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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳外伝

10月号  めぐりあい 伊豫吉田藩 武左衛門騒動最終回




その2年後の寛政六年(1794
)、吉田藩井川方役人岡部二郎九郎が
河川敷の改修工事に大上野村に出張り、人夫を酒に酔わせて、

「首謀者を士分に取り立てるために加担者の名を教えてはくれぬか?」



と、姑息な謀を巡らせて、一揆の首謀者の名を探りだす。



重役会議が開かれ、その折、郷六恵左衛門が



「此度の一揆騒動首謀者の名が判明いたしたからには、
即刻これらを捕縛、処断致すが定法」



と進言。

寛政6年(1794
222日、
吉田藩は上大野村頭取嘉兵衛・是房村善六他
24名を捕縛、
内9名が目付け送りとなり、上大野村頭取嘉兵衛は
藩目付けに送られる事なく、翌寛政7年(
1795323日、
つつじ坂に於いて斬首され、
上大野村(後の日吉村)堀切に
7日間晒された。37歳の若さであった。



同時に捕縛された25名は永牢(終身刑)に処されるも、
安藤継明の17回忌に大赦され、お解き放ちになっている。



 



役宅にいた長谷川平蔵、
吉田藩安藤
明が若党渡邊千右衛門よりの火急の知らせにて、
事の一切を知った。



「なんと………」



遠く、はるか西海の向こう、伊豫宇和島吉田藩のあろう空を
じっと眺める平蔵の両瞼から、止めどなく涙が溢れているのを
妻女久栄だけが見つめていた。


実録
  この翌寛政7年(1795)4月、長谷川平蔵が病に倒れ危篤の報を
聞いた十一代将軍・家斉は「瓊玉膏」という高価な薬を下賜したが、
時すでに遅く、5月10日、長谷川平蔵数えの五十歳。

短くも波乱万丈の生涯を閉じたのである。



8年間という異常とも思われる長期に亘る火付盗賊改の職を御役御免と
なったのは、初7日の日であった。

平蔵が没する2年前の1793年7月23日。
長谷川平蔵を重用し続けた老中筆頭松平定信は、
海防出張中に突然幕閣より辞職を勧告され失脚していた。

長谷川平蔵が身罷る4日前、長谷川平蔵の生母(その)が、
同じ菊川町の役宅内で卒している。

この長谷川平蔵の菊川町役宅は、孫の長谷川平蔵宣茂(のぶしげ)が
45年後に御船手に出世したが、不祥事を起こし小普請組に降格され、
菊川の役宅を売り払った。

その役宅を購入したのが北町奉行遠山左衛門少尉景元。
ご存知遠山の金さんであった。

晩年の遠山左衛門少尉景元 桜吹雪の金さん
実際に景元は腕に入れ墨をしていたようで、
風が吹くと袖口を抑えるなどしじゅう気にしていたという。

まぁ、テレビドラマ風に、毎回桜吹雪を拝ませていては、江戸市中
誰知らぬものもとなり、見せられたその時で幕はおりてしまう。
あくまで傑作娯楽時代劇と言う話。






 


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