新編 鬼平罷り通る 第1回 恙虫(つつがむし)
恙虫(つつがむし)
明和6年(1769)隠し目付大月兵四郎は、当時幕府大目付より密命を帯び、
甲府一帯で非道の極みを尽くしていた恙虫(つつがむし)と忌み嫌われた
盗賊の一団を追って、密かに江戸を発った。
甲府は甲斐の守護大名武田信虎(信玄の父)が館を府中へ移した。
そのために甲斐の国、府中と言う意味合いから甲府と呼んだものである。
元は石見国(島根県)出雲辺りを縄張りにしていた恙虫一党だが、
追われ追われ、次第に上方へ逃げ延び、甲府の天目山棲栖雲寺(せいうんじ)
辺りに潜み、この一帯を根城に暴れまわっていた時代である。
石見には恙虫と言う名の妖怪が出没し、人の生き血を吸うと恐れられていた。
あまりの残忍な所業に、盗賊仲間達からさえ、彼らのことを{恙虫}と呼び合い、
忌み嫌われている一団であった。
恙虫1党に潜入した大月兵四郎の生息が途絶え、すでに二年が過ぎようとしていた。
だが一向にその一味の非道は収まらず、たまりかねた甲府勤番より助勢の嘆願があり、
老中から追討の命が下されることとなった。
明和8年(1711)10月十17日、長谷川備中前守平蔵宣雄、
時の老中筆頭松平武元(たけちか)より、これまで七年に及ぶ先手弓組七番頭から
火付盗賊改方助役を命じられ、同時にこの一味を捕縛せよとの下知あり。
長谷川平蔵宣雄、数十名の与力・同心と25歳になったばかりの嫡男(ちゃくなん)
宣以(銕三郎)を同道し、ひと月足らずでこれらを捕縛。
抗(あらが)って切り捨てられた者5名、捕縛されしもの30名、
捕縛をかいくぐった者一名であった。
取り調べの中、捕縛した盗賊の中に、行く方知れずとなっていた
大月兵四郎がいた。
彼は潜入探索の途中で崖から滑落し、そこで助けられた首領犬挟(いぬばさ)り
の繁造の娘と懇(ねんごろ)となってしまい、以来行く方をくらましていたのであった。
捕縛された時、すでに二人の間に女子子をもうけて居、覚悟を決めた兵四郎、
宣雄の差し出す脇差で首を掻き切り果てたのであった。
江戸に戻った長谷川平蔵宣雄は事の次第を老中に報告。
その中には探索中の大月兵四郎殉死と記されていた。
翌、明和9年(1772)俗に{目黒行人坂の大火}と呼ばれる目黒坂大円寺の
放火犯、願人坊主真秀(しんしゅう)と名乗っていた武蔵国熊谷無宿人長五郎を捕縛。
この時筆頭老中松平武元に功を認められ、翌、明和9年(1772)東町より上格の、
門跡・寺社を扱える京都西町奉行へ栄転を果たす事になる。