥から聞こえてきたようで、そこには誰の姿もなかった。



染の声に
「此処じゃその奥じゃ、そなたは誰だ!」



染は意を決し脇差しを正眼に構えたまま、
一歩踏み込み油断なく刀を脇に構えなおし、
暗い部屋の中に入って行き、閉ざされた正面の襖を開け放った。



そこには何やら蠢く者の気配があり、

「安藤様?」
と声をかけた。



「うむ、儂は安藤嗣明、そなたは何処の誰だ・・・・・」



寄ってみると、柱に縛られた髭も髪も伸び放題の
座した男と見える物が在った。



急ぎ縄目を切り放ち、
崩れるように横に倒れたその躰を抱き起こす。



「私は江戸より参りました、長谷川平蔵様の供の者にて
黒田染にございます」



染はしっかりとした口調で男の脇に身を入れて立たせた。



「長谷川殿が!長谷川殿が何故、かようなるところまで……」



驚きと歓びの交錯したこの男の表情を薄闇の中にも染は読み取り、
「まずは階下(した)へ」
と脇から抱え上げて階子まで誘った。



後ろ向きに這いつつ、一段ごと確かめる如く
安藤嗣明は現世にと歩を進めた。



階子を下りきり、再び染の肩を借りゆっくりとした足取りで
座敷奥へと歩みを進める。



そこに視たものは、血まみれのまま半身を起こしている
刎頚(ふんけい)の友、長谷川平蔵その人であった。



「長谷川殿・・・・・」



「おお!これは安藤様ご無事で何より、
この長谷川平蔵此処まで罷り越しましたる意味がござりました」



「まことかたじけなし」



後は両者ともに無言であった。



染の手配りにより、近郊の百姓が集められ、
まずは平蔵の止血と安藤嗣明へのおも粥が塩梅された。


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 めぐりあい  4月号   伊予吉田藩武左衛門騒動



平蔵半身を開き構え直すその隙を見て、
残る一人が剣先鋭く平蔵の胸目指して突きを入れた。

「馬鹿者!!!」
小松俊輔が思わず叱咤したがそれは届くことはなかった。

平蔵の斬り下ろした刃が眉間から顎に達し胸骨で止まり、
頭が二つに切り裂けて転がったからである。

「恐ろしいお方だ長谷川さん、貴方というお方はまこと恐ろしいお方だ、
さればこの小松俊輔遠慮ぅ無くお相手仕りましょう」

薄明かりの蝋燭の下、二つの影は幾度も激しく切り結び飛び退いた。

手傷を負った長谷川平蔵、刻が経てば増々勝ち目はない、
さりとて互いに次に動いた方が負けると判かっているから
迂闊(うかつ)には動けない。

一呼吸一呼吸間合いを取っての睨み合いの中、
一瞬風が吹き込み蝋燭の炎が揺らめいて(ジジッ!)と音がし、
虫が炎に触れ灯が消えた。

ダアッ!!両者の脚を踏み出す音とともに、
ぐわっ!!とうめき声が漏れ、その声は漆黒の闇の中に吸い込まれていった。

もう幾刻が流れたであろうか・・・・・
高研山(たかとぎやま)の方から朝がしらじらと明けてゆく。


「死闘の果」
吉田藩安藤家に身を寄せていた染は、
深夜の胸騒ぎが気掛かりでたまらなくなり、
急いで身支度を整え家人の反対を押し切る格好で、
先日平蔵が確かめていた日向谷村(ひゅうがいむら)に単身で向かった。

(何の、人はのぉ、口と目と耳と足さえあれば何処へなりと行けるものだ)・・・・・
平蔵の口癖を思い浮かべながら翌日昼過ぎには何とか日向谷村に辿りつけた、
なんとも凄まじい一念ではある。

村人に導かれて見つけた百姓屋の焼け焦げた草むらに、
呻きながら横たわって居る幾人もの浪人の姿が両瞼に飛び込んできた。

「・・・っ あっ!!」

急いで周りを見渡すが、染の両瞼に求める平蔵の姿は入ってこない。
蹴倒された戸板を押しのけ、三和土に一歩足を踏み込んだ染は
驚きのあまり声を失い呆然と立ち尽くした。

修羅場と言うものを初めてみた驚きは言葉にはならない。

外から小鳥のさえずりが遠く聞こえるのが、
この刻の生きているただひとつの証のようで、
雨戸は閉じられたまま一切の光を遮られた薄闇の中、

唯一奥の竈場から僅かに漏れる一条の光の中に
照らし出された光景は地獄とも喩えられようか。

一抱えもあろうかと想われる丸太を挽き割った蹴込は黒
々と鈍い光を見せて横たわり、
それにもたれるように瞳を見開いたまま仰向けに横たわる。

まだどことなし幼顔を残した若者の苦渋に歪んだ顔・・・
握られた白刃に光が跳ね返り青白く輝いている。
それらを避けつつ框(かまち)から板場へと一歩足を進める。

煤けた板場の奥は柿渋で塗り込められた衝立で仕切られ、
そこにも幾名かの骸が折り重なってもたれかけたまま絶命している。

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3月号 めぐりあい 伊予吉田藩武左衛門騒動




暗闇の中では同士討ちもあると読んだ残りの浪人は
緩やかではあっても明かりの灯る家の中へと平蔵を誘い込む。



警戒の目配りを緩めず、百匁蝋燭の灯りが揺れる中に入った
長谷川平蔵の目の前に、驚く光景が開かれた。



「長谷川さんじゃぁないか?」



灯りを前に男が驚きの声を上げた。



「何! おっ小松俊輔!俊輔!何故お主がここに・・・・・」



仄かな明かりに眼の慣れた平蔵、驚きの声を上げた。



「長谷川さんこそどうしてこんなところに??」



江戸にいるはずの火付盗賊改方の長谷川平蔵が
この遠国伊豫にあろうとは想像(おもう)だにしなかったからである。



「俺かい?俺は刎頚(ふんけい)の交わりをかわした
伊達家家老安藤継明どのの幽閉を知り救出すべくはるばるやって参った」



「何とした!!・・・・・長谷川さん頼む、
ここは目をつむって江戸に戻ってくれまいか」



俊輔は驚きと再会の歓びのないまぜになった思いを
押し包むように平蔵の目に両手を合わせた。



「何だと!お主ならばこそ、このような強力(ごうりき)ではなく、
もっと違ぅた手立てや方策も考えつくであろうに、何故だぁ」



血糊でヌラヌラと滑りそうな刀を引き上げる力とてないのか、
だらりと切っ先を落としたまま平蔵は俊輔を睨んだ。



「全ては考えつくし実行にも移しました、
だがこの藩は、おろかにも我が身が痛みを伴わぬことばかり考え、
民百姓は生かしておけば良いと想うております、
それではあまりに民百姓が浮かばれません。

生き場所を与え喜んで働けることを整えてやれば、
それはひいては藩のためにもなる、この理(ことわり)を
理解(わか)っておりませぬ」



俊輔は平蔵の前に立ちはだかったまま、
気負っている平蔵の気を萎えさせようと試みる。



「うむ、だが、安藤殿はそうではあるまい!
まこと民百姓の生場があってこそと、よう存じてござるはず」



ゆっくりと呼吸(いき)を整えながら平蔵俊輔を凝視した。



「まさに、だからこそ安藤殿は我らが最後の砦、
されば安藤殿を盾に交渉に及びましたが、全くの無視。
事此処に至れば実力もやむなしと、このようなことに」



「ならば、安藤殿を帰し、
まずはお主達の申し開きを致すべきではあるまいか?」



平蔵、この場の打開策を探るように俊輔に提示する。



「長谷川さん、もう矢は弦を離れました、我らが生きる道はただひとつ、
この生命を張ってでも意地を通さねばすみません」



俊輔は揃えた両の脚を軽く開き、(すっ)と左脚を後方に引いた。



「なんと 侍の意地と申すか!」



「正に!」



「ならばこの俺も武士の一分を通さねばならぬ」



平蔵切り裂かれた袖を引きちぎり、
血にまみれた刀の柄を包んで血糊を拭い取り、左方に捨て去って正眼に構えた。



俊輔は油断なく左手で鯉口を握って捻りながら、
ゆっくりと右手を柄に添え、



「見ればかなりの手傷を負われておる様子、
今の長谷川さんにはこの私は切れません、
どうかその刀をお収め願えませんか?」



静かではあるが、押しの効いた語気で平蔵に襲いかかる気配を見せる。



「如何にも!江戸でも五本の指に入る無外流“都治の狼”
小松俊輔相手にとって不足はない!参る!」


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めぐりあい 2月号 伊豫吉田藩武左衛門騒動



平蔵は家の入口付近に吹き溜まっている枯れ草にじっと目を据える。
時折野を分けて走る風に、その動きを測り、家に火勢の及ばぬ方向を見定め、
少しずつ枯れ草をかき集め、目的の場所へと隠密裏に移動(うごい)た。

種草に火打ち石で付け火をし、ゆっくりとそれを拡げ、
それはやがて風邪に転がされ2箇所に拡がった。
ゆっくりとした火の手が激しく上がり始めた時、
家の中から二~三名の浪人姿が外へ飛び出して来
「火事だぁ!!」
と叫んだ。

その声を聞きつけ、中から更に新しい手勢が追いかけて出てきた。
その隙を狙って平蔵大刀を引き抜き打ち伏せる。

骨を打ち砕かれ、ぎゃっ!と叫び声を上げながらその場に倒れる。
「曲者だ!!」

その声に、居合わせた浪人たちが慌てて抜刀し平蔵を取り囲み、
一斉に襲いかかった。
それはまるで野犬が獲物に襲いかかるに似ていた。

尋常な者ならば、互いに様子を伺いながら打ち込む隙を狙うものだが、
彼らは違っていた。

(こいつ!後ろに居る奴はさすが只者ではないと見ゆる)
統率の取れた仕掛けと打ち込みは、
手練(てだれ)を持って知られる長谷川平蔵をして
舌を巻くほどの陣容である。

(切り込めぬ・・・こいつぁちと早計であったか!!)
平蔵の頭のなかで我が身の危うい様子が駆け巡る。

とにかく一人でも打ちとって進めねば此方の体力が持たない。
持久戦ではあちらに地の利がある……。

平蔵次の瞬間身を翻(ひるがえ)して脱兎のごとく
その場を駆け去る動きに出た。
「ま、まっ 待て!」

追いすがろうと陣形を崩したその瞬間を読み切り、
瞬時に体を捻り袈裟に振り上げた。

ぎゃぁ!!二人目がもんどり打ってその場に倒れた。

勢い余って動きを止められない者が、
平蔵の目の前に泳いできたのを横に払い切り裂いた……
が、その瞬間平蔵は左脇腹に熱く鋭い痛みを感じた。
後ろに重なっていたもう一人が平蔵の空いた脇を貫いたのである。
「くうっ!!!」

平蔵その太刀を泳がせて背後から振り下ろして仕留めた。

だが残りの者達が再び平蔵を円陣に取り囲み、もはや逃げる手立てはない。
同じ轍は踏まないのも兵法であろう。

すでに辺りは闇が忍び寄り足元が定まらないほどになっていた。
「来い!」

平蔵大刀をゆっくりと下段に下ろし、息を整え、誘い水を向ける。
平蔵の荒い息を聴きとった浪人が
「だぁ!!」

鋭い気合とともに、左右から同時に平蔵めがけ刃風が襲いかかってきた。
平蔵は瞬時にその場に倒れこみ、刀を真横に払った。

げっ!! 脚を切られた敵はそのまま互いに反対側に転げ込んだ。
暗闇の中でその死闘は小半時(30分)も続いた。

打ち伏せたものの数は不明であるし、残る者の数もこれまた不明である。
そうして、当然のことながら平蔵も無傷では済まされない。
皆それ相当の訓練を受けた剣技の持ち主であったからだ。

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めぐりあい 2019年新年号 伊豫吉田藩武左衛門騒動

長谷川平蔵はその場所を知っている者を探させ、
日向谷村出の小作人芳三が連れてこられた。
早速平蔵身支度を整え、芳三の案内を頼みに単独での出張りとなった。

「長谷川様!! 染は此処で無事のお帰りを待ち焦がれております、
死なないで下さい、生きて生きて生きて!戻って下さいませ!」

平蔵、染の覚悟を決めた蒼白なまでの顔を振り返りただ一言
「染どの行ってまいる!」
見合わす互いの目にはそれぞれの顔が映し出されているだけであった。

ここは宇和島より北東に9里(35キロ)の奥深いところである。
平蔵と案内人の芳三二人が日向谷村に到着したのは翌二日目であった。
「お武家様ぁあっしがお侍ぇを見かけたのはこの先の荒れ屋敷でございますだ、
今も居るかどうかわかんねぇけども・・・・・」
さも居心地の悪い風に案内の芳三は、尻が落ち着かない様子で
平蔵を竹やぶに囲まれた百姓屋を指差した。

竹藪を進んで家のほど近いところまで寄り、遠くから様子をうかがった
ところでは、表で剣の素振りをしており、
日々の鍛錬を忘れていない敵と見なければならず、おそらく十名は下るまい。
しかもその大半が帯刀している様子、迂闊(うかつ)に手出しはできぬ。

「間違いない!よくぞあないしてくれた、礼を言うぞ」
藪陰に戻った平蔵、身を潜めていた芳三に一朱(6250円)を握らせた。
驚いた風に芳三は目を見張り、いくども平蔵に頭を下げて戻っていった。

再び竹藪に戻り、更に注意深く様子を伺った平蔵、敵の動きを読み、
何処から仕掛け何処へ誘い、我が身を最小限危険に晒せばよいかを
腰を据えて普(あまね)く探った。

深山の里、廻りは竹藪や雑木に覆われ、崩れかけた囲いの中も荒れ放題で、
身を潜めるには良いものの向こうから発見(みえ)にくいということは
此方からも視えにくいという事。

出来得る限り斬り合いは最小限に止め、此方(こちら)の被害を少なく
することを手立てせねばならぬ、一人二人は殺傷出来ても多数となれば
刀に脂が乗り、ガマの油を塗ったようなもので、もはや切殺は無理がある。
突き刺す以外に方法(て)がない。
平蔵打ち込みに工夫をせねばならない。
そうこうしているうちに陽は早々と落ち始めた。

(恐らく安藤殿はあの最奥の部屋と見た、そこまで深入りせず、
出来得るならば表に誘い出す策がよいのだが・・・さて・・・・・)
と辺りを見渡した平蔵の目に入ったものは、
秋の枯れ草や落ち葉の吹き寄せ溜まりであった。

(おぅ こいつぁ都合が良い、火攻めならば敵を混乱させることも
出来るやも知れぬ)

これは陽動作戦によく用いられるもので、見せ場を作って相手を動揺させ、
その隙に本懐を遂げる策略である。

外からの攻撃を見渡すために、庭木や石材など全て取り払われ、
身を潜めるものの何一つない構えは家に近づくのも容易ではない事を教えている。

(なるほど、この用心深さは只者ではないと見ゆるよほどの知恵者・・・・
さてどうしたものか)

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めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動 12月号

出てきた言葉に今度は平蔵が驚きを持って染の顔を観ることになる。
「では私も長谷川様のお供をさせていただきます」

「何ぃ!今何と申された!」

「はい ですから、以後私は長谷川様のお供を致しますと申しました」

「まままっ 待ってくれ染どの!物見遊山に出かけるのではないのだぞ、
少なくとも多少の斬り合いは覚悟の上、
そのような所へ染どのを伴ってまいることは叶わぬ、
こればっかりはならぬ!!こればっかりはな!」
平蔵のきっぱりとした口調に

「長谷川様!染とて与力黒田左内の娘、
習い覚えの小太刀は伊達ではございません、
それに私は辰巳の芸者、一旦口に出したことは
てこでも引かないことと長谷川様もよっくご存知のはず」

「う・・・・・・っ!!」
平蔵、この染の想いもかけない反撃に切り返す言葉を
見失って呆然とするほかない。

「いや 困った!正に困った!こいつぁどのように致さば良いか、
ほとほと困った!染どの!こればっかりは許すわけには参らぬ」

平蔵 詰め寄られて打つ手をなくした本因坊の心境である。

「あら 長谷川様!いつ私が長谷川様にお許しをお願い申しました?
私は勝手に参るのみ、長谷川様のお許しなぞ頂く必要もございません」

「おっ!・・・・・おいおい染どの、それは如何に何でも・・・・・」

「何でも?何でござんしょう、こっちゃぁ深川生まれの深川育ち、
そんじょそこらの芸者と一緒にされちゃぁたまったもんじゃぁ
ござんせん!粋と伝法が取り柄の江戸っ子でござんす」
ピシャリと決め口上に開き直った。

「いや待ってくれ!そなたにもしものことあらば、
儂はそなたの父御(ててご)に何と申し開きをいたさば良いか!
頼むから此処はひとまず引いてはくれぬか」
平蔵すっかり染香に飲まれてしまっている、
こうなったら強いのは女・・・・・

「あら長谷川様、そこまで私のことを思ぅてくださるのならば
(染!従いてまいれ)とおしゃいませな、
何があろうが起ころうがすでに父上とは水杯をかわしての旅立ち、
今更何を恐れるものとてございましょうか、
きっちりお覚悟なさりませ」

これにはさすがの平蔵も返す言葉もなく、
きりっと結ばれた染の薄紅色の唇に覚悟のほどを読み取るだけであった。

「あい理解(わか)った!染どの、そこ元一人にては死なさぬ、
この平蔵命を賭けてもそなたを親父殿の元へお返し致す」

平蔵は染の顔を見据え、窓の外を朱に染めてゆく伊勢の夕暮れを
瞼の裏に深く深く焼き付けた。

昼過ぎになって物見から風と潮の具合が良いと知らせが入り、
早速船は大坂に向かい快適に帆に風をはらんで海原を駆けてゆく。

江戸を出て10日目、地乗り(陸地にそって帆走)
続きに大阪道頓堀に船は着き、その足で平蔵と染は浦廻船
(地方便)に乗り換え備後鞆の浦から沖乗り(陸を離れる)
安芸国三津をへて7日後には伊豫松山藩三津浜港に上陸、
吉田藩まで23里(90キロ弱)2日半の道程であった。

大街道から宇和島街道をへて吉田領内に入った長谷川平蔵と染、
早速吉田藩家老安藤継明を陣屋に尋ねた。

だが、そこで得られたものは一握りの消息報でしか無かった。

吉田藩は宇和島藩領を分断する形で置かれており
、宇和島藩内にも吉田藩の飛び地があり、
この度安藤継明が出かけた指定先はすでに蛻(もぬけ)の殻であった。

平蔵はこの事件が長引くことを覚悟し、
染にこの陣屋から出ることはならぬと念を押して出掛けた。
平蔵には土地案内の小者が一人従いており、
いざというときはこの者が陣屋に駆け込むことも考慮されていた。

気遣う染に平蔵
「案ずるな染どの・・・これから先は男の軍場(いくさば)」

「おなごは足手まといと申されますか?
ならば何処へお出かけなされますか、それだけでも?」

「判らぬ、とにかく足取りを掴まねばならぬ、
時は待ってはくれぬからなぁ」

出かける平蔵は染にそう一言残し早朝に出立した。
こうして出かけた平蔵はその日遅く戻ってきた。

「何か足取りは掴めましたか?」

平蔵の気落ちした肩から支度を受け取りながら、
うつむいたまま染は尋ねる。
「うむ 敵の総大将は余程の知恵者と見ゆる、
僅かの手勢にて撹乱戦法を用い、その居場所さえ掴ませぬ、
五里霧中たぁこの事よなぁ・・・・・」
探索は得意の平蔵も、流石に知らぬ他国ではまるで
異邦人の心境であったろう。

その翌日日向谷村(ひゅうがいむら)から吉田領に下りて来た
山の者が、{通りかかった近くの百姓屋に野武士が大勢いて、
気味悪かった}という話をしていたと、
食材の調達にでかけていた安藤家の下女が戻って話した。

日向谷村(ひゅうがいむら)は後ろに千メートルを超える
高研山(たかとぎやま)が控え、高研峠を越せば
その向こうには土佐藩檮原(ゆすはら)村が連なっている。

その国境(くにざかい)にほど近いところが日向谷村であるという。

「そいつだ!」

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めぐりあい  11月号 伊豫吉田藩武左衛門騒動


その翌早朝、染の姿が霊岸島新川に見られた。
平蔵を追って1日遅れで染は上方への戻り
樽廻船に乗り込むことが出来た。



無論これは積荷協定違反ではあるが、
天保の改革(18301843)で株仲間の解散になったことを背景に、
ほとんど守られていなかった。



江戸から大阪道頓堀まで船旅は弁才船では
三ケ月から半年かかることも、
酒のみを運ぶ樽廻船なら早くても10日程度だが、
それでも風や潮の具合では簡単に2倍3倍かかった時代である。



1日先に出た平蔵の船が風待ちで志摩の国安乗(あのり)
に泊まっているところに追いついた染は、
船頭からその宿を聞き出し平蔵を探し求め、
目指す旅籠“船越や”に飛び込む。



「何!儂に客だ?一体・・・・・」



予想だにもしていない客の訪来の知らせに驚く平蔵の前に、
染が女中の背後からズイと前へ進み入って来た。



「ここっ!これは何と染どの!どうしてそなたが此処へ???・・・・・」



平蔵あろうはずもない染の出現に対処できないほどに驚いた。



「長谷川様!如何ようなる大事かは存じません、
長谷川様がお立ちになられた夕刻、奥方様より
長谷川様ご出立の知らせを戴き、こうしてお引き止めに参りました。
どうかこのまま江戸にお戻り願わしゅうございます」



両手をつき深々と頭を下げた後、そのまま
ぐっと燃えたった双の瞼(め)で平蔵を見上げた。



「染どの!何も申さず黙ってこれより江戸へお帰りなされ、
儂はこれより命のやり取りを致すために伊豫に赴かねばならぬ、
これは儂一人の戦、誰の手も借りぬ覚悟の故に
そなたを伴ぅ事もならぬ、すまぬが聞き分けてくだされ」



平蔵は静かな口調で染の瞼を見つめながら諭すように両手をとった。



その眸(ひとみ)は林の中をすり抜ける春風のそれに似て
穏やかに染の心の中に染みこんでくる。



「長谷川様・・・・・
そればっかりはお聞き入れすることは出来ません、
長谷川様お一人の命では無いことをご承知の上での
ご決断にございましょうか?」



染は半身を起こし、微動だにしない平蔵の眸を凝視した。



「・・・・・理解(わか)ってくれ染どの!
儂は此の世に失ぅてはならぬ人が居る、
そのお方のためにはこの命、如何ようになろうとも
臆(おく)すること無く捨てようと思うておる」



平蔵、染の両手を強く握りしめ、噛み含めるように言い聞かせる。
それは又おのれ自身にも言い聞かせているように思える。



その熱い思いがひしひしと染に伝わってくる。



「そのためにお行きになられますので・・・・・?」



「それが儂なのだ染どの」



どのように染が止め立てしようとも
最後まで首は縦に振られることはなかった。



「のう 染どの、此度のことはこの長谷川平蔵
命を賭してでも為さねばならぬやん事なきものなのじゃ、
例えて申すならばそなたの父御(ててご)左内殿に
もしものことあらば、儂は此度と同じことを致すであろう、
そこに誰しも入りきれない結び付きがあるのでござるよ。
儂はそなたと知り会ぅて親父殿を知った。



親父殿は儂にとっては亡き父と同じに等しい、
理解(わか)ってくれ!男の意地や武士(さむらい)の
面目でもない、儂にとっては兄とも想うておるお方の一大事なのじゃ、
それを見過ごせば、もはや儂の生きる道は途絶えてしまう。

たとえこの身が如何ようになろうとも果たさねばならぬ、
だから黙って行かせてくれ、のう染どの」



平蔵の切々とした言葉に染は返す言葉もなく
ただ平蔵の哀しげな両瞼(りょうめ)を視るほかなかった。



暫くして染はおもむろに口を開いた。


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10月号  めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動





しかしこの吉田藩との交渉は数日を経ても無回答という
冷ややかな応対となり、交渉は決裂。
強硬手段に訴えるしか手立てがなくなって行った。



こうした経緯(いきさつ)の後、義勇隊との単独交渉に乗り出した
安藤継明儀太夫はそのまま幽閉されてしまうこととなったのである。



こうして安藤継明幽閉の知らせは、安藤継明が妻女から
大名飛脚で長谷川平蔵のもとにもたらされたのであった。



「なんと、安藤殿が幽閉とは・・・・・
何としてもお救い致さねばならぬ、さて如何致さばよいか・・・・・
此処にいては打つ手もなし」



平蔵この知らせに対処するべき手立てのない歯がゆさに
腹立たしいばかりであった。



(何としても!・・・)平蔵の気持ちは日々盗賊改長官としての立場と、
安藤継明幽閉救出の間で大きく揺らいだ。



江戸より海陸ともに275里(1072キロ)の彼方での出来事に打つ手はない。



「佐嶋!どうにも手立てが見つからぬ、これより儂は伊豫に赴こうと想う、
後のことはそちに任せる故よろしく頼む」



と切り出した。



平蔵の苦境を判るだけに、さしもの佐嶋忠介もあえて反対は唱えず



「お頭のお心の儘が宜しゅうございましょう」



と覚悟を決めた。



だが妻女久栄はそう簡単に納得するはずもなく、
この度だけは執拗に食い下がった。



「何故殿様が直々にお出張りなさらねばならぬのでございます?
藩内のことは藩それぞれで収めねばならぬこと、
いくらお親しきお方であっても、
殿様には殿様の御役目がございましょうに」



と日頃伺うこともない強い口調で詰め寄った。



「解っておる!判っておるが安藤殿は儂にとって刎頚(ふんけい)
の交わり、武士の一分がなり立たぬ、征かねばならぬ、
それを判ってくれ」



平蔵は口を真一文字に結び、きっぱりと久栄の窘(たしな)める
言葉を断ち切った。



「殿様!!・・・・・」



これ以上何を言っても聞かないことは百も承知の久栄であったが、
それでも‥‥・・・と言う思いはあった。



粛々と旅立ちの支度をする平蔵に手を添えながら



「殿方には殿方のお覚悟もございましょうが、
残されたおなごにもそれ相当の覚悟がございます、
もはや何も申しませぬ。
聞けば伊豫二名島は海のはるか向こうと伺いました、
そのようなところにては何が起こるやも知れませぬ、
どうぞ1日も早い無事のご帰還を願ぅのみにございます」



と送り出す。



平蔵が慌ただしく旅だったその夕刻、南本所今川町“桔梗や”に
“染香”宛の書状が届いた。



「何んでござんしょうねぇ?急ぎの書状とは、
一体何処のどなたから・・・・・」



と言いつつ書状を読み下る染香の顔色が、
みるみる蒼白になってゆくのを女将の菊弥は見落とさなかった。



「染ちゃん一体どうしたって言うんだい!」



「姉さん、長谷川様の奥方様から・・・・・」



「なんだって!長谷川様の奥方様・・・・・で、
どのようなことなんだね!」



その言葉を最期まで聞かずに染は北川町円速寺裏の自宅に駈け出した。



「急ぎ参らせ候、此度殿様急の御用にて伊豫吉田藩まで
お出張りに相成りました、命を賭してでもなさねばならぬと
申されるほどの事とは申せ、私一人の力にてはいかようにもし難く、
どうにもお聞き入れくださりません。
つきましては、そなたよりどうか殿様をお引留めいただきたく
伏せてお願い申し上げ候。長谷川久栄」



とあった。



「これは大ごとだわ!」



菊弥は青ざめた染香の胸中を想うばかりである。


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9月号  めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動



亨保の大飢饉とは58年前の亨保16年(1731)中四・国国・
九州を襲った冷夏による害虫の大発生で稲作は壊滅的な打撃を受けた。
この影響で米価高騰により2年後の亨保18年(1733)正月、
江戸の米商人高間伝兵衛宅に庶民1700名が押し寄せ、
ついに江戸初となる亨保の打ち壊しが勃発する。

この事件を契機に八代将軍徳川吉宗は、米以外の穀物栽培も奨励し、
青木昆陽等に命じて薩摩芋の試作を数カ所で行い、
後に日本国内で飢饉対策のサツマイモ栽培が普及するのである。


「なるほどそこ元の道理はよぅ解り申した、身共とて民在っての政事と
よく承知いたしておる。
また此度の御触れには些か行き過ぎと想うて腐心も致しておった。
どうか儂の意見にも耳を貸してはくれまいか?」

慇懃(いんぎん)に両手をついて懇願する安藤嗣明に

「安藤殿のご意見とは吉田藩のご意見でござろう」
冷ややかに突き放すような小松俊輔の言葉を受け

「如何にも、吉田藩家老としてはそうであらねばならぬ、が 
その以前にそこ元のご意見を承りたい」
じっと小松俊輔の目を見据えて返答を待った。

「これまでの太枡(ふとます)による米の搾取
(税米を図る枡は一斗=15キロだが、これを一斗一升=16.5キロという、
基準より大きめの枡で税米をより多く納めさせた)
や此度発布されたる差米、米1俵(60キロ)に4斗6升(69キロ)・
大豆1俵(60キロ)に5斗(75キロ)
という重税は到底飲めぬもの。

加えてこれまで百姓の細やかな内職にもなっておりました紙漉を禁じ、
紙芳役所を設け藩専売とする、これでは農民は生きては行けません。

我らの思いは村、百姓が健やかに生業(なり」わい)を続けられる国造りにございます」
小松俊輔は、我が身の粛正を放置したまま、
その付けを農民に代償させる藩の政事(まつつりごと)こそ
改めなければならないことを、熱い眼差しとともにその冴えた弁舌で訴えた。

「全く同感にござる、儂も日々そのことに心を痛め、
何とか力になりたいと想うて奔走いたしておる。
だが、今の段階(かかり)にては打つ手なし、
手をこまねいて居るわけではござらぬが、
この苦境を脱するためにも今一度談合の方向を探れぬものか・・・・・」

安藤継明はこの度の吉田藩の政事が吉田藩伊達家改易にもつながりかねない
という現状を説き、苦渋の選択を迫られていると訴えた。

これに対し小松俊輔は冷ややかに
「すでに安藤殿の身柄拘束の知らせを吉田藩陣屋に知らせております。
その返答如何ではこの先どう転びますか、この私にも見当がつきかねております。
万が一交渉決裂の場合、安藤殿にもお覚悟を頂かねばならぬやもしれません」

行き詰まって混沌とした状況下で打開策を模索するのは、
かすかな燈明(あかり)でも探りたい、両者の思いは同じである。

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8月号 めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動


しかし、この山を取り囲むように宇和島藩領村が存立していた為に
常に闘争の火種は転がっていたと言えよう。



此処に目をつけた義勇隊は村人を煽動(せんどう)し、
櫨(はぜ)や漆(うるし)の熟する秋には、
宇和島藩と吉田藩の境界あたりに出没、密かに採取させ、
木蝋・櫨蝋(もくろう=ロウソクの元)に加工したものを
大洲や新谷(にいや)隣藩、土佐の西土佐村を媒(なかだち)
に土佐藩にまでその販路を拡大していった。



木蝋は工程も簡便で採取した櫨(はぜ)の実を石臼で砕き
これを加熱して溶かしたものを布で濾し椀に流し込んで固めるだけ、
採取した実の2割が蝋になる。



時間の短縮と機材が依り簡便なために山中でも叶であったが、
加熱による煙の処理が紙同様問題であった。



煙を目指して山奉行所の役人がやってくるからである。



このために雨上がりや冷え込んだ朝に発生する霧の出る時を
狙って作成した。



義勇隊の面々は土佐藩との堺に近い日向谷村(ひゅうがいむら)
が後ろに千メートルを超える
高研山(たかとぎやま)を控え、
高研峠を越せばその向こうには土佐の檮原(ゆすはら)
が見下ろせる、この辺りまで抜荷、抜け売の拡大を図っていた。



山の尾根伝いに移動すれば最も近く速く辿りつけ、
又藩の目からもかいくぐれる方法であり、万が一見つかっても
その村民の区別がつかないところに抜け道があったといえよう。



それ以外にも他村と同じように、紙用の楮(こうぞ)を刈り取って
蒸しを入れ、剥皮したものを細かい束にして藩外に売りさばいた。



当然の事ながら宇和島藩もこの時期は特に警戒を強めてはいるものの、
何しろ保安範囲が広く複雑な地形と地理不案内に加え、
義勇隊が護る抜け売は神出鬼没であり、その効果は殆ど無いに等しく、
またそれを見越しての犯行でもある。



盗櫨被害の拡大に激怒した宇和島藩は吉田藩に取締の強化を
求め強硬姿勢で談判してきた。



元々吉田藩は宇和島藩のものであっただけに、
その威圧的な態度に吉田藩重役内部にも反発する者も大勢いた。



その中で末席家老安藤儀太夫継明は農民の良き理解者であったために、
矢面に立たされることとなった。



安藤儀太夫は農民たちに「嘆願書があるならばそれを出すよう」
促すが、83ケ村を擁する吉田藩領の農民たちの中でも
まだまとまりを見せておらず、宇和島藩と吉田藩、
そこへ加わる農民たちの三方から責められる格好となり万策尽きる。



この様な経緯(いきさつ)の後、宇和島藩からの強硬な抗議に、
吉田藩藩命により末席家老安藤継明はこの義勇隊の討伐に
乗り出す事になったが、戦乱の世から離れて時を経た武士は
抗争にはとんと役に立たず、攪乱戦術を持って望む義勇隊に
翻弄され続ける始末。



藩士5千人を抱える宇和島藩に対し、士分千人以下という
吉田藩では体裁を整える程度の事しか出来ないのが実勢であり、
しかも現行犯でない限り対処の仕方もないのが実情である。



安藤儀太夫は吉田領内に高札を掲げ義勇隊との交渉を提案、
これに応じる形で義勇隊より一定の条件下で交渉に応じると
返書あり、その条件に従い安藤儀太夫継明、
人足一人を供に指定された場所に出向き交渉にのぞんだ。



「吉田藩家老安藤儀太夫継明殿だな?」



隊長格らしき真っ黒に日焼けした骨太の男が安藤継明の前に
ドカリと座り込み飲み込むような眼差しでじっと嗣明を凝視した。



そのどっしりとした風格に安藤継明
(なるほど、この者ならば捜索隊が難儀をしたはずだ)
そう思わせる形貌(けいぼう)を持った男であった。



「そこ元は名を何と申される?」



安藤継明はことさらゆっくりと静かに男を見つめながら、
穏便な口調で問いかけた。



「私は元吉田藩浪人小松俊輔、亨保の大飢饉により
祖父が録を離れ浪々の身となりました」



「それは又・・・・・さぞやご苦労も多かった事でござろう、
ところでこの度いかなる理由(わけ)でこのような事件(こと)
を引き起こされた?」



「されば、この度出されし無体な吉田藩お定めには
農民の命が掛かっており、蜂起せざるを得ませんでした」



語気は穏やかだが、押し包むような勢いのあるのを
読み取った安藤継明(敵にするには恐ろしい奴)と
腹をくくらざるを得なかった。



 


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7月号 めぐりあい  吉田騒動武左衛門一気


安藤神社

このように農家はますます貧しくならざるを得なくなり、
その日すら生活が成り立たなくなっていった。

紙というものは手間隙(ひま)かかるもので、毎年11月から1月くらいまでに
1年物の楮(こうぞ)の若木を刈り取り、3~4日内外には漉し器という
桶のようなものをかぶせて3~4時間は蒸し上げる、
その後すぐに真水に浸し皮を剥ぎ易くして剥ぎ取り、
黒皮と呼ばれるこれを天日干しに架ける。
その後一昼夜真水に晒して手作業で1本1本皮を剥ぎ分け、
剥がれた内皮(白皮)を乾燥する。

この白皮と灰を入れた釜で2~3時間煮沸して繊維を柔らかくし、
川などの流水にさらして灰を洗い落とし、天日干しに架ける。
次に繊維の傷・節・汚れを取り除く、これを怠ると良い紙は出来ない。

この後繊維が細かくなるまで木棒で打ちほぐした後、
船とよばれる作業箱に入れ、水と粘り物のトロロを入れ、
クシ目の馬鍬(ませ)で均等になるまでかき混ぜ、漉桁(すけた)で漉し、
紙床に移し、その日の分を重ね終えたら一晩自然に水切りをさせて、
次に重石を乗せてこれも又一晩置いてトロロの粘りを取り除き、
紙床から1枚ずつ剥がして板に貼り付け天日干しにして出来上がる。

寛政一年(1789)4月、藩内の農民が紙漉の締め付けで困窮していると、
参覲交替で江戸に上ってきた藩士より知らされた小松俊輔は、
平蔵に別れを告げる間も惜しみ急ぎ故郷伊予吉田に戻る。
こうして生まれ故郷に戻った俊輔はかつて祖父が士官していた吉田藩内で
作柄不足と重税にあえぐ農民の苦境を改めて知る事となったのである。

小松俊輔は農民の窮状を吉田藩陣屋に嘆願するも、
それは全く取り上げられることもなく、
「直訴とならばご法度、それを承知の上か!」
と逆に詰め寄られる始末。

(何としても、この窮地を取り上げてもらわねば百姓たちが
生きて行けない・・・・・)
思案の挙句、彼は近郷で頻発している吉田藩と宇和島藩の
小競り合いを繰り返す山間に入り込み緩和させようと働きかけるが、
両者の歩み寄りは皆無で、終いには俊輔自身日常の糊口をしのぐにも
苦しい日々となっていった。

此処で、ふと思い浮かんだことは、俊輔が平蔵から聞いた
(領内が治まっていない事が公然となれば責任問題として
大名家改易の切り札ともなりうる)と言うことであった。

俊輔は一計を案じ藩と対等の力を持つべく義勇隊を組織、
これには吉田藩や宇和島藩から禄を離れざるを得なかった浪人者たちが
10名ほど集まってきた。

「まず我らが為すべきことは山岳地帯に入り込み
彼らに手を貸し殖産となる仕事を増やすことで、各々方にはそれぞれ個別に
村々を回り指導や開発に尽力してもらいたい。
まず手始めに、これまで行われてきた楮(こうぞ)による紙の製造、
これは諸藩にも重宝がられておる奉書や文書紙になる。
また場所によりては梶や桑による製紙も工夫できよう。

特に楮による備中の檀紙(だんし・元々はニシキギ科の壇=まゆみ/真弓で
漉いたちりめん状のしわのある高級紙)は極めて高価なものゆえ、
これを浸透させれば依り暮らしやすくもなろう.

作り方はこれまでの板に延べるのではなく、縄の上に懸け、朝露に当てて
シワを造らせ、これを少しばかり叩き伸ばす、これを繭紙(まゆがみ)と呼ぶ、
波の大小は大高(おおたか)他に中高・小高の区別があるものの、
何れもが並の紙よりも高額にて売り買いできるし、これまでの楮紙より
工程や機材が少なくて利便上も好都合」

と言う事となり、こうして小松俊輔の作成した製紙技法書を片手に
それぞれが散らばって行った。

伊豫吉田藩は宇和島藩主伊達宗利から3万石を分知されて創設されたが、
吉田藩に当たる土地は肥沃な穀倉地帯が多かった事に加え、
飛び地も多く宇和島藩との境界線の線引が複雑で抗争が絶えなかった。

義勇隊はこういった複雑な内情の中に新し知識や技術を浸透させるべく、
村々を尋ね村民とともに汗を流した。

だがこの努力も吉田藩の姑息なやり方によって、出来上がった紙は
無頼の者共に根こそぎ取り上げられる始末であった。

業を煮やした小松俊輔は新たな手立てを考えねばならなくなって
しまったのである。

まずは刈り入れた製紙材料を山小屋などで加工原料にして、
これを隣藩に売り捌くことにし、その交渉も代行することに決議、
早速とりかかった。

「よし!本日までにまとまった原料を束ね山越えをして
それぞれ隣藩に売りにゆこう、道中の警護は我らがする、
お前達は臆すること無く作業に励むよう」

「解りやした、ですがねお侍様、山ン中でとっ捕まったらどう致しやすんで?」
「それは任せておけ、そのために我らが同道致すのだ」
案の定この心配は起こるべくして起きた。

大洲藩と吉田藩の藩境へと尾根伝いに入りこんだ時、
大洲藩がたまたま警戒する中に入ってしまい発見されたのである。

「おい!待て!何処の者だ?われらは大洲藩山奉行所の者である」
これに驚いた浪人近藤主馬は農民の前に出て、さも面目無さそうな顔で
「これは何としたこと!ここは大洲藩でござるか?
我ら伊予吉田藩八幡浜喜木津村のものでござる、果て何処でどう間違えたものやら
、この山中ゆえ道も定かではなく、誠に持って面目なき次第にて・・・」
と低頭して詫びる。

「よくあることにござる、喜木津ならばこの先に非ず、
直ちに元来た方へ戻られるがよかろう!これより先は我が大洲藩のご領地になる」
と、もと来た方へ指図された。

「ははっ!この度は身共が不手際、かたじけのうござる」
と、さっさとその場を離れたのである。

「いやぁ魂消(たまげ)たねぇ!さすがお侍様は腹が座って・・・・・
おらぁ腰が抜けそうになったでよぉ」

百姓たちは冷や汗を拭き拭き浪人近藤主馬を見返した。
「さもあろう!儂とていざとなればとは想うておったが、
さすが軍師小松殿だ!こうも上手くゆくとはなぁ・・あははははは」

こんな状態で次に吉田藩の見番に発見されるや
「我ら大洲藩喜多郡の者にて・・・・・」
という具合に、うまく言い逃れてしまうのであった。

この戦術で撹乱することにより、更に宇和島・吉田両藩の反目は
被害の拡大とともに激化の一途を辿った。

こうした抜け荷売りによって農民はだんだん義勇隊に加担する村が
増えていったのである。

だが、この様なことは次第に吉田藩内にも周知の事なり、
再び締め付けが強化され、隣藩山付近の取締も一段と厳しさを
増していったのである。

こうした中、義勇隊は徐々にその力を見せるようになり、ついに宇和島藩と衝突することとなる。
中でも目黒山は、大部分が吉田藩所有林で、一部が村民の共有林であった、
そのために村人たちがこれを管理育成し、薪炭の製作等にも従事していた。

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6月号  めぐりあい  武左衛門一揆


 
安藤義太夫藤原継明を祀る安藤神社 宇和島市

安永6年(1777)長谷川平蔵は神田橋御門内の田沼意次邸で催された
御前試合に出場、この時の審判が無外流の剣客秋山小兵衛であった。

翌月平蔵は田沼意次邸の御逢日に立ち会い、秋山小兵衛に再会する。


「確か長谷川平蔵さんじゃったなぁ・・・・・」
小柄ながらも筋の通った体躯の60過ぎと思しき老人が平蔵に声をかけてきた。

「あっ これは秋山先生、またもやお目にかかれ・・・」

「おいおい そのような話はどうでもよいわな、
どうじゃ一つ面白い男に会ぅて見る気はないかい?」
何か下心の有りそうな細工の顔で秋山小兵衛、にこやかに平蔵に声をかけてきた。

「面白いお方でござりますか?」

「うむ、面白いとわしは思うたがな」

「然様でござりますか、秋山先生のお薦めとあらば」

「おお 会ぅてみるかい?ならば話は早いほうが良い、従いてきなさい」

こうして秋山小兵衛が平蔵を伴ってきたのは半蔵御門堀端を渡った先の
四谷御門に近い麹町9丁目四谷御門近くには紀伊藩・尾張藩・井伊部掃部頭
(いいかもんのかみ・幕末の井伊直弼居宅)この3つが隣接しているために
紀尾井坂(きおいざか)と呼ばれる坂がある。

「此処はな、儂が剣の教えを乞うた道場じゃ、ずい分と昔のことだがなぁ」

「と 申されますと無外流の?」

「さよう、辻右平太先生の時代だからのぉ」

「で、秋山先生の申される面白い男とはどなたのことでござりましょう?」

「ふむ 見なさい、あそこで稽古をつけておる男じゃ、
江戸では辻の狼と呼ばれておるそうじゃ、
さほどの者かな?・・・・・あははははは」

見れば中々の腕前と見え、数人掛かりでもあっという間に叩き伏せてしまう
その太刀筋は平蔵をして背筋の寒さを覚えるほどである。

「秋山先生、江戸は広うござりますなぁ」
これは平蔵の本音であった。

長谷川平蔵をして「まともにやりあったら勝つ自信がない」とその腕を
1にも2にも置いている火付盗賊改方同心小野派一刀流免許皆伝の
沢田小平次がいる。
が、これを除けば、このように平蔵が舌を巻いたのは初めてである。

「おう 稽古も終わったようじゃ、従いてきなさい」
小兵衛はかつて知ったる道場、遠慮もなく入ってゆく。

すれ違う門人は小兵衛を見るや
「これは秋山先生!」と敬意を表する。

(これほどの剣客であったか・・・)もう平蔵はこの小柄な剣客の
風貌からは想像を超えた目に見えない力に恐れさえ抱いていた。

こうして小兵衛の後に従って出会ったのがきっかけで、
よくこの道場を尋ねる平蔵であった。

その豪快さと繊細な心を持ちあわせたところが大いに平蔵を喜ばせ、
かけがえのない程の飲み友達ともなる、無外流剣客"都治記摩多資英"
(つじきまたすけひで)門弟、剣友でもあった伊豫吉田藩浪人小松俊輔である。


伊豫吉田藩は、寛保3年(1743)藩内に倹約令を発布、寛延元年(1748)
に藩士と庶民共学の藩校(内徳館・後の明倫館)を開校し、武芸・
学問を奨励し、木蝋(ロウソクの元)を藩の重要産物に指定、
農政改革に力を入れた。

伊豫吉田藩3万石、中興の祖と呼ばれた伊達村候(むらとき)の時代である。

天明2年~8年(1782)~(1788)東北地方を襲った天明の大飢饉による
被害は全国にその影響は及び、ここ伊豫吉田藩も例外ではなかった。

天明七年(1787)長谷川平蔵火付盗賊改方堀帯刀秀隆助役を拝命

この年伊豫宇和島吉田藩宮野下村三嶋神社神主土井式部清茂と
宮野下町の樽屋與兵衛は農民救済の強訴を企てるも密告により
果たせないまま獄死した。

この土井式部騒動が事の始まりで、やがて野火のごとく静かだが
確かに燃え拡がってゆくのである。

伊豫宇和島吉田藩郡(こおり)奉行中見役鈴木作之進は先の
土井式部騒動を無事収め、天明の飢饉で荒れた農村に部下七名を
控えて視察、老人や孝行者、農作業に励むものらを呼び出し、
菓子や酒を振るまい労をねぎらっていた。

彼の認め書には(百姓ではなく御百姓)と記されている。

彼の記述によれば、御百姓は一人ひとりでは気弱だが、
集まると心強くなる、だから藩政は力で抑えることは無理だと書かれている。

「御百姓の手元にも程々の紙漉利益が残るようにすれば騒動は起きない」
と知っていた。

だが郡奉行を無視する形で藩は紙座を設けこれを専売とした。
鈴木作之進は一揆の噂を聞くと村を回り、願いを聞き、諭して回った。

だが藩の裁定はまったくこれを無視、鈴木作之進らは狸役人と揶揄され
「冬春の狸を見たか鈴木殿、化けあらわして 笑止千万」
と落首されたほどであった。


時は長谷川平蔵が火付盗賊改方長官に任命された寛政元年(1788)

翌々寛政2年(1790)伊豫吉田藩は紙座を設け、藩の農家が農閑期に
手内職で漉き上げた楮(こうぞ)紙を藩が独占しようとした。

そこで村人たちが農閑期に丹精込めて漉いた紙を取り上げるために、
提灯屋栄造や覚造という無頼者を雇い、床下から天井裏まで虱(しらみ)
潰しに調べあげ、根こそぎ紙を没収、後には鼻紙1枚残らないと
言われるほど過酷な取り立てを行った。

しかもこのやり方は押収した紙の7割を役得料として黙認したのだから
陰湿と言わざるをえない。



 


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5月号 めぐりあい  吉田騒動武左衛門一揆 1



伊予吉田藩 安藤義太夫継明を祀る安藤神社

亨保4年(1719)紀州藩の足軽であった田沼意行は
紀州藩徳川吉宗の側近に登用され、
吉宗が将軍になってから小身旗本に取り立てられた。

その長男として江戸本郷弓町の田沼屋敷で出生した
遠江(とうとみ=遠州・静岡県)相良藩主田沼意次は
明和4年(1767)御側御用人から側用人へ、
さらに出世して2万石の相良城主となり、
その後さらに加増され5万7千石にまで加増された。

こうして田沼意次は悪化する幕府の財政を改善するために
重商主義を取り入れ、株仲間の結成や銅座の専売制、
鉱山開発、蝦夷地の開発立案、上方と江戸の金と銀の
不均衡是正、中国への俵物と呼ばれる俵3品(煎海鼠・
いりなまこやフカヒレ、干しアワビを俵に詰めたもの)
の専売による貿易拡大によって幕府の財政は改善された。

ただ、こうした資本主義は金銭中心となり、
やがて贈収賄が横行する背景にもなった。

明和9年(1772)4月1日江戸で発生した大火や
天明3年3月12日(1783年4月13日)岩木山が噴火、
7月6日88月3日)浅間山の噴火という連続した
大災害も勃発し、農村部が壊滅的な打撃を受け、
離農、離藩したものが近郊都市部に流れ込んだ。

こうした背景で百姓一揆や打ち壊しが頻発した時代でもある。


安永3年(1774)長谷川平蔵は31歳で江戸城西の丸
御書院番士(将軍世子の警護役)から西の丸仮御進物番
(田沼意次への付届け担当)に任じられ、
天明6年(1786)10月に田沼意次が失脚するまでの
7年間を務め上げ、翌・天明4年(1784)
39歳で西の丸御書院番御徒頭に、
天明6年(1786)41歳でお先手弓頭に、
翌年9月9日に火付盗賊改方助役(すけやく)を拝し、
翌年改方長官と、トントン拍子に出世街道を突き進む。


時は安永3年(1774)火事と喧嘩は江戸の花と
言われるように、紙と木でできた町家はよく火事が起こった。

長谷川平蔵は田沼意次の忠節・孝行・身分の上下にかかわらず
心を配ること(遺訓7箇条の内3箇条)などの心配りや、
倹約令のさなかにありながら息抜きも必要であろうと
遊芸を認めたこと、これまで無税であった商家からの納税や
海外との貿易による増収に主眼を置く重商主義にも
傾倒していたようで、

この頃神田橋御門内の田沼邸近くで火事騒ぎがあると、
長谷川平蔵は江戸城西の丸御書院番士の公務を抜け出し
田沼邸に走り、下屋敷に移るよう奨め、その半刻後(1時間)
には下屋敷に餅菓子が届くように手配、夕刻には
食事までも届くという気配りが、田沼意次の意に沿い、
翌年長谷川平蔵は西の丸仮御進物番(田沼への届け物番士)
に取り立てられる。

何時の世も同じだが、この時代も盆・暮れは普通のことで、
お世話になったり何かを頼む時はお礼をするたしなみは
ごく当たり前であった。

田沼意次を失脚させた後の老中松平定信が定めた
寛政の改革(1787~1793)には、賄賂を禁じる項があり、
本来支払うべきこれらのものまでも差し出さなくなったため、
寛政4年(1792)皮肉なことに付届けを義務付ける御触出しを
出さざるを得なくなった。

田沼時代には、御対客日や御逢日は公式日程が定められ、
明けの6ツ(午前6時)から朝4ツ(午前10時)
の登城前までの間に田沼邸の前には陳情者がつめかけ、
身分の差別をしてはならないという田沼家の家訓のために、
身分の低いものも列をなしたという。

そんな中、平蔵が知り合った諸藩藩士の中に後の伊豫吉田藩
末席家老安藤儀太夫継明がいた。

平蔵は自分より1つ年上の、この安藤儀太夫に教えられることが
多くあり、
彼は事あるごとに伊豫吉田藩は伊豫宇和島藩の支藩とみなされている、
それをはねのけるためにも収益性の高い特産品など殖産の開発や
温暖な地方による多毛作付けなどの農政改革が重要だと
その熱い思いを平蔵に語っていた。

これは田沼意次の重商主義に通じ、
また長谷川平蔵の目指すところでもあったから、
その交流は平蔵が西の丸御書院番御徒頭になるまで続いた。

その後も時折書面などが往来し、
平蔵をして「刎頸(ふんけい)の交わりにて兄と慕う」ほどであった。


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嘘から出た真  4月号


 


翌日平蔵は、横内雅之は
角鹿(つのが)の喜平次一味召し捕りの折殉職、店の下働き“はつ”は抗争に巻き込まれて死亡したと御調書に記した。



これは相対死(心中)の場合遺体は裸にされ、日本橋南詰の晒し場に3日間晒されのち、試し切りに回されることを避けての図らいであったろう。



二人の遺体は横内雅之の親元で引き取られ、手厚く葬られたと本所渡辺大工町泰耀寺の記録にある。



そののち、この古本屋獺祭屋は“はつ“のさわやかな笑顔とともに、誰もその行方をしらないまま江戸の町から消え、表には古本売買御書物處(かわうそてい)の看板が秋風に揺れているのみであった。



 



正岡子規は自らを獺祭書屋(だっさいしょおく)主人と号した。



執筆活動を続けた終焉の地が根岸であり、彼の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶ


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嘘から出た真  3月号 獺祭



捨松は"かわうそてい"の主人"仁兵衛"に目配せをする

「何だい?」
と、仁兵衛いぶかる顔で捨松を見た。

「野郎 確かに見た顔だ、八丁堀かそんな野郎だ、
ちょいと二階(うえ)へ上げておくんなさい」
雅之を横目に確かめながら、小声で仁兵衛に耳打ちした。

「よし判った!」
仁兵衛は入り口付近で談笑している"はつ"と雅之に近づき

「あのぉ石丸様!ちょいとおたずねいたしたい事がございますので
どうかこちらの方へ起こし願えませんでしょうか・・・・・」
と二階への入り口に誘う

「儂にか?」

「はい さようで・・・・・」

「判った どんなことであろう・・・・・・」
と雅之は気軽に2階へと上がっていった。

その後を"はつ"も続いて上がる。
襖を開けたそこに5名ほどの男どもが居座(すわ)って居、
捨松が後ろ手にピシャリと襖を閉め

「お前さんお上の回し者だな!!」
と雅之の正面に回り捨松、
他の者も一斉に立ち上がりぐるりと雅之の周りを包む。

「えっ!!」
"はつ"は驚き、双瞼(め)を見開いて雅之を凝視する

「確かに私は盗賊改方同心横内雅之」

「「そんなぁ 雅之様は私を騙してたのね!!」
憎しみの形相で雅之を睨み据える"はつ"の両の拳がブルブルと震えている。

「そうだ!こいつは俺たちを探るためにあんたを騙して慰め者にしゃぁがったんだぜ、
許すわけにゃぁいかねぇ」

「野郎!!よくも"おはつ"をもて遊びゃァがったな、覚悟しやぁがれ」
己の吉が雅之を後ろから羽交い締めに締め上げ、
捨松が懐から匕首(あいくち)を引き抜き仁兵衛に渡そうとしたそれを"はつ"が奪い取り

「あの言葉も何もかもみんな嘘だったのね!!」

「済まぬ!お前を騙すつもりはなかった、ここが盗賊の宿とは知らなかったのだ」

「そんなぁ・・・・・嫌ァ!!!!!!」
"はつ"は匕首に両手を添えて胸前に構え、そのまま一気に雅之めざし突っかかった。
雅之はそれを避けようともせず、まっすぐ受け止め
「グッ!」

低いうめき声とともに"はつ"を抱き抱え、そのまま更に強くぐいと我が胸に抱きしめた。
一瞬たじろぐ"はつ"

「なぜ???どうして避けてくれなかったの」

「お前に惚れているから」

「ウソ!!」 

「嘘ではない、萱町にささやかな家を借り、そこでお前と本屋がしたいと・・・・・」

「嘘ぉ!!!」

「嘘を言ってるように見えるか?、その為に私はお役(つとめ)
を辞めるとお前に告げに来たところだ」

その言葉を聞いた"はつ"は雅之に刺さった匕首を引き抜き、自らの胸を刺し、
重なるように崩れ落ちた。
それは居合わせた者が一瞬気を抜いた、あっという間の出来事であった。

重なりあって倒れる二人の姿に
「なんて!なんてこった!こんなことが・・・・・・」
かわうそていの主"獺祭や仁兵衛はその場に両膝をついて首をうなだれた。

雅之は薄れてゆく瞼の奥に"はつ"の顔がゆっくりと消えて行き、
初めて手渡した忍び香の薫りが溢れてくる血の匂いに混じって
かすかに流れてきたのを覚えた。

「そういやぁこの前妙な野郎が後をつけてきたような気がしてたんだが、
やっぱりこいつ仲間だったんだな、
危ねぇところで巻はしたものののんびりしちゃぁ居れねぇ」

「奴が盗賊改めならここはもう危ねぇ、今夜のお盗(つとめ)
が終わったらその足で江戸(ここ)を抜けるんだ、急いで支度をしろぃ!」

頭目角鹿(つのが)の喜平次が叫び、その場でてんでに旅支度を始めた。  

一方、筋違御門に集結した盗賊改を引き連れて長谷川平蔵
"かわうそ亭"店近くに潜んでいる"おまさ"に近づき
「おまさ変わったことはないか」

「これは長谷川様、横内様が先程より上がったまま下りて見えません」

「何!しまった!遅かったやもしれぬ、構わぬ打ちこめ!」

平蔵の合図を聞いて与力・同心が一斉に戸口に殺到し、
開け放たれた間口から盗賊改が雪崩のように飛び込んで行った。

居合わせた店番の乙松がその盗賊改の装束を見て仰天し、
「うわぁ盗賊改だぁ!!!!」
と叫んだものの、その場にへたり込んでしまった。

「火付盗賊改だ!覚悟してお縄にかかれ!」

筆頭与力佐嶋忠介が大声で叫びながら階下へと迫ってきた。

「盗賊改だ!!?どうしてここが!!くそぉ刹っちめぇ!」

どどどっ!!と階下に降り、その場に叩き伏せられるもの、
架台をひっくり返し散乱する絵草紙を掴んで投げつけ抵抗するものや、
錦絵の舞い散る中に、匕首を振りかざし抗う者と、階下は修羅場と化した。

しかし、打ち込みはあっけなく四半刻(十五分)あまりで静まった。

捕縛されしもの、獺祭や仁兵衛をはじめ三名、怪我を負った者二名、
切り伏せられた者三名であった。
二階へ上がった平蔵の眼の前には折り重なって倒れている横内雅之と"はつ"の
事切れた姿があった。

「なんという早まったことを!!!あれほど何かないかと申したに・・・」

平蔵の胸に悔やんでも悔やみきれない思いが闇のように重たく覆い尽くしてきた。
「あの折もう一言尋ねればよかった、信じてやる前にただもう一言問うてやれば・・・・・
ううっん 無念でならぬ」

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嘘から出たまこと   獺祭 2月号

「おお 粂ご苦労! で、なにか変わったことでもあったようだのう、その顔だ」

「長谷川様、面目ございやせん昨日賽の目己の吉を微行(つけ)やしてございやすが、
根岸の御隠殿辺りにいきなり駆け込みやぁがってまんまとやられやした」

「ふむ 向こうが気づいたというのだな?」

「おそらくは・・・・・・」

「で、そこはどこいら辺りだ?」

「ヘイ、根岸の御隠殿(おいんでん)傍にある豆腐料理屋"笹乃雪"の横っかわで見失いやした、
面目次第も」

「ああ よいよい!よしその辺りを探ってみるのも良いかもしれぬ、粂!案内い致せ」
こうして平蔵と粂八、のんびりと根岸の里へと足を伸ばした。

下谷坂本町から要伝寺横を抜け音無川へと下がっていく。

「長谷川様どちらへ?」
粂八が怪訝な顔で平蔵を見やる。

「あっしが見失ったのは笹の雪横手辺り・・・・・此方は方向が・・・」

「なぁ粂、お前ぇ雲雀を知っておろう?」

「ヘイ あのピーチクパーチク騒ぐやつでござんすね?」

「おお そいつよ!雲雀の巣を見つけるのはどうする?」

「そりゃぁもう!麦畑の中に降りた辺りを探せば見つかりまさぁ」

「ところがどっこい、そいつぁ見当違いと言うもの」

「へっ?その辺りには居りませんので?」

「儂は小さきおり田舎に預けられた、それで雲雀や雀の雛を獲りに行ったものさ、
雲雀というやつ降りた方角にしばらく進んだあたりに巣を構えておる、
誰しも見つからまいと想う所は皆同じ、だから見つけにくいは何気ないところさ」

「ってぇと、雲雀の降りた所は見せかけ?」

「そうさなぁ 見せかけに騙されると言うことだな、その逃げた野郎も
御隠殿辺りに逃げこんだということは、そいつが誘い水、
見せかけだと想うのが常道であろう、儂ならばそう致す」

「へへぇ そう云うもんでございやすか・・・」

「おお!見えてきたぜ円光寺がよぉ・・・さてさて今が見頃と想うたが、
如何であろうかのぉ、それここからでも見ゆるであろうあの大松のあるところよ、
あれは鏡の松と言うてな根渡り四尺ばかりと言われておる、
樹の中に円鏡をだいたように穴があるところから然様呼ばれておる。

此処にはな、御堂を取り巻くように27間にも及ぶ藤棚があり、
こいつが3尺も4尺に下がるさまは見事というほかあるめぇよ」

「へぇそいつぁ又豪勢なもんでござんすねぇ長谷川様」

「おうおう どうだい?風に誘われなんとも良い薫りが流れてくるではないか」
平蔵春爛漫の風に誘われ藤寺に入った。

「嗚呼!やんぬるかな・・・どうだい粂!この人だかり・・・
誰しも思うこたぁ同じということよのぉ あははははは」
平蔵それでも鮮やかに下がり、色めき薫り立つ紫房にしばし見とれている。

やがて平蔵は寺を出て裏手に廻った。
道を挟んでポツポツと寮が見える。

下の句に"根岸の里の侘住い"とつければ何でも風流に聞こえると言われるほど
幽趣が似合うこの地は、根岸の寮と呼ばれ、金持ちは寮という名目で数寄屋を建て
妾を棲まわせ、遊女の別宅も寮と称し、根岸紅と呼ばれる山茶花の花があり、
隠居地として文人墨客が好んで住んだ。

やがて音無川に出た平蔵、橋をわたって川に沿い西へと進む、下流に進むと水鶏橋になる。
町家の向こうは金杉新田が拡がって見える先の橋をまたぎ梅屋敷へと戻り、御隠殿に向かった。
根岸の豆腐料理屋"笹乃雪"は守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)
お供で京からやってきた玉屋忠兵衛がこの根岸の里音無川のほとりで
豆腐茶屋を開いた事に始まる。

この絹ごし豆腐を親王は大層好まれ、「笹の上に積もれし雪のごとき美しさよ」
と賞賛され、笹乃雪と名付けられた。
中でもあんかけ豆腐は宮様もお気に召され(これからは二碗ずつ持ってくるように)
と言われ、それ以来二碗一組と決まった。

この玉屋忠左衛門の娘"お静"が雪道で足を取られ滑りそうになったのを磯貝十郎左衛門が助け、
そののち俳人室井其角に伴われて来た磯貝十郎左衛門と再会を果たす。

お静は磯貝に心を寄せていたが、元禄十五年十二月十四日赤穂浪士討ち入りのあと、
大石内蔵助以下十七名が細川家お預けとなり、その折上野輪王寺の宮公弁法親王の
心遣いで細川家にこの笹乃雪の絹ごし豆腐を届けたいわれがある。

平蔵 葛餡(くずあん)にからしの添えられた、この屋の名物あんかけ豆腐に舌鼓を打ち、
粂八を伴い外に出た。
再び音無川に架かる小橋を渡り善性寺に向かった。

「どうだい粂!川を挟んで向こう見りゃ、さて、
雲雀ならば何処に身を潜めようと想うであろう、善性寺の将軍橋を渡ると善長寺が控えている、向かいには植木屋もあり、その間を南に進めば芋坂に出る、これを上がると天王寺に出る。

「ふむ まずはこの辺りまでであろうのぅ、なぁ粂!お前ぇが盗人ならばどうする?」

「へっ?何をって・・・」

「ふむ 解らぬか、この辺りが盗人どもの潜み場所となれば
此処より徒党を組んでとなりゃぁお前ぇいくらなんでも目立ちはせぬかえ?」

「へぇさいでございやすねぇ・・・てぇ事は・・・」

「儂ならばこの辺りに身を潜め、目立たぬように時をやり過ごし、
いざの時に何処か市中に近き所に集まり、そこから押しこむ。
江戸は水路も多く、そこに逃げ込めば、こいつぁ中々手に負えぬ」

「なぁるほど・・・てぇ事は"かわうそ亭"を張るってぇこって」

「うむ おそらくはなぁ・・・・・」
平蔵元来た道へと引き返す。
翌日夕刻"かわうそ亭"を張っていた"おまさ"から(人の出入りが多くなった)
と粂八が繋いできた。

平蔵嫌な胸騒ぎを覚えた。

「忠吾!!急ぎ小屋敷に参り手隙のものを集め筋違門へ飛べ!
我らも支度でき次第そちらへ向かう、急げ!!」
その"かわうそてい"へ三々五々集まってきた者の中に捨松が居、
横内雅之が"はつ"と外から戻ってきたところでもあった。
華やいだ空気に包まれた二人の姿を見るとはなく見た捨松
「あっ!あの野郎・・・・・・」

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嘘から出た真 19年新年号 獺祭-3 


何がどうってぇ事じゃぁござんせんが、
なんであんな雑魚が場違ぇの本屋になんぞ・・・」



「何だと?盗人が入ぇって行ったというのか?」



「へぃ 盗人てぇほどの奴じゃぁございやせんが、
まぁ盗人の走り使いみてぇな仕事をやっておりやすようで」



「うむ だが、盗賊に関わりがあることに違いはあるまい」



「へぃ まぁそう言っちまやぁそうでございやすがね・・・・」



「そうか、わかった儂もこれから気をつけておこう」



こうして雅之は“かわうそてい“が何か盗賊に関わりを持っているかも
知れないと言うことを心の奥に敷くこととなる。



役宅に戻った横内雅之、町廻りの帰宅後、
何やら丹念に調べ事に没頭する日々が続いていた。



そうしながらも、雅之の“かわうそてい“通いはいつも通りで、
何ら変わることもなく続けられ、それに伴って”はつ“との逢瀬も
日増しに深まっていった。



上野の出会い茶屋から出てくる二人の姿が見られたのもその後のことである。



「ねぇお前ぃさん、長谷川様にお知らせした方が良いかどうか、
あたしぁ迷ってしまって・・・」



“おまさ”が亭主の五郎蔵にそう打ち明けた。



「そうだなぁ・・・横内様ご自身のことだから、さて どうしたものか」



「だって、横内様は独り者なんだもの、別に悪いことでもないしさ、
止めておこうかしら」



「そうだなぁ、まぁそのくらいはいいんじやぁないのか?」
五郎蔵もさほど問題だとは思っていなかった。


「“おはつ”、今日は妻恋稲荷に行ってみようか?」



二人は薪河岸を抜け、神田明神下から妻恋坂を登り、
立爪坂から妻恋稲荷へと入っていった。



「ここはね、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のおり、
走水の海(浦賀水道)を渡る際、海神を侮(あなど)り怒らせてしまった、
そのために海は大荒れで、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が
海に身を投げて海神の怒りを鎮めたんだ、そのあと日本武尊は
この湯嶋の地に滞在された、その時里人が日本武尊が
お妃を慕う心を哀れに思われ、尊と弟橘姫とをここに祀った、
だから正月に売られる(夢枕)は縁起がいいんだよ、
次の正月には“はつ”と一緒に参ろう」



「まぁ 本当でございますか?嬉しい!!」



華やいだ声を上げて喜ぶ“はつ”を雅之は眩しそうに見やった。



「“はつ”お前にこれをあげよう」



「えっ 何でございますの?」



お前がこの前“かねやす”で眺めていたものだよ」



「まぁ何かしら・・・・・あっ いい香り」



「誰(た)が袖のしのび香だよ・・・
古今和歌集に
(色よりも 香りこそあわれと 思おゆれ 誰袖ふれし 宿の梅ぞも)
と詠まれたものだ」



「嬉しい!!」



“はつ”は悦びに胸を弾ませ、そのかすかな香り袋を幾度も幾度も掌に包み、
雅之の気持ちを確かめていた。



盗賊改の密偵小房の粂八は浅草平右衛門町の船宿“五色”に
水鶏(くいな)の平治を訪ねての帰り道、すれ違った小男に「ううっん?」



(はてなぁ賽の目己の吉・・・・・どうしてあんな野郎がこの浅草界隈に)・・・・・



「で 野郎の後を尾行(つけ)やしたら、なんとそこに同心の横内様が
いらっしゃるじゃぁございやせんか、いやぁ驚いたのなんの・・・・・・」



粂八が報告してきたこの話に平蔵



「粂 この話、しばらく儂に預けてはくれぬか」



と、横内雅之の一件を口止めした。



「横内只今戻りました」



雅之が帰宅の報告に上がってきた。



「おお横内ご苦労ご苦労、遅かったではないか?何か変わったことはないか?」



「はい、只今のところございません」



「ふむ 何事もなし・・・か、左様か、・・・よし下がって休め」



(うむ奴は何かを隠している、まだ明かすほどのことではないのかも知れぬ、
もう少し様子を見てみよう)。



平蔵、これまでの報告では何といって特に気にするものも想い浮かばず、
又それらしき報告もないところから、様子を見ようと静観することにした。



だが、これが裏目に出ることになろうとは、長谷川平蔵も
この時はまだ予測すら出来ないでいた。



ただ、粂八の報告などからも何一つ決め手なきゆえに、
まず“おまさ”に横内を見張らせることにした。



その後粂八がこの“かわうそてい”を張っていたところ、
またもや賽の目己の吉が人目を避けるように出てきたのを目撃、
これを密かに微行(つけ)て行った。



御成街道を真っ直ぐに北上し、下谷広小路に入り、
三橋の手前を左に折れ上野元黒門町の“十三や”櫛店に入り、
何か買い求めた様子であったが、再びそこから三橋に戻り仁王門前町を
上野山下に回り屏風坂門を通りぬけ下谷坂本町に入った。



(野郎こんなところまで・・・一体どこまでゆくつもりだぁ?)
粂八は首をかしげながらつけてゆく。



上野の森を左に見ながら音無川に向かって下がり始めた、
やがて根岸の御隠殿(おいんでん)傍にある豆腐料理屋“笹乃雪”の
横を曲がるなりいきなり駈け出した。



(ちっ!野郎感づきゃぁがったか!)



根岸は上野の崖下に位置しており、
かつては入海で海岸線が入り組んでまるで木の根のようであったところから
根岸と呼ばれるように、御隠殿は三千坪もある広大な場所である。
草は生い茂り、身を潜めれば余程のことがない限り見つかりっこない。



粂八は深追いせず、それから粂八の預かっている本所石川町船宿“鶴や”
まで引き返した。



翌日粂八は盗賊改役宅を訪れ



「長谷川様にお取次ぎ願いやす」



と申し出た。



「いかが計らいましょう・・・・・」



と小柳が平蔵に繋いできた。



「何?粂八は参ったか!よしここへ通せ」



平蔵面会を許し



さてさて 何か仕込んで来たか・・・・・」



枝折り戸が静かに開き、小房の粂八が小腰を曲げて入ってきた。


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12月号 嘘から出た真  獺祭-2



「はぁ で ございますから何がでございましょうか?」



「つまりだなぁ 本日もカワウソに立ち寄ったのではないのかと聞いておる」



「えっ!!どうしてそれを・・・・・・・」



「おい横内!儂はお前達を束ねる身、毎日お前達が何処で何を見、何を聞き、
何をしておるかそれを知るのも儂の仕事」



「ははっ!!本日は立ち読み致しておりまして、その中で荘子(そうし)
の言葉に(古人の糟粕・そうはく)という物がございました、
それともう一つは我が事を説いたような言葉にて、
者みなそれぞれに得手不得手があると申しておるのでございましょうか・・・・・(駿馬は、1日に千里走る事ができるが、
ネズミを捕まえることでは猫にはかなわない)と言うのがございました」



「何ですかその“そうし”と言うのは?」



「おい 忠吾お前ぇは所詮村松には叶わぬと言うことだ あははははは」



「何でござりますか、そこへどうして私が」



「良いか忠吾!お前ぇはチュゥご、村松は猫どの・・・・・
如何にお前ぇが食い物に長けておろうと、村松には叶わぬ!と、
そういうことだなぁわははははは」



「はぁどうも・・・・・」



「おい 解ったのか忠吾?(古人の糟粕・そうはく)と申してな、
斎という国の
桓公というお方が庭先で本を読んでおった。



その近くで車を治していた大工が(それは一体なんですか?)
と聞いたらば(昔の聖人が残した書物だ)と答えたんだなぁ。



で、その大工が(その御方はまだ生きておられるので?)と聞いた。



すると桓公先生(いやとっくに亡くなられておる)



で、大工が

(じゃぁその本は糟粕=酒のカス・のようなもんですね)と言ったんだなぁ。



桓公先生(それはどういう意味か)と聞いたらな忠吾!なんと答えたと思う?」



「さぁ全く私めには・・・なんと答えましたので?」



(私は今車の軸を治していますが、この軸受をうまく作るコツは
言葉では伝わりません、こればっかりは自分で経験するしかないのです、
その書物も言いたかったことは言葉や文字では残せなかったんじゃぁ
ないでしょうか?)と、こう答えたそうな」



「はぁ 聖人の糟でございますか・・・・・さようで・・・」



「嗚呼やんぬるかな・・・」



「で 他には変わったことはなかったのか?」



「はい、特別にこれと申しましては」



「よし、判った 下がって休め」



こうして数日が過ぎ去った。



神田川河畔薪河岸花房町“かわうそてい”



「まぁお武家様は余程ご本がお好きなのでございますね」



明るい笑顔がなんとも初々しい、今でいうところの看板娘、名は“はつ”



「どうしてだ?」



「だってよくお越しになられますもの、
しかもご本は決まって難しそうなものばかり、
たいていのお客様は絵草紙などをお求めになられますから・・・・・」



「そうだなぁ、私は本につぎ込むだけの余裕が無い、
だから読みたいものだけにしているんだよ」



「あらっ ご無礼を申しました、どうぞお許しくださいませ」



ちょっと笑顔を伏せながらも、口元におかしさをこらえた名残が読み取れる。



「可笑しいかなぁ・・・何もお前が謝ることはない、
むしろ謝るのは私の方だよ、だってしょっちゅう立ち読みだからねぇ、
ほらご主人がこっちを睨んでおられる・・・・・」



「あはっ そんなことはございませんよ、
(あの方は余程お勉学がお好きなんだろうねって)言ってますもの」



「そうですか、私の求めるものは希少本が多く、
中々手が出せません誠に申し訳ない」



こんな軽い会話が交わせるようになるほど雅之は足繁く通った。



無論参考書など普段目に触れないものまで、
ここにはあるというのも大きな目的ではあるが、
この“おはつ”の明るさが雅之の心を日頃の緊張からほぐしてくれる、
だからこうしてほとんど毎日町廻りの帰り道をここまで周って
来ているのである。



こうしてもう夏も過ぎ、神田川を行き交う船も積み荷が
冬に向かったものに変わっていった。



“はつ”が差し出してくれる冷水も、いつしか温かい白湯に変わってきた。



雅之は“はつ”に名前を尋ねられ、
「私は石丸雅之と言う」と偽名を使った。



これは当然のことながら火付盗賊改方同心は
あくまで表立って使うべき名ではないからである。



「石丸様?ですか?私は・・・」



「“はつ”であったな?」



「あっ はい!あ・・お父っつあんが言っていたので・・・」



「ふむ 覚えてしもうた、あはははは」



「石丸様はよくこの辺りに起こしになられるようでございますが、
いつもどの辺りにお越しになられますの?」



「私か?春木町の枸橘寺(からたちじ)に寄ってここに来る」



「あっつもしかして “壷屋”の向かいの?」



「うむ 春日局社とも言うが、私は枸橘寺の名前のほうが好きだ」



「あ~やっぱりご本がお好きな方でございますね、うふふふふふ」



「そうか?本郷一丁目の“かねやす“は時折母上の使いもかね
”乳香酸“を求めに立ち寄る」



「にゅうこうさん?ですか?」



「ああ!歯磨き粉だよ、そうだ一度行ってみないか?
いろいろ楽しい物もおいてあるぞ!」



「まぁ 行ってみたい!」



そんなわけで時々この辺りを二人で歩く姿も見られるようになった。



そんなある時、“かわうそてい”に立ち寄った雅之が程々の刻も過ぎたので、
役宅に戻ろうと店を出て“はつ“の見送りの声に応えようと振り返った時、
店に立ち寄らずそのまま二階へと上がってゆく数人の男を見かけた。



(妙な客だな?二階に本(もの)は無かったと思うが・・・・・)



まぁこのささやかな疑問はそれで終わったかに見えた。



小房の粂八が浅草今戸から後を尾行(つけ)て来た男が
浅草花房町にある貸本屋“かわうそてい“に入ってゆくのを見届け
引き返して来たその数間先を行く同心横内正行の後ろ姿を見かけ



「これぁ横内様今おかえりでございますか?」



と声をかけた。



「おお 粂八・・・どうしたお前は?」


「へぇ 今戸あたりを流しおりやしたら“捨松”ってぇ
小働きの雑魚を見かけやして、ちょいと気になり、ずっと尾行(つけ)
てみやしたら、野郎どういうわけかこの先の花房町にある“かわうそてい”
に入ぇって行きやした。

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11月号  獺祭 その1


獺祭



娯楽時代劇でも長屋の徳松が拙い文字で手紙を書くシーンが出てくるが、
当時江戸の識字率(就学率)は江戸末期において武士は100%
読み書きできたし、庶民もほぼ50%は読み書き出来ており、
世界第1の識字率国だった。



獺祭魚(だっさいぎょ)獺(かわうそ)は、
とらえた魚を川岸に並べる習性がある、
これを見て人はカワウソが先祖に供物を供えていると言うようになった。



唐後期の詩人“李商隠”は詩作の際に多くの参考書物を並べて置き、
又自らも獺祭魚とか獺祭と号した。



火付盗賊改方同心横内雅之、忠吾いわく(かわうその雅ちゃん)
剣術の方は木村忠吾が「私の敵ではございません」
と、うそぶくくらいであるからまぁ推して知るべし。



だがこの男盗賊改めには欠かせない人物ではある。



というのも字名(あざな)のごとく、大の読み書きが好きと来ている。



お調書を任せれば他の追随を許さない。
何処からそのような内容を探し見つけてくるのか、まるで書物蔵の主。



平蔵をして



「アヤツの頭ん中ぁいっぺんで良いから覗いてみてぇもんだ」



と言わしめるほどの確かさで、
与力天野甚蔵なぞは



「彼奴には夜ともなれば尻尾が生えておるのでは」



と、こうなると狐狸の類となってしまう。



その横内雅之、奉行所よりのお手配書を丹念に調べていたが



「お頭、角鹿(つのが)の喜平次一味が御府内に入り込んだ模様と
御座いますが、何かそれらしき動きは掴めておるのでございましょうか、
これによりますと敦賀(つるが。福井県)辺りを縄張りにした
兇賊とございますが」



「うむ 儂もそれは目を通したが、
今のところそれらしき話は密偵共からも聞いては居らぬ」



角鹿(つのが)の喜平次の話はこの時出たのが初めである。



神田川に架かる東筋違御門を北に上がった花房町
“紀伊國屋漢薬局”傍にある小さな裏店の貸し本屋
“獺祭亭(かわうそてい)”。



貸本といっても新書・古書・参考書・流行(はやり)本・
枕本など本に関するあらゆるものが1軒の店で扱われるのが普通であった。



特にこの獺祭亭は古書が豊富で武家屋敷などから出される古書や文献、
史書が多く、店は2つに区切られ、片方は艶本から黄雑紙、絵草紙、
錦絵などを揃え、残る片方には古書、新書などが並べられていた。



外からでも内部が見えるようにと柿渋の軒暖簾に“かわうそてい”
と染め抜いた軒暖簾を掛け、下谷御成街道に“出し看板”を置き、
それには「古本売買御書物處かわうそてい」と書かれてあった。



店の通りに面した戸板には、小さな窓が繰り抜かれており、
通行人はそこへ使用済みの屑紙、鼻紙なぞを放り込んだ、
獺祭屋はあとでこれを回収し古紙回収業に販売していた。



本屋に限って言うと、東向きか北向きに店を構える、
これは表紙焼けを起す日差しを嫌ったからである。



火付盗賊改方密偵の“おまさ”はここで横内雅之をよく見かけたものである。



この日も夕刻間近、昌平橋を北に上がった薪河岸(湯島横町)
を浅草の方へと戻っていた所を泉橋のたもとで横内雅之を見かけたのである。



別に声をかける必要もなくそれはそれで通り過ごした。



本所の盗賊改め方役宅に戻ったおまさ



「今日も横内様のお姿をお見かけしました」



と少し笑い顔を交えて平蔵に報告した。



「なんと!またもや奴め、本漁りかえ?
ちったぁ忠吾めの爪の垢でも飲ませねば、のぉ わははははは」



そこへ話題の主、木村忠吾が入ってきた。



「お頭木村忠吾只今戻りました!
ところで何やら私めが何とかとか聞こえてまいりましたが、
何か然様なお話でも?」



「おっ うっ いやぁ何でもねぇよ なぁおまさ」



「うふふふふ」



平蔵の慌てようにおまさ、思わず口元に袖を寄せて下を向いた。



「あっ どうも怪しゅうございますなぁお頭の今の生返事は」



と忠吾鋭い突っ込み。



「うんっ いやどうってこともねえょ、
お前ぇの爪の垢でも煎じて飲ませれば、
横内も少しはおなごを振り返るようになるやも知れぬと、
まぁそういうこった」



「あれっ 私はそれ程おなごを振り返ったことはござりませぬお頭!
それは大きに誤解と申すもの・・・・・何でおまさまでが・・・・・」



忠吾少々お冠の様子



「あっ いや儂が悪かった!
なぁ忠吾お前ぇがおなごを振り返るのではなくだなぁ、
おなごがそれ!お前ぇを振り返させるだけのこと、わははははは」



「あっ いやぁどうも・・・・・
えっ?それでは同じことではござりませんか、全くもう!」



「おお ところで忠吾、町廻りでなにか変わったことはなかったかえ?」



「はい 本日も穏やかな1日でございました、
このままかような日々が続けば宜しゅうございますなぁお頭」



「ふむ そうさのぉ・・・江戸の町にはそれが良い、
だが お前ぇたちはお払い箱で、元の組に戻らねばならぬ」



「あっ それはいけませぬ!それは宜しゅうございませぬお頭!
何と言うても我らは火付盗賊改方でござりますから」



「やれやれ やっとそこに気づいたのかえ?」



「ところで忠吾、横内は戻っておったか?」



「はぁ横内さんでございますか?
私が戻りましたるおりにはまだ姿は見えておりませんでございます」



「ふむ・・・・・・
まぁそのうち追っ付け戻るであろう、あい判った下がって良いぞ」



「ふむ 何処で道草を食っておるやら・・・・・」



それから間もなくして同心横内雅之が戻って来



「横内雅之只今戻りました」



と報告に上がった。



「おお 横内 本日は如何であった?」



「はっ? 如何と申されますと・・・・・」



「だから 如何であったかと聞いておるのじゃ」


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10月号 花筏千人同心 最終章

同じようにわしはそなたの父御を盗賊に追いやったこの世が憎い。
儂は若年寄京極備前様のお名指しにより、八王子で盗賊を追い詰めひっ捕らえたのが、
後にそなたの父御を追い詰めることとなり、無念なれど父御はその後物盗りになってしもぅた」

「ままままっ まさか父上が物盗り!それは何かの間違い!!
父上はお役御免を口実に密かに盗賊の探索に当たっていたのを、
盗賊と一緒にいたと火付盗賊の長谷川平蔵に斬り殺されただけ」

「おお その通り京極備前守様にそう言上したのがこの儂だからな・・・」

「えっ!!」

「そこもとの父御はこの儂を付け狙いながら、辻斬などの物盗りを続けておった。
儂が三ノ輪の蕎麦屋を出た辺りから微行(つけ)てまいり、日本堤で斬り合いになり、
その折そなたの父御秋庭周太郎は自害、儂が介錯いたして永久寺に葬ってもろうた」

「嘘!嘘!嘘!父上に限って!そのようなことは、あろうはずもありません」

「嘘ではない、秋庭周太郎は腹を切る折〔妙を頼む〕と儂に言伝た。
儂はそなたを探し出し、あの日そなたが倒れているのを儂の配下の者が見つけ、
その後引取り多津に預けたのもこの儂、"さかえや"
の女将に長谷川が話して良いと申したと聞いてみるが良い、すべてを承知いたしておる」

「そんな!・・・・・」
妙は持った短刀をだらりと下げた。

そして平蔵が一瞬気をゆるめた隙をついて短刀を自らの喉に突き刺そうとした、
それを見逃すはずの平蔵でもない。

妙の手首を握り
「心のやり場がなくばこの儂を突くもよかろう、苦しいものだ、
どうにもやり場のない心の置所を失った者の気持ちはこの儂も
昔嫌というほど味おうてきたからな。

お妙!そなたまで命を落としては、命をかけた父御のそなたを思う気持ちは無駄になろう、
なぜ腹を切ったと思う、それを考えてみるが良い。

秋庭周太郎はおのが命と引き換えにそなたの命をこの儂に預けたのだぞ、
儂は約定を守りそなたを多津に預け、今日まで陰から見守っておった」

妙は打ちひしがれその場に泣き崩れるばかりである。

翌々日"さかえや"の女将多津が菊川町の役宅に平蔵を訪ねてきたと取り次いだ酒井祐助が
「如何致しましょう」と問うてきた。

「何?お多津が参ったと、はて何か問題でも起きておらなければよいが、
よしこちらへ回せ」
平蔵煙草盆を下げて廊下に進み出て待った。

裏の枝折り戸を開いて"さかえや"の女将多津が慌てた様子で入ってきた。

「おお 女将いかがいたした?」

「長谷川様からお預かりいたしておりましたお妙ちゃんが店を出たまま二日も帰ってきません、
これまでそんなことは一度もなく、万が一のことがあったら私は長谷川様に
何とお詫びをしてよいやら、どうすればよいかと困ってこうして・・・・・」

「ふむ 何か変わったところは見当たらなんだか?」

「二日前に夕方戻ってきまして、長谷川様が私のことを話して良いとおっしゃられたので、
本当のことを教えてほしいと・・・
私は初め聞き捨てましたが、あまりの勢いに、これは長谷川様がおっしゃられたのだと思い、
あの娘をお連れになった時のことを隠さず話して聞かせました」

「ふむ 左様であったか、やはり思いつめたのであろうなぁ、かわいそうな事をしてしもうた」

平蔵は目を閉じ、過日妙が見せた驚きの顔を痛い気持ちで思い出していた。
「よし、これはこの儂が引き受けよう、済まぬがこれまで通りお妙が事、よろしく頼む」

平蔵多津を帰し、
「ちと出かけてくる」
と言い捨ててそのまま裏口から浅草に向かった。

行く先は秋葉周太郎の葬られている三ノ輪の永久寺
坊守に案内を乞い、秋庭周太郎の墓を尋ねた、真新しい華が供えられているところを見ると、
おそらく妙が訪れたことは疑いもあるまい。
(ふむ 妙が立ちまわる先はい何処であろうか?)平蔵顎に手を添えながら思案に暮れる。

「あのぉ 長谷川様」
と門前に掛かったところで住職が平蔵に声をかけて来た。

「おお これはご住職、儂に何か御用かな?」

「もしやお妙さんをお探しでは?」

「おっ! 御坊はお妙の行く先をご存知でござるか?」

「何やら思いつめたようで、昨日拙僧を訪ねてまいりましてのぉ、
人の供養はどうすれば善いかと訪ねおりまして、まぁ金子で済ませる者もあらば、
身を持って供養する者もあり、何れが正しいということはない、
我が身でできることで良いのではないかと申しましたらば、
尼寺を存じおらぬかとの事にて、さて、拙僧も色々と寺は付き合いもござるが、
尼寺はのぉと申しました。

その折、何かを思いつめておる様子に見えたものだから、
あまり我が身を攻めるのではないぞと話しましたらば、
心も決まったのか、さわやかな顔で戻って行きもうした」

「左様でござったか、儂も少々案じられてこうして寄ってみたのだが、さようであったか」

「あまり深く想わず、お妙どのを信じてみるのもまたかと・・・・・」

「成る程人を信ずることか、それを儂は忘れるところでござった、いや忝(かたじけ)ない」
平蔵住職に礼を述べ役宅に向かった。

小名木川に架かる高橋を横切りながら、
(人を信ずる・・儂は手下(てか)は信じておるが、それ以外の者に、
はてどこまで信じられておろうか、儂が信じなきものは人も又信ずるはずもあるまい、
いやぁこいつを忘れるところであった。
妙の手向けた花を信じてみるのも悪くはない。

平蔵はやっと心の荷の降りた面持ちであった。

其の翌日、多津が女連れで再び平蔵にお目通りを願って参っておりますが
いかが取り計らいましょうや、と沢田小平次が取り次いできた。

「おお 二人連れとな!よしよし構わぬ、こちらへ通せ」

平蔵の顔は少し笑味(えみ)が伴っているように沢田は見て取った。

枝折り戸の向こうから軽やかな足音が聞こえ、
静に戸が開かれ多津の後ろに妙の姿が見て取れた。

平蔵は顔にも心にも安堵の色を浮かべながら手招きして中庭に誘(いざな)った。

「長谷川様!お妙ちゃんが戻ってくれまして、あたしは胸をなでおろしました、
ほらお妙ちゃん長谷川様がお妙ちゃんの事を随分ご心配くださったのよ」
と後ろに控えて恐れ入っている妙を引き出すように平蔵の前に押し出した。

「お妙!よう来てくれた、儂はあの時以来今日までそなたを信じてみようと思ぅてな、
こうして顔を見せてくれるのを待っておった」

「長谷川様・・・・・ご心配をいただきありがとうございました、
人はどう生きたのかではなくどのように生きるのか、それが大切なことと知りました」

「そうか、で どういたすことに決めたのだえ?」
平蔵はにこやかに妙を見やった。

「あたし、おかみさんにもっと芸事を習って芸者になろうと思います。
父上も母上もきっと許してくれると思うのです」

「そうか、根を張る居場所が見つかったのか、それもまた生きる道、
侍だけが人の道ではないからのぉ」

妙のこぼれくる笑顔は、今を盛りの桜の花にも似て輝きを持ち、誇らしげにさえ見えた。
昨夜の雨に花が散り、その中を一筋の流れに、まるで花筏のように寄り添って流れてゆく。

平蔵は、やっと安堵の色で眺めている。
「左馬が申したように、儂も残り後二年か・・・・・」

長谷川平蔵四十八歳の春の出来事であった。

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9月号  花筏千人同心 8-7

(むんっ!!)平蔵は粟田口国綱を周太郎の首に打ち下ろし、
周太郎は首は皮1枚残して前のめりに突っ伏して果てた。
平蔵 深くため息を残し血振りをして鞘に納め、両手を合わせ黙祷する。

浅草の番屋に寄り、事の始終を書き置き、番太に手附を渡し永久寺に託した。

「思い残しもあろう、無念でもあったろう、だが我らとて同じ立場に変わりはない、
常に行く手を迷いながら決断を下さねばならぬ、下された答えは常に正しいことだ。
ただ何れも誰にとってという違いが生じるだけだ、鬼も仏も表裏一対のもの、
心には夜叉も棲めば仏も在る。

我らが心がけなければならぬものは罪過(ざいか)を憎んでも人なりを憎まぬと言うことだ、
人を憎むは畜生道にも劣るからなぁ、どうにかしてやりたいがどうにもならぬ、
どうにも出来ぬ、こいつが無念でならぬわ」
平蔵はこの度の不条理をしみじみ思い知るのみであった。

菊川町の役宅に戻った長谷川平蔵、控えの筆頭与力佐嶋忠介にポツリと漏らした。

時は少し戻って、本所南割下水三笠町"さかえや"の女将多津は
長谷川平蔵から14になる娘を託される。

使いに立ったのは舟形の宗平
「よいな!くれぐれも本人にはこの儂の名前を教えてはならぬ」
と念を押されての使者である。

「なぁ"さかえや"の、わしもさほど多くの知り合いは持っちゃぁいないが、
こんなことを頼めるのはお前ぃさんだけだ、
どうか無理を承知で引き受けてやっちゃぁくれまいか?」

「何ですね宗平さん、長谷川様はお父っつあんもお世話になった大恩人、
その長谷川様のお頼みをお断りしちゃぁ、
あたしぁあの世でお父っつあんに顔向け出来やぁしないよ、おまかせな!
きっといい子に育てて見せるからさ」

と言うわけで、妙は本所南割り下水の小料理屋"さかえや"に預けられることになったのであった。
八王子千人同心小磯仙太郎は同心頭の使いで本所南割下水の関東代官屋敷に赴いていた。

この町でかつての同僚秋葉周太郎の一子妙を見かける
「おい!お妙ではないか?」

声をかけられた娘は驚いて思わず身構える。
「妙ではないか?違ぅたら許されよ父御は八王子千人同心の秋庭周太郎・・・ではないか?

「どうして父上の名を・・・・・」

「うむ やはりそうであったか、父御が密命で八王子を抜けられた当時まだ10かそこい
ら・・・だがそなたは母御に良う似ておる、いや驚いた」

「貴方様は?」
娘は男の言葉に驚きの気持ちを隠しながら尋ねた。

秋庭周太郎の上司千人頭山県助左衛門は己の配下の者が脱走したとなると
自身にも責務が及ぶことをおそれ、
秋庭周太郎に密命を帯びさせ八王子を出させたと報告していたのである。

「拙者は八王子千人同心小磯仙太郎、そなたとの住まいは違ぅておったが、
そなたが生まれる前からよう存じておる、
周太郎どのが火付盗賊の長谷川平蔵によって首を撃ち落とされた話は
八王子までも聞こえており驚いておった」

「えっ!?あの父上が火付盗賊の手によって打首!!」
妙は仰天して持っていた風呂敷包みを取り落としてしまった。

女将からことづかった仕立て物の入った風呂敷が、
昨夜の雨に倥(ぬか)った水溜りの泥を跳ねあげ無残に染まるのも忘れ、
呆然とした面持ちで小磯仙太郎の顔を凝視(みつ)めるばかりであった。

「ほぉ 知らなかったのか?拙者の聞きし所によれば左様に間違いないと思うがな」
小磯仙太郎は妙の狼狽振りを見て慌てたのかそう付け加えた。

(あの火付盗賊改方の長谷川平蔵の手にかかって・・・・・)
平蔵に対する憎悪の念は妙の心の中で増々大きくなり、
最早抑えるには術もないほどになってしまっていた。

こうして妙は日ごとに平蔵への憎しみを生きる力に変えて自分を御するのみであった。

「まぁ長谷川様お珍しい!」
"さかえや"の女将多津は平蔵の来店を喜んだ、
妙を預かって二年、14の子供も今では顔姿も大人び、
すっかり華を持った娘になっていたからである。

「あの子は今遣いに出してありまして、
おっつけ帰ってくると思いますがお会いなされますか?」

「儂の事は?」

「滅相も!宗八さんからくれぐれもとそりゃぁ・・・ふふふふふ」

「左様か、ならば会うこともあるまい、ちと様子を知りとぅてな、それだけのこと、
すまぬが頼む」

「何をおっしゃいますやら、あの子はとても気立てもよくって、
お馴染みさんにも可愛がってもらって、私も自慢の娘(こ)でございます」
と顔をほころばせるほどであった。

それからひと月あまりの刻が過ぎた、春先の雨が久しぶりに上がり、
市中も少しずつ華やいだ空気に包まれ始めた頃となった。

菊川町の役宅を出て伊豫橋を渡りつつ鶸(ひわ)茶色の小千谷紬の袖口に
五間堀の川風を通しながら平蔵、傘の陰から前をゆく若い娘を眺めるとはなく眺めていた。

菊川町の役宅を出てしばらくした頃、後ろからついて来る気配が気になっていた、
が 関わり無かったのか、その気配は先ほど平蔵を抜きさり、
そのまま北ノ橋方向に歩みを急かせていたとき、
丁度長桂寺に差し掛かったところで突然躓(つまず)いたのか転倒(ころげ)てしまった。
よほど転げ方が悪かったのか暫く立ち上がれない様子である。

「おい 大丈夫かえ?」
平蔵そばに寄り娘を抱え上げようと抱き起こした、
その刹那平蔵の胸に鋭い痛みが突き付けられた。

(うんっ?!)
「動かないで、動けばこのまま一突きにいたします、そのつもりで返答を!!」

「相わかった!」
平蔵はそう応え、短刀は胸につきつけられたままゆっくりと娘の体を引き剥がし顔を見た。
まだ十六・七の町娘である。

「そなたは?」
「お前に無残に斬り殺された元八王子千人同心秋庭周太郎が娘"妙"、
父の仇長谷川平蔵この好機は亡き父上のお引き合わせ、覚悟して返答なされませ!」

「そうか お前が妙か・・・・・・
あれから六年になるか・・・無理もない、苦労したであろうなぁ、
このまま儂を刺すも良かろう、
お前の父御を介錯いたしたのは確かにこの儂だからなぁ、儂を恨むも無理からぬ。

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花筏千人同心  8月号  6-4


中に一人真っ直ぐに前を向いた男が居た。


「お前ぇだな頭目(かしら)は!」


平蔵刀の鐺(こじり・刀の鞘の末端部分)で男の顔を押し上げた。


「へっ!!」


男は唾を床に吐きかけてこれを外す。


「ははぁ 貴様だな、名前ぐれぇはあるんだろう、なんてぇ名前ぇだ?」


「人に名前を聞くんなら、てめぇの名前ぇを名乗るのが普通じゃぁねんですかい?」


「ほほぉ大層な口を利くもんだ、よかろう、
儂は火附盗賊改方長谷川平蔵じゃ」


「ままままっ まさかあの鬼の平蔵・・・・・」


「おおさ!その鬼平よ、貴様の名前は何れ判る、
その小汚ぇ口はいつまでも噤(つぐ)んでいろ!
大勢の者たちを殺(あや)めてきたお前達だ、磔(はりつけ)は免れまいよ、

辛ぇそうだぜ磔はなぁ、槍や鉾で三十回も突き通されて
こいつぁどんな剛力も耐えたことはねぇそうだぜ、
その後三日の野晒だ、腹の空いた野良犬に喰われ、
カラスどもがお前の目ん玉繰り抜いたり、
なかなか地獄へも行かせてはもらえまいぜ、
まぁ名を残すにゃぁいい場所だ、ふぁははははは」


こうして盗賊甲州路の悪太郎“陣屋の藤兵衛”どもは
関東代官江川太郎左衛門英毅に引き渡された。


その後八王子千人同心に引き継がれ、これを江戸まで誤送することになった。


警護役は秋庭周太郎に命じられること無く、他の与力が名指された。


「何故私を警護役にご指名くださらないのでございます」


秋庭周太郎は上司千人頭山県助左衛門に詰め寄った。


「何故貴様ではないと?儂は此度の一件貴様に任せたばかりに、
かの極悪なる盗賊を捕らえることすら出来ず、儂は他の千人頭に大恥をかいた、
よりによって江戸表よりの盗賊改めに手柄を奪われ、それでも武田の遺児か、
八王子千人同心の名誉を著しく傷つけた罪は重い、
腹でも切ってご先祖様に詫びるが良い」


けんもほろろとはこのことであろうか・・・・・


その夜秋庭周太郎は意を決し


「儂は今夜ここを抜ける、これも皆あの江戸から来おった盗賊改めのせい!
あいつに手柄を奪われたがためにお頭様に腹でも切って詫びろとなじられた、
腹を切るぐらいならば他に生きる道もあろう、すぐさま支度いたせ」


こうして秋庭周太郎一家はその夜の内にひっそりと八王子から姿が消えた。


それから二年の時が流れ、流浪の疲れから母”きく”が病に倒れ
あまり時をまたず他界。


娘”妙”は十二歳になっていた。


人別帳もなくなり、非人に落ちた秋庭周太郎の暮らしは悲惨を極めた。


ただただ武田武士の誇りだけがから風に舞い、
その日の糊口を凌ぐのも絶えるほどになっていた。


「出かけてくる・・・・・・」


妙が聞いた父秋庭周太郎の最後の言葉であった。


妙は何日も帰らぬ父の姿を探し求め空風の吹きすさぶ江戸の町を徘徊したものの、
空腹と疲労でついに行き倒れとなってしまった。


体の温かさに気が付くと、妙は夜具に包まれていた。


身を起こしかけたがクラクラと眩暈(めまい)が生じ、再び気を失った。


どれくらいの刻が過ぎたのであろうか、周りの喧騒に目覚めた。


「おや気がついたのかい?良かった!ちょいと清さん重湯を持ってきておくれな!」


華やいだ声をぼんやりと霞む向こうに感じ身を固くした。


「いいんだよ!安心してお休み・・・・・」


優しい声が今度ははっきりと妙に聞き取れた。


「ここはどこですか?私はどうして此処へ・・・・・・」


「あんたがこの先で行き倒れになっていたのを見つけてここに運んで見えたのさ、
そんなことよりさぁ、これでも飲んでまずは体を元に戻さなきゃぁね」


と妙の体を支え起こして重湯を少しづつ飲ませてくれた。


薄明かりの中に妙の吐く息が白く消えて、
体の中に温かな血が流れてゆくのを感じている。


妙は暫くして体も回復し、この小料理屋”さかえや”の下働きをするようになった。


元気を取り戻した妙は寸暇を割いて父秋庭周太郎の姿を探し求めていた。


時は瞬く間に流れ、妙は十六になっていた。


父秋庭周太郎が家を出た、あれから四年が過ぎ去っていったのである。


火付盗賊改方長官長谷川平蔵、
この日は谷中を廻って南千住三ノ輪にある蕎麦屋”砂場蕎麦”に顔をのぞかせた。


江戸三大蕎麦と呼ばれる、更科蕎麦・藪蕎麦・そしてこの砂場蕎麦がそうであった。


元々は大坂城築城のさい和泉屋と言う菓子屋が蕎麦を始めたと言われている。


この時築城の砂を置いてあったところに店を構えた所から砂場という
名前がついたようで、のち徳川家康が江戸に居城を構える際江戸に呼ばれて移転、
糀町に”糀町砂屋藤吉”を構え、その後南千住に移ったものである。


甘めで濃い出汁がこの砂場蕎麦の特徴。


出前も多く、その為に時が経つと蕎麦がべたつく、
これを避けるためにはしっかりと水切りしなくてはならない、
ところが口にはいる頃には蕎麦に水気が残っておらず、
そのために濃いめの出汁にたっぷり付けて食べるところになんとも言えない
妙味がある。


ゆっくりと店を出た平蔵、公春院門前町から下谷通新町に抜け三ノ輪橋をまたぎ、
永久寺横、日本堤を降(くだ)っていた。


二丁(200メートル弱)を過ぎた頃から背後に何やら不穏な気配を感じ、
ゆらりと歩みを止め振り返る。


「んっ??!!」(何者・・・)


平蔵ゆっくりと土手を下りながら探りを入れてみる。


土手の上から駆け下りながら、抜刀した気配にわずか体を左に開き振り返った。


(ヤァっ!!)掛け声とともに大上段から刃風が平蔵を襲った。


平蔵とっさに左へ退き、切り込んできた男が空を切って泳ぐ背中を
ドンと突き放した。


よろめきながら刺客は刀を構え直し、今度は正眼に構え直した。


刺客は無言で平蔵を睨み据え、グイと前に進んだ。


「物盗りか!なるほど血に飢えた匂いが川風にさえ漂うておる」


平蔵じわりと足をさばいて左へと回りこむ。


こうすることで陽を背負うこととなり、相手はまともに陽晒しとなる。


やや足を擦りながら平蔵はゆっくりと左手を粟田口国綱の鯉口を握って
後ろに押しやり、右手でゆったりと刀を抜き正眼に構える。


(ううんっ?はてどこかで・・・)


直に顔正面に降り注ぐ日差しを振り切るように、
だっ!と踏み込んでまっすぐに刀を突いてきた。


平蔵半歩左を譲り、正眼を崩し、敵の太刀筋を左肩の上に受け流し、
振りぬきざま袈裟懸けに切り下ろした。


無論殺傷するつもりのない平蔵、僅かばかりに刺客の左肩をかすめて脇に抜いた。


(あっ!!)刺客は思わず声を漏らし、持った刀の左手が離れた。


着晒の一重の半着がざっくりと切り裂け、肩から脇へと血が噴き出してきた。


「おい!ちょっと待て!確かにその顔見覚えが・・・・・
ううんっ 待てよ確か八王子で一度会ぅた・・・・・」


「いかにも元八王子同心・・・・・長谷川平蔵命を貰い受ける!」


右手に刀を提げてゆらゆらと立ち上がってきた。


「待て待て!どうしてこの儂がそこ元に命を狙われねばならぬ、
その理由(わけ)を話せ!」


「貴様の出張りの所為(せい)で盗賊を召し捕れず、
その責務を全うできず俺はお払い箱の憂き目を見た、
この恨みのみでこれまで生きてきた、今日という今日はと想うたが・・・」


激痛に耐えながら秋庭周太郎はふらふらと平蔵に詰め寄ってくる。


「だからこの儂が憎いというのは心得違いではないか?
むしろ己の不徳のいたすところをよく考えて見ろ」


「問答無用!今の俺にとってはもうそのような事はどうでもよいのだ、
貴様さえこの世から葬ることが出来さえすれば、
おれは生きてきた甲斐があったと言うものだ」


「情けねぇ野郎だなぁ、人の恨みから何が生まれよう、
己の力を試す場所を間違ぅたがために盗人に落ちぶれて、
その不甲斐なさをすり替えるためにこの儂を引き出すかえ?
所詮屑はどこまで行っても屑でしかねぇなぁ!
悔しくば己の過去を断ち切って見せてはどうだ・・・・・
貴様の娘はあんなに良い娘に育っておるというに」


「何だと!なぜそれを知っておる」


「あの娘を儂が知り合いに預けておるからよ」


「何にぃ!そんなバカなはずはない」


「嘘だと思うなら逢ぅてみるが良いではないか?」


「娘は“さかえや”で下働きをしているはず」


「おお存じておったか!そうさ、
行き倒れになる所をその女将に預けたのはこの俺だ」


「そんな・・・・・・」


周太郎がっくりと両膝を付き刀を落とした。


「のぉ!これまで幾多の者を殺(あや)めて来た貴様だ、
最早逃れる術はあるまい、儂が介錯して遣わす、
潔(いさぎよ)う致すのも華と思うぜ」


草叢を一瞬の風が吹き抜け、野分がざわざわと駆け抜けてゆく。


秋庭周太郎刀を納め、その場に居ずまいを正し、
脇差しに平蔵が差し出す懐紙を巻き


「娘を頼む長谷川殿!」


一気に腹を掻き切った。


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