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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

鬼平罷り通る 10月号


どれほどだったかは覚えがないものの、然程でなかったことは確かである。
煮しめの得も言われない香りに
「おおっ─実に美味そうな─。見ればいずこも温泉気分で御座いますなぁ」
銕三郎、白出汁を吸って程よく色づいた鍋の中を覗き込む。
「銕三郎はん、後ろの水屋の真塗りのお鉢取っておくれやす」
と指図され、銕三郎水屋を開けて真塗りに中が金塗りの鉢を取り出し
「これでよろしいでしょうか?」
と向き直る、そこにはかすみが海老芋の煮付けを箸に挟み待ち構え
「銕三郎はん、はぃあ~~ん!」
と、自分も口を開けて促す。
突然の事で銕三郎驚いたそれに
「ほらぁ─あ~ん!」
先程よりもさらに大きな口を開けて箸を差し出すかすみの真顔に釣られ。
銕三郎おどけながらも小芋を口にする。
熱々小芋のとろろとした舌触りに、目を白黒させながら
(ほっほっほっ…ふぅふぅ)と口をもぐもぐ。
「美味しゅうどすか?」
にっこり笑って満足そうな顔は初々しい新妻のそれのよう。
「美味い!」
それは実に美味かった。
京野菜の持ち味というよりもかすみの気持ちが染み込んでいたからであろうか。
「ほんまどすか?」
口元をほころばせた笑顔に銕三郎、悪びれることもなく
「かすみどのの心がにじみ出てくるような深い味わいですよ」
と口を突いてでた。
「嬉しゅうおすえ」
初々しい恥じらいの表情を見せ、
いやいやをするその仕草に銕三郎思わず手に持っていた祝箸を取り落としそうになった。
(なんと言えば好いのだろう、心がときめくとはこのようなことを言うのであろうか)かすみのきらきら輝く瞳にぶつかると何もかも忘れてしまいそうになる自分に驚いている。
ひと通りの支度も済ませたかすみ、
「銕三郎はん、お鏡はんは、古老(ころ)柿(がき)は、外はにこにこ、中睦まじく云うて、外に二つ、中に六つ──。そいから三方(さんぼう)に裏白(うらじろ)乗せて、その上に四方(よほう)紅(べに)敷いてお鏡さん重ね、御幣(ごへい)を敷き、その上に橙(だいだい)載せますのや。これをお竈(くど)はんに飾りますのんえ、知っとおいやしたか?」
と三宝を前に。
「いやそれは知りませんでした。銕三郎、飾り物を添えつつ手際よくあしらうかすみの手元を眺めていると、
「銕三郎はんちびっと持っておくれやす」
と銕三郎にお飾りを預けると、竈(くど)の周りを掃き清め、手を清水で濯(すす)ぎ清め、竈(くど)に注連縄(しめなわ)を張り
「銕三郎はんおおきに!」
と、それを受取り飾り付ける。
そうして、もう一つの飾り付は三方の上に白米・熨斗(のし)鮑(あわび)・伊勢海老・勝栗・野)老(とろろ)・馬尾藻(ほ)んだわら)・橙を盛りつけた。
「やぁこれは食い積(つみ)ですね」
銕三郎(これなら俺も知っておる)とばかり先に口にした。
「あら!銕三郎はんとこはそない云いますのん?京(ここ)は蓬莱(ほうらい)飾り云いますのんえ、けったいなんやなぁ」
「へェ成程、さすが京は雅だなぁ、それに較べて江戸は武骨で土地柄が表れますね」鬢(びん)に手をやり情けなさそうにするそれへ
「出来た!銕三郎はんそれ持ってついて来ておくれやす」
と先に進み、部屋奥の神棚の前に立ち、パンパンと柏手を打ち、傍に置いてある踏み台を持って来、
「銕三郎はん!うち支えておくれやす」
と台に上り、銕三郎より棚飾りを受け取り、恐る恐ると背伸びする。
銕三郎あわててかすみの細い腰に手を添えて支える。
柔らかな腰の感触が手の内にしっとり感じられ、若い女性の柔肌の温もりが伝わって来た。
飾り終えて
「おおきに」
振り向こうとして、ゆらっと姿勢を崩し
「あかん!」
と叫び銕三郎の胸の中に倒れ込み、そのまま両腕を拡げ、銕三郎を包み込む、かすみの胸の膨らみが銕三郎の腕の中で大きく幾度も波打つのを感じる。
そのまま目を閉じ、顔を胸に埋めたまま時が止った。
どれ程の刻(とき)が過ぎたであろうか、かすみは恥じらいを包むようにうつむいたまま腕を解き、
「そや!銕三郎はん年越しそば食べなあかんなぁ、三十日(みそか)蕎麦いただきに行きまひょ。蕎麦は寶来いうて、塗椀の漆に貼り付ける金箔が作業場に散るのを三十日にそば粉撒いてそれを掃き集め、篩(ふるい)に懸けて集めたところから宝が来るて呼ぶのどすえ、可笑しゅうどすなぁ、これを幸せが細ぅ長ぅ続きますよう願ぅて戴くのどす」
屈託のない笑顔で銕三郎に微笑む。
「細く長くですか……そうありたいものですねぇ」
銕三郎しみじみとした面持ちでかすみに言葉を返す。
かすみ
「なぁ銕三郎はん、寶来頂いたあと、白朮(おけら)祭(さい)連れて行っとぉくれやすな」
銕三郎の藍色の袷の袖を引っぱり甘える目つきで仰ぎ見る。
おけら祭とは、八坂神社で毎年十二月二十八日に執り行われる鑽火式(さんかしき)・火鑽杵(ひきりきね)と火鑽臼(ひきりうす)で鑽(きり)出した御神火が本殿内の白朮(けら)灯籠に移される。
これを大晦日夜七時から始まる除夜祭の終焉後、境内三箇所にある白朮火授与所に設けられた灯籠に白朮火が移され、願い事を書いた白木の{をけら木}が元日早朝まで焚かれる。
これを竹で作られた吉兆縄(きっちょうなわ)(火縄)に移して持ち帰り、無病息災を願い神棚に上げたり雑煮を煮る火種にした。 
火種の白朮(おけら)は生薬として知られている植物で、この根を混ぜて燃やすために特有の匂いが立ち込める。正月の屠蘇散(とそさん)にも入っているあの匂いであり、吉兆縄は火縄作りで知られた三重の名張で作られている。
正月の支度も終え、戸締まりをした後、連れ添って近くの蕎麦屋に向かった。
祇園町の蕎麦屋寶(ほう)来(らい)に入ったかすみ
「おこんばんは蓬来二つくださいな」
と声をかける。

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鬼平まかり通る  9月号


「ほな鉄はん、お師匠はん、よいお年をお迎えとぉくれやす」
そのままかすみの傍に寄り、耳元へこちょこちょこと何やら……
「おちよのいけずぅ」
かすみ、ちよの背中をトンと衝いて襷(たすき)をかけた袖で顔を覆った。
遠ざかるちよの姿を目で送りつつ銕三郎
「ちよは何と云ったのですか?」
と言葉をかけるそれをかすみ
「かんにん」
とはぐらかせるように背中を見せる。
「何です!そのように……」
(もしや妙な気でも回したのかも知れないな)と、とっさに銕三郎感じ、(よし試してみるか)と、
「かすみどの耳朶(みみたぶ)が紅(あこ)うございますが、おちよが何かよからぬ事でも……」
と後を濁す。
「銕三郎はんのいけず、そないな事、うち照れくそて云えまへん」
かすみ、袖でかくした頬をさらに紅く染める。
「あっやはり怪しい!増々耳朶が──」
銕三郎ここぞと攻める。
「大嫌いゃ!」
かすみ、振り返りざま銕三郎の腕の中にしがみついて来た。
「おおっ!」
銕三郎これを両手でからくも受け止めた。
手にしていたほころびかけの梅の蕾が二つ三つ足元に散り、後にはそのまま二人の呼吸だけがゆっくりと流れていった。
台所に立ったかすみ、おせちの材料を取り出し、
「銕三郎はん薪持ってきてくれまへんか?」
と後ろを振り向く。
正月用の煮炊きをする薪は事始めの十三日に用意するものと聞き、整えておいた。
芸子であったかすみはこの事始めから正月が始まるのである。
「どっこいしょ!」
銕三郎竈(かまど)の傍にふた抱えほど積み重ねる。
「おおきに、ほなお鍋取っておくれやすな」
と、目で竈の横においてある方を指す。
銕三郎かすみの手元へそれを据えるその中へ、前夜から浸けておいた昆布出汁を入れ、手網こんにゃく・里芋・油揚・金時人参・牛蒡(ごぼう)を取りまとめて煮始める。
「お雑煮は白味噌仕立てどすのやねん、丸餅にお祝清白(すずしろ)(小振大根)・金時人参・里芋ぜんぶ丸ぅ切って、出来上がりに柚子の皮の角切りに三つ葉と糸かき(キハダマグロを糸状に削った削り節)を添えて──。銕三郎はんは頭芋(かしらいも)(殿芋)が入りますのや。
これ食べきらな、お重には手ぇ付けられしまへんえ」
と、こぶし大の親芋を指さした。
「ええっ!そんな大きいもの食べたら、それだけで満腹になってしまいますよ、私は江戸者、其処のところはご容赦を!」
銕三郎両手摺り合わせて懇願するも
「あかんえ!殿芋言ぅて殿方が召し上がらなあかんのどす。銕三郎はんには出世してもらわなあかんさかい」
と、つんと横を向いたものだ。
見れば見るほど憎たらしい大きな芋である。
「駄目でござるか?」
横目にかすみの横顔を盗み見るそれへ
「駄目ぇ、あかんえ」
と留めの一言
「ううっ 己!頭芋そこへ直れ!返り討ちに致してくれる」
銕三郎真顔で包丁を取り上げる。
「うっ うふふふふっ!おほほほほっ」
口元へ袖を当てて、かすみ、笑いをこらえるも、堪らず、とうとう吹き出してしまった。
銕三郎もつられ、
「わはははははっ」
と、久しぶりに屈託のない笑い声が部屋を包んだ。
「お節は五重に重ねますのや。壱の重はお祝い肴に口取り(甘いもの)数の子に田作り・黒豆・たたき牛蒡(ごぼう)に・栗きんとんですやろ、伊達巻はお好きどすか?それに昆布巻き。
弐の重は紅白なます・ちょろぎ・酢蓮根、それと菊花蕪を詰めますんえ。
参の重には焼き物ゆうて、海の幸の海老や鰤(ぶり)・鯛──」
それを聞きながら銕三郎
「まだあるのですか?」
とかすみの顔をしげしげ覗き込む。
「へぇまだまだ重ねな──。与の重には山の祝物、里芋ですやろ、それからくわいに蓮根・筍を配って五の重は年神はんの授かりもん入れますよって空っぽどす」
と銕三郎を見やる。
「やれやれ安心いたしました、これ以上出てきたら動きも鈍くなってしまい、年明けから冷や汗ものですよ」
首に手をやり、汗を拭く格好の銕三郎へ
「そやなぁ銕三郎はんのお狸はんは似合いまへんもんなぁ、うふふふふ」
「あっ 又そのうふふふは許せませぬぞ!」
「許せなければどうなさりはります?」
「う~む……おおそうだ!こちょこちょの刑にいたそう、ほれコチョコチョコチョ」
と銕三郎、かすみの身八つ口(脇の開いた部分)へ両手を差し伸ばす。
「いやぁんっ」
かすみ、身を捩(よじ)ってこれを避ける。
その拍子に銕三郎の指先がかすみの柔らかな膨らみを捕らえた。
「あっ!これはまた!」
銕三郎予期もしない出来事に顔を赤らめ手を引っ込める。
(コトン)と包丁がまな板に置かれ、いきなりかすみは向き直り、銕三郎の懐へ身を預ける。
白い項(うなじ)が朱(あけ)に染まり、耳朶(みみたぶ)も紅色に染め、恥じらう姿がそれを包み隠す。
黒髪に挿された珊瑚玉に目を留めつつ銕三郎目を閉じたその傍でクツクツと煮しめの煮える音が聞こえるばかりの昼下がりであった。

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鬼平まかり通る  8月号

それからふた月が瞬く間に過ぎて行く。
師走を迎え、二人の店は正月を迎える仕度に追われる日々が続いた。
梅、翠松、金明竹、水仙、千両、寒椿、葉牡丹、寒小菊などで、店に入って来る花材はあまり多くない。
特に枝物は女の手に少々もてあますが、銕三郎にかかれば他愛もなく切り分けられる。

「ほんまやわぁ、お師匠はんの云わはるとおりどすなぁ」
ちよはほれぼれする目付で銕三郎をみつめている。
「あかんあかん!あきまへんえそんな眼ぇで鉄はん見たらあかんえ」
半ば焼き餅混じりのかすみの語気にちよ
「へェーかんにんどすぇ」
ペロリと舌を出して銕三郎を見た。
赤の前垂れも初々しい小女である。
この頃になると、ちよも銕三郎にすっかり慣れ
「鉄はん鉄はん」
と向うから声がかかる。
まぁ大体そのような時は薪割りなど力仕事が待っていることが多いのだが、それも又銕三郎の役目でもある。
今日も朝餉のすむのを待っていたかの毎く
「鉄はん煤払い手伝うておくれやすな」
と、竹笹をかかえて軒下を指差す。
銕三郎これを受け取り、日頃積った埃や煤、蜘蛛の巣を払い除ける銕三郎の背をポンと叩いて
「おきばりやす!」
と笑顔がほころんでいる。
花街のお見世には、すでに二人で正月花を納め、三十日には松竹梅も床に生け、あとは元日を迎えるのみであった。
店に残った花は僅かばかりで、それらを柱に枝垂柳と、寒の白玉椿を添えて生け、こちらの仕度はほとんど終えた。
「おちよもご苦労はんどしたなぁ」
かすみはちよを労う茶の支度をはじめる。
「お師匠はんお節は作らはんの?」
と水を向けて来た。
普通なら二人で拵えるのであったが、今年は鉄はんが居るからであろう、気を回す。
「そやなぁ、おちよにもちょびっと手伝ぅてもろて、早いとこ年越し蕎麦いただいて──うふふ……」
かすみ何か含むところがあるのかぽっと耳朶(みみたぶ)を染めるのを素早く認めたちよ
「あっお師匠はん耳ぃ染めはって!何んぞええことでもあるんやの?鉄はん」
と宣以の反応を確めて来た。
あわてゝかすみ
「ちゃうちゃう!そんなもんあらへんえ」
と打消すものの、心の中は何かを期待して動揺する自分に気付かれまいと急ぎ立上り
「鉄はん注連縄(しめなわ)作り手伝うてくれまへんか」
と銕三郎を見上げた。
その姉さんかむりが銕三郎の抱えている水桶に一段と華やいで映った。
「そこにある根付き若松を取っておくれやすな、それから─ちびっと待っておくれやす」
と店奥に引込み、何やらかかえて戻って来、
「これを、右に男松左に女松を右が上になるよう半紙を巻き、水引で真結びに結びますのんや。
出来たわ!こっちのんは鉄はんのやさかい右の柱に結んでおくれやす。
うちんはこっち……嫌ゃあ右と左に泣き分れやぁ、あかん!なぁおちよ!」
半べそかく風にかすみ、おちよを振り返った。
「うち知りまへん!お好きにどないにでもしておくれやす、あほらしてやってられまへん!」
おちよ小さくペロリと舌を出して応えた。
「お師匠はん華なりどないしまひょ」
ちよ、枝垂柳の若枝をかすみに差し出した。
「そゃなぁ、今年はおちよと鉄はんと三人で飾ろうかいなぁ」
銕三郎の手隙を見てとったかすみ、おちよに言葉を返す。
「ほんまどすか?うわぁむっちゃん嬉しどす」
ちよは急いで台所に立ち、小さく丸めた紅白の小餅を抱えて来た。
「紅は鉄はんで白はお師匠はん、うちどないひょ」
意味深な目つきに並んで餅を飾りつけている二人を見やる。
「こん枝はおちよのもんや、これで三本仲よう出来るやおへんか」
と笑いかける。
「うち、間でいけずするのん嫌やさかい、はじっこでよろしゅうおすえ」
と微笑んで見せる。
「華飾りすんだし、あとはお節どすなぁ、うちもぼちぼち往(い)にますよって、鉄はんあとはよろしゅうおたのみしますぅ」
と前垂れを外し、表においてあった背負子をかつぎ、立上った。

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鬼平まかり通る  7月号


その問に男は油紙を敷いた上り框(かまち)に横たえられ、医者の着くのを待つ。
心配そうに周りをかこむ客に
「明日も早うおす、どうぞ休んどぉおくれやす」
と女将が客を追い払う。
暫くして先程のおしまが医者の手を取り、提灯を掲げて戻って来た。
怪我人をひと目視て、
「刀傷どすな、焼酎があればそれを、そいから箸を一本─気い失うかも知れへんけど我慢しおし、お侍はんどっしゃろ」
と待の切り裂かれた袷をぬがし、傷口を確め、よこされた焼酎を傷口に流し込む。
「ぐぇっ!」
よほど傷口に浸みるのであろうか、男は噛まされた箸を噛み砕き、そのまま気を失ってしまった。
一応開きかけていた傷口を縫い合わせ、手当を終え
「傷はかなり深いもんの、命には拘われへんやろ、ま今日は動かさんといて、多分熱も出て来るやろ、そん時はじゅうぶん冷すのんどすな」
と提灯を受取り戻って行った。
「いやぁどないしょう」
(これ以上関わり合ぅても何の得もない、できればこのまま外へでも放り出したい気持ちや)心のなかでそう想ったか、
「明日までおしまはん、面倒見てくれまへんやろか」
と女将、蝿のように両掌をすり合せる始末。
「仕方あらしまへん、うちが見てます」
と、おしまと呼ばれた女は云ってしまった。
男は一晩中呻き声を上げ、うわ言の様に言葉にならない言葉をもらし、医者の言った様に傷口が熱を持って来たのか、油汗が吹き出して来るのをおしま、休む問もなく冷水でぬぐい取り乍ら、夜通し看病を続けた。
朝方旅人も起きて来、朝の支度をすませ、朝餉を取ったあと出達の用意をして框に出て来、ほとんど気を失いかけている侍の傍に寄り、
「 まだ生きとるかいな?」
と声をかけて来た。
おしまはほとんど寝ずであった為、その声を遠くで聞いたように感じていた。
皆それぞれ声をかけて各々京の町へ散ってゆき、朝五つ(午前八時)頃、再び医者がやって来、包帯を取りかえる。
てぬぐいに水を浸し、軽くしぼってそれを当て、血糊をゆっくりと溶かし、晒を解く。
さすがに傷口は血糊がこびりついており、容易には剥がせない。
「辛抱しなはれ」
そう云いながら、少しずつ傷口に絡みついた晒しを解き、再び出血が始まるのへ蓬を揉んで汁を作り、それを傷口にたらし込む。
「ぎゃっ!!!」
悲鳴をあげて悶絶してしまった。
石灰を溶いて晒しに塗り、それを油紙で包み、これをあてがって晒しを裂いて肩口から腋へ、更に反対側の腋へ巻きつけ、その上から再び腕を固定させる為幾度も巻いた。
「とにかく血を止るこっとす、それから熱うなるさかい十分冷しとったらよぅおす」
医者はそれだけことづけて戻っていった。
女将はこの侍をどうしたものかと思案している模様で
「奉行所にお届けなだめやろぅか…」
「けど女将はん、相手んお人がいーひんのやさかい、どうにもなりまへんよ」
と、おしま(、、、)
「そやなぁ─。おしまはんあんた、こん人看といておくれやすな、お願いや、これこんとおり」
又もやおしまに両掌をすり合せる。(まるで夏場の蠅みたいや)おしまはそう想ったものの、このまま放り出す事もならず、思案にくれた末、
「女将はん、こんお人の気ぃつく迄うちあずからせてもらいます」
と云ってしまった。
それから駕籠を呼んで何んとか乗せ、囲りを縄で縛り、転げ出ないようにして、三条を渡って北に上がり、孫橋を渡った先の若竹町の長屋に連れ戻った。


空蝉


銕三郎はその翌日、訴えかける妻女久栄の眸(ひとみ)を振り切り、そのまま真直ぐ祇園に向い、事の一部始終をかすみに伝えた。
「銕三郎はん、お一人での探索はどうぞやめておくれやす、うち銕三郎はんに何ぞあったら心配でかないまへん、ほんまにほんまにお願いどすえ」
かすみは眸を潤ませて銕三郎の袖にすがる。
確かにこのままではいつ何刻あの刺客が再び襲って来るか判ったものではない。
銕三郎意を決し、かすみに
「のうかすみどの、私は町衆になろうと思うが如何でしょうか」
と、かすみの瞳に同意を求めるごとく見つめる。
かすみ驚きに眸(ひとみ)を見開いたまま
「銕三郎はんが髷(まげ)を落しはるんどすか?」
「いやそうではのぅて町人髷に変え、この辺りに住もうかと考えてみたのですが──。いけませぬか?」
「なら銕三郎はんも此処にいられますのんどすなぁ?そぅやったらいつでも一緒に居れますのんやなぁ」
とかすみ大きく澄んだ瞳を耀かせる。
「いえ、そう言う事ではなく、私の姿を消さねば、いつ何刻又あのように刺客に襲われるや知れません。やはり侍姿より町衆の方が何かにつけ溶け込み易いと想います」
と言葉を足す。
「ほんまどすか?そやったらかすみ、もんむっちゃ嬉しゅうおすえ、明日にでもお師匠はんにお願いしまひょ、御隠居はんが話し通してくれはりますよってに──。 そうやそうや二人して手分けすれば色んな事判りやすうおすえ」
かすみは浮き浮きと一人胸を弾ませている。
こうして翌日夕刻にはかすみの手で髷を町人髷に結いかえてもらい、建仁寺門前の建仁町通りにあるかすみの居する花屋「百花苑」の二階奥をとりあえずの宿とした。
この界隈の門前で寺社や詣(もう)出客に供養用の花を売り、祇園のお茶屋に花を生けて廻る商いがこの頃のかすみの本業であった。
こうして銕三郎は花を抱え、祇園一帯の花街を廻りながら、そこに出入りする口向役や禁裏附役に加え、ひそかに寄り合う武家伝奏や地下官人の動きを昼夜に亙り見張る事となった。
とは云うものの銕三郎は京言葉が話せない、そこで{口の訊けない鉄さん}と云うふれ込みで花篭を背負い、かすみの後ろに随い、先々の出入店で眼を光らせ耳をそばたたせ、彼らの動行を探る事となったのである。
無論この事は壬生の御隠居の力に他ならない。
かすみの店には、店番のちよが通って居、朝届く榊やしきび、草花を分別し、残った物は小把にまとめ一束十文(二百五十円)で売っていた。
草花は紺絣の半着に三幅前垂も同じ絣に手甲脚絆、白い腰巻に帯は縞物で頭に竹駕籠を載せ
「花いりまへんか」
と売り歩く白河女から仕入れたり、ちよが近くで取りそろえて持って来た。
ちよは南禅寺北ノ坊光雲寺近くの農家の娘で、毎朝採れ立ての野菜などを背負って来、それを夕餉の膳にこしらえてくれたものだ。
かすみはこれを銕三郎と二人で戴く事に嬉々としており、一日の終いを待ちこがれていた。
かすみより二ツ三ツ年下と想われるちよも(鉄さん)を気に入った様子で、
「お師匠はん、あん人はどないなお人どす?」
と興味深々の瞳でたずねる。
「ああ、鉄はんどすか?お師匠はんとこにおいでになったお方や、口訊(き)けへんけどええお人ぇ」
かすみわざと素っ気ない態度で応えるが、どうにも口元が緩む。
「へえよぅ解ります、せやけど、おかしなお人おすなあ」
ちょこっと小首を傾げてかすみを見上る。
「なんでやの?」
(何か感づかれたのかしらん…)少し眉根を寄せてかすみ。
「何んかこうお侍はんみたいなとこおすなぁ」
「そないなことあれへんえ、うちやちよが大荷物で難儀してるん知らはって、お師匠はんが付けてくれはったんえ」
どぎまぎとぎこちない返事も信じたのか
「なんやそうどしたんかいな、ほな力仕事頼めますなぁ」
ちよは何の疑いももたない様である。


こうして銕三郎はかすみと共に昼夜祇園界隈で見かけるようになっていた。

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鬼平まかり通る  6月号 





この翌日から
銕三郎は鳥海彦四郎の手控帳に記されていた禁裏附の周りや代官所の内情を探るべく昼夜を問わず駆け回って居、その為に家を空ける事も頻発するに至った。



「銕さま、本日もお出掛にございますので」



腰の物を捧げつつ妻女の久栄はうらめし気に夫を見上げる。



「久栄、父上をお助けするのが儂に出来るただひとつの孝行、それを(わきま)えてくれ」


銕三郎はそう言い残し足早に何処へか出掛けて行った。


「まだこの着物に女子の移り香が……」



久栄は衣文掛に懸かった長着を溜息吐きつつたゝみ込むしかなかった。



銕三郎、この日も祇園の()()にあった。



かすみ(、、、)どの、昨夜は如何でございましたか、何が変った事でもあれば只今から参りますが」



これが現在(いま)銕三郎の 主な仕事である。



この祇園界隈には口向役人や禁裏附役人も多々出没する為、漏れ来る物に耳をそばだてておればさまざまな物を知る事が出来るわけである。



それらに逐一耳を向けておれば内向きの事なども知る事が叶うのであり、その為のかすみ(、、、)達が在る。



太田正清の同心もこのようなところで(せい)(そく)を探っていたのであろうか。



かすみ(、、、)もこの鳥海彦四郎には拘わりないようで、町奉行所とは別の指図で動いていると銕三郎にも想われた。



銕三郎かすみ(、、、)と打合せを終え、隠密同心鳥海彦四郎の手控え帳に記されていた禁裏役・口向役の屋敷周りに探りを入れてみるのが日常となっていた。



この他にも、当時西国大名は六十八屋敷の内四十八屋敷を置き、代官やその他の武家屋敷は六十以上存在した。



探索とは云うものの、せいぜい遠目で馴染みの顔、官人や待の出入を見定めるのが精一杯である。



この日、いつもの様に白地の提灯を提げて役宅に戻る途中、この数日嫌な気配を感じながらも何事も無く役宅まで戻っていたのだが、()()を出て三条大橋を渡りかけた折、先程まで辺りを照していた月が雲間に隠され、周り全体を漆黒の闇が呑み込んだ。



急に重々しい空気が銕三郎をおし包む。



(何だこの重たさは、殺気にしては鋭さがない!妙な──) 銕三郎用心しながらゆっくりと橋半ばにさしかかった、突然背後にのしかかる重圧感に振り向き提灯をさし出したその一瞬、闇をも切り裂く様な鋭い太刀風に銕三郎よろけるようにかろうじて半歩退き、拍子に提灯を持つ手が挙がった。



その刹那、提灯は真っ二つに切り裂かれメラメラと燃えながら落下し、その傍に銕三郎の左袖がひらひらと落ちた。



銕三郎ためらう事なく粟田口国網の鯉口を切った。



一瞬の間もおかず己の背後に再び強い殺気を覚え、振り向きつつ一気に抜き胴を放つ。



「うっ」



一瞬ひくい声がもれたものの、その在りかを確める間もなく刺客の姿も先程の重々しい空気も朝の霧のごと消えていた。(何だこいつぁ──)



これ迄味わった事のない背筋が冷たく張り付く恐怖が甦って来、(恐ろしいまでに儂を圧し包んだあれは一体何であったのであろう) 満天の下ゆっくりと周りに気を放つも、手応えはまるでなく、左腕に絡みつく切り裂かれた袖が、夢・幻の出来事ではなかった事を教えているのみであった。



(まこと恐しい敵だ!気配すら残さず来て()ぬとは─)銕三郎真剣(ほんみ)を構えて初めて恐怖と云うものを味わった。



役宅に戻る迄気を抜く事はなかったものの、ついにあの覆い被さる重々しい殺気は微行(つい)て来なかった。



銕三郎の戻りを案じていた妻女久栄、夫の肩口から切り裂かれ、だらりと垂れ下っている袖を見、



「銕さまこれは何と致されました!」



わなわなと震えているその手をにぎり銕三郎



「久栄!儂も初めて恐しいと云う思いを致した。何ともすさまじき剣であった。



だが案ずるな、この儂とて高杉道場の龍虎と謳われておった、そう易々と討たれるものか……」



とは云うものの、己の所在が知れた今、次にこの妻子が狙われないと云う埋合わせはない。



 



その同じ頃、三条西木屋町高瀬川に沿った通りに面した商人宿の仲居女は、夜五つ(午後八時)の鐘が鳴り始めたので、捨鐘を聞いた所で入口の戸を閉めようと表に出た。道の向う、桜の(かたわら)に何かうごめく物をみとめ、(いぶか)り乍ら(ひとみ)を凝らして観ると、かすかに呻き声のような物音が聞えた。



月明りの下、どうやら人の気配らしき事に驚き、中にかけ込み



「誰かぁ!そとに何やいます!」



大声を上げた。



「何やおっきな声なんか出しいやって」



めんどくさそうに中から女将が出て来、女の指差す桜の袂にうずくまる物を視



「ぎゃあっ」



と大声をあげる。



宿の中からばらばらと人が出、中には火吹竹をひっつかんでいる者もある。



おそるおそる客の一人が近づいてみる、



「あっこりぁ大事だ、怪我してるみたいでっせ」



と叫び



「お前さん大丈夫でっか!」



と抱え起そうとした。



「ぐぅ!!」



呻き声がもれ、ぐったりと前のめりに倒れてしまった。



「とに角中に運んでおくれやす」



女将は舌打ちしつつ男衆に指図し、



「しょうがおへん、お医者はん呼びなはれ」



と先程の女を見る。


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鬼平罷り通る  5月号 壬生の隠居



「へぇお役に立てればよろしゅうおす」
主は銕三郎を部屋の外へと誘う。
玄関を前に銕三郎、先程より心に罹(かか)っていた事を口にしてみた。
「主どの、真に失礼とは存知ますれどお許しの程。
先程の御人はどのようなお方でござりましょうか?」
先に立っていた主人足を止め銕三郎を振り向き、
「あんお人は壬生のご隠居はんどす、これ以上はかんにん」
と、再び前(さき)に立ち、銕三郎を広玄関に案内した。
銕三郎、先程壬生の隠居から渡された紐の事が気になり、
その足で祇園へ取って返すべく足を向けた。
めざす揚屋狛のは祇園町薮ノ下、周りは軒も連なるように茶屋が立ち並び、
目の前は祇園社が控え、後ろは建仁寺とまさに祇園の目貫である。
厨子(つし)二階の緩やかな起(むく)り屋根に、仕舞いは一文字瓦で軒を整え、
表は紅殻格子(こうし)が美しく組まれている。
表は犬(いぬ)矢来(やらい)が組まれ、厨子には木瓜の虫籠窓が漆喰の白さに
囲まれ柔らかな面立ちを見せている。
この角を丸く収めた横窓は江戸で見ることはなく、銕三郎には珍しい眺めであった。
紅殻(から)はインドのベンガル地方から輸入された酸化鉄の出す赤色顔料、
赤土などに含まれる色素は備中岡山の吹屋村で作られ、
また木材などには防腐剤としても多用され、石州瓦や器物などの赤褐色はこの紅殻による。
(京という街はどこまで行っても雅なもの──江戸の荒々しさとは比べるべくもない。
あはははは、東男に京女かぁふふふふ)ふと先日のかすみの柳腰に
チラと覗く引き締まった小股の白さが思い浮かぶ。
隣は仕舞屋(しもたや)(店じまいした店)があり、今は町家になっているようで、
人の出入りもなく静けさの中、侘びた風情を見せていた。
銕三郎云われた通り、あないの者に紐を見せると
「どうぞ」
と先立って厨子(つし)二階へと銕三郎を導いた。
「お見えになりはりました。ほなよろしゅうに」
とそのまま襖の前に銕三郎を残し立去ってしまった。
(何と…) 銕三郎少々戸惑いを覚えつつ
「御免を仕る」
と襖を開いた。
「あっ!」
銕三郎の眸(ひとみ)が大きく見開かれ、あっけにとられた口はそのままに、
その部屋の奥を凝視したまま釘づけになった。
虫籠窓から入る光を背に、匂やかな女性(にょしょう)の丸い肩が飛び込んできた。
「うふふ……」
「か・か・かすみどのが又──」
銕三郎双眸(そうめ)を見開いたまま、
想定外の景色を受け入れがたく呆(ほう)けたようにそれをみつめる。
「銕三郎はん、お待ちいたしとりましたぇ」
利休鼠の大島紬に楓で染めた薄色目に桔梗・白菊・女郎花など秋草を織り込んだ
袋帯の上に茜珊瑚色の帯揚げで身を包んだかすみが座していた。
「いや又、何故どうしてここにかすみどのが……」
銕三郎、辺りをきょろきょろ見回すものの、当のかすみ以外人の気配もなく
狐につままれた面持ちの顔
「可笑しゅうどすか?」
袖を口元に運び、悪戯っぽい瞳で迎える。
「いや驚きました、まさかこの様な処で」
(壬生の隠居は儂のお護りだと言われたが、まさかそれが女性、
それもあのかすみみどの……。悪ふざけとも想えぬものの、
はは─なんとも驚くやら嬉しいやら)そんな顔で見つめた。
「うち、先に云いましたえ、祇園で茶酌みしてたて」
この謀(はかりごと)に見事嵌(は)まって鳩が豆鉄砲食らったような銕三郎の顔を、
目元もほころばせてかすみが見やる。
「んっ確かに、ですが─。壬生のご隠居様とは?又六角堂の専純様は……」
この繋がりからかすみは結びつかなかったからであろう。
「へえ、うちはご隠居はんとお師匠はんの眼と耳の一人どす」
「一人─と云う事は他にも…」
(もしや父上が申されて居られた奥の院への入り口となるのか)
と言う疑念が脳裏の片隅に朧(おぼろ)げながらも浮かんだ。
「そらぎょうさんおいでます」
ちらっと上目遣いにかすみ銕三郎の顔を盗み見るように
「ですが、御隠居様は今後私の目と耳にと申されましたが」
「へぇ、そない云いつかりましたぇ、なあ銕三郎はん、
こん紐のことお知りになられへんのやろう」
「はい確かに、見せれば判ると申されましたので」
(まさかこのかすみどのがそうであろうはずもなかろう、
喩え花界に身を置いていたとしても、とてもそのような形には見えない)からだ。
「そうやろなぁ、これは結び紐云ぅて、結び方や色により色々に意味があるんどすぇ」
「何んと、そこまで裏があるとは」
銕三郎、京と云う町の表と裏、本音と建前の奥深さを初めて思い知らされたのである。
「これはうちのもんどす」
そう云ってかすみ、七分の血赤珊瑚玉簪を抜いて銕三郎の前に差し出した。
紅く燃え立つ珊瑚玉のそこには兎の陰刻(かげぼり)がほどこされてあった。
「これは?」
「これはうちの証しどす、うちらだけに判る標(しるし)どすえ」
「へぇこのようなものにも一つ一つ意味があるのですか」
銕三郎しげしげと珊瑚玉とかすみの顔を見比べる。
「いやそれにしても美しい……」
銕三郎まじまじと眺めつつ思わず口を突いてしまった。
「いやぁほんまに?うちほんまに綺麗?」
かすみ、牡丹の花の一気に開くが如き笑顔をほころばせ、銕三郎の顔を凝視した。
「えっ?……。はいこの珊瑚玉と帯揚げの色目がかすみどのによう似合ぅて──」
代わる代わる両者を見つめる銕三郎
「珊瑚玉?帯揚げ?──。ンもう!銕三郎はんのいけず!!」
拳で銕三郎の肩をトンと打ち据え、横を向いてしまった。
「ああああっ!これはしたり、いやぁかすみどのはそれにもましてお美しい──」
慌てて取り繕うも後の祭りであった。
「んもう知りまへん!」
横を向いたまま口元を真一文字に結び、目を閉じて完全に無視の体
(こいつは困った!はてさて女子と小人は養いがたしというが、
おなごは難しいものだ、どうにかこの場を収めねば…)
頭を抱えつつ……(おお!そうだこの手があった)と銕三郎
「いやぁ又そ"かすみどののすねた横顔、なんとも美しい!しばし見取れてしまいます」
これはまぁほとんど本心であった。
それ程かすみの横顔は虫籠窓から差し込む暖かな日差しに、顔の輪郭が縁取られ、
半日陰にうなじの白さが浮き上がって見え、
ふわりと産毛が陽光に透けて艶めかしさを覚えた。
「またうちをかまされますのやろ?」
プンとふくれたままかすみ
「かます?何ですそれは?」
「んもう銕三郎はんのいけず!!うちをからこうておられますのやろ!」
「違う違うそれは違います、まことそう思うたからそう申しました」
少々冷や汗ものではあるものの、正直な気持ちである。
「ほんま!うちほんまにかいらし?」
弾けそうに顔をほころばせ、大きな瞳を開けて銕三郎に飛びついてきた。
「まままっ真でございます!」
銕三郎、かすみの柔らかな肉体(からだ)の感触と肌のぬくもりを受け止めつつ
引き離そうとするそれに
「こんまま…こんままで……」
かすみの指先に力が籠る。
白く抜けたうなじのあたりから、かすかに誰が袖の白梅香がこぼれる。
「色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(古近和歌集)
そこは静かに穏やかなひと刻(とき)が流れる。


こうして銕三郎、新しい探索の第一歩をふみ出す事となったのである。
この日役宅に戻り、父宣雄に報告に上った。この一部始終の報告を聞いた宣雄、
「太田殿より白足袋者について伺ぅた、彼らは常に白足袋を用いておる者達の事、
言うならば陰翳(かげ)の者とも云える。
我らが江戸表より申しつかった口向役に妙な動きがあるゆえ、
心して探索(さぐる)様との下知であったが、京とはおかしなところ、
我らの立入れぬものがある。
地下官人や武家(ぶけ)伝奏(でんそう)が禁裏附と深い係わりを持っておるが、
この辺りがどうしても我らには入り込めぬそうな。
その入口こそこの白足袋者の持ちしもの、どうやらその壬生の御隠居、
よほど上のお方やも知れぬぞ。六角堂の当主は仙洞御所に出入りする力を持っておると聞く。
それ程のお方がお前の後ろに附いたとなれば、
これはまさに百万の味方を得たのも同じ。だが銕!先の太田殿の隠密同心殺害の一件もある、
せいぜい心して当たらねばならぬぞ」


 

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鬼平罷り通る 4月号 再会



深く頭を下げ帰宅した。
銕三郎の高揚した面持を、妻女の久栄差料を受けつつ
「銕さま何ぞ良い事でもおありになられましたので?」
さぐる目つきで見上げた。
「んっ ああいや大した事ではない、六角堂の住職に招かれたゆえ出掛けたまで」銕三郎、外着をくつろげる普段着の袖へ通しながら…
「それより父上はまだお戻りにはならぬか?」
「はい本日はまだお戻りにはなられておりませぬ、何か急ぎの御用でも?」
訝りそうな妻女の眼差しを背に銕三郎
「いやさほどの事ではないが、明日より儂も父上の助役として忙しゅうなるやも知れぬ、その事に関し、父上の判断をいただかねばならぬ」
銕三郎本日の出来事をかいつまんで久栄に聞かせた。
そうこうしている内に父宣雄が戻って来た。
「父上お戻りになられましたか、ところであちらの方に妙な動きはまだ?」
宣雄は立ったまましばし目をとじた後、
「我ら町奉行では歯が立たぬ相手だと太田殿が申しておられたそうだが」
宣雄は苦々しそうに宙をみつめた。
「その事で父上にお話しいたしたき事がございます」
銕三郎これまでの経緯(いきさつ)をくわしく話し、今後の取るべき指図を仰いだ。
「六角堂の主か──。銕!こいつは想わぬ道が開けるやも知れぬな」
信雄の顔に少し安堵の色が浮んだ事に銕三郎胸をなでおろした心地であった。


翌日の昼七つ(午後四時)、銕三郎は身形を整え、壬生村の日下部家を訪れたていた。
主人の案内で通された奥座敷の前、で主は居ずまいを正し
「おこしにおます」
と中に声をかけ、静かに襖を開く、そこは明り取りの雪見障子より漏れる光と、わずかに一本の灯明があるのみので、人の気配すら感じない程の静寂感に銕三郎(はて──)と下げていた頭(かしら)を上げた。
相対主は床の間を背に居、銕三郎に
「どうぞ」
と中に入る様促す。
銕三郎再度低頭し、
「御無礼を仕ります」
と両刀を控える主人に預け、中に進んだ。
襖が静かに閉ざされ、立去る足音ひとつ聞えてこない。
「よぉお見えで─」
低く重味の加わった静かな口調であった。
銕三郎思わず身体に震えを覚えた。言葉と声から放たれた威厳とでも呼べる抗いきれない力である。
「ははっ──」
銕三郎身の引き締まるのを覚えつつ胆気で腹にぐっと力を込める。
「あんたはん、六角はんから会わせたい云われたお人どすか」
恐る恐る顔を上げた銕三郎の双眸(そうめ)の奥底を読み取るかのごとき眼光に、銕三郎脂汗がじっとりと吹き出すのを覚える。(武家などから受ける高圧的な重みではない、この腹の底までものしかかるような威圧感、これが京という物なのか─それにしても恐ろしいほどの威厳だ)
それはほんの一瞬であったろうが、銕三郎には身体が金縛りにでもなった風で、長き刻のごとく想われた。それを破るように
「あんたはん、六角はんからの言付、見てへんのどすか?」
銕三郎やっとこの明るさに眼も慣れ、正面に座している人物の風貌が視てとれた。
すでに七十近くと想われる白髪を、そのまま肩辺りで揃え、縹(はなだ)色(いろ)(淡い藍色)の表に裏は白のお召・同色の羽織、金糸を織り込んだ西陣綴帯に手の込んだ象嵌造(ぞうがんづく)りの真(しん)塗(ぬり)脇差の拵(こしら)えで紫の座蒲団に座していた。
實(まこと)に穏やかそうな人物である、が─銕三郎を瞶(みつい)める眸(ひとみ)の笑っていない事を銕三郎素早く読み取った。
「はい、結び文は一度開けば決して元通りには結べません、しかも専純様よりのお言伝ならば尚更にも」
と低頭して応える。
「ならよろしゅうおす、祇園の狛(、、)の(、)を訪ねなはれ、そこでこれを見せとぉくれやす、あとはあちらはんがええようにしてくれはります」
と云い乍ら懐から懐紙に包んだ物を銕三郎の前に置いた。
「これは?」
縹(はなだ)色の紐を結んだ物のようで、銕三郎は初めて目にする物であった。
「まぁあんたはんのお護りどすな」
「私のお守り?」
「そうどす、何んかの時役に立つやろ、これからあんたはんの眼と耳になりますやろ」
と、銕三郎の反応を味うかのように、先程とは打って変った穏やかな面差しである。
「ははっ真にかたじけのうござります」
 銕三郎低頭して応えた。
少しして襖の外から
「よろしゅうございますやろか」
と声がかかり、襖がすべる様に開き、先程のこの家の主人が控えている。
「真にご雑作をおかけいたしました」
銕三郎あらためて挨拶をのべた。

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鬼平罷り通る  3月号 京入り

臍石

「ところで専純様、途中の柳は芽吹けばさぞや見事でございましようね」
と、すでにすっかり裸枝となっていた姿から最前の後ろ姿を想いつつかすみの方へ目を移す。
「おお!お目に留まったんどすなぁ、あん柳は嵯峨天皇はんが、身も心も美しおな子はんを嫁はんにしたいゆうて願わはったとこ、夢枕に六角堂ん柳ん下に行けと云うお告げがあり、そこに参ったら美しおな子はんがおいはって、それを后になされはったんやそうどす。そやさかい縁結びん柳ぃて呼ぶようになったんや。長谷川はんもどうどす?まだお独りやったらあの柳の二本の枝を重ね合せ、おみくじを結ばはったら願いが届きますえ。尤も長谷川はんは男子ぶりもよろしいさかい、もう居らはるやろうけどなあかすみはん」
専純の言葉にかすみ(少し頬を朱らめ、柳のあった山門の方を見やる。
「ところで長谷川はん、父御はんのお勤めはどないなもんでございまひょか─」
専純、銕三郎の心の奥底を見透かす眼差しで正視した。
銕三郎この専純にじっと瞶められ、嘘は通じないと悟り、
「はい、父はこの度西町奉行として参りました」
「で、あんたはんは何をされてるんどすか?」
「私は父の命で禁裏附賄方とロ向役人による宮中の汚職探索をいたております。が、京の都は江戸と違い、我ら江戸者に踏み込めないところがございます」
銕三郎、この京へ上って以頼頭を悩ませている事を素直に専純に語った。
銕三郎の切り出した
「口向役人による宮中の汚職──」
と云った時、銕三郎、一瞬それまで柔和であった専純の両眼が引き締ったのを見逃さなかった。
「ほほぅどないな所やろうか─」
専純さらりと柔和な顔に戻り、銕三郎の応えを待つた。
「何しろ本音と建前がございますようで、内に入りたくも容(い)れていただけません。
したがい真の事を探るにもその手立てがございません」
と苦笑いを漏らした。
銕三郎の話しを聴きつつ専純
「あんたはんはどないしょうと思うておいやすのんや?」
探る風に手にした花を見つめいる。
「私は口向役人の不正矯奢(贅沢)はお上のご威光を笠に着た行いであり、それが真ならば断じて見逃せません。まこと武士の恥と心得ております。これは私の父長谷川宣雄とて同じにございます」
ときっぱりとした口調で言い切つた。
「さようどすか──」
専純少し間を置き、
「長谷川はん、ちびっと待っといておくれやす」
そう断わり
「かすみはん、すまんけど紙と筆持って来てくれまへんやろか」
と、かすみに声をかける。
暫くしてかすみが筆と墨を磨りおろした硯を教机に乗せ運んで来た。
「お師匠はんこれでよろしゅうございますのん」
と専純に手渡す。
「おおきに、長谷川はん!ちびっとお待ちおくれやす」
専純筆をとり、何やらこまかな認めを書き、それをこまかく折り重ね、結び文に仕立て
「長谷川はん、これは昨日のささやかなお礼ん気持どす、受取っておくれやす、お役所の近くにおます壬生村の日下部はんに渡しておくれやす。
後の事は、日下部はんがええように計ろぅてくれはりますやろ」
おだやかな微笑みを口元に浮べ銕三郎の怪訝そうな顔をたのしむかの様に見る専純。
昨日のあの悪戯っぽい笑顔に安心したのか
「専純様その壬生村の日下部様はどのようなお方でございますか?」
銕三郎は恐る恐る専純の顔を覗うように見た。
「そうどすなぁ、壬生村の主みたいなもんどす、お行きになりはったらよう判りますやろ」
専純すでにその先の成り行きを見定めているかのごとく相好を崩す。
「それは真にかたじけのう存じます」
銕三郎その結び文を押し戴き、懐紙にはさんで納め、かすみの運んで来た茶をすすり乍ら、
「かすみ殿は、もう此処は長いのでございますか?」
何やら探りを入れる風の銕三郎の目線を受け流し、訊ねられた意味に少しの間戸惑いつつ
「うちはお師匠はんの下で五年程になります。それまでは祇園の近くでお茶酌みしてました。ある日お師匠はんが草花を摘みに粟田の方へお来しやして、花篭に入れるぶぶ(水)をうちにお求めならはって、それからうちもお花生けとうなり、お弟子に加えて頂きましたんえ」
「然様でしたか─」
「何んかおかしゅうどすか?」
クリクリと眸を耀かせて銕三郎の顔をのぞき込む。
「あっいえ別にそのぉ……」
銕三郎、若い女性にまじまじと見つめられどぎまぎする己におどろいた。
しばしの何気ない話の後、(いつまでもお邪魔するのもどうかなぁ…この辺りで御暇すれば、又お伺いする口実も見つけられるやも知れぬ)と、
「あまり長話はお体に障りましょうほどに、本日はこの辺りでお暇を─」
と立ち掛るそれに
「いつでもおこしおくれやす」
と告げる専純の言葉に深く礼を述べ、かすみに送られて山門に向った。
かすみ(、、、)はほころぶような笑顔を見せて、中ほどに見える大きな枝垂桜を指差し、
「あれが御幸桜どすえ、春ともなるとそら美しゅう咲くのどすえ、お武家はんは気付かへんかったかもしれまへんが、この左の東門の方に京のおへそがありますのんえ」
少々悪戯っぽく銕三郎の顔を伺う。
「へそ?あのぉ腹のまん中にある臍、拙者にもかすみ殿にもある臍…でございますか?」
あまりにまじめな顔の銕三郎の言葉にかすみ、思わず口を覆って笑いをこらえる。
その仕草を観て銕三郎
「これは失礼な事を申しましたようで、お許し下されかすみ殿」
頭を掻き掻き苦笑いするそれを観
「まっ!お武家はんはほんにまっ正直なお方どすな」
と再び口を手で覆い(クククッ)と笑う。
「ところでその臍が何か?」
「へぇ、この左手東門の傍に京のお臍がありますのや、見とおくれやすな」
そう云いながらかすみは銕三郎を誘い、その一角を指差した。
観ると六角形の石の真中に穴があいている。
「やっ、まことこれが京の都のお臍で……」
銕三郎おもわずしげしげとながめるのを、かすみは笑いながら
「こん石は桓武天皇はんが京に遷都されはりましたおり、道のまん中に六角はんが座っとられたさかい、天皇はんの勅使のお方が六角はんへ遷座のお祈りばしはりましたら、いきなり五丈(十五米)ばかり北へ退かはりましたんえ、そん時こん石だけとり残されて。それからずっとここに居てはりますんえ、可愛しゅうおすやろ」
と袖を口に当てて銕三郎の応えを待つ。
「然様な事が、いや実に愉快にございますな。御上に遠慮なされ六角堂が場所をゆずられるとは──実に実にあははは……ああついでながらかすみ殿、そのお武家様はお止めいただきませんか」
「まあ、ほんなら何とお呼びすればええのどすやろ」
「はい拙者幼名を銕三郎と申しますゆえその方がうれしゅうございます」
「てつさぶろうはん……でございますの…うふふ…」
「可笑しゅうございますか?」
「いえ、決してそないな事やおへん、何んやこう……うふふっ」
かすみはふくみ笑いを袖に隠し銕三郎をふりかえった。十一月の空はさわやかにどこまでも碧く続いていた。
銕三郎戻る方角も同じなので、早速壬生村の壬生寺傍にあると聞いた郷士の日下部家を訪ねた。
玄関で案内を請い、出迎えた若党に
「拙者長谷川銕三郎と申します、頂法寺住職専純様より文を言付かって参りし者、主殿に御取次願いたし」と口上を述べる。
若党、銕三郎より結び文を受け取り
「へぇ、少々お待ちを」
腰をかがめた後奥に引込み、すぐ身形りもそれと判る初老の男が出て来
「よろしゅうございます、なんとぞ明日もういっぺんお越し願えませんやろか」
と正座し、両掌を膝に置き、銕三郎の人品骨柄を見透かすまなざしで応えた。
銕三郎身の引き締まる威圧感を覚えながら
「はい、しからば明日この刻限に参上仕ります」

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鬼平まかり通る  2月号

初代池坊専好立華図

専純、さも楽しげに声をあげて笑う。
「おうそうじゃ!三条小鍛冶と云うたら東洞院を西に入った辺りに棲まいおったとかも聞きおよんでおりますがな。最も今跡もないようにききますがの…」
「おお然様にございましたか、これは又よい事をお教え頂きました」
そんな話しをしている間に駕籠は白壁に囲まれた烏丸六角堂前に着いた。
これを見届けて銕三郎、駕籠から専純を抱え出し、再び背負い、山門をくぐって本堂前に下ろし
「まずはお医師にこの傷をお見せになられてお手当を─。ではこれにて拙者ご無礼つかまります」
と軽く一礼し、何やら物言いたげなかすみに
「お師匠さまを何卒よしなに」
と会釈する。
「あの……お武家はん!少しの間でもお立ち寄りおくれやす」
と、かすみが云うのへ専純
「ああ長谷川はん、それよりも又お立寄りをお待ち申しとりますさかい、今日はこれにておおきにどした」
と、深々と会釈した。
西町御役所屋敷へ戻りついた銕三郎
「久栄、本日は面白い御仁に遇うたぞ、何でも六角堂住職とか申されたな、それと確かかすみ殿と云うたかなあ若い女子だ」
と、妻女久栄の反応を楽しむ如く見下ろした。
「銕さま若い女子でございますか──」
腰の物を袖で受け取りつつ、うらめし気に銕三郎の瞳を瞶(みつ)める。
これを観た銕三郎
「これはしたり、気を回すではない、ご住職の第子とか言っておられたが」
安堵の色を浮べる妻女の背を見やり(やれやれ)と苦笑いを浮べる。
翌日は身形(みなり)を整え月代(さかやき)にも刃物をあて、小ざっぱりとした衣服に替える銕三郎に
「銕さま、本日は又何処(どこ)ぞにお出掛なされますので」
久栄、腰の物を捧げつつ銕三郎を見上げる。
「うん、何な、ちと昨日の住職の怪我も気になるので……」
「さようにございますか、このところ毎日どこぞにお出掛のご様子─」
と怨めしげな眼で見上げた。
(やれやれ)と内心思いつつも
「これも父上の手助けに多少なれともと思うての事、堪(こら)えよ」
「理解っております、判っておりますが、銕さま、しのび香はほどほどになさりませ」
と、釘を刺す。銕三郎これを聞き流し、
「行って参る」
そそくさと屋敷を出る。
御役所を出た銕三郎、そのまま南へ下り、十八年前山脇東洋が初めて人体解剖を行ったと言われる六角獄舎横の六角通りへ進み、堀川を越えて丹波篠山、青山下野守忠高屋敷を左手に真っ直ぐ東へ進んだ。
烏間通りから六角通りを東に入ると山門があり、その奥に六角堂が控えている。
烏丸は川原(かわら)洲(す)際(ま)が源で、応仁の乱当時は鴨川から流れていた烏丸川の洲であったところから付けられている。
銕三郎、山門をまたぎ、あざやかに色づいて実を染める公孫樹の下を掃き清めている小坊主に
「拙者長谷川銕三郎と申す、御住職様はおられるかな」
と案内(あない)を請うた。
「ちびっと待っとぉくれやす」
と小坊主かけ出して行き、暫くすると昨日のかすみが小走りに駆け出て来、
「これはお武家さま、昨日はまことありがとうおました。おかげさまでお師匠様も今日はもう歩けるようにならはりましたえ」
と顔をほころばせて銕三郎に輝く眸(ひとみ)を向け
「お師匠はんも心待ちになされとられたんどすえ」
そい言い、小腰を屈め奥へと誘う。
地に達する程に枝垂れる柳を見つつ銕三郎、かすみの後について行く、その後ろ姿は二十前後であろうか、柳もかくあらんと想わす細い腰に丸味を帯びた下肢を包んで青鼠色の地に小菊の白くあしらわれた友禅の裾が小さく乱れ、小股が白く覗く。
専純は本堂奥の道場に居、周りには数名の弟子とおぼしき男女の姿があった。
銕三郎の姿を認めるや
「おゝ長谷川はんようおいでましたなぁ」
と、手を休め笑顔で銕三郎を招き入れる。
「専純様!お怪我の方はもうよろしいので?」
傷の治りを気遣いつつ銕三郎近寄り、誘われるまま縁側に腰を落とす。
専純、傷をかばっているのか正座を避け、少しなげめに片足を伸し
「おかげはんでこれこの通り、お医師はんも、傷ん手当を心得とるお人のようや、仲々んもんにおすな、云うとぉくれやして、血も止り、傷の中も洗うてあり、わしの出る幕はあらしまへんなぁ云われたんや。あはははは。
これもみぃんな長谷川はんのおかげどすなぁ、のぉかすみはん」
と身をのり出して来る。

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鬼平まかり通る 新年号  京入り

 六角堂

銕三郎そう声をかけつつ近づき、ゆっくりとかかえ起してみる。
「 んんっ!」
思わずもらす声は傷の痛みのものの様で、他の手足を触ってみるもそれには反応(こたえ)ないのを視、とりあえず骨には何の心配もないと想われたので、
「ご老人!まずは私の背におつかまり下さい」
と背を向けた。
(さてどうしたものかと、迷いの間の後)
「ご厄介をおかけします」
と宣以の背に手を回すものの、折り取った小枝を離そうとはしない。
銕三郎、小笹や榊を掴みながら、ひとまず老人を背負って上までよじ登って来、そのまま手水鉢脇まで運び、老人を五角形の縁石に腰かけさせ、傷口に入り込んだ土砂を、竜吐水を柄杓にすくい洗い流し、
「少々荒うございますが何卒御辛抱願います」
と、傍に生えている蓬(よもぎ)の葉を女性(にょしょう)に集めるよう指図し、
「少々滲みますがご辛抱を」
銕三郎、手近に生えている小指ほどの小笹を手折り、老人のロにおし込む。
女性によって集められた蓬の葉を手でもみしごき、汁を作り、
「まことすみませぬがこの傷口に水をかけ懐紙に吸わせては下さいませぬか」
と指図。
少々水をかけたぐらいでは、滑り落ちて傷口に入った泥は取れるわけもない。
その傷口を更に押し広げつつ水を流し込んで洗い出す、かなりの荒療治である。
水によって除けられた傷口に素早く懐紙を被せ、水分を吸収させる、そこへ即座に蓬のしぼり汁を流し込む。
「ううっ──むっ!」
老人は小笹が音を立てて割れる程歯を喰いしばった。
「相すみませぬ手荒いやり方で」
銕三郎、それでもなお汁を垂らし込み、蓬の絞ったものを傷口に充てがい、笹の葉を添えて懐から出した手拭を三つに引き裂き、下から巻き上げ、最後にきっちりと手ぬぐいの端に折込み止血とした。
慣れた手つきの様子に
「とんだ御雑作おかけいたしましたな、それにしても……」
と、手をすすぐ銕三郎に老人は声をかけた。
「 あはははは…手慣れておるのにあきれたご様子で」
銕三郎あとをついだ。
「いやこれは一本取られましたな」
老人は顔をしかめつつも明るい声をあげて笑った。
「ほんに一時(いっとき)はどないになるか心配おいやしたんやけど、ほんまにおおきにどすえ」
付き添いと想われる女性が銕三郎に深々と会釈した。
銕三郎少々テレ気味に老人の方へ背を向け
「とりあえず拙者の背に─。祗園まで下れば駕籠もおりましょう程に、さっ!ご遠慮なされますな」
とうながす。少しの間ののちに
「……ではお言葉に甘えまひょ」
と、素直に銕三郎の肩に両手をかけた。
銕三郎の大刀を女性は両袖に預かり、背負子(しょいこ)に入れていた草篭の中に、先程老人が握りしめてい梅嫌の枝を入れてもらい、二人の後ろから従(つ)いて来た。
「ところでお武家はんはお江戸から?」
と、背の老人が声をかける。
「あっこれは!」
銕三郎あわてて首を後ろにひねり乍ら、
「ご推察通り江戸より参りました。拙者長谷川銕三郎と申します」
「いやいやこうして背に負われての名乗りもけったいなもんやけど、申しおくれました拙僧、鳥間六角堂紫雲山頂法寺住職小野専純と申し、これは内弟子にてかすみと云いますのや」
「先にお礼も云いまへんで御無礼おいやした」
かすみと呼ばれた女性は少し恥かし気にうつむいて、小首を垂れた。
「いえいえあのような折、名乗る暇もござりませんでしたから…。先程かすみどのがお師匠様と確か──」
「おお耳にとまりましたか、拙僧池坊と申します立華師どす」
「ああなるほど然様でございましたか」
銕三郎先程の光景を思い出してしまった。
それを感じたのか専純、
「いやお恥しき事なれど、花は足で生けると申しましてな、自からの眼ぇで選び取りしその草木の姿に、おのが心を述べ写し、一瓶の虚上に森羅万象、深山幽谷を顕わしますのんや」
蓬の傷口にしみるのも暫し忘れたかのように饒舌になる。
銕三郎説明を聞いても何が何やら見当もつかないことばかり。
「然様でございますか、拙者無骨者ゆえどうもそちらの方はからっきし、ですが御住職!先程の様な危ない事はお控えなされませぬと、かすみ(殿がお困りのご様子で」
背後に付いてくるかすみの心中を察しての言葉
「さようでおますな、そやけど…」
と一瞬口ごもるそれを感じて銕三郎
「あのような物が眼に映ると…でごいますか?」
「あはははは……もう手が先に出るもんの足の方が…いやまるっきりお恥しい!」
「さようにおますえお師匠はん、かすみは戻ったら専弘様 に又おしかりをこうむりますよってにかんにんやゎ」
「えっ?又と云う事は?」
銕三郎苦笑気味にかすみの方を見やる。
「やれやれかすみはん、わてはそこつ者んと思われてしもた、あははは」
そんなおしゃべりをしているうちに祇園近くに辿り着いた。
「おお!駕籠もおりますねぇ」
銕三郎、専純を背負うたまま駕籠やに
「すまぬが烏間六角堂までやってくれ」
と専純を下ろし駕籠に乗せ、かすみより
「真にお預け致したまゝ申しわけもござりません」
と大刀を受け取り、腰に手挟み、駕籠かきに 一朱を握らせた。
酒手をはずまれた駕籠かき、愛想もよくかけ声と共に一路烏間に向ったものだ。
垂れをあげたままの恰合で専純
「ところで長谷川はん、お聞きしますんやけど、これは年寄りの知りたがりぃの病いと思わはっておくれやす、長谷川はんは何の御用で京へ?……」
この溌剌とした若者に興味津々の顔である。
「はい、親父殿のお伴にてついてまいりましたが、拙者は格別の用もなく、京と申しますれば、この親父殿より賜りました粟田口国網の生まれし処を一目見たく、又世に名工と詠われし三条小鍛冶宗近も粟田の傍と聞き及び──」
「ははは─。それで出遇ぅたわけで、人ん出遇いは面白うございますなぁ」

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鬼まかり通る  11号  京入り 粟田口




粟田口



 



銕三郎は此度京へ上る中、大きな目的があった。



鎌倉時代、この京の東山北西端には銕三郎が将軍御目見の祝いとして
父宣雄より譲り受けた差し料(あわ)田口(たぐち)(くに)(つな)を打った名刀工、山城国住人
林藤六左近将監の粟田口派が、かつて存ったからである。


最も粟田口派は将軍家お抱え刀工の為、
この刀は将軍家以外の者が手にする事はなかった。

(したが)い、平蔵の差料も無名の粟田口に国綱の銘を打った物ともいわれており、
それを知っての上だから気軽に手挟み使ったと想われる。
 



この日、銕三郎は西町御役所を出、長さ六十一間(約百米)幅三間(約五米)
の三条大橋を渡り南へ折れ、縄手通りからひとまず建仁寺を目指した。



俵屋宗達の風神雷神図屏風が納められていると聞いていたからである。



この屏風、京の豪商打它公軌(うだきんのり)(糸屋十右衛門)が建仁寺派の妙光寺再興記念に
俵屋宗達に依頼制作し、納めた物が妙光寺より寄贈された物であると聞き
およんでいた。
さほど深い感心があった理由わけではないが、(まあ京の土産話しの一つにでも)


といった軽い気持ちである。



これを拝観し終え、一路足は粟田口鍛冶町粟田神社に向いた。



この粟田口、古清水と呼ばれる粟田口作兵衛や色絵付けの野々村仁清で
知られた粟田口焼の窯元が隆盛を極めていた事もあり、その頃は帯山窯・
錦光山窯も名乗りを上げ、粟田焼と呼ばれるに至っていた。



享和二年(一八〇二)(南総里見八犬伝)の著者滝沢馬琴(曲亭馬琴)
もここを訪れ



「京都の陶は粟田口よろし、清水はおとれり」



と旅行手記羇旅漫録(きりょまんろく)の中の巻八十四に記している。



佛光寺の辺りは三篠小鍛冶信濃守粟田藤四郎の一派が栄えた処でもあり、
その後、粟田口一派が大いに栄えた。この跡なりとも見、
古を偲んでみたいと思ったのであった。



銕三郎は、宝暦四年(一七五四)山脇東洋が日本初の腑分(ふわけ)けを行い、
この五年後、解剖図録「蔵志」を刊行した六角通りにある六角獄舎から
粟田口へ向かい、これを更に(さかのぼ)り、千本松の方へ上がってゆく。



そこには蹴上(けあげ)と言う所があり、粟田口刑場に向かう際、
罪人が進むことを拒むため役人が蹴りながら進んだと言われている話を、
粟田口を尋ねた建仁寺の門前茶店で聞かされていた。



「なんとも京と言う町はいにしえの名の(いわ)れ多き所よ、
髑髏(どくろ)(まち)なぞよくぞ呼んだものだ、江戸じゃぁこうはゆくまいよ」



京都絵図を眺めつつ、妻女久栄に語ったものだ。



建仁寺を拝した後、(きびす)(ひろがえ)し、粟田口鍛冶町の粟田天王宮を訪れた
ここの社には天下五剣の一つ、三条小鍛冶宗近の名刀三日月(むね)(ちか)や、
山城の國住人粟田口吉光作の名刀一期(いちご)
一振(ひとふり)藤四郎が奉納されている。



東山三十六峰の裾に当たるこの地に鎮座する粟田天王宮は、
周りを鬱蒼と繁った森に囲まれ、常盤(ときわ)()はすっかり落ち着きを見せ、
紅葉や黄葉樹は色どりを増し、逝く時季を惜しみつつも静かな佇まいを
見せている。



社殿詣でを終え、山辺の戻り道を辿りつつ、社の出口近くにさしかかった時、
若い女性(にょしょう)がおろおろしている姿を認め、怪訝に思った
銕三郎



「いかがなさいましたか?」



と近寄る。



その女、相手が京言葉ではないことに少しためらった後



「お師匠はんがここから──」



と女、不安げな面持ちで薄暗い藪の中を覗き込む。



「何んとした!」



銕三郎急ぎ藪の中を覗き込んで、何やらうずくまった人の気配に



「やっこれはいけません」



あわてゝ腰の物を抜き、



「まことにすまぬがこれを預かってはくださらぬか?」



と両刀を女性に預け、銕三郎、そろそろと藪の中をかき分けつつ下って行った。



藪の中ほど、少し平らになったところへ老人が倒れて居、
見れば(かるさん)が裂け、血のようなものも浮いて観える。



「ご老人気を確かに!」



そう大声をかけると、何やらぼそぼそ声で手を上げてみせる、
そこには薄闇にも見事なまっ赤に紅葉した(うめ)(もどき)の枝が握りしめられていた。



そのまるで童のような無邪気な面持ちが、
見れば六十を回っていると見える容姿に銕三郎、思わずにが笑い。



それを受止めたのか老人も照れかけたものの、傷の痛みに思わず低く



「ううっ!」



と声を漏らした。



「あっそのままそのまま!」



銕三郎そう声をかけつつ近づき、ゆっくりとかかえ起してみる。



「 んんっ!」



思わずもらす声は傷の痛みのものの様で、他の手足を触ってみるも
それには反応(こたえ)ないのを視、とりあえず骨には何の心配もないと想われたので、


「ご老人!まずは私の背におつかまり下さい」

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鬼平まかり通る 10月号  京入り


「おゝお引受下さるか──。真(まこと)かたじけのうござる」
太田正清は銕三郎の後ろに控える筆頭与力の方へ目を送り、安堵した面持ちになった。


京入


長谷川平蔵宣雄は少し遅れた十一月十一日東海道を銕三郎妻女久栄や嫡男辰蔵に         
与力・同心に小女・小者など少人数をともない馬で入り、粟田口蹴上(けあげ)に着いた。
出迎えを受けたのは、京都町奉行目付方与力一向。
「これは長谷川様、遠路はるばるお勤めご苦労に存じまする」

「これはまた、ご丁寧なるお出迎え痛み入ります」
馬上より下馬した宣雄、出迎えた面々に軽く頭を下げ、ゆっくりと見回す。

慇懃ではあるものの、その奥に冷ややかな物を感じ取った宣雄、さらりと受けて流し,
迎えの乗り物に銕三郎妻女久栄と嫡男辰蔵を乗せ、一路西町御役所へと向かった。

東町御役所(奉行所)は西町御役所の直ぐ傍、押小路通大宮西入る神泉苑西隣にあった。
此処は元々五味備前守屋敷蹟に建てられた物。
東町奉行酒井丹波守忠高へ新任到着の挨拶に上り、後、西御役所(町奉行所)に入った。
旅仕度を解く問も惜しみ宣雄、引継の経過を銕三郎より受ける。

「父上、長旅ご苦労様にございました。太田様よりお引き継ぎいたしましたる事の中、
くれぐれもと申されたものにございます」
と大田正清より託された手控え帳を差し出した。

銕三郎の差し出す手控帳を読み進める険しい宣雄の顔を一瞬で見取り
「父上早速なれど余程の事と想われます」
と、過日太田正清から受取ったおりの事を、つぶさに語った。

「銕!心して聞け、この手控に記されておる事は他言無用と心得よ、
してこの者は只今いかように──」
宣雄、当時者の手控帳がここにある事を訝(いぶか)しく感じたようで、
銕三郎の応えを待った。

「殺られました…」

「何と!」
驚きと共に(それ程事は根深い物になっていたのか…)
宣雄、手控帳を手にしたまましばし宙を見た。

「かなりの遣い手のようで、応ずる間もなく真っ向から一太刀だったそうにございます」
その時物の割れる音がし、部屋の外、
廊下で茶を捧げて来た久栄が、聞えて来た話しに驚き、碗を落とした模様であった。
その音にこちらでも驚いて襖を開いたそこに、
蒼ざめた顔の妻女久栄がぶるぶると震えていた。

「やっこれはしたり、驚かせてすまなかった」
奥から舅(しゅうと)、宣雄の労わる声を背に、
銕三郎が飛び散った碗の欠片(かけら)を拾い集め、
懐紙に茶を吸わせている久栄の手を取り、
「案ずるな、案ずる事はない」
と気を落ち着かせるベく中に入れた。

「義父(ちち)上様、こたびの御勤めは然程にあぶなき物にございますので…」
舅(しゅうと)の目を見上げたまま、今だ少し震える声で尋ねる。

「案ずる事はない、よいか久栄!そちは辰蔵が事を守ってくれればよい、
後の事は儂と父上にまかせておけ。よいな」

「銕さま……」
久栄は不安な面持ちを隠せない


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鬼平まかり通る  9月号  上京




この夕刻、二人は揃って菊川町の役宅へ戻ってきた。
銕三郎には妻女久栄が、生まれて間もない嫡男(ちゃくなん)辰蔵を抱えて出迎えた。

「お義父(ちち)上様お戻りなされませ。銕さまお戻りなされませ」
と出迎えた後、二人の後を奥へと従う。
宣雄は両刀を刀掛けに預け、侍女の運び込んだ衣服に着替え、
床前に座し、脇息(きゅうそく)に左腕を預けた。

「お義父(ちち)上様、御老中松平様より書状が届いております」
と書院棚の手文庫から一通の文を取り出し宣雄に手渡す。

「御老中から?はて何であろう……」
言いつつ宣雄それを開く。
読み進める父宣雄の顔に緊張の色が走る。

「父上!一体どのような!御老中様からいかなる事が」
銕三郎、顔相の変わってゆく様子にいたたまれないのか、
読み終えるのを待てず言葉を発した。

「銕、心して聞け!筆頭御老中松平越智武元(たけちか)様よりの、直々の御沙汰じゃ」
老中首座松平越智武元は上野館林・陸奥棚倉城主で、田沼意次とは協力関係にあり、
この長谷川平蔵宣雄も、嫡男銕三郎(後の鬼平と呼ばれる長谷川平蔵宣以)も
共にこの松平武元と田沼意次には目をかけられている。

「よいか銕!儂は急ぎ京へ参らねばならぬ事と相成った。
御老中よりのお達しでは、今 京において御所賄方(まかないかた)や
口(くち)向(むき)(経理・総務)を治める禁裏附(きんりつき)に不正流用の疑いがもたれ、
これを証さねばならぬ。

何しろ相手は御所の御用を司る立場、並の事では済まぬであろう、
今からすでに気が重い」
宣雄、銕三郎の顔を覗き込むように肩を落として見やる。

「父上!よりによって京とは。又如何様なる理由(わけ)でございましょうか?
口向とはどのようなお役目で、又いずこのお方がお勤めなされますので」
銕三郎、老中よりの密命をおびた父の並々ならない覚悟の言葉に、
何かを感じ取ってのことのようである。
「うむ、口(こう)向役(げやく)とは朝廷の地下官人(じげかんじん)で、
朝廷の出仕を云い、これを監理する為に江戸より禁裏附役が出仕いたしておる。
このあたりに不正ありと言うことだな」
宣雄、顔を曇らせたのは、京都西町奉行への下知を賜って後、知ったばかりの話。
それ以上の詳しいことはつかめていない様子であった。

「何とかようなところにそのような。ですが父上、
京には他に東町も所司代もござりましょうに」
(何で我らが京都くんだりまで出向しなければならぬのだ?)
と言わんばかりに銕三郎の顔へ書いてあるそれを読み取り、

「それよ、その辺りがな!朝廷に関る金子は所司代より支払われる。
この辺りに何やらうごめく者有りとの事だ。
つまりあちらでは袖の下が馴れ合いになってしまっているという事であろう。
それを東西合わせても与力二十騎と同心五十名で京の都を取り纏めるのだ、
並のことではないと想われる」

「何と面妖な……。ところで父上、私と久栄や辰蔵と共に
久助はお連れになられますので?」
押し包むようなこの一件をどう納得すればよいのか混乱の中銕三郎、
宣雄の反応を確かめる。

「銕よ、おそらくは長くて三年と想われるゆえ、そなた親子共々出向ということになろう」
「えっ!で、久助はお連れになりませんので?」
この中間の久助、宣雄の元から勤め上げている忠義者である。

(ふむ、まさかお前の義妹の面倒を見させねばならぬゆえ、
供に加えられぬとは言えまい、さてさて)宣雄一呼吸おき、
「其処だ銕よ、この屋敷の者も目白の組屋敷へ移らねばならぬ。
従いここを護る者がおらぬことになる。そこでだ、久助を残してゆこうと思う」

「はぁ──、然様で」
釈然とはしないものの、父宣雄の決めたことである。そのまま飲み込み
「で、出立はいつ頃と」

「早いほうが良かろう、儂は後々のこともあり、
諸事万端為し終えてと言う事になろうほどに、お前は先に京へ参じ、
引き継ぎの方を預かってはくれぬか」

「えっ!私どもが先に京へ?それにしてもそれなりに支度というものもございますが」
半ば慌てながら銕三郎

「そこだがな銕、お前一人まずは出立いたせ。
ことは急を要するゆえな。後から儂らも出向く、案ずることはない、
妻子(これら)の事は儂に任せておけ」
宣雄の、この件はこれで落着という顔に銕三郎、
半ば諦めの顔で見上げたものであった。


時は明和九年(安永元年・一七七二)九月二十日。
銕三郎は父宣雄より一足先に京へ前入りを果たす為出立したのである。

日本橋から京の三条大橋迄、東海道は五十三次回りで百二十六里六町一間
(四九二キロ)役務引継・居住所等整える為でもあり、少し早めの旅立ちであった。
この時長谷川平蔵宣以(のぶため)二十五歳である。

京の入り口、三条大橋から千本通押小路を入った千本東角の西御役所
(西町奉行所)に着いたのはその十五日後である。
一日おうよそ三十三キロ歩くことになるが、
これは当時平均身長百五十五センチの日本人の速さであるから驚く。

銕三郎、夕刻には京に入る事が出来。
早速西御役所の太田備中守正清へ着任の挨拶に出向き、
残留している与力等から多々引き継ぎの用件を済ませた。

「太田様、ただ一つ用心いたす事なぞあらばお教え願えませんでしょうか」
銕三郎、太田正清を見上げた。

「うむ然様にござろうな─」
太田正清、ちらと控えている筆頭与力の方に眼を配り、
与力が僅かに小首をそのままに、眼を瞬(またた)かせた。
「よろしかろう──」

太田正清机に向き直り、控えの与力に
「長谷川殿にお見せいたせ」
と小さく指図した。

「暫くお待ちを──」
そう云って席を離れ、やがて一綴りの控帳を銕三郎に差し出した。

「これは?」

銕三郎はこれを受取り、目を走らせながら
(何を申し送りたいのであろうか)と、太田正清の真意を読み解こうとした。
数枚めくったところで銕三郎、そこに何か重さを感じたのである。

太田正清が
「それはふた月前に殺害されましたる江戸表より連れて参りし
身共(みども)の配下、隠密廻り同心が残せし手控帳にござる」

ゆっくりと銕三郎の方へ振り向き、膝に両手を揃え
「お頼み申す長谷川殿。何としてもこ奴の無念をはらして下され」
膝の上の拳が小刻みに震えているのを銕三郎じっと視

(これは余程のことのようだ、しかも他言をはばかられるような物)
「この長谷川平蔵宣以!確かにお引き継ぎ致しまする」
と応えた。

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鬼平まかり通る  8月号 雀の森最終章




それで商家か町家の者か、あるいは夜鷹なぞ下賤(げせん)の者かも判じえよう。



髪の(こしら)え、持ち物・挿し物でもこれらを見分けることが出来る。
着付け一つでも自ら着たるものか、あるいは後で着せられたものかも
お前ならば判るであろう?」



(げっ!その眼差し──こいつぁまずい風向きになって来おったぞ、
さてどう返事をすればよいのやら、とほほほ)



「あっ!はぁまぁその何とか見分けほどは……」



「わははは…。まぁよいわ、悪さも程々に致せよ。
それから(おもて)の見立てだ。
まずは顔色、形相は目を開けておるかどうかで他殺・
自殺も判じることが出来るからな」



「えっ!それだけで自殺か他殺か判りますので?」



「そうだ、それどころか瞳や歯舌からも判じることになろう。
鼻腔内に薬物を押し込むることもあるからな。



特に鬢内(びんうち)(頭・髪の内部)にても疎かに致さぬことだ。
通天・心中・盆の窪も見逃しやすいゆえ重ねて検視致せ。
ここに錆びたる寸鉄を打ち込めば血も流れぬと言われておるからな」



「ええっ!!真そのようなことが──」



「うむ、錆のゆえにすぐさま血も固まると言われておる」



「加えて総身の肉色に変わりあらば殺害の後、
いかほどの刻が流れたかも判じることができよう。
だがこいつは季節で大いに変わる、そのところも勘案致さねばならぬ」



「では此度(こたび)の者は、秋口なればさほどの刻が過ぎておらぬと?」



「恐らくなぁ、身なりからも夜鷹(ひめ)とは考えられぬ、
従い、何処かで事を為し、ここまで引き連れし後絞殺し、
息を吹き返すことも恐れてか、孕み児もろとも掻き切ったと想わねばなるまい」



「何と(むご)いことを──」



「人を殺めようなぞと想う者の心には、最早仏は住しておらぬ、
無用の気遣いだ。このような場合、まずは知らせた者に疑いがかかる」



宣雄そう言いつつ木場の松三を見上げた。



「げえっ!」



松三あまりの言葉に飛び上がって尻餅をつく。



「あははははは、と言う事だがな、この度はお前の仕業ではなかろう」



その言葉を聞いて松三、大きなため息を三度も漏らした。



「ああ驚いた、小便ちびってしまいそうなほどで…」



と、己の股間を掴み、確かめる始末。



「悪い悪い!だがな、通常ならばまず疑われるのが初に通告した者だ。
それはどのような細工でも出来る立場に居るからだ。



だがお前はその様子から、履物も汚れてはおらぬし、
股引(ももひき)鯉口(こいぐち)(下着)も汚れなく、髪・半纏(はんてん)にも何らの疑いもなし。
更にその顔だ!望診と言うてな、行いは顔に出るという。
望診・触診ともに大事で、特に顔相は大事の一つだ」



なかば反応を楽しむかのように宣雄、にやにやと松三の表情を
見やったものであった。



「酷ぇなぁさ…あっしぁてっきり御用かと肝が縮みやした」



と、今だ冷や汗が流れてくる様子。



そこへ町奉行の者が番太に伴われやって来た。



「おうおう、ご苦労であったなぁ、駆けつけいっぱいと言うから、
出し殻茶でも飲んでまずは休め。
ところで御役所よりのお出ましご苦労にござる。
身共火付盗賊改長谷川平蔵と申す」



腰を上げ、右脇においた刀を帯に手挟(たばさ)みながら奉行所の役人を観た。



「これはまた丁重なるご挨拶を頂戴いたしいたみいります。
身共は、南町奉行所与力岡野省吾にござります、
何卒お見知りおきのほどお願い申し上げます。



所で長谷川様、番太の知らせでは殺しのよし」



そこに置かれた骸を見やりながら平蔵の顔を再び凝視する。



「うむ、そこの者より番屋に知らせがあり、
居合わせた儂がまずは立会い、ここまで運ばせた」



と、手短にこれまでの経緯(いきさつ)を語り、己自身の検視結果も
残(あま)すところ無く話し終えて後、
「お手前も検視なさるであろうが、これはあくまで
身共の推量にござるゆえ……。
所で犯人は恐らく侍であろうと想われる」



言いつつ松三の顔を見る。



「えっ!侍にございますか?」



口を開いたのは銕三郎



「おおそうだ、この切り口は絞め殺した後に切り裂きしもの、
しかも切り口があまりに見事すぎる。生半可な柄物ではこうは切れぬ。
しかも経絡を心得たものとも見て取れる」



「それはまた……」



今度は岡野省吾



「ああ、普通ならば首を絞めるおり両手で手前から締め上げる。
だがその場合したたかに暴れられるものだ。
だがその様子はあの場所ではみられなかった。



すなわち此奴は恐らく経絡(けいらく)を存じおるものであろう。



経絡を存じおらば、喉仏を押しつぶせば息を奪われる。
その後首奥に手を添え、首筋の後ろを同時に締め上げれば血の流れも止まり、
即座に命を奪える。締めた後というは尋常ならば肉叢(ししむら)の切り口は
外へめくれるもの、だがこの切り口はさほどの開きを見せておらぬ、
ということは、そこ元、岡野どのと申されたな、
切り口を抑えてみられよ、如何かな?」



「はい、何やら水のようなる物が滲み出てまいりました」



「そうであろう?通常ならば切り口から残血が出てくるが習いなれど、
すでに絶命しておったるゆえ、出血は止まっており、皮・肉とも
そのように内に巻いておる。



先程も確かめさせたが、喉の上に死斑が視て取れる。
こいつぁ並の者には判らぬ所だからな。
少なくとも其処な木場の松三でないことだけはこの儂が受け合う」



このとき大きなため息が漏れてきた。無論松三のものである。



こうしてこの事件は無事町方へ引き渡し、
平蔵親子は再び越中島の橋を渡り大島町から松平下総守下屋敷前の
大島橋を中島町へ過ぎ越し、相川町・熊井町と進んで
佐賀町の永代橋袂にたどり着いた。



 


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鬼平まかり通る  7月号  雀の森



「よく視ろ!下顎(したあご)の近くに何かないかもう一度よっく確かめろ!
些細なことも見逃すではない」
厳しい宣雄の声が飛んできた。

(先程から視ているのに何をさらに改めろとは親父殿も……)
思いつつ銕三郎、女の首筋を手指で持ち上げてみる。
(あっ!─これは)親指大の斑紋が診て取れた。
「ここに指の跡のような……でもなぜ」

「良い良い、首の後を検分いたせ」
もう宣雄には犯行の一部始終が読めている様子ですらある。

銕三郎、女の体を抱え起こし、うなじを確かめる、
そこへも指の痕と思しきどす黒い斑紋が残されていた。
「確かに指痕と思しきものが」

「やはり在ったか」
宣雄は確信を持ったように言葉を吐いた。

「父上!一体何が起きましたので?」
これまでの一連の所業を顧みながら銕三郎、
まだつながりが見えていない様子に

「銕三郎、お前はこの腹の傷をどう見た?」
探るような鋭い眸(ひとみ)で銕三郎を見やる。

「傷?刀傷にございましょう?」
「そうだ!だがこいつは傷口が開いておらぬ、
故に締められて殺害されたる後に辻斬りと見せかけて
腹を切り裂いたと見たほうが良かろう、こいつぁ勒死(ろくし・絞殺)だ」

「何と……」
銕三郎、父宣雄の見識の深さをまざまざと思い知らされたものであった。

「爪を検(あらた)めてみろ」
再び宣雄の言葉が続く。

銕三郎、女の手を取り、よく観察する。
「中指や小指に何かが残っております、これは?」

「恐らく苦し紛れに引っ掻いたのであろうよ、
殺った奴は恐らく顔か腕のあたりにその傷を受けておろう」

「はぁ……そこまで」
銕三郎ため息混じりに松三の方へ振り返る。

松三ポカンと口を半開きに立ったまま、
一連のやり取りに言葉も失っている様子である。
宣雄、先ほどの指図で女の火処(ほど)を確かめた取り上げ者を再び呼び寄せ

「ついでにだが、その孕(はら)みをどう見る?」
と誘い水を向ける。

「へぇ、先程お武家様がおっしゃられた通り、
これぁ未通女(おぼこ)じゃぁございません、すでに孕んでおります、
恐らく四月か五月あたりではと──」

「やはりなぁ」

「父上、それは一体どのようなことで」
銕三郎、このやり取りが理解できない様子である。

宣雄、深くため息をついた後、嫡男銕三郎に鋭い眼光を飛ばし口を開いた。
「よいか銕三郎、検視と言うものは、三十一種の検死法定がある。
それをまずは守らねば、場合によりては一大事となり、
それが己自身に振りかかってこぬとも限らぬ。
それゆえこれは徒(あだ)や疎(おろそ)かには出来ぬお定めじゃ」

「三十一種も?」

「そうだ、まずの大事は初見だ。
殺害されたものかあるいは己自身で命を断ったものかも判らず、
またそれを装ぅた仕業も入れておかねばならぬ。
また相手が貴人等の場合も考えられるゆえ、
まずは其の者の知人・関係の者など探さねばならぬ。

おらぬ場合はひとまず辺りをよく観、抗(あらが)った痕や
地面の様子も観ねばならぬ。
置かれた様子は、まず抗ったかどうかを確かめる、
それには周りをとくと検視するものだ。
一人の仕業であるかもその辺りで判じれる。

この者の場合、野犬共が荒らしておったにしろ、
そいつぁ草の倒れようが違う。
したがってお前も観た通りさほど多くの乱れはなかった」

「確かにさようにございますね、草の倒れようは、
私とこの松三の物以外、さほど多くはございませんでしたから」

「うむ、この者は朝露に濡れておったゆえ着衣も湿り気を帯び、
従い流れたる血も色を失ってはおらぬ。
時が経てば通常は血餅となり変色しておるはず」

「ははぁ──」
銕三郎一言一言を噛みしめるように心に刻み込む。

「風上に立つは邪気(じゃき)(毒薬など呼吸することで危害が及ぶと
考えられる物)をまず防ぎし後、検視に当たる。
これもまた衆人の見守る中で行わねばならぬ。
間違ぅても己自身のみにて行うではない、
後々冤罪を引き起こす元ともなるからだ」

宣雄、出された茶を一口流し込み、再び続ける。

「常に誰かを観察させる中で行うが大事の一つゆえ、
呉々も忘れるでないぞ。
次に全体を良く見守る。
着衣の状態や身につけておる品々が尋常であるかどうかだな。

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鬼平まかり通る  雀の森  6月号



「女は何を挿しておる?」

「はい、銀の打ち物(簪(かんざし))にございます」

「他には!」

「はい、櫛(くし)、笄(こうがい)に髪もさほど乱れてはおりません」

「懐はどうじゃ?」

銕三郎懐から十手を取り出し、その先で女の懐を上げてみる。
ふくよかな胸乳が少し覗き、それらしきものが十手の先に触れた。
それを掻き出してみると、こちらも手付かずである。(という事は)
「物取りが目当てではないと?」

「そうだ!では十手を口に差し込んでみろ」

「えっ?口にでございますか?」

「そうだ!そこへ、その打ち物を差し入れてみろ、暫くの後銀の色が変われば
そいつぁ石見銀山の毒と想わねばならぬ」

「あっ!……」
(そういうことなのだ)銕三郎思わず唸った。

だが想いのほか口に十手が入らない。
観ると舌が大きく口いっぱいに膨れ上がり、
中には容易に飲み込んでくれそうにもなく、宣雄には死後の硬直と見て取れた。
銕三郎、そこへ無理やり抜いた女の銀簪(ぎんかんざし)を差し込む。

「その間に胸を開いてみるが良い、傷はないか?」

「はい、それらしき痕は何も」
(それにしてもまだ三十歳半ばと見えるこの骸(むくろ)は初々しくさえ見て取れる。

「乳首の色はどうだ?」

「えっ?乳首の色──で」
よく見ればすでに血の気は失せて褪(さ)めてはいるものの、
淡い桜色であったろう事は容易に想わせるに十分なふうである。

「はい、綺麗にございます」
そうとしか答えようもなかった。
(まさか白首女郎のものとは違います、なぞと言えたものではなかったからだ)

「そうか──。では帯を解け」

「はっ?帯をでございますか?」
銕三郎思わず鸚鵡(おうむ)返しに問い返した。

何しろ、いくら死人であっても人前での丸裸を晒すのには些か抵抗もあった。

「何を致しておる!早く致せ!」
宣雄は急き立てる。


銕三郎しぶしぶ女の帯を解き、それらをはだける。
真っ白であったであろうその躰は、陽光の下、惜しげもなく晒されている。
剥ぎ取った瞬間銕三郎驚きの声を上げる。
「まままっまさか!」

下腹部が真一文字に掻き切られていたのである。
着衣の状態からも抜き、胴に払い切られたであろうとは想っていたが、
銕三郎の驚きの声に固唾をのんで見守っていた衆人も驚嘆の声を上げた。

「銕三郎!その胸乳の下を臍(へそ)の下辺りまで触ってみろ」

「腹にございますか?………こうで?」
宣雄の顔を伺いながら銕三郎、女の腹に手を触れた。
切り口を境に少し感触が違う。

「どうだ、硬いかそれとも柔らかいか?」
意味ありげな顔に銕三郎、再度真剣に触れてみる。

「はい、臍の上辺りが少々硬ぅございますがそれがなにか?」

「うむ、硬ければ孕(はら)みがあると視ねばならぬが、
柔らかいのであらばそうでないと判る。
この中に取り上げ者(産婆)はおらぬか?」
宣雄、衆人を見渡しそう言うと

「へぇここにおりますだ」
と、群れの中から六十過ぎと見ゆる老婆が名乗り出てきた。

「おお、よし!ならばお前に頼もう」

そう言うなり宣雄、懐から手ぬぐいを取り出しビリビリと裂き、
老婆に差し出し
「こいつを指に巻き火処(ほど)(陰門)を探り、
中に何んぞ隠されてはおらぬか検(たしか)めよ」
と言い渡した。

「へぇ始末を調べるのでございやしょうか?」
老婆は宣雄の言う意味を判じたのかそう言葉を返す。

「そうだ!堕胎させてそこへ何かを押し込むことも想われる故な」
こともなげに告げ、
「どうだ何が判った?」
と問いただす。

老婆は陰門に差し入れた指を抜き出し
「これぁ……」
と宣雄を振り返る。その指先に乳白色のものが付着していた。

「ふむ、事を為した後という事だな、ご苦労であったな。
銕三郎その女の喉辺りをよく見ろ、締めた痕はないか?」
宣雄、どんどんと検視を奥深いところへ探り込む。

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鬼平まかり通る  雀の森  5月号



この中に取り上げ者(産婆)はおらぬか?」
宣雄、衆人を見渡しそう言うと
「へぇここにおりますだ」
と、群れの中から六十過ぎと見ゆる老婆が名乗り出てきた。

「おお、よし!ならばお前に頼もう」
そう言うなり宣雄、懐から手ぬぐいを取り出しビリビリと裂き、
老婆に差し出し
「こいつを指に巻き火処(ほど)(陰門)を探り、
中に何んぞ隠されてはおらぬか検(たしか)めよ」
と言い渡した。

「へぇ始末を調べるのでございやしょうか?」
老婆は宣雄の言う意味を判じたのかそう言葉を返す。

「そうだ!堕胎させてそこへ何かを押し込むことも想われる故な」
こともなげに告げ、

「どうだ何が判った?」
と問いただす。

老婆は陰門に差し入れた指を抜き出し
「これぁ……」

と宣雄を振り返る。その指先に乳白色のものが付着していた。

「ふむ、事を為した後という事だな、ご苦労であったな。
銕三郎その女の喉辺りをよく見ろ、締めた痕はないか?」
宣雄、どんどんと検視を奥深いところへ探り込む。

「はぁそれらしきものは見当たりませんが……」

「よく視ろ!下顎(したあご)の近くに何かないかもう
一度よっく確かめろ!些細なことも見逃すではない」
厳しい宣雄の声が飛んできた。

(先程から視ているのに何をさらに改めろとは親父殿も……)
思いつつ銕三郎、女の首筋を手指で持ち上げてみる。
(あっ!─これは)親指大の斑紋が診て取れた。
「ここに指の跡のような……でもなぜ」

「良い良い、首の後を検分いたせ」
もう宣雄には犯行の一部始終が読めている様子ですらある。

銕三郎、女の体を抱え起こし、うなじを確かめる、
そこへも指の痕と思しきどす黒い斑紋が残されていた。

「確かに指痕と思しきものが」

「やはり在ったか」
宣雄は確信を持ったように言葉を吐いた。

「父上!一体何が起きましたので?」
これまでの一連の所業を顧みながら銕三郎、
まだつながりが見えていない様子に

「銕三郎、お前はこの腹の傷をどう見た?」
探るような鋭い眸(ひとみ)で銕三郎を見やる。

「傷?刀傷にございましょう?」

「そうだ!だがこいつは傷口が開いておらぬ、
故に締められて殺害されたる後に辻斬りと見せかけて
腹を切り裂いたと見たほうが良かろう、
こいつぁ勒死(ろくし)(ろくし絞殺)だ」

「何と……」

銕三郎、父宣雄の見識の深さをまざまざと思い知らされたものであった。

「爪を検(あらた)めてみろ」
再び宣雄の言葉が続く。

銕三郎、女の手を取り、よく観察する。
「中指や小指に何かが残っております、これは?」

「恐らく苦し紛れに引っ掻いたのであろうよ、
殺った奴は恐らく顔か腕のあたりにその傷を受けておろう」

「はぁ……そこまで」
銕三郎ため息混じりに松三の方へ振り返る。

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鬼平まかり通る  4月号  雀の森



「女は何を挿しておる?」

「はい、銀の打ち物(簪(かんざし))にございます」

「他には!」

「はい、櫛(くし)、笄(こうがい)に髪もさほど乱れてはおりません」

「懐はどうじゃ?」

銕三郎懐から十手を取り出し、その先で女の懐を上げてみる。
ふくよかな胸乳が少し覗き、それらしきものが十手の先に触れた。
それを掻き出してみると、こちらも手付かずである。(という事は)

「物取りが目当てではないと?」

「そうだ!では十手を口に差し込んでみろ」

「えっ?口にでございますか?」

「そうだ!そこへ、その打ち物を差し入れてみろ、
暫くの後銀の色が変わればそいつぁ石見銀山の毒と想わねばならぬ」

「あっ!……」

(そういうことなのだ)銕三郎思わず唸った。

だが想いのほか口に十手が入らない。
観ると舌が大きく口いっぱいに膨れ上がり、
中には容易に飲み込んでくれそうにもなく、宣雄には死後の硬直と見て取れた。
銕三郎、そこへ無理やり抜いた女の銀簪(ぎんかんざし)を差し込む。

「その間に胸を開いてみるが良い、傷はないか?」

「はい、それらしき痕は何も」
(それにしてもまだ三十歳半ばと見えるこの骸(むくろ)は初々しくさえ見て取れる。

「乳首の色はどうだ?」

「えっ?乳首の色──で」

よく見ればすでに血の気は失せて褪(さ)めてはいるものの、
淡い桜色であったろう事は容易に想わせるに十分なふうである

「はい、綺麗にございます」

そうとしか答えようもなかった。
(まさか白首女郎のものとは違います、なぞと言えたものではなかったからだ)

「そうか──。では帯を解け」

「はっ?帯をでございますか?」
銕三郎思わず鸚鵡(おうむ)返しに問い返した。
何しろ、いくら死人であっても人前での丸裸を晒すのには些か抵抗もあった。

「何を致しておる!早く致せ!」
宣雄は急き立てる。

銕三郎、しぶしぶ女の帯を解き、それらをはだける。
真っ白であったであろうその躰は、陽光の下、惜しげもなく晒されている。
剥ぎ取った瞬間銕三郎驚きの声を上げる。

「まままっまさか!」

下腹部が真一文字に掻き切られていたのである。
着衣の状態からも抜き、胴に払い切られたであろうとは想っていたが、
銕三郎の驚きの声に固唾をのんで見守っていた衆人も驚嘆の声を上げた。

「銕三郎!その胸乳の下を臍(へそ)の下辺りまで触ってみろ」

「腹にございますか?………こうで?」

宣雄の顔を伺いながら銕三郎、女の腹に手を触れた。
切り口を境に少し感触が違う。

「どうだ、硬いかそれとも柔らかいか?」

意味ありげな顔に銕三郎、再度真剣に触れてみる。
「はい、臍の上辺りが少々硬ぅございますがそれがなにか?」

「うむ、硬ければ孕(はら)みがあると視ねばならぬが、
柔らかいのであらばそうでないと判る。

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鬼平まかり通る   雀の森 3月号

「あっ!ははっ!」


銕三郎その言葉通りすぐさま指を(くわ)()めた後立ててみる。


風は川の方から這い上がってきている様子である。


「こちらは風下にあたりますね」


そう言い終わるのを待つまでもなく宣雄、すでに風上へと動いていた。


(さすが親父殿は…)宣雄のその対応の素早さに目を見張ったものである。


「よいか銕!この立ち位置から何が判る?」


(ははぁ親父殿は俺を試そうと……よし、ならば)と


「父上!ここより検分出来ますことでは、身なりは町家の者で、
衣服が腹のあたりで切り裂かれて観えますゆえ、辻斬りの仕業かとも…。
ただここからでは血もさほど多く流れておらず、肉色も白く、
死後の経過は朝露に濡れた血の色からも、さほど経ったとは想えません。
もしや殺害されここに打ち捨てられたとも想われます」


と答えた。


宣雄その答えを待ち


「うむ、よく視ておるのぅ、夏ともなれば一晩でも肉叢(ししむら)は少々黄ばんでくるもの。
まずまずそれで良い。おい銕三郎、お前と松三でこれを通りまで運び出せ」


と指図する。


「えっ!!」


二人共顔見合わせ一瞬戸惑いを見せるそれに


「何をしておる!早く致せ、ここで検分する事はならぬ。何事も衆人の
目の前で為さねば、後々疑いを残さぬとも限らぬからな」


宣雄手早く指図し、二人は両手足を抱えて骸を担ぎ出し、道端に横たえさせる。


「よし誰か戸板を借りてきてはくれぬか!」


宣雄、あたりを見渡し催促すると、暫くして番屋へ引き返したのか
戸板が運ばれてきた。


運び込んできたそれを借り受け、そこへ骸を横たえさせ、
銕三郎と木場の松三が前後を抱え番屋まで運び込んだ。
これを番屋の中へ仮置きさせ


「うむ、まずは面上からだな。よいか銕三郎、顔の具合はどうだ?」


そう言いながら銕三郎を見やる。


「はい、口を開いておるものの、肌の色は白く化粧(けわい)っ気もまだ十分に
残っております」


「然様か、で?」


「はぁ?」


銕三郎その後が出てこない。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 2月号 雀の森

犬が群れているもんで、おかしいなと近寄ってみたら、
女が草むらに倒れているじゃぁありやせんか。
犬を追っ払って寄って声を掛けてみやしたが、なんにも返事がねぇ、
で 驚いてここまで知らせに駆けて来たってことで、へぇ」
鉢巻きを取りペコリと頭を下げる。

「女が殺されていると言ぅんだな?」

「へぇ確かな事ぁ判りやせんが、多分死んでいると……」

「よし判った!確かこの月は南が表番のはずだ。
誰かこの事を奉行所へ届けてくれぬか、おれは現場に立ち戻り検分しよう」
そう言うと、中にいた番太が名乗り出て来、

「それじゃぁあっしがひとっ走りお役所へ届けやしょう」
と快く引き受ける声を上げた。

「おおすまぬな、そうしてくれるか!」
銕三郎、懐から紙入れを取り出し、中から四文銭(百円)をつまみ出し
番太に握らせた。

江戸の橋は、武家は無料だが一般の者は片道の渡り賃二文(五十円)
が必要であったからだ。
「あっ!こいつぁ……へいっ!確かに」
そう言うと永代橋に向かって出ていった。

銕三郎、木場の若者を伴い、父宣雄の待つところまで戻って来
「父上!どうやらこの先の石置き場で女が死んでおるらしゅうございます。
この男が先程見つけたそうで」
と後ろに従っている同年代の若者を振り返る。

「ほぅそれはまた──、相判った!ひとまずそこへあない案内いたせ」
宣雄、若者を先に発たせ、後を銕三郎と並びついて行った。
ほんの先ほど曲がったところを奥へと入ってゆく。

「ところでお前、名はなんという?」
宣雄は若者に後ろから声を掛けた。

「へぃ、松三と言いやす」
振り返ってペコリと頭を下げる笑顔が爽やかであった。

「おおさようか、ところで松三、どうしてこの道を選んだのだ」

意味ありげな問い方に銕三郎(はて親父殿は疑ぅておられるのであろうか?)
「へぇ表の方は二つもお屋敷の前を通ることになるもんでございやすから……」

「で、そいつを避けたという訳だな」
宣雄(判らぬでもない)と言うふうに口元に笑いを含みながら松三を見やった。

「へへへっ」
びん鬢に手をやり軽く腰を折る。
要するに侍屋敷は出来るだけいざこざを避けたいがための思案のことであろう。
その間にも現場に差し掛かり

「あそこに……」
と指さした先には、またしても野良犬が数匹群れている。

三人の足音を聞き取り、一斉にこちらを伺い警戒している様子が見て取れる。

「しっしっ!!」
銕三郎が大きく叫び、これらを追い払った。

横たわったままの女の姿へ近付こうとするそれに向かって宣雄
「銕!そのまま近づいてはならぬ!」
と厳しい口調で制した。

「はっ?」
銕三郎少し驚きつつ父の眼を見返る。其処には既に柔和な眼差しはなく、
猟犬のように厳しいひとみ眸が食い入るようにこちらを向いている。

その間に狭い道端でもあり、番屋から金魚の糞よろしく
興味本位だけの野次馬共がついて来、あっという間に人だかりができてしまった。

「この者の知り合いはおらぬか?あるいは見かけたものもおらぬか?」
宣雄、衆人を見渡し、名乗り出るのを待つ。が、互いに顔を見交わすものの、
名乗り出るものはない。
つまり関わり合いを持ちたくないというのが本音であろうと想えた。

「やむを得ぬ。よいか、死人というものは、何が元かその因が判らぬ間は、
まず風上より様子をうかがうことだ。万一毒気であらばそれを吸うとも限らぬ」

その目も言葉もすでに先程の穏やかなものとは打って変わって厳しいものがあった。

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鬼平犯科帳 新編 鬼平罷り通る 2020年新年号 雀の森


「ほぅ然様か?ほれ先の方の茶店で、腰をかがめて貴様の方を見ておる女が
居るではないか!こいつをどう言い訳いたすつもりだ?」
宣雄いたずらっぽい眼で銕三郎の様子をうかがう。

「ええっ!……何処(いずこ)にそのような」
慌ててあたりを見回すものの、それらしき者は見当たらないではないか。
「銕よ、案ずるな、儂も男だ、あははははは」
宣雄左手を刀の柄の上に預け、もう片方は懐手に口元を緩めている。

「はぁ、もう驚きました。それにしても父上!お人の悪い」
(全く冷や汗ものだ、これだから父上に同道するのは気が重いわけだ)
銕三郎冷や汗がいつ流れ出てもおかしくない己の首筋に手をやり、
父の背中を観たものである。

「だがなぁ銕や、こうして歩いておっても、むやみに時を過ごすではないぞ。
己以外は師と想え!教えられることこそあれ無駄の一つもないものじゃ」
先程とは打って変わった厳しい父宣雄の言葉に銕三郎、冷や汗をかきつつも、
その言葉の重さを肝に命じていた。


本日はこの界隈を廻った後、雀の森(黒船神社)へ廻り、
越中島調練所辺りから大島町に戻り、中島町・熊井町と大川べりを永代橋まで
進む事にして、蓬莱橋を右折し、松平阿波守治昭下屋敷を大島川の向こうに眺めつつ
黒船橋にたどり着いた。

まぁ見習いとは言え、独りでこの辺りを見廻る時はのんびりと気ままに歩いている
ところではあるが、父と同道の場合はそうもゆかない。
父が何を見、どう思い、それをいかに対処するかを盗むように見習っている。

この黒船神社、別名すずめの森と呼ばれ、沖に出た船乗りたちが本所に戻る目印に
したほどの古木が鬱蒼(うっそう)と生い繁っている。

すでに秋の口ともあり、樹々も早々にその色めきを失い、しっとりと落ち着いた
金茶色のものが目立ち、道端の草も夜露か朝霧の名残なのか、
川から吹き寄せる冷やされた風に濡れ、柔らかな陽光にキラリと光って見せている。

平蔵親子は、三河藩主松平伊豆守信明下屋敷横の、つづら折りになった川沿いから
離れた細道を進んでいた。

この辺り、千代田城築城のための石置き場があり、その名残がいまだ散見される
ところである。
緩やかに曲りを持って大川から大島川に流れ込む辺りに差し掛かったおり、
何やら騒がしい人の動きに長谷川平蔵宣雄
「銕!何事か確かめてまいれ」
と嫡男銕三郎に指図した。

すぐ先の番屋に木場の職人や町人などが群れ、何事か大声で話している。そこへ
「俺は火付盗賊改の者だが一体何があった?」
銕三郎、衆人をかき分け番屋の入り口に顔をのぞかせた。

後の第165代火付盗賊改方長谷川平蔵宣以、若干二十五歳の若駒である。

中から出てきたのは木場の若者らしかった。
銕三郎を見るなり
「あっお武家様!あっしはこの先の大島町に住んでおりやす木場の川並鳶
(かわなみとび)(筏師)でございやすが、さきがた木場町へ出かける途中、
この先の石置き場を横切りやした。



日高摩梨 シャンソンのブログ

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鬼平犯科帳 新版 鬼平罷り通る 12月号 恙虫 第2回

 

  黒船稲荷

雀の森


 「人が殺されている!」
大声で叫びながら深川越中島調練所前の番屋に駆け込んできたのは、
木場の男衆と見える二十歳過ぎの男であった。

この日、火付盗賊改方139代長谷川平蔵宣雄は朝餉(あさげ)をすませ、
嫡男銕三郎(てつさぶろう)を伴い、本所菊川町の火付盗賊改方役宅を出、
富ケ岡八幡宮の周りを流し、永代寺門前町へとかかり、
永代寺門前を南下して蓬莱橋の架かる大島川に出た。

さらにこれを右にとり大島川沿いに西へと歩を進める。
この辺り、永代寺門前の岡場所で賑わうところ
「前垂れで 来る客とんで 深ばまり」
と狂歌に落首されるように、木場や新川にある様々な問屋の
奉公人達でも賑わうところ。

片方では高級料理茶屋が立ち並び、その中にも手頃な庶民の手の届く
小洒落た料理茶屋がひしめき、本所界隈だけでなく川向うの
公方様(くぼうさま)お膝元あたりからまでが大島川の河岸へ猪牙(ちょき)を
横付けさせて豪遊するという。吉原には敷居が高い庶民を中心にした
一大歓楽街でもある。

「銕よ、何をそのようにそわそわ致しておる」
宣雄、後ろをついてくる嫡男銕三郎に背中から声を掛ける。
「いえ別にそのような……」
「そうかえ?儂には気もそぞろと見ゆるがなぁ」

実はこの辺り、同じ菊川町内の旗本大橋与惣兵衛親英の娘久栄を娶(めと)る
数年前までは本所の銕と呼ばれるほど、その名を馳せた場所であったからだ。

銕三郎、独り歩きのおりならば、気軽に門前の女郎へも声を掛けている。
だが、本日は同行者が同行者である!
「あら銕さん!」
なぞと、いつ飛んでくるやら、辺りに目と気を配っての、気の抜けないお供である。

「父上!今の私は以前とは違ぅております」
予防線を張ったつもりがまだ幼いと言えよう。

「ほぅ…以前とは一体どのような事を申すのだ?」

「えっ!(しまった、つい口が滑ってしまった、どのように言い訳すれば良い!)

ああっ!はぁ、父上のおかげを持ちまして、こう…気ままにこの界隈を
駆け回っておりました頃のことを…はい。(どうにかこれでごまかせよう、
それにしても危ない危ない、弥勒寺あたりならば目も当てられなかったろう。
何しろあの茶店笹やのおくまにでも見つかろうものなら

「おい銕つぁん、こんおくまの店の前をす通りはなかろうよ!」

なんて、いつ飛び出してくるか判ったもんじゃァないからなぁ……

「銕!何をブツブツぼやいておる!どうせお前のことだ、この辺り、
金猫・銀猫だのと、脛の傷が痛むのであろう?」

「えっ!まさかぁ」

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新編 鬼平罷り通る 第1回 恙虫(つつがむし) 

恙虫(つつがむし)


明和6年(1769)隠し目付大月兵四郎は、当時幕府大目付より密命を帯び、
甲府一帯で非道の極みを尽くしていた恙虫(つつがむし)と忌み嫌われた
盗賊の一団を追って、密かに江戸を発った。

甲府は甲斐の守護大名武田信虎(信玄の父)が館を府中へ移した。
そのために甲斐の国、府中と言う意味合いから甲府と呼んだものである。

元は石見国(島根県)出雲辺りを縄張りにしていた恙虫一党だが、
追われ追われ、次第に上方へ逃げ延び、甲府の天目山棲栖雲寺(せいうんじ)
辺りに潜み、この一帯を根城に暴れまわっていた時代である。

石見には恙虫と言う名の妖怪が出没し、人の生き血を吸うと恐れられていた。
あまりの残忍な所業に、盗賊仲間達からさえ、彼らのことを{恙虫}と呼び合い、
忌み嫌われている一団であった。

 

恙虫1党に潜入した大月兵四郎の生息が途絶え、すでに二年が過ぎようとしていた。
だが一向にその一味の非道は収まらず、たまりかねた甲府勤番より助勢の嘆願があり、
老中から追討の命が下されることとなった。


明和8年(1711)10月十17日、長谷川備中前守平蔵宣雄、
時の老中筆頭松平武元(たけちか)より、これまで七年に及ぶ先手弓組七番頭から
火付盗賊改方助役を命じられ、同時にこの一味を捕縛せよとの下知あり。
長谷川平蔵宣雄、数十名の与力・同心と25歳になったばかりの嫡男(ちゃくなん)
宣以(銕三郎)を同道し、ひと月足らずでこれらを捕縛。

抗(あらが)って切り捨てられた者5名、捕縛されしもの30名、
捕縛をかいくぐった者一名であった。

取り調べの中、捕縛した盗賊の中に、行く方知れずとなっていた
大月兵四郎がいた。

彼は潜入探索の途中で崖から滑落し、そこで助けられた首領犬挟(いぬばさ)り
の繁造の娘と懇(ねんごろ)となってしまい、以来行く方をくらましていたのであった。

捕縛された時、すでに二人の間に女子子をもうけて居、覚悟を決めた兵四郎、
宣雄の差し出す脇差で首を掻き切り果てたのであった。

江戸に戻った長谷川平蔵宣雄は事の次第を老中に報告。
その中には探索中の大月兵四郎殉死と記されていた。

翌、明和9年(1772)俗に{目黒行人坂の大火}と呼ばれる目黒坂大円寺の
放火犯、願人坊主真秀(しんしゅう)と名乗っていた武蔵国熊谷無宿人長五郎を捕縛。

この時筆頭老中松平武元に功を認められ、翌、明和9年(1772)東町より上格の、
門跡・寺社を扱える京都西町奉行へ栄転を果たす事になる。

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10月号  めぐりあい 伊豫吉田藩 武左衛門騒動最終回




その2年後の寛政六年(1794
)、吉田藩井川方役人岡部二郎九郎が
河川敷の改修工事に大上野村に出張り、人夫を酒に酔わせて、

「首謀者を士分に取り立てるために加担者の名を教えてはくれぬか?」



と、姑息な謀を巡らせて、一揆の首謀者の名を探りだす。



重役会議が開かれ、その折、郷六恵左衛門が



「此度の一揆騒動首謀者の名が判明いたしたからには、
即刻これらを捕縛、処断致すが定法」



と進言。

寛政6年(1794
222日、
吉田藩は上大野村頭取嘉兵衛・是房村善六他
24名を捕縛、
内9名が目付け送りとなり、上大野村頭取嘉兵衛は
藩目付けに送られる事なく、翌寛政7年(
1795323日、
つつじ坂に於いて斬首され、
上大野村(後の日吉村)堀切に
7日間晒された。37歳の若さであった。



同時に捕縛された25名は永牢(終身刑)に処されるも、
安藤継明の17回忌に大赦され、お解き放ちになっている。



 



役宅にいた長谷川平蔵、
吉田藩安藤
明が若党渡邊千右衛門よりの火急の知らせにて、
事の一切を知った。



「なんと………」



遠く、はるか西海の向こう、伊豫宇和島吉田藩のあろう空を
じっと眺める平蔵の両瞼から、止めどなく涙が溢れているのを
妻女久栄だけが見つめていた。


実録
  この翌寛政7年(1795)4月、長谷川平蔵が病に倒れ危篤の報を
聞いた十一代将軍・家斉は「瓊玉膏」という高価な薬を下賜したが、
時すでに遅く、5月10日、長谷川平蔵数えの五十歳。

短くも波乱万丈の生涯を閉じたのである。



8年間という異常とも思われる長期に亘る火付盗賊改の職を御役御免と
なったのは、初7日の日であった。

平蔵が没する2年前の1793年7月23日。
長谷川平蔵を重用し続けた老中筆頭松平定信は、
海防出張中に突然幕閣より辞職を勧告され失脚していた。

長谷川平蔵が身罷る4日前、長谷川平蔵の生母(その)が、
同じ菊川町の役宅内で卒している。

この長谷川平蔵の菊川町役宅は、孫の長谷川平蔵宣茂(のぶしげ)が
45年後に御船手に出世したが、不祥事を起こし小普請組に降格され、
菊川の役宅を売り払った。

その役宅を購入したのが北町奉行遠山左衛門少尉景元。
ご存知遠山の金さんであった。

晩年の遠山左衛門少尉景元 桜吹雪の金さん
実際に景元は腕に入れ墨をしていたようで、
風が吹くと袖口を抑えるなどしじゅう気にしていたという。

まぁ、テレビドラマ風に、毎回桜吹雪を拝ませていては、江戸市中
誰知らぬものもとなり、見せられたその時で幕はおりてしまう。
あくまで傑作娯楽時代劇と言う話。






 


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めぐり逢い 9月号 伊予吉田藩武左衛門騒動





だが安藤継明は従者千右衛門の介錯はあったものの絶命出来ず、
吉田藩は御医師を呼ぶも、あまりの事に



「かような御事態ではお墨付きを頂かねば治療には入れません」



と医師は逃げ腰。



安藤犠太夫継明若党 渡邊千右衛門は主人の首を袱紗に包み、
予め用意していた黒塗り内朱の首桶に納め、
自らも腹を切ろうとするを駆けつけた宇和島藩士に止められ、
事の次第を吉田藩に報告しに戻った。



そのあと吉田藩中見役鈴木作之進はこの安藤犠太夫継明の
骸を取り片付けさせた。



時に安藤儀太夫継明、長谷川平蔵より一つ年上の49歳であった。



 



三間(みま)へ食料調達に出かけていた嘉兵衛は



「大切なお方を亡くしてしまった」
と泣き崩れた。



安藤明継切腹の訃報は会議中であった吉田藩家老尾田隼人、
宇和島藩家老桜田数馬のもとに届き、吉田藩では



「家中はでんぐりかえりて、隼人(家老尾田)が仰天ふだま
(キモ)を抜かして、火鉢を踏むやら、お色も青ざめももたち
(股引=ももひき)とりあげ うろたえ騒げば……」
とちょんがりで語られている。



これに対し宇和島藩では一揆の主導者は処罰せずと裁決する。



二月十五日宇和島藩家老桜田数馬・目付け渡辺平兵衛が
吉田藩陣屋へ赴き、常用書類の引き渡しを迫った。



これがきっかけとなり安藤継明の願い通り、
農民側から十一箇条の嘆願書が出され宇和島藩鈴木忠右衛門が受理



翌二月16日大目付須藤段右衛門は郡代配下を伴い八幡河原に出向き、
吉田藩からは若年寄郷六恵左衛門・
郡代横田茂右衛門・中見役などを伴い出役。



宇和島藩鹿村右衛門裁諾書の読み上げがあり、
農民側は八幡河原から撤収。



二月二十六日吉田藩は二十三箇条の通達を発することで
全面的に農民側の勝利となった。



 



一、上納米、豆計り方の事
一、紙、楮(こうぞ)の事
一、御用紙の事
一、江戸への進物の事
一、江戸夫、地夫の事
一、井川夫良の事
一、庄屋野役の事
一、材木出夫の事
一、炭出夫の事
一、家中頼母子無尽の事
一、酒禁盃の事



以上が十一箇条である。



このほか加えられた項目は



一、地払米斗方の事



一、御船具材木出夫出来の事



一、井川方定夫食米の事



一、永出入改方の事



一、浦方雑穀入相薪他所売の事



一、義倉米の事



一、社倉元麦五百俵拝借の分御引除き下され候の事



一、大工木挽の事



一、在浦賄仕出の事



一、男柱の事、?炭駄賃の事



一、在浦より進物の事



  
  計二十三箇条であった。


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一、地払米斗方の事



一、御船具材木出夫出来の事



一、井川方定夫食米の事



一、永出入改方の事



一、浦方雑穀入相薪他所売の事



一、義倉米の事



一、社倉元麦五百俵拝借の分御引除き下され候の事



一、大工木挽の事



一、在浦賄仕出の事



一、男柱の事、?炭駄賃の事



一、在浦より進物の事



  
  計二十三箇条であった。


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