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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

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鬼平まかり通る  4月号  雀の森



「女は何を挿しておる?」

「はい、銀の打ち物(簪(かんざし))にございます」

「他には!」

「はい、櫛(くし)、笄(こうがい)に髪もさほど乱れてはおりません」

「懐はどうじゃ?」

銕三郎懐から十手を取り出し、その先で女の懐を上げてみる。
ふくよかな胸乳が少し覗き、それらしきものが十手の先に触れた。
それを掻き出してみると、こちらも手付かずである。(という事は)

「物取りが目当てではないと?」

「そうだ!では十手を口に差し込んでみろ」

「えっ?口にでございますか?」

「そうだ!そこへ、その打ち物を差し入れてみろ、
暫くの後銀の色が変わればそいつぁ石見銀山の毒と想わねばならぬ」

「あっ!……」

(そういうことなのだ)銕三郎思わず唸った。

だが想いのほか口に十手が入らない。
観ると舌が大きく口いっぱいに膨れ上がり、
中には容易に飲み込んでくれそうにもなく、宣雄には死後の硬直と見て取れた。
銕三郎、そこへ無理やり抜いた女の銀簪(ぎんかんざし)を差し込む。

「その間に胸を開いてみるが良い、傷はないか?」

「はい、それらしき痕は何も」
(それにしてもまだ三十歳半ばと見えるこの骸(むくろ)は初々しくさえ見て取れる。

「乳首の色はどうだ?」

「えっ?乳首の色──で」

よく見ればすでに血の気は失せて褪(さ)めてはいるものの、
淡い桜色であったろう事は容易に想わせるに十分なふうである

「はい、綺麗にございます」

そうとしか答えようもなかった。
(まさか白首女郎のものとは違います、なぞと言えたものではなかったからだ)

「そうか──。では帯を解け」

「はっ?帯をでございますか?」
銕三郎思わず鸚鵡(おうむ)返しに問い返した。
何しろ、いくら死人であっても人前での丸裸を晒すのには些か抵抗もあった。

「何を致しておる!早く致せ!」
宣雄は急き立てる。

銕三郎、しぶしぶ女の帯を解き、それらをはだける。
真っ白であったであろうその躰は、陽光の下、惜しげもなく晒されている。
剥ぎ取った瞬間銕三郎驚きの声を上げる。

「まままっまさか!」

下腹部が真一文字に掻き切られていたのである。
着衣の状態からも抜き、胴に払い切られたであろうとは想っていたが、
銕三郎の驚きの声に固唾をのんで見守っていた衆人も驚嘆の声を上げた。

「銕三郎!その胸乳の下を臍(へそ)の下辺りまで触ってみろ」

「腹にございますか?………こうで?」

宣雄の顔を伺いながら銕三郎、女の腹に手を触れた。
切り口を境に少し感触が違う。

「どうだ、硬いかそれとも柔らかいか?」

意味ありげな顔に銕三郎、再度真剣に触れてみる。
「はい、臍の上辺りが少々硬ぅございますがそれがなにか?」

「うむ、硬ければ孕(はら)みがあると視ねばならぬが、
柔らかいのであらばそうでないと判る。

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鬼平まかり通る   雀の森 3月号

「あっ!ははっ!」


銕三郎その言葉通りすぐさま指を(くわ)()めた後立ててみる。


風は川の方から這い上がってきている様子である。


「こちらは風下にあたりますね」


そう言い終わるのを待つまでもなく宣雄、すでに風上へと動いていた。


(さすが親父殿は…)宣雄のその対応の素早さに目を見張ったものである。


「よいか銕!この立ち位置から何が判る?」


(ははぁ親父殿は俺を試そうと……よし、ならば)と


「父上!ここより検分出来ますことでは、身なりは町家の者で、
衣服が腹のあたりで切り裂かれて観えますゆえ、辻斬りの仕業かとも…。
ただここからでは血もさほど多く流れておらず、肉色も白く、
死後の経過は朝露に濡れた血の色からも、さほど経ったとは想えません。
もしや殺害されここに打ち捨てられたとも想われます」


と答えた。


宣雄その答えを待ち


「うむ、よく視ておるのぅ、夏ともなれば一晩でも肉叢(ししむら)は少々黄ばんでくるもの。
まずまずそれで良い。おい銕三郎、お前と松三でこれを通りまで運び出せ」


と指図する。


「えっ!!」


二人共顔見合わせ一瞬戸惑いを見せるそれに


「何をしておる!早く致せ、ここで検分する事はならぬ。何事も衆人の
目の前で為さねば、後々疑いを残さぬとも限らぬからな」


宣雄手早く指図し、二人は両手足を抱えて骸を担ぎ出し、道端に横たえさせる。


「よし誰か戸板を借りてきてはくれぬか!」


宣雄、あたりを見渡し催促すると、暫くして番屋へ引き返したのか
戸板が運ばれてきた。


運び込んできたそれを借り受け、そこへ骸を横たえさせ、
銕三郎と木場の松三が前後を抱え番屋まで運び込んだ。
これを番屋の中へ仮置きさせ


「うむ、まずは面上からだな。よいか銕三郎、顔の具合はどうだ?」


そう言いながら銕三郎を見やる。


「はい、口を開いておるものの、肌の色は白く化粧(けわい)っ気もまだ十分に
残っております」


「然様か、で?」


「はぁ?」


銕三郎その後が出てこない。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 2月号 雀の森

犬が群れているもんで、おかしいなと近寄ってみたら、
女が草むらに倒れているじゃぁありやせんか。
犬を追っ払って寄って声を掛けてみやしたが、なんにも返事がねぇ、
で 驚いてここまで知らせに駆けて来たってことで、へぇ」
鉢巻きを取りペコリと頭を下げる。

「女が殺されていると言ぅんだな?」

「へぇ確かな事ぁ判りやせんが、多分死んでいると……」

「よし判った!確かこの月は南が表番のはずだ。
誰かこの事を奉行所へ届けてくれぬか、おれは現場に立ち戻り検分しよう」
そう言うと、中にいた番太が名乗り出て来、

「それじゃぁあっしがひとっ走りお役所へ届けやしょう」
と快く引き受ける声を上げた。

「おおすまぬな、そうしてくれるか!」
銕三郎、懐から紙入れを取り出し、中から四文銭(百円)をつまみ出し
番太に握らせた。

江戸の橋は、武家は無料だが一般の者は片道の渡り賃二文(五十円)
が必要であったからだ。
「あっ!こいつぁ……へいっ!確かに」
そう言うと永代橋に向かって出ていった。

銕三郎、木場の若者を伴い、父宣雄の待つところまで戻って来
「父上!どうやらこの先の石置き場で女が死んでおるらしゅうございます。
この男が先程見つけたそうで」
と後ろに従っている同年代の若者を振り返る。

「ほぅそれはまた──、相判った!ひとまずそこへあない案内いたせ」
宣雄、若者を先に発たせ、後を銕三郎と並びついて行った。
ほんの先ほど曲がったところを奥へと入ってゆく。

「ところでお前、名はなんという?」
宣雄は若者に後ろから声を掛けた。

「へぃ、松三と言いやす」
振り返ってペコリと頭を下げる笑顔が爽やかであった。

「おおさようか、ところで松三、どうしてこの道を選んだのだ」

意味ありげな問い方に銕三郎(はて親父殿は疑ぅておられるのであろうか?)
「へぇ表の方は二つもお屋敷の前を通ることになるもんでございやすから……」

「で、そいつを避けたという訳だな」
宣雄(判らぬでもない)と言うふうに口元に笑いを含みながら松三を見やった。

「へへへっ」
びん鬢に手をやり軽く腰を折る。
要するに侍屋敷は出来るだけいざこざを避けたいがための思案のことであろう。
その間にも現場に差し掛かり

「あそこに……」
と指さした先には、またしても野良犬が数匹群れている。

三人の足音を聞き取り、一斉にこちらを伺い警戒している様子が見て取れる。

「しっしっ!!」
銕三郎が大きく叫び、これらを追い払った。

横たわったままの女の姿へ近付こうとするそれに向かって宣雄
「銕!そのまま近づいてはならぬ!」
と厳しい口調で制した。

「はっ?」
銕三郎少し驚きつつ父の眼を見返る。其処には既に柔和な眼差しはなく、
猟犬のように厳しいひとみ眸が食い入るようにこちらを向いている。

その間に狭い道端でもあり、番屋から金魚の糞よろしく
興味本位だけの野次馬共がついて来、あっという間に人だかりができてしまった。

「この者の知り合いはおらぬか?あるいは見かけたものもおらぬか?」
宣雄、衆人を見渡し、名乗り出るのを待つ。が、互いに顔を見交わすものの、
名乗り出るものはない。
つまり関わり合いを持ちたくないというのが本音であろうと想えた。

「やむを得ぬ。よいか、死人というものは、何が元かその因が判らぬ間は、
まず風上より様子をうかがうことだ。万一毒気であらばそれを吸うとも限らぬ」

その目も言葉もすでに先程の穏やかなものとは打って変わって厳しいものがあった。

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鬼平犯科帳 新編 鬼平罷り通る 2020年新年号 雀の森


「ほぅ然様か?ほれ先の方の茶店で、腰をかがめて貴様の方を見ておる女が
居るではないか!こいつをどう言い訳いたすつもりだ?」
宣雄いたずらっぽい眼で銕三郎の様子をうかがう。

「ええっ!……何処(いずこ)にそのような」
慌ててあたりを見回すものの、それらしき者は見当たらないではないか。
「銕よ、案ずるな、儂も男だ、あははははは」
宣雄左手を刀の柄の上に預け、もう片方は懐手に口元を緩めている。

「はぁ、もう驚きました。それにしても父上!お人の悪い」
(全く冷や汗ものだ、これだから父上に同道するのは気が重いわけだ)
銕三郎冷や汗がいつ流れ出てもおかしくない己の首筋に手をやり、
父の背中を観たものである。

「だがなぁ銕や、こうして歩いておっても、むやみに時を過ごすではないぞ。
己以外は師と想え!教えられることこそあれ無駄の一つもないものじゃ」
先程とは打って変わった厳しい父宣雄の言葉に銕三郎、冷や汗をかきつつも、
その言葉の重さを肝に命じていた。


本日はこの界隈を廻った後、雀の森(黒船神社)へ廻り、
越中島調練所辺りから大島町に戻り、中島町・熊井町と大川べりを永代橋まで
進む事にして、蓬莱橋を右折し、松平阿波守治昭下屋敷を大島川の向こうに眺めつつ
黒船橋にたどり着いた。

まぁ見習いとは言え、独りでこの辺りを見廻る時はのんびりと気ままに歩いている
ところではあるが、父と同道の場合はそうもゆかない。
父が何を見、どう思い、それをいかに対処するかを盗むように見習っている。

この黒船神社、別名すずめの森と呼ばれ、沖に出た船乗りたちが本所に戻る目印に
したほどの古木が鬱蒼(うっそう)と生い繁っている。

すでに秋の口ともあり、樹々も早々にその色めきを失い、しっとりと落ち着いた
金茶色のものが目立ち、道端の草も夜露か朝霧の名残なのか、
川から吹き寄せる冷やされた風に濡れ、柔らかな陽光にキラリと光って見せている。

平蔵親子は、三河藩主松平伊豆守信明下屋敷横の、つづら折りになった川沿いから
離れた細道を進んでいた。

この辺り、千代田城築城のための石置き場があり、その名残がいまだ散見される
ところである。
緩やかに曲りを持って大川から大島川に流れ込む辺りに差し掛かったおり、
何やら騒がしい人の動きに長谷川平蔵宣雄
「銕!何事か確かめてまいれ」
と嫡男銕三郎に指図した。

すぐ先の番屋に木場の職人や町人などが群れ、何事か大声で話している。そこへ
「俺は火付盗賊改の者だが一体何があった?」
銕三郎、衆人をかき分け番屋の入り口に顔をのぞかせた。

後の第165代火付盗賊改方長谷川平蔵宣以、若干二十五歳の若駒である。

中から出てきたのは木場の若者らしかった。
銕三郎を見るなり
「あっお武家様!あっしはこの先の大島町に住んでおりやす木場の川並鳶
(かわなみとび)(筏師)でございやすが、さきがた木場町へ出かける途中、
この先の石置き場を横切りやした。



日高摩梨 シャンソンのブログ

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鬼平犯科帳 新版 鬼平罷り通る 12月号 恙虫 第2回

 

  黒船稲荷

雀の森


 「人が殺されている!」
大声で叫びながら深川越中島調練所前の番屋に駆け込んできたのは、
木場の男衆と見える二十歳過ぎの男であった。

この日、火付盗賊改方139代長谷川平蔵宣雄は朝餉(あさげ)をすませ、
嫡男銕三郎(てつさぶろう)を伴い、本所菊川町の火付盗賊改方役宅を出、
富ケ岡八幡宮の周りを流し、永代寺門前町へとかかり、
永代寺門前を南下して蓬莱橋の架かる大島川に出た。

さらにこれを右にとり大島川沿いに西へと歩を進める。
この辺り、永代寺門前の岡場所で賑わうところ
「前垂れで 来る客とんで 深ばまり」
と狂歌に落首されるように、木場や新川にある様々な問屋の
奉公人達でも賑わうところ。

片方では高級料理茶屋が立ち並び、その中にも手頃な庶民の手の届く
小洒落た料理茶屋がひしめき、本所界隈だけでなく川向うの
公方様(くぼうさま)お膝元あたりからまでが大島川の河岸へ猪牙(ちょき)を
横付けさせて豪遊するという。吉原には敷居が高い庶民を中心にした
一大歓楽街でもある。

「銕よ、何をそのようにそわそわ致しておる」
宣雄、後ろをついてくる嫡男銕三郎に背中から声を掛ける。
「いえ別にそのような……」
「そうかえ?儂には気もそぞろと見ゆるがなぁ」

実はこの辺り、同じ菊川町内の旗本大橋与惣兵衛親英の娘久栄を娶(めと)る
数年前までは本所の銕と呼ばれるほど、その名を馳せた場所であったからだ。

銕三郎、独り歩きのおりならば、気軽に門前の女郎へも声を掛けている。
だが、本日は同行者が同行者である!
「あら銕さん!」
なぞと、いつ飛んでくるやら、辺りに目と気を配っての、気の抜けないお供である。

「父上!今の私は以前とは違ぅております」
予防線を張ったつもりがまだ幼いと言えよう。

「ほぅ…以前とは一体どのような事を申すのだ?」

「えっ!(しまった、つい口が滑ってしまった、どのように言い訳すれば良い!)

ああっ!はぁ、父上のおかげを持ちまして、こう…気ままにこの界隈を
駆け回っておりました頃のことを…はい。(どうにかこれでごまかせよう、
それにしても危ない危ない、弥勒寺あたりならば目も当てられなかったろう。
何しろあの茶店笹やのおくまにでも見つかろうものなら

「おい銕つぁん、こんおくまの店の前をす通りはなかろうよ!」

なんて、いつ飛び出してくるか判ったもんじゃァないからなぁ……

「銕!何をブツブツぼやいておる!どうせお前のことだ、この辺り、
金猫・銀猫だのと、脛の傷が痛むのであろう?」

「えっ!まさかぁ」

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新編 鬼平罷り通る 第1回 恙虫(つつがむし) 

恙虫(つつがむし)


明和6年(1769)隠し目付大月兵四郎は、当時幕府大目付より密命を帯び、
甲府一帯で非道の極みを尽くしていた恙虫(つつがむし)と忌み嫌われた
盗賊の一団を追って、密かに江戸を発った。

甲府は甲斐の守護大名武田信虎(信玄の父)が館を府中へ移した。
そのために甲斐の国、府中と言う意味合いから甲府と呼んだものである。

元は石見国(島根県)出雲辺りを縄張りにしていた恙虫一党だが、
追われ追われ、次第に上方へ逃げ延び、甲府の天目山棲栖雲寺(せいうんじ)
辺りに潜み、この一帯を根城に暴れまわっていた時代である。

石見には恙虫と言う名の妖怪が出没し、人の生き血を吸うと恐れられていた。
あまりの残忍な所業に、盗賊仲間達からさえ、彼らのことを{恙虫}と呼び合い、
忌み嫌われている一団であった。

 

恙虫1党に潜入した大月兵四郎の生息が途絶え、すでに二年が過ぎようとしていた。
だが一向にその一味の非道は収まらず、たまりかねた甲府勤番より助勢の嘆願があり、
老中から追討の命が下されることとなった。


明和8年(1711)10月十17日、長谷川備中前守平蔵宣雄、
時の老中筆頭松平武元(たけちか)より、これまで七年に及ぶ先手弓組七番頭から
火付盗賊改方助役を命じられ、同時にこの一味を捕縛せよとの下知あり。
長谷川平蔵宣雄、数十名の与力・同心と25歳になったばかりの嫡男(ちゃくなん)
宣以(銕三郎)を同道し、ひと月足らずでこれらを捕縛。

抗(あらが)って切り捨てられた者5名、捕縛されしもの30名、
捕縛をかいくぐった者一名であった。

取り調べの中、捕縛した盗賊の中に、行く方知れずとなっていた
大月兵四郎がいた。

彼は潜入探索の途中で崖から滑落し、そこで助けられた首領犬挟(いぬばさ)り
の繁造の娘と懇(ねんごろ)となってしまい、以来行く方をくらましていたのであった。

捕縛された時、すでに二人の間に女子子をもうけて居、覚悟を決めた兵四郎、
宣雄の差し出す脇差で首を掻き切り果てたのであった。

江戸に戻った長谷川平蔵宣雄は事の次第を老中に報告。
その中には探索中の大月兵四郎殉死と記されていた。

翌、明和9年(1772)俗に{目黒行人坂の大火}と呼ばれる目黒坂大円寺の
放火犯、願人坊主真秀(しんしゅう)と名乗っていた武蔵国熊谷無宿人長五郎を捕縛。

この時筆頭老中松平武元に功を認められ、翌、明和9年(1772)東町より上格の、
門跡・寺社を扱える京都西町奉行へ栄転を果たす事になる。

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10月号  めぐりあい 伊豫吉田藩 武左衛門騒動最終回




その2年後の寛政六年(1794
)、吉田藩井川方役人岡部二郎九郎が
河川敷の改修工事に大上野村に出張り、人夫を酒に酔わせて、

「首謀者を士分に取り立てるために加担者の名を教えてはくれぬか?」



と、姑息な謀を巡らせて、一揆の首謀者の名を探りだす。



重役会議が開かれ、その折、郷六恵左衛門が



「此度の一揆騒動首謀者の名が判明いたしたからには、
即刻これらを捕縛、処断致すが定法」



と進言。

寛政6年(1794
222日、
吉田藩は上大野村頭取嘉兵衛・是房村善六他
24名を捕縛、
内9名が目付け送りとなり、上大野村頭取嘉兵衛は
藩目付けに送られる事なく、翌寛政7年(
1795323日、
つつじ坂に於いて斬首され、
上大野村(後の日吉村)堀切に
7日間晒された。37歳の若さであった。



同時に捕縛された25名は永牢(終身刑)に処されるも、
安藤継明の17回忌に大赦され、お解き放ちになっている。



 



役宅にいた長谷川平蔵、
吉田藩安藤
明が若党渡邊千右衛門よりの火急の知らせにて、
事の一切を知った。



「なんと………」



遠く、はるか西海の向こう、伊豫宇和島吉田藩のあろう空を
じっと眺める平蔵の両瞼から、止めどなく涙が溢れているのを
妻女久栄だけが見つめていた。


実録
  この翌寛政7年(1795)4月、長谷川平蔵が病に倒れ危篤の報を
聞いた十一代将軍・家斉は「瓊玉膏」という高価な薬を下賜したが、
時すでに遅く、5月10日、長谷川平蔵数えの五十歳。

短くも波乱万丈の生涯を閉じたのである。



8年間という異常とも思われる長期に亘る火付盗賊改の職を御役御免と
なったのは、初7日の日であった。

平蔵が没する2年前の1793年7月23日。
長谷川平蔵を重用し続けた老中筆頭松平定信は、
海防出張中に突然幕閣より辞職を勧告され失脚していた。

長谷川平蔵が身罷る4日前、長谷川平蔵の生母(その)が、
同じ菊川町の役宅内で卒している。

この長谷川平蔵の菊川町役宅は、孫の長谷川平蔵宣茂(のぶしげ)が
45年後に御船手に出世したが、不祥事を起こし小普請組に降格され、
菊川の役宅を売り払った。

その役宅を購入したのが北町奉行遠山左衛門少尉景元。
ご存知遠山の金さんであった。

晩年の遠山左衛門少尉景元 桜吹雪の金さん
実際に景元は腕に入れ墨をしていたようで、
風が吹くと袖口を抑えるなどしじゅう気にしていたという。

まぁ、テレビドラマ風に、毎回桜吹雪を拝ませていては、江戸市中
誰知らぬものもとなり、見せられたその時で幕はおりてしまう。
あくまで傑作娯楽時代劇と言う話。






 


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めぐり逢い 9月号 伊予吉田藩武左衛門騒動





だが安藤継明は従者千右衛門の介錯はあったものの絶命出来ず、
吉田藩は御医師を呼ぶも、あまりの事に



「かような御事態ではお墨付きを頂かねば治療には入れません」



と医師は逃げ腰。



安藤犠太夫継明若党 渡邊千右衛門は主人の首を袱紗に包み、
予め用意していた黒塗り内朱の首桶に納め、
自らも腹を切ろうとするを駆けつけた宇和島藩士に止められ、
事の次第を吉田藩に報告しに戻った。



そのあと吉田藩中見役鈴木作之進はこの安藤犠太夫継明の
骸を取り片付けさせた。



時に安藤儀太夫継明、長谷川平蔵より一つ年上の49歳であった。



 



三間(みま)へ食料調達に出かけていた嘉兵衛は



「大切なお方を亡くしてしまった」
と泣き崩れた。



安藤明継切腹の訃報は会議中であった吉田藩家老尾田隼人、
宇和島藩家老桜田数馬のもとに届き、吉田藩では



「家中はでんぐりかえりて、隼人(家老尾田)が仰天ふだま
(キモ)を抜かして、火鉢を踏むやら、お色も青ざめももたち
(股引=ももひき)とりあげ うろたえ騒げば……」
とちょんがりで語られている。



これに対し宇和島藩では一揆の主導者は処罰せずと裁決する。



二月十五日宇和島藩家老桜田数馬・目付け渡辺平兵衛が
吉田藩陣屋へ赴き、常用書類の引き渡しを迫った。



これがきっかけとなり安藤継明の願い通り、
農民側から十一箇条の嘆願書が出され宇和島藩鈴木忠右衛門が受理



翌二月16日大目付須藤段右衛門は郡代配下を伴い八幡河原に出向き、
吉田藩からは若年寄郷六恵左衛門・
郡代横田茂右衛門・中見役などを伴い出役。



宇和島藩鹿村右衛門裁諾書の読み上げがあり、
農民側は八幡河原から撤収。



二月二十六日吉田藩は二十三箇条の通達を発することで
全面的に農民側の勝利となった。



 



一、上納米、豆計り方の事
一、紙、楮(こうぞ)の事
一、御用紙の事
一、江戸への進物の事
一、江戸夫、地夫の事
一、井川夫良の事
一、庄屋野役の事
一、材木出夫の事
一、炭出夫の事
一、家中頼母子無尽の事
一、酒禁盃の事



以上が十一箇条である。



このほか加えられた項目は



一、地払米斗方の事



一、御船具材木出夫出来の事



一、井川方定夫食米の事



一、永出入改方の事



一、浦方雑穀入相薪他所売の事



一、義倉米の事



一、社倉元麦五百俵拝借の分御引除き下され候の事



一、大工木挽の事



一、在浦賄仕出の事



一、男柱の事、?炭駄賃の事



一、在浦より進物の事



  
  計二十三箇条であった。


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一、地払米斗方の事



一、御船具材木出夫出来の事



一、井川方定夫食米の事



一、永出入改方の事



一、浦方雑穀入相薪他所売の事



一、義倉米の事



一、社倉元麦五百俵拝借の分御引除き下され候の事



一、大工木挽の事



一、在浦賄仕出の事



一、男柱の事、?炭駄賃の事



一、在浦より進物の事



  
  計二十三箇条であった。


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8月号    めぐりあい  伊予吉田藩武左衛門騒動



「で、そのおかたは?」

「初めて愛おしいと思ぅたおなごだ……」

「まぁ……」

「焼くかえ?」

「ええ…、それも狂おしいほどに。
長谷川様、私はこの度のお供で心を決めました」

「ほう…、何と……」

「侘びであろうと」

「武野紹鴎であったかな」

「はい……」

「それも善かろう、儂も然様ありたい」


〈侘びといふこと葉は、故人にもいろいろと歌にも詠じけれども、
ちかくは正直に慎み深く、おごらぬさまを侘びと云ふ。
一年のうちにも十月こそ侘びなれ〉 


その3年後の寛政5年(1793)紙専売を吉田藩の御用商人
法華津屋(ほけずや=三引・叶両家)の高月与右衛門・少右衛門が
藩に資金の融通を行うその見返りに、この紙専売権を独占した。

法華津屋は農民にも金の貸付を行い、彼らの漉いた紙を安く買い叩き、
代金返済に当てさせた。

農民が借入した櫨(はぜ)・楮(こうぞ)作付の資金は年賦償還で、
五カ年の返済猶予が設けられていたものの、その利息は高額で、
ほとんど農民の手元には戻ってこなかったという。

このために再び製品の抜け荷・密売を模索するも、
取り締まりの強化で阻止される。

吉田藩領内、上大野村嘉兵衛は、桁打ち(ちょんがり)と呼ばれる
浄瑠璃語り部に身をやつしながら、三年の時を費やし83ヶ村を
回って同志となる人々をまとめ、吉田藩宗家伊豫宇和島藩に
是房村善六と連名でその窮地を訴えた。

「本に皆様、聞いてもくんない 四国のうちにも かくれもござらぬ 
宇和島御分地 吉田の騒動……」
吝薔(りんしょく=ちょむがり=浪曲のような語り部)の頭文である。


寛政4年(1792)2月9日夜、延川村"とぎが森"に集結していた荒野子村から
延川村までの農民が翌日13日宇和島城下八幡河原に集結、
その数83ケ村9600名に膨らんでいた。

この為に宇和島藩では伊藤五郎兵衛、代官二宮和右衛門を遣わし、
農民に仮小屋を提供するとともに、帰村する者には弁当料まで支給。

2月13日吉田家家老尾田隼人が出張り、農民と交渉するも決裂。

翌2月14日、農民の要求も考慮の上税制などの藩政改革を説いた
吉田藩末席家老安藤儀太夫継明は、三十七歳の妻女と十六歳の子息
富太郎と別れの杯を交わし、刀は常の物より良い物を持ち、白装束も用意し、
一揆の集結している宇和島城下八幡河原に出向き、

「昨年の嘆願が今日に及ぶも裁定なきは、やむを得ざる事情によるもの。
我、家老職に席を連ねながら事を執り行う事能(あた)わず、
この騒擾(そうじょう=騒動)を惹起(じゃっき=起す)
したるは悉(ことごと)く吾が不徳の致す所、
上下に対し一言も申訳なき次第なり。

汝等上(かみ)を恨む事なく即刻願書を差し出し裁断を得て家に帰り
農事に精励(せいれい)せよ」
と説得するも衆者納得せず。

「願いを聞いて取らすゆえ出てまいれ」
と安藤継明は集結している民衆に声をかけた。

そこへ罷(まかり)り出でたものが上大野村勇之進、
だがこの会見は民衆の罵声や怒声にかき消され民衆に届くことはなく、
この会見の後、安藤儀太夫継明、白無垢の小袖に手を通し、
挟箱(はさみばこ=若党が常々登城に担いでゆく箱)より取り出した
麻裃(あさかみしも)に着替え、挟箱を置かせ、それに腰掛け、
静かに煙草を四~五服吸い、裃を跳ね除け脇差しを鼻紙で巻き、
一気に腹を掻き切った。

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7月号  めぐりあい  伊豫吉田藩 武左衛門騒動



「うん そいつがな、大三島に下見吉十郎という六部僧のお方がおられてのう、
その御方が薩摩より持ち帰りし薩摩芋を島で殖産しておった。
で誰一人飢えることもなかったそうな。
しかも余った米700俵を伊豫松山藩に献上したそうな」

「まぁよくそのような事が……
で、六部僧とは又一体どのようなお方で御座いますの?」
染は平蔵の話に目を輝かせた。

「六部僧とは書写致しし法華経を全国六十六箇所の霊場に一部ずつ納めるため、
諸国を巡礼致す行脚僧の事だとか、あ奴から聞き及んだ」

「まぁぁ・・・・・そのようなお話をあの方がなされたのでございますの?」

「ふむ あ奴の心の中はいつもこの話で満ち満ちておった、
いつか人の役に立つ仕事がしたい、それが口癖であった。

想えば此度のことも、あ奴にしてみれば、正にそのような出来事で
あったのやも知れぬなぁ・・・」

平蔵受けた傷よりも、この心の中にポッカリと空いたままの痛みが、
志半ばで、しかもそれを我が剣で摘み取ってしまった痛みと悔恨の情(おもい)
の痛みが甦る。

道後の湯は、まこと傷ついた平蔵の身も心も癒やしてくれ、
新妻のようにいそいそと介護にあたってくれた染の健気な姿、
それは又、平蔵の胸の奥深くにしまい込まれた異国の思い出となった。

「長谷川様!この伊豫はお魚が美味しいそうにございますよ」

「おお!確かに確かに、安藤殿が然様申されておったのぉ、
何でも鯛は目先で釣れるとか……いや、さぞかし美味かろう」
平蔵持ち込まれた膳を見て

「こいつぁ鯛かえ?」
と女中に尋ねる。
「はい こちらは活鯛飯と申しまして、釣りたての鯛を刺し身にしまして
白醤油と出汁で合わせた物に生卵を流し込み、そこに鯛を取り、
よく絡めまして胡麻、刻み葱などの薬味と一緒に温かいご飯の上に載せて
頂かれますと宜しゅうございますよ。

何でも瀬戸内の海賊衆が敵に見つからないように岩陰などに潜んで
煙を出さずに美味しくいただく工夫をいたしたとか聞いております」

「へぇ そいつはまた面白ぇ話ではないか、のぅ染どの、あはははははは」

染にとって久々に聞く平蔵の笑い声であった。
こうして染と平蔵の苦楽をともにした長い旅は終わった。


ひと月ぶりの本所菊川町火付盗賊改方役宅は、平蔵無事帰還に湧き、
安堵の色に包まれ、隅々まで弾けるような笑いに満ちていた。

無論この知らせは沢田小平次により、密偵の面々にももたらされ、
本所二つ目橋袂軍鶏鍋や"五鉄"でも主の三次郎が腕によりをかけての
大盤振る舞いが開帳されていた。

一方南本所今川町"桔梗や"でも女将の菊弥と染香の二人が
ひっそりと二人の無事の生還を祝していた。

ひと月の後桔梗屋に顔を見せた平蔵 染に一寸玉の珊瑚簪を手渡した。

京より戻って以来長らく中間の久助に預けていた、
亡きかすみの髪を飾っていたものである。
「これは・・・・・?」
いぶかる染に京での事をかいつまんで話し聞かせた。

「もしかして・・・」

「うむ 儂も染どのの黒子(ほくろ)の話を聞いた折それを想うた・・・」

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6月号  伊豫吉田藩 武左衛門騒動




平蔵の左脇腹は幸いにも肋骨が凶刃を阻み、
内臓深くまで達しておらず一命はとりとめた様子である。

が、このままでは出血が止まらず意識も薄れてこようと染



「長谷川様耐えてくださりませ」
と横たわっている平蔵の口に、天棚(あまだな)から
ぶら下がっている干し肉を喰ませ、
チリチリと鳴っている囲炉裏の火で火箸を炙り、
真っ赤に焼けたぎるそれを遠慮もなく傷口に押し当てた。



「うぐっ!!」
平蔵たまらず顔を歪める。



干し肉は食い千切られ畳の上にこぼれ落ち、
両手は染の腕が折れんばかりにつかんだまま、
意識が遠のくのを確かめつつも手をふろ払い、
構わず脂の部分まで焼き切った。



「ぐわっ!!!」



体力は限界を超えていたであろう、
平蔵そのまま意識は奈落の底へと滑り落ちた。



こうして出血多量で意識はかすかであったものの、
長谷川平蔵は染の手で急の手当を受けた後、
村人たちが荷車に布団を重ねて拵えた寝床に両者とも横たわり、
2日後無事吉田藩の安藤家に戻り着いたのである。



染の急ごしらえの荒療治が功を奏し、医師の手当を受けるも
傷口からの壊疽も視られず、傷口も絹糸を持って再度縫合され、
深手の割には予後の心配もうすらぎ、
命への心配はひとまず遠のいたと言えようか。



しかしまだ身動きはままならず、
それらの総てを染は甲斐甲斐しく執り行い、平蔵も委ねた。



それから数日の時は流れた。



「染どの、すまぬが起こしてはくれぬか、外が見たい」



隣の部屋で休んでいるであろう染に声をかける。



外はやっと白白明け染め始めていた。



平蔵この穏やかなひとときを確かめるように身を起こしかける。



襖を開け
「ああまだご無理はなりません……」

言いつつ染は平蔵の横に膝をつき平蔵の背中に腕を回した。



かがんだ拍子に、染の寝夜着の合わせた掛襟が緩み、
透き通るように真っ白な染の胸元の膨らみが平蔵の瞳に飛び込んでき、
染のふくよかな胸の谷間に小さな黒子が観えた。



「んっ?そのようなところに黒子か?」



「あれっ!恥ずかしい・・・ご覧になられてしまいましたか……



幼き頃生き別れた姉にもこれと同じ黒子がここにございましたの、
双子でございましたし、人様にもよく間違われました・・・うふふふ」



平蔵を抱え起こした染は、耳朶を染めてうつむいた。



襖が開け離され、宇和島海に昇る朝日が暗闇を朱に染めて輝き、
辺りを金色の帯と見まごうばかりの神々しさを伴い明けている。



その逆光を背にした染に、幻の女を視たように平蔵は感じた。



「何と!・・・・・」



平蔵、京で出会ったかすみにも同じ場所に同じような黒子のあったのを
想い出したのである。



 



翌々日、吉田藩家老安藤継明邸の門前に二丁の町籠が用意された。



その三日後伊豫松山藩温泉郡道後に一組の男女の姿が見えた。



「染どの、此処は“にきたつ”と申してな、
煮え立つ湯の津から名づいた名湯で、傷に良いそうな。



昔足を傷めた白鷺が岩場より流れ出る湯に浸しておった所、
傷は癒え、その白鷺が飛び立った後に村人がそこに手を浸すと温かく、
それより湯の里として栄えておると安藤殿が申された」



「まぁ長谷川様!それは宜しゅうございましたわね、
早く傷を癒やし、元のお体に戻っていただかねば」



染に伴われた長谷川平蔵の二人連れであった。



「儂はよく存じておらなんだが、
儂がまだ32で、西の丸御書院番士を勤めておった頃
知り会ぅた小太刀の名手でな、無外流の剣客
秋山小兵衛殿の紹介にて、同じ無外流
“都治
記摩多資英”(つじきまたすけひで)
道場の師範代
都治の狼”と呼ばれておった小松俊輔に出遇ぅた」



「ああ・・あのお方ですわね?」



「そうだ!世が世であれば安藤殿を助け、
吉田藩を背負ぅて行けた武士(もののふ)であったろうに……



あいつがある時ふかし芋をくれてな」



「うふふふふ お芋でございますか?
さぞかし美味しゅうございましたでしょう?」



「うむ 美味かった、今も忘れてはおらぬ、
芋を見るたびにあ奴の事を思い出されようよ。



その芋だがな、中国と伊豫二名島(四国)筑紫国(九州)
を襲った亨保の大飢饉(17311732
この三国の中でも瀬戸内沿いが大きな災いになったそうな、
餓死者は百万に近く、250万以上が飢餓に苦しめられたとか。



ところが伊豫の大三島だけは誰一人餓死者が出なんだ」



「まぁそれは又!何故でございますの?」


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めぐりあい 5月号 伊豫吉田藩武左衛門騒動




薄明かりに目を凝らし、それらの一つ一つに眼指しを送り確かめてゆく。



(違・・・違う・・・あのお方ではない・・・・・)



屋根裏へと通ずるのであろうか、釣り階子が少し下がったまま
中に浮いて、そこにもうら若い骸が寄りかかっていた。



囲炉裏端には魚の彫り物を施した自在鉤に南部鉄瓶が架けられており、
天棚から獣の肉と思しき塊が下がり、
あたりに漂う血潮の匂いが一層染の心を萎えさせる。



投げつけたのであろうか竹籠や筵(むしろ)が散乱し、
そこにも黒々とした骸がいくつも転がっている。



これらを一躰ずつ引き起こし確かめて行く。



その板間はおびただしく血糊が流れ、足を取られそうになる。
それを用心しつつ奥の部屋へと用心深く進んだ。



蹴破られた襖の奥の、八畳はあろうかと想われるひと間に
出血と返り血にまみれ、倒れ伏し重なりあって
倒れた二つの骸が出迎えた。



その横に顔半分を切り取られた骸がのけぞった格好で
刃を畳に突き立てたまま果てていた。



「……!!」



残る二体を確かめようと、着ざらしの折り重なった上の骸を
押しのけたその下に長谷川平蔵を見定め、抱え起こし両腕に抱きしめ、「嫌ぁぁぁぁぁ・・・・・・・」



染はあらん限りの声で泣き叫んだ。



その哀しみが、全ての声は、陽の届かない空虚な屋敷の中に
無表情に吸い込まれるだけであった。



それは僅かの時間ではあったかもしれない。



が、染にとって忘れることの出来ないほどに長い刻が
過ぎたように想えた。



薄闇に慣れ、辺りの様子もぼんやりと視えていた中、
絶望の果の哀しみに震えている染の耳元に



「染どの・・・来てくれたのか・・・」



弱々しくはあったものの、聴き覚えの男(ひと)の声であった。



「ばか!ばか!ばか!ばか!ばかぁ!!」



染は胸に抱きかかえた平蔵の肩に顔を埋め、声を殺して哭(な)いた。



その時階上から物音が聞こえ



「誰だ 女の声は誰……」



細々とした声が漏れてきた。



「染どの……恐らく安藤どのと想う、
済まぬが行って様子をみてはくれぬか」



ぐったりと横たわった平蔵の言葉を後ろに、
染は平蔵の脇差しを抜き放って、下がりかけている階子を降ろし、
油断なくその歩を確かめつつ上がっていった。



天井裏は全く陽の光を遮られ、瞳のなれるのに刻を用する。



足元を確かめつつ
「何処に?」
と声をかけた。



声はその奥から聞こえてきたようで、そこには誰の姿もなかった。



染の声に
「此処じゃその奥じゃ、そなたは誰だ!」



染は意を決し脇差しを正眼に構えたまま、
一歩踏み込み油断なく刀を脇に構えなおし、
暗い部屋の中に入って行き、閉ざされた正面の襖を開け放った。



そこには何やら蠢く者の気配があり、

「安藤様?」
と声をかけた。



「うむ、儂は安藤嗣明、そなたは何処の誰だ・・・・・」



寄ってみると、柱に縛られた髭も髪も伸び放題の
座した男と見える物が在った。



急ぎ縄目を切り放ち、
崩れるように横に倒れたその躰を抱き起こす。



「私は江戸より参りました、長谷川平蔵様の供の者にて
黒田染にございます」



染はしっかりとした口調で男の脇に身を入れて立たせた。



「長谷川殿が!長谷川殿が何故、かようなるところまで……」



驚きと歓びの交錯したこの男の表情を薄闇の中にも染は読み取り、
「まずは階下(した)へ」
と脇から抱え上げて階子まで誘った。



後ろ向きに這いつつ、一段ごと確かめる如く
安藤嗣明は現世にと歩を進めた。



階子を下りきり、再び染の肩を借りゆっくりとした足取りで
座敷奥へと歩みを進める。



そこに視たものは、血まみれのまま半身を起こしている
刎頚(ふんけい)の友、長谷川平蔵その人であった。



「長谷川殿・・・・・」



「おお!これは安藤様ご無事で何より、
この長谷川平蔵此処まで罷り越しましたる意味がござりました」



「まことかたじけなし」



後は両者ともに無言であった。



染の手配りにより、近郊の百姓が集められ、
まずは平蔵の止血と安藤嗣明へのおも粥が塩梅された。


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 めぐりあい  4月号   伊予吉田藩武左衛門騒動



平蔵半身を開き構え直すその隙を見て、
残る一人が剣先鋭く平蔵の胸目指して突きを入れた。

「馬鹿者!!!」
小松俊輔が思わず叱咤したがそれは届くことはなかった。

平蔵の斬り下ろした刃が眉間から顎に達し胸骨で止まり、
頭が二つに切り裂けて転がったからである。

「恐ろしいお方だ長谷川さん、貴方というお方はまこと恐ろしいお方だ、
さればこの小松俊輔遠慮ぅ無くお相手仕りましょう」

薄明かりの蝋燭の下、二つの影は幾度も激しく切り結び飛び退いた。

手傷を負った長谷川平蔵、刻が経てば増々勝ち目はない、
さりとて互いに次に動いた方が負けると判かっているから
迂闊(うかつ)には動けない。

一呼吸一呼吸間合いを取っての睨み合いの中、
一瞬風が吹き込み蝋燭の炎が揺らめいて(ジジッ!)と音がし、
虫が炎に触れ灯が消えた。

ダアッ!!両者の脚を踏み出す音とともに、
ぐわっ!!とうめき声が漏れ、その声は漆黒の闇の中に吸い込まれていった。

もう幾刻が流れたであろうか・・・・・
高研山(たかとぎやま)の方から朝がしらじらと明けてゆく。


「死闘の果」
吉田藩安藤家に身を寄せていた染は、
深夜の胸騒ぎが気掛かりでたまらなくなり、
急いで身支度を整え家人の反対を押し切る格好で、
先日平蔵が確かめていた日向谷村(ひゅうがいむら)に単身で向かった。

(何の、人はのぉ、口と目と耳と足さえあれば何処へなりと行けるものだ)・・・・・
平蔵の口癖を思い浮かべながら翌日昼過ぎには何とか日向谷村に辿りつけた、
なんとも凄まじい一念ではある。

村人に導かれて見つけた百姓屋の焼け焦げた草むらに、
呻きながら横たわって居る幾人もの浪人の姿が両瞼に飛び込んできた。

「・・・っ あっ!!」

急いで周りを見渡すが、染の両瞼に求める平蔵の姿は入ってこない。
蹴倒された戸板を押しのけ、三和土に一歩足を踏み込んだ染は
驚きのあまり声を失い呆然と立ち尽くした。

修羅場と言うものを初めてみた驚きは言葉にはならない。

外から小鳥のさえずりが遠く聞こえるのが、
この刻の生きているただひとつの証のようで、
雨戸は閉じられたまま一切の光を遮られた薄闇の中、

唯一奥の竈場から僅かに漏れる一条の光の中に
照らし出された光景は地獄とも喩えられようか。

一抱えもあろうかと想われる丸太を挽き割った蹴込は黒
々と鈍い光を見せて横たわり、
それにもたれるように瞳を見開いたまま仰向けに横たわる。

まだどことなし幼顔を残した若者の苦渋に歪んだ顔・・・
握られた白刃に光が跳ね返り青白く輝いている。
それらを避けつつ框(かまち)から板場へと一歩足を進める。

煤けた板場の奥は柿渋で塗り込められた衝立で仕切られ、
そこにも幾名かの骸が折り重なってもたれかけたまま絶命している。

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3月号 めぐりあい 伊予吉田藩武左衛門騒動




暗闇の中では同士討ちもあると読んだ残りの浪人は
緩やかではあっても明かりの灯る家の中へと平蔵を誘い込む。



警戒の目配りを緩めず、百匁蝋燭の灯りが揺れる中に入った
長谷川平蔵の目の前に、驚く光景が開かれた。



「長谷川さんじゃぁないか?」



灯りを前に男が驚きの声を上げた。



「何! おっ小松俊輔!俊輔!何故お主がここに・・・・・」



仄かな明かりに眼の慣れた平蔵、驚きの声を上げた。



「長谷川さんこそどうしてこんなところに??」



江戸にいるはずの火付盗賊改方の長谷川平蔵が
この遠国伊豫にあろうとは想像(おもう)だにしなかったからである。



「俺かい?俺は刎頚(ふんけい)の交わりをかわした
伊達家家老安藤継明どのの幽閉を知り救出すべくはるばるやって参った」



「何とした!!・・・・・長谷川さん頼む、
ここは目をつむって江戸に戻ってくれまいか」



俊輔は驚きと再会の歓びのないまぜになった思いを
押し包むように平蔵の目に両手を合わせた。



「何だと!お主ならばこそ、このような強力(ごうりき)ではなく、
もっと違ぅた手立てや方策も考えつくであろうに、何故だぁ」



血糊でヌラヌラと滑りそうな刀を引き上げる力とてないのか、
だらりと切っ先を落としたまま平蔵は俊輔を睨んだ。



「全ては考えつくし実行にも移しました、
だがこの藩は、おろかにも我が身が痛みを伴わぬことばかり考え、
民百姓は生かしておけば良いと想うております、
それではあまりに民百姓が浮かばれません。

生き場所を与え喜んで働けることを整えてやれば、
それはひいては藩のためにもなる、この理(ことわり)を
理解(わか)っておりませぬ」



俊輔は平蔵の前に立ちはだかったまま、
気負っている平蔵の気を萎えさせようと試みる。



「うむ、だが、安藤殿はそうではあるまい!
まこと民百姓の生場があってこそと、よう存じてござるはず」



ゆっくりと呼吸(いき)を整えながら平蔵俊輔を凝視した。



「まさに、だからこそ安藤殿は我らが最後の砦、
されば安藤殿を盾に交渉に及びましたが、全くの無視。
事此処に至れば実力もやむなしと、このようなことに」



「ならば、安藤殿を帰し、
まずはお主達の申し開きを致すべきではあるまいか?」



平蔵、この場の打開策を探るように俊輔に提示する。



「長谷川さん、もう矢は弦を離れました、我らが生きる道はただひとつ、
この生命を張ってでも意地を通さねばすみません」



俊輔は揃えた両の脚を軽く開き、(すっ)と左脚を後方に引いた。



「なんと 侍の意地と申すか!」



「正に!」



「ならばこの俺も武士の一分を通さねばならぬ」



平蔵切り裂かれた袖を引きちぎり、
血にまみれた刀の柄を包んで血糊を拭い取り、左方に捨て去って正眼に構えた。



俊輔は油断なく左手で鯉口を握って捻りながら、
ゆっくりと右手を柄に添え、



「見ればかなりの手傷を負われておる様子、
今の長谷川さんにはこの私は切れません、
どうかその刀をお収め願えませんか?」



静かではあるが、押しの効いた語気で平蔵に襲いかかる気配を見せる。



「如何にも!江戸でも五本の指に入る無外流“都治の狼”
小松俊輔相手にとって不足はない!参る!」


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めぐりあい 2月号 伊豫吉田藩武左衛門騒動



平蔵は家の入口付近に吹き溜まっている枯れ草にじっと目を据える。
時折野を分けて走る風に、その動きを測り、家に火勢の及ばぬ方向を見定め、
少しずつ枯れ草をかき集め、目的の場所へと隠密裏に移動(うごい)た。

種草に火打ち石で付け火をし、ゆっくりとそれを拡げ、
それはやがて風邪に転がされ2箇所に拡がった。
ゆっくりとした火の手が激しく上がり始めた時、
家の中から二~三名の浪人姿が外へ飛び出して来
「火事だぁ!!」
と叫んだ。

その声を聞きつけ、中から更に新しい手勢が追いかけて出てきた。
その隙を狙って平蔵大刀を引き抜き打ち伏せる。

骨を打ち砕かれ、ぎゃっ!と叫び声を上げながらその場に倒れる。
「曲者だ!!」

その声に、居合わせた浪人たちが慌てて抜刀し平蔵を取り囲み、
一斉に襲いかかった。
それはまるで野犬が獲物に襲いかかるに似ていた。

尋常な者ならば、互いに様子を伺いながら打ち込む隙を狙うものだが、
彼らは違っていた。

(こいつ!後ろに居る奴はさすが只者ではないと見ゆる)
統率の取れた仕掛けと打ち込みは、
手練(てだれ)を持って知られる長谷川平蔵をして
舌を巻くほどの陣容である。

(切り込めぬ・・・こいつぁちと早計であったか!!)
平蔵の頭のなかで我が身の危うい様子が駆け巡る。

とにかく一人でも打ちとって進めねば此方の体力が持たない。
持久戦ではあちらに地の利がある……。

平蔵次の瞬間身を翻(ひるがえ)して脱兎のごとく
その場を駆け去る動きに出た。
「ま、まっ 待て!」

追いすがろうと陣形を崩したその瞬間を読み切り、
瞬時に体を捻り袈裟に振り上げた。

ぎゃぁ!!二人目がもんどり打ってその場に倒れた。

勢い余って動きを止められない者が、
平蔵の目の前に泳いできたのを横に払い切り裂いた……
が、その瞬間平蔵は左脇腹に熱く鋭い痛みを感じた。
後ろに重なっていたもう一人が平蔵の空いた脇を貫いたのである。
「くうっ!!!」

平蔵その太刀を泳がせて背後から振り下ろして仕留めた。

だが残りの者達が再び平蔵を円陣に取り囲み、もはや逃げる手立てはない。
同じ轍は踏まないのも兵法であろう。

すでに辺りは闇が忍び寄り足元が定まらないほどになっていた。
「来い!」

平蔵大刀をゆっくりと下段に下ろし、息を整え、誘い水を向ける。
平蔵の荒い息を聴きとった浪人が
「だぁ!!」

鋭い気合とともに、左右から同時に平蔵めがけ刃風が襲いかかってきた。
平蔵は瞬時にその場に倒れこみ、刀を真横に払った。

げっ!! 脚を切られた敵はそのまま互いに反対側に転げ込んだ。
暗闇の中でその死闘は小半時(30分)も続いた。

打ち伏せたものの数は不明であるし、残る者の数もこれまた不明である。
そうして、当然のことながら平蔵も無傷では済まされない。
皆それ相当の訓練を受けた剣技の持ち主であったからだ。

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めぐりあい 2019年新年号 伊豫吉田藩武左衛門騒動

長谷川平蔵はその場所を知っている者を探させ、
日向谷村出の小作人芳三が連れてこられた。
早速平蔵身支度を整え、芳三の案内を頼みに単独での出張りとなった。

「長谷川様!! 染は此処で無事のお帰りを待ち焦がれております、
死なないで下さい、生きて生きて生きて!戻って下さいませ!」

平蔵、染の覚悟を決めた蒼白なまでの顔を振り返りただ一言
「染どの行ってまいる!」
見合わす互いの目にはそれぞれの顔が映し出されているだけであった。

ここは宇和島より北東に9里(35キロ)の奥深いところである。
平蔵と案内人の芳三二人が日向谷村に到着したのは翌二日目であった。
「お武家様ぁあっしがお侍ぇを見かけたのはこの先の荒れ屋敷でございますだ、
今も居るかどうかわかんねぇけども・・・・・」
さも居心地の悪い風に案内の芳三は、尻が落ち着かない様子で
平蔵を竹やぶに囲まれた百姓屋を指差した。

竹藪を進んで家のほど近いところまで寄り、遠くから様子をうかがった
ところでは、表で剣の素振りをしており、
日々の鍛錬を忘れていない敵と見なければならず、おそらく十名は下るまい。
しかもその大半が帯刀している様子、迂闊(うかつ)に手出しはできぬ。

「間違いない!よくぞあないしてくれた、礼を言うぞ」
藪陰に戻った平蔵、身を潜めていた芳三に一朱(6250円)を握らせた。
驚いた風に芳三は目を見張り、いくども平蔵に頭を下げて戻っていった。

再び竹藪に戻り、更に注意深く様子を伺った平蔵、敵の動きを読み、
何処から仕掛け何処へ誘い、我が身を最小限危険に晒せばよいかを
腰を据えて普(あまね)く探った。

深山の里、廻りは竹藪や雑木に覆われ、崩れかけた囲いの中も荒れ放題で、
身を潜めるには良いものの向こうから発見(みえ)にくいということは
此方からも視えにくいという事。

出来得る限り斬り合いは最小限に止め、此方(こちら)の被害を少なく
することを手立てせねばならぬ、一人二人は殺傷出来ても多数となれば
刀に脂が乗り、ガマの油を塗ったようなもので、もはや切殺は無理がある。
突き刺す以外に方法(て)がない。
平蔵打ち込みに工夫をせねばならない。
そうこうしているうちに陽は早々と落ち始めた。

(恐らく安藤殿はあの最奥の部屋と見た、そこまで深入りせず、
出来得るならば表に誘い出す策がよいのだが・・・さて・・・・・)
と辺りを見渡した平蔵の目に入ったものは、
秋の枯れ草や落ち葉の吹き寄せ溜まりであった。

(おぅ こいつぁ都合が良い、火攻めならば敵を混乱させることも
出来るやも知れぬ)

これは陽動作戦によく用いられるもので、見せ場を作って相手を動揺させ、
その隙に本懐を遂げる策略である。

外からの攻撃を見渡すために、庭木や石材など全て取り払われ、
身を潜めるものの何一つない構えは家に近づくのも容易ではない事を教えている。

(なるほど、この用心深さは只者ではないと見ゆるよほどの知恵者・・・・
さてどうしたものか)

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めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動 12月号

出てきた言葉に今度は平蔵が驚きを持って染の顔を観ることになる。
「では私も長谷川様のお供をさせていただきます」

「何ぃ!今何と申された!」

「はい ですから、以後私は長谷川様のお供を致しますと申しました」

「まままっ 待ってくれ染どの!物見遊山に出かけるのではないのだぞ、
少なくとも多少の斬り合いは覚悟の上、
そのような所へ染どのを伴ってまいることは叶わぬ、
こればっかりはならぬ!!こればっかりはな!」
平蔵のきっぱりとした口調に

「長谷川様!染とて与力黒田左内の娘、
習い覚えの小太刀は伊達ではございません、
それに私は辰巳の芸者、一旦口に出したことは
てこでも引かないことと長谷川様もよっくご存知のはず」

「う・・・・・・っ!!」
平蔵、この染の想いもかけない反撃に切り返す言葉を
見失って呆然とするほかない。

「いや 困った!正に困った!こいつぁどのように致さば良いか、
ほとほと困った!染どの!こればっかりは許すわけには参らぬ」

平蔵 詰め寄られて打つ手をなくした本因坊の心境である。

「あら 長谷川様!いつ私が長谷川様にお許しをお願い申しました?
私は勝手に参るのみ、長谷川様のお許しなぞ頂く必要もございません」

「おっ!・・・・・おいおい染どの、それは如何に何でも・・・・・」

「何でも?何でござんしょう、こっちゃぁ深川生まれの深川育ち、
そんじょそこらの芸者と一緒にされちゃぁたまったもんじゃぁ
ござんせん!粋と伝法が取り柄の江戸っ子でござんす」
ピシャリと決め口上に開き直った。

「いや待ってくれ!そなたにもしものことあらば、
儂はそなたの父御(ててご)に何と申し開きをいたさば良いか!
頼むから此処はひとまず引いてはくれぬか」
平蔵すっかり染香に飲まれてしまっている、
こうなったら強いのは女・・・・・

「あら長谷川様、そこまで私のことを思ぅてくださるのならば
(染!従いてまいれ)とおしゃいませな、
何があろうが起ころうがすでに父上とは水杯をかわしての旅立ち、
今更何を恐れるものとてございましょうか、
きっちりお覚悟なさりませ」

これにはさすがの平蔵も返す言葉もなく、
きりっと結ばれた染の薄紅色の唇に覚悟のほどを読み取るだけであった。

「あい理解(わか)った!染どの、そこ元一人にては死なさぬ、
この平蔵命を賭けてもそなたを親父殿の元へお返し致す」

平蔵は染の顔を見据え、窓の外を朱に染めてゆく伊勢の夕暮れを
瞼の裏に深く深く焼き付けた。

昼過ぎになって物見から風と潮の具合が良いと知らせが入り、
早速船は大坂に向かい快適に帆に風をはらんで海原を駆けてゆく。

江戸を出て10日目、地乗り(陸地にそって帆走)
続きに大阪道頓堀に船は着き、その足で平蔵と染は浦廻船
(地方便)に乗り換え備後鞆の浦から沖乗り(陸を離れる)
安芸国三津をへて7日後には伊豫松山藩三津浜港に上陸、
吉田藩まで23里(90キロ弱)2日半の道程であった。

大街道から宇和島街道をへて吉田領内に入った長谷川平蔵と染、
早速吉田藩家老安藤継明を陣屋に尋ねた。

だが、そこで得られたものは一握りの消息報でしか無かった。

吉田藩は宇和島藩領を分断する形で置かれており
、宇和島藩内にも吉田藩の飛び地があり、
この度安藤継明が出かけた指定先はすでに蛻(もぬけ)の殻であった。

平蔵はこの事件が長引くことを覚悟し、
染にこの陣屋から出ることはならぬと念を押して出掛けた。
平蔵には土地案内の小者が一人従いており、
いざというときはこの者が陣屋に駆け込むことも考慮されていた。

気遣う染に平蔵
「案ずるな染どの・・・これから先は男の軍場(いくさば)」

「おなごは足手まといと申されますか?
ならば何処へお出かけなされますか、それだけでも?」

「判らぬ、とにかく足取りを掴まねばならぬ、
時は待ってはくれぬからなぁ」

出かける平蔵は染にそう一言残し早朝に出立した。
こうして出かけた平蔵はその日遅く戻ってきた。

「何か足取りは掴めましたか?」

平蔵の気落ちした肩から支度を受け取りながら、
うつむいたまま染は尋ねる。
「うむ 敵の総大将は余程の知恵者と見ゆる、
僅かの手勢にて撹乱戦法を用い、その居場所さえ掴ませぬ、
五里霧中たぁこの事よなぁ・・・・・」
探索は得意の平蔵も、流石に知らぬ他国ではまるで
異邦人の心境であったろう。

その翌日日向谷村(ひゅうがいむら)から吉田領に下りて来た
山の者が、{通りかかった近くの百姓屋に野武士が大勢いて、
気味悪かった}という話をしていたと、
食材の調達にでかけていた安藤家の下女が戻って話した。

日向谷村(ひゅうがいむら)は後ろに千メートルを超える
高研山(たかとぎやま)が控え、高研峠を越せば
その向こうには土佐藩檮原(ゆすはら)村が連なっている。

その国境(くにざかい)にほど近いところが日向谷村であるという。

「そいつだ!」

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めぐりあい  11月号 伊豫吉田藩武左衛門騒動


その翌早朝、染の姿が霊岸島新川に見られた。
平蔵を追って1日遅れで染は上方への戻り
樽廻船に乗り込むことが出来た。



無論これは積荷協定違反ではあるが、
天保の改革(18301843)で株仲間の解散になったことを背景に、
ほとんど守られていなかった。



江戸から大阪道頓堀まで船旅は弁才船では
三ケ月から半年かかることも、
酒のみを運ぶ樽廻船なら早くても10日程度だが、
それでも風や潮の具合では簡単に2倍3倍かかった時代である。



1日先に出た平蔵の船が風待ちで志摩の国安乗(あのり)
に泊まっているところに追いついた染は、
船頭からその宿を聞き出し平蔵を探し求め、
目指す旅籠“船越や”に飛び込む。



「何!儂に客だ?一体・・・・・」



予想だにもしていない客の訪来の知らせに驚く平蔵の前に、
染が女中の背後からズイと前へ進み入って来た。



「ここっ!これは何と染どの!どうしてそなたが此処へ???・・・・・」



平蔵あろうはずもない染の出現に対処できないほどに驚いた。



「長谷川様!如何ようなる大事かは存じません、
長谷川様がお立ちになられた夕刻、奥方様より
長谷川様ご出立の知らせを戴き、こうしてお引き止めに参りました。
どうかこのまま江戸にお戻り願わしゅうございます」



両手をつき深々と頭を下げた後、そのまま
ぐっと燃えたった双の瞼(め)で平蔵を見上げた。



「染どの!何も申さず黙ってこれより江戸へお帰りなされ、
儂はこれより命のやり取りを致すために伊豫に赴かねばならぬ、
これは儂一人の戦、誰の手も借りぬ覚悟の故に
そなたを伴ぅ事もならぬ、すまぬが聞き分けてくだされ」



平蔵は静かな口調で染の瞼を見つめながら諭すように両手をとった。



その眸(ひとみ)は林の中をすり抜ける春風のそれに似て
穏やかに染の心の中に染みこんでくる。



「長谷川様・・・・・
そればっかりはお聞き入れすることは出来ません、
長谷川様お一人の命では無いことをご承知の上での
ご決断にございましょうか?」



染は半身を起こし、微動だにしない平蔵の眸を凝視した。



「・・・・・理解(わか)ってくれ染どの!
儂は此の世に失ぅてはならぬ人が居る、
そのお方のためにはこの命、如何ようになろうとも
臆(おく)すること無く捨てようと思うておる」



平蔵、染の両手を強く握りしめ、噛み含めるように言い聞かせる。
それは又おのれ自身にも言い聞かせているように思える。



その熱い思いがひしひしと染に伝わってくる。



「そのためにお行きになられますので・・・・・?」



「それが儂なのだ染どの」



どのように染が止め立てしようとも
最後まで首は縦に振られることはなかった。



「のう 染どの、此度のことはこの長谷川平蔵
命を賭してでも為さねばならぬやん事なきものなのじゃ、
例えて申すならばそなたの父御(ててご)左内殿に
もしものことあらば、儂は此度と同じことを致すであろう、
そこに誰しも入りきれない結び付きがあるのでござるよ。
儂はそなたと知り会ぅて親父殿を知った。



親父殿は儂にとっては亡き父と同じに等しい、
理解(わか)ってくれ!男の意地や武士(さむらい)の
面目でもない、儂にとっては兄とも想うておるお方の一大事なのじゃ、
それを見過ごせば、もはや儂の生きる道は途絶えてしまう。

たとえこの身が如何ようになろうとも果たさねばならぬ、
だから黙って行かせてくれ、のう染どの」



平蔵の切々とした言葉に染は返す言葉もなく
ただ平蔵の哀しげな両瞼(りょうめ)を視るほかなかった。



暫くして染はおもむろに口を開いた。


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10月号  めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動





しかしこの吉田藩との交渉は数日を経ても無回答という
冷ややかな応対となり、交渉は決裂。
強硬手段に訴えるしか手立てがなくなって行った。



こうした経緯(いきさつ)の後、義勇隊との単独交渉に乗り出した
安藤継明儀太夫はそのまま幽閉されてしまうこととなったのである。



こうして安藤継明幽閉の知らせは、安藤継明が妻女から
大名飛脚で長谷川平蔵のもとにもたらされたのであった。



「なんと、安藤殿が幽閉とは・・・・・
何としてもお救い致さねばならぬ、さて如何致さばよいか・・・・・
此処にいては打つ手もなし」



平蔵この知らせに対処するべき手立てのない歯がゆさに
腹立たしいばかりであった。



(何としても!・・・)平蔵の気持ちは日々盗賊改長官としての立場と、
安藤継明幽閉救出の間で大きく揺らいだ。



江戸より海陸ともに275里(1072キロ)の彼方での出来事に打つ手はない。



「佐嶋!どうにも手立てが見つからぬ、これより儂は伊豫に赴こうと想う、
後のことはそちに任せる故よろしく頼む」



と切り出した。



平蔵の苦境を判るだけに、さしもの佐嶋忠介もあえて反対は唱えず



「お頭のお心の儘が宜しゅうございましょう」



と覚悟を決めた。



だが妻女久栄はそう簡単に納得するはずもなく、
この度だけは執拗に食い下がった。



「何故殿様が直々にお出張りなさらねばならぬのでございます?
藩内のことは藩それぞれで収めねばならぬこと、
いくらお親しきお方であっても、
殿様には殿様の御役目がございましょうに」



と日頃伺うこともない強い口調で詰め寄った。



「解っておる!判っておるが安藤殿は儂にとって刎頚(ふんけい)
の交わり、武士の一分がなり立たぬ、征かねばならぬ、
それを判ってくれ」



平蔵は口を真一文字に結び、きっぱりと久栄の窘(たしな)める
言葉を断ち切った。



「殿様!!・・・・・」



これ以上何を言っても聞かないことは百も承知の久栄であったが、
それでも‥‥・・・と言う思いはあった。



粛々と旅立ちの支度をする平蔵に手を添えながら



「殿方には殿方のお覚悟もございましょうが、
残されたおなごにもそれ相当の覚悟がございます、
もはや何も申しませぬ。
聞けば伊豫二名島は海のはるか向こうと伺いました、
そのようなところにては何が起こるやも知れませぬ、
どうぞ1日も早い無事のご帰還を願ぅのみにございます」



と送り出す。



平蔵が慌ただしく旅だったその夕刻、南本所今川町“桔梗や”に
“染香”宛の書状が届いた。



「何んでござんしょうねぇ?急ぎの書状とは、
一体何処のどなたから・・・・・」



と言いつつ書状を読み下る染香の顔色が、
みるみる蒼白になってゆくのを女将の菊弥は見落とさなかった。



「染ちゃん一体どうしたって言うんだい!」



「姉さん、長谷川様の奥方様から・・・・・」



「なんだって!長谷川様の奥方様・・・・・で、
どのようなことなんだね!」



その言葉を最期まで聞かずに染は北川町円速寺裏の自宅に駈け出した。



「急ぎ参らせ候、此度殿様急の御用にて伊豫吉田藩まで
お出張りに相成りました、命を賭してでもなさねばならぬと
申されるほどの事とは申せ、私一人の力にてはいかようにもし難く、
どうにもお聞き入れくださりません。
つきましては、そなたよりどうか殿様をお引留めいただきたく
伏せてお願い申し上げ候。長谷川久栄」



とあった。



「これは大ごとだわ!」



菊弥は青ざめた染香の胸中を想うばかりである。


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9月号  めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動



亨保の大飢饉とは58年前の亨保16年(1731)中四・国国・
九州を襲った冷夏による害虫の大発生で稲作は壊滅的な打撃を受けた。
この影響で米価高騰により2年後の亨保18年(1733)正月、
江戸の米商人高間伝兵衛宅に庶民1700名が押し寄せ、
ついに江戸初となる亨保の打ち壊しが勃発する。

この事件を契機に八代将軍徳川吉宗は、米以外の穀物栽培も奨励し、
青木昆陽等に命じて薩摩芋の試作を数カ所で行い、
後に日本国内で飢饉対策のサツマイモ栽培が普及するのである。


「なるほどそこ元の道理はよぅ解り申した、身共とて民在っての政事と
よく承知いたしておる。
また此度の御触れには些か行き過ぎと想うて腐心も致しておった。
どうか儂の意見にも耳を貸してはくれまいか?」

慇懃(いんぎん)に両手をついて懇願する安藤嗣明に

「安藤殿のご意見とは吉田藩のご意見でござろう」
冷ややかに突き放すような小松俊輔の言葉を受け

「如何にも、吉田藩家老としてはそうであらねばならぬ、が 
その以前にそこ元のご意見を承りたい」
じっと小松俊輔の目を見据えて返答を待った。

「これまでの太枡(ふとます)による米の搾取
(税米を図る枡は一斗=15キロだが、これを一斗一升=16.5キロという、
基準より大きめの枡で税米をより多く納めさせた)
や此度発布されたる差米、米1俵(60キロ)に4斗6升(69キロ)・
大豆1俵(60キロ)に5斗(75キロ)
という重税は到底飲めぬもの。

加えてこれまで百姓の細やかな内職にもなっておりました紙漉を禁じ、
紙芳役所を設け藩専売とする、これでは農民は生きては行けません。

我らの思いは村、百姓が健やかに生業(なり」わい)を続けられる国造りにございます」
小松俊輔は、我が身の粛正を放置したまま、
その付けを農民に代償させる藩の政事(まつつりごと)こそ
改めなければならないことを、熱い眼差しとともにその冴えた弁舌で訴えた。

「全く同感にござる、儂も日々そのことに心を痛め、
何とか力になりたいと想うて奔走いたしておる。
だが、今の段階(かかり)にては打つ手なし、
手をこまねいて居るわけではござらぬが、
この苦境を脱するためにも今一度談合の方向を探れぬものか・・・・・」

安藤継明はこの度の吉田藩の政事が吉田藩伊達家改易にもつながりかねない
という現状を説き、苦渋の選択を迫られていると訴えた。

これに対し小松俊輔は冷ややかに
「すでに安藤殿の身柄拘束の知らせを吉田藩陣屋に知らせております。
その返答如何ではこの先どう転びますか、この私にも見当がつきかねております。
万が一交渉決裂の場合、安藤殿にもお覚悟を頂かねばならぬやもしれません」

行き詰まって混沌とした状況下で打開策を模索するのは、
かすかな燈明(あかり)でも探りたい、両者の思いは同じである。

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8月号 めぐりあい  伊豫吉田藩武左衛門騒動


しかし、この山を取り囲むように宇和島藩領村が存立していた為に
常に闘争の火種は転がっていたと言えよう。



此処に目をつけた義勇隊は村人を煽動(せんどう)し、
櫨(はぜ)や漆(うるし)の熟する秋には、
宇和島藩と吉田藩の境界あたりに出没、密かに採取させ、
木蝋・櫨蝋(もくろう=ロウソクの元)に加工したものを
大洲や新谷(にいや)隣藩、土佐の西土佐村を媒(なかだち)
に土佐藩にまでその販路を拡大していった。



木蝋は工程も簡便で採取した櫨(はぜ)の実を石臼で砕き
これを加熱して溶かしたものを布で濾し椀に流し込んで固めるだけ、
採取した実の2割が蝋になる。



時間の短縮と機材が依り簡便なために山中でも叶であったが、
加熱による煙の処理が紙同様問題であった。



煙を目指して山奉行所の役人がやってくるからである。



このために雨上がりや冷え込んだ朝に発生する霧の出る時を
狙って作成した。



義勇隊の面々は土佐藩との堺に近い日向谷村(ひゅうがいむら)
が後ろに千メートルを超える
高研山(たかとぎやま)を控え、
高研峠を越せばその向こうには土佐の檮原(ゆすはら)
が見下ろせる、この辺りまで抜荷、抜け売の拡大を図っていた。



山の尾根伝いに移動すれば最も近く速く辿りつけ、
又藩の目からもかいくぐれる方法であり、万が一見つかっても
その村民の区別がつかないところに抜け道があったといえよう。



それ以外にも他村と同じように、紙用の楮(こうぞ)を刈り取って
蒸しを入れ、剥皮したものを細かい束にして藩外に売りさばいた。



当然の事ながら宇和島藩もこの時期は特に警戒を強めてはいるものの、
何しろ保安範囲が広く複雑な地形と地理不案内に加え、
義勇隊が護る抜け売は神出鬼没であり、その効果は殆ど無いに等しく、
またそれを見越しての犯行でもある。



盗櫨被害の拡大に激怒した宇和島藩は吉田藩に取締の強化を
求め強硬姿勢で談判してきた。



元々吉田藩は宇和島藩のものであっただけに、
その威圧的な態度に吉田藩重役内部にも反発する者も大勢いた。



その中で末席家老安藤儀太夫継明は農民の良き理解者であったために、
矢面に立たされることとなった。



安藤儀太夫は農民たちに「嘆願書があるならばそれを出すよう」
促すが、83ケ村を擁する吉田藩領の農民たちの中でも
まだまとまりを見せておらず、宇和島藩と吉田藩、
そこへ加わる農民たちの三方から責められる格好となり万策尽きる。



この様な経緯(いきさつ)の後、宇和島藩からの強硬な抗議に、
吉田藩藩命により末席家老安藤継明はこの義勇隊の討伐に
乗り出す事になったが、戦乱の世から離れて時を経た武士は
抗争にはとんと役に立たず、攪乱戦術を持って望む義勇隊に
翻弄され続ける始末。



藩士5千人を抱える宇和島藩に対し、士分千人以下という
吉田藩では体裁を整える程度の事しか出来ないのが実勢であり、
しかも現行犯でない限り対処の仕方もないのが実情である。



安藤儀太夫は吉田領内に高札を掲げ義勇隊との交渉を提案、
これに応じる形で義勇隊より一定の条件下で交渉に応じると
返書あり、その条件に従い安藤儀太夫継明、
人足一人を供に指定された場所に出向き交渉にのぞんだ。



「吉田藩家老安藤儀太夫継明殿だな?」



隊長格らしき真っ黒に日焼けした骨太の男が安藤継明の前に
ドカリと座り込み飲み込むような眼差しでじっと嗣明を凝視した。



そのどっしりとした風格に安藤継明
(なるほど、この者ならば捜索隊が難儀をしたはずだ)
そう思わせる形貌(けいぼう)を持った男であった。



「そこ元は名を何と申される?」



安藤継明はことさらゆっくりと静かに男を見つめながら、
穏便な口調で問いかけた。



「私は元吉田藩浪人小松俊輔、亨保の大飢饉により
祖父が録を離れ浪々の身となりました」



「それは又・・・・・さぞやご苦労も多かった事でござろう、
ところでこの度いかなる理由(わけ)でこのような事件(こと)
を引き起こされた?」



「されば、この度出されし無体な吉田藩お定めには
農民の命が掛かっており、蜂起せざるを得ませんでした」



語気は穏やかだが、押し包むような勢いのあるのを
読み取った安藤継明(敵にするには恐ろしい奴)と
腹をくくらざるを得なかった。



 


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7月号 めぐりあい  吉田騒動武左衛門一気


安藤神社

このように農家はますます貧しくならざるを得なくなり、
その日すら生活が成り立たなくなっていった。

紙というものは手間隙(ひま)かかるもので、毎年11月から1月くらいまでに
1年物の楮(こうぞ)の若木を刈り取り、3~4日内外には漉し器という
桶のようなものをかぶせて3~4時間は蒸し上げる、
その後すぐに真水に浸し皮を剥ぎ易くして剥ぎ取り、
黒皮と呼ばれるこれを天日干しに架ける。
その後一昼夜真水に晒して手作業で1本1本皮を剥ぎ分け、
剥がれた内皮(白皮)を乾燥する。

この白皮と灰を入れた釜で2~3時間煮沸して繊維を柔らかくし、
川などの流水にさらして灰を洗い落とし、天日干しに架ける。
次に繊維の傷・節・汚れを取り除く、これを怠ると良い紙は出来ない。

この後繊維が細かくなるまで木棒で打ちほぐした後、
船とよばれる作業箱に入れ、水と粘り物のトロロを入れ、
クシ目の馬鍬(ませ)で均等になるまでかき混ぜ、漉桁(すけた)で漉し、
紙床に移し、その日の分を重ね終えたら一晩自然に水切りをさせて、
次に重石を乗せてこれも又一晩置いてトロロの粘りを取り除き、
紙床から1枚ずつ剥がして板に貼り付け天日干しにして出来上がる。

寛政一年(1789)4月、藩内の農民が紙漉の締め付けで困窮していると、
参覲交替で江戸に上ってきた藩士より知らされた小松俊輔は、
平蔵に別れを告げる間も惜しみ急ぎ故郷伊予吉田に戻る。
こうして生まれ故郷に戻った俊輔はかつて祖父が士官していた吉田藩内で
作柄不足と重税にあえぐ農民の苦境を改めて知る事となったのである。

小松俊輔は農民の窮状を吉田藩陣屋に嘆願するも、
それは全く取り上げられることもなく、
「直訴とならばご法度、それを承知の上か!」
と逆に詰め寄られる始末。

(何としても、この窮地を取り上げてもらわねば百姓たちが
生きて行けない・・・・・)
思案の挙句、彼は近郷で頻発している吉田藩と宇和島藩の
小競り合いを繰り返す山間に入り込み緩和させようと働きかけるが、
両者の歩み寄りは皆無で、終いには俊輔自身日常の糊口をしのぐにも
苦しい日々となっていった。

此処で、ふと思い浮かんだことは、俊輔が平蔵から聞いた
(領内が治まっていない事が公然となれば責任問題として
大名家改易の切り札ともなりうる)と言うことであった。

俊輔は一計を案じ藩と対等の力を持つべく義勇隊を組織、
これには吉田藩や宇和島藩から禄を離れざるを得なかった浪人者たちが
10名ほど集まってきた。

「まず我らが為すべきことは山岳地帯に入り込み
彼らに手を貸し殖産となる仕事を増やすことで、各々方にはそれぞれ個別に
村々を回り指導や開発に尽力してもらいたい。
まず手始めに、これまで行われてきた楮(こうぞ)による紙の製造、
これは諸藩にも重宝がられておる奉書や文書紙になる。
また場所によりては梶や桑による製紙も工夫できよう。

特に楮による備中の檀紙(だんし・元々はニシキギ科の壇=まゆみ/真弓で
漉いたちりめん状のしわのある高級紙)は極めて高価なものゆえ、
これを浸透させれば依り暮らしやすくもなろう.

作り方はこれまでの板に延べるのではなく、縄の上に懸け、朝露に当てて
シワを造らせ、これを少しばかり叩き伸ばす、これを繭紙(まゆがみ)と呼ぶ、
波の大小は大高(おおたか)他に中高・小高の区別があるものの、
何れもが並の紙よりも高額にて売り買いできるし、これまでの楮紙より
工程や機材が少なくて利便上も好都合」

と言う事となり、こうして小松俊輔の作成した製紙技法書を片手に
それぞれが散らばって行った。

伊豫吉田藩は宇和島藩主伊達宗利から3万石を分知されて創設されたが、
吉田藩に当たる土地は肥沃な穀倉地帯が多かった事に加え、
飛び地も多く宇和島藩との境界線の線引が複雑で抗争が絶えなかった。

義勇隊はこういった複雑な内情の中に新し知識や技術を浸透させるべく、
村々を尋ね村民とともに汗を流した。

だがこの努力も吉田藩の姑息なやり方によって、出来上がった紙は
無頼の者共に根こそぎ取り上げられる始末であった。

業を煮やした小松俊輔は新たな手立てを考えねばならなくなって
しまったのである。

まずは刈り入れた製紙材料を山小屋などで加工原料にして、
これを隣藩に売り捌くことにし、その交渉も代行することに決議、
早速とりかかった。

「よし!本日までにまとまった原料を束ね山越えをして
それぞれ隣藩に売りにゆこう、道中の警護は我らがする、
お前達は臆すること無く作業に励むよう」

「解りやした、ですがねお侍様、山ン中でとっ捕まったらどう致しやすんで?」
「それは任せておけ、そのために我らが同道致すのだ」
案の定この心配は起こるべくして起きた。

大洲藩と吉田藩の藩境へと尾根伝いに入りこんだ時、
大洲藩がたまたま警戒する中に入ってしまい発見されたのである。

「おい!待て!何処の者だ?われらは大洲藩山奉行所の者である」
これに驚いた浪人近藤主馬は農民の前に出て、さも面目無さそうな顔で
「これは何としたこと!ここは大洲藩でござるか?
我ら伊予吉田藩八幡浜喜木津村のものでござる、果て何処でどう間違えたものやら
、この山中ゆえ道も定かではなく、誠に持って面目なき次第にて・・・」
と低頭して詫びる。

「よくあることにござる、喜木津ならばこの先に非ず、
直ちに元来た方へ戻られるがよかろう!これより先は我が大洲藩のご領地になる」
と、もと来た方へ指図された。

「ははっ!この度は身共が不手際、かたじけのうござる」
と、さっさとその場を離れたのである。

「いやぁ魂消(たまげ)たねぇ!さすがお侍様は腹が座って・・・・・
おらぁ腰が抜けそうになったでよぉ」

百姓たちは冷や汗を拭き拭き浪人近藤主馬を見返した。
「さもあろう!儂とていざとなればとは想うておったが、
さすが軍師小松殿だ!こうも上手くゆくとはなぁ・・あははははは」

こんな状態で次に吉田藩の見番に発見されるや
「我ら大洲藩喜多郡の者にて・・・・・」
という具合に、うまく言い逃れてしまうのであった。

この戦術で撹乱することにより、更に宇和島・吉田両藩の反目は
被害の拡大とともに激化の一途を辿った。

こうした抜け荷売りによって農民はだんだん義勇隊に加担する村が
増えていったのである。

だが、この様なことは次第に吉田藩内にも周知の事なり、
再び締め付けが強化され、隣藩山付近の取締も一段と厳しさを
増していったのである。

こうした中、義勇隊は徐々にその力を見せるようになり、ついに宇和島藩と衝突することとなる。
中でも目黒山は、大部分が吉田藩所有林で、一部が村民の共有林であった、
そのために村人たちがこれを管理育成し、薪炭の製作等にも従事していた。

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6月号  めぐりあい  武左衛門一揆


 
安藤義太夫藤原継明を祀る安藤神社 宇和島市

安永6年(1777)長谷川平蔵は神田橋御門内の田沼意次邸で催された
御前試合に出場、この時の審判が無外流の剣客秋山小兵衛であった。

翌月平蔵は田沼意次邸の御逢日に立ち会い、秋山小兵衛に再会する。


「確か長谷川平蔵さんじゃったなぁ・・・・・」
小柄ながらも筋の通った体躯の60過ぎと思しき老人が平蔵に声をかけてきた。

「あっ これは秋山先生、またもやお目にかかれ・・・」

「おいおい そのような話はどうでもよいわな、
どうじゃ一つ面白い男に会ぅて見る気はないかい?」
何か下心の有りそうな細工の顔で秋山小兵衛、にこやかに平蔵に声をかけてきた。

「面白いお方でござりますか?」

「うむ、面白いとわしは思うたがな」

「然様でござりますか、秋山先生のお薦めとあらば」

「おお 会ぅてみるかい?ならば話は早いほうが良い、従いてきなさい」

こうして秋山小兵衛が平蔵を伴ってきたのは半蔵御門堀端を渡った先の
四谷御門に近い麹町9丁目四谷御門近くには紀伊藩・尾張藩・井伊部掃部頭
(いいかもんのかみ・幕末の井伊直弼居宅)この3つが隣接しているために
紀尾井坂(きおいざか)と呼ばれる坂がある。

「此処はな、儂が剣の教えを乞うた道場じゃ、ずい分と昔のことだがなぁ」

「と 申されますと無外流の?」

「さよう、辻右平太先生の時代だからのぉ」

「で、秋山先生の申される面白い男とはどなたのことでござりましょう?」

「ふむ 見なさい、あそこで稽古をつけておる男じゃ、
江戸では辻の狼と呼ばれておるそうじゃ、
さほどの者かな?・・・・・あははははは」

見れば中々の腕前と見え、数人掛かりでもあっという間に叩き伏せてしまう
その太刀筋は平蔵をして背筋の寒さを覚えるほどである。

「秋山先生、江戸は広うござりますなぁ」
これは平蔵の本音であった。

長谷川平蔵をして「まともにやりあったら勝つ自信がない」とその腕を
1にも2にも置いている火付盗賊改方同心小野派一刀流免許皆伝の
沢田小平次がいる。
が、これを除けば、このように平蔵が舌を巻いたのは初めてである。

「おう 稽古も終わったようじゃ、従いてきなさい」
小兵衛はかつて知ったる道場、遠慮もなく入ってゆく。

すれ違う門人は小兵衛を見るや
「これは秋山先生!」と敬意を表する。

(これほどの剣客であったか・・・)もう平蔵はこの小柄な剣客の
風貌からは想像を超えた目に見えない力に恐れさえ抱いていた。

こうして小兵衛の後に従って出会ったのがきっかけで、
よくこの道場を尋ねる平蔵であった。

その豪快さと繊細な心を持ちあわせたところが大いに平蔵を喜ばせ、
かけがえのない程の飲み友達ともなる、無外流剣客"都治記摩多資英"
(つじきまたすけひで)門弟、剣友でもあった伊豫吉田藩浪人小松俊輔である。


伊豫吉田藩は、寛保3年(1743)藩内に倹約令を発布、寛延元年(1748)
に藩士と庶民共学の藩校(内徳館・後の明倫館)を開校し、武芸・
学問を奨励し、木蝋(ロウソクの元)を藩の重要産物に指定、
農政改革に力を入れた。

伊豫吉田藩3万石、中興の祖と呼ばれた伊達村候(むらとき)の時代である。

天明2年~8年(1782)~(1788)東北地方を襲った天明の大飢饉による
被害は全国にその影響は及び、ここ伊豫吉田藩も例外ではなかった。

天明七年(1787)長谷川平蔵火付盗賊改方堀帯刀秀隆助役を拝命

この年伊豫宇和島吉田藩宮野下村三嶋神社神主土井式部清茂と
宮野下町の樽屋與兵衛は農民救済の強訴を企てるも密告により
果たせないまま獄死した。

この土井式部騒動が事の始まりで、やがて野火のごとく静かだが
確かに燃え拡がってゆくのである。

伊豫宇和島吉田藩郡(こおり)奉行中見役鈴木作之進は先の
土井式部騒動を無事収め、天明の飢饉で荒れた農村に部下七名を
控えて視察、老人や孝行者、農作業に励むものらを呼び出し、
菓子や酒を振るまい労をねぎらっていた。

彼の認め書には(百姓ではなく御百姓)と記されている。

彼の記述によれば、御百姓は一人ひとりでは気弱だが、
集まると心強くなる、だから藩政は力で抑えることは無理だと書かれている。

「御百姓の手元にも程々の紙漉利益が残るようにすれば騒動は起きない」
と知っていた。

だが郡奉行を無視する形で藩は紙座を設けこれを専売とした。
鈴木作之進は一揆の噂を聞くと村を回り、願いを聞き、諭して回った。

だが藩の裁定はまったくこれを無視、鈴木作之進らは狸役人と揶揄され
「冬春の狸を見たか鈴木殿、化けあらわして 笑止千万」
と落首されたほどであった。


時は長谷川平蔵が火付盗賊改方長官に任命された寛政元年(1788)

翌々寛政2年(1790)伊豫吉田藩は紙座を設け、藩の農家が農閑期に
手内職で漉き上げた楮(こうぞ)紙を藩が独占しようとした。

そこで村人たちが農閑期に丹精込めて漉いた紙を取り上げるために、
提灯屋栄造や覚造という無頼者を雇い、床下から天井裏まで虱(しらみ)
潰しに調べあげ、根こそぎ紙を没収、後には鼻紙1枚残らないと
言われるほど過酷な取り立てを行った。

しかもこのやり方は押収した紙の7割を役得料として黙認したのだから
陰湿と言わざるをえない。



 


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5月号 めぐりあい  吉田騒動武左衛門一揆 1



伊予吉田藩 安藤義太夫継明を祀る安藤神社

亨保4年(1719)紀州藩の足軽であった田沼意行は
紀州藩徳川吉宗の側近に登用され、
吉宗が将軍になってから小身旗本に取り立てられた。

その長男として江戸本郷弓町の田沼屋敷で出生した
遠江(とうとみ=遠州・静岡県)相良藩主田沼意次は
明和4年(1767)御側御用人から側用人へ、
さらに出世して2万石の相良城主となり、
その後さらに加増され5万7千石にまで加増された。

こうして田沼意次は悪化する幕府の財政を改善するために
重商主義を取り入れ、株仲間の結成や銅座の専売制、
鉱山開発、蝦夷地の開発立案、上方と江戸の金と銀の
不均衡是正、中国への俵物と呼ばれる俵3品(煎海鼠・
いりなまこやフカヒレ、干しアワビを俵に詰めたもの)
の専売による貿易拡大によって幕府の財政は改善された。

ただ、こうした資本主義は金銭中心となり、
やがて贈収賄が横行する背景にもなった。

明和9年(1772)4月1日江戸で発生した大火や
天明3年3月12日(1783年4月13日)岩木山が噴火、
7月6日88月3日)浅間山の噴火という連続した
大災害も勃発し、農村部が壊滅的な打撃を受け、
離農、離藩したものが近郊都市部に流れ込んだ。

こうした背景で百姓一揆や打ち壊しが頻発した時代でもある。


安永3年(1774)長谷川平蔵は31歳で江戸城西の丸
御書院番士(将軍世子の警護役)から西の丸仮御進物番
(田沼意次への付届け担当)に任じられ、
天明6年(1786)10月に田沼意次が失脚するまでの
7年間を務め上げ、翌・天明4年(1784)
39歳で西の丸御書院番御徒頭に、
天明6年(1786)41歳でお先手弓頭に、
翌年9月9日に火付盗賊改方助役(すけやく)を拝し、
翌年改方長官と、トントン拍子に出世街道を突き進む。


時は安永3年(1774)火事と喧嘩は江戸の花と
言われるように、紙と木でできた町家はよく火事が起こった。

長谷川平蔵は田沼意次の忠節・孝行・身分の上下にかかわらず
心を配ること(遺訓7箇条の内3箇条)などの心配りや、
倹約令のさなかにありながら息抜きも必要であろうと
遊芸を認めたこと、これまで無税であった商家からの納税や
海外との貿易による増収に主眼を置く重商主義にも
傾倒していたようで、

この頃神田橋御門内の田沼邸近くで火事騒ぎがあると、
長谷川平蔵は江戸城西の丸御書院番士の公務を抜け出し
田沼邸に走り、下屋敷に移るよう奨め、その半刻後(1時間)
には下屋敷に餅菓子が届くように手配、夕刻には
食事までも届くという気配りが、田沼意次の意に沿い、
翌年長谷川平蔵は西の丸仮御進物番(田沼への届け物番士)
に取り立てられる。

何時の世も同じだが、この時代も盆・暮れは普通のことで、
お世話になったり何かを頼む時はお礼をするたしなみは
ごく当たり前であった。

田沼意次を失脚させた後の老中松平定信が定めた
寛政の改革(1787~1793)には、賄賂を禁じる項があり、
本来支払うべきこれらのものまでも差し出さなくなったため、
寛政4年(1792)皮肉なことに付届けを義務付ける御触出しを
出さざるを得なくなった。

田沼時代には、御対客日や御逢日は公式日程が定められ、
明けの6ツ(午前6時)から朝4ツ(午前10時)
の登城前までの間に田沼邸の前には陳情者がつめかけ、
身分の差別をしてはならないという田沼家の家訓のために、
身分の低いものも列をなしたという。

そんな中、平蔵が知り合った諸藩藩士の中に後の伊豫吉田藩
末席家老安藤儀太夫継明がいた。

平蔵は自分より1つ年上の、この安藤儀太夫に教えられることが
多くあり、
彼は事あるごとに伊豫吉田藩は伊豫宇和島藩の支藩とみなされている、
それをはねのけるためにも収益性の高い特産品など殖産の開発や
温暖な地方による多毛作付けなどの農政改革が重要だと
その熱い思いを平蔵に語っていた。

これは田沼意次の重商主義に通じ、
また長谷川平蔵の目指すところでもあったから、
その交流は平蔵が西の丸御書院番御徒頭になるまで続いた。

その後も時折書面などが往来し、
平蔵をして「刎頸(ふんけい)の交わりにて兄と慕う」ほどであった。


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嘘から出た真  4月号


 


翌日平蔵は、横内雅之は
角鹿(つのが)の喜平次一味召し捕りの折殉職、店の下働き“はつ”は抗争に巻き込まれて死亡したと御調書に記した。



これは相対死(心中)の場合遺体は裸にされ、日本橋南詰の晒し場に3日間晒されのち、試し切りに回されることを避けての図らいであったろう。



二人の遺体は横内雅之の親元で引き取られ、手厚く葬られたと本所渡辺大工町泰耀寺の記録にある。



そののち、この古本屋獺祭屋は“はつ“のさわやかな笑顔とともに、誰もその行方をしらないまま江戸の町から消え、表には古本売買御書物處(かわうそてい)の看板が秋風に揺れているのみであった。



 



正岡子規は自らを獺祭書屋(だっさいしょおく)主人と号した。



執筆活動を続けた終焉の地が根岸であり、彼の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶ


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