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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

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7月号  極道酒場

剣菱     佐嶋忠介

盗賊改方でも、そのほとんどが知られていない、まぁこれは平蔵一人の秘め事、
といえば大げさではあるが、筆頭与力の佐嶋忠介、実は彼は大変な酒豪である。
仕事でも役宅でもまずそのようなことはお首にも出さず、ただにこやかに盃を干すが、
そういえば彼の乱れたのを誰も目撃したものが居ない。
この佐嶋忠介、長谷川平蔵が西ノ丸・徒頭(かちがしら)
に抜擢されて一年にも満たないうちの火付盗賊改方助役(すけやく)を拝命したおり、
現役の堀秀隆より借り受けた筆頭与力、それだけに頭脳明晰で
(佐嶋忠介で保つ堀の帯刀)と言われたほどである。
時折浅草界隈で見かけることもあるが、大半は菊川町の火付盗賊改方に詰めている。
本日は前触れもなく気ままに浅草界隈を流していた。
「お頭、下谷御成街通りに面白い名前の店を見つけまして、
あの当たりは代地の多いところでございますから、
様々な町から集まったために不思議な味わいのある場所でございますが、
本日行き当たりましたのはお頭も必ずやお気に召すであろうところでございます」
と少々跡を残して話題に上らせた。
「おいおい 佐嶋!そこまで言いかけてお預けたぁそのぉ何だ、ああ 早いとこ言っちまえ」
とそれに乗せられうずうずしている。
「はぁ それが人を喰ったと申しますか、舐めているといいますか極道酒場と申します」

「何だぁ 極道だぁ」
平蔵少しあっけにとられた面持ちで調書から目を上げ、
真面目くさっている佐嶋忠介の顔を見た。
「その 何だ、極道ってんだからさぞや・・・・」

「と私も想ったのでございますが、これが又真逆で、大真面目なおやじでございました」
「店はどうと言うものとてなくありきたり・・・極普通の店でございますが、
その中身にちと・・・・」
「おいおい勿体つけねぇで ななっ!その先へ進もうじゃァねぇか」
平蔵佐嶋の落ち着きが逆に火に油を注ぐの例えで、気ぜわしくなってきた。
「はい 店で扱っている酒、これがもうこだわり、この一言でございます」
「ははぁ~ん それで道を極める、つまり・・・」と二人同時に(極道)
「さようでございます」
「ふ~ん ならば近々寄ってみねばなるまいのう」
「はい その時はお供を・・・」
「あい判った!だが待てぬのう むふふふふ」

平蔵すでに佐嶋の術中の中で泳がされてしまっている。
明けて三日目、
「ちと出かけてまいる」
と市中見廻りの支度を済ませ、いざ玄関にと足が進んだおり

「あっ お頭本日は又何処へ参られます、
何ならばこの木村忠吾もお加え下されば・・・・・うふふふ」
「あいやぁ まずいやつに見つかったものじゃぁ」
「あれっ お頭、何かおしゃられましたか?どこかご都合でも悪い場所とか むふふふふふ」
「何をつまらぬところへ気を回しておる、左様なことではない、
本日は所用にて佐嶋との約定もあり出かけるのじゃぁ」
と、言葉巧みに振り払おうとするも、敵もさるもの引っ掻くもの

「おやこれは又お珍しい佐嶋様とお待ち合わせとは増々怪しゅうございますなぁ、
で 私めはおじゃまになると・・・」

と上目遣いに平蔵を見上げる。
「ああおじゃま虫じゃ!ちと厄介な話ゆえお前ぇははよう見回りにでも出かけて参れ」
とすきを突いて外に出た。
「やれやれアヤツの鼻はこのようなときはよく利きおる」
平蔵呆れながら、まぁこれでうるさい忠吾を振り切れたのだから一安心である。
筋違御門で待ち合わせして、件の店にいざ出陣!!
すでに平蔵そわそわしている、何しろ酒といえば佐嶋忠介の右に出るものは居ない、
味にうるさく奥も深い、この男との酒談義はさすがの平蔵も歯がたたない

「お前ぇは酒天童子の生まれ変わりけぇ」
と言うほどの猛者でもある。
筋違御門から少し入ったところの旅篭町に目指す店は在った。
「ここでございますよ」
佐嶋は先に立って店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
中から軽く弾けるような若い女の声が出迎えた。
「あっつ お武家様いらっしゃいませ!」
と出迎えたのはまだ十かそこいらの小娘であった。
「おっ お前ぇまだ小せぇのに感心だのう」
平蔵は思わずこの娘の奥に、かつて無頼の徒として暴れまわった本所四ツ目の
(盗人酒場)鶴(「たずがね」の忠助の一人娘おまさを思い出していた。
鶴(たずかがね)とは田鶴が音(たずがね=田鶴雅音)
つまり鶴の鳴き声の美しさ又鶴の雅語からも来ている。
「お前ぇ名前はなんて言うんだえ?」
平蔵は思わずこの娘に聞いてしまった。
「あたいははつっていいます」
とはきはきと明るい答えが返ってきた。
「おお そうかい!ではおはつ すまぬがな酒を見繕ってはくれぬか、
ちょうど昼前、酒の肴に良い物をな」
「は~い おとっつあんお武家様にネギま二皿」と注文を入れる。
「おっつ ネギまかぁ そいつぁいいや、さぞ旨ぇんだろうなぁおはつ」
と平蔵すでに準備万端の様子に佐嶋忠介

「このはつが働き者で女房のおしげはよく気が付き料理が旨い、
亭主は無口でございますがなかなかのこだわり者で」と解説をする。
やがて酒とともにネギまが運ばれてきた。
「やっ こいつァ旨そうだおい亭主、こいつぁ何だい?」
「へぇ 山鳥でございやす」
「っってぇっとキジとか鴨とか・・・・・」
「お武家様ぁ山鳥と言いやしてもそりゃぁ色々とございやす、
先ずは人様の口に入ぇる鳥といやぁ鶴・白鳥・雁・鴨・雉子・バン・ケリ・
鷺・五位鷺・うずら・雲雀に鳩やシギ・水鶏(くいな)ツグミと雀、
ここいら辺でございやす」
「ほ~ぉ そんなにあるとは知らなんだのう佐嶋」
「全くでございます、ふ~むそれほどのものが出回っておるとは、
軍鶏なぞはまた別の食べ方なのでございましょうや」と佐嶋忠介。
「軍鶏?あの軍鶏でござやすか?あいつらはそうそう手に入る代物じゃぁございやせん、
この辺りじゃぁ山も近ぇし、水場も近ぇと言うわけで
そこまでしなくってもいくらでも獲れまさぁ」
「なるほど左様だのう・・・・どれ一つ・・・・
うんっ!! 美味ぇこいつぁ美味ぇ美味ぜぜおはつ!」

平蔵はコチラの様子をうかがっている娘に向かって笑顔で答えた。
「そうでしょうおとっつあんの造ったものは皆んな美味しいといってくれます」
と顔をほころばす。
「こいつぁどうやて作るんだえ、よこん所をちょいと漏らしちゃぁくれめぇかなぁ、
この葱は千住か?それとも下仁田・・・・まさか松本の・・・・・」
「お武家様ぁなかなかの物知りでござんすねぇ、こんな場所での商売でございやす、
こだわりなんかぁございやせん、ただね、あっしらは魚や鳥を料理いたします、
ですが、こりゃぁ殺すんじゃぁねえんで、命を頂くんでございやすよ、

両手合わせてありがてぇって、食べる者の血となり肉となって
こいつらは生き返るんでございますよ。
せめて旨いと想っていただくものを作らなきゃぁ罰が当たりまさぁね
近場でとれるってぇことが一番の物、千住で朝獲れたてのやつを清水で洗い、
身を引き締めやす。
鳥は鴨を遣いやした。胸・モモなんぞを程々の大きさに切りそろえて
千住葱を一寸ほどに潰さねぇように切りそろえやす。
肉と葱を竹串で代わりばんこに刺しやすが、
この竹串のちょいとした尖り加減で肉が潰れることもございやす、
口じゃぁなかなか言えねぇが、まぁそんなところにも気を使いやす。
炭火を弾けねえょうにおこしておいて片方ずつ焦げ目がつくほど炙りやす。
焼きムラが出来ねぇように気を配るのがでぇじでね、
肉の脂が出てきたらこいつが燃えてうまくねぇ、
油臭くていけませんやぁ、そこんところが用心用心、葱も焼くんでありやして、
焦げ目はすすっけで不味ぅなりやす。
砂糖、醤油、みりん、酒を取り合わせたものに入れ中火程度で煮立てやす。
煮立ったところでさっきのやつを入れて中火で煮汁が無くなる程度に煮立てやす。
焦げ目がつき始めたら仕上がりでさぁ」
「う~ん さすが佐嶋が奨めるだけのことはある、いやぁまことこいつぁ美味ぇ、
ところで親父酒がうるせぇと聞いたのだが・・・・」
平蔵もう一つの楽しみにとりかかった。
「酒は生き物、中々にうるそうございやす、先程のやつが灘の下り酒、
摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)と言いやして、伊丹・池田・灘で出来たやつを
樽廻船で運びやす、下り酒の大半がこの摂泉十二郷の産、それ以外が尾張、三河、
美濃、他に伊勢湾で合わさるものに中国筋や山城、河内、播磨から丹波、伊勢、
紀伊もございやす。
「へ~ 左程にあるとは知らなんだのう」
「で ござんしょうねぇ、外には中川、浦賀に江戸入津と呼ばれたお上の出場があり、
ここで御府内に入る量を操作しているのでございやす。
下り船は房総沖で時化に合いやすいのでございやすが、
このシケのお陰で樽内の酒に程よい杉樽の薫りが滲みこんで旨い酒になるのでございやす」
「っつ! ってえとなにかえ、房総沖を通ったものがこの味を引き出すってえんんだな?」
「へぃ そのとおりでさぁ、けどね、そんなことを知った上方の酒飲みが
わざわざ船を房総まで引っ張ってきて、しけに合わせて、
そいつを又上方まで戻しちまうってんですから笑ってしまいやすよヘィ」
「仲買が買うときにゃぁ少々水増しされておりやす、
と言ってもそれなりの清水を使いやすがね。

これを杉樽に保存して、飲み頃になったらば新しい酒を調合して
継ぎ足し継ぎ足しで杉の薫りと酒の味を工夫いたしやす。
この時の調合具合でそれぞれの酒の味を競っているんでございやす。
新潟は又特別で、但馬屋十左衛門てぇお人が、米は新潟産、
水は菅名岳の銘水で、もろみを搾りきらず、荒走り、中走り、
中垂れの後の責めはゆるやかに落とし、
キメの細けぇ淡麗な酒に仕上げているのでございやす。
まぁ酒といやぁ伊丹か池田、がこいつぁねが張りやす。
伊丹の剣菱なんざぁ、将軍様の御膳酒でございやすからねぇ」
「おいおいついに将軍様までお出ましかえ、こいつぁたまげた、のう佐嶋」
さすがの平蔵も目を白黒の一幕であった。
「が、それにしても奥が深ぇ、何処のことであれ、
極めるってぇことは並大抵のことじゃぁねぇ剣術にしたってそうだからなぁ、
やる事ぁただひとつ、相手を切り倒す、ただこの一点のみ、

なれどそれぞれ工夫が在って、流派が生まれ、そいつを学んでも極め尽くせぬもの・・・・・
なるほどこいつも極道かぁ、うむ 本日はまた格別なことを学んだぜ、

礼を言わねばのう、ありがとうよ佐嶋、俺は色々なところに出向き、
様々なものに出会い出くわし、そこから絶えず何かを学ばせてもろうておる、

それが又儂の肥やしになり、人を見る目につながってゆく、
まこと世間は始まりもなくお終ぇもねぇ皆一つにつながっておると言うことだなぁ」
平蔵は改めて世間という広い器の中で、
それぞれが思い思いに暮らしている面白さを想ったようである。

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6月号   鷺山の嘉兵衛

小房の粂八

菊川町役宅を出て東に菊川橋手前を南に大横川を下がると新高橋に出る、
向こう角には船番所を控えたあたりで、扇橋を渡って対岸には
渡辺大工町代替え地が見渡せる石島町の一角、

木場へ通じる亥之堀に密偵小房の粂八が営む船宿鶴やがある。

この船宿鶴や、伊予大洲の藩士で森為之介が名を隠し商っていた物で、
森為之介(利右衛門)から平蔵が預かっているもので、
利右衛門夫婦が江戸に戻ってきてからは粂八に主人を務めさせ、
利右衛門は調理場をしきっている。

「粂さんじゃぁねぇかい?」
粂八は買い出しを終えて船宿鶴やに戻ろうと本所深川扇橋を渡りかけた時
不意に後ろから声をかけられた。

振り返ると棒手振り身なりの男が辺りに気を配りながら粂八に近寄ってきた。

「誰だいあんたぁ」
粂八は怪訝そうに相手の男を見返した。

「粂八さんじゃァないのかい?小房の・・・・・」

「何だと!」
粂八は少し構えなおして再び男の足元から頭の先まで見回した。

「もう二十年になるかねぇ鷺山の嘉兵衛お頭の下で
何度か一緒につとめをやったしぐれの時次郎だよ」

「あっ・・・・・」

「思い出したようだなぁ、まぁ俺もこんな形をしているから
見当もつけにくかったとは想うがよ、粂八さんは変わっちゃぁいねぇなぁ」

「そうか、そうだ!確かに覚えがある、だがアンときゃぁ・・・・・」

「そうさ、まだ二十歳前の小僧っ子でよ、
お頭にゃぁずい分しごかれたもんだぁねぇ」

「で お前さんはまだ鷺山の嘉兵衛お頭のところでつとめていなさるんで?」
と粂八は探りを入れた。

「お頭も、もう年でねぇ、最後のおつとめは江戸でして見てぇって
俺達もこうして当たりをつけたところを中心に回っているってぇ寸法さ」
と、気さくに話した。

「おつとめ先はもう決まったのけぇ?」
粂八の再度の探りに、いささか警戒したのか

「それより粂八さんこそ今はどうなんだい?」
と逆に探りが入った。

「俺かい?俺ぁ泥ん中に潜っちまったまんま鈍亀みてぇな毎日でね、
こうして店の仕入れをして帰ぇっているところで、店ぁすぐこの先だ」

「へぇ気質になったんだぁ」
と、少し気を許したふうであった。

「うむ まぁなぁそんなところよ、
ま 何かあったら使ってくれとお頭に言っといてくれよ」
と糸をつけることを忘れなかった。

「ああ分かったよ、お頭にもそう言っとくぜ」
時次郎はそう言いながら粂八と並んで歩き始めた。

やがて石島町の船宿鶴やに着いた。

「へぇ此処なんだぁ・・・・・いい所じゃァねぇか粂八さん」
時次郎は辺りを物色するように目を配って確認している。

「じゃぁな、又寄るぜ粂八さん」
そう言って時次郎は小名木川を南へと下っていった。

このことを平蔵に報告したのはその日のうちであった。

「何!鷺山の嘉兵衛!?」
平蔵聞きなれない名前に確かめた。

「へい 長谷川様はご存知じゃァねぇかも知れやせんが、
東山道で、犯さず殺さず、貧しき者からは奪わずという掟を
きっちり守った本格派の盗賊でございやす」

「へへぇ 盗賊にも本格派と言うのがあるとはのう粂!」
平蔵の鋭い言葉に粂八

「あっ これは!申し訳ございやせん」
と身をすくめた。

「まぁ良いってことよ、それより其奴がどうかしたのか?」
平蔵はそのほうが気がかりという顔で粂八を見た。

鷺山のお頭は今じゃぁ七十前になっていると思いやすが、
腹の座ったお人で、息のかかった手下は二代で務めている者も居るはずでござんす」

「ふむ よほど手下を大事にしておるのであろうな」

「へぇ 面倒見がよいと申しやすか、大世帯ではございやせんが、
お頭の目の動き一つで手前ぇのやることが解ると申しやすか、
持ち分を心得ておりやした」

「うむ 其奴がこの江戸に入ぇってくると言うんだな」

「へぇ 時次郎の口ぶりではそのように・・・・・ですが長谷川様」

「んっ?どうした?」

「へぇ ちょいと気になるところもございやして」

「ほぉ どこがだえ?」
平蔵はこの小房の粂八の想うところが少々引っかかった。

「へぃ 時次郎の口の端にゃぁ、お盗めはまだ定まっちゃぁいねぇようで、
そこんところが掴めねぇもんでございやすんで、
こっちから仕掛けるわけにもいかず、野郎の出方を待つしか・・・・・」

「だろうなぁ だがな!其奴は必ずお前ぇのところへ顔を出す、
何ならこいつぁ掛けてもいいぜ
江戸が初めてなら、多少でも縁のあるお前ぇをほっとくってぇ事はあるまいよ」

平蔵の予感は的中した、それから十日目を迎えた夕方、船宿鶴やに徳次郎が顔を出した。

「粂さんすまねぇがちょいと顔を貸しちゃぁくれまいか」
徳次郎は粂八を横手の路地に連れ込み

「お頭からの言伝だ、三日後にお前さんの店にお頭がお寄りなさる、
そんときお頭自ら前さんに頼みてぇことがあるそうだ」
そう耳打ちしてそのまま姿を消した。

早速粂八は平蔵の事の次第を報告した。

「ふむ と言うことは鷺山の嘉兵衛が江?に入ぇるということだな」

「へい そのようでございやす、で長谷川様これからどのようにすればよろしいんで」
粂八は今後の対応を平蔵に仰いだ。

約束の三日後待ち構えている粂八の鶴やに時次郎がやってきた。

「おや お頭は来られねぇんで?」
と粂八がいぶかるのを

「いやなに ちょいと様子を知りてぇとお頭がお言いなさるもんでね・・・・・」
と川向うをチラと眺めた。

松平伊賀守下屋敷の向こうに霊厳寺の大屋根が見える辺り
川端の柳のたもとに男が一人佇んでこちらの様子伺っている。

「なぁに用心に越したことはねぇからとお頭が、
ちょいとこの周りを確かめていなさるんで」

「なるほど そういうわけかぁ、判った悪いが帰ぇってくれ!
俺ぁ今じゃぁお頭に何の義理もねぇ立場だ!話もここまで、
さぁ仕事に戻らなえぇとお客が待っていなさるんで、お頭によろしく伝えてくんな」
粂八は突き放すように対岸の男の目を見た。

「まままっ 待ってくれ粂さん、記を悪くしたなら謝る、
決してそんなつもりじゃぁねぇんだからよぉ」

「へぇじゃぁ一体ぇどんなつもりだとお言いなさるんで?」
粂八は此処ぞと糸を手繰り寄せた。

二人のやりとりの気配を感じたのか、対岸の男は扇橋の方へ歩き始めた。

「粂さん、お前ぇさんもよく承知だと思うけど、
お頭はあの慎重さがあって今まで一度もお縄の憂き目にも遭っていなさらねぇ、
そいつぁお前ぇさんが一番良く知っているんじゃァねえのかい?」

「まぁな だが、俺としちゃぁ少しも面白くもねぇ、
毛ほどの疑いでも持たれたとあっちゃぁいい気持ちはしねぇもんだぜなぁ徳次郎さんよ」

「すまねぇすまねぇ、悪く想わないでくださいよ、
っつ お頭がお見えになった、粂さん済まないが部屋を借りるよ」
徳次郎はそう言って鷺山の嘉兵衛を出迎えた。

粂八は先に入っており、利右衛門の女房おみちが出迎えた。

店に入って帳場を見たおみちは、
そこにそろばんが立てかけてあるのを横目に確かめて

「ではお二階へご案内いたします」
と先に立って案内した。

しばらくして粂八が酒肴を抱えて上がっていった。

帳場にそろばんが立てかけてある場合は2階に定められた部屋に通す暗黙の決め事であった。
この部屋は粂八の寝起きする場所であり、又襖を開けたその狭い壁際には階段があり、
上の秘密の部屋に上がれる仕組みで、
隠し部屋からは床の間の飾り窓から中が覗き見るように工夫が施されている。

静かにその隠し部屋に上がったのは兼ねて粂八と示し合わせ、
前もって潜んでいた長谷川平蔵であった。

「お頭 お久しぶりでございやす」
粂八は神妙な面持ちで鷺山の嘉兵衛を見た。

「おお 粂さんお前さんも元気そうじゃァねぇか、
徳次郎からお前さんの達者なことを聞いたときやぁ嬉しかったぜ、
まぁ何だ一つ盃で温めようじゃァねぇか」
と、粂八のさし出す杯を受けて回した。

「へぇありがとうございやす、ところでお頭はいつお江戸に?」

「ウンゆんべのことよ、徳次郎の用意した宿に腰を下ろし、
それから今日こうやってお前さんを訪ねてきたってぇことよ」

「さいでございやすか、で、鷺山のお頭はこのあっしにどのような御用が
おありになるんでございやしょう」
と粂八は隣の隠し部屋から嘉兵衛が見えるように向きを入れ替えながら言葉を回した。

「俺ももうすっかり年を取っちまった、納め金をこのお江戸でつとめてみてぇと、
まぁそんなところさね」

「で、心当たりは在るんでござんすか」
いきなり粂八が確信をついた

一瞬嘉兵衛と徳次郎は眼を見合わせたが、
素早く表情を和らげた粂八に少し警戒心を解いたのか

「うむ まぁ幾つかは目星をつけた、だが深ぇところまでは調べがついちゃぁいねぇ。
何しろ右も左もさっぱり見当がつかねぇ、
さすがお江戸は広いとこの徳次郎とも話したんだよ。そこで相談なんだがね粂さん」

と嘉兵衛は真顔に戻り粂八の目を覗きこむように少し腰の曲がったまま下から見上げた。

「へぇ どのようなことでござんしょう、
あっしはもうすっかり堅気な暮らしでおりやして、
中々お頭のお役に立てれるとは想いやせんが、それでも何か・・・・」
と道糸をたれるのを忘れいない。

「そこさ!」
横から徳次郎が口を挟む

「そこなんだよ粂さん、お前さんにやぁ直接すけてもらおうとは思っちゃぁいねぇのさ、
だがね、俺等ではどうにもならねぇことも在る、
そいつぁ長年このお江戸で暮らしているお前さんに頼むのが一番と
相談が決まってのことなんだよ」
嘉兵衛は煙管に葉を詰めながらゆっくりと粂八の反応を伺ってきた。

「なるほどねぇ・・・・・・で、どんなことがお知りになりてぇんで」

「なぁに人手は十分ある、後はその手配りのための絵図面など元ネタになるものがほしいのさ」

「と おっしゃられやしても相手がどこなのか判らなけりゃぁ
そいつぁちょいと無理かとおもいやすが」
粂八はその先を引き出そうと仕掛けをいれる

「そこはまだ煮詰まっちゃぁいねぇ、
お前さんがすけてくれるかどうかで決めようということになっているんでね」
と徳次郎が口を挟んだ。

「判りやした、あっしも昔はお世話になった鷺山のお頭のたってのお頼みとありゃぁ
断るわけにも参りやせん、出来る限りの事ぁさせていただきやす」
両膝に手をおいて粂八は嘉兵衛を見据えた。

「判った ありがとうよ粂さん、これで俺も腹が決まった、
早速したくにかかろうじゃぁないか、ねぇ徳次郎」
と嘉兵衛は後ろに控えて居る徳次郎を振り返った。

徳次郎は嘉兵衛の顔を見返しながら
「良うござんしたねお頭、これでお勤めはもう仕上がったようなもんでございやすよ」
とえびす顔を見せた。

その一瞬の変化を平蔵は見逃さなかった。

二人が引いた後、そそくさと粂八が平蔵のいる部屋にやってきた。

「ふむ アレがお前ぇの言うまっとうな盗人なんだな」
平蔵はじっと床の間にかけてある花を見据えて考えこんでいる。

「長谷川様 何かご不審なことでも?」
粂八は平蔵の反応を察知して言葉を出した。

「なぁ粂 連れの徳次郎とか申したなぁ、アヤツはどうも気に食わねぇ、
あの一瞬だが光った眼が俺は気に食わぬ」
平蔵はその奥にある徳次郎の思いを引きずり出そうと考え込んでいた。

「お前ぇ奴とは長ぇのかい?」

「とおっしゃいやすと、あの徳次郎・・・・・」

「うむ そいつよ」

「野郎がまだ二十歳前の小僧っ子のじぶんから
3年ほど一緒にお勤めをしたこともございやすが、それが何か?」

「あっ いやどうってぇことはねぇかも知れぬが、ヤツのあの眼が俺は少々気がかりだ」

「へぇ まぁ人も時にやぁ変わるってこともございやすから・・・・・」
粂八は今の自分を想像できなかったことを想っているのであろう。

「よし、とにかく奴の顔はしっかりと拝んだ、次の繋ぎを待って
それから手当をすればよかろう」
平蔵は粂八に指図をして本所に帰っていった。

その二日後鶴やに徳次郎がやってきた。

「粂さん、お頭からの使いだ、日本橋難波町当たりから
船で逃れ道の水路を知りてぇとのことだ。
粂さんが船宿をしていなさるので、そのあたりをお頭はお頼みしてぇと
思っておいでのようですぜ」
と攻め場所が少々判明してきた。

「わかった、そこからどの方面へ落とせばいいんで?」
と更に先を促したが、

「今ん所それをお知りになりたいだけのようで、
先についちゃぁ俺も知らねぇんだ、すまねぇ」
と口は堅い。

「分かったよ、だがなぁ通る場所によっちゃぁ船番所もあちこちあるし、
そう簡単に事は運ばねぇとお頭につたえておいてくれねぇか」

「判った、そう伝えるよ」
そう言って徳次郎は店の裏手から横道に抜けて人の目を避けるように帰っていった。

「妙な野郎だぜ、表から入ぇって来ても良さそうなものをよ」
と板場の利右衛門にこぼした。

「なぁ粂さんもしかして誰かに後をつけられていたとか・・・・・・」

「おっ そうかも知れねぇなぁ、そういえば先日長谷川様が野郎の目配りが気に入らねぇと
おしゃっておられたからなぁ、そうかもしれねぇ・・・・」
粂八は己に言い聞かせるようにつぶやいた。

「すまねぇちょいと本所のお役宅までご報告に行ってくらぁ」
と粂八は夕方近く本所菊川町の平蔵の役宅へ出向いた。

「何?粂八が参ったか」
平蔵は取り次いだ沢田小平次を振り返って

「すぐにこちらへ回せ」
と裏木戸を指した。

しばらくして枝折り戸が開き、粂八がひざまずいた。

「おお 粂 なにか変わったことでも持ち上がったのかえ?」
と調書に目を通しながら聞いた。

「へぇ 長谷川様、今日例の徳次郎がやってきたんでございやすがね、
野郎ひと目を気にしているような素振りで、ちょいと気になったもんでございやすから」
と本日の報告をし終えた。

「おい 粂、そいつぁ何かあるぜ、まぁお前の川筋を利用してぇと目論んだところからも、
おそらく襲うところは日本橋界隈、それも行きずりの仕掛けとあっちゃ
足元を見定めてと考えれば店は川べり、しかも納め金とくるからにゃぁ
少々の金子では事足るまい?その辺りで金が集まりそうなところを至急皆で手分けして
探ってまいれ」
平蔵は調書から目を話し粂八にそう言いつけた。

それから二日後には日本橋界隈の大店や目立たぬが金の集まりそうな店の名前が上がってきた。

「ふむ・・・・・この中でお前が押しこむとするならば、佐嶋どこを選ぶ?」
平蔵は与力筆頭の佐嶋忠介に絵図面を広げてみせた。

「左様でございますなぁ伊豆れも大店、しかも小判が集まるという条件を入れますと、
やはり両替商が一番かと、その場合この本両替の伊勢屋、三河屋、難波屋の三軒、
それに脇両替を含みますと優に十軒はございます」

「うむ だがなぁそういったところは警戒も厳重であろうよ、
生半可なことでは金蔵は破れまい」

「左様でございますなぁ」
佐嶋忠介も腕組みをして絵図面に見入っている。

そこへ粂八が
「長谷川様!目的の店が判りやした!」
と息せき切って駆け込んできた。

「何押し込み先が判明いたしたか!」

「へい まだ日時は定かじゃぁござんせんが、
奴らの繋ぎによれば難波町菱垣やのようでございやす」

「菱垣やだと、なるほど旨ぇ所に目をつけたもんだ、
それだと船が入ぇって来る日を当てれば良いわけだ、
でお前ぇの腕が必要ということになるわけだ、
なるほど旨ぇところを読んだものよ、
さすがにお前ぇが褒めるだけのことは在るぜなぁ粂八、
鷺山の嘉兵衛か、一度おうて話がしてみてぇもんだ」
と平蔵は攻めの的が絞れてきたことに少し気持ちも緩んだようである。

「よし、続けて相手の出方を待て」

こうして事件は第二段階に入ったと思えた。
だがここで想わぬ事件が火付盗賊にもたらされた。

盗賊改め同心小柳安五郎が町奉行町廻り同心から聞きこんだ所によると、
下谷広小路二丁目の川に死体が上がった。

小柳から
「粂八より聞き及んでいた男の人相風体に似通っている」
と知らせがあり、粂八と沢田小平次が駆けつけた。

懸けられたムシロをめくった粂八が一目見るなり
「あっ・・・・・」と漏らした。

沢田小平次が
「どうだ粂八!間違いないか」
と押し殺した声で尋ねた。

町方が周りを包囲して見物人を押しとどめているので、大きな声も出せない。

「間違いございやせん!沢田様、確かに徳次郎でございやす」
このことは早速平蔵に報告が上がった。

「何と奴が殺されたとな・・・・・・」

手繰り寄せた糸のぷつんと切れるのを平蔵は感じた。

「殺され方は如何であった?」

「はい刃物で背中から心の臓を一突き、見事なまでに
それで事切れるほどの手際の良さにございます」

「何だと!とするならば殺った相手は侍ぇだな、急所を一突き、
それもてめえに血飛沫がかからぬように恐らくは大刀での留めと見たがいかがであった」

「恐れいります、まさにその通りの鑑識にござりました」
沢田小平次は平蔵の恐ろしさを再び思い知らされたのであった。

相対しての殺傷となるとどうしても返り血を浴びることになる、
正面からでは動きを気取られてどうしても一突きは難しい、
そのようなことを判断できるのは侍ぐらいしか無い、
それも在る程度は腕に覚えのものでなければならない。

「そうなるとお頭、相手が新たに増えたとみなさねばなりませぬな」
佐嶋忠介が平蔵の顔を見た。

(むぅ ・・・)
平蔵はこの新手の敵について何一つ知れないことに不安とあせりを感じているようであった。

たぐりかけた糸がぷつりと切れて二日が流れた。

鶴やの粂八の元へ見知らぬ男が訪ねてきた。
「粂八さん・・・・・・でござんすね」
四十がらみの腰の低いその男はしきりにあたりを気にしている様子に粂八

「まぁ入ぇんな」
と店の中へ促し
「ところでお前さんは一体誰なんで!」と半歩突っ込んだ。

「申し遅れやした、私は鷺山の嘉兵衛の配下で芳兵衛と言いやす。 
すでにご存知かと想いやすが、徳次郎さんがあんな目に合っちまって、
お頭も困っておいででござんす」と話し始めた。

「一体何があったんでござんす?」
粂八は事の起こりを聞き出そうとした。

「粂八さんはご存じねぇかと思いやすが、お頭のおかみさんにぁ兄さんがおられやして・・・・・」

「お頭におかみさん?そいつぁ知らねぇ、でそのあにさんがどうかしたのけぇ」

「へい その幸助さんは鷺山のお頭とは反りが合わねぇ、
けど仲間内じゃぁ何の力もございやせん、
ただ女将さんの後ろでえばっているだけの取るに足らねぇ野郎でござんした」

「ちょいと待っておくんなさいよ、
だったってっぇ事ぁいまはそうじゃぁねぇって聞こえるんだがねぇ」

「そのとおりでございやす、鷺山のお頭の具合が悪くなってから、
女将さんが仕切りたがるようになっちまって、
それを後から押し上げているのが幸助さん、その間で揺れていたのが・・・・」

「徳次郎ってんだな」

「その通りで、お頭はそれに気づいて居られたものの、どう手を打って良いものか・・・・・
でお前さん、粂八さんに渡りをつけて一手先をお考えなさったってぇわけでございやす」

「粂八さんに出くわした徳次郎さんは、
粂八さんがお頭に手をお貸しくださるってぇことが決まって、
お頭のほうへ沿ったと言うことで、そのために密かにお頭が薦めて居られた
押し込み先などを徳次郎さんから聞き出そうと幸助さんが元黒門町の常楽院に呼び出して、・・・・・」

「その挙句殺っちまったということだな」

「へぃ お察しの通りで、どうやら徳次郎さんは漏らしちまった様子で、
ですが本当のことは徳次郎さんもはなっから知らなかったんでございやす」
この答えには粂八が驚いた。

「何だってぇ!!それじゃぁこの前の話は・・・・・」
粂八は平蔵に報告したことが間違いであったと聞かされ動転しかけたほど驚いた。

「鷺山のお頭は徳次郎さんの動きを妙だと気づきなさって、
それでちょいと漏らしたんでございやす」

「こいつぁ一体ぇどうなっているんで・・・・」
粂八は次に打つ手が見つからずまごついた。

鷺山のお頭はおかみさんや幸助の網に中で身動きが取れねぇんでございやす。
あっしにも幸助の眼がくっついているんじゃぁねぇかって・・・・・」

「それでお前さん辺りを気にして」

「さようで・・・・・」

「弱ったなぁそれじゃぁ話は振り出しってぇことになるわけだ」

「いえ そうではございやせん、鷺山のお頭は打つ手は打っておられやす、
粂八さんにこう伝えてくれとおっしゃいやして」
と声を落とし辺りの気配を伺いながら耳打ちした。

「押込み先は牛込関口櫻木町諸国物産の大店上州屋」

「何だと難波町の菱垣やじゃぁねぇっていうんだな、間違ぇねぇ話なんだろうなぁ!」

血相変えた粂八の勢いに驚きながら
「粂八さんそんなに驚くたぁ何か訳でもおありなさるんで?」
と心の動揺を読み取られ粂八

「そうじゃぁねぇ がよ、そうじゃぁねぇが先の話では全く方角が違うから
まごついただけのことよ」とはぐらかす。

お頭の目論見じゃぁおつとめを終えた後、江戸川から小石川、神田川と抜け大川へ、
そこから千住の宿を通って日光街道へと逃れるつもりでござんす」

「じゃぁどうあっても船を使っての仕事となるんだなぁ」
粂八は時の流れを早めるには川船を使うほうが早いと考えた鷺山のお頭の計画を感心していた。

「じゃぁ何かえ難波屋の方はどうするつもりなんでぇ」
とこの行方を尋ねた。

「決まっているじゃァねぇか幸助さんに襲わせるつもりよ、
そうすりゃぁこっちに火の粉は降りかからずに済まされるってぇ寸法、
さすがに鷺山のお頭は読みが深ぇ、そうじゃァないかい粂八さん」
と粂八の考えを探るように見やった。

「そいつぁ妙案だ、それならおつとめの邪魔もねぇってわけだな」

「問題はこの先さ粂八さん、お前さんの船を取りっこになっちまう、
そのことをお頭は案じていなさる」

「そうかぁ 俺の動き一つで謀がバレちまうってぇこったなぁ・・・・・」

「そこんところを粂八さんにお頼みするようにとお頭は・・・・・」

「判った、そいつぁ俺に任せてもらいてぇとお頭に伝えてくれねぇか、
俺の相方で伊三次ってぇのがいる、こいつをお頭に付けようじゃァないか、
俺がそっちに行っちゃぁ幸助にバレる心配もあるからなぁ」
と粂八は平蔵の読むだろう謀を頭の中で巡らせていた。

「で、お頭はいつお盗めをなさるおつもりで?」
と最後の詰めを口に出した。

「粂八さんの返事次第と言われてきたんだが、その返事ももらったことだし、
これで決まりだ。明後日の夜四つの鐘までに目白不動山門と決まりだ」

「ようしそいつぁ判った、で幸助の方はどうする、俺が向かわにゃァならねぇ、
そのところをしっかりとしてくれてなきゃぁ野郎にけどられてしまうじゃぁねぇか」

「判っているってよ!心配しなさんな、そこんところもお頭がちゃんと考えていなさる。
 同じ時刻に日本橋元浜町の稲荷社に集まることにしてある。
幸助さんにはそう耳打ちしなさった」

「ということは野郎の息のかかったやつだけにその刻限が伝わるってぇ寸法・・・・・・
なるほどさすが鷺山のお頭のなさることには抜け目がねぇ」
粂八はそう呟きながら、さて平蔵にいつどう伝えるかを思案している。

「じゃぁ早速俺は船頭の手配をするから、
お頭には伊三次ってぇ若ぇのが俺の名代で逝くからとよろしく伝えてくれねぇか」

「よし そっちのほうは任せておきなってことよ」
芳兵衛は荷が軽くなったことで足取り軽く帰っていった。

その日の夕刻、粂八が菊川町の役宅に訪れたのは言うまでもない。

「長谷川様、ちょいと厄介なことになりやしたが・・・・・」

粂八から事のいきさつを詳しく聞いた平蔵

「粂よくやってくれた、それで良いそれでなぁ、
いやぁさすがにお前ぇのおっぽれた頭目だけのことはある、
やることが抜け目ねぇ、ところでなぁ粂、人数は定かではないのであろうな」
少し心配なのは手勢のことである。

打ち込みを二手に割かねばならない、万が一逃亡を許せば老中からの叱責は免れない所。
それを案じての平蔵の言葉に

「面目もねぇことで長谷川様、あまり深く突っ込みやすと・・・・・」

「判っておる、心配いたすな粂」
平蔵は粂八の気持ちを軽くしてやろうと気配りをした。

「酒井はおるか!」
平蔵の声にしばらくして筆頭同心酒井祐助が控えた。

「おお 酒井ご苦労だが清水御門前の役宅に出向き明後日夜四つに
目白不動尊に出張る人手を手配りしてはくれぬか、指揮は佐嶋に任す、
お前は日本橋元町の稲荷社を頼む、こっちの方は手練のものがおるようなので、心して掛かれ」
と指図した。

「心得てござります、早速これより清水御門前に」
そそくさと酒井祐助が出て行った。

こうして万全の構えで迎えた押しこみ当日、外は前日からの五月雨で田畑は潤い、
蛙の声があちこちから聞こえてくる。

稲荷社を遠くにじっと潜んでいる盗賊改めは、
平蔵を真ん中に灯りもない暗闇に偲んでいた。

遠くで夜四つの鐘が雨音の中を抜けるように流れてくる。

難波町の菱垣や向かいの辻にある小間物屋の土間にいっ時前から潜んでいる盗賊改めは、
三々五々集まってくる盗賊の人数の把握に余念がなかった。

やがて四丁半ほど先の稲荷社を張っていた粂八が駆けつけてきた。

「長谷川様殆ど揃ったようでございやす、中に侍ぇ風体の浪人が三名、
他は流れ者のようでこっちは五名ほどでございやす」

それを聞いた平蔵
「ご苦労であった、この雨の中をすまねぇなぁ粂八、後は我らに任せておけ、
今聞いた通り浪人は三名ということだ、粗奴らはわしと酒井に任せて、
他の者は残りのものを一人も逃さず召し捕れ、間もなくやって来よう」
平蔵の言葉が闇の中に響いた時雨音の乱れる様子が聞こえてきた。

「来たぞ!」
予め外しておいた表戸を押し倒して一気に打ち出した。

「火付盗賊改方長谷川平蔵である!鷺山の一党観念いたせ!」と呼ばわった。

同時に提灯に灯がともさ龕灯(がんどう)の中に一味の形相が燃え上がった。

「クソぉ殺っちまえ!」
ばらばらと周りを取り囲むように一党が陣をひいた。

ズイと構えを溜めて浪人が身を乗り出した。

「邪魔立てするか!」
平蔵のその言葉を待っていたかのごとく盤石も貫けと激しい突きが平蔵を襲った。

呼吸を揃える間もないがために平蔵わずかに身を開き、
それをかわして右から左へと抜き打ちに胴をはらった。

「ぐへっ!!」
血しぶきを上げながら平蔵の左側に崩れ落ちた。

相手の呼吸を待っての突きはすさまじいものがあった、平蔵の胴着にその痕跡が残っている。
あちこちで激しいしのぎを打ち合わせる音が響き渡っている。

だが事が収まるのにさほどの時はかからなかった。

抗って手向かったため切り捨てたもの五名
十手で打ち砕いたもの三名がガンドウの下で雨に濡れボロ雑巾のように散乱し、
流れ出る血がまるで花のように辺りを染めていった。

骸は戸板に乗せ、捕らえたものは数珠つなぎになって近くの番屋に引き立てられ、
仮の吟味が平蔵によって行われ、朝を待って清水御門前に引き上げた。

暫くして後、盗賊改め役宅に目白不動尊打ち込みの組が佐嶋忠介を筆頭に凱旋してきた。
こちらは抵抗するものは誰もなく、鷺山の嘉兵衛を頭に全員が捕縛された。

平蔵はこの鷺山の嘉兵衛を前に
「お前が鷺山の嘉兵衛だな、俺はこれでお前を二度見た事になる」

その言葉を聞いて嘉兵衛は
「えっ!!」と驚きの声を発した。

「一度はな、船宿鶴やであった」
それを聞いてもまだ合点がいかない様子に

「徳次郎の仇は粂八が取ったぜ」
と嘉兵衛の前に腰を落とし後ろを指さした。

そこには小房の粂八が神妙な顔で控えていた。

「鷺山のお頭・・・・・」
粂八のうなだれた顔を見た嘉兵衛は

「そうか 粂さんおまえさんだったのかい、あはははは、
お前さんに死に水を取ってもらえりゃぁ思い残すことぁねぇ、
恐れいりやした、さすがにお江戸の鬼は恐ろしゅうございますなぁ長谷川様ぁ、
これで冥土の土産も出来たというもんでございますよ、
それにしても粂さん、お前さんいいお頭らにつきなすった。
でぇじにするんだぜ、長谷川様、こいつをよろしくお頼みいたしやす」
と両手をつき平蔵に頭を下げた。

「お頭!」
粂八は我慢しきれず嘉兵衛の前に手をついた。

「かんべんしてくれ、俺ぁお上の狗(いぬ)に身を落としちまった、すまねぇすまねぇ」
と声を上げて泣いた。

「馬鹿野郎、何てぇもったいねぇことを言いやがるんでぇ、
これだけのお人がお前ぇさんをここまで頼りにしてくださっているんだぜ、
有り難ぇ話だぜ粂さん」

こうして鷺山の嘉兵衛一味はそれぞれ評定所で裁きを受け刑が決まった。

幸助一味は死罪、幸助の妹嘉兵衛の女房松は長谷川平蔵殺害幇助の罪で遠島、
鷺山の嘉兵衛一味七名はいずれも島送りとなった。

鷺山の嘉兵衛についてはそのお調書には
(鷺山の嘉兵衛大番屋にて老死)と簡単に書き留められているだけであった。

それから半年、本所扇橋近く石島町の鶴やに
七十(しちじゅう)前とみられる下働きの穏やかな顔の男の姿が見られたが、
それが誰なのか知る者もない。

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5月号 ねぎき鍋


下仁田ネギ

外はみぞれ混じりの師走前、本所二ツ目橋の軍鶏鍋や五鉄。
「おい彦十、こう寒くっちゃぁ何だぁ ほれ!あったけぇもんが恋しくははならねぇかい」

「そりゃもう銕っつあん三島女郎衆がとびっきり、次に控える千住の女郎、
閉めて諦め幕の内ってねぇ。熱々の鍋に高遠の一本葱や千住葱、
深谷葱から矢切葱と数え上げりゃぁ両手が塞がっちまいやさぁ。
けどね、ネギといやぁ この辺りでもう一つ・・・・・」と相模の彦十

「おいもしかして!ネギまとか・・・・・」

「当たり!座布団1枚やっとくれぇじゃぁござんせんがね、
ネギまといやぁ冬の季語ってぇぐれぇのもんで、
さすがぁ当たり前だの百萬石とくらぁね!
ねぎまにゃぁちょいとうるそうござんすよ。

ネギまに合うのは何ったってかかあ天下にからっ風!」

「おい そいつぁ上総国の・・・・・」

「やだねぇそこまで知っていなさるったぁ、
こちとらの出番も失せて下を向きなぁんってね。

当たりも当たり大当たりのコンコンチキ、
下仁田葱ってぇもんで御座んしょう!。

こいつをブッツリ太めに切る、だがお立ち会いとくらぁね、
まな板なんぞで切るなぁとうしろうのやるこってござんすよ!」

「ほほぅ ではどうやって切るってんだぇ?」

「よくぞ訪ねてくだしゃんしたときたもんだ、
岩清水でさっぱり洗った白魚のと言いたくなるようなこの根深、
二っつ3つ小脇に抱え、チョイのチョイのと菜切包丁で素っ首落としやす」

「素っ首たぁ穏やかじゃぁねぇなぁ」

「なぁに所詮は白首ろくろっ首と、ぱぱぱんと切り落とし、こいつを直火で炙りやす。
そうすりゃぁまたまた甘みがまして、そりゃぁもうとろとろの甘葱に変わりやす。

醤油・酒・味醂に昆布と鰹で煮だした出汁で割り下を作りやすがね、
昆布は煮立つ手前で引き上げて粘りを嫌って上品に、
まるでおぼこの白い肌と来たもんだ」

「おい彦十 何と今日のお前ぇは油が回ってよくもまぁ左様にぺらぺらと、
ハァンてぇしたもんだぜ、白粉臭ぇ脂にでもまみれてきたのかえ?」

「こりゃぁお褒めに預かり光栄の行ったり来たりってぇもんでござんしょうかねぇ銕っつあん。
下田葱は焼くに限るってぇやつでござんすよ、
続けてカツオを落として、こっちも煮立つ前に火を落とし、
カツオが沈むまで暫くの待ちぼうけ。

煮立てりゃぁカツオの臭みがお出まし千手(せんじゅ)の観音様、
落ち着きましたら、布で漉し、酒・味醂・醤油を加えて出来上がり。

しいたけ、豆腐を先に煮て、煮立ったところでこの上に程よく切りたるマグロを乗せて、
中火でひいふうみいと色が変わリ目に戴きやす」

「何と講釈聞くだけでこうなんだぁ 
そのぉよだれも出きちまいそうじゃァねぇか!おいまだ食ってはいかんのか?」

「ダメよ~ダメダメ駄目なのよぉ、マグロにネギの香りも移り、
ネギにマグロの脂がからみ、組んずほぐれつ旨味が引き合い究極のネギまと相成りやす。

豆腐、しいたけ・青菜を入れて賑やかに、ちょいと正月料理に飽きた頃、
これに粉山椒を振ってもまたまた美味しくいただけやす。
まぁ下手(げて)物じゃぁござんすがね」

「お前ぇにしちゃぁよく出来てるが、こいつぁ三次郎の受け売りじゃぁねぇのかえ?」

「あいたぁ!さすがは銕っつあんだ、騙せねぇ、お~いおとき酒が切れちまったぜぇ」

「如何でやすこのネギま?」

「うっ 旨ぇ!うむ こってりと脂の乗ったこいつぁ、かなわねぇ、
そんじょそこいらの白首女郎たぁわけが違うぜ彦十」

「さいでやんすかぁ、あっしぁ白首のほうが好みでござんすがねぇ」

「呆れた野郎だ、その白髪頭でまだ口説こうってぇのかえ、
へへん、落とせるもんなら落としてみなよ、なぁおとき」

「はい それは無理と言うもんでしょうねえ長谷川様」

「へぇっ どいつもこいつも食うに食えねぇ焼きハマグリ、
砂がさわって出汁になるぅってかぁ」

ほどほど酔いも回って相模の彦十
「ねぇ銕っつあん八方屋ってぇのをご存知で?」

「おい八百屋じゃぁねぇのかえ?」

「どっこいこいつがふるってやんの 
四方八方なんでも来いってぇところから名付いたそうで、
無鉄砲なの何の、猪獅子みてぇな野郎でござんしてね、
口より手が先に出るから始末が悪い。

誰かれ構わず絡むもんでござんすから、
いつのまにやら野郎のことを皆んなそう呼ぶようになっちまった」

「へぇそんなに喧嘩ぱやいのかえ?」

「早ぇの何ので、手も早ぇ、こないだも弥勒寺前で棒手振りと大げんか、
割って入った御用聞きを平手ですっ飛ばしやがったからいけませんやぁ、
番屋にしょっぴかれて一晩のお泊まりときたもんだ、
野郎すっかりしょげちまって、

朝になったら青菜に塩、かかぁがもらい下げに出向いたら
半月干した大根見てぇにしょぼくれちまって、それでも懲りねぇ八方屋」

これぞと見込んだ奴にゃぁ女郎の世話から見受けの世話、
畳の張替えから障子の具合、床下の手入れからドブ板掃除まで、
銭になることならなんでもござれ、まぁ便利っちゃぁ便利な野郎でござんすよ へい!」

「何と阿呆烏の真似までするのかえ?でそいつがどうした」

それがね銕っつあん両国福井町の米問屋東海屋に鼠が天井裏に巣を造っちまったとかで、
野郎天井裏に潜ったっきり出てこねぇ、かかぁのおしまが心配ぇして
東海屋仁聞きに行ったらその日のうちに帰ぇったて返事で
、神かくしダァなんて騒いでおりやすが、三ツや四ツの餓鬼でもあるめぇしねぇ」

「おいおい 彦!ちょいと待てよ、それじゃァ何かえその何だぁ?
八方屋の名前ぇは何と申した・・・・」

「へぇ彦六で」

「で その彦六だが確かに東海屋はその日の内に帰ぇったと言ったんだな」

「へぇ そのようで・・・・・」

「そいつぁ妙だなぁ東海屋を出たっきり足取りが消えたとなると・・・そ
いつぁ酒や博打はどうなんだえ?」

「それがね 笑っておくんなさいよ、手は早ぇが喧嘩はからっきし、
酒は下戸で付き合いもままならなぇ、丁半博打なんざぁやったこともねぇと、
今どき大黒様の横にでも置いておきてぇくれぇの糞真面目、へへん!面白くも可笑しくもありゃぁしませんやね」

「なるほどのう、聞けば聞くほど妙な野郎だが、
やはりちと気がかりなのは行くかた知れずになったってことよ、
何かがなけりゃぁそうなるはずはねぇ・・・・・」
平蔵少し酔いが冷めてきた思いである。

彦十から出た話の翌日、二本堤の山谷堀土手下に死体が見つかったと番屋に届けがあった。
当番である北町奉行所が確認をとったところでは、身元が行く方知れずの彦六と判明、
死因は絞殺によるものと断定された。

この事件を拾ってきたのはおまさであった。

盗賊改めには直接関係はないものの、平蔵は少々気になっていた。
喧嘩での仕業ならば首を絞めるなんて手間のかかることはやるまい、
同じ殺しなら刃物が早いしそれが常道であるからだ。

「もう一度その東海屋から詳しく探ってみてくれ」
そうおまさに指図を与えた。

このような場合は、小間物などを担いでいるおまさが適役である、
何しろ店の裏方にはおしゃべりの好きな女が一人や二人はかならずいるものである。
案の定、平蔵の読みは的中した。

「中に古株の中居がいまして、あぶらとり紙をこっそり渡して聞きましたら、
あの日彦六は天井裏の鼠の巣を見つけてそれを始末したのが、
昼を回って七つ(午後四時)ころ。

お手当てを頂いて、それを懐に台所でいっぱいお茶を飲んで帰っていったのだそうで
ございますが、その時彦六さんの後をつけるように二人の遊び人が
ついていったそうでございます」

「ふむ そいつらがどこの何者かは判るめぇなぁ」
平蔵腕組みしながらおまさの話を聞いていた。

「あたしもそれは気になったものでございますから、
探ってはみましたが皆目、申し訳ございません」

「ナァにお前ぇのせいじゃぁねぇ気にするな、
すまねぇが粂と彦十に繋ぎを取ってそれからの足取りをもう少し知りてぇ、
聞きこみを続けてはくれぬか?」
平蔵、何か臭うように感じている。

「解りました、早速二人に・・・・」とおまさが出て行った。

彦六の葬儀は簡単なもので、北町から骸を貰い受け、山谷の慶養寺に埋葬された。
二日後、探索をしていた粂八が菊川町の平蔵が役宅に姿を見せた。

「おお 粂 ご苦労だのう、で、何か判ったのだなその面ぁ」

「へぇ 仰るとおりで、彦六の後をつけていた野郎なんでござんすが、
何でも上方訛りの残っていた五十がらみの小柄な男だったようで、
彦十のとっつあんがその辺りを探って、
やっと判ったのが菱垣廻船の船頭だったようでございやす」

「ふむ 上方訛りと聞くからにゃぁそれは大いに有り得る話だのう、
でその先があるのであろう」と先を催促する。

粂八ニヤリを笑って
「そこでさぁ少々苦労は致しやしたが、さすがに相模のとっつあん
まだまだ腕は衰えちゃぁございやせん」

「うんうん でどうした」平蔵さもあらんという顔で粂八に話を促す。

「へぃ地廻りの野郎にちょいとこのぉ・・・」

「鼻薬だなぁ」

「へい 仰る通りで、船頭といやぁ何れもこっち・・」
とツボをかぶらせる仕草に平蔵頷きながら

「で判明いたしたか」

「へぃ いずれも主を持たねぇ流れ船頭、
忙しい時に都合で雇い入れられる野郎たちで、
どうもこいつらぁ素性がよくねぇ、が 汚ぇ仕事も受けるってんで、
結構人気の商売のようで。

この一日そいつらを探して見たんでございやすが、すでに姿は消えたまま・・・・・」

ふ~む 糸が切れたか・・・・・」平蔵少々落胆の様子に

「ですが長谷川様そいつらを雇った雇い主が割れやした」

「おいおい 粂!勿体つけずに早ぇとこ吐いちまいな!
そのまんまじゃぁ身体の毒だははははは」
平蔵消化不良のこの話の先が知りたくてうずううしてきた。

「へぇ 彦十のとっつあんとおまささんとあっしの三人で手分けして探りを入れた所、
どうやらその相手が堺の商人と言う触れ込みの和泉屋太兵衛・・・・・」

「おいちょいと待て!触れ込みだとぉ」
平蔵ここに来てやっと粂八のしたり顔の意味が判った。

そいつぁ商人じゃァなかってぇんだろう」

「仰る通りで、あっしらもこれにゃぁ仰天いたしやした、
何とその野郎の面を拝んで腰を抜かしやしたもんで、へへへへっ!」

「おいおい そいつぁ無かろうぜ、早いとこゲロしちまえ、盗人だったんだろう」

「恐れいりやす、まさにその通り上方からこっちに流しては
ちったぁ知られた盗賊で荒南風(あらはえ)と異名をとった岩蔵」

「何!荒南風の岩蔵だぁ?、聞きなれぬ名だがどんなお勤めをするやろうだ?
凡その見当はつくが」

「へぃ 長谷川様の睨んでおられる通り、
こいつぁ汚ぇ仕事も平気でやってのける危ねぇやろうでございやす。

ただ、問題なのは、こいつと彦六それに船頭のつながりが今一歩読めねぇ、
そこでこうしてあっしが長谷川様に先ずはご報告をと」

「あい判った!よくぞそこまで調べてくれた、ありがてぇ!
そこだがな粂!恐らくは彦六の商売を知って野郎どもが彦六に近づいたのではないかえ?
天井裏といやぁお前ぇどこまでが天井裏だ?」平蔵のしたり顔を見た粂八

「あっ!!」

「そうよ!ここまでってぇ決まりはない、ってぇことは・・・・・」

「金の隠し場所でも近づける」
粂八やっとからくりが解けた思いで手を打った。

「どうもそこんところがとっつあんもおまささんも飲み込めねもんで・・・・・
なるほどそう言う事になりやすか」

「恐らくは彦六にその辺りを吐かせ、後腐れのねぇ様に始末したんだろうぜ」

「なんてぇ汚ぇ野郎だ クソいまいましい」
粂八は吐き捨てるように役宅の床の下を睨んだ。

「よし明日から早速その渡海屋を見張れ!見はり場所も忠吾に申して確保いたせ」
てきぱきと粂八に指図を与えて平蔵、奥に引っ込み、
何やら筆頭与力の佐嶋忠介に指示を与えた。

だが、この事件は一足遅く、その夜半に渡海屋は兇賊によって襲われ
金蔵が天井裏から破られ金子千五百両あまりと藩札三百両分が消えていた。

菊川町の盗賊改めに知らせが入ったのが、平蔵が指示を与えた翌日
素早く平蔵は南町奉行所に通報し、上方行きの船を一斉検問した。

運良く目的の菱垣廻船が捕まった。

意気揚々と踏み込んだ佐嶋忠介は、何一つ証拠になるものを見出すことが叶わず、
南町奉行所町方より
「放免致すよう」
と促され、涙をのんでこれを釈放した。

報告を聞いた平蔵
「何故だぁ 何故盗んだ金が出て来ぬ!
我らがそこまで知り抜いていたことは奴らには判っては居らぬはず、何故だぁ・・・・・・」

「盗んだ金をどうやって運び出す、千両ともなるとかなりの物、
なかなか隠し果せるものではないはず・・・・・・」

(んっ!・・・・・・そうか!奴らは運んじゃぁいねぇんだ!)
「おい 佐嶋!佐嶋はまだ来ぬか!
そこへ佐嶋忠介急ぎ自宅から駆けつけてきた。

「お頭!!」

「おお 佐嶋聞いたであろう!」

「はい 先ほど粂八が繋ぎを取ってまいりまして・・・・・で、何か?」

「うむ 奴らは金を運んじゃぁいねぇんだ、金はまだ江戸のどこかに隠してあるに違いねぇ」

「はぁ この江戸にでございますか」

「なるほど二つ名の異名を持つだけのことはある、こいつぁ切れるなぁ」

「で? お頭は金の隠し場所がお判りになられたので?」

「うむ 恐らくはなぁ、のう佐嶋一番気が付かぬものは何だえ?」

「はぁ いつも身近にありて、左様なことを想わぬ・・・・・あっつ!」

「そうよ、そこよ!俺もこいつにゃぁ気が付かなんだ、
当たり前ぇ過ぎて見逃すところよ、おい粂八が参っておらぬか、
いたらここへ呼んでくれ」と沢田小平次に指図した。

すぐ返事があり、粂八が裏の枝折り戸をくぐって入ってきた。

「おお 粂 ご苦労ご苦労、でお前ぇは彦六が鼠の巣をどこに始末したか
聞いちゃァいねぇかい?」

「へい あっ そういやぁ彦六の死体があった日本堤の山谷堀の・・・・・えっつ!」

「そうだよ、そこだと俺は睨んだ、
人間てぇ者ぁどうも事件の火種の起きたところに舞い戻る習性があるようだぜ、
一度お上の手が入った場所にゃぁ二度と手入れぁねぇ!そう奴は踏んだのだろうよ、
ほとぼりを冷ましてゆっくりと掘り出しても決して遅くはねぇ、そうは想わぬか佐嶋」

「なるほど灯台元暗しと申しますからなぁ、早速現場に参り当たってみます」
と佐嶋は粂八を伴って出て行った。

その夕刻
「おおかしら!やはりお頭のご推察通り、金子と藩札が油紙に丁寧に包まれて
三尺程の穴の中に眠っておりました」と報告が上がった。

ネズミの習性とおんなじよ、くわえ込んだらまず隠す、
なぁうさぎ、お前ぇも隠す割にゃぁばれちまうがな」

「はっ! 何のことやら私には・・・・・」

「おうおう 心当たりはないと申すか」

「はい 一向に左様なことはござりませぬ」

「さようか、 それなればよいが、先日お前ぇを山谷の岡場所の・・・・・」

「えっ! 又誰がそのような、滅相もござりませぬ、私はただ・・・・」

「ただ?・・・・・どうした」

「はぁ ただ そのぉ 通りかかりましたらそのぉ・・・・・・」

「白粉女が声をかけてきて、そのままなすがままと」

「はぁ全くその通りで、ですが私は何もそのようなつもりで・・・・」

「であろうよ、そのまま一時身を休めたということだな」

「ははっ まことに申し訳もござりません、この木村忠吾一生の不覚」

「であろう もう何度不覚を取ったやら ヤレヤレ見上げたもんだよ屋根屋のふんどしかぁ」

「はぁ~・・・・・・」

「いや何な てェしたもんだよカエルのションべンと申してな、
お前ぇのように面にションベンかけられても動じねぇ・・・・・
いやぁてぇしたもんだなぁ佐嶋、わは わはは わぁっはっは」

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4月号  深川


永代橋と佃 



 

その日平蔵は本所菊川町の役宅から昼前に出かけた。

「ちょいと所用を思い出した」
と妻女の久栄に用意をさせて、供もなくゆらと出かけた。

西に足を取り伊予橋を渡ったところで、
長桂寺前を歩いてくる二人連れの一人が駆け出してきたのが目についた。

「長谷川様ぁ」
息せき切ってやってきたのは黒田麟太郎

「おお!麟太郎ではないか!」
平蔵はこの若者黒田麟太郎とはひょんなことから知り合った。

当時江戸市中を震え上がらせていた残虐非道の盗賊
垈塚の九衛門(ぬたずかのきゅうえもん)一味の押し込み先を
漏れ聞いたことが元で黒田左内の養子となり、黒田家を引き継いだ若者である。

平蔵がこの若者と本八丁堀の稲荷社で出くわせ、
それが元で平蔵は窮地に陥るが黒田左内の娘、
染の献身的看護で一命を取り留めたという事件があった。

「長谷川様、本日は遅いお出かけで・・・・」
と笑顔が冬の風のなかではつらつと輝く。

「うむ ちょいと用を思い出してな、ところで今日は御役目かな?」
と、足早によってくる同心姿の男を認めた。

「はい 南町奉行所本所深川周り同心小村芳太郎さまと
見習いのお供でございます」

「おおそいつはご苦労だなぁ、お父上はお変りないか?」

「はい、父上は少し風邪気味なれどお元気でございます、
それと姉上もお忙しくなさっておいででございます」と告げた。

「おお染どのもお変わりはないか!」平蔵はこの一言で安堵した。

そこへ小村芳太郎がやってきて「長谷川様、
ご苦労様でございます」とねぎらいの言葉をかけてきた。

「うむ 筑前守様はあれからどうなされた?」
と盗賊垈塚の九衛門の事後を尋ねた。

「はい 評定所にて首領の九衛門と3名が獄門、
残りの6名は遠島と定まり、それぞれ処されました」

「おお では筑前守様も肩の荷が下りたことでござろう、
いやめでたいことじゃ」と平蔵五間堀の川面のゆらめきに目をやった。

「おおそうじゃ、わしは今から弥勒寺によるが、如何かな?団子でも共に・・・・・」
と小村芳太郎を見た。

「ああ 左様で御座いますなぁ、ちょうど昼時、のう麟太郎」と供の麟太郎を見た。

「あっ はい!まことに・・・・・」と麟太郎は二人の顔を見上げた。

「よし!そうと決まれば善は急げだ、あはははは」
平蔵は先に立って弥勒寺に足先を向けた。

弥勒寺門前の茶店笹屋の奥につかつかと入リながら平
「蔵「お熊はおるか!」と声をかけた。

奥の方からシワ枯れた声が威勢よく飛び出してきた。

「誰でぃ気やすくおらの名を呼び捨てにするなぁ、
そこらのゴロツキでもおらにはちったぁ気ぃ使ってさんずけで呼ぶのによぉ」
とぶつぶつ言いながら、にしめたような色の前掛けで手を拭きながら出てきたが、
平蔵を一目見るなり飛び上がらんばかりに細い眼をシワクチャにして叫んだ

「銕っつあんじゃぁねぇけ!
嬉しいねぇこのおクマのことを忘れてなんかいねぇんだねぇ」
と首っ玉にかじりつきそうに擦り寄ってくる。

「おい おクマお客さんだぜ」平蔵はヘキヘキした顔でおクマをいさめる。

「あれぇお客さんかえ、おらには見えなんだもンでよぉ」としゃぁしゃぁとしている。

「で 銕っつあんこの若ぇのは又誰だい?中々の男前で、
うひひひおらの好みじゃァねぇか」

熊の目線を浴びて麟太郎は少々引いている。

「おいおい 麟太郎、このお熊はな、
口は悪いが中身は見かけほどのものではない、
安心いたせ」と、笑いながら緊張しきっている麟太郎の顔を愉快そうに眺めた。

「そうだよぉ 何も取って食おうってんじゃぁねぇよう、
銕っつあんの知り合ぇならそりゃぁもう・・・・・へへへへ」
と歯抜けのシャワクチャな顔を更にシワクチャにして麟太郎を見た。

「おい おクマ、そんなことはどうでも良い、
早く団子を持ってきてくれ」と平蔵が助け舟を出す。

「このおクマはな、わしがまだ入江町で無頼の暮らしを
していた頃からの知り合いよ、時にゃぁこの奥に居候したこともある、
まぁそんなことから今もちょくちょくネタを仕込んでくれるし、
この妖怪のような婆婆も色々と都合が良いのじゃ。

おまけにこの笹屋の団子、こいつが又中々イケる、まずは食ってみろ」
平蔵は皿を麟太郎に渡しながら

「小村殿も如何かな?あやつの顔ほど毒気はござらんあははははは」
と笑いながら皿を薦めた。

「ははっ! 頂戴つかまつります」小村芳太郎はおクマの
毒気にあたって少々顔が引きつって見える。

「美味しい!」
まず麟太郎が大声で叫んだ、小村も続いて
「まさに!」と口を揃えた。

奥から茶を出しながら
「当たり前ぇでぇこのお熊の笹だんごは将軍様でも旨ぇとおっしゃるはずでぃ」
と喩えは大きい。

「おいおいおクマ!将軍様はここだけの話にしとくんだぜぇ」
と平蔵がニヤニヤ笑いながら茶をすする。

「しかし長谷川様、驚きました、このようなところであのような・・・・」と
、眼をまんまるに見開く麟太郎。

「うむ お前ぇにゃぁまだ会わせてはおらぬが、
本所二ツ目橋の五鉄ってぇ軍鶏鍋屋の所におる
相模の彦十ってっぇのがおってのう、
こいつとこのおクマが揃った日にゃぁお前ぇ軍鶏の喧嘩みたいなんだぜぇ」
平蔵は思い出し笑いをこらえながら小声で麟太郎に耳打ちした。

すると奥からお熊が
「銕っつあん何か言ったけぇ、軍鶏がどうとか聞こえたけんじょよぉ」
と言いながら小芋の煮っころがしを皿に乗せて持ってきた。

「おクマ、お前ぇ耳だけは達者だのう!」
平蔵がわざと大声で言うと「だけはよけいだけんじょよ、
おいら近頃とんと耳が遠くなっちまってよぉ、
いけねぇいけねぇいよいよ聞こえねぇよぉ銕っつあんどうしようよ、ねぇ」

「はぁ口の減らない婆ぁさんだ、地獄耳とはよく言うがな、
都合の良い時だけ聞こえるってぇのは便利なものよのう麟太郎」
とふられて麟太郎、小芋の煮付けを口に運んだままこっくりうなずく。

「わぁっはっはぁ!お前ぇは正直者だなぁ」
平蔵は腹の底から笑い転げた。

ゆっくりと団子と小芋の煮付けで腹ごしらえして立ち上がる平蔵に
「銕っつあん又寄っとくれよぉ、おらいつでも待ってっからよぉ、うへへへへへ」
と流し目をくれた。

「ったくお前ぇの毒はいつになったら消えるものやら、おおくわばらくわばら」
と平蔵切って返し麟太郎に目配せして

「ところでおクマ酒粕はねぇかい?」

「アレぇ銕っつあん又何をしようってぇんだい?
粕ならすぐそこにあるけんじょ、おらがもらってきてやるよぉ、
ちょいと待ってな」
と気安く出かけ平蔵たちが茶を飲んでいる間に戻ってきた。

「おうすまねぇ手間をかけたなお熊、こいつで足りるかえ?」
と二朱をおクマに握らせて店を出た。

「銕っつあんいつも済まないねぇ」
平蔵の渡した二朱を懐に入れながら歯の抜けた顔でニタニタと笑いながら
「お前さんもいつだって寄って行きな!銕っつあんの口利きだぁ、
この界隈のことぁこのお熊に任せておきなってことよ」
と麟太郎の袖を掴んだ。

「あっ !はい!よろしくお願いいたします」
と麟太郎、どう返事をして良いものやらしどろもどろで応えた。

おクマ婆ぁは
「かわいいねぇまっこと可愛いいじァないかねぇ」
と舐めるように麟太郎を見やったもんだ。

この老婆の毒気に当たったようによろめきながら
麟太郎は小村芳太郎の後に続いた。

「小村様、驚きましたねぇあのお熊という老婆には・・・・・」

「うん だがなぁ麟太郎、あのような連中の中で今の長谷川様は
御役目を全うなさっておられるのだよ、
我らにはどうにも届かぬ眼の奥でつながりを持たれ、
それらを目鼻のように操られて市中を守っておられるのだ、

俺なんかとてもとても長谷川様の足元にも及び付かないそのように想う」
と小村芳太郎は平蔵の去っていった方角を見つめていた。

平蔵はといえば、おクマの持ってきた酒粕をぶらぶらさせながら、
弥勒寺橋に戻り、これを渡ってまっすぐに南下、
南森下町を通り太田備中守下屋敷を左に見ながら高橋を越えた。

左手には寛永元年霊巌上人の開山で日本橋に創建されたものだが
、明暦の大火で消失し、万治元年にこの深川に移転した霊巌寺があり、
境内には江戸六地蔵の五番目が安置されているということで、
訪れる人も絶えない状況である。

番屋を過ぎたところから正覚寺橋を越え、
道なりに万年町、平野町に相対して居並ぶ寺の家並みの白壁をゆるりと南に下った。

海福寺門前で棒手振りが冷水で洗いたての練馬大根を売っていた。
「うむ こいつぁ美味そうじゃぁ一括りくれぬか」
平蔵何やら胸に想うたものがあるらしく口元が緩んでいる。

そのまま道なりに進むと冨岡橋が見えてきた。
油堀に架かる奥川橋を越えて蛤丁の門を曲がれば
万徳院円速寺の大屋根が覗く北川町に出る。

この中程に平蔵が目指す黒田左内の居宅がある。
油堀を挟んで真田信濃守の広大な中屋敷の白壁が
美しくその姿を油堀に写し、
春ともなれば庭の桜が見事にその風情を見て取ることが出来る。

木戸をくぐり
「居られるかな?」と奥に声をかける。

その声を聞きつけて中から
「長谷川様でございますか」と華やいだ声が出迎えた。

「おう 染どのもご在宅か、先ほど弥勒寺そばで麟太郎と出会いもうした、
聞けば親父どのが少々風邪気味と伺いまかりこしたが、如何でござろう?」
と応えた。

「よくまぁお運びで、父上もさぞやお喜びになられる事でございましょう」
と染がにこやかに出迎えた。

平蔵は奥の部屋に向かって
「親父どのご無沙汰いたし申し訳ござらぬ」と声をかけた。

大判縞の丹前に包まれて左内が襖の向こうから首をのぞかせ
「いやお恥ずかしき限り、これこの通りまるで痩せ達磨じゃぁあはははは」
と、久しぶりに見る平蔵を喜びいっぱいの顔で迎えた。

「染どの、こいつで親父殿の風邪を吹き飛ばそうと提げて参った」
平蔵は染に大根と酒粕を手渡した。

「まぁ真っ白に、ほんにきれいな清白(すずしろ)と・・・・・・」言いかけたものへ

「いやぁ 染どのには叶いませぬわいのう親父どの」
と、平蔵褒めたつもり・・だが・・・

「まぁ長谷川様、私はこれほど太ぅはござりませぬ!」
とむくれた染の言葉に平蔵と左内、顔を見合わせ??????

一瞬の間を置いて左内が
「わぁはははははっ!これはしたり平蔵殿!
染はおそらく己の脚と踏んだようにござりますぞ」
と可笑しくてたまらぬように腹を抱えて笑う。

「なななっ 何と・・・・・・」
平蔵も左内の言葉にやっと気づいたようで

「やっ これはしたり、わしはそのような意味で申したのではござらぬよ、
のぅ親父どの」と左内に救いを促すが、・・・・・

「まぁ ではどのようなおつもりで申されたのか
お聞かせ願わしゅうございます」
と唇を真一文字に結んで染は平蔵と左内を見据えた。

「これ染!平蔵殿はそなたの脚を例えたのではない、のぅ平蔵殿」
と苦笑いをしつつ平蔵を見た。

「全く全く、わしにはそのような腹蔵はござらぬ、
染どのの色が白いを褒めたつもりでござるに、いやはや・・・・・
これは困った、染どのに臍を曲げられてはこれは叶わぬ、
許されよのぅ染どの、これこの通りじゃぁ」平蔵半分べそを?きながら染をみる。

「おほほほほほ、はじめから承知致してございます、
でもちょっと長谷川様の困ったお顔が見とぅて、うふふふふふ」
と染がイタズラっぽい眼で平蔵の顔を盗み見るように見返した。

染の笑顔に白い歯が浮かんで、
このすきまほどの時間の楽しさを味わっているようであった。

「やれやれ わしは冷や汗をかいてしもぅた」
平蔵鬢を掻きながら染を見る、そのやりとりに

「久しぶりに笑ぅて風邪がどこかに飛んでゆきそうじゃ」
と左内も火鉢を平蔵に勧めながら炭を足した。

「親父どの、麟太郎は見習いのお勤めをちゃんとこなしておるようで、
身共も安心いたしましたぞ、

先ほど弥勒寺傍で同心の小村芳太郎殿と連れ立っておる所に出くわしたおり、
中々しっかりとした出で立ちに安堵いたした。
暫くは大変ではござろうが、何卒よしなにお願い申す」と軽く頭を下げた。

「いやいや長谷川殿、ご貴殿のなかだちにて麟太郎を
この黒田家の後継ぎとすることもご老中よりお許しが出て、
身共はこの上なき幸せ者と想うてござります、

ご覧のとおり今では染は嫁ぐ気なぞ全くなく、
このままでは黒田家は我が身代でおしまいかと想うておりましただけに、
この度の麟太郎の養子縁組に長谷川殿が後見人を買うて出て下さり、
お奉行様もならば良かろうと私の持ち場であった
深川見回りの小村芳太郎殿に見習いとして従けてくださりました
、まことにかたじけのうござります」と深々と頭を下げた。

「あっ! こりゃぁいかん、染どの忘れるところであった、先ほどの大根じゃが・・・・」
と左内の気持ちを軽くしようと返事をはぐらかせて
「こんにゃくはござるかの?それとニンジンに油揚げなぞあらば申し分なし」

「それならば今朝ほど棒手振り商いから求めたばかりでございますが、
いったい何が出来るのでございます?」と興味はすでにそっちのほうに移っている。

「うむ こっくり汁と申してな、まぁ出来てみればなるほどとうなうく味」

「まぁそれでこっくり汁?」
と染は平蔵の傍に寄り添って平蔵の講釈を聞きながら支度に掛かった。

「先ずは大根と人参、それにコンニャクを拍子切りに揃え油揚げも刻んでおき、
昆布で出し汁を取って酒を入れ、大根ニンジン油揚げを入れてしばらく煮込む。

煮立ったならばそこにコンニャクを滑りこませ、龍野の薄口醤油、
下総の行徳塩、隠し味に岡崎の八丁味噌・・・・・・・

ここいら辺りでちょいと味見を、ここが先ずは第一の関門・・・・・ふむふむ・・・・・
も少し味噌を加えて、どれどれ」

「まぁっ 長谷川様お一人で味見とはずるぅございますよ、染にも一口・・・・・
平蔵と鍋の間に割って入って・・・
まぁこれはまた美味しゅうございますねぇ、やわらかな味が味噌の薫りに包まれて」
と平蔵の顔を見上げる。

染のひとときの満ち足りた顔を眺めながら
「身共だけが蚊帳の外でござるなぁ」とすねてみせる左内であった。

「まぁ親父どのには仕上げの味元を残しておりますぞ、
のう染どの、あっはあっは、では酒粕をゆっくり溶かしながら入れてくだされ、
最後の一振りに胡椒を少々、これが最も肝要でござるよ」
平蔵はふうふう言いながら小皿に取った粕汁をすすってみせる。

「あっ!ずる~い!お一人だけとは許せませぬ」と染はその小皿を取り上げ・・・・・・・

「ほんに これならば父上のお風邪もどこかに飛んでゆきますわ」とご満悦である。

「青ネギをたっぷり、こいつが更に旨味を引き出し申す」と平蔵が講釈を締めくくる。

「まこと 長谷川様はなんでもよくご存知でございますねぇ、
さぞや小料理屋への出入りも・・・・・」
と意味深な染の目つきに平蔵大慌てで

「いやっ これは身共の配下にて料理にかけては中々の者から
聞いたものでござるよ染どの」
と脛に傷持つ平蔵としてはここで墓穴を掘ってははならじと応戦する。

「まぁ何処へお出かけになられましょうともよろしゅうございますがねぇ父上」
と今度は左内に下駄を預ける。

「やれやれ、いやまるで猫のじゃれ合いを見ておるようで、
あははははは、まことに温もりとは、かようなものを申すのでござろうか」
左内は運ばれた粕汁にたっぷり懸けられた青ネギの薫りに目をつむり、
ゆっくりと大きな吐息をもらした。

「のう平蔵殿、人は何を持って幸せと想うものでござろう・・・・・・
身共はこのひとときを愛しいとおもいまする、
生きておらばこそとこの生命永らえられるならその時までを
このままであってくれたらと想いまする」

真冬日の寒さの中に左内は、温もりに包まれて少し障子を開けた庭に咲く
寒椿の紅色に重ねていた。

ゆっくりとした時を過ごした後、平蔵は左内の家を辞し
永代橋を渡り、船番屋を通り過ぎ、豊海橋を渡って南新堀から二ノ橋に向かった。

白銀町を北に上がって長崎町を左に折れ
圓覚寺橋木稲荷の前を通って東湊町を左折南下して高橋を越えた。

南側には鉄砲洲浪よけ稲荷がこんもりとした丘の上に見える。
過日平蔵が麟太郎と出会った件の稲荷社である。

南八丁堀を西に真福寺橋たもとを左に折れて新庄美作守下屋敷を
木挽町の紀伊國橋を渡って左に三十間堀四丁目を右折して
数寄屋橋御門をくぐって南町奉行所へと出た。

ちょうど池田筑前守は執務中で、少し待たされた後
「遅くなり申し訳なし」と平蔵の待つ控えにやってきた。

「筑前守様ご多忙の中突然まかり越しましたる儀何卒お許し願わしゅう存じます」
と頭を下げた。
「いやいや長谷川殿こちらこそ、此度の事件お見事なる解決にて、
わしも肩の荷を下ろし申した、礼を言いますぞ」と労ってくれ、

「先の南町奉行所深川見回り与力黒田左内の養子の件、
長谷川殿の後見ということもあり、老中も即刻黒田家の与力復権をお認めくだされた。

わしにとっても左内はかけがえのなき者にて
お役御免を申し出て参った折にはいささか困惑いたした。
何としても惜しい者であったからのう」
とこの度の事を心より喜んでいる様子に平蔵ほっと胸なでおろす心地であった。

「で、何か外に気がかりなことでもござるかな?」とにこやかに平蔵の顔を見た。

「あっ いえこの度は筑前守様のお骨折りにより肥前より出て参った
黒田麟太郎の養子縁組をご快諾頂き、
おかげ様にてあの少年の行く末が黒田左内殿に取りましても
良き結果に結びつき、その件につきご尽力賜りました筑前守様に
御礼を申し上げねばと長谷川平蔵本日はまかりこしましたる次第、
まことにかたじけのうござりました、

つきましては麟太郎に元服いたさせたき存念にて、
願わくば筑前守様にそのお許しを頂きたくこうして改めてお願いに」
平蔵は深々と低頭したが、

「何を申される長谷川殿、身共もそこもとの父上には京で真世話に相成り申した、
相身互いじゃ、お気にめさるな、あはははは」
と平蔵の気持ちを和らげようと明るく笑い声を上げた。

こうして平蔵はこの度の麟太郎元服の許しを得、
我が身の中で一つの区切りがついた思いで安堵した。

菊川町役宅に戻る途中を、平蔵は再び黒田左内の長屋に訪れた。
「染どのは・・・・・」

平蔵が染の顔を目で追うのを左内は見て取り
「先程桔梗屋に参りました」と残念そうに伝えた。

その時表から
「父上只今戻りました」と麟太郎がお勤めから戻ってきた様子

「おお ご苦労であった!」その声を聞いた麟太郎ガ

「長谷川様本日はまことに思いもかけない人にご紹介にあずかりました、
麟太郎少々驚きましたが、気持ちのよいお婆婆さまでございました」
と礼を述べるのを受けて平蔵

「まさに妖怪であったろう?どうじゃな?」と少しいたずらっぽい目で麟太郎を見た。

「ああっ いえそれほどのことではござりませんでした、
初めはちょっと驚きましたが口の悪い割には優しい方と思いました」

「ふ~ん あいつにぁ食われるでないぞ、あぁ見えても山姥の如き婆婆じゃからなぁ 
わははははは」と麟太郎の顔をまじまじと見つめた。

「さっ 左様でございますか?」
平蔵の脅しにちょっと腰を引きかけた麟太郎を見て左内が

「その婆婆様は如何なお人であった?」
と興味津々の言葉に

「いやぁ昔身共が世話になり申した弥勒寺界隈では
知らぬものも居らぬ名物婆婆でござって、
ちょうど昼前にその弥勒寺近くでこの麟太郎と
同心の小村芳太郎殿に出会ぅたので、ちょっと紹介をいたしたまで、のぅ麟太郎。

ところで親父どの、先ほど南町奉行所に出かけ、
筑前守様より麟太郎元服のお許しを頂いて参った」
平蔵嬉しそうに事の次第を左内に話した。

「まことでございますか!」
左内も麟太郎も飛び上がらんばかりに喜んだ。

「うむ そこでじゃが、初冠(ういこうぶり)を致さねばならぬ、
総角(みずら)を改めて冠下の髷(かんむりしたのもとどり)を結い、
烏帽子親によって前髪を剃り月代にし、

それまでの幼名を廃して元服名の諱(いみな)を新たにつけねばならぬが、
親父どの、さてさていかが致しましょうや」

平蔵もこのワクワク感は嫡男辰蔵で、体験は久しぶりである。

「これはもう烏帽子親は長谷川様以外ございますまい、のう麟太郎」と左内。

「はい 私も左様に思います、何卒この麟太郎の烏帽子親にお願い致します」
と手放しである。

「あい判った、では身共の蔵を取り、
親父殿からも一字頂戴いたして黒田蔵人宣内は如何でござろう?」と述べた。

「黒田蔵人宣内でござりますか!
これに最早意義の申す者なぞおりましょうや!のう麟太郎!」
左内と麟太郎は小躍りして歓びを表した。

後、この黒田麟太郎改め御家人黒田蔵人宣内は長谷川平蔵の嫡男辰蔵、
(後の先手弓頭宣義)の懐刀として活躍する事になる。


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その日平蔵は本所菊川町の役宅から昼前に出かけた。

「ちょいと所用を思い出した」
と妻女の久栄に用意をさせて、供もなくゆらと出かけた。

西に足を取り伊予橋を渡ったところで、
長桂寺前を歩いてくる二人連れの一人が駆け出してきたのが目についた。

「長谷川様ぁ」
息せき切ってやってきたのは黒田麟太郎

「おお!麟太郎ではないか!」
平蔵はこの若者黒田麟太郎とはひょんなことから知り合った。

当時江戸市中を震え上がらせていた残虐非道の盗賊
垈塚の九衛門(ぬたずかのきゅうえもん)一味の押し込み先を
漏れ聞いたことが元で黒田左内の養子となり、黒田家を引き継いだ若者である。

平蔵がこの若者と本八丁堀の稲荷社で出くわせ、
それが元で平蔵は窮地に陥るが黒田左内の娘、
染の献身的看護で一命を取り留めたという事件があった。

「長谷川様、本日は遅いお出かけで・・・・」
と笑顔が冬の風のなかではつらつと輝く。

「うむ ちょいと用を思い出してな、ところで今日は御役目かな?」
と、足早によってくる同心姿の男を認めた。

「はい 南町奉行所本所深川周り同心小村芳太郎さまと
見習いのお供でございます」

「おおそいつはご苦労だなぁ、お父上はお変りないか?」

「はい、父上は少し風邪気味なれどお元気でございます、
それと姉上もお忙しくなさっておいででございます」と告げた。

「おお染どのもお変わりはないか!」平蔵はこの一言で安堵した。

そこへ小村芳太郎がやってきて「長谷川様、
ご苦労様でございます」とねぎらいの言葉をかけてきた。

「うむ 筑前守様はあれからどうなされた?」
と盗賊垈塚の九衛門の事後を尋ねた。

「はい 評定所にて首領の九衛門と3名が獄門、
残りの6名は遠島と定まり、それぞれ処されました」

「おお では筑前守様も肩の荷が下りたことでござろう、
いやめでたいことじゃ」と平蔵五間堀の川面のゆらめきに目をやった。

「おおそうじゃ、わしは今から弥勒寺によるが、如何かな?団子でも共に・・・・・」
と小村芳太郎を見た。

「ああ 左様で御座いますなぁ、ちょうど昼時、のう麟太郎」と供の麟太郎を見た。

「あっ はい!まことに・・・・・」と麟太郎は二人の顔を見上げた。

「よし!そうと決まれば善は急げだ、あはははは」
平蔵は先に立って弥勒寺に足先を向けた。

弥勒寺門前の茶店笹屋の奥につかつかと入リながら平
「蔵「お熊はおるか!」と声をかけた。

奥の方からシワ枯れた声が威勢よく飛び出してきた。

「誰でぃ気やすくおらの名を呼び捨てにするなぁ、
そこらのゴロツキでもおらにはちったぁ気ぃ使ってさんずけで呼ぶのによぉ」
とぶつぶつ言いながら、にしめたような色の前掛けで手を拭きながら出てきたが、
平蔵を一目見るなり飛び上がらんばかりに細い眼をシワクチャにして叫んだ

「銕っつあんじゃぁねぇけ!
嬉しいねぇこのおクマのことを忘れてなんかいねぇんだねぇ」
と首っ玉にかじりつきそうに擦り寄ってくる。

「おい おクマお客さんだぜ」平蔵はヘキヘキした顔でおクマをいさめる。

「あれぇお客さんかえ、おらには見えなんだもンでよぉ」としゃぁしゃぁとしている。

「で 銕っつあんこの若ぇのは又誰だい?中々の男前で、
うひひひおらの好みじゃァねぇか」

熊の目線を浴びて麟太郎は少々引いている。

「おいおい 麟太郎、このお熊はな、
口は悪いが中身は見かけほどのものではない、
安心いたせ」と、笑いながら緊張しきっている麟太郎の顔を愉快そうに眺めた。

「そうだよぉ 何も取って食おうってんじゃぁねぇよう、
銕っつあんの知り合ぇならそりゃぁもう・・・・・へへへへ」
と歯抜けのシャワクチャな顔を更にシワクチャにして麟太郎を見た。

「おい おクマ、そんなことはどうでも良い、
早く団子を持ってきてくれ」と平蔵が助け舟を出す。

「このおクマはな、わしがまだ入江町で無頼の暮らしを
していた頃からの知り合いよ、時にゃぁこの奥に居候したこともある、
まぁそんなことから今もちょくちょくネタを仕込んでくれるし、
この妖怪のような婆婆も色々と都合が良いのじゃ。

おまけにこの笹屋の団子、こいつが又中々イケる、まずは食ってみろ」
平蔵は皿を麟太郎に渡しながら

「小村殿も如何かな?あやつの顔ほど毒気はござらんあははははは」
と笑いながら皿を薦めた。

「ははっ! 頂戴つかまつります」小村芳太郎はおクマの
毒気にあたって少々顔が引きつって見える。

「美味しい!」
まず麟太郎が大声で叫んだ、小村も続いて
「まさに!」と口を揃えた。

奥から茶を出しながら
「当たり前ぇでぇこのお熊の笹だんごは将軍様でも旨ぇとおっしゃるはずでぃ」
と喩えは大きい。

「おいおいおクマ!将軍様はここだけの話にしとくんだぜぇ」
と平蔵がニヤニヤ笑いながら茶をすする。

「しかし長谷川様、驚きました、このようなところであのような・・・・」と
、眼をまんまるに見開く麟太郎。

「うむ お前ぇにゃぁまだ会わせてはおらぬが、
本所二ツ目橋の五鉄ってぇ軍鶏鍋屋の所におる
相模の彦十ってっぇのがおってのう、
こいつとこのおクマが揃った日にゃぁお前ぇ軍鶏の喧嘩みたいなんだぜぇ」
平蔵は思い出し笑いをこらえながら小声で麟太郎に耳打ちした。

すると奥からお熊が
「銕っつあん何か言ったけぇ、軍鶏がどうとか聞こえたけんじょよぉ」
と言いながら小芋の煮っころがしを皿に乗せて持ってきた。

「おクマ、お前ぇ耳だけは達者だのう!」
平蔵がわざと大声で言うと「だけはよけいだけんじょよ、
おいら近頃とんと耳が遠くなっちまってよぉ、
いけねぇいけねぇいよいよ聞こえねぇよぉ銕っつあんどうしようよ、ねぇ」

「はぁ口の減らない婆ぁさんだ、地獄耳とはよく言うがな、
都合の良い時だけ聞こえるってぇのは便利なものよのう麟太郎」
とふられて麟太郎、小芋の煮付けを口に運んだままこっくりうなずく。

「わぁっはっはぁ!お前ぇは正直者だなぁ」
平蔵は腹の底から笑い転げた。

ゆっくりと団子と小芋の煮付けで腹ごしらえして立ち上がる平蔵に
「銕っつあん又寄っとくれよぉ、おらいつでも待ってっからよぉ、うへへへへへ」
と流し目をくれた。

「ったくお前ぇの毒はいつになったら消えるものやら、おおくわばらくわばら」
と平蔵切って返し麟太郎に目配せして

「ところでおクマ酒粕はねぇかい?」

「アレぇ銕っつあん又何をしようってぇんだい?
粕ならすぐそこにあるけんじょ、おらがもらってきてやるよぉ、
ちょいと待ってな」
と気安く出かけ平蔵たちが茶を飲んでいる間に戻ってきた。

「おうすまねぇ手間をかけたなお熊、こいつで足りるかえ?」
と二朱をおクマに握らせて店を出た。

「銕っつあんいつも済まないねぇ」
平蔵の渡した二朱を懐に入れながら歯の抜けた顔でニタニタと笑いながら
「お前さんもいつだって寄って行きな!銕っつあんの口利きだぁ、
この界隈のことぁこのお熊に任せておきなってことよ」
と麟太郎の袖を掴んだ。

「あっ !はい!よろしくお願いいたします」
と麟太郎、どう返事をして良いものやらしどろもどろで応えた。

おクマ婆ぁは
「かわいいねぇまっこと可愛いいじァないかねぇ」
と舐めるように麟太郎を見やったもんだ。

この老婆の毒気に当たったようによろめきながら
麟太郎は小村芳太郎の後に続いた。

「小村様、驚きましたねぇあのお熊という老婆には・・・・・」

「うん だがなぁ麟太郎、あのような連中の中で今の長谷川様は
御役目を全うなさっておられるのだよ、
我らにはどうにも届かぬ眼の奥でつながりを持たれ、
それらを目鼻のように操られて市中を守っておられるのだ、

俺なんかとてもとても長谷川様の足元にも及び付かないそのように想う」
と小村芳太郎は平蔵の去っていった方角を見つめていた。

平蔵はといえば、おクマの持ってきた酒粕をぶらぶらさせながら、
弥勒寺橋に戻り、これを渡ってまっすぐに南下、
南森下町を通り太田備中守下屋敷を左に見ながら高橋を越えた。

左手には寛永元年霊巌上人の開山で日本橋に創建されたものだが
、明暦の大火で消失し、万治元年にこの深川に移転した霊巌寺があり、
境内には江戸六地蔵の五番目が安置されているということで、
訪れる人も絶えない状況である。

番屋を過ぎたところから正覚寺橋を越え、
道なりに万年町、平野町に相対して居並ぶ寺の家並みの白壁をゆるりと南に下った。

海福寺門前で棒手振りが冷水で洗いたての練馬大根を売っていた。
「うむ こいつぁ美味そうじゃぁ一括りくれぬか」
平蔵何やら胸に想うたものがあるらしく口元が緩んでいる。

そのまま道なりに進むと冨岡橋が見えてきた。
油堀に架かる奥川橋を越えて蛤丁の門を曲がれば
万徳院円速寺の大屋根が覗く北川町に出る。

この中程に平蔵が目指す黒田左内の居宅がある。
油堀を挟んで真田信濃守の広大な中屋敷の白壁が
美しくその姿を油堀に写し、
春ともなれば庭の桜が見事にその風情を見て取ることが出来る。

木戸をくぐり
「居られるかな?」と奥に声をかける。

その声を聞きつけて中から
「長谷川様でございますか」と華やいだ声が出迎えた。

「おう 染どのもご在宅か、先ほど弥勒寺そばで麟太郎と出会いもうした、
聞けば親父どのが少々風邪気味と伺いまかりこしたが、如何でござろう?」
と応えた。

「よくまぁお運びで、父上もさぞやお喜びになられる事でございましょう」
と染がにこやかに出迎えた。

平蔵は奥の部屋に向かって
「親父どのご無沙汰いたし申し訳ござらぬ」と声をかけた。

大判縞の丹前に包まれて左内が襖の向こうから首をのぞかせ
「いやお恥ずかしき限り、これこの通りまるで痩せ達磨じゃぁあはははは」
と、久しぶりに見る平蔵を喜びいっぱいの顔で迎えた。

「染どの、こいつで親父殿の風邪を吹き飛ばそうと提げて参った」
平蔵は染に大根と酒粕を手渡した。

「まぁ真っ白に、ほんにきれいな清白(すずしろ)と・・・・・・」言いかけたものへ

「いやぁ 染どのには叶いませぬわいのう親父どの」
と、平蔵褒めたつもり・・だが・・・

「まぁ長谷川様、私はこれほど太ぅはござりませぬ!」
とむくれた染の言葉に平蔵と左内、顔を見合わせ??????

一瞬の間を置いて左内が
「わぁはははははっ!これはしたり平蔵殿!
染はおそらく己の脚と踏んだようにござりますぞ」
と可笑しくてたまらぬように腹を抱えて笑う。

「なななっ 何と・・・・・・」
平蔵も左内の言葉にやっと気づいたようで

「やっ これはしたり、わしはそのような意味で申したのではござらぬよ、
のぅ親父どの」と左内に救いを促すが、・・・・・

「まぁ ではどのようなおつもりで申されたのか
お聞かせ願わしゅうございます」
と唇を真一文字に結んで染は平蔵と左内を見据えた。

「これ染!平蔵殿はそなたの脚を例えたのではない、のぅ平蔵殿」
と苦笑いをしつつ平蔵を見た。

「全く全く、わしにはそのような腹蔵はござらぬ、
染どのの色が白いを褒めたつもりでござるに、いやはや・・・・・
これは困った、染どのに臍を曲げられてはこれは叶わぬ、
許されよのぅ染どの、これこの通りじゃぁ」平蔵半分べそを?きながら染をみる。

「おほほほほほ、はじめから承知致してございます、
でもちょっと長谷川様の困ったお顔が見とぅて、うふふふふふ」
と染がイタズラっぽい眼で平蔵の顔を盗み見るように見返した。

染の笑顔に白い歯が浮かんで、
このすきまほどの時間の楽しさを味わっているようであった。

「やれやれ わしは冷や汗をかいてしもぅた」
平蔵鬢を掻きながら染を見る、そのやりとりに

「久しぶりに笑ぅて風邪がどこかに飛んでゆきそうじゃ」
と左内も火鉢を平蔵に勧めながら炭を足した。

「親父どの、麟太郎は見習いのお勤めをちゃんとこなしておるようで、
身共も安心いたしましたぞ、

先ほど弥勒寺傍で同心の小村芳太郎殿と連れ立っておる所に出くわしたおり、
中々しっかりとした出で立ちに安堵いたした。
暫くは大変ではござろうが、何卒よしなにお願い申す」と軽く頭を下げた。

「いやいや長谷川殿、ご貴殿のなかだちにて麟太郎を
この黒田家の後継ぎとすることもご老中よりお許しが出て、
身共はこの上なき幸せ者と想うてござります、

ご覧のとおり今では染は嫁ぐ気なぞ全くなく、
このままでは黒田家は我が身代でおしまいかと想うておりましただけに、
この度の麟太郎の養子縁組に長谷川殿が後見人を買うて出て下さり、
お奉行様もならば良かろうと私の持ち場であった
深川見回りの小村芳太郎殿に見習いとして従けてくださりました
、まことにかたじけのうござります」と深々と頭を下げた。

「あっ! こりゃぁいかん、染どの忘れるところであった、先ほどの大根じゃが・・・・」
と左内の気持ちを軽くしようと返事をはぐらかせて
「こんにゃくはござるかの?それとニンジンに油揚げなぞあらば申し分なし」

「それならば今朝ほど棒手振り商いから求めたばかりでございますが、
いったい何が出来るのでございます?」と興味はすでにそっちのほうに移っている。

「うむ こっくり汁と申してな、まぁ出来てみればなるほどとうなうく味」

「まぁそれでこっくり汁?」
と染は平蔵の傍に寄り添って平蔵の講釈を聞きながら支度に掛かった。

「先ずは大根と人参、それにコンニャクを拍子切りに揃え油揚げも刻んでおき、
昆布で出し汁を取って酒を入れ、大根ニンジン油揚げを入れてしばらく煮込む。

煮立ったならばそこにコンニャクを滑りこませ、龍野の薄口醤油、
下総の行徳塩、隠し味に岡崎の八丁味噌・・・・・・・

ここいら辺りでちょいと味見を、ここが先ずは第一の関門・・・・・ふむふむ・・・・・
も少し味噌を加えて、どれどれ」

「まぁっ 長谷川様お一人で味見とはずるぅございますよ、染にも一口・・・・・
平蔵と鍋の間に割って入って・・・
まぁこれはまた美味しゅうございますねぇ、やわらかな味が味噌の薫りに包まれて」
と平蔵の顔を見上げる。

染のひとときの満ち足りた顔を眺めながら
「身共だけが蚊帳の外でござるなぁ」とすねてみせる左内であった。

「まぁ親父どのには仕上げの味元を残しておりますぞ、
のう染どの、あっはあっは、では酒粕をゆっくり溶かしながら入れてくだされ、
最後の一振りに胡椒を少々、これが最も肝要でござるよ」
平蔵はふうふう言いながら小皿に取った粕汁をすすってみせる。

「あっ!ずる~い!お一人だけとは許せませぬ」と染はその小皿を取り上げ・・・・・・・

「ほんに これならば父上のお風邪もどこかに飛んでゆきますわ」とご満悦である。

「青ネギをたっぷり、こいつが更に旨味を引き出し申す」と平蔵が講釈を締めくくる。

「まこと 長谷川様はなんでもよくご存知でございますねぇ、
さぞや小料理屋への出入りも・・・・・」
と意味深な染の目つきに平蔵大慌てで

「いやっ これは身共の配下にて料理にかけては中々の者から
聞いたものでござるよ染どの」
と脛に傷持つ平蔵としてはここで墓穴を掘ってははならじと応戦する。

「まぁ何処へお出かけになられましょうともよろしゅうございますがねぇ父上」
と今度は左内に下駄を預ける。

「やれやれ、いやまるで猫のじゃれ合いを見ておるようで、
あははははは、まことに温もりとは、かようなものを申すのでござろうか」
左内は運ばれた粕汁にたっぷり懸けられた青ネギの薫りに目をつむり、
ゆっくりと大きな吐息をもらした。

「のう平蔵殿、人は何を持って幸せと想うものでござろう・・・・・・
身共はこのひとときを愛しいとおもいまする、
生きておらばこそとこの生命永らえられるならその時までを
このままであってくれたらと想いまする」

真冬日の寒さの中に左内は、温もりに包まれて少し障子を開けた庭に咲く
寒椿の紅色に重ねていた。

ゆっくりとした時を過ごした後、平蔵は左内の家を辞し
永代橋を渡り、船番屋を通り過ぎ、豊海橋を渡って南新堀から二ノ橋に向かった。

白銀町を北に上がって長崎町を左に折れ
圓覚寺橋木稲荷の前を通って東湊町を左折南下して高橋を越えた。

南側には鉄砲洲浪よけ稲荷がこんもりとした丘の上に見える。
過日平蔵が麟太郎と出会った件の稲荷社である。

南八丁堀を西に真福寺橋たもとを左に折れて新庄美作守下屋敷を
木挽町の紀伊國橋を渡って左に三十間堀四丁目を右折して
数寄屋橋御門をくぐって南町奉行所へと出た。

ちょうど池田筑前守は執務中で、少し待たされた後
「遅くなり申し訳なし」と平蔵の待つ控えにやってきた。

「筑前守様ご多忙の中突然まかり越しましたる儀何卒お許し願わしゅう存じます」
と頭を下げた。
「いやいや長谷川殿こちらこそ、此度の事件お見事なる解決にて、
わしも肩の荷を下ろし申した、礼を言いますぞ」と労ってくれ、

「先の南町奉行所深川見回り与力黒田左内の養子の件、
長谷川殿の後見ということもあり、老中も即刻黒田家の与力復権をお認めくだされた。

わしにとっても左内はかけがえのなき者にて
お役御免を申し出て参った折にはいささか困惑いたした。
何としても惜しい者であったからのう」
とこの度の事を心より喜んでいる様子に平蔵ほっと胸なでおろす心地であった。

「で、何か外に気がかりなことでもござるかな?」とにこやかに平蔵の顔を見た。

「あっ いえこの度は筑前守様のお骨折りにより肥前より出て参った
黒田麟太郎の養子縁組をご快諾頂き、
おかげ様にてあの少年の行く末が黒田左内殿に取りましても
良き結果に結びつき、その件につきご尽力賜りました筑前守様に
御礼を申し上げねばと長谷川平蔵本日はまかりこしましたる次第、
まことにかたじけのうござりました、

つきましては麟太郎に元服いたさせたき存念にて、
願わくば筑前守様にそのお許しを頂きたくこうして改めてお願いに」
平蔵は深々と低頭したが、

「何を申される長谷川殿、身共もそこもとの父上には京で真世話に相成り申した、
相身互いじゃ、お気にめさるな、あはははは」
と平蔵の気持ちを和らげようと明るく笑い声を上げた。

こうして平蔵はこの度の麟太郎元服の許しを得、
我が身の中で一つの区切りがついた思いで安堵した。

菊川町役宅に戻る途中を、平蔵は再び黒田左内の長屋に訪れた。
「染どのは・・・・・」

平蔵が染の顔を目で追うのを左内は見て取り
「先程桔梗屋に参りました」と残念そうに伝えた。

その時表から
「父上只今戻りました」と麟太郎がお勤めから戻ってきた様子

「おお ご苦労であった!」その声を聞いた麟太郎ガ

「長谷川様本日はまことに思いもかけない人にご紹介にあずかりました、
麟太郎少々驚きましたが、気持ちのよいお婆婆さまでございました」
と礼を述べるのを受けて平蔵

「まさに妖怪であったろう?どうじゃな?」と少しいたずらっぽい目で麟太郎を見た。

「ああっ いえそれほどのことではござりませんでした、
初めはちょっと驚きましたが口の悪い割には優しい方と思いました」

「ふ~ん あいつにぁ食われるでないぞ、あぁ見えても山姥の如き婆婆じゃからなぁ 
わははははは」と麟太郎の顔をまじまじと見つめた。

「さっ 左様でございますか?」
平蔵の脅しにちょっと腰を引きかけた麟太郎を見て左内が

「その婆婆様は如何なお人であった?」
と興味津々の言葉に

「いやぁ昔身共が世話になり申した弥勒寺界隈では
知らぬものも居らぬ名物婆婆でござって、
ちょうど昼前にその弥勒寺近くでこの麟太郎と
同心の小村芳太郎殿に出会ぅたので、ちょっと紹介をいたしたまで、のぅ麟太郎。

ところで親父どの、先ほど南町奉行所に出かけ、
筑前守様より麟太郎元服のお許しを頂いて参った」
平蔵嬉しそうに事の次第を左内に話した。

「まことでございますか!」
左内も麟太郎も飛び上がらんばかりに喜んだ。

「うむ そこでじゃが、初冠(ういこうぶり)を致さねばならぬ、
総角(みずら)を改めて冠下の髷(かんむりしたのもとどり)を結い、
烏帽子親によって前髪を剃り月代にし、

それまでの幼名を廃して元服名の諱(いみな)を新たにつけねばならぬが、
親父どの、さてさていかが致しましょうや」

平蔵もこのワクワク感は嫡男辰蔵で、体験は久しぶりである。

「これはもう烏帽子親は長谷川様以外ございますまい、のう麟太郎」と左内。

「はい 私も左様に思います、何卒この麟太郎の烏帽子親にお願い致します」
と手放しである。

「あい判った、では身共の蔵を取り、
親父殿からも一字頂戴いたして黒田蔵人宣内は如何でござろう?」と述べた。

「黒田蔵人宣内でござりますか!
これに最早意義の申す者なぞおりましょうや!のう麟太郎!」
左内と麟太郎は小躍りして歓びを表した。

後、この黒田麟太郎改め御家人黒田蔵人宣内は長谷川平蔵の嫡男辰蔵、
(後の先手弓頭宣義)の懐刀として活躍する事になる。


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3月号 氷雨


筆頭与力 佐嶋忠介

その日平蔵は南町奉行池田筑後守からの呼び出しで、
昼過ぎて筑後守の役宅に出かけていった。

池田筑後守長恵は平蔵の父親長谷川宣雄が京都所司代の頃より親交があり、
したがって平蔵とも昵懇の間柄でもあった。

その配下の仙台堀の政七や鉄砲町の文治郎は時折平蔵の役宅に訪れ、
奉行所の取り扱っている情報などを知らせてくれる、
まぁ身内のような間柄である。

その筑後守からの招きである、平蔵何かを想うところもあるのか歓んで出かけていった。
外は真冬日の空、雲は重く薄墨色に垂れ込んで鈍く陽が滲んでいる。

「うむ 今夜は冷え込むな・・・・・」
袷の羽織に袖を通しながら妻女の久栄につぶやいた。

「殿様お気をつけておでかけなされませ」
と久栄も雲行きを案じながら送り出した。

「筑後守様よりのお召によりまかりこしましたる身共は火付盗賊改方長谷川平蔵にござる、
筑前守様にお取次ぎをお願い申す」
平蔵は大刀を鞘ごと抜き、右手に提げた。

「お刀をお預かり申します」
と近習が平蔵の刀を受け取り先に立って筑前守の待つ居室に案内した。

「筑後守様、長のご無沙汰をお詫び申し上げます」
平蔵は深々と低頭した。

「おお! これは平蔵殿 いやいやこちらこそ御用繁多でご無礼つかまつっておる、
ささ!まずはこれに召されよ」
とすでに整えられている酒肴の席に導いた。

「これは痛み入ります」
平蔵は遠慮無く筑後守の傍に寄った。

町奉行は旗本三千石、平蔵は同じ旗本でも初めは四百石、
盗賊改になって千五百石の立場であり、又奉行職は後に大目付に昇進する地位でもあった。

大岡越前守忠相は、最終的には1万石の大名格になったのだから
その権勢は大きかったといえる。

平蔵も「何れは町奉行に・・・」
と思った頃もあったという、まぁそれほどの立場に違いがあった。

池田筑後守は平蔵の没した年に大目付に昇進、
その五年後この筑後守長恵も死去している。

年も平蔵より一歳上という親近感もあり、
またその豪胆な性格は平蔵と似通って良い関係が保たれていた。

「ところで筑後守様、この度のお召は又いかような?」
と平蔵は招きの内容が気がかりであっただけに、早速切り出した。

「平蔵殿まぁ左様に急がずとも、まずはゆっくりなされよ、
ご貴殿もすでに存じよりとは想うが、この所市中を騒がしておる盗賊のことにござる」

「はい その事なれば身共も日夜心を痛めておりまする、
何しろ手がかりを何一つ残さず、すでに数件の大店が襲われ、
被害も甚だしく、又市中の者も恐れをなし、誠に悩ましき存在にございます」

「ふむ それがことでござる、
当方の隠密廻にても全くその所在も掴めぬまま時ばかりが過ぎ、
老中よりも厳しき御沙汰がござってのう」

「あっ これはまた、誠にもって!ですが筑前守さま、
何れ当方にもその風は吹いてまいろうかと・・・・・」

「わははは 左様でござるなぁ、お互いに辛い役目、あはははは」
筑後守も思わず同病相憐れむの例えと笑うしかない。

「何としても江戸市中を日々休まる町にしたいもの、のぅ平蔵殿」
筑後守は平蔵に盃を勧めながら、これまでの調書を平蔵に託し
「何卒の力ぞえを願いたい」と言葉を選んで述べた。

「喜んで・・・・・拝借つかまつります」
平蔵も筑後守の胸中を察し、調書を懐に収めた。

それからまた昔話に花を咲かせ、一刻(2時間)後に屋敷を出た。

外はいっそうの冷え込みを想わせ、
鉛色の雲が江戸の町をすっぽりと包んでいるようであった。
鍛冶屋橋御門を渡り、弾正橋を渡った頃から急な雨足で氷雨が
叩きつけるように激しく降り始めた。

(こいつはいかぬ、どこかで雨やどりなぞせねばなるまい)
平蔵は本八丁堀を東にとって進み、稲荷橋が見え始めたので、
急いで橋そばの稲荷社に駆け込んだ時には、すでに夜5ツ「午後7時」を回っていた。

奉行所より借り受けた提灯は濡れ、すでに役に立たず、
暗闇の中に覚えのある稲荷社を目指したのはこの後の平蔵に
新たな展開を見せる前ぶれとは当の平蔵もまだ知る由もなかった。

ガタガタと木戸を押し開けると
「だっ 誰だ!!」と低いが若い声がした。

「おっ! 先客がござったか!
誠にすまぬがこの突然の難儀でござる、同室をお許し願いたい」
平蔵は言葉を尽くして堂内に入った。

漆黒の中で人の気配がする
「灯りは・・・・・どこかに・・・・確かこの辺りに蝋燭があったと想うたが」
平蔵は手探りの中にも覚えのある燭台の立てかけてある場所を探り当てた。

カチカチと火打ち石を打ち据えて火種から蝋燭に灯を導いた。
ゆるやかに立ち昇る明かりに照らされて少しずつ部屋の様子が平蔵の眼に映り込んできた。

「やっ これは又先客はお若ぅござるな」
そう言いながら平蔵は観るとはなしにその若者を観た。

柱にぐったりと体を預けて身動きもできない様子に平蔵、
「これ そこ元はもしや・・・・・病にでも掛かっておるのか?
見れば長旅の末のようにもあるが」と言葉をかけた。

若者は無言で身体を丸めている苦しそうな気配に
「熱はないのかえ?」と若者のひたいに手をやって
「おっ これはいかん、かなりの熱さじゃ、
かと申してもこの雨の中動くに動けぬ、ふむ困った」

何か身に纏わさねば、かと言って我が身は氷雨に濡れネズミの状態では
寒さに歯をガチガチ鳴らしながら震えている若者に手を出すこともならず
雨の止むのを待つしかなく、
せめて背中をこすってやるくらいしか出来ず、為す術もないといった状態で
時だけが無情に過ぎていった。

それから一刻ほど過ぎ、四ツの鐘が聞こえた頃雨足が遠のき、静けさが戻った。

(深川仙台堀今川町の桔梗屋まで十五町ほど、なんとかたどり着けぬ距離でもない)
平蔵は意を決し、若者を背負い社を出た。

稲荷橋を渡り、高橋を渡って松平越前守中屋敷を通り抜け、
白銀町から二ノ橋をまたぎ濱町から南新堀を抜け豊海橋を渡って永代橋を越えた。

深川中ノ橋を渡れば佐賀町、その角を曲がれば今川町の仙台堀桔梗屋がある。

平蔵は氷雨に冷え込んだ自身の体に鞭打つように熱にうなされる若者を背負って歩いた。
桔梗屋もすでに戸締まりを終えて辺りは暗闇の景色に変わりはなかった。

平蔵は門口を叩き叫んだ。
「女将わしだ、長谷川平蔵だ!すまぬがここを開けてくれぬか!」
平蔵は若者を背負ったまま幾度も大声を張り上げ、戸口を叩いた。

やがて奥に明かりが灯り
「どなた様でございましょう?すでに火も落とし、店も閉めてございます」
と板前の声が聞こえた。

「おい!秀次わしだ、長谷川平蔵だ!」
平蔵は聞き覚えのある板前の声に安堵しながら叫んだ。

「あっ これは長谷川様少々お待ちを!」
と言って、急いで戸口の閂が外された。

濡れネズミの平蔵が人を背負っていたのを見て
「どうなさいましたので!」
と秀次は平蔵から若者を引き受け店の中に運び込んだ。

騒ぎを聞きつけて女将の菊弥が夜着姿に羽織を引っ掛け走り出てきた。

「長谷川様又何としてこのような時刻に・・・・」
と言いつつ平蔵のただならぬ様子に気付き

「秀さん急いで部屋を用意してそれから長谷川様とお連れの方に
何か着替えを見繕っておくれ、それから湯を沸かして・・・・・」

「任せておくんなさい女将さん!万事心得てございますよ」
と秀次は支度に掛かった。

秀次はかまどに薪をくべながら、自分の着替えを持ってきて若者に着替えさせた。
「あっしのものではどうにも長谷川様には寸法が足りません、女将さんどうしやしょう?」
と秀次。

「このままでは長谷川様が大変なことになる、こんな場合は目をつむって頂いて
あたしのものでも羽織っていただくしか無いねぇ」
と菊弥は袷のものを引っ張りだして平蔵に着替えるよう促した。

平蔵も苦笑いしながら乾いた手ぬぐいで体を拭き、袖を通した。

そうしている内に湯も湧き、まずは足を温めねばとたらいに湯を張って若者の手足を浸し、
吹き出す冷汗を拭い取った。

平蔵の印籠から薬を出して飲ませ、一刻ほどで若者の様子も落ち着いてきた。

「ヤレヤレやっとこの方の様子も落ち着いてまいりましたよ長谷川様」
菊弥が平蔵にそう報告に上がってきたが、返事がない
「長谷川様!」
声をかけて襖を開けたその目の前に信じられない光景を見て菊弥は仰天した。
平蔵は蒼白な顔を天井に向けて眼は虚ろになっている。

「長谷川様!!」
菊弥は叫びながら平蔵のひたいに手をやった
「あっ!!大変!!秀さん大変だよ長谷川様がお倒れになられたよ!どうしよう!!」

「女将さん落ち着いてくださいよ、とにかくあっしはこのことを染千代さんに知らせやす
着替えも要るでござんしょうし、おとっつあんの物なら間に合うでござんしょう?、
それと熱冷ましの薬を早く!!」
と言い残して暗闇の中へ飛び出していった。

小半刻(30分)を待たず染千代が飛び込んできた。

真っ青な顔色で染千代が二階へ駆け上がって
「姐さん長谷川様がお倒れになすったって本当なの!」
と叫びながら襖を開けた。

平蔵の唇はすでに紫色に変わり、体力の消耗が激しいことが見て取れる。
染千代が手をおいた平蔵のひたいは火のように熱く、
濡らした手ぬぐいはあっという間に湿り気を失ってしまう。

「秀さん手伝っておくんなさいな!」
染千代は階下の秀次を大声で呼び寄せ、平蔵の衣服を剥ぎ取り、
持参した父左内の着物に着替えさせた。

「夜具をもう一組・・・・・それから湯たんぽを急いで作って頂戴」

さすがに武家の娘だけあって、最低必要な手当は心得ているようである。
だが平蔵は体温の低下によって意識を失いかけており、体中が小刻みに震えている。
菊弥が湯たんぽを抱えて上がってきた。

「それを足元に、足先は身体全部の冷えを取りますから」
そう言いつつ染は着物を脱ぎ始めた。

「何するんだい染ちゃん、お前さん気でも違ったのかい!」
菊弥の言葉を尻目に、染は肌襦袢一枚になって平蔵の横たわるしとねに潜り込んだ。

「姉さん!こうして人の体の温もりで暖めるのが一番と父上から教わったから、
私はそうするだけ」
そう言って染は背中から平蔵を抱きしめた。

「そんなことしたら、あんたが死んじまうじゃないか」
と、菊弥がおろおろするのを、

「姐さん、あたしは長谷川様に助けていただいたこの命、
この御方のためならばおしくはござんせん」
と染千代きっぱりと言い切った。

「染ちゃんアンタっていう人は・・・・・」
菊弥は火を移した七輪を部屋に運び込ませ、部屋も温めた。

しゅんしゅんと湯気を上げて小鍋が湧くのをたらい桶に取り手ぬぐいを絞って染に渡す。
それで平蔵の身体を拭いて吹き出す冷汗を拭い取る、
階下では秀次が若者の看病を続けているが、こちらはもう峠は越えたようで、
熱も下がり始めていた。

この戦いは朝まで続き、やっと外が白み始めた頃秀次が医者のもとに駆けつけた。
秀次に引きずられるように医者が籠でやってきて、
まず階下の若者を見て手当を済ませ投薬を与え、
「もうこちらは大丈夫、さてお次は・・・・・」
と二階に上がってきた。

染千代は身支度を整え平蔵の手を握りしめながら手ぬぐいを取り替えていた。

医者の玄庵は、平蔵のひたいに手をやり、胸をはだけ耳を押し当てて心の臓の音を探り、
ひと通り調べ終えたが
「ひどく身体が弱り切っており、暫くは動かさないほうがよろしいかと」
と後の言葉を濁した。

「先生!助かるのでございましょうね!」
染千代の必死の眼差しに、玄庵は言葉をつまらせた。

「うむ ともかくも水分の補給を怠らないこと、
寒さが引けば今度は暑がるであろうがそれとともに熱を冷まさせ過ぎぬこと、
これが大事じゃ、良いな!熱を取り過ぎるとかえって長引く、これを間違わぬこと、
おそらく酒々を飲んだ上で急に身体を冷やしたのが基であろうと想われる、
できるだけおもゆなぞを与えて力をつけさせることじゃ」
と注意を与え帰っていった。

その間に染千代は何やらしたためて秀次に
「これを菊川町の長谷川様のお屋敷に届けておくれでないか」
と書付を託した。

菊川町の火付盗賊改方役宅でこれを受け取ったのは同心の沢田小平次
「奥方様お頭の使いの者と申すものがかような書面を届けてまいりました」
と妻女の久栄に手渡した。

「何でしょうねぇ殿様の使いとは、昨夜はお帰りになるはずなのにそれもなく、
託けもないまま今朝になって・・・・・」
と女文字の筆跡にいぶかりながら読み始めた久栄の手が
わなわなと震えるのを沢田小平次は見て取り

「奥方さま!お頭に何か!」と声をかけた。

久栄は言伝を握りしめたままその場に崩れ折れた。
「殿様が・・・・・殿様が・・・・・」

沢田は久栄の手から言伝をもぎ取るようにして読み始めた。
昨日の事の顛末が染千代の手によってしたためられていた。

(長谷川様儀につき、取り急ぎお知らせ参らせ候
昨夜四ツ過ぎ、病の子供を背負い深川今川町桔梗屋にお越しなされたよし
幸いにも子供は長谷川様のお陰にて、お医師の話しでは峠を越した模様、
されど長谷川様は殊の外重く、お医師玄庵先生のお見立てでは、
日頃の過労に昨夜の氷雨と夜の冷え込みが重なり心の臓が弱り切り、衰弱激しく、
暫くの間動かすこと叶わぬと申されましたるよし、
今のところ意識朦朧にして昏睡状態の中にあり、
一瞬の油断も禁物なれど必死の看護を致しておりますゆえ、
何卒ご安堵召されまするよう。

元南町奉行所本所廻与力黒田左内 内 染)
しかし文字の乱れや行間に読み取れる不安は拭い去ることの出来ないものであった。

「何と!これは一大事!佐嶋様はまだお見えになられぬか!」
沢田はしばらくして出所した筆頭与力佐嶋忠介に事の次第を報告した。

「とにかくこのことは皆の者には伏せておけ!」
厳しい緘口令が佐嶋から出され、この事は沢田小平次と佐嶋忠介、
それに妻女の久栄だけが知るのみとなった。

「佐嶋どの、兎にも角にも私は殿様のところへ参ります」
と久栄が佐嶋に告げた。

しかし、佐嶋忠介は
「奥方さまが直々にお迎えに参られますのはお控えなされた方がよろしいかと存じます」
と対応した。

「何故私が出向いてはなりませぬのじゃ」
久栄には納得の行く返事ではなかった。

「奥方さま、ここは何卒この佐嶋におまかせくださりますよう、
今奥方さまが向かわれましたと致しましても、お頭は意識も戻っておりませず、
医者の申す通りお頭のお体を動かすのは誠に危険なことと存じます。
お頭の意識がはっきり致しますまで、暫くのご辛抱を願わしゅうございます」
となだめた。

その言葉に久栄は、キッと宙を睨み
「解りましたそのように致しましょう」
と両手を固く握りしめた拳が震えているのを佐嶋忠介は痛々しく見るしかなかった。

佐嶋忠介は早速御典医井上立泉に連絡を取り、
「お頭が急の病にてお倒れになったよし、
急ぎ深川今川町仙台堀の料理屋桔梗屋に出向いて頂きたく候」と託けた。

佐嶋忠介は久栄から平蔵の着替えを託され、それを抱えて桔梗屋に向かった。
急いで駆けつけた佐嶋の目の前に意識朦朧とした長谷川平蔵のやつれた姿があった。
(やはり奥方さまにお目にかけなんでよかった)・・・・・そう佐嶋はつぶやいた。

それほど平蔵の衰弱はひどい様相であったのだ。

別に誰もが手をこまねいていたわけではないが、
それほど平蔵の身体は日頃の激務が限界に来ていたと言えよう。

御典医の井上立泉が駆けつけて診察を試みるも、やはり玄庵と見立ては変わらなかった。
滋養の処方箋を与えて、後は本人の本復をまつのみということであった。

この日も暮になると平蔵は再び高熱を出し、
寒気に震えるという事を繰り返すたびに染は平蔵の体を温め汗を拭い、
身体を冷やさぬよう気を配りほとんど不眠不休で当たった。

始終取り替えるために、着替えの肌着は乾く暇がなく、
晒を折りたたんで平蔵の胸元や背中を包み吸汗させ放熱を避けた。
こうして染は五日目の朝を迎えた。

平蔵は意識のゆらめきの中に微かに誰かの温もりを背中に感じ
「ううんっ!」
と意識の彼岸から目覚めた。

平蔵の漏れるような小さい声に染は気づいて眼を覚ました。

「長谷川様!」
染は平蔵の意識が戻ったことにやっと胸をなでおろした。

「ううんっ?」
再び平蔵の声が、しかし今度はしっかりとした様子で聞こえた。

「お気が付かれましたか!」
染は平蔵の顔を覗きこんで確かめた。

「染どのではないか?どうして此処に・・・・・おう!そういえば・・・・・」
と身体を起こそうとしたが、まだ腰が定まらずヨロリと染の腕の中にもたれこんだ。

「嗚呼よかったよかった・・・・・・よかった」
染は止めどもなく流れ落ちる涙がこれ程に嬉しいものと初めて知った。

抱きかかえられた膝の上で平蔵
「染どのすまぬ」
と一言言葉を添えて見上げた染の両目から大粒の涙があふれ、
胸乳の辺りに吸い込まれるのを見つめるだけであった。

平蔵はこの安らかな時の流れが、現実と夢の間で揺れ動いている幻を見ているように想われた。
すっかりやつれた痛々しいほどの染の頬に手をやり、

「なぜ泣く染どの、わしはお陰でこうして戻ってきたではないか」
平蔵は染のこぼす涙を指先で拭いながら語りかけた。


(真綿の上にいるような力の抜けた安堵感・・・・・・
しあわせとはどのようなことであろうか?何を持って人は幸せと想うのであろう・・・・・

今のこのひと時は、わしは探しておったものなのであろうか、言葉もなく何もない、
ただここにおる、この穏やかさや安らぎは何と言えばよいのであろう、
わしは今まで生まれてきた意味と生きてゆく理由を想うたこともなかったが、
今初めてそれを知ったように思う)

染の腕に支えられて、障子越しに差し込んでくる真冬日の明るさを
まばゆい思いで平蔵は眺めていた。

階下から
「佐嶋様がお見えになられました」
と菊弥の声がして、階段を静かに上がる音が聞こえて

「よろしゅうございますか?」と声がかかった。

「長谷川様の意識が先ほどお戻りになられました」
と中から声がしたので、佐嶋は急いで襖を開けた。

そこには染千代に支えられて半身を起こし綿入れを背にかけた平蔵の顔があった。

「お頭!!」
佐嶋忠介はそれ以上言葉が続かなかった。

「佐嶋 心配をかけたのう、誠にすまぬ、だがもう安心いたせ、
まだまだわしのお勤めは終わらぬとみえて再びこの世の地獄に舞い戻ってきたぜ」
平蔵はやつれた顔に笑顔を浮かべ、大きく息を吐いた。

「ところで染どの、わしの連れて参った子供だがいかが致しておる?」と尋ねた。

「あのお子なら菊弥姐さんが面倒みてくれてまして、
長谷川様のお陰で大病に至らず元気を取り戻してございます」と答えた。

「佐嶋、すまぬがその子を此処に呼んではくれぬか」
平蔵は気がかりであった子供の話を聞きたがった。

やがて佐嶋に伴われて前髪姿の若者が平蔵の前に両手をついて居住まいを正し
「お陰様を持ちまして一命を取り留めました」と挨拶をした。

「おお よかった!ところでな、そなたの事を話してはくれぬか、
何故あのような場所におったのかどうも気がかりでなぁ」
と身の上話のもとどりを差し向けた。

「誠に失礼を致しました、私は元豊前小倉新田藩家臣黒田宗近が嫡男麟太郎と申し、
十二歳になります」
と、ハキハキと応え、平蔵や佐嶋を驚かせた。

「で、何故そこ元一人の旅を致した?」と平蔵は確信を突いた。

「藩の併合により禄を離れました。
そのために父上母上共々江戸の町奉行にお勤めなされておられる縁者を頼りに
江戸に参る途中、長旅と日頃の疲れから父上が流行病で身まかり、
備前(岡山)を出たところで看病疲れから母上を失いました」

「何と!」平蔵も佐嶋も言葉を失ってしまった。

染千代は年端もゆかない子の身の上に起きたこの痛々しい出来事に
まぶたを押さえるしかなかった。

「で、そこ元一人旅を続けてきたと言うわけだな?」

「はい ですが上方に着いたところで路銀も使い果たし、
江戸行きの弁才船に潜り込みましたが見つかってしまい、
親方が小間使いに使かって下さってやっと江戸に入り、
南町奉行所に近い稲荷橋に降ろしてくださいました。
持ち合わせもなく、お供えを盗んで腹を満たしました所・・・・・」

「おお それで腹を壊したか」

「はい 罰が当たったのでございます」と頭を掻いた。

「ところで長谷川様は火付盗賊のお頭様とお聞き致しましたが、まことでございますか?」

「真も真!盗人には鬼より怖いお頭様だぞ、お前もお供えを盗むとは誠に恐れ多い仕業じゃ」と、笑いながらそばから佐嶋が口を挟む。

少年は首を縮めて平蔵の顔を見やる
「安ずるな、此奴の冗談だよ」と目で佐嶋忠介を見やる。

「捕わるかと驚きました」
少年は首をすくめて
「ところで、その夜何人かの足音がしましたので私は奥に潜みました。
すると(今度は十六日、押し込み先は日本橋灘屋)と言う話し声が聞こえてきました」

「何っ!!」平蔵と佐嶋が思わず同時に声を発した。

「おい 佐嶋本日は何日だ!」

「はい 十二日でございます、まさかお頭!」

「そのまさかだぜ佐嶋」
平蔵が興奮してきたのを見て染千代が

「長谷川様どうかお気をお沈めくださいませ」
となだめ、平蔵を寝床に寝かせた。

「済まぬ済まぬ、どうもこう話を聞くと血が騒いでならぬ、因果な性質よのう」
と苦笑いの平蔵

「ところでわしがそこ元と出会ぅたのが六日前、のう佐嶋!
その日にどこぞのお店が盗賊に襲われたか至急探索致せ、
もし被害が出ておるならばこの話間違いのない所、早速日本橋の灘屋を探してまいれ」
と指図を与えた。

「ところで麟太郎とか申したのう、凡そのことは判ったが、
その縁者と申す南町奉行所与力の話をもそっと詳しく聞かせてはくれぬか?」
この利発な少年の輝きに満ちた眼を平蔵は見上げた。

「はい 父上の叔父上様が江戸南町奉行にお勤めと聞き及んでおりましたので、
僅かなつながりを頼りに出る決心を致しました」

「あい判った、ところでその縁者のお方のお名は何と申す」

「はい 黒田左内様と伺ぅております」

「何となっ!!」
平蔵の驚きと染の驚き様に麟太郎のほうがさらに驚いて飛び上がった。

平蔵と染は互いに目を見張り、あまりの偶然に言葉が見つからない。

「なるほど、偶然などこの世にはない、
何れも必然である物があたかも偶然のようにその必要な時に合わせて
現れるものと聴いてはおったが・・・・・・まさに・・」
平蔵は噛みしめるように身の回りの出来事を改めて振り返る面持ちであった。

きょとんとしている麟太郎に平蔵
「のう麟太郎、そこ元が探し求めておる南町与力の黒田左内、
その娘ごがこの染どのじゃ」と染を見やった。

「ええっ!・・・・・・・まことで・・・・・誠に叔母上?」
麟太郎の目元が見る見る潤み、涙が溢れこぼれてきた。

その日の夕刻平蔵の元へ佐嶋忠介が報告に来た。

「お頭、間違いございません、南町奉行所への届けによると
六日夜半南八丁堀の太物問屋岡崎屋が襲われ、主夫婦と番頭に丁稚、
女中など合わせて九名を惨殺し、金子五百両あまりが盗まれたとの報告がございました、
それと日本橋本石町三町目に両替商灘屋がございました」

「やはりまことであったか!よし早速日本橋の灘屋に話を持ち込め、
あまり時がないゆえ急がねばならぬ、佐嶋お前が指図を致し、盗人共をひっ捕らえよ、頼むぞ」
平蔵はこの身の動けない思いを佐嶋忠介に託した。

翌日平蔵は佐嶋忠介が役宅より差し向けた乗物に身を納め、
ゆるりと本所菊川町の役宅に戻った。

染の手によって、伸び放題の月代や髭も当たり髷も結い直し、
さっぱりとしたいで立ちであった。

見送る板前の秀次に
「秀次世話をかけたなぁ、早うお前ぇの仕込みが食えるようになるぜ、
女将まこと世話をかけもうした、かたじけない」
と菊弥に頭を下げ、その後ろに控えている染に無言で頭を下げ、
「麟太郎が事よろしくお願い申す」
と言って乗物の戸が閉められた。

上之橋に向かって進む乗物をじっと見つめる染の両眼は
いつ果てるとも無い涙があふれていた。

こうして麟太郎は黒田家に養子として迎えられることとなり、
その後見人に長谷川平蔵が名乗りを上げた。

早速南町奉行池田筑後守に黒田家与力見習い復権の届けが出され、
筑後守からのこの度の盗賊捕縛の手柄の添え書きもあり
黒田家の与力相続の復権許可が大目付より下されたことは言うまでもあるまい。

菊川町の役宅ではいつ到着するかと、門内に与力・同心が集まり、
平蔵の乗物が見えるのを今か今かと待ちわびていた。

乗物が北ノ橋西曲がり、伊豫橋を越えて役宅に向かったのを認めたのは
偵察に出ていた木村忠吾
「お頭がお帰りになられましたぁ!!」
大声で叫びながら役宅に駆け込んできた。

「取り乱すでない!」
が、その佐嶋忠介の声は言葉とは裏腹に上ずって聞こえる。

妻女の久栄は平蔵の常座する部屋に衣前をただし控えている。

玄関のほうで騒がしい物音がして、平蔵の無事の帰宅を案じていた与力や同心が
次々と平蔵の無事の帰還を祝っている、
しかしそこには密偵たちの姿は見ることが出来なかった。

これは(我らは密偵、決して日の当たる場所に出てはならない)
と言う強い思いを持った大滝の五郎蔵の配慮であった。

佐嶋忠介と筆頭同心酒井祐介に両脇を抱えられて平蔵が久栄の待つ座敷に入ってきた。

「殿様、ご苦労様でござりました」
と低頭したその久栄の両手の上に涙があふれているのを平蔵は痛々しい思いで見た。

「久栄!此度はまこと心配をかけた、すまぬ許せよ」と声をかけた。

久栄はただじっと頭を下げたまま微動だにしない。

それはこの数日間をじっと絶え凌ぐしか出来なかった思いの重さゆえであることを
平蔵は判っていた。
だからこそこの平蔵を支えきれるのであろう。

明けて三日後夜半、日本橋本石町両替商灘屋に兇賊の押しこみが入った。
戸口が金物でこじ開けられ、バラバラと賊が入ってきたのを見届けて、
あちこちから火打ち石の音とともにガンドウが明々とともされ、
照らしだされた盗賊団は驚きたじろいた。

「火付盗賊改方である、神妙にいたせ!」
佐嶋忠介の声を合図に潜んでいた与力や同心が賊に飛びかかった。

「クソぉ かまうこたぁねぇ殺っちめぇ!」
怒号と悲鳴が響き渡り、ガタガタと戸を蹴破って表に逃げ延びようとする賊を
陰に潜んでいた捕り方が、目潰しや袖搦で取り囲み、一人も残すことなく捕縛した。
その攻防は小半刻を要さなかった。

この江戸市中を恐怖のどん底に陥れた凶賊垈塚の九衛門(ぬたずかのきゅうえもん)
一味は明らかな罪状のためにそのまま大番屋に捕り方が周りを固めて護送され、
翌日には取り調べることなく南町奉行所へと連行された。

報告を床の中で聞いた平蔵
「皆ようやってくれた、これでわしは筑後守様との約定が無事果たせた、礼を言う、
これこのとおりだ」とねぎらいの言葉をかけた。

「お頭!・・・・・・」
その場に居合わせた者は皆目に涙を浮かべている。

思い返せばこの僅か数日間ではあったにせよ、
平蔵の姿のないことがどれほど心をいためたか、
皆の思いは同じであった。

それから七日の日が瞬く間に流れた。

本所二ツ目・・・・・言わずと知れた軍鶏鍋や五鉄の二階
今日ばかりは亭主の三次郎も上機嫌で、おときもいそいそと二階座敷に料理を運び込む。

「お前ぇ達にも此度はいらぬ苦労をかけた、心配をかけまこと済まぬ、
だがお陰でこうして又お前ぇ達と軍鶏鍋が食える、こいつぁ何よりだよなぁ五郎蔵、おまさ、粂
お前ぇや伊三次にも厄介をかけたことと想うぜ、佐嶋より聞いておるぜ、
お前達が日本橋の灘屋を張りこんでくれておったことをなぁ、
彦!お前ぇの体だ夜は辛かったろうなぁありがとうよ」

「長谷川様・・・・・・」

「おいおい湿っぽくなっちまったではないか、さぁ俺の快気祝いだぜぇ
しっかり食って飲んで祝ぅてくれ!わしも飲むぞ!わはははははは」
平蔵の高笑いが久しぶりに五鉄の二階に響き渡った。

障子を開けた平蔵
「雪か・・・・・道理で冷える」
平蔵の思いはこの数日を過ごした今川町の桔梗屋を懐かしんでいるようであった。

後に平蔵が佐嶋忠介に言った言葉だが
「人はそれぞれに居場所というものがある、身の置き所と心の居所、
構えずとも良い居場所も必要だと此度わしは思ぅた。

それはわしの我が儘なのかも知れぬ、だが、今のわしはそれを捨てることは出来ぬ。
人にはそれぞれ分がある、わきまえる必要はあろう、越えられぬ立場というか、
そのようなもので互いを支えおぅて居るように想うのだがなぁ・・・・・・
こいつだけはさすがのわしにも裁ききれぬよ」

平蔵の脳裏には、背に温もりを覚えた安らかな時の流れ
が夢の出来事のように深く静かに沈んでいった。

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2月号 鴨がネギ背負って 2-1



「あっ 長谷川様 いらっしゃいませ」
店先に打ち水をしていたおときが平蔵を見て愛想の良い笑顔で迎えた。


「おう おとき、毎日ご苦労だのう」
平蔵はこの女中の笑顔がこの五鉄の看板だといつも思うのであった。


「長谷川様がお越しですよ」
おときは弾んだ声で平蔵の来店を奥につないだ


「これは長谷川様、あっ 丁度良い所に・・・・・・」


「っってぇと何か変わったものが入ぇったってぇことだな?」
平蔵すでにこの五鉄の亭主三次郎の顔から読み取って足取りも軽く
二階へ上がっていった。


相模の彦十が酒肴膳を抱えて上がってきた。


「おい 彦 今日は又変わった物が入ぇったようだなぁ」
窓の障子を開けながら敷居に腰を据えた。


「さすが銕っつあん 耳が早ぇや、実はね信濃は松本の
一閑曲がりネギが手に入ぇたんでさぁ、
いつもなら下仁田か深谷、千住ってぇところでござんすがね」


彦十も五鉄に居候を決め込んで少しは学んだのかその博識ぶりをひけらかす。


「ほうほう 彦 お前ぇも少しは店を手伝っておるようだのう」


「銕っつあん そいつぁひでぇや、こう見えたって相模の彦十
腕には覚えもござんすよってなもんでへへへへへっ」
と腕をまくって平蔵にみせた。


「おいおい彦十その干物のようなものは頼むから引っ込めてはくれぬか、
今そいつを見せられちゃぁこの後のねぎがまずくなってしょうがねぇやぁな」


「あっ 違えぇねぇや」
彦十笑いながら恥腕(やさうで)を袖に帰す。


平蔵に酒を注ぎながら、さっさと自分の懐盃を出しておこぼれ頂戴。


「で ネギがどうした?」
酒を口に運びながら話の先を催促する平蔵。


そこへ亭主の三次郎が鍋の支度を抱えて上がってきた。


「長谷川様、もう父っつぁんにお聞きになられたと思いますが、
曲がりネギが手に入りまして、上野国は松本の特産、
これぁぜひ長谷川様に食べていただかなくてはとお知らせいたしました次第で、
下仁田のネギは丈も短く太く生では辛味が強うございますが、
火を通しますと柔らかく甘くなります。


別名を殿様ネギと言いますが、これはぶつ切りにして炙りますと、
甘くとろりとした甘い口当たりがよろしゅうございます。


千住ネギは土寄せして根を白く工夫したものでございますが、
葉肉は固めでいつでも手にはいり、鍋物には欠かせません、
旬となると11月からでございましょうか。
下仁田葱


埼玉の深谷はきめ細かく柔らかく、糖度が高く甘うございます。
この甘さはミカンと同じくらいとか、
このために鍋には砂糖の代わりになるというのでよく使います。


「ふ~む それほどの違いがあるとはなぁ、
でその一閑曲がりネギはまたどのようなものだえ?」
平蔵の好奇心がむくむくと頭をもたげていた。


「はい それがまたこだわりでございまして、
一旦植えたものを夏の間に引き抜いて植え替え致します」


「おいおい わざわざ植え替えるのかえ?」


「はい それが又甘さを引き出すコツだそうで、
なんでも土地の者の話では信州は土地が痩せておりまして、
中々根を深く張らせるのが厄介なんだそうで、
そこで一旦伸びたものを抜いてこれをあぜに斜めに立てかけて、
根元を再び土で覆って伸ばすそうで、
ふた冬越してやっと食べられるようになるそうでございます、
その分甘さが行き渡り煮ても焼いても美味しいそうでございます」


「ホォそいつぁまた、彦十とは大違いだなぁ
聞けば聞くほど早く食ってみてぇもんだなぁ彦十」


「銕っつあん!そのあっしと大違いってぇのがちょいと引っかかりやすが」
と平蔵を見る。


「おお こいつぁ気が付かなんだ、なぁに気にすることぁねぇぜ
お前ぇは煮ても焼いても食えねぇってだけのことよわはははは」


「あっ そりゃぁあんまりじゃぁござんせんかねぇ」
と三次郎を振り返る。


当の三次郎あっさりと
「さすが長谷川様の目は誤魔化せんぇよ父っつあん」
とにやにや


「へっ!お前ぇにまでそう言われちゃぁこの相模の彦十もお終ぇだぜ」
とぼやきが入るのを


「おい彦!冗談だよぉさぁ温っけぇところで食おうぜ」


「おっと!そうこなくっちゃぁいけませんやぁ、」
と彦十さっさと鍋に箸を・・・・・


「父っつあん!」
三次郎がこの無礼をたしなめるが


「まぁいいってことよ、どれ俺にもよそおってくれぬか」
と酌をするおときに椀を出す。
 下仁田ネギ


「で、本日の出し物は何だえ?」


「はい いつもならば軍鶏でよろしいかと思いますが、
本日は鶏を用いました、少しおとなしいかと存じますが、
この方が曲がりネギの甘みがよく出せると思いまして」と三次郎


「昆布を半時ほど浸して出汁を取ります。
これに鶏のもも肉をそぎ切りに、ネギの青いところを入れて
火にかけ中火で沸騰させ、火を落としてアクをすくいます。


その間に曲がりネギの白いところをそぎ切りにして焦げ目がつくように炙ります。
ここが旨味を出す秘訣、焼き上がりましたものを汁の中に入れ薄アゲ、
キノコを入れ、煮立ったところでみりんを入れて味を見ながら砂糖、
蜂蜜これが肉を更に柔らかく致します、
それに酒を加えて味を整え豆腐を落として予熱で煮ます、
煮過ぎると豆腐が硬くなりいただけません」


「おうおう 講釈を聞いているだけでも美味そうで、
こりゃぁまずい話になってきたぜ えっ!
寒いときやぁこいつでなく行かぬ・・・・・なぞとなぁ、どれどれ・・・・・・」


「お好みで柚子胡椒など振りますといっそうの・・・・・・」


「おいおいちょいと待ってはくれぬか!これ以上旨くなるというのかぁ、
そりゃぁたまらんぜ」


「銕っつあん!まだその上があるんでござんすよ!へへへへへ」


「おい 彦それ以上は申すな そりゃぁ河豚の毒でもあるまいし聞いただけで・・・・・・
いや いかぬ!毒を食らわば皿までと申すからなぁ 何でぃそいつぁ?」


「それがね 味の煮詰まった頃合いを見て、
この残り汁に蕎麦を入れて三次郎が申しやした柚子胡椒をパラパラと・・・・・
こいつがたまりませんやぁ」


「苦しゅうない、蕎麦を持てぇってかぁ!よぉし持ってこい其奴を」


「とおもいまして、もう温めて有りますよ長谷川様」
とおときが追い打ちの蕎麦を運んできた。


「蕎麦はやっぱり真田蕎麦であろうな、信州木曽の大桑・・・・・
こいつが一番、二番がねぇと言うやつよ、
上がったばかりのやつをこの残った出汁の中に入れて、
うむさぞかし濃厚であろうなぁ。


どれどれ・・・・・・・ううううっ 旨ぇ こいつはいやはやどうにも、
このネギと言い、蕎麦と言い身体の中からこう温まるなんざぁ中々のものよのう、
有り難ぇなぁむふふふふ」平蔵満腹のご様子であった。


こうして平蔵その足で菊川町役宅に戻りかけた。
程よく酒も回りそれ以上に曲がりネギの鍋が身体をいつまでも温かくしていた。


師走ともなれば昼でもそれ相当に冷える。
羽織から懐に腕を引っ込めてゆらりゆらりと足早に往来する人々の気配を
楽しんでいるかのようであった。


二ノ橋を渡り(ついでに弥勒寺のお熊のところへ寄って婆さんの顔でも
拝んで帰るか)平蔵は林町をまっすぐ弥勒寺の方へ下がった。


数日前の12月も押し迫った二十五日、
神田三川町一丁目両替商の大店鳴海屋に押し込みが入り
千両箱に入っていた小判や丁銀、小玉銀合わせて七百(しっぴゃく)両あまりが
強奪された。


賊は店のものを一箇所に集め猿轡をかませて後に刺殺し
素早く逃走を測った手口であった。


届け出は隣家の店の者が朝の戸口が開かないことに不信を持ち、
番屋に届け、番屋から町奉行所に届け出されて町奉行の同心が駆けつけ
表戸を打ち壊して入り発覚したもの。


強盗殺人ということで、南町奉行所吟味方与力から通達が届き
火付盗賊改方が担当となった。


「極悪非道なる仕業にて、係る事件は盗賊改めが出張らねばなるまいのう」
平蔵は手焙りに手をかざしながら筆頭与力の佐嶋忠介にボソリとつぶやいた。


「まことに左様で御座いますな・・・・・・」
佐嶋は平蔵の言葉の真意を汲み取ってそう答えた。


(俺は罪が憎い、それを犯させる奴が更に憎いそして罪を犯す者をなくしてぇ、
そこに俺たちは立たされているんだぜ)
以前佐嶋に平蔵が吐露した重い言葉が脳裏に浮かんだからである。


「お頭 両替商で師走ということからも、
この奪われた金子は額が少のぅございますなぁ」


「お前ぇもそう思うか?俺もそいつが気に食わねぇ、
おそらく粗奴らは金蔵は始めっから狙ってはおらぬと見た」
ゆっくりと平蔵妻女の久栄が運んできた湯飲みに手を添え
ゆらゆらと昇る茶の温もりを見つめている。


「確かに、手順から見まするに、素早く仕事を終えておるところからも少人数、
しかし後に証拠を残さぬための殺害は用心深いと申さねばなりますまい」
さすがに平蔵の懐刀と呼ばれる佐嶋忠介通達一つからここまで見通している。


「うむ お前ぇの言うとおりだろうよ、とするとこのままでは
済まぬような気がする、あと五日ほどの間にどこぞが狙われるやも知れぬ、
かと申して手がかり一つなしではいくら何でものぅ・・・・・」
手が打てないということである。


「江戸は広い・・・・・・・」
平蔵のこの言葉は江?御府内に南北両奉行所を合わせても与力四十六騎、
同心二百四十名 火付盗賊改方は与力五騎に同心三十名合わせても
与力五十一名同心二百七十名これで人口百万を抱える
江?四里四方を見回るのだから楽ではない。


おまけに町奉行と火付盗賊改方は同じ区域を廻ることでもあり
見回りの区域は広かったといえる。盗賊改めでは、
これに差口奉公(密偵)を各自が養っていた。


町奉行も同心与力の雇った小者・御用聞きと呼ばれるもの五百名や
その配下の下っ引三千名を使ってはいたが、
いずれもスリなど軽犯罪の見回りや聞きこみが主で、逮捕権は有せず、
又それぞれ糊口をしのぐ為に家族や本人自身が仕事を持っていた。


実際事件が起きたら御用聞きは奉行所からの要請で
奉行所に十手を頂きに上がってから事件の聞きこみに出かける、
これでは時間も掛かり効率的ではなかった。


ここは本所常盤町の海産物問屋能島や
「毎度ごひいきに預かりありがとうございます、富山の森田屋でございます。
反魂丹(後の六神丸)という幟を持って男が暖簾をくぐった。


「お前さんいつもの方と違うようだが?」


「へぇ 相済みません、いつもの友助さんがあの年でございますから、
ちょいと腹ァ冷やしちまってその代わりにあっしが、どうも面目ない話で」
と苦笑いしながら頭を下げた。


「そりゃぁそうだ、置き薬屋が腹を壊したんじゃお話にもなりませんからね」
主は帳簿をめくりながら返した。


奥からこの店の孫娘が出てきたのを見かけて


「お孫さんでございますか?はい!これお土産だよ」
と箱のなかから紙風船を取り出してぷっと膨らませて娘に渡す。


「ありがとう!」
娘は嬉しそうにその風船を両手で抱えて主人の膝に座った。


「いつも気配りを欠かさないのは、さすがに富山の商い上手、
私達も見習わなきゃぁ」と主人は笑顔で娘を抱き上げた。


「とんでも無いことでございます、こうして私どもが商いを続けられますのも
お客様あってのことでございますよ」
と言いつつ薬種を確認し、懸場帳に書き込んでいる。


「この度は一両と二百文でございますねぇ、
この年お江戸は夏風邪が流行ったとかで、こちらさまも葛根湯が無くなる寸前、
これは補充させていただきました。


「ああそうなんだよ、私らを始め丁稚なども季節の変わり目が
うまく乗りきれなくってねぇ、でもこうしておかげさまで
皆丈夫に師走を迎えることが出来ましたよ」
と、主は茶を勧めながら手文庫から金子を出して渡し、
懸場帳に支払い済みの書き込みをする男の手元を確認する。


「来年もよろしくお願いを申します」
と男が店ののれんを分けて外に出て、振り返り店に向かって一礼をして振り返った、
ちょうどそこへ平蔵がさしかかりあわやぶつか理想になった。


「あっ!」と両者が飛び退いて衝突は免れた
「これは飛んだご無礼を致しました、お許しを」
と男は小腰をかがめて何事もなかったように一ノ橋の方へと立ち去った。


?????っ あの身のこなしは、どうも只者ではないと見えたが、
俺の思い過ごしであろうか、
この師走に掛取りの置き薬代金を受け取るんだからなぁ、
さぞ急いでおったのやも知れぬ。
平蔵はさほど気を残さず背を向けた。


弥勒寺前の茶店笹やの床几に腰を落とし笠は取って横においた。
奥から人の気配がして・・・・・
「ありゃぁ銕っつあんでねぇか、こいつぁぶったまげたぁ、
この年の瀬にまぁよぉ来ておくれだねぇうひゃひゃひゃ」
歯の抜けたシワクチャ顔を増々しわ寄せて愛嬌をふりまく。


「おい お熊!お前ぇは相変わらずだのう」
手ぬぐいを首から下げて平蔵の前に屈みこむお熊の顔を見た。


「当たり前ぇだぁね、おらちっとも変わっちゃぁいねぇぜ、
ここんとこ銕っつあんが見えねえんんでよぉ、
おらちょいと心配ぇしたけんじょよ、こうして顔見せてくれて
ひとまず安心だぁなぁ」


「そうさのう お前ぇの顔を拝んでおかずば年も越せめぇよ」


「ありゃぁ んだば おらは観音様みてぇじゃぁねぇかよぉ銕っつあん」
お熊は開いているのか閉じているのかわからないほどの眼をさらに細めて
盆を胸にあてがい顔をほころばす。


「おなごが失くしちゃぁなんねぇもんが二ツある、そいつぁ女心と乙女心だぁね」
このお熊から想像することすらできかねる言葉が飛び出したから、


「この婆、八十過ぎても色気だけは忘れぬところがすごい」
と、さすがの忠吾も兜を脱ぐだけのことはある。


「なぁお熊、すまぬが笹だんごを適当にみつくろって包んでくれぬか」


「ありゃ奥方さまに土産ちゅう事ぁ、
なにか魂胆でもあるか後ろ暗ぇことでもしでかしたんじゃぁあんめぇなぁ」
と疑わしそうに平蔵の顔を見る。


「おい お熊!そいつぁねぇがな、お前ぇの笹だんごは天下一品!
奥方が大の好物でな、寄った時ぐれぇ下げて帰ぇってやるのも悪かぁねぜ、
これでよいかな」平蔵は一分を盆の上に置いて立ち上がった。


「こりゃぁ多すぎだけんじょも、ありがたく頂いておこうかねぇ、えへへへへへ」
お熊は懐にしまいながら
「銕っつあん又来ておくれよねぇ、待っているからさぁ」
と名残惜しそうに平蔵の後ろ姿を見送った、そのまぶたには
二十年前の平蔵の姿を見ているようであった。


「殿様お帰りなされませ」妻女の久栄が着替えの支度を捧げて居間に入ってきた。
「おう 久栄土産だ、何だと思う?」


「まぁお土産だなんて・・・・・・何でございましょう?」
と受け取る久栄に
「笹やの笹だんごだよ」と言葉をつなぎながら着替えの袖を通す。


「まぁ・・・・・・」
さほど嬉しそうな返事ではない、この久栄は平蔵が無頼時代の話を好まない、
と言うわけで、笹屋は特に好んではいないことを平蔵もよく承知している。


「こいつぁな 猫どのも折り紙付きの旨ぇ団子だとよ、
こう 笹の薫りが胃の賦に毒消しになるそうなあはははは」


「まぁさようでござりますか、では早速お茶を・・・・・」と出て行った。


「佐嶋はおるか!」平蔵は奥に声をかけた。


「お頭お帰りなされませ」筆頭与力の佐嶋忠介が障子を開けた。


「何ぞ変わったことはなかったか?」


「お頭がお出かけになられました後、一時ほど致しまして
奉行所当番方より知らせが参りまして、
一昨日八丁堀三拾間堀の酒問屋灘政左衛門宅に族が押し入り、
家人六名を猿轡をかませた後これを刺殺、四(し)百両あまりが
強奪されたとのことでございます」


「何だとぉ!灘政が襲われたと申すか」


「ははっ 左様にしたためられておりました」


「手口から見て、先の凶賊と同じと見てよかろう・・・・・・」


「年の瀬を控え、何処も支払い受け取りなどの為に大金が動きます、
それを狙っての押込みかと」


「で、町方の動きは相成っておる」
平蔵は町奉行の判断を推し量っているようであった。


「はい 立ち入り検分は済ませてようにございますが、
何しろ全員が口封じのために殺害され、
何一つ証拠が掴めず苦慮いたしておる様子にございます」


「うむ さもあろう・・・・・・」
平蔵じっと宙を見つめもつれた糸を頭の中で捌こうとしている。


7「のう佐嶋、六名が悲鳴を上げる事無く縛られる、
こいつぁ普通の出来事であろうか?」


「とおっしゃいますと」


「うむ 家人はそれぞれ別の部屋に就寝しておるのが普通、とするならばだ、
物音や何かで目を覚まさぬものかのう」


十名ほどの者が徒党を組みて行動致さば夜陰といえども目につく、
そうなるとわしなら出来るだけ人目を避ける事を頭に入れておく、
お前ならどうする」


「まことお頭の申されます通り、私が盗賊であるならば
できるだけ道のりを短くと考えます。
年の瀬は火事などの警戒も怠りませぬゆえ、
見回りの者も普段よりは回数を増やそうかと存じます」


「うむ おらくその辺りも予測しておかねばなるまい」


そのような話しを交わすうちにも大晦日がやってきた。


町の者は前夜宵越しの疲労も忘れて初日の出を拝もうと深川洲崎弁財天、
芝高輪、築地等の海岸や、駿河台、お茶の水、日本橋辺に集まって
初日の出を拝んだ。


やがて神田囃子が賑々しく、獅子舞や神楽を始め四条流の包丁式と
江戸っ子の正月がこうして開けて行った。


平蔵も元旦の将軍への拝賀の礼に始まり、三箇日は年始回りで明け暮れ、
やっと一息と本所菊川町役宅に戻ってきた。


そこには平蔵の組のものが待ち構えており、次々と来客が待っており
「やれやれいつもながらいやはやくたびれる」
とはいうもののこれも正月の行事笑顔で迎えていた。


そこへ仙臺堀の政七がすっ飛んできた。


「何!政七が急ぎとな!」
平蔵は挨拶を済ませる前に用というこの政七に異変を感じ
「よしすぐに裏へ回せ!」
と取り次いだ同心の沢田小平次に言い残して居間に回った。


「長谷川様!」
息せき切って入ってきた政七を見て
「政七いかが致した正月早々」
と言葉をかけたが、政七はよほど急いだのか肩で息をしている。


「おい政七そんなに急いでどうした!」


「それが!晦日に二件押込みがあったようで!」急ぎ お知らせにと思いやして。


「何だと!」
正月明けにのっけから政七のこの知らせは、
やっと腰を落ち着けたばかりの平蔵の正月気分を吹き飛ばすのには十分すぎた。


「手すきのものを全員集めよ!」
平蔵のこの下知は屠蘇気分の与力同心達も現実をつきつけられたようであった。


「お頭!私をはじめ酒井、小林、沢田ほか六名が揃いました」
と佐嶋忠介が報告した。


「まだ皆正月気分も抜けまいが、密偵たちにも繋ぎを取り急ぎ召集いたせ」


「さて佐嶋 政七の知らせによれば、晦日に押込みとは何れも急ぎ働きと見た。


早速被害の出た店の特定を急がねばならぬ、正月早々このような事件が起これば、
市中の治安を預かるこの火付盗賊の立場がない、
何としても早急に解決せねばならぬ・・・・・」
平蔵年明け早々という事が気にかかっている様子である。


平蔵のその思いを裏腹に、案の定この事件が解決を見るには
更に時が必要なこととなった。


絵図面を前に筆頭与力佐嶋忠介、筆頭同心酒井祐助が頭を揃えて見入っている。


「牛込の関口駒井町仏壇屋唐木屋・・・・・赤坂田町米問屋阿賀野や・・・・・・
同じ頃合いに襲うには距離がありすぎますなぁ」佐嶋がつぶやいた。


「いや船だ!船ならばさほどの時刻はかからぬ、
先程からどうも腑に落ちねぇところがあったんだが、
どうだ佐嶋!此度の押込み、何れも川筋から離れておらぬ、
しかも狙ったところはそれぞれ違う商いだ、何処ともつながりが見えておらぬ」


「ということは、狙いが川筋・・・・・・」


政七の話と奉行所の調書からもそう読むのが妥当と俺は想うがなぁ」


「なるほど、そういたしますと事件につながるものを見定めねばなりませぬな」


江?四方に散った密偵からもそれらしい手がかりは何一つ報告が上がってこない。
与力や同心も市中見廻りの中、昼夜を問わず懸命に走り回っていたが
焦れば焦るほど糸筋は途切れたまますでに半年が容赦もなくやってきた。


本所深川割下水を通りかかった時後ろから
「長谷川様!」と声がかかった。


平蔵が振り向くと仙臺堀の政七が勢い込んで駆けつけてきた。


「おお 政七このようなところでお前ぇに出会うとはのう」と平蔵。


「たった今長谷川様にお知らせをとお役宅をお尋ねの途中でございやす」


「おおそうか、では良い所で出会ぅたと言うわけだなぁ、
で何だぇその知らせってぇのは」


「それが昨夜遅く本所常盤町の海産物問屋能島やが襲われました」


「何だと!能島やだぁ・・・・・」
平蔵は年の瀬を迎えた二十五日、五鉄からの帰り道弥勒寺に向かった平蔵が
この海産物問屋能島やから出てきた富山の薬売りと思わずぶつかりそうになった
事を思い出した。


「おお あそこかぁ、本所といえば政七、お前ぇの縄張りだったなぁ」


「へぇ それだけにこの事件は暮の事件とも関わりがあるのではと
お奉行様がご心配なさっておいでのご様子で」


「筑後守様が・・・・・・さようか」
平蔵はこの度の事件は兇賊と言うことでもあり、
事件の取扱い一切が火付盗賊改方に回ってきていた。


その足で平蔵は菊川町役宅に戻り、待機中の佐嶋忠介に知らせた。
「で、その手口はまさか」


「そのまさかだよ佐嶋、火付盗賊も甘く見られたものよのう、
何一ついとぐちの見えぬまま半年が過ぎ、
大目付ではこの平蔵の無能ぶりを攻めるものも多く出てきたそうな。
京極備前守さまが矢面に立たされており、
まことにわしも心中穏やかならざる塩梅じゃ」


この度の一件もやはり川筋・・・・・・とするならば、後はいとぐち」


(んんっ!まてよ)平蔵は晦日のことが再びよぎっていた。


「おい 佐嶋!商いの掛取りはいつか知らぬか?」


「掛取り・・・・・でございますか?


「うむ たいていのところが商いは掛売、それを集金するのは何時頃であろうか?」


「お待ちくださいませ、まかない方に問いただしてみまする」
そう言って佐嶋は部屋を出て行った。


「お頭、普通ならば掛取りは盆と晦日だそうで、
大概のところが盆暮れの集金で済ませるようにございます」
佐嶋忠介が帰ってきて報告した。


「やはりなぁ わしはあの時どうもこう虫がうごめいてな」
平蔵腕組みしながら目をつむる


「何でございましょう?」


「うむ 晦日の事だがな、此度の能島やの表で、
わしは富山の薬売りとあわやぶつかりそうになった、
そのおり、わしも相手も飛び下がってお互ぇに避けたんだがなぁ、
その時のやつの一瞬だが目の光と動きが気になっておった。


これは俺の感の虫の居所が悪かったのかと思うたが、
そうではないやも知れぬ、粂八を呼んでくれぬか」
平蔵何やら思うことが生じたのかそう同心部屋に声をかけた。


暫くして粂八がやってきた。


「長谷川様及びと聞いて飛んで参ぇりやした」
と粂八が裏木戸を開けて入ってきた。


「おお 粂!すまねぇ、実はなぁ先ほど入ぇった話では、
本所常盤町の海産物問屋能島やに昨夜押込みが入ぇったそうな、
で お前ぇに頼みてぇこととは、その周りで富山の薬売りが
出入りしておるお店がねぇかどうか調べてみてくれぬか」


「富山の薬売りでございますか?あの置き薬の・・・・・・」


「そうよ そいつよ、出来るだけ詳しく判る方が良い」


「では早速!」と粂八が出て行った。


一時ほどして粂八が戻ってきた。


「長谷川様!ただいま戻って参ぇりやした」


「おお で如何であった?何かつかめたようだなぁその顔は、あはははは」
平蔵はすでに粂八が何かを掴んだことを見抜いてそういった。


「恐れいりやす、長谷川様の仰るとおりでございやした、
あの辺りを当たっておりやしたら札差しの大戸屋に先日富山の薬売りが
半年ぶりにやってきたそうで」


「で?」と平蔵先が知りたいと急ぐ顔に


「へぃ それがどうも妙な話で、今まではこの数十年変わらず通っていた
担ぎ屋が昨年病気だとか何とかで、若い者が代わりにやってきたそうで、
そんな時ぁたいがい引き継ぎってぇものを持ってくるのが普通でございやす、
ところがこの度はそれもなく、ですが、聞けば急な病とかで、
まぁそんなこともあろうかと別に疑いもなく済んだそうでございやす、
その時ちょいと妙だなぁとは思ったことがあったそうでございやす」


「何だいそいつは」
先を話せと平蔵の言葉尻がせいていたのを感じて粂八


「そいつが妙に店の中を見回しながら、
こんな大店は奉公人もさぞや寝泊まりも多いでしょうねぇとか、
戸締まりなんかはご注意なさっておられるのでしょうねぇとか、
妙に内情を探るような物言いに、妙な感じを受けたと言っておりやした、
それとこいつぁ大きな手がかりになると思いやすが、
そいつの鼻の左に大きなホクロがあって、時折りそれを掻いていたそうで」


「よくやったぜ粂八、おそらくそいつが一味のものであろうよ、
よし!早速密偵共に其奴の人相を伝えて探索いたせ!
わしも手すきの者と共に早速其奴を探すとしよう、おい誰か、誰か居らぬか!」
と大声を上げた。


こうして新しい展開がやっと始まったのである。


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2月号  鴨がネギ背負って  2-2


「そのまさかだよ佐嶋、火付盗賊も甘く見られたものよのう、何一ついとぐちの見えぬまま半年が過ぎ、大目付ではこの平蔵の無能ぶりを攻めるものも多く出てきたそうな。



京極備前守さまが矢面に立たされており、まことにわしも心中穏やかならざる塩梅じゃ」



この度の一件もやはり川筋・・・・・・とするならば、後はいとぐち」



(んんっ!まてよ)平蔵は晦日のことが再びよぎっていた。



「おい 佐嶋!商いの掛取りはいつか知らぬか?」



「掛取り・・・・・でございますか?」



「うむ たいていのところが商いは掛売、それを集金するのは何時頃であろうか?」



「お待ちくださいませ、まかない方に問いただしてみまする」そう言って佐嶋は部屋を出て行った。



「お頭、普通ならば掛取りは盆と晦日だそうで、大概のところが盆暮れの集金で済ませるようにございます」佐嶋忠介が帰ってきて報告した。



「やはりなぁ わしはあの時どうもこう虫がうごめいてな」平蔵腕組みしながら目をつむる



「何でございましょう?」



「うむ 晦日の事だがな、此度の能島やの表で、わしは富山の薬売りとあわやぶつかりそうになった、そのおり、わしも相手も飛び下がってお互ぇに避けたんだがなぁ、その時のやつの一瞬だが目の光と動きが気になっておった。



これは俺の感の虫の居所が悪かったのかと思うたが、そうではないやも知れぬ、粂八を呼んでくれぬか」平蔵何やら思うことが生じたのかそう同心部屋に声をかけた。



暫くして粂八がやってきた。



「長谷川様及びと聞いて飛んで参ぇりやした」と粂八が裏木戸を開けて入ってきた。



「おお 粂!すまねぇ、実はなぁ先ほど入ぇった話では、本所常盤町の海産物問屋能島やに昨夜押込みが入ぇったそうな、で お前ぇに頼みてぇこととは、その周りで富山の薬売りが出入りしておるお店がねぇかどうか調べてみてくれぬか」



「富山の薬売りでございますか?あの置き薬の・・・・・・」



「そうよ そいつよ、出来るだけ詳しく判る方が良い」



「では早速!」と粂八が出て行った。



一時ほどして粂八が戻ってきた。



「長谷川様!ただいま戻って参ぇりやした」



「おお で如何であった?何かつかめたようだなぁその顔は、あはははは」平蔵はすでに粂八が何かを掴んだことを見抜いてそういった。



「恐れいりやす、長谷川様の仰るとおりでございやした、あの辺りを当たっておりやしたら札差しの大戸屋に先日富山の薬売りが半年ぶりにやってきたそうで」



「で?」と平蔵先が知りたいと急ぐ顔に



「へぃ それがどうも妙な話で、今まではこの数十年変わらず通っていた担ぎ屋が昨年病気だとか何とかで、若い者が代わりにやってきたそうで、そんな時ぁたいがい引き継ぎってぇものを持ってくるのが普通でございやす、ところがこの度はそれもなく、ですが、聞けば急な病とかで、まぁそんなこともあろうかと別に疑いもなく済んだそうでございやす、その時ちょいと妙だなぁとは思ったことがあったそうでございやす」



「何だいそいつは」先を話せと平蔵の言葉尻がせいていたのを感じて粂八



「そいつが妙に店の中を見回しながら、こんな大店は奉公人もさぞや寝泊まりも多いでしょうねぇとか、戸締まりなんかはご注意なさっておられるのでしょうねぇとか、妙に内情を探るような物言いに、妙な感じを受けたと言っておりやした、それとこいつぁ大きな手がかりになると思いやすが、そいつの鼻の左に大きなホクロがあって、時折りそれを掻いていたそうで」



「よくやったぜ粂八、おそらくそいつが一味のものであろうよ、よし!早速密偵共に其奴の人相を伝えて探索いたせ!わしも手すきの者と共に早速其奴を探すとしよう、おい誰か、誰か居らぬか!」と大声を上げた。



こうして新しい展開がやっと始まったのである。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



その夜本所二ツ目橋言わずと知れた五鉄の二階。



持ち寄った情報を整理することになった。



与力、同心の情報は佐嶋忠介が持ち込んできた。



軍鶏鍋を囲みながら小房の粂八、相模の彦十、大滝の五郎蔵とおまさ夫婦、朝熊の伊三次が揃っていた。



「「いや 皆ご苦労!まず腹ごしらえからだ、な 腹が減っては・・・・・・」「戦も出来ねぇと来らぁねぇ、そうでござんしょう長谷川様」と彦十が口を挟んだ。



それを見て、大滝の五郎蔵「とっつあん、お前ぇそのあたりだけは気が回るなぁ、あきれたもんだぜ」と苦笑い。



「いや全く彦十の申す通り、先ずは腹ごしらえからだ。



で、佐嶋の方はどのような具合だった」



「それが中で何件かの店で同じ風体のものと見受けられるところがございました」



「こちらもご同様で、どうやらこの江戶市中を何人かで持ち回りのように回っているようでございます」と大滝の五郎蔵が、「ちょうど薬を入れ替えに入った男を見つけまして、声をかけてみたのでございます。



お茶を飲みながらそれとなく聞いてみましたら、やはり申し送りをするようで、そうでなければお得意様が警戒なさるのでと申しておりました」



「ふむ やはりなぁ、でほかに何かわかったことは無ぇかぃ」



「はい 、いつも江戸に出てきた時、宿はどうするのか聞いてみましたら、昔ながらの定宿があり、富山の者は皆そこに泊まって周るそうでございます。



「で当たって見たのであろうがそこには居なかった」と平蔵



「あっ よくお判りで、そのとおりでございます、さり気なく(なんとか言ったねぇほらこの左の鼻の近くにほくろのある・・・・・)と水を向けましたが、そんなものは富山の仲間内にはいないと言う事でございました」



「皆ご苦労だが、もう少しのところまで追い詰めたと思うゆえ、もうひと踏ん張り頼むぜ、明日からはその鼻のそばに、ほくろのあるやつを徹底的に追いかけろ、与力、同心達にもそのように申し伝えよ」平蔵が箸を伸ばす鍋にも、長きに亙ったこの事件に目鼻がついた安堵感が見えていた。



そして二日目、とうとう目指す相手を発見したと伊三次から平蔵の元へ繋ぎが来た。



伊三次からの知らせで、浅草新鳥越町幸龍寺裏に長らく空いていた家に戻るのを見届けたということであった。



早速川を挟んで対岸の百姓屋に見張り所が設けられた。



平蔵の指図で、まずはじめに川筋をあたった忠吾が川の葦叢に隠してある川船を発見した。



「おそらくこいつで縦横に移動していたのであろうよ」平蔵は読みのあたっていたことに少々安堵した風でもあった。



夕方には盗賊改めの面々が集結し、村松忠之進手作りの牡蠣煮込みの結びを頬張り、腹ごしらえも整っていた。



その夜も更け深々と冷え込む中動きがあった。



川向うの空き家付近とみられる方にかすかな灯りが漏れたのを当番の小林金弥が見逃さなかった。



「お頭!動きが出たようにございます」



「うんっ」仮眠を取っていた平蔵がやおら身体を起こした。



「動いたか!」「はい そのようで・・・・・」



「よし皆の者船の用意をいたせ、今から彼奴ら共を一網打尽にする時が来た」平蔵は各自持ち場に散るよう指図し、自らが奥まった所に密かに隠しておいた川船に乗り込みガンドウを点けて、クルクルと三回まわし、それぞれ粂八の働きで集められた川船三杯に乗り込み、舳先を川下に向け平蔵の合図を機に行動は開始された。



その間に向かいでは隠してあった船二杯に分乗して動きを始めた。



かすかな灯りを点けて川面を照らしながらゆっくりと進んでいる。



賊の船が海禅寺に差し掛かる直前平蔵の乗った小舟からガンドウが左右に大きく振られた。



盗賊を載せた船が海禅寺に近づいたその時、突然川面に灯がともり川船が川面に進んできた。



「何だぁ・・・・・・・こいつぁ」と盗賊の頭目らしき男が舳先に立ち上がって思わず叫んだ。



そこへ後ろからもガンドウが照らしだされて「火付盗賊改方長谷川平蔵である、一味のもの観念いたせ」と大声で詰め寄った。



「くっそぉ これまでかぁ・・・・・皆殺っちまえ!」と叫んだが、すでに船は取り囲まれ川岸の方へと追い込まれている。



「陸に逃げろ!」再び声が飛んだが、それを待っていたように陸からもガンドウの灯が一斉に当てられて、高張提灯までも点いている。



こうなっては最早どうすることも出来ない、抗うものはその場で切り伏せられ、川を朱に染めた。川に飛び込んだ者も一人残らず捕り方によって捕らえられてしまった。



こうして捕縛されたまま再び幸龍寺まで戻り、小笠原帯刀屋敷の前にある番屋まで連行された。



屈強な面構えの者の中に、平蔵がぶつかりかけた時の御用商人の顔も見えた。



「やはりお前ぇは只者ではなかったんだなぁ」と平蔵がその顔を見て言った。



「何だと!?」その男は意味がわからず平蔵に問いなおした。



「昨年の晦日お前ぇは本所常盤町の海産物問屋能島やに立ち寄ったであろう、
その店を出る時危うくぶつかりそうになったのを覚えておらぬのか?」



「あっ !」



「ふっ どうやら思
い出したようだなぁ、あの時の相手がこの俺だったのよ」



「くっ!」男は歯ぎしりしながら平蔵の顔を睨みつけた。



「あの時のお前ぇの顔がどうもちらついてなぁ、
あの一瞬だが俺を見たお前ぇの目つきの冷ややかさが気になっておった。



どうだ 話をする気になったけぇ?」



だが一味の誰一人として口を割るものがいなかった。



「まぁよい、夜が明けたら役人どもが来るであろう、どうせお前達は大番屋送り、
きびしき詮議の後死罪となろう、押しこみ殺人は斬首の上試し切りと決まっておる、
遠島は無いと思えよ」平蔵は冷ややかにそう言い放った。



だが誰一人声を上げる者がなかった。



それから吟味方与力の厳しい詮議が行われた結果全員が刀を帯びて折り、
過去の余罪も判明した為に情状酌量の余地なしという結論がくだされ、
死罪と決まった。



吟味方の厳しい詮議の結果判明したことは越中を股にかけた
兇賊帳(とばり)の仙蔵一味であった。



富山の薬売り友助は所持していた懸場帳を高齢であったゆえ
積まれた大金に欲が出て売ったものだった。



族の一味が掛取りを装って店の内情を探り、
目星をつけた店へ夜半に乗じて船で乗り付け、それぞれその場で猿轡を懸け
「殺しはしない」と安心させて騒ぎ出さないように図り、
強奪した後これを殺害して証拠を消した。



盗んだ金子は袋に入れ直し船に積んでそのまま夜明けを待ち、
日が昇ると同時に何食わぬ顔で川を下って盗人宿まで逃げていたという。



夜半に川を移動するのは危険が伴うし、川番屋や盗賊改めの警備に
発見されることも考えて、最も安全な方法を取っていたことが
平蔵をして感心さしめた事件であった。



「忍び混んだ庭先から目的の部屋の、
鎧戸に油を撒きこれを抜けば容易に部屋に忍び込めよう、
それぞれ二組で当たれば脅しながら縄をかけることも出来よう。



さすれば押込みは十名は必要ではないか」
平蔵の睨んだ通り押込みの人数は九名であった。



 


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その夜本所二ツ目橋言わずと知れた五鉄の二階。



持ち寄った情報を整理することになった。



与力、同心の情報は佐嶋忠介が持ち込んできた。



軍鶏鍋を囲みながら小房の粂八、相模の彦十、大滝の五郎蔵とおまさ夫婦、朝熊の伊三次が揃っていた。



「「いや 皆ご苦労!まず腹ごしらえからだ、な 腹が減っては・・・・・・」「戦も出来ねぇと来らぁねぇ、そうでござんしょう長谷川様」と彦十が口を挟んだ。



それを見て、大滝の五郎蔵「とっつあん、お前ぇそのあたりだけは気が回るなぁ、あきれたもんだぜ」と苦笑い。



「いや全く彦十の申す通り、先ずは腹ごしらえからだ。



で、佐嶋の方はどのような具合だった」



「それが中で何件かの店で同じ風体のものと見受けられるところがございました」



「こちらもご同様で、どうやらこの江戶市中を何人かで持ち回りのように回っているようでございます」と大滝の五郎蔵が、「ちょうど薬を入れ替えに入った男を見つけまして、声をかけてみたのでございます。



お茶を飲みながらそれとなく聞いてみましたら、やはり申し送りをするようで、そうでなければお得意様が警戒なさるのでと申しておりました」



「ふむ やはりなぁ、でほかに何かわかったことは無ぇかぃ」



「はい 、いつも江戸に出てきた時、宿はどうするのか聞いてみましたら、昔ながらの定宿があり、富山の者は皆そこに泊まって周るそうでございます。



「で当たって見たのであろうがそこには居なかった」と平蔵



「あっ よくお判りで、そのとおりでございます、さり気なく(なんとか言ったねぇほらこの左の鼻の近くにほくろのある・・・・・)と水を向けましたが、そんなものは富山の仲間内にはいないと言う事でございました」



「皆ご苦労だが、もう少しのところまで追い詰めたと思うゆえ、もうひと踏ん張り頼むぜ、明日からはその鼻のそばに、ほくろのあるやつを徹底的に追いかけろ、与力、同心達にもそのように申し伝えよ」平蔵が箸を伸ばす鍋にも、長きに亙ったこの事件に目鼻がついた安堵感が見えていた。



そして二日目、とうとう目指す相手を発見したと伊三次から平蔵の元へ繋ぎが来た。



伊三次からの知らせで、浅草新鳥越町幸龍寺裏に長らく空いていた家に戻るのを見届けたということであった。



早速川を挟んで対岸の百姓屋に見張り所が設けられた。



平蔵の指図で、まずはじめに川筋をあたった忠吾が川の葦叢に隠してある川船を発見した。



「おそらくこいつで縦横に移動していたのであろうよ」平蔵は読みのあたっていたことに少々安堵した風でもあった。



夕方には盗賊改めの面々が集結し、村松忠之進手作りの牡蠣煮込みの結びを頬張り、腹ごしらえも整っていた。



その夜も更け深々と冷え込む中動きがあった。



川向うの空き家付近とみられる方にかすかな灯りが漏れたのを当番の小林金弥が見逃さなかった。



「お頭!動きが出たようにございます」



「うんっ」仮眠を取っていた平蔵がやおら身体を起こした。



「動いたか!」「はい そのようで・・・・・」



「よし皆の者船の用意をいたせ、今から彼奴ら共を一網打尽にする時が来た」平蔵は各自持ち場に散るよう指図し、自らが奥まった所に密かに隠しておいた川船に乗り込みガンドウを点けて、クルクルと三回まわし、それぞれ粂八の働きで集められた川船三杯に乗り込み、舳先を川下に向け平蔵の合図を機に行動は開始された。



その間に向かいでは隠してあった船二杯に分乗して動きを始めた。



かすかな灯りを点けて川面を照らしながらゆっくりと進んでいる。



賊の船が海禅寺に差し掛かる直前平蔵の乗った小舟からガンドウが左右に大きく振られた。



盗賊を載せた船が海禅寺に近づいたその時、突然川面に灯がともり川船が川面に進んできた。



「何だぁ・・・・・・・こいつぁ」と盗賊の頭目らしき男が舳先に立ち上がって思わず叫んだ。



そこへ後ろからもガンドウが照らしだされて「火付盗賊改方長谷川平蔵である、一味のもの観念いたせ」と大声で詰め寄った。



「くっそぉ これまでかぁ・・・・・皆殺っちまえ!」と叫んだが、すでに船は取り囲まれ川岸の方へと追い込まれている。



「陸に逃げろ!」再び声が飛んだが、それを待っていたように陸からもガンドウの灯が一斉に当てられて、高張提灯までも点いている。



こうなっては最早どうすることも出来ない、抗うものはその場で切り伏せられ、川を朱に染めた。川に飛び込んだ者も一人残らず捕り方によって捕らえられてしまった。



こうして捕縛されたまま再び幸龍寺まで戻り、小笠原帯刀屋敷の前にある番屋まで連行された。



屈強な面構えの者の中に、平蔵がぶつかりかけた時の御用商人の顔も見えた。



「やはりお前ぇは只者ではなかったんだなぁ」と平蔵がその顔を見て言った。



「何だと!?」その男は意味がわからず平蔵に問いなおした。



「昨年の晦日お前ぇは本所常盤町の海産物問屋能島やに立ち寄ったであろう、
その店を出る時危うくぶつかりそうになったのを覚えておらぬのか?」



「あっ !」



「ふっ どうやら思
い出したようだなぁ、あの時の相手がこの俺だったのよ」



「くっ!」男は歯ぎしりしながら平蔵の顔を睨みつけた。



「あの時のお前ぇの顔がどうもちらついてなぁ、
あの一瞬だが俺を見たお前ぇの目つきの冷ややかさが気になっておった。



どうだ 話をする気になったけぇ?」



だが一味の誰一人として口を割るものがいなかった。



「まぁよい、夜が明けたら役人どもが来るであろう、どうせお前達は大番屋送り、
きびしき詮議の後死罪となろう、押しこみ殺人は斬首の上試し切りと決まっておる、
遠島は無いと思えよ」平蔵は冷ややかにそう言い放った。



だが誰一人声を上げる者がなかった。



それから吟味方与力の厳しい詮議が行われた結果全員が刀を帯びて折り、
過去の余罪も判明した為に情状酌量の余地なしという結論がくだされ、
死罪と決まった。



吟味方の厳しい詮議の結果判明したことは越中を股にかけた
兇賊帳(とばり)の仙蔵一味であった。



富山の薬売り友助は所持していた懸場帳を高齢であったゆえ
積まれた大金に欲が出て売ったものだった。



族の一味が掛取りを装って店の内情を探り、
目星をつけた店へ夜半に乗じて船で乗り付け、それぞれその場で猿轡を懸け
「殺しはしない」と安心させて騒ぎ出さないように図り、
強奪した後これを殺害して証拠を消した。



盗んだ金子は袋に入れ直し船に積んでそのまま夜明けを待ち、
日が昇ると同時に何食わぬ顔で川を下って盗人宿まで逃げていたという。



夜半に川を移動するのは危険が伴うし、川番屋や盗賊改めの警備に
発見されることも考えて、最も安全な方法を取っていたことが
平蔵をして感心さしめた事件であった。



「忍び混んだ庭先から目的の部屋の、
鎧戸に油を撒きこれを抜けば容易に部屋に忍び込めよう、
それぞれ二組で当たれば脅しながら縄をかけることも出来よう。



さすれば押込みは十名は必要ではないか」
平蔵の睨んだ通り押込みの人数は九名であった。



 


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1月第2号 穏やかな時



平蔵、小房の粂八を供に、久しぶりに大川で釣り糸をたれている 
船着場から小舟が寄せてきて「釣れやすか?」と声をかけてきた。

「魚かえ?」平蔵は釣り糸を上げてみせる

「お武家様ぁそいつぁ何でも・・・・・・」と苦笑いをする

「そうであろう わしもさように思うておる。
餌もなければ針もない、だがなぁ釣るだけが目的ではないこともある
こうして釣り糸を垂れる

この川の流れの中にどれほど多くの思いが溶けこんでおろうか
川面を眺め泣いた者もおろう、苦しみを投げ込んだ者もおるであろう、
地獄も極楽もこの川の底に潜んでおるやも知れぬ。

わしは日々の疲れをこのように糸に流してただあるがままに時を過ごす
そこに食うか食われるかなぞという野暮なものを持ち込んでは、
せっかくの楽しみも消え失せる

気の安らぐものを何処に求めるか・・・わしは過ぎる時を楽しんでおるのよ」

「へ~そんなもんでございますかねぇ」
若い船頭は苦笑しながら平蔵の釣り糸を眺めた。

「かかるっていやぁ先だって、この先の浅草今戸町船宿「柳川」の山谷船が
お武家の土左衛門を引っ掛けちまって、
まぁ御定法通り川に押し戻したそうでございやすがね、
片腕に紐が結んであったそうで、ありゃぁひょっとすると相対死じゃぁねぇかって・・・・・」

「そいつぁ片割れかも知れねぇなぁ、かわいそうにどのような訳があったのか知らぬが、
死んでしもうては何んにもならぬ、死んでしまえば楽ではあろうよ、
だがな 残された者はその分苦しまなきゃぁならねえってぇこともある。

生きていればこそ明日を夢見ることも出来たろうに、人の世とは不条理な事の多いものよ」

平蔵は身投げのあまりの多さに対応しきれず、岸に上がった物のみ
奉行所などが取り扱うという御定法を嘆いた。

その翌日、新吉原とは目と鼻の先、
田町一丁目二本堤の川傍で女の死体が見つかったと小林金弥が拾ってきた。

「武家の息女と見受けられるものの、身元の確認ができていない」
との報告であった。

昨日の大川で出会った船頭の言っていた水死体と、
もしや関連があるかも知れないと思ったものの、
すでにその骸は魚の餌になっているかもしれない。

その三日後浅草柳橋の橋桁に死体がひかかっているのが見つかり、
番屋に届けが出され、相対死の片割れかもしれないということで引き上げられた。

火付盗賊改方としては出る幕でもないが、少々気にかかる平蔵であった。

仙台堀の政七から聞いた話だとやはりその二体は相対死者のようで、
ただ妙なことに繋がれていた紐が鋭い刃物で切られていたということである。

「ところが長谷川様お奉行様が言われるには、
いずれも川に浮かんでいたのに水を飲んだ気配がねぇそうで」

「筑前守様が左様申されたのか、確かにふたりとも水を飲んではおらぬと」

「へぇ しかもふたりともお武家の身なりのようで」

「何ぃ 武家だぁ」まぁ確かによくある話ではある。

(水を飲んでいなかったこと・・・・・面白くねぇ話だなぁ)
腕組みをしながら平蔵は頭の中にからくりを仕込んでいた。

二人とも生き残れば日本橋で三日間の晒のあと、非人に落とされるし、
一人でも生き残れば死罪、

起請文(針で指を刺して血で遺書を書く)もなく、断髪もしておらぬ、
爪剥ぎもなく指切りもなし。

ふむ いずれの約束事もなしでは、まことの相対死とは言えぬところもあり、
果たしてこれが相対死かどうか、少々いかがわしくもある。

平蔵のこのささやかな不信感が決め手になろうとは思いもしなかった。

数日後平蔵は池田筑前守から南町奉行所にお越し願いたいとの言上を受け承った。

「長谷川殿、すでに此度の事件はお聞き及びと存ずるが、
武家の事件にて我らには手を下せぬ事が判明いたした。

誠にご雑作をおかけいたすが火付盗賊にて事件を引き継いでいただくわけには
参らぬであろうか・・・・・」

「承知つかまつりました、長谷川平蔵何としても事の真相を証してご覧に入れまする」
と快諾した。

「おお! お引き受け下さるか、誠にかたじけない、
ところで南町にて判明いたしたることを書き記しましたる物をお渡し致そう」
そう言って備前守はこれまでの取り調べ書きを平蔵に手渡した。

清水御門前の火付盗賊改方役宅に戻った平蔵、早速筆頭与力佐嶋忠介に
このしたため書きを手渡した。

「どう見る?」
平蔵は中身を改めて後佐嶋に問いかけた。

「このお調書によりますと、相手は武家の身ということでございますな」

「そうさ だから備前守様にも手が出せねぇ」

「ではこの後は手前ども盗賊改めのやり方で宜しゅうございますな」と念を押した。

「うむ だが相手が侍ぇともなればそうたやすくは聞き取りもかなうまい、
まずは外堀を埋めなければならぬが、さて合点のゆかぬ物もあり、
思案の貯めどころじゃなぁ」

判っておることはどこぞの家中の侍と身元不明の女の相対死・・・・・
だがなぁふたりとも水を飲んではおらぬというところがどうもわしは気に入らぬ。
責任を取ることではないゆえに腹は召さなんだ、こいつは判る。

おなごの方は首を絞められたような痕跡を認むとあろう、
首を絞めた後、誰がどのように二本堤まで運び、遺棄致したかその辺りも見えては居らぬ。
こいつぁ時がかかるかも知れぬなぁ・・・・・のう佐嶋」

「左様にございますなぁお頭、どうも身元が判明致さぬのでは捜査もままなりませぬ」

「よし 密偵たちに足取りを探さすのが先のようじゃ、すぐに繋ぎを取り
二人の足取りとつながりを探るよう指示いたせ」平蔵は疑問を解くには
元からやり直すことが良いと感が働いた。

「闇雲に動いたところで無駄であろう、
まずは仏の見つかった田町一丁目二本堤あたりから掛かってくれ」
佐嶋忠介は大滝の五郎蔵を中心に盗賊改めの威信がかかっていることを言い聞かせた。

密偵たちの必死の捜索にもかかわらず一向にその糸口さえも掴めないまま半月が過ぎた。

「殺しの現場はここら辺りではないのかもしれない・・・・・」
いつの間にか諦めのそんな言葉がやりとりされるようになっていた。

そんなある日、武家の内儀と思える者が人探しをしているらしいという話を
小房の粂八が聞きこんできた。

「おい 粂!そいつぁどのあたりだい?」

「それが長谷川様伝法院の辺でございまして、
何でも上役に呼ばれたとかで出かけたまま行方しれずになっているとか・・・・・」

「ふむ そいつぁもしやこの度の殺しと関係があるやも知れぬのう」
平蔵はこの粂八の掴んできた話に一抹の期待をかけた。

そしてそれが解決に向かった序章でもあった。

翌日同心沢田小平次が粂八と浅草伝法院で武家の内儀風の者を見かけたという
辺りに出かけていった。

昼過ぎに茶店で疲れた足を休めていると
「あっ!沢田様!あのひとでございやす」
と粂八が浅草寺の志ん橋と書かれてある大提灯の下をくぐって
広小路に出てきたそれらしき者を指さした。

「よし!判った!」沢田は茶代を置いて立ち上がった。

「そつじながら・・・・・・」
いぶかしそうな顔で足を止めた武家の内儀風の女性に沢田は声をかけた。

「身共は火付盗賊改方同心沢田小平次と申します、
お尋ねの方につき、少々お話を伺えますまいか」と切り出した。

女性は一瞬たじろいたが、火付盗賊改方と聞き、頷いた。

さる旗本に仕えている息子の消息が突然消えてしまった。
許嫁の親元にでもと思い、そちらを尋ねたら、その息女も行方しれずと聞かされ、
お屋敷にお伺いを立てたが、知らぬ存ぜぬでとりつく島もなく、
矢も盾もたまらず、こうして探しているとのことであった。

名は小坂史郎、許嫁の名はちはると言った。

「旗本であったか・・・・・・」
平蔵は町方が出張れないのも無理は無いと判った。

「とりあえず、その身の周りから探るしか無ぇなぁ・・・・・・
よし五郎蔵を呼べ、あいつにその旗本屋敷の中間などに探りを入れさせろ」
と佐嶋忠介に指示を出した。

五郎蔵は旗本屋敷の中間の中でも酒癖の汚そうな中間が出入りする下屋敷に目をつけ、
そこに張り込んだ。

そうして三日の時が流れた。

その夜件の中間は大負けを喫し、荒ぶれた様子で土場を出てきた。

「兄さん今夜はついてなかったようだねぇ」と声をかけた。

「誰でぇ 俺ぁ今夜は荒れてんだ、糞面白くもねぇ・・・・・・」

「まぁまぁ あっしも負け犬でござんすよ、どうですちょいとそこいらでこう・・・・・」
と盃を引っ掛ける仕草をして誘ってみた。

「俺ぁ すってんてんだぜ!お前ぇさん持ちならつきあってやってもいいぜ」

「おう そうこなくっちゃぁ、げん直しに一杯やって、
ウサでも晴らしゃぁ又目もでるってもんで」と誘い込んだ。

近くの居酒屋に腰を据えて、暫く盃を重ねていたが
「兄さん!そんなもんじゃぁ気分も過ぎめぇ、どうでぇこいつの方で・・・・・」
と湯のみを差し出した。

「こいつぁ気が利くねぇお前ぇさん!」

男は眼をトロつかせながら湯のみをいく杯も飲み干した

「ところでお前さん寺坂様のお屋敷に詰めていなさるんじゃァねえんですかい?」

「何だとぉ お前ぇ誰でぇ・・・・・・!」

「おっと 怪しいもんじゃござんせんよ、近習の小坂史郎様の知り合いでね、
時々お屋敷に伺っていたんで、お前さんの顔に見覚えが・・・・・」

「なんでぇぃ 小坂様の知りあいけぇ」

男は疑いの目を解き放ったようで、あの方もお気の毒なことで」と、
気落ちしたふうに言葉を濁した。

「なんでぇ そのお気の毒な話ってぇのは・・・・・まさか許嫁の・・・・・」
五郎蔵が水を向けると、眼を見返して

「おっ さすが知ってるね!そうよそいつよ、
お気の毒にあの小坂様の許嫁のちはる様に若殿様が横恋慕でよ!
何度か横車を押したんだが、他家のお女中という事で、中々うまく行かねぇ、

ところがこの暫く前から小坂様のお姿が見えねぇ、
妙な具合になっちまったんじゃぁねぇかって中間部屋ではもっぱらの噂だぜ、
若殿様は何しろあの御気性だからなぁ、小坂様も大変だとは想うぜ」
中間は気を許してペラペラと内情を喋った。

この話を五郎蔵から聞いた平蔵
「ふむ やはり相対死ではなさそうだのう、いやでかした!五郎蔵、よく調べてくれた、
これで目星もついた、後は事実を探すまで、いやご苦労であった、ゆっくり休んでくれ、
おまさにも俺からよろしくとな!
帰ぇりに宗平とっつあんに土産でも持って帰ぇってやってくれ」
そう言って懐紙に二朱金を包んで手渡した。

「長谷川様・・・・・」

「おいおい 大げさな さぁ 早く帰って安心させてやれ、
きっとお前ぇのことを案じておるであろうよ」
平蔵は煙草に火をつけながら枝折り戸に消える五郎蔵の後ろ姿を見送った。

翌日から平蔵の指図で密偵を始め与力同心も市中見廻りの探索の傍ら
聞きこみに力を入れたものの、これといった収穫もなく時ばかりが過ぎてゆくようで、
平蔵の顔にも少々焦りの色が見え始めた。

そんな夕方、密偵の粂八が
「ちょっと小耳に挟んだことが」と報告にと役宅に立ち寄った。

「吉原辺りを流している畳屋が畳の張替えを頼まれて出かけたそうですが、
こいつがまた妙な話で」・・・・とその親父が話してくれやした。

「大抵畳の張替えは表裏と返した後張り替えやす、
ところがこの時ばかりはさほど傷んでなかったそうで、
畳の目地に大層な汚れがひとかたまり着いていて、
それが畳床にまで広がっていたそうで妙なもんだと思ったそうでございやす」

「うむ、そいつぁ妙だのう、もしやその汚れは血の固まったもんじゃァねぇか?」
平蔵はもしやその場所で事件が起きた可能性もあるとカンが働いた。

「へぇ あっしもそいつァ妙だと思いそのお店の場所と名前を確かめてまいりやした」

「おお そいつぁでかしたぜ粂、恐らくはお前ぇの睨んだとおりだろうぜ」
平蔵は先に明かりが見えた思いで粂八をみた。

「早速おまさにつなぎを入れてそのお店に探りを入れさせろ」
平蔵、揉み手をしながら口元が緩んできた。

翌日おまさが小間物を背負って昼過ぎの隙を狙って商いに出かけていった。
おまさはその店の裏にまわり、賄いの女中に声をかけた。

「お前さんこの辺りで知らない顔だねぇ」
といぶかしそうに年増の女がおまさの足元から道具立てまでじろじろ眺めて品定めをする。

「はい 店を出しておりました亭主が床に着いちまって、
代わりにあたしが品物を担いで商いに出ることになりましたもので、こうして・・・・・
ご挨拶代わりに今、京の都で流行っている京紅ですけど」と、差し出した。

「おや それぁ大変だねぇ、いいよ、あたしがこの店じゃぁ古いから任しておきなよ」
差し出された紅をさっさと懐に修め、ご機嫌よく招き入れてくれた。

こっちも客商売だからねぇ色々と小間物はいるもんだからさ、
ねぇちょいと皆んな来てご覧よ今京で流行りの物があるよ」と奥に声をかけてくれた。

品物を広げながら
「このさきのお店で小耳に挟んだんだけど、この界隈で若い女が殺されたとか・・・・・」
と好奇心を覗かせるように世間話を漏らした。

一瞬全員の顔に緊張が走ったのをおまさは見逃さない。

「かわいそうにねぇ何も死ななくても、・・・・・・何とかならなかったのかねぇ、
死んじまっちゃぁなんにもなりゃぁしない。
助けてくれるような好きなお人もいなかったのかねぇ」とつぶやいた。

すると先ほどの女中頭が声を潜めて
「ここだけの話だけどさ、ここの2階座敷で若いお武家と同じような武家風の
相対死があったのさ、そりゃぁひどいもので辺り一面血の海でさぁ
、あたしと女将さんでその血の海を拭い取って、
相対死の二人はどこかのお屋敷の方々が引き取って行ったんだけどさぁ、
あれぁ相対死じゃぁ無いね!だってさ、

どこかのお屋敷の身分の高そうなお侍さんたちが先に上がってひと騒ぎあった後
若い二人がやってきてその後のことだもの、人前で相対死なんてできゃぁしないよねぇ」
とおまさに同意を求めてきた。

「たしかにねぇ、でも相対死だって言われたんじゃぁねぇ」
と次の言葉を誘ってみた。

「女将さんが血を拭き取りながら
(こっちは客商売だからさぁ嫌とはいえないけど、あの若様にも困ったもんさね、
ご大身の旗本風吹かせてなんでも押し切っちまうなんてねぇ、
二人にとっちゃぁ迷惑な話だよ)って、
嫌だねぇやりたい放題で、その後始末はこっちにおっかぶせてさ」とぼやいた。

ことの次第をおまさから聞いた平蔵
「おまさ でかしたぜ!これですべての駒が揃った、
よし早速お調書を作成致し備前守さまにお届け申そう、ご苦労であった、
これでやっとわしも肩の荷がおろせる」
平蔵 腕組みをしながら目を閉じてすべての筋書きを書き終えたような安堵感を見せた。

少し話は戻る。

「誰か居らぬか!」

「若殿! お呼びで!」

「おう 斉藤 小坂史郎を呼んで参れ!」

「ははっ!」

「若殿 何か御用でございましょうか?」

小坂と呼ばれた若侍が旗本寺坂刑部の嫡男十太郎の部屋にまかりこした。

「おう 小阪!お前近々婚儀が整うたと父上に婚儀の承諾願いを出したそうだなぁ」

「ははっ 左様にお届けいたしました」

「そこでわしから祝ぅてやろうと想うてな、どうだ二人連れ立って出かけて参らぬか?」

「ははっ ありがたきお言葉、では早速にでもちはるを伴って参上つかまつります」

「おお 来てくれるか、では早速だが明日山谷浅草田町の袖すり稲荷前にある
料亭翠月楼に暮六ツに参れ、それまでにはわしも参っておる」

「ははっ かたじけのうございます」

若殿直々のお声がかりである、小坂史郎は歓びに胸を躍らせて
許嫁のちはるに報告に立ち寄った。

「ちはるどの、歓んでください若殿が我らの祝言を祝ぅて下さるそうでございます」

「史郎さま、それはまことでございますか?」
ちはるは想いもかけない史郎の言葉に信じられない風であった。

「日頃より殿様は何かと私に目をかけて下さり、
この度のちはるどのとの婚儀もたいそう歓んでくださって居られましたが、
まさか若殿まで祝ぅて下さるとは想いもかけないことで、早速お返事を致しました。
それで明日二人揃うて翠月楼に参れとの仰せでございました」

こうして二人は翌日夕刻十太郎の指名した翠月楼に出向いた。

十太郎はと言えば、すでに到着しており、
取り巻きの若侍三名と酒の膳もかなり進んでいた様子である。

「おう来たか、ちはるとか申したのぅ、よう参られた、
ささっ まずは一献わしに注いではくれぬか?」

ちはるは両手をついて
「若殿様のお申出なれど、私は酒汲みおなごではござりませぬ、
何卒その儀はお許しのほど願います」と丁重に断った。

当然のことである、夫ならいざしらず見知らぬ者に酌をするなど
武家のおなごのすることではない。

「何ぃ!若殿に向かって無礼であろう!」
腰巾着の若侍が片膝立ててそばの大刀を引き寄せた。

「まぁ待て待て!嫌だと申しておるのではない 
出来ぬと申したのじゃ、そうであろう?」

「はい さようにございます、どうかその儀はお許し願わしゅうございます」
きっぱりと十太郎の目を見据えて答えた。

「こしゃくな!誰に向こうて返事を致しておる所存じゃぁ!」
眉間にピリピリと引きつりを見せて十太郎は持っていた盃を小坂史郎に投げつけた。

避ける間もなく盃は小坂史郎の眉間に当たり、血が糸を引きながら袴の上に流れ落ちた。

小坂史郎は血のしたたりが畳に吸い込まれるのを拭おうともせず
「若殿!何卒お許しの程を」と懇願した。

「無礼な!わしに仕える身の貴様ごときに断られて、
それを飲むとでも思うたか!下郎が下がりおれ!」
十太郎の激しい口調に思わず小坂史郎は刀を引き寄せ柄に手をかけた。

「柄に手をかけるとはおのれが主に刃向こう気か!
許せぬそこに直れ手打ちに致してくれる!」

「めめめっ滅相っもござりませぬ、何卒お許しを!」
我に返った小坂史郎柄から手を離し平伏した。

「黙れ黙れ!聞く耳持たぬわ!其奴を取り押さえろ!」
若侍に命じ小坂史郎を両脇から押さえ込んだ。

気の昂ぶりを抑えきれず十太郎は小坂史郎の脇差しを引き抜いての首を切り裂いた。

鮮血が襖にビュッと飛び散り、取り押さえていた若侍の胸に降り注いだ

「「史郎様!!」
ちはるは史郎の身体に覆いかぶさるように抱きついた

「おのれがぁ!」
十太郎はその姿を見て増々逆上し、ちはるを引き剥がし、
仰向けに倒れたちはるに馬乗りになった

「小阪!もはやお前には必要ないこいつはおれが頂いてやる安心いたせ!」

両眼を見開いたまま声も出せず荒い息をしつつ血潮にまみれている小坂史郎に
そう叫んでちはるの胸ぐらを両手で押し開いた」

「いやぁ~!!」
ちはるは十太郎の下でバタバタと抵抗したものの、
あらがえるはずもなく口に手ぬぐいを押し込まれ舌を噛み切るのを防がれてしまった。

「わはははは どうだ悔しいか!どうにも手が出せまい」
十太郎は小坂史郎の方を振り向いた。

再びちはるの方に振り返った瞬間
「ぎゃっ」
と悲鳴を上げて左目を抑えた、その手のひらの隙間からボタボタと血が吹き出した。

「おのれがぁ!」
十太郎はちはるの右腕をわしづかみに引き倒した、
その手には簪が朱に染まって握られていた。

「此奴此奴!!」
十太郎はちはるの首に手をかけ締めあげた。

ちはるは暫くバタバタしていたものの目を見開いたまま絶命した。

小坂史郎も両眼から血を流しながら絶命してしまった。

「若殿!少々やり過ぎたようではござりませぬか?」
と供の若侍、いささか思わぬ展開に巻き込まれてこれをどう収めたものかと
戸惑っている様子である。

「俺は天下の直参!店の者共に口止めいたせ
、死体は其奴の下げ緒で結びおうて相対死と致せば良い、
後の始末はお前達でなんとでも致せ、おい部屋を変わるぞ」
と別の部屋に陣取り、再び酒を飲み始めた。

これが事の顛末であった。

それから半月が流れた後、大目付へ旗本寺坂刑部より、
嫡男流行病死の届け出がなされたと平蔵は筑前守より聞かされた。

人が人を裁く・・・・・
死人に口なしとはよく言ったものだが、どこかに落とし穴が潜んでおるものよ
、旗本の誇りたぁ一体何だぁ・・・・・・

平蔵は後味の悪いこの度の事件を苦々しい面持ちで書き記した。

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2016年 新年号 予知夢

平蔵、小房の粂八を供に、久しぶりに大川で釣り糸をたれている 
船着場から小舟が寄せてきて
「釣れやすか?」と声をかけてきた。

「魚かえ?」平蔵は釣り糸を上げてみせる

「お武家様ぁそいつぁ何でも・・・・・・」と苦笑いをする

「そうであろう わしもさように思うておる。
餌もなければ針もない、だがなぁ釣るだけが目的ではないこともある
こうして釣り糸を垂れる

この川の流れの中にどれほど多くの思いが溶けこんでおろうか
川面を眺め泣いた者もおろう、苦しみを投げ込んだ者もおるであろう、
地獄も極楽もこの川の底に潜んでおるやも知れぬ。

わしは日々の疲れをこのように糸に流してただあるがままに時を過ごす
そこに食うか食われるかなぞという野暮なものを持ち込んでは、
せっかくの楽しみも消え失せる
気の安らぐものを何処に求めるか・・・わしは過ぎる時を楽しんでおるのよ」

「へ~そんなもんでございますかねぇ」
若い船頭は苦笑しながら平蔵の釣り糸を眺めた。

「かかるっていやぁ先だって、この先の浅草今戸町船宿「柳川」の
山谷船がお武家の土左衛門を引っ掛けちまって、
まぁ御定法通り川に押し戻したそうでございやすがね、
片腕に紐が結んであったそうで、ありゃぁひょっとすると相対死じゃぁねぇかって・・・・・」

「そいつぁ片割れかも知れねぇなぁ、かわいそうにどのような訳があったのか知らぬが、
死んでしもうては何んにもならぬ、死んでしまえば楽ではあろうよ、
だがな 残された者はその分苦しまなきゃぁならねえってぇこともある。

生きていればこそ明日を夢見ることも出来たろうに、人の世とは不条理な事の多いものよ」

平蔵は身投げのあまりの多さに対応しきれず、
岸に上がった物のみ奉行所などが取り扱うという御定法を嘆いた。

その翌日、新吉原とは目と鼻の先、田町一丁目二本堤の川傍で
女の死体が見つかったと小林金弥が拾ってきた。

「武家の息女と見受けられるものの、身元の確認ができていない」との報告であった。

昨日の大川で出会った船頭の言っていた水死体と、
もしや関連があるかも知れないと思ったものの、
すでにその骸は魚の餌になっているかもしれない。

その三日後浅草柳橋の橋桁に死体がひかかっているのが見つかり、
番屋に届けが出され、相対死の片割れかもしれないということで引き上げられた。

火付盗賊改方としては出る幕でもないが、少々気にかかる平蔵であった。

仙台堀の政七から聞いた話だとやはりその二体は相対死者のようで、
ただ妙なことに繋がれていた紐が鋭い刃物で切られていたということである。

「ところが長谷川様お奉行様が言われるには、
いずれも川に浮かんでいたのに水を飲んだ気配がねぇそうで」

「筑前守様が左様申されたのか、確かにふたりとも水を飲んではおらぬと」

「へぇ しかもふたりともお武家の身なりのようで」

「何ぃ 武家だぁ」まぁ確かによくある話ではある。

(水を飲んでいなかったこと・・・・・面白くねぇ話だなぁ)
腕組みをしながら平蔵は頭の中にからくりを仕込んでいた。

二人とも生き残れば日本橋で三日間の晒のあと、非人に落とされるし、
一人でも生き残れば死罪、起請文(針で指を刺して血で遺書を書く)もなく
、断髪もしておらぬ、爪剥ぎもなく指切りもなし。

ふむ いずれの約束事もなしでは、まことの相対死とは言えぬところもあり、
果たしてこれが相対死かどうか、少々いかがわしくもある。

平蔵のこのささやかな不信感が決め手になろうとは思いもしなかった。

数日後平蔵は池田筑前守から南町奉行所にお越し願いたいとの言上を受け承った。

「長谷川殿、すでに此度の事件はお聞き及びと存ずるが、
武家の事件にて我らには手を下せぬ事が判明いたした。
誠にご雑作をおかけいたすが火付盗賊にて事件を引き継いでいただくわけには
参らぬであろうか・・・・・」

「承知つかまつりました、長谷川平蔵何としても事の真相を証してご覧に入れまする」
と快諾した。

「おお! お引き受け下さるか、誠にかたじけない、
ところで南町にて判明いたしたることを書き記しましたる物をお渡し致そう」
そう言って備前守はこれまでの取り調べ書きを平蔵に手渡した。

清水御門前の火付盗賊改方役宅に戻った平蔵、
早速筆頭与力佐嶋忠介にこのしたため書きを手渡した。

「どう見る?」平蔵は中身を改めて後佐嶋に問いかけた。

「このお調書によりますと、相手は武家の身ということでございますな」

「そうさ だから備前守様にも手が出せねぇ」

「ではこの後は手前ども盗賊改めのやり方で宜しゅうございますな」と念を押した。

「うむ だが相手が侍ぇともなればそうたやすくは聞き取りもかなうまい、
まずは外堀を埋めなければならぬが、さて合点のゆかぬ物もあり、
思案の貯めどころじゃなぁ」

判っておることはどこぞの家中の侍と身元不明の女の相対死・・・・・
だがなぁふたりとも水を飲んではおらぬというところがどうもわしは気に入らぬ。

責任を取ることではないゆえに腹は召さなんだ、こいつは判る。
おなごの方は首を絞められたような痕跡を認むとあろう、
首を絞めた後、誰がどのように二本堤まで運び、遺棄致したかその辺りも見えては居らぬ。
こいつぁ時がかかるかも知れぬなぁ・・・・・のう佐嶋」

「左様にございますなぁお頭、どうも身元が判明致さぬのでは捜査もままなりませぬ」

「よし 密偵たちに足取りを探さすのが先のようじゃ、
すぐに繋ぎを取り二人の足取りとつながりを探るよう指示いたせ」
平蔵は疑問を特には元からやり直すことが良いと感が働いた。

「闇雲に動いたところで無駄であろう、まずは仏の見つかった田町一丁目二本堤あたりから
掛かってくれ」
佐嶋忠介は大滝の五郎蔵を中心に盗賊改めの威信がかかっていることを言い聞かせた。

密偵たちの必死の捜索にもかかわらず一向にその糸口さえも掴めないまま半月が過ぎた。

「殺しの現場はここら辺りではないのかもしれない・・・・・」
いつの間にか諦めのそんな言葉がやりとりされるようになっていた。

そんなある日、武家の内儀と思える者が人探しをしているらしいという話を
小房の粂八が聞きこんできた。

「おい 粂!そいつぁどのあたりだい?」

「それが長谷川様伝法院の辺でございまして、
何でも上役に呼ばれたとかで出かけたまま行方しれずになっているとか・・・・・」

「ふむ そいつぁもしやこの度の殺しと関係があるやも知れぬのう」

平蔵はこの粂八の掴んできた話に一抹の期待をかけた。
そしてそれが解決に向かった序章でもあった。

翌日同心沢田小平次が粂八と浅草伝法院で武家の内儀風の者を見かけたという
辺りに出かけていった。

昼過ぎに茶店で疲れた足を休めていると
「あっ!沢田様!あのひとでございやす」
と粂八が浅草寺の志ん橋と書かれてある大提灯の下をくぐって広小路に出てきた
それらしき者を指さした。

「よし!判った!」沢田は茶代を置いて立ち上がった。

「そつじながら・・・・・・」
いぶかしそうな顔で足を止めた武家の内儀風の女性に沢田は声をかけた。

「身共は火付盗賊改方同心沢田小平次と申します、お尋ねの方につき、
少々お話を伺えますまいか」と切り出した。

女性は一瞬たじろいたが、火付盗賊改方と聞き、頷いた。

さる旗本に仕えている息子の消息が突然消えてしまった。
許嫁の親元にでもと思い、そちらを尋ねたら、その息女も行方しれずと聞かされ、
お屋敷にお伺いを立てたが、知らぬ存ぜぬでとりつく島もなく、
矢も盾もたまらず、こうして探しているとのことであった。

名は小坂史郎、許嫁の名はちはると言った。

「旗本であったか・・・・・・」平蔵は町方が出張れないのも無理は無いと判った。

「とりあえず、その身の周りから探るしか無ぇなぁ・・・・・・
よし五郎蔵を呼べ、あいつにその旗本屋敷の中間などに探りを入れさせろ」
と佐嶋忠介に指示を出した。

五郎蔵は旗本屋敷の中間の中でも酒癖の汚そうな中間が出入りする下屋敷に目をつけ、
そこに張り込んだ。
そうして三日の時が流れた。

その夜件の中間は大負けを喫し、荒ぶれた様子で土場を出てきた。
「兄さん今夜はついてなかったようだねぇ」と声をかけた。

「誰でぇ 俺ぁ今夜は荒れてんだ、糞面白くもねぇ・・・・・・」

「まぁまぁ あっしも負け犬でござんすよ、どうですちょいとそこいらでこう・・・・・」
と盃を引っ掛ける仕草をして誘ってみた。

「俺ぁ すってんてんだぜ!お前ぇさん持ちならつきあってやってもいいぜ」

「おう そうこなくっちゃぁ、げん直しに一杯やって、
ウサでも晴らしゃぁ又目もでるってもんで」と誘い込んだ。

近くの居酒屋に腰を据えて、暫く盃を重ねていたが
「兄さん!そんなもんじゃぁ気分も過ぎめぇ、どうでぇこいつの方で・・・・・」
と湯のみを差し出した。

「こいつぁ気が利くねぇお前ぇさん!」
男は眼をトロつかせながら湯のみをいく杯も飲み干した

「ところでお前さん寺坂様のお屋敷に詰めていなさるんじゃァねえんですかい?」

「何だとぉ お前ぇ誰でぇ・・・・・・!」

「おっと 怪しいもんじゃござんせんよ、近習の小坂史郎様の知り合いでね、
時々お屋敷に伺っていたんで、お前さんの顔に見覚えが・・・・・」

「なんでぇぃ 小坂様の知りあいけぇ」

男は疑いの目を解き放ったようで、あの方もお気の毒なことで」
と、気落ちしたふうに言葉を濁した。

「なんでぇ そのお気の毒な話ってぇのは・・・・・まさか許嫁の・・・・・」
五郎蔵が水を向けると、眼を見返して

「おっ さすが知ってるね!そうよそいつよ、
お気の毒にあの小坂様の許嫁のちはる様に若殿様が横恋慕でよ!
何度か横車を押したんだが、他家のお女中という事で、中々うまく行かねぇ、
ところがこの暫く前から小坂様のお姿が見えねぇ、

妙な具合になっちまったんじゃぁねぇかって中間部屋ではもっぱらの噂だぜ、
若殿様は何しろあの御気性だからなぁ、小坂様も大変だとは想うぜ」
中間は気を許してペラペラと内情を喋った。

この話を五郎蔵から聞いた平蔵
「ふむ やはり相対死ではなさそうだのう、いやでかした!
五郎蔵、よく調べてくれた、これで目星もついた、後は事実を探すまで、
いやご苦労であった、ゆっくり休んでくれ、おまさにも俺からよろしくとな!
帰ぇりに宗平とっつあんに土産でも持って帰ぇってやってくれ」
そう言って懐紙に二朱金を包んで手渡した。

「長谷川様・・・・・」

「おいおい 大げさな さぁ 早く帰って安心させてやれ、
きっとお前ぇのことを案じておるであろうよ」
平蔵は煙草に火をつけながら枝折り戸に消える五郎蔵の後ろ姿を見送った。

翌日から平蔵の指図で密偵を始め与力同心も市中見廻りの探索の傍ら
聞きこみに力を入れたものの、これといった収穫もなく時ばかりが過ぎてゆくようで、
平蔵の顔にも少々焦りの色が見え始めた。

そんな夕方、密偵の粂八が
「ちょっと小耳に挟んだことが」と報告にと役宅に立ち寄った。

「吉原辺りを流している畳屋が畳の張替えを頼まれて出かけたそうですが、
こいつがまた妙な話で・・・・とその親父が話してくれやした。

大抵畳の張替えは表裏と返した後張り替えやす、
ところがこの時ばかりはさほど傷んでなかったそうで、
畳の目地に大層な汚れがひとかたまり着いていて、
それが畳床にまで広がっていたそうで妙なもんだと思ったそうでございやす」

「うむ、そいつぁ妙だのう、もしやその汚れは血の固まったもんじゃァねぇか?」
平蔵はもしやその場所で事件が起きた可能性もあるとカンが働いた。

「へぇ あっしもそいつァ妙だと思いそのお店の場所と名前を確かめてまいりやした」

「おお そいつぁでかしたぜ粂、恐らくはお前ぇの睨んだとおりだろうぜ」
平蔵は先に明かりが見えた思いで粂八をみた。

「早速おまさにつなぎを入れてそのお店に探りを入れさせろ」
平蔵、揉み手をしながら口元が緩んできた。

翌日おまさが小間物を背負って昼過ぎの隙を狙って商いに出かけていった。
おまさはその店の裏にまわり、賄いの女中に声をかけた。

「お前さんこの辺りで知らない顔だねぇ」
といぶかしそうに年増の女がおまさの足元から道具立てまでじろじろ眺めて品定めをする。

「はい 店を出しておりました亭主が床に着いちまって、
代わりにあたしが品物を担いで商いに出ることになりましたもので、こうして・・・・・
ご挨拶代わりに今、京の都で流行っている京紅ですけど」と、差し出した。

「おや それぁ大変だねぇ、いいよ、あたしがこの店じゃぁ古いから任しておきなよ」
差し出された紅をさっさと懐に修め、ご機嫌よく招き入れてくれた。

こっちも客商売だからねぇ色々と小間物はいるもんだからさ、
ねぇちょいと皆んな来てご覧よ今京で流行りの物があるよ」と奥に声をかけてくれた。

品物を広げながら
「このさきのお店で小耳に挟んだんだけど、この界隈で若い女が殺されたとか・・・・・」
と好奇心を覗かせるように世間話を漏らした。

一瞬全員の顔に緊張が走ったのをおまさは見逃さない。

「かわいそうにねぇ何も死ななくても、・・・・・・
何とかならなかったのかねぇ、死んじまっちゃぁなんにもなりゃぁしない。

助けてくれるような好きなお人もいなかったのかねぇ」とつぶやいた。

すると先ほどの女中頭が声を潜めて
「ここだけの話だけどさ、ここの2階座敷で若いお武家と同じような武家風の
相対死があったのさ、そりゃぁひどいもので辺り一面血の海でさぁ、
あたしと女将さんでその血の海を拭い取って、
相対死の二人はどこかのお屋敷の方々が引き取って行ったんだけどさぁ、
あれぁ相対死じゃぁ無いね!だってさ、どこかのお屋敷の身分の高そうなお侍さんたちが
先に上がって人騒ぎあった後若い二人がやってきてその後のことだもの、
人前で相対死なんてできゃぁしないよねぇ」とおまさに同意を求めてきた。

「たしかにねぇ、でも相対死だって言われたんじゃぁねぇ」と次の言葉を誘ってみた。

「女将さんが血を拭き取りながら
(こっちは客商売だからさぁ嫌とはいえないけど、あの若様にも困ったもんさね、
ご大身の旗本風吹かせてなんでも押し切っちまうなんてねぇ、
二人にとっちゃぁ迷惑な話だよ)って、嫌だねぇやりたい放題で、
その後始末はこっちにおっかぶせてさ」とぼやいた。

ことの次第をおまさから聞いた平蔵
「おまさ でかしたぜ!これですべての駒が揃った、
よし早速お調書を作成致し備前守さまにお届け申そう、ご苦労であった、
これでやっとわしも肩の荷がおろせる」
平蔵 腕組みをしながら目を閉じてすべての筋書きを書き終えたような安堵感を見せた。

「誰か居らぬか!」

「若殿! お呼びで!」

「おう 斉藤 小坂史郎を呼んで参れ!」

「ははっ!」

「若殿 何か御用でございましょうか?」

小坂と呼ばれた若侍が旗本寺坂刑部の嫡男十太郎の部屋にまかりこした。

「おう 小阪!お前近々婚儀が整うたと父上に婚儀の承諾願いを出したそうだなぁ」

「ははっ 左様にお届けいたしました」

「そこでわしから祝ぅてやろうと想うてな、どうだ二人連れ立って出かけて参らぬか?」

「ははっ ありがたきお言葉、では早速にでもちはるを伴って参上つかまつります」

「おお 来てくれるか、では早速だが明日山谷浅草田町の袖すり稲荷前にある
料亭翠月楼に暮六ツに参れ、それまでにはわしも参っておる」

「ははっ かたじけのうございます」

若殿直々のお声がかりである、
小坂史郎は歓びに胸を躍らせて許嫁のちはるに報告に立ち寄った。

「ちはるどの、歓んでください若殿が我らの祝言を祝ぅて下さるそうでございます」

「史郎さま、それはまことでございますか?」
ちはるは想いもかけない史郎の言葉に信じられない風であった。

「日頃より殿様は何かと私に目をかけて下さり、
この度のちはるどのとの婚儀もたいそう歓んでくださって居られましたが、
まさか若殿まで祝ぅて下さるとは想いもかけないことで、早速お返事を致しました。
それで明日二人揃うて翠月楼に参れとの仰せでございました」

こうして二人は翌日夕刻十太郎の指名した翠月楼に出向いた。

十太郎はと言えば、すでに到着しており、
取り巻きの若侍三名と酒の膳もかなり進んでいた様子である。

「おう来たか、ちはるとか申したのぅ、よう参られた、
ささっ まずは一献わしに注いではくれぬか?」

ちはるは両手をついて
「若殿様のお申出なれど、私は酒汲みおなごではござりませぬ、
何卒その儀はお許しのほど願います」と丁重に断った。

当然のことである、
夫ならいざしらず見知らぬ者に酌をするなど武家のおなごのすることではない。

「何ぃ!若殿に向かって無礼であろう!」
腰巾着の若侍が片膝立ててそばの大刀を引き寄せた。

「まぁ待て待て!嫌だと申しておるのではない 出来ぬと申したのじゃ、そうであろう?」

「はい さようにございます、どうかその儀はお許し願わしゅうございます」
きっぱりと十太郎の目を見据えて答えた。

「こしゃくな!誰に向こうて返事を致しておる所存じゃぁ!」
眉間にピリピリと引きつりを見せて十太郎は持っていた盃を小坂史郎に投げつけた。

避ける間もなく盃は小坂史郎の眉間に当たり、血が糸を引きながら袴の上に流れ落ちた。
小坂史郎は血のしたたりが畳に吸い込まれるのを拭おうともせず
「若殿!何卒お許しの程を」と懇願した。

「無礼な!わしに仕える身の貴様ごときに断られて、それを飲むとでも思うたか!
下郎が下がりおれ!」十太郎の激しい口調に思わず小坂史郎は刀を引き寄せ柄に手をかけた。

「柄に手をかけるとはおのれが主に刃向こう気か!許せぬそこに直れ手打ちに致してくれる!」

「めめめっ滅相っもござりませぬ、何卒お許しを!」
我に返った小坂史郎柄から手を離し平伏した。

「黙れ黙れ!聞く耳持たぬわ!其奴を取り押さえろ!」
若侍に命じ小坂史郎を両脇から押さえ込んだ。

気の昂ぶりを抑えきれず十太郎は小坂史郎の脇差しを引き抜いて首を切り裂いた。
鮮血が襖にビュッと飛び散り、取り押さえていた若侍の胸に降り注いだ

「「史郎様!!」ちはるは史郎の身体に覆いかぶさるように抱きついた

「おのれがぁ!」十太郎はその姿を見て増々逆上し、ちはるを引き剥がし、
仰向けに倒れたちはるに馬乗りになった

「小阪!もはやお前には必要ないこいつはおれが頂いてやる安心いたせ!」
両眼を見開いたまま声も出せず荒い息をしつつ血潮にまみれている小坂史郎に
そう叫んでちはるの胸ぐらを両手で押し開いた」

「いやぁ~!!」
ちはるは十太郎の下でバタバタと抵抗したものの、
あらがえるはずもなく口に手ぬぐいを押し込まれ舌を噛み切るのを防がれてしまった。

「わはははは どうだ悔しいか!どうにも手が出せまい」
十太郎は小坂史郎の方を振り向いた。

再びちはるの方に振り返った瞬間
「ぎゃっ」と悲鳴を上げて左目を抑えた、その手のひらの隙間からボタボタと血が吹き出した。

「おのれがぁ!」
十太郎はちはるの右腕をわしづかみに引き倒した、その手には簪が朱に染まって握られていた。

「此奴此奴!!」十太郎はちはるの首に手をかけ締めあげた。

ちはるは暫くバタバタしていたものの目を見開いたまま絶命した。
小坂史郎も両眼から血を流しながら絶命してしまった。

「若殿!少々やり過ぎたようではござりませぬか?」
と供の若侍、いささか思わぬ展開に巻き込まれてこれをどう収めたものかと
戸惑っている様子である。

「俺は天下の直参!店の者共に口止めいたせ、死体は其奴の下げ緒で結びおうて
相対死と致せば良い、後の始末はお前達でなんとでも致せ、おい部屋を変わるぞ」
と別の部屋に陣取り、再び酒を飲み始めた。

これが事の顛末であった。

それから半月が流れた後、大目付へ旗本寺坂刑部より、嫡男流行病死の届け出がなされたと
平蔵は筑前守より聞かされた。

人が人を裁く・・・・・死人に口なしとはよく言ったものだが、
どこかに落とし穴が潜んでおるものよ、旗本の誇りたぁ一体何だぁ・・・・・・

平蔵は後味の悪いこの度の事件を苦々しい面持ちで書き記した。

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予知夢


筆頭与力佐嶋忠介

平蔵 重苦しい殺気を感じ身構えつつすすむ、
突如藪がざわめく(来たな!)柄に手をかけ襲撃に備える。


だが出てきたのは野良犬であった、
(犬か!そう思った刹那背中に焼け火箸を押し付けられたような
激しい痛みが走った!)


「ぐっ!」
低い声でこらえつつ背後に振り向き抜き打ちざま横に薙ぎ払った



「ぎゃっ!」
と悲鳴が上がり平蔵の前を黒い影が横切った。


身構えるすきを与えず、犬が出てきた正面から鋭い殺気がほと走って短槍が突出された。


穂先はかすかに平蔵の脇腹をかすめ藪に戻った。


(これはいかぬ この場所を移動せねば)

考える余地もなく平蔵右に飛び退いて次の攻撃に備えようとした、
だが、そこには待っていたかのようにまたもや背後にすさまじい殺気が走った。


その殺気は平蔵の肩口に深々と食いこんだ、
さすがの平蔵もこらえきれずうめき声を発した


そこへ再び藪の中から短槍が繰り出されてきた。


それは平蔵の腹を貫き、完全に平蔵の動きを捉えてしまった。


むぅ・・・・・平蔵は膝をついて槍の柄を切り取ったが、
槍の根本からは血潮が見る見る吹き出した。


何故だぁ・・・・・・意識の遠のくのを覚えた・・・・・・


「殿様!!」


「?????!!」


「殿様!!」


(何!)突然意識が明瞭になって気がついた


「殿様如何がなされました、お顔の色が真っ青でございます」
と心配そうな妻女の久栄の顔が覗きこんでいた。


何と夢であったか、それにしても恐ろしき夢であった。


(わしの動きはすべて先読みされておる、
動きの癖、対応や反応の癖を見事なまでに知り尽くしておる、
かような事がまことあるのであろうか?・・・)


平蔵は身体中から吹き出した脂汗を拭いながら、
再びその恐怖がまざまざと思い返され、戦慄が走るのを止める手立てがなかった。


朝餉をすませ、役宅の机に向かって座り、傍に控える佐嶋忠介に昨夜の夢を話した。


お頭 それは夢のお話でございましょう?左様なことは現実には起こりようもございません」
ときっぱり平蔵の気持ちを打ち消した。


その翌日清水御門前の火付盗賊改方を出た平蔵の後を
遠くから猫でもなだめるような不可思議な気配がずっと後をつけていた。


その数日前、平蔵は気ままにぶらりと伝通院あたりを見回ろうかと赴いたのである。


しばらくすると平蔵の後をつける気配がするものの殺気がない


「まるで赤子の肌をなぞるような・・・それが優しいというのではない、
無関心というかそのつもりではないということだ」
佐嶋に向かってそう言ったほど静かなものであった。


小石川御門を渡って東へと道をとった。
その手前でその気配がふっつりと切れた(はて妙な?)


しかし、橋を渡りきって牛天神の方へと水戸上屋敷を右に曲がった当たりから
ねっとりとした気配が背にピタリと張り付いてきた。


(これは・・・・・)先ほどとは違った視線が背中に張り付いた感じである。


引きずるように重苦しい気配を背負ったまま桑名屋橋を小石川竜門寺に差し掛かった時、
背後から数名の者が平蔵を取り囲んだ。


「長谷川平蔵と知っての狼藉か!?」


だが相手は無言で平蔵を囲むように間合いを詰めてくる、
すでに抜刀しており問答無用と言うことのようである。


「やむを得ん!」
平蔵は草履を脱ぎ捨て腰を落とした。


(妙だな?さほどの殺気が感じられぬ・・・・)


ジリジリと包囲網は縮まるが、決して切り込んでこない。


(仕掛けを待っているのか・・ならば・・・・・)
平蔵が足を引いた、瞬間一人が無言で仕掛け来た。


太刀風は鋭いがまるで平蔵を泳がすように流してくる。


平蔵も刀を抜き正眼に構える。


じりっと詰めよればジワリと引く・・・
(なんだこれは)どうしても合点がゆかない。


と、同時に二人が切り込んできた、
体を開き、一人をかわし二人目を抜き放とうとはらったが、
チ~ンとしのぎがすれ違っただけでサラリと躱す、いやかわさされたのである。


始めから切る気など無い、手筋を読むための誘う手である。


この攻防が幾度か仕掛けられ、互いに手傷ひとつ負うわけでもなく時ばかりが流れていった。


ただ間合いを見切り合うだけの手合わせは、平蔵も初めて体験する妙な具合である。


(奴らの目的は一体何だ?)
平蔵の頭のなかでこの疑問がますます膨らんでよく。


後ろからすっっと突き出された一撃は平蔵の脇をかすめて止まった。


振り向きざま薙ぎ払ったがすでに相手は見切っており、平蔵の太刀筋は空を切った。


(ここまで気配を消すことができる奴はそうそうおるものではない、江戸は広い)
平蔵は面食らっていた。


突然背後で合図のような物音がした。


途端に霞をかけたように姿が消えていった。


(いずれも中々の手練のもの)
あ奴らが本気で俺を襲ったら、いかな俺でも防ぎ切れぬ、
だが一体何の仕掛けであろう)安藤坂をゆらゆら上り詰めて、伝通院に辿り着いた。


仲町の茶店で一服点けて、ゆっくりと周りを見渡したが、
あの奇妙な気配はもうどこにもなかった。


(一体あれは何だったのであろうか?明らかに俺を襲ってきたのには間違いない、
だが見切ってそれ以上は近づかぬという事がどうしても平蔵には飲み込めなかったのである)


広大な水戸屋敷を右手に見ながら水道橋まで下がり、
湯島横町を過ぎ越し昌平橋を渡れば通り慣れた神田川柳原である。


柳の若葉が、たおやかに風を含んでなびくそれは、
色めきだった小娘のようにハツラツとして眩しくさえ思った。


新シ橋の堤を下がったところにある小料理屋(しなの)に久しぶりに立ち寄ってみた。


この新シ橋界隈は柳橋も近いとあって洒落た店も多い。


店の奥座敷からは神田川を行き来する茶船に混じって猪牙が料理屋などへ客を運んでいる。


「向こうは家並みが古く風情があってここ眺めておるだけで気が休まる」
平蔵は緑色に染まった川風を心地よく頬に受けながら対岸の左衛門川岸当たりの
落ち着いた佇まいを女中に言った。


「それはそうでございますよお侍様、
女将さんの話じゃぁ百年ほど前に大火事があったそうで、
その時に小伝馬町牢奉行の石出帯刀と言う方が囚人を切り放ちにされたそうで、
ところが浅草御門の門番にその話が届いておらず、
門番は脱走者だと思い門を閉じてしまったそうです。


そのために川を泳いで渡ったり逃げ口を無くした人たちが2万人以上も
溺れ死んだり焼け死んだそうで、江戸は火の海になり町の大半が焼け野原になり
千代田のお城も天守は燃えて、未だそのままなのはこの火事が元だって、
代々言い伝えているそうです」
と話した。


「ほ~ そのような事があったのか、今まで気にもとめなんだが、
ただ千代田の天守が無いのは不思議だと思ったこともある」


「それでございますよ」
と女中が膝をのりだした。


その意気込みに平蔵、
「おお で それがどうかしたのか?」
と酒の肴に向けてみた。


「その時焼けてしまった千代田の天守を公方様が建て替えると申された時に、
保科の殿様が天守よりも大江戸の町を作るべきと公方様に申せられ、
今のお江戸が出来たそうでございます」
と力が入った説明に

「お前そのようなことをよく知っておりなぁ」
と笑いながら問いかけると、

「お侍様この店の屋号をご存知でございましょう?」
と聞き返してきた。


「おう 存じておるぞ(しなのや)であろう?」


女中は誇らしげな顔になり
「はい保科の殿様は信濃は高遠のお方でございます」
と胸を張った。


平蔵膝をポンとたたいて
「やっ これはしたり、そうかそうであったか、こいつぁ俺の勉強不足、
ところでそうとなれば、本日の料理は当然信濃の・・・・・」


「まぁ残念でごじますが、本日は(合い挽き鍋)を用意いたしております」
とあっさりと平蔵の思惑を躱してしまった。


「やれやれ そいつぁちと残念だが、その合い挽き鍋とやらも美味そうだのう」
平蔵は諦めきれない様子ではあったが、合い挽き鍋という言葉に興味がわいた。


しばらくして先ほどの女中が七輪を構えて持ってきた。


炭火が赤々と燃え、そこに鍋をかけて材料を手早く仕込む。


「そいつぁ何だい?」
興味津々で平蔵は鍋を覗く。


「今朝ほど上がったばかりの江戸前のイワシや白身の魚のすり身と鶏の挽き肉をあわせて、
椎茸のみじん切りに生姜の絞り汁に片栗粉を混ぜ込んで程の良いツミレを作ります。


野菜の白菜や春菊白ネギを入れて、煮立ちましたらこちらのつけ汁に取って
お召し上がりください」
と笑顔で奨める。


「ところで先ほどの肴だがな、あいつぁ青柳かえ?歯ごたえがあり胡麻の香りと
酢の塩梅がどうしてどうして、互いを引き立て、酒の相手にゃぁなかなか旨い、
それに合い挽き鍋これがまた橙酢のつけ汁、
普通はな、こいつの時はだし汁が定番ではないかえ?」
そう言った先から平蔵はあっという間に青柳のぬた和えを平らげてしまったものだ。


「はい お武家様はよくお判りで、アサリではなく青柳を使いました
ぬた和えでございますよ。


わけぎを湯がいてしっかり水切りいたしまして、胡麻と八丁味噌に砂糖、
酢を入れてよく練り上げ、ゆがき上がった青柳を軽く混ぜて
辛子を少し混ぜあわせそこにわけぎを入れて盛りつけたものでございますよ、
あれっ もうございませんねぇ」
うふふふふと楽しそうに笑った笑顔が清々しく、
先ほどの嫌な気配のことをすっかり忘れていた。


それからの数日、平蔵は清水御門前の火付盗賊改方役宅から市中見廻りに出かけている。


行く先は無差別ではあるが、戻る通り道は限られている。


この所小石川、牛込の方を主に廻っているので帰りは九段坂を上り下りせねばならない。


この日は目白の私邸に嫡男辰蔵の様子を伺いに行き、帰りがすっかり遅くなってしまった。


間もなく牛ヶ淵というご用地の竹林を進んでいた時であった、
いきなり空から平蔵めがけて先を鋭く切りそろえられた竹がバラバラと降ってきた、
左に避けるとそれを予知していたように次の仕掛けた竹が降り注ぐ、
後ろに飛び退きざまそれを交わすと、そこに予め待っていたかのようにまたも降る


平蔵の脳裏に過日の悪夢が蘇る。


すでに平蔵は腕や背に数カ所を鋭い竹の切り口で切り裂かれている。


抜刀した刀で降ってきた物をすくってみると竹に細紐が括られているのが見て取れた。


(仕掛けだな!)平蔵は用心しながら気配を八方に飛ばすが、
シンとした静寂のみが平蔵を包み込むばかりであった。


突然前方から鋭い殺気がほとばしり、吹き溜まりの竹の枯れ葉の中から槍が突き出された。
平蔵は思わず刀ではねのけた、が そこへ反対側の脇から槍が襲ってきた。


避ける間もなくわずかに体を躱したが脇腹がえぐられ、
槍先が脇差しをつっかけて弾き飛ばした。


鬱蒼とした竹やぶの中に白刃が光りながら平蔵の数歩前に落下した。


平蔵はその槍を抱え込んで右に回り込み刀を己の脇腹目指して突き通した。


平蔵の右の脇腹を切っ先がかすめて槍を繰り出した刺客の腹を貫いた。


「ゲッ!」低い悲鳴とともに平蔵の肩口に倒れこんだ。


その瞬間前方から平蔵の無防備な左脇めがけて再び槍が繰り出された。


よろけるように半歩後方に足を捌き返す刀を振り上げる間がなく、
そのまま左前方に突き出した。


槍と平行に平蔵の繰り出した刃先は泳いできたその刺客の腹の真ん中辺りに吸い込まれた。


平蔵は刀を抜こうとするが、血糊で手元は滑り、刀身は肉脂で包まれ抜くことも出来ない。


3人目の刺客がその男を背後から蹴り飛ばして平蔵の身体にまとわりつかせてものだから、
平蔵は全く動きを封じられてしまった。


平蔵の右の太腿から足元に血が激しく流れて、踏みとどまるのも困難な状況で、
(むぅっ!これはまずい、身動きが取れぬ)
さすがの平蔵もこの時は次の攻撃に対して打つ手を考える余裕もなかった。


これまで数々の敵と戦った来た平蔵であったが、ここまで傷を負ったのは
初めてのことであった。


平蔵の動きを封じたと見たのか数名の気配と共にバラバラと黒い影が平蔵を取り囲んだ。


「鬼平と恐れられていると聞いたが、大した奴ではねえなぁ、さすが軍師の磯島様だ、
これでお江戸もちったぁおつとめがやりやすくなろうってもんだぜ、
済まないねぇ鬼平さんよ、ここらで成仏してもらおうか!」

と主犯格の男が平蔵の正面に回って、槍を腰だめに構えた瞬間その男が
「ギャ~ッ」
と悲鳴を上げてエビ反りに反り、短鋒槍が天空の月を刺すようにキラリと光って倒れた。


刺客共が振り向く余裕を残さず、すでに二人が二太刀で地に沈んだ。


間髪をいれず残る一人が月を背に平蔵の前に立ちふさがって刀を構えたが、
その背後から鋭い突きが刺客の胸を貫いた、悲鳴を上げる間もなく
(ひゅ~っ)と短く呼吸音を残して前のめりに突っ伏したその男を乗り越えて
月明かりを背にした男が
「お頭!」
と叫んだ。


苦しい息の下で平蔵はその声の主が同心沢田小平次だと判った。


「沢田・・・か!」


「お頭!お気を確かに!」
こうして平蔵は九死に一生を得たのである。


平蔵がお役復帰を果たせたのはおおよそひと月の時の流れが必要であった。


「それにしても沢田!あの時よく俺の行く先が判ったものよのう」


「ははっ 実はお頭が妙な夢を見られたと聞かされました佐嶋様が
陰でお頭を張る様にと・・・」


「そうであったか、そこまでわしの事を・・・
いやお陰でこうして畳の上で生きておる、誠に皆に心配をかけた、礼を言わせてくれ」
平蔵は深々と頭を下げた。


「お頭!!我らはお頭あっての者ばかり何卒この度のような無茶はなされませぬよう・・・・」


「あいすまぬ!わしはまことに良い仲間を持たせてもろうた、
此度の一件わしのわがままから引き起こした事件であったが、げに恐ろしき相手であった。


これまで幾度か後をつけられ一度は奴らに襲われておるが、
いずれも殺気のないものであったのが妙に気になっておった、
それがわしの動きを見切る襲撃であったとは、さすがに軍師と呼ばれる奴のことはある。


なるほど敵を知り己を知れば百戦危うからず・・・孫子の兵法を忘れておったよ。


「その軍師と呼ばれる磯島とか言う輩の正体は判りましたので」
と沢田小平次。


「そいつのことよ、俺も気になってあたっては見たのだがな、さっぱり正体がつかめぬ。


ただ奴らが言っていた話から察するに、この度の襲撃には直接手を下してはいないようだな、
おそらく此度のような暗殺を請け負うやつなのかも知れぬ。


それにしても生身と言うもの瞬間の判断は習慣のようなものなのだな、
癖と言ってしまえばそうだが、それを読み取って襲撃方法を工夫するなんてなぁ、
誰ばりの出来るものじゃぁねぇなぁ


わしの行動を把握し、どこで仕掛ければよいか、その方法は更に綿密に知り尽くされており、
そこに最大の効果が出るように仕掛けて待つ。


空から竹矢来の雨が降って来た時は無意識に反応する、
その反射的な動きを見越して次の仕掛けをしておる、

わしの身体が吸い寄せているようでアレほどの恐怖を感じたことはなかった、
実に恐ろしい殺人集団であった」


人は輪廻転生同じことを繰り返すと言うこの世で解決せぬものは生まれ変わろうと、
それは再び繰り返されるそうじゃ、前世の業をこの世で夢に見ることもある、
それを予知夢とか申すそうじゃ、

だがなぁ結局それは現実には躱すことの出来ぬ物のようじゃ、
沢田がおらなんだらわしは今頃この世には居らぬ、
まこと人の運命は一寸先も読めぬもの、
ただ毎日を手さぐりしながら二道を選んでゆかねばならぬものなのだのう」

平蔵はまだ痛みの残る身体を起こして取り巻く部下たちの顔を見渡した、
その奥に静かな笑みを浮かべた妻女久栄の姿があった。


 


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棺桶




 



 本所菊川町の平蔵が役宅で、
久しぶりにゆっくりとした一日もそろそろ終わりかけ、
平蔵の夕餉は猪鍋ということで、
すでに酒肴は運ばれて猪鍋の用意がなされていた。

当然用意したのは村松忠之進こと猫どの。

「お頭 お頭もご存知のようにこのイノシシ鍋は別名山鯨とも申します、
が本津はまことの獅子が手に入りましたるゆえ、
これはもうお頭に召し上がって頂き、
日頃のお疲れを払っていただかねばと・・・・・」

「おう で、猫どのが用意をいたしてくれたのか?
こいつぁ有り難ぇ、どれどれ・・」

「お頭 まだよく火が通ってござりませぬ、
猪鍋は初めの仕掛けが何よりも肝要、
土鍋に昆布を一晩水につけ置きまして煮立ちましたら昆布を取り除きます。

カツオを入れてよく出汁をなじませ、
イノシシの脂身を細切りにいたし手炊き合わせます。

その間に猪肉を薄切りに致し、山椒の粉をまぶしておきます。
煮立ちましたならば猪肉を先ず入れ煮込みます、
猪肉は煮こむほど柔らかくなりますので、
初めに入れておくとよろしゅうございます。

「おいおい猫どの、こう良い香りが立ち上っては、
何だ箸が黙っておらぬ、何とかならぬかえ?のう久栄」

「殿様、左様ではござりましょうが、
ここは村松様の申される通りに致されなければ、のう村松殿」

「あっ さすが奥方様、よう心得て居られまする。
白菜、大根、レンコン、小芋、ニンジン、
菊菜やシイタケ、ささがきゴボウに湯通しいたしましたる
こんにゃくなどを切りそろえ、割り下に醤油、砂糖、酒、
八丁味噌をしっかりと入れ濃い目の味に致します。

野菜などの厚物から先に入れ、味を染み込ませます。
菊菜が柔らこうなりましたら食べごろかと存じます。

「うんうん それは良いそれは良い!
何と申しても早く口に入れるが一番じゃぞ!、
もう待てぬ!おい 久栄早う卵を小鉢に入れてくれ、
わしはもうどうにもたまらぬ」

平蔵は箸を構えて猪鍋のグツグツ煮立つのを凝視している。

「まぁ殿様はまるで子供のようなおほほほほほ」

「そんな事ァどうでも良いのじゃぁ、
見よこのグツグツと小気味の良い音に重なって
香り立つ山椒の清々しさ、野菜のとろりととろけるような色白の中に
ひと刷毛引いたような若葉色、それに獅子の身が絡みついて、
おう!もう待ちきれぬわ!猫どの良いな!良いのじゃな!」

「あっ お頭!まずは大根からお召し上がりくださいませ」

「ななっ なんじゃぁ大根からとな!
俺は猪鍋が食いたいのじゃぞ」
平蔵腰を折られて箸が止まった。

「まずは私めの申す通りにお召し上がりくださいませ」
と松村忠之進は大根を平蔵の小鉢に取り入れた。

平蔵一気にこれを熱っ 熱っ!と言いながら口に運び・・・・・・
「猫どの・・ふむ いやぁ~こいつは旨ぇ、大根に獅子の脂が絡みついて、
いやぁうむこいつぁいかぬ!かように大根が旨ぇとは、
久栄お前も早う食べてみろ、中々こいつぁ止まらぬぞ、
さて次は獅子じゃな!・・・・・・ううん!この柔らかな歯ざわり、
噛めばじんわりと脂がにじみ出て・・・・・
嗚呼もう止まらぬぞ猫どの」
平蔵は満足の笑顔を満面に箸を休ませない。

酒もほどほどに回り腹もくち、
ふ~っと深い溜息、満ち足りた至福の時であった。

そこへ火付盗賊改方に時折顔をのぞかせる仙台堀の政七が
役宅に日暮れ時に立ち寄った。

「長谷川様、谷中天王寺南の新茶屋町蝋燭問屋で
首を括った心中者が出たと言うことでございやす。

いつもなら早々と店を開ける姿が見られるのに、
この2日ほど店は閉じられたままで、近所のものが
不審に思い番屋に届けたのが事の発端でございやす。

番屋の木戸番と町名主が出向いたんでございやすが、
外回りに不審なところもなく、思案の挙句町方に報告が上がり、
奉行所が出張って参ぇリやした。

表戸が閉められたままなもんで、
同心の松本様が蹴破って入ぇって見たら、
夫婦二人とも鴨居に細紐をかけ首を吊って死んでおりやした」

「で、お奉行様は何と仰せられたえ?」
平蔵は煙管に火をつけながら政七の顔を見た。

「へぇ いつもの通り出入りの戸は締めてあり、
心張り棒までくれてあったところを見ると首を括ったんじゃぁねぇかって事で・・・・・」

「ふむ、で 荒らされた形跡はなかったんだな?」

「へい 全く普段のままだったと町名主も証言したそうで」

「で、その蝋燭問屋 何と申したかのう」

「へい おかだ屋でございやす」

「おお そのおかだ屋はどの程度の商いであった」

「店構えは間口三間、大戸ではなく、
ばったり床几は内側からも落とし留めが掛かり、
雨戸が嵌めこまれて真ん中の戸が落し掛けの戸締まりと言うやつで、
まぁたいがいのところと似たようなもんで、
いつも夫婦二人の切り盛りだったそうでございやす。

何しろ周りはお寺がひしめいておりやすから、
商いには困るようなものじゃぁねえ、
ですからどうして首を括らなきゃぁいけねぇんだろうって、
そこんところにお奉行様はご不審を持たれてはおられるようでございやす」

「うむ 確かになぁ・・・・・・商いに行き詰まってではないとなると、
何故首を括らねばならなんだか、確かに妙な話しだな」
平蔵は腕組みをして目を閉じ、
頭の中でもつれた糸をほぐそうと試みているようであった。

この界隈の見まわり担当となっている木村忠が数日後
再び近所の聞き込みをすると、
奉行所の検分が終わったその夜遅くおかだ屋から棺
桶が運びだされているのを夜回りの親父が見ていたそうで、
話はこれで終わればあるいは問題にならなかったのかもしれない。

だが、似たような事件が立て続けに小間物問屋や古物商い、
茶道具屋など三件起こったことが平蔵の脳裏にしがみついてはなれない。

「妙だ・・・・・」
いつものカン働きがむくむくと首をもたげてきた。

盗賊改めの出張る幕じゃぁねぇが、どうもこう 
気になっていかぬ、ちょいと出かけてみるか。

平蔵は仕掛けの名人八鹿(はじかみ)の治助を伴って
ゆらゆらと谷中に出かけた。

町名主に話を通し、事件のあったおかだ屋を覗いた。
確かに争った形跡もなく家財道具もそのままできれいなものであった。

「蝋燭問屋と申しても仏具一式も扱っており、
それ相応の稼ぎはあったであろうのぅ 
それなのになにゆえ首を括らねばならなんだか」
平蔵はこのごく普通の疑問が頭からはなれない。

その時、戸口周りを調べていた八鹿(はじかみ)の治助が
「長谷川様ちょいとこいつを見ておくんなせぇ」
と平蔵を招いた。

「どれどれ・・・・」
平蔵はこの治助が何か仕掛けを見つけたと少し胸の中に兆しを感じた。

「普通戸締まりは先ず雨戸を閉め、
心張り棒をして内戸は開けたままにしやす、
ですから外から差金を突っ込んでも内戸と外壁の間に
心張り棒が挟まってびくともしません、
これが普通の戸締まりでございます、
ところがよく見ればこの心張り棒少々曲がっております」

と治助が差し出した心張り棒は刀のような反りが見受けられた。


「うむ だがなぁ次助このようなものは何処にでもあるものではないのかえ?」と
少し落胆したようにため息混じりに治助の答えを待った。

「ところが長谷川様、先ほど何度か試してみやしたが、
こいつぁ仕掛けでございやす」
と次助は自信を持って答えた。

「仕掛けだぁ?」
平蔵 この治助の自信ありげな返答にちょっと期待を込めて問い返した。

「へい この反り具合と心張り棒が噛み合う鎧戸のホゾ、
こいつが上手ぇ仕掛けになっておりやす。

普通は棒の細いほうが戸のホゾにはまりやす、
どうってぇことはねえんでございやすが
重い方が下に来るのが普通でございやすから、

ですがね こいつぁそれをうまく利用しておりやして、
鎧戸にもたせかけて置いて内戸を開けたままにしやすと、
戸袋と内戸の間で挟まれて外れねぇようになりやす、
そこでゆっくり外から鎧戸を閉めやすと」・・・・・

と言いつつ治助は外に出て鎧戸を閉めた。

コトンと小さな音がして、心張り棒が鎧戸のホゾに収まった。
これを外すには内戸を閉めて、心張り棒をはずさなければ
外から進入することは出来ない。

治助は再び中にはいって
「この外の出入口は皆落し掛けが施されておりやして、
開けられたあとが見えやせん、てぇことは・・・・・」

「次助 お前ぇこいつぁ自殺と決めつけるには早ェと言うんだな」

「へい 近頃の似た事件を見なおしても遅ぅはござりやせん」
と慎重な答え方をした。

「よし、早速他の事件もあたらせてみよう、助かったぜ次助、
お前ぇの前がこれほど俺をすけてくれるとはなぁ」

「長谷川様、どうかそのぉ昔のことは・・・・・」

「おお こいつぁ俺がうかつであった、すまぬすまぬ、
いやお前ぇの読みでずいぶんと緒(いとぐち)を見つけることが出来た、
ありがてえなぁ」
平蔵 口元が少し緩んできたのを覚えた。

役宅に戻った平蔵はこの数日内に起こった
似たような事件のお調書を改めて読み返してみた。

事件は三件とも首を括っての自殺と書かれてあり、
その何れもが主夫婦というところが共通している。

確かに臭う
「誰か!忠吾は居らぬか!」

「お頭!お呼びで」と木村忠吾が控えた。

「おお 忠吾すまぬが五鉄に参り彦十に
八鹿(はじかみ)の治助に繋ぎを取るよう行ってはくれぬか?」
平蔵はもう一度治助に確かめさせようという腹づもりでのことであった。

「えっ 私がでございますか?使い走りなら何も私めでなくとも・・・・・」
と、見回りの供をいたせ!
と言う言葉を期待していたものだからつい本音が出てしまった。

「忠吾!」
平蔵の語気に忠吾は思わずたじろいた。

「なぁうさぎ お役に重いも軽いもない、谷中はそちの見回り持ち場であろう、
さらばお前が動くのが当たり前、
己の代わりに人をやるほどお前ぇはいつからそこまで偉くなったのかえ?」
平蔵の言葉は忠吾の期待を見事に断ち切り、
逆に己の卑しさを見透かされてしまった。

「ははっ!誠にお恥ずかしく・・・・恐れいります」
と廊下に頭を擦り付けて引き下がった。

いっときほどして 忠吾と八鹿(はじかみ)の治助が戻ってきた。

「長谷川様、またのお呼び出しということは・・・・・」

「さすが八鹿(はじかみ)の治助、判っておったか、そのことよ、
早速ですまぬが忠吾と谷中周りの事件があったお店の戸締まりを
調べてみてはくれぬか」

「判りやした、早速に!」
と忠吾と連れ立って出かけていった。

その夜遅く二人が帰ってきた。

「おお ご苦労であった、早速ですまぬが様子は如何であった?」
平蔵は治助の言葉を心待ちにしていたのである。

「長谷川様のお見立て通り、やはり何処も同じ仕掛けのようにございやす」
と報告した。

「やはりなぁ どうにも解せなんだ、
残されたことは何故殺さねばならなかったのか?
盗みならば殺害して盗めば事足りる、
わざわざ首を引っ掛けることぁねえはずだ。

こいつが解けぬ、こいつにはなにか裏があるなぁ
何かを見落としておるのやも知れぬな、
次助遅くまで済まなかった、ゆっくり休め!
おお 五鉄によって軍鶏鍋でも食ってまいれ、
三次郎にわしがそう 申したと伝えてくれ」
平蔵は遅くまで動いた治助に気配りを欠かさなかった。

「長谷川様・・・・・それではお言葉に甘えさせていただきやす」
そいういって治助は本所二ツ目に帰っていった。

「お頭 それでは私めもこれにて・・」
と忠吾が腰を上げようとした。

「忠吾 お前ぇ本日一日何を検分いたした?」
と、突然の問い返しに

「はは~ 何と申されましても、
私はただ治助の後をついて事件のあったお店を廻り、
一度休みを取りました、あっ その時の茶代は私めが支払いました、ハイ」

その応えを聞いた平蔵
「この大馬鹿者め!何故わしが治助と共にお前を殺ったか判らなんだか、
次助は仕掛けの達人、そんじょそこらの盗人では見抜けぬものでも嗅ぎ取り、
仕掛けを見破ってしまう、
それなのにお前は、ただついて回って茶代を出しただと!この大たわけ!」

「ははっ!!!!申し訳ござりませぬ」
忠吾、もう居場所もなくなり、穴でも掘って隠れたい

「だからのう忠吾、お前のことを皆うさぎ饅頭と申すのだぞ」

この平蔵の言葉は、芝神明前の名物うさぎ饅頭に顔付きだけでなく、
甘味もほどほど、塩味もほどほど、いくつ食べても腹にたまらず、
何よりも一個一文は安い、
毒にも薬にもならん娑婆塞げ(しゃばふさげ=生きていても何の役にも 立たず,
ただ場所をふさいでいるにすぎないこと。
また,そのような人、ごく つぶし)というところから
木村忠吾のことを兎忠と呼んで陰口をたたかれている。

「誠に・・・・・・」

「お前 情けないとは想わぬか!」
平蔵も半ば呆れながら・・・・・
しかしそれが又この忠吾の忠吾たる所以であり、
30表二人扶持のれっきとした御家人である。

「良いか忠吾!明日より谷中の事件現場付近を徹底的に洗い直せ、
ネズミの穴一つとて見逃すではないぞ」
平蔵に厳しく戒められ、ほうほうの体で長屋に戻った。

翌日清水御門前の火付盗賊改方役宅に
市中見回りに出かける旨の報告を入れて忠吾は早速谷中に向かった。

一軒一軒回っていたら小石川片町の小間物屋
内海やの前に佇む女性が目に止まった。

「おい お前!一体ここで何をしているんだ?」
忠吾は若い女に近づき懐の十手をちらっと見せた。

一瞬女の表情がこわばり
「いえ なんでも・・・・」
と立ち去ろうとしたのを

「おい待て、少々聞きたいことがある、
お前はこの家に何かゆかりでもあるのかそれとも・・・・・」そ
う言いかけた時その女が「

お役人様でございますか?」
と問い返してきた。

忠吾は十手を出して
「吾輩は火付盗賊改方のものである」
と告げた。

女は少し戸惑った様子を見せながらも
「あの この家のものはどこに葬られたのでございましょう?」
と忠吾に埋葬先を尋ねた。

「それはこちらも探しておるところだ、
近所の者に尋ねても通夜らしきものもなく、
役人の検分の後棺桶が運びだされたそうだ、
ところでお前は何者だ、縁のものか?」
まだ三十前と見受けるこの女に忠吾は引き止められてしまった。

聞けば三年ほど前に鐘ヶ淵の方に嫁ぎ、
二親が気にかかり時折こうして覗いているという。

半年前には店の方にも何ら命を絶たなければならないわけも見えなかったという。
忠吾はひとまずその女の所在を聞き留め、
何か判明した折には知らせると言って帰した。

その日忠吾は清水御門前の役宅に戻り、
「お頭、木村忠吾市中見廻りより只今戻りました」
と平蔵に報告を入れた。

「おお 忠吾ご苦労であった、で何か判明いたしたか?」

「それがお頭一人若いおなごに出会いました」

「何ぃ!おなごだと、で お前まさかその女を・・・・・」

「あっ お頭!その目つき、そのお言葉の響き・・・・・
大いに間違いにございます」
と慌てて平蔵のその先を制した。

「何 何んでもないとな そりゃぁまた・・・・・」

「又? 何でござりましょう、この木村忠吾痩せても枯れても
盗賊改め同心の端くれ出ござります、
おかしらの想われておるようなことは一切ござりませぬ」
と必至に弁解する。

「おいおい そのわしが想うておるようなとは一体何のことだえ忠吾」
平蔵は忠吾の慌てぶりがおかしくてからかったのであるが、
当の忠吾は防御線を張り巡らそうと必死である。

「まぁそれはさておき、何か掴んで参ったか?」
と水を向けた。

「はい その女は鐘ヶ淵に嫁いでおり、
時折二親を案じて訪ねてくるそうにございます。
半年前には何も変わりなく、
首を括らねばならぬほどのことは露ほどにも
感じなかったそうにござります、それともう一つ」

「おお それは何じゃ!」
やっと確信に辿り着いたので、平蔵書物の手を休め忠吾を見た。

不思議なことに三件とも役人の検分がすんだその夜
密かに棺桶が運び出されております」

「何だと!そいつぁ妙な話だな」平
蔵はやっと事件の核心に近づいたことを感じ取った。

「何れも夜半に棺桶を出している、こいつぁ骸(むくろ)以外の
何かを運びだしたに違ぇねぇ。

棺桶を運ぶにゃぁ荷馬車が必要であろう、
貸車屋を早速洗ってみよ、どこの貸車屋で誰に頼まれどこに運んだか、
そいつが判れば凡そのことが判明いたそう」
平蔵は忠吾に命じた。

だが、平蔵の思いはあっけなく期待倒れに終わってしまった。

この数日谷中界隈で棺桶を運んだ者も、
車を貸した者もいなかったのである。

「ウヌ!」
先の見えない路地に入ったような思いがじゅくじゅくと平蔵を囲んでくる。

この奇妙な事件は平蔵の頭の中でくすぶり続け、
打つ手とて無い状況に歯ぎしりするばかりであった。
だが、この事件も些細なところから緒(いとぐち)が見えてきた。

谷中の立善寺裏の百姓屋に
棺桶らしきものが運び込まれているのを夜中に厠に立った小坊主が見ていた。

だが小坊主は夜中に厠に立つのは昼間の節制が足りぬからだと
戒められるのを恐れて報告しなかったようであった。

小坊主も初めは気にも留めなかったけれど、
埋葬する様子もなく妙だと思い、和尚に報告したということであった。

そこで和尚が早速出向いて確かめた所確かに不要とみなした仏像に
小間物の細工物や銭箱、骨董物が散乱しており、
人の出入りもあった痕跡が認められたと番屋に届け出がなされ、
町奉行所に報告が上がり判明した。

町奉行の手で谷中の百姓屋の裏手に八名の亡骸が
埋められていたのが発見され、
それぞれ身元のわかるものの身内に連絡を取らせ、
引き取り手のないものは立善寺の無縁墓地に埋葬されたという。

その数日後谷中の新幡随院裏手の掘割土手に
荷馬車が放置されていたのが見つかった。

「お頭 この度の事件はどのようになっておりましたもので?
私には何が何やら見当もつきかねます」
と聞いてきた。

「うむ 殺した後首をつったのは自殺と見せかけて、
以後の探索が及ばないように図ったのであろうよ、
戸締まりのからくりも次助が見破らなんだら案外見過ごしたであろう事だがなぁ、
夜中の棺桶も故買かいの物を持ち出すために使ったのであろうよ、
恐らくは金もその時に持ちだしたと想われる、

お届けの翌日ならば奉行所のお調べで身内に知らされても十分時が稼げる、
大勢で急いで動けば嫌でも目につかぁな、そこんところをうまく考ぇやがったものだ。

最後の最後まで棺桶で始末をつけるなんざぁなめたものよのう。

恐らくは堀川伝いに川船で荷を運び出して、
大川辺りから荷揚げして消えちまったんだろうぜ。

こいつぁ次助の読んだ通り心張り棒のからくりをよく心得た奴の仕業であろうよ。
王手飛車まで掛かったと想うたに、いや無念じゃ」

平蔵はこの度の事件を解決できずに終わったことに
少々やりきれない思いが残った。


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 本所菊川町の平蔵が役宅で、
久しぶりにゆっくりとした一日もそろそろ終わりかけ、
平蔵の夕餉は猪鍋ということで、
すでに酒肴は運ばれて猪鍋の用意がなされていた。

当然用意したのは村松忠之進こと猫どの。

「お頭 お頭もご存知のようにこのイノシシ鍋は別名山鯨とも申します、
が本津はまことの獅子が手に入りましたるゆえ、
これはもうお頭に召し上がって頂き、
日頃のお疲れを払っていただかねばと・・・・・」

「おう で、猫どのが用意をいたしてくれたのか?
こいつぁ有り難ぇ、どれどれ・・」

「お頭 まだよく火が通ってござりませぬ、
猪鍋は初めの仕掛けが何よりも肝要、
土鍋に昆布を一晩水につけ置きまして煮立ちましたら昆布を取り除きます。

カツオを入れてよく出汁をなじませ、
イノシシの脂身を細切りにいたし手炊き合わせます。

その間に猪肉を薄切りに致し、山椒の粉をまぶしておきます。
煮立ちましたならば猪肉を先ず入れ煮込みます、
猪肉は煮こむほど柔らかくなりますので、
初めに入れておくとよろしゅうございます。

「おいおい猫どの、こう良い香りが立ち上っては、
何だ箸が黙っておらぬ、何とかならぬかえ?のう久栄」

「殿様、左様ではござりましょうが、
ここは村松様の申される通りに致されなければ、のう村松殿」

「あっ さすが奥方様、よう心得て居られまする。
白菜、大根、レンコン、小芋、ニンジン、
菊菜やシイタケ、ささがきゴボウに湯通しいたしましたる
こんにゃくなどを切りそろえ、割り下に醤油、砂糖、酒、
八丁味噌をしっかりと入れ濃い目の味に致します。

野菜などの厚物から先に入れ、味を染み込ませます。
菊菜が柔らこうなりましたら食べごろかと存じます。

「うんうん それは良いそれは良い!
何と申しても早く口に入れるが一番じゃぞ!、
もう待てぬ!おい 久栄早う卵を小鉢に入れてくれ、
わしはもうどうにもたまらぬ」

平蔵は箸を構えて猪鍋のグツグツ煮立つのを凝視している。

「まぁ殿様はまるで子供のようなおほほほほほ」

「そんな事ァどうでも良いのじゃぁ、
見よこのグツグツと小気味の良い音に重なって
香り立つ山椒の清々しさ、野菜のとろりととろけるような色白の中に
ひと刷毛引いたような若葉色、それに獅子の身が絡みついて、
おう!もう待ちきれぬわ!猫どの良いな!良いのじゃな!」

「あっ お頭!まずは大根からお召し上がりくださいませ」

「ななっ なんじゃぁ大根からとな!
俺は猪鍋が食いたいのじゃぞ」
平蔵腰を折られて箸が止まった。

「まずは私めの申す通りにお召し上がりくださいませ」
と松村忠之進は大根を平蔵の小鉢に取り入れた。

平蔵一気にこれを熱っ 熱っ!と言いながら口に運び・・・・・・
「猫どの・・ふむ いやぁ~こいつは旨ぇ、大根に獅子の脂が絡みついて、
いやぁうむこいつぁいかぬ!かように大根が旨ぇとは、
久栄お前も早う食べてみろ、中々こいつぁ止まらぬぞ、
さて次は獅子じゃな!・・・・・・ううん!この柔らかな歯ざわり、
噛めばじんわりと脂がにじみ出て・・・・・
嗚呼もう止まらぬぞ猫どの」
平蔵は満足の笑顔を満面に箸を休ませない。

酒もほどほどに回り腹もくち、
ふ~っと深い溜息、満ち足りた至福の時であった。

そこへ火付盗賊改方に時折顔をのぞかせる仙台堀の政七が
役宅に日暮れ時に立ち寄った。

「長谷川様、谷中天王寺南の新茶屋町蝋燭問屋で
首を括った心中者が出たと言うことでございやす。

いつもなら早々と店を開ける姿が見られるのに、
この2日ほど店は閉じられたままで、近所のものが
不審に思い番屋に届けたのが事の発端でございやす。

番屋の木戸番と町名主が出向いたんでございやすが、
外回りに不審なところもなく、思案の挙句町方に報告が上がり、
奉行所が出張って参ぇリやした。

表戸が閉められたままなもんで、
同心の松本様が蹴破って入ぇって見たら、
夫婦二人とも鴨居に細紐をかけ首を吊って死んでおりやした」

「で、お奉行様は何と仰せられたえ?」
平蔵は煙管に火をつけながら政七の顔を見た。

「へぇ いつもの通り出入りの戸は締めてあり、
心張り棒までくれてあったところを見ると首を括ったんじゃぁねぇかって事で・・・・・」

「ふむ、で 荒らされた形跡はなかったんだな?」

「へい 全く普段のままだったと町名主も証言したそうで」

「で、その蝋燭問屋 何と申したかのう」

「へい おかだ屋でございやす」

「おお そのおかだ屋はどの程度の商いであった」

「店構えは間口三間、大戸ではなく、
ばったり床几は内側からも落とし留めが掛かり、
雨戸が嵌めこまれて真ん中の戸が落し掛けの戸締まりと言うやつで、
まぁたいがいのところと似たようなもんで、
いつも夫婦二人の切り盛りだったそうでございやす。

何しろ周りはお寺がひしめいておりやすから、
商いには困るようなものじゃぁねえ、
ですからどうして首を括らなきゃぁいけねぇんだろうって、
そこんところにお奉行様はご不審を持たれてはおられるようでございやす」

「うむ 確かになぁ・・・・・・商いに行き詰まってではないとなると、
何故首を括らねばならなんだか、確かに妙な話しだな」
平蔵は腕組みをして目を閉じ、
頭の中でもつれた糸をほぐそうと試みているようであった。

この界隈の見まわり担当となっている木村忠が数日後
再び近所の聞き込みをすると、
奉行所の検分が終わったその夜遅くおかだ屋から棺
桶が運びだされているのを夜回りの親父が見ていたそうで、
話はこれで終わればあるいは問題にならなかったのかもしれない。

だが、似たような事件が立て続けに小間物問屋や古物商い、
茶道具屋など三件起こったことが平蔵の脳裏にしがみついてはなれない。

「妙だ・・・・・」
いつものカン働きがむくむくと首をもたげてきた。

盗賊改めの出張る幕じゃぁねぇが、どうもこう 
気になっていかぬ、ちょいと出かけてみるか。

平蔵は仕掛けの名人八鹿(はじかみ)の治助を伴って
ゆらゆらと谷中に出かけた。

町名主に話を通し、事件のあったおかだ屋を覗いた。
確かに争った形跡もなく家財道具もそのままできれいなものであった。

「蝋燭問屋と申しても仏具一式も扱っており、
それ相応の稼ぎはあったであろうのぅ 
それなのになにゆえ首を括らねばならなんだか」
平蔵はこのごく普通の疑問が頭からはなれない。

その時、戸口周りを調べていた八鹿(はじかみ)の治助が
「長谷川様ちょいとこいつを見ておくんなせぇ」
と平蔵を招いた。

「どれどれ・・・・」
平蔵はこの治助が何か仕掛けを見つけたと少し胸の中に兆しを感じた。

「普通戸締まりは先ず雨戸を閉め、
心張り棒をして内戸は開けたままにしやす、
ですから外から差金を突っ込んでも内戸と外壁の間に
心張り棒が挟まってびくともしません、
これが普通の戸締まりでございます、
ところがよく見ればこの心張り棒少々曲がっております」

と治助が差し出した心張り棒は刀のような反りが見受けられた。


「うむ だがなぁ次助このようなものは何処にでもあるものではないのかえ?」と
少し落胆したようにため息混じりに治助の答えを待った。

「ところが長谷川様、先ほど何度か試してみやしたが、
こいつぁ仕掛けでございやす」
と次助は自信を持って答えた。

「仕掛けだぁ?」
平蔵 この治助の自信ありげな返答にちょっと期待を込めて問い返した。

「へい この反り具合と心張り棒が噛み合う鎧戸のホゾ、
こいつが上手ぇ仕掛けになっておりやす。

普通は棒の細いほうが戸のホゾにはまりやす、
どうってぇことはねえんでございやすが
重い方が下に来るのが普通でございやすから、

ですがね こいつぁそれをうまく利用しておりやして、
鎧戸にもたせかけて置いて内戸を開けたままにしやすと、
戸袋と内戸の間で挟まれて外れねぇようになりやす、
そこでゆっくり外から鎧戸を閉めやすと」・・・・・

と言いつつ治助は外に出て鎧戸を閉めた。

コトンと小さな音がして、心張り棒が鎧戸のホゾに収まった。
これを外すには内戸を閉めて、心張り棒をはずさなければ
外から進入することは出来ない。

治助は再び中にはいって
「この外の出入口は皆落し掛けが施されておりやして、
開けられたあとが見えやせん、てぇことは・・・・・」

「次助 お前ぇこいつぁ自殺と決めつけるには早ェと言うんだな」

「へい 近頃の似た事件を見なおしても遅ぅはござりやせん」
と慎重な答え方をした。

「よし、早速他の事件もあたらせてみよう、助かったぜ次助、
お前ぇの前がこれほど俺をすけてくれるとはなぁ」

「長谷川様、どうかそのぉ昔のことは・・・・・」

「おお こいつぁ俺がうかつであった、すまぬすまぬ、
いやお前ぇの読みでずいぶんと緒(いとぐち)を見つけることが出来た、
ありがてえなぁ」
平蔵 口元が少し緩んできたのを覚えた。

役宅に戻った平蔵はこの数日内に起こった
似たような事件のお調書を改めて読み返してみた。

事件は三件とも首を括っての自殺と書かれてあり、
その何れもが主夫婦というところが共通している。

確かに臭う
「誰か!忠吾は居らぬか!」

「お頭!お呼びで」と木村忠吾が控えた。

「おお 忠吾すまぬが五鉄に参り彦十に
八鹿(はじかみ)の治助に繋ぎを取るよう行ってはくれぬか?」
平蔵はもう一度治助に確かめさせようという腹づもりでのことであった。

「えっ 私がでございますか?使い走りなら何も私めでなくとも・・・・・」
と、見回りの供をいたせ!
と言う言葉を期待していたものだからつい本音が出てしまった。

「忠吾!」
平蔵の語気に忠吾は思わずたじろいた。

「なぁうさぎ お役に重いも軽いもない、谷中はそちの見回り持ち場であろう、
さらばお前が動くのが当たり前、
己の代わりに人をやるほどお前ぇはいつからそこまで偉くなったのかえ?」
平蔵の言葉は忠吾の期待を見事に断ち切り、
逆に己の卑しさを見透かされてしまった。

「ははっ!誠にお恥ずかしく・・・・恐れいります」
と廊下に頭を擦り付けて引き下がった。

いっときほどして 忠吾と八鹿(はじかみ)の治助が戻ってきた。

「長谷川様、またのお呼び出しということは・・・・・」

「さすが八鹿(はじかみ)の治助、判っておったか、そのことよ、
早速ですまぬが忠吾と谷中周りの事件があったお店の戸締まりを
調べてみてはくれぬか」

「判りやした、早速に!」
と忠吾と連れ立って出かけていった。

その夜遅く二人が帰ってきた。

「おお ご苦労であった、早速ですまぬが様子は如何であった?」
平蔵は治助の言葉を心待ちにしていたのである。

「長谷川様のお見立て通り、やはり何処も同じ仕掛けのようにございやす」
と報告した。

「やはりなぁ どうにも解せなんだ、
残されたことは何故殺さねばならなかったのか?
盗みならば殺害して盗めば事足りる、
わざわざ首を引っ掛けることぁねえはずだ。

こいつが解けぬ、こいつにはなにか裏があるなぁ
何かを見落としておるのやも知れぬな、
次助遅くまで済まなかった、ゆっくり休め!
おお 五鉄によって軍鶏鍋でも食ってまいれ、
三次郎にわしがそう 申したと伝えてくれ」
平蔵は遅くまで動いた治助に気配りを欠かさなかった。

「長谷川様・・・・・それではお言葉に甘えさせていただきやす」
そいういって治助は本所二ツ目に帰っていった。

「お頭 それでは私めもこれにて・・」
と忠吾が腰を上げようとした。

「忠吾 お前ぇ本日一日何を検分いたした?」
と、突然の問い返しに

「はは~ 何と申されましても、
私はただ治助の後をついて事件のあったお店を廻り、
一度休みを取りました、あっ その時の茶代は私めが支払いました、ハイ」

その応えを聞いた平蔵
「この大馬鹿者め!何故わしが治助と共にお前を殺ったか判らなんだか、
次助は仕掛けの達人、そんじょそこらの盗人では見抜けぬものでも嗅ぎ取り、
仕掛けを見破ってしまう、
それなのにお前は、ただついて回って茶代を出しただと!この大たわけ!」

「ははっ!!!!申し訳ござりませぬ」
忠吾、もう居場所もなくなり、穴でも掘って隠れたい

「だからのう忠吾、お前のことを皆うさぎ饅頭と申すのだぞ」

この平蔵の言葉は、芝神明前の名物うさぎ饅頭に顔付きだけでなく、
甘味もほどほど、塩味もほどほど、いくつ食べても腹にたまらず、
何よりも一個一文は安い、
毒にも薬にもならん娑婆塞げ(しゃばふさげ=生きていても何の役にも 立たず,
ただ場所をふさいでいるにすぎないこと。
また,そのような人、ごく つぶし)というところから
木村忠吾のことを兎忠と呼んで陰口をたたかれている。

「誠に・・・・・・」

「お前 情けないとは想わぬか!」
平蔵も半ば呆れながら・・・・・
しかしそれが又この忠吾の忠吾たる所以であり、
30表二人扶持のれっきとした御家人である。

「良いか忠吾!明日より谷中の事件現場付近を徹底的に洗い直せ、
ネズミの穴一つとて見逃すではないぞ」
平蔵に厳しく戒められ、ほうほうの体で長屋に戻った。

翌日清水御門前の火付盗賊改方役宅に
市中見回りに出かける旨の報告を入れて忠吾は早速谷中に向かった。

一軒一軒回っていたら小石川片町の小間物屋
内海やの前に佇む女性が目に止まった。

「おい お前!一体ここで何をしているんだ?」
忠吾は若い女に近づき懐の十手をちらっと見せた。

一瞬女の表情がこわばり
「いえ なんでも・・・・」
と立ち去ろうとしたのを

「おい待て、少々聞きたいことがある、
お前はこの家に何かゆかりでもあるのかそれとも・・・・・」そ
う言いかけた時その女が「

お役人様でございますか?」
と問い返してきた。

忠吾は十手を出して
「吾輩は火付盗賊改方のものである」
と告げた。

女は少し戸惑った様子を見せながらも
「あの この家のものはどこに葬られたのでございましょう?」
と忠吾に埋葬先を尋ねた。

「それはこちらも探しておるところだ、
近所の者に尋ねても通夜らしきものもなく、
役人の検分の後棺桶が運びだされたそうだ、
ところでお前は何者だ、縁のものか?」
まだ三十前と見受けるこの女に忠吾は引き止められてしまった。

聞けば三年ほど前に鐘ヶ淵の方に嫁ぎ、
二親が気にかかり時折こうして覗いているという。

半年前には店の方にも何ら命を絶たなければならないわけも見えなかったという。
忠吾はひとまずその女の所在を聞き留め、
何か判明した折には知らせると言って帰した。

その日忠吾は清水御門前の役宅に戻り、
「お頭、木村忠吾市中見廻りより只今戻りました」
と平蔵に報告を入れた。

「おお 忠吾ご苦労であった、で何か判明いたしたか?」

「それがお頭一人若いおなごに出会いました」

「何ぃ!おなごだと、で お前まさかその女を・・・・・」

「あっ お頭!その目つき、そのお言葉の響き・・・・・
大いに間違いにございます」
と慌てて平蔵のその先を制した。

「何 何んでもないとな そりゃぁまた・・・・・」

「又? 何でござりましょう、この木村忠吾痩せても枯れても
盗賊改め同心の端くれ出ござります、
おかしらの想われておるようなことは一切ござりませぬ」
と必至に弁解する。

「おいおい そのわしが想うておるようなとは一体何のことだえ忠吾」
平蔵は忠吾の慌てぶりがおかしくてからかったのであるが、
当の忠吾は防御線を張り巡らそうと必死である。

「まぁそれはさておき、何か掴んで参ったか?」
と水を向けた。

「はい その女は鐘ヶ淵に嫁いでおり、
時折二親を案じて訪ねてくるそうにございます。
半年前には何も変わりなく、
首を括らねばならぬほどのことは露ほどにも
感じなかったそうにござります、それともう一つ」

「おお それは何じゃ!」
やっと確信に辿り着いたので、平蔵書物の手を休め忠吾を見た。

不思議なことに三件とも役人の検分がすんだその夜
密かに棺桶が運び出されております」

「何だと!そいつぁ妙な話だな」平
蔵はやっと事件の核心に近づいたことを感じ取った。

「何れも夜半に棺桶を出している、こいつぁ骸(むくろ)以外の
何かを運びだしたに違ぇねぇ。

棺桶を運ぶにゃぁ荷馬車が必要であろう、
貸車屋を早速洗ってみよ、どこの貸車屋で誰に頼まれどこに運んだか、
そいつが判れば凡そのことが判明いたそう」
平蔵は忠吾に命じた。

だが、平蔵の思いはあっけなく期待倒れに終わってしまった。

この数日谷中界隈で棺桶を運んだ者も、
車を貸した者もいなかったのである。

「ウヌ!」
先の見えない路地に入ったような思いがじゅくじゅくと平蔵を囲んでくる。

この奇妙な事件は平蔵の頭の中でくすぶり続け、
打つ手とて無い状況に歯ぎしりするばかりであった。
だが、この事件も些細なところから緒(いとぐち)が見えてきた。

谷中の立善寺裏の百姓屋に
棺桶らしきものが運び込まれているのを夜中に厠に立った小坊主が見ていた。

だが小坊主は夜中に厠に立つのは昼間の節制が足りぬからだと
戒められるのを恐れて報告しなかったようであった。

小坊主も初めは気にも留めなかったけれど、
埋葬する様子もなく妙だと思い、和尚に報告したということであった。

そこで和尚が早速出向いて確かめた所確かに不要とみなした仏像に
小間物の細工物や銭箱、骨董物が散乱しており、
人の出入りもあった痕跡が認められたと番屋に届け出がなされ、
町奉行所に報告が上がり判明した。

町奉行の手で谷中の百姓屋の裏手に八名の亡骸が
埋められていたのが発見され、
それぞれ身元のわかるものの身内に連絡を取らせ、
引き取り手のないものは立善寺の無縁墓地に埋葬されたという。

その数日後谷中の新幡随院裏手の掘割土手に
荷馬車が放置されていたのが見つかった。

「お頭 この度の事件はどのようになっておりましたもので?
私には何が何やら見当もつきかねます」
と聞いてきた。

「うむ 殺した後首をつったのは自殺と見せかけて、
以後の探索が及ばないように図ったのであろうよ、
戸締まりのからくりも次助が見破らなんだら案外見過ごしたであろう事だがなぁ、
夜中の棺桶も故買かいの物を持ち出すために使ったのであろうよ、
恐らくは金もその時に持ちだしたと想われる、

お届けの翌日ならば奉行所のお調べで身内に知らされても十分時が稼げる、
大勢で急いで動けば嫌でも目につかぁな、そこんところをうまく考ぇやがったものだ。

最後の最後まで棺桶で始末をつけるなんざぁなめたものよのう。

恐らくは堀川伝いに川船で荷を運び出して、
大川辺りから荷揚げして消えちまったんだろうぜ。

こいつぁ次助の読んだ通り心張り棒のからくりをよく心得た奴の仕業であろうよ。
王手飛車まで掛かったと想うたに、いや無念じゃ」

平蔵はこの度の事件を解決できずに終わったことに
少々やりきれない思いが残った。


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刺青

   およね


ここは上野池之端のけころ茶屋提灯店(みよしや)二階
伊三次がねぐら同然にしている茶屋で、贔屓(ひいき)はおよね、
本人同士は知る由もないが、子供の頃およねの母親に
一時一緒に育てられたこともあり、何故か馬が合い他人という間柄ではない。

そのことを平蔵が読み取り
「「お前ぇおよねに惚れてるな?何なら女房にしろ。
おれが世話を焼いてやってもいいぞ」
と言っておよねにやれと金子二両を紙に包んで伊三次に手渡した。

役宅を出た伊三次はにやりと笑いながら嬉しそうに歩き出す。
途中猫じゃらしを売っている店があったので立ち寄り一つ買い求める。

「十六文です」に
「釣りはいらねぇよ」
と片手に猫じゃらしをぶら下げて小走りに駆け出す。

「女房かぁ・・・・・およねをねぇ、そらぁ出来ねえ相談じゃねえが、
とても俺一人じゃ持ちきれねえやな」
と笑った、そんな間柄でもある。

「なんでぇお前ぇおたふくみてぇな面して、よくもまぁ客の前に出れたもんだぜ」

「でもねぇ伊三さん そのお客があん時にさぁ・・・・・」

「ばかやろう客に客の色話をするなんざぁ女郎(おんな)のするこっちゃぁねやぁ、
こっちにとっちゃぁ面白くもおかしくもねぇじゃァねぇか」。

「だってさぁ、左の腕に変なアザがあってさぁ、それをあたしが触ったら、
いきなりあたしをぶってさ、こんな顔になっちまったんだよぉ」

この日平蔵は本所菊川町の役宅から清水御門前の火付盗賊改方役宅に帰ろうとしていた。
一時ほど前に朝熊の伊三次がやってきて

「「長谷川様、およねのやつが見たっていうアザの話でござんすが・・・・・・」

「刺青ではないのかえ?」

「へぇ あっしもそう睨みやして聞いたみんでございやすよ、
するとあのバカ 良くは判らねぇようでしたが、どうもサの字のようで・・・・・・」

「フム サ・・・・か・・・・・
そいつぁ佐渡金山の仕置だと想われるがな、佐渡だと十年の水替え人足、
一昼夜勤務の隔日交代がお定めの刑罰。

島抜けは先ず考えられまい、一旦入ぇれば戻れねぇ島、
江戸に居るとなるとお勤めを終わった者かご赦免になった者、
だがこの所ご赦免はねぇ、で、年格好は判っておるのか?」

「それが初めての上がりとかであのバカ良く覚えてねぇようで、
ただ五十前位ぇのようでござんすが」

「うむ それだけではなんとも読めねぇが、
ちょいと歯には挟まったような気分だなぁ伊三次」

「へぇ 全くで」
刺青いろいろ


こうしてこの度の事件は始まったことをまだ平蔵も気づいてはいなかった。

清水御門前の火付盗賊改方に戻るその前に二ツ目の軍鶏鍋や五鉄に立ち寄ってみた。

「長谷川様いらっしゃいませ!」
いつも元気なお時の声に出迎えられいつものように二階へ上がってゆく、
そのあとを(待ってました)と相模の彦十が付いて上がる。

いつものようにおねだりするのを気遣って主の三次郎が
「とっつあん!」と制するが

「気にしえぇ気にしねぇ!」と、軽やかに上がってゆく。

「しょうがねぇとっつあんだ」と言う苦笑いを背に

「おとき 二~三本持ってきてくんな」
とすでに懐も準備万端というふうである。

「おう 彦!何か変わったことはねぇかい?」
と聞かれて彦十

「さいですねぇ・・・・・ここんとこ暇をもてあそんで、
ちょいと脂の匂いでもなぁんてね」

「おいおい お前ぇまだその元気があるのかえ?」
からかい半分に皺くちゃな彦十の顔を見る。

「やだなぁ銕っつあん!それにご無沙汰するようじゃぁもういけませんやぁ、
痩せても枯れても相模の彦十まだまだすてたもんじゃぁござんせん
(老武者は佐々木の勢いかりるなり)ってねぇ」

「ほ~ いもりの黒焼もお前ぇに掛かっちゃぁおしまいだなぁ、
どっちも干からびてらぁ、あっはっは」

「あ~っ そいつぁちょいと言い過ぎってぇもんでござんしょう」
彦十頭を一つ打って懐盃を差し出す。

この引き合いに出された佐々木は源義経の配下の勇猛果敢な武将佐々木信綱
「四つ目屋は得意の顔を知らぬなりけり」
と古川柳に引き合いを出された家紋が4ツ目結びの薬師問屋で、長命丸・女悦丸・
イモリの黒焼きが名物であり、店内を薄暗くし、客の顔を見えにくくする配慮が
あったことを伺わせる。
佐々木信綱

「なぁ彦!伊三次から入ぇった話だがな、佐渡から流れてきた奴の話は聞かねぇかい?」

「佐渡でござんすかい?あの・・・・・」

「そうよ佐渡金山から帰ぇって来た奴の話は耳にしていねぇかい?」

「さぁてねぇ・・・・・・そいつがどうかしやしたんで?」

「いや たちまちどうしたってぇんじゃァねえんだがな、
ちょいと耳に留めておいてくれねぇか」

「がってんしょうち!」
ともう一杯・・・

そこへお時が盆を運んできた。

「おっ 今日は何んだえ?」
平蔵の弾んだ声をすぐ階段から五鉄の主人三次郎の声が追いかけてきた。

「長谷川様、本日は青褐汁(あおかじる)でございます」

「ほ~青褐汁とは又何だえ?」
平蔵、もうこの言葉で喉が鳴り出しそうである。

三次郎は座りながら
「棒手振り(ぼてふり)の六助さんが持ち込みまして、
久しぶりに雉料理をと想っておりましたところへ長谷川様が・・・・」
とこれも又嬉しそうに。

「おいおい 雉料理とはこいつぁ朝から精が出そうではないか、なぁ彦!」
と彦十の顔を見る。

「へへへへ」もう彦十は腹の中に収めた気分で口を拭う。

「やれやれ・・・・・」三次郎はため息をつく。

「まぁ良いではないか、でそいつはどんな料理になるんだえ?」と興味津々

「へい キジの腸を清水で綺麗にしごき、叩いてすりつぶし、
味噌、酒を加えてから、きつね色になるまで炒ります。
これを青腸(青勝ち)と呼びます。

こいつを出汁にしまして小ブツ切りにしたキジ肉や、
ごぼうなど季節の野菜を入れて汁にします、
出来上がったものに刻みネギを入れて頂きます」

「おう こいつは又趣向が替わって、いやぁなかなか・・・・・
んっ!旨ぇ!!おい三次郎、こいつぁ又・・・・・・
嗚呼いかん!またしても五鉄の看板が増えて足止めになりそうだわははははは、
おい彦!こいつを白飯にぶっ掛けて食うと元気が出るぜぇ、
さっきの話じゃぁねぇが、お前ぇ白粉臭え脂女のもとへご出陣と・・・・・
行けるかも知れねぇぜぇ。わっはっは」

その夕方平蔵はいつもの様に両国橋を渡り、
神田川を右に見ながら柳原土手をゆらりと柳森稲荷に差し掛かった時、
稲荷社の鳥居の前で何やら揉みあっているような気配がした、

その後平蔵の方へ駆け出す足音が聞こえ、
土手を駆け上がった所で足音が止まったと思うと刃の打ち合う音がし、
ぎゃ~っ と 言う悲鳴とともにうめき声がした、平蔵急いで駆けつけつつ、

「火付盗賊改方である」と呼ばわった。

その言葉を聞いてバタバタと逃げ出した数名の侍と思しき人影。

「おい しっかり致せ!」
見ると胸を突かれ、胴の方もかなりの出血が認められる、
(こいつぁいかん)平蔵は男を抱え起し
「一体何があった!」
と叫んだが、ほとんど聞き取れない。

「何ぃ!」弱々しい声を耳元を近づけると「たぬき・・・・」と残して絶命した。

「おい しっかり致せ!」
平蔵、その先を望んだが、すでに息を引き取っていた。
通りかかりのものを呼び、大八車を持ってこさせ、遺体を乗せ近くの番屋まで運ばせた。
その様子を遠くから認めるいくつかの視線を平蔵は背に感じながら番屋の中に入った。
(たぬき・・・・)はて・・・・・

見れば身なりはひっつめの髪に質素な服装である。
(浪人と呼ぶにはすさんだものを感じない)うむ・・・・・・

番屋で本日の番太郎が茶を出してきた。

「おう すまぬ、手を煩わすなぁ」
そう言いつつ骸をゆっくりと検分していた。

たぬきとは、はて・・・・・一体何を意味しておるのであろう?
平蔵はその番太郎に

「わしは火付盗賊改方長谷川平蔵じゃ、
遅くにすまぬがひとっ走り清水御門前の火付盗賊改方役宅まで
知らせに走ってはくれまいか、それまでわしはここで待っておる、
そう伝えてくれれば良い」と小者を走らせた。

一時ほど後に与力の小林金弥・同心小柳安五郎・同心沢田小平次が駆けつけた。

「お頭!これはまた・・・・・」

「おお!遅くにご苦労、すまねぇがこいつを役宅まで運んでくれ、
そこに大八車を用意させてある」
そういって、共に清水御門前の火付盗賊改方役宅に運び込んだ。

当然影のように微行する気配を引き連れてである。

「お頭!」それに気づいて沢田小平次が平蔵に寄ってきた。

「うむ、判っておる、柳森稲荷境内からずっと糞のようにへばりついておる」
こうして夜を徹してこの亡骸を徹底的に調べ直した。

だが、何かを明かすようなものは何一つ発見されず、
無言の証人は町奉行の手に委ねることとなった。

だが、その昼過ぎ、柳森稲荷八ツ路ケ原の番屋が何者かに襲われ
番太郎が殺害されたと平蔵のもとにも知らせがあった。

「しまったぁ 奴らめ番太郎を襲ったかぁ、こいつぁぬかった!」

平蔵が番屋に骸を運び込んだのを見ていたことは判っていたが、
その時当番であった番太郎が狙われたのである。

「おそらくわしがあの骸を運び込んだ際、
あの親父も何かを聞いたと想われたに違ぇねぇ、不覚であった!」
平蔵は番をしていたばかりにとばっちりを受けた町衆の
酷い殺し方に胸が煮えたぎる思いであった。

「村松!その番太郎の居所と名前ぇを聞いて、香典を頼む」
そう言って懐紙を出し金子を包んで村松忠之進に手渡した。

「それにしても(たぬき)とは何の意味でございましょう」
佐嶋忠介が首を傾げる。

「うむ 今のところわしにも皆目見当がつかぬ・・・・さて困ったものよ」

その夕刻、神田川の船宿(きふね)の志留古保之(しるこぼし=小さめの屋形船)
の榜人(せんどう)和助が、船を出そうとして、
その竿先に死体が引っかかていたと届け出があった。

当番の南町奉行所で検死の結果(左腕にサの刺青を認む、
所持品無し、物取の仕業か、年齢五十前後身元不明)とのこと。
 
無論この事件は平蔵には届いていない。

その二日後、清水御門前の火付盗賊改方を出た平蔵の後を
密かに尾行する気配を感じつつ、もう一度現場に戻ってみようと柳原土手に向かった。

柳森神社の土手を下り、鳥居をくぐって柳森神社拝殿に差し掛かった時、
不意に殺気が散った。

(仕掛けてくるな!)平蔵油断なく網代笠の下から眼を左右に配る・・・・・

拝殿の角から無言で激しい太刀風が平蔵に襲いかかってきた。

それを見切って体を左に開き初太刀を躱した、
その一瞬背後から次の気配がかぶさるように襲いかかる。

飛び下がって塀を背に刀の鯉口を切る、
無言の重圧がひしひしと平蔵を追い詰めてくる。

平蔵ゆっくりと草履を脱ぎながら前方に一番鋭い気配に気を飛ばす。

「やっ!!」
強い気迫が平蔵に襲い掛かる。

一瞬その影が平蔵を包み込んだ、
その刹那平蔵の抜き放った一撃は相手の右腕を切り落としていた。

「ぎゃっ!」悲鳴が上がって平蔵の目の前に刀を掴んだままの右腕が転がった。

「まだやるか!」
平蔵が押し殺した声で残る三名の方に切っ先を向け直した。

「・・・・・・・引けい!」けが人を抱えるように逃げ去る後を、
(隠忍か・・・・)平蔵はそうつぶやきながら血を拭い鞘に収めた。

だが襲撃はこれで終わらなかった。

数日後いつものように清水御門前の火付盗賊改方を出て、
のんびりと久しぶりに本所の役宅に戻ろうと、通り道となっている柳原土手を進んでいた。
見上げる空はどこでも蒼く土手の柳は爽やかな翠に輝き、
来る季節を待ち焦がれたかのように涼やかにさえ想えた。

青々とした若葉の香りが風に乗って心地よく懐に潜り込む。

(うむ 良い季節だ)平蔵の気持ちも少しは和み本所までの道中を楽しもうと想った。

(・・・・・・おい またかぁ)平蔵の背後から冷たい視線が背に刺さってきた。

(ここはまずい、人通りがありすぎる)
平蔵は静かにその気配を誘いこむように柳土手を下がり始めた、
その動きを読んだか平蔵の背後から網代笠を一刀両断に切り下げてきた。

一瞬身を躱した平蔵の右肩をかすめて太刀風が前に泳いだ。
平蔵はゆっくりと刀を抜いた・・・・・・

「ほう 御留流(新陰流)とは・・・・・
過日の者とは違うようだのう、太刀筋に殺気が薄い、
わしを火付盗賊改方長谷川平蔵と知っての狼藉か!?」
と静かに片手で網代笠を外した。

「ううんっ!火付盗賊と!」

「左様火付盗賊改方長谷川平蔵!」
と再び名乗った。

「ご無礼を!」
と相手は刀を背に回し片膝ついた。

「身共は徒目付島崎正吾と申します」
と手をつき名乗った。

「なんと徒目付とな!で、その徒目付が一体わしに何のようじゃ、
なぜ襲いかかった、申してみよ」
と刀を収めながら油断なく刺客の顔を見た。

「されば・・過日長谷川様が柳原土手にて遭遇いたしし者は、
身共が配下の隠密廻にございます」

「なんと 地回り御用の・・・・・」

「はい左様でございます、ところで長谷川様にその者が何か言伝など・・・・・」

「うむ、そこ元が仕えし大目付はどなたでござろう」
平蔵疑ってかからねば事の重大性から見ても簡単に信じるわけにはいかなかった。

「身共が上司は大目付池田筑後守様にございます」

「あい判った!筑後守様は身共をよく存じておられる、
さればそのものが言い残せし言葉をお伝え申そう」
そう言って(たぬき)と言い残したことを伝えた.。

「たぬき・・・・・・たぬきでございますか?」

「わしにはよく判らぬが、そこもとなればお判りかも知れぬな」

「いえ、 私にも一向に心当たりがござりませぬ、
しかし、この寺本以蔵が探っておりましたるものは
金座総元締め後藤庄三郎でございます」

「何と金座の御用金匠後藤屋敷・・ほう こいつはまた、
で それをいかように読み解かれる?」

「おそらくこのたぬきが何かを明かす物の・・・・・・」

「はて・・・・・わしが柳原土手にて出会ぅたおり
稲荷の奥のほうで斬り合いがあり、土手にて出くわせ致した。

「えっ!実は過日神田川の船宿(きふね)の
志留古保之(しるこぼし=小型の屋形船)の榜人(せんどう)和助が、
船を出そうとして、その竿先に死体が引っかかっていたと届け出がござりました、

その男を手前どもで調べましたる所、元は日本橋金吹町の錺職人定八、
博打が元で殺傷事件を起こし十年前に佐渡送りとなっておりました。

定八は水替人足として送られましたが元は錺職人、
それを見て取った後藤配下の者が佐渡金山後藤役所内にて極印打ちをさせておりました。

その後年季明けで江戸に舞い戻っておりましたところを
後藤屋敷に拉致された模様、それを見共が配下の隠密廻同心寺本以蔵が見つけ出し、
後藤屋敷からこれを密かに脱出させました。

その後定八と寺本以蔵が落ち合う場所を定め、
証拠となるものを持ちだした模様。

その後寺本以蔵からの連絡が途絶え、
身共が調べを進めた結果この両名を後藤屋敷の隠忍が追っていることが判明いたしました」。

「やっ それで判った!わしを二度も襲ったのはそ奴らであろう、
ただの無頼じゃぁねぇことは太刀筋からも相当な手練であったことからも伺える」。

「その隠忍共を追っておりまして・・・・・」

「わしにぶつかったと言うわけだな」
平蔵、合点がいったふうに島崎正吾の顔を見た。

「はい まことその通りにございます」

後藤屋敷では折れ、欠け、摩耗などによる軽目金が多くなり、
これを補修する本直しと呼ばれる足し金が行われております。

後藤庄三郎は鋳造時に外金の鉛丹や錫を混ぜ込み両目を揃え、
余剰金を蓄えたフシがあり、それを探るために隠密廻が潜入いたしておりました。

その本直し作業を定八が受け持っておりましたようにございます。

その証拠の品と生き証人の身柄を拘束保護するのが寺本以蔵の御役目でございました。

その寺本も証人の定八も消された今、もう打つ手は潰えたのでございます」。
無念そうな島崎正吾の声を制して平蔵

「待て待て この二名とも柳森神社傍での襲撃とあらば、
そこで二人が逢うたとも考えられよう。
恐らくは奴らが定八を追い詰め、
それによりすでに証拠の品が隠密に渡った事を知り、こいつを殺害、
そのあと寺本以蔵を追ったと考えれば辻褄も揃うではないか。

だとするならば、先ほどの最後の言葉(たぬき)こいつぁは、・・・・・・
柳森稲荷は鬼門除けがおたぬきさまではないか?」
平蔵やっと喉の小骨が取れた思いである。

「まさに!では早速その場所を・・・・・」

こうして後藤庄三郎 金座後藤屋敷内での 
金目一部横領発覚の罪で長蟄居が下ったのはまもなくのことであった。

「なぁ佐嶋・・事の起こりは伊三次からのちょいとした世間話、
だがこいつが柳森神社で傍と隠密廻との遭遇で一つにつながった。

その結果池田筑前守さまのくびきをほどくことになった。

何一つつながりも無ぇと思っていたものが時という出汁を加えるとどうだい!
旨ぇ料理に変わっちまう妙なもんだなぁ、

人は意図しておるわけではないが、
時はそれを知っておるかのごとくこうして日盛りの前にさらけ出してみせる。

俺もそちも、お天道さまから見りゃぁ
将棋の駒の一つに過ぎねぇんだろうなぁ、ははははは」

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鳥越囃子


浅草寺名物 1795初めて風雷神門大提灯が奉納された。


浅草寺本堂の志ん橋大提灯 広重画

ここは浅草寺本堂(志ん橋)と書かれた大提灯をくぐって朝のお参りを済ませ
広小路に戻りかけ、消失したままの雷門に差し掛かった時、
「喧嘩だぁ喧嘩だぁお侍ぇ同士の喧嘩だぁ」
と声が飛んできた。

大勢の人をかき分けて覗いた浜崎十兵衛の見たものは
いかにも強そうな浪人風体の男と、
すでに勝敗は付いていると想われる若侍が抜刀して対峙している光景であった。

頃は六月中の頃・・・・というと壺坂霊験記・・・・・・あるわけはない、
ということで振り出しに戻って。

頃は六月七日、夜ともなれば鳥越囃子が聞こえてくる、
浅草でも最も気の短い連中がうようよいる場所である。

ここの蛇骨長屋をねぐらにしている浪人浜崎十兵衛
「ちょいと待った!その喧嘩俺が買おう、何しろ今日の食い扶持が底こをついておる、
飯のためにはやむをえぬ、どうだ五両でこの喧嘩引き受けよう、すでに勝負は見えておる」
と喧嘩の仲裁を勝手に買って出た。

「邪魔だていたすな」
浪人が声高に叫ぶ。

「おうおう そう邪険にするなよ、仲裁は時の氏神と申すではないか、
お前さんのほうがどう見ても優勢、こいつぁ面白くもなんともねぇなぁ皆の衆」

すると周りから
「そうだそうだ!それじゃぁつまんねぇ!火事と喧嘩は江戸の花!ッて言うぜ」

「それ見ろ!お江戸の花を今散らして何が面白い、
どうだ!五両ではだめか?うむ仕方がない三両で手を打とうどうかな?」
どう見ても劣勢の若侍の方に寄りながら指三本立ててみせる。

「お構いくださるな!」
若侍が逃げ腰のまま刀を突き出して追い詰められている。

「その通り邪魔立ていたすと貴様の方から先に片付けるぞ」
今度は浪人が威嚇してきた。

「おおそいつぁ怖い、だがその前に商談がまだ決まっておらぬ、
どうだ?三両でも出せぬか!う~んこうなったら清水の舞台だ、
一思いに飛び降りて二両!これ以上は負からぬぜ」

その言葉の終わらない内に浪人が大上段に振りかぶった長刀を一気に切り下げた。
若侍はとっさに目をつむり刀をそのまま固まってしまった。

(ビィ~ン)鋭い音とともに浪人の刀が中に舞い上がり
ギラリと陽を返してドォと地に落ちた。

「むぅ!」
浪人の口から低い声が漏れ、抑えた右腕から鮮血が地面に吸い込まれてゆく。

「糞!覚えておれ!」
浪人は刀を拾い上げて人混みの中に消えてしまった。

「やれやれこれで又今夜も根深汁かぁ」
十兵衛は尻餅をついて刀をガタガタ震わせている若者の腕を掴み
刀を剥がすように取り、鞘に突っ込んだ。

勝負あったと群がっていた野次馬も散って、元の人通りに戻った。

「なぁお前さん、どのような事情があるかは知らぬが、
始めっから勝負は付いている、なのにどうしてやるんだね、
おれにはさっぱり判らねぇ」
と首を傾げる。

この浜崎十兵衛親代々の浪人暮らし、この時代 役にも立たない物の、
腕に覚えの剣術で飯を食おうとこの浅草界隈で喧嘩の仲裁を生業にしている。

若侍を引き起こし、土埃をはらって近くの茶店に抱え込んだ。

「私は挙母(ころも)藩内藤家家臣崎森良太郎と申します。
父が上野国安中より挙母へ移藩の際母とともについてまいり、そこで生まれました。

天明四年(一七八四年)父が小普請を勤めておりまして、
その同僚と工事采配の事であらがいになり怪我を負わされました。
その怪我が元で父は死亡、すでに出奔していた板垣十四郎を追って
、江戸に参ったのでございます」

「なんと、それにしても怪我が元での死亡では仇討ちも認められんだろうに、
そこまでして何があるんだい?」

「武士の一分が立ちません」

「やれやれ、この時代にまだ武士の一分たぁ恐れいったぜ、
おまけに刀の持ち方一つ判っちゃぁいねぇ、俺には皆目判らん世界だなぁ」

「それでも私にとっては意地がございます」

「その意地を通すにも命を捨てては何にもならんだろう、
あっ お前さん路銀が切れたということか!
それなら色好い返事の一つも出なくて当たり前ぇだ、
はっ!こいつぁ俺がしくじりよ」

「申し訳ございませぬ」

「まぁいいさ、所でお前さんこれからどうするつもりだね?
見れば行く宛もないようだが、他に何か才覚はないのかね」

「父が小普請におりましたもので、
剣術よりもと文事、学芸に力を入れておりましたもので」

「ははぁそれで先ほどの・・・・よし判った、
お前さんを、う~ん おうそうだ!花川戸の尾張屋のだんなに相談をぶってみよう、
まぁ今日は俺のねぐらで骨休めして、明日にでも出かけてみよう、
おれのねぐらはその横の奥にある、蛇骨長屋だ」

「蛇骨とは又・・・・・」

「はははっ 気にするねぇその昔、
この長屋の奥の方から大蛇の骨が出たってぇ話しでよ、
それ以来ここいらを蛇骨長屋と呼ぶそうだ」

「左様ですか、まさか夜な夜な大蛇が出てくるとか・・・・・」

「おいおいそれじゃぁだぁれも住み着かねぇ
おっと蛇は棲み着くかも知れねぇがな、はははは」

こうして十兵衛と良太郎の奇妙な生活が始まった。

翌朝、身支度も整えて良太郎は十兵衛に伴われて花川戸の豪商尾張屋を尋ねた。

尾張屋の本家八木下家は鑓水村(やりみず)で
紡がれた生糸をまとめて江戸に持ち込み財を成している。

「これはこれは浜崎様お珍しい、本日は何処からの仲裁に御座いますかな?」
にこやかな表情で尾張屋の主が奥座敷で出迎えた。

「いやぁまった!いつもいつも喧嘩の仲裁ばかりは致しておりませぬぞ尾張屋どの」

「さようでございますか、で、本日はいかようなご用向きで?」
と茶を勧める。

「はい この若者故あって浪々の身、なれど糊口をしのぐにも術なく、
幼少より心得たる算術に長けておりまして、
暫くの間でもこちらのお役に立ちはしまいかと、お連れいたしました」

「おう それはまたお気遣い頂き・・・・・
ですが、手前どもにはすでにそのほうは足りておりまして、
新たにその必要もござりません」

「そう申されると想っておったが、こちらは小普請の御用方も心得ており、
帳面記載の管理などの奥向にも詳しい、若輩なれどお役に立とうかと」

「それはまた・・左様でございましたら話は別、
さてでは、暫くお預かりさせて頂いて、
その後でということもでもよろしゅうございましょうか?」

「おお 勿論、ものは遣うてみよ 人には添うてみよと申しますからなぁ、
何卒よしなに願います」

「ならば お引き受けいたしましょう」

と言うわけで、とりあえず糊口を凌ぐ手立てが出来た。

「さて住むところだがちょうどわしの家の向かいが空いておる、
そこを何とかあてごうてもらおう」

こうして棲み家も決まりひとまず落ち着いて仇を探すこともできることになった。

「この度は誠に数々のお骨折りをかたじけのうござりました」
良太郎は改めて十兵衛に感謝の意を述べた。

「よかったなぁ 崎森どの、俺もこれで喧嘩仲裁の甲斐があったと言うものよ、あははははは」

こうして二月が流れた。

良太郎は蛇骨湯の朝湯につかりに出かけた。
朝湯は夜の商売のものが入ったままなので、
上がり湯と言い入浴にはならない、そこで良太郎
銭湯の掃除をすることを引き受ける代わりに朝湯に入れることになったわけである。

尾張屋の帳簿付けは夕方から本仕事、したがって朝はゆっくりできる。

これは十兵衛が良太郎が仇持ちであることを尾張屋に話し、
尾張屋が任侠心で決めてくれたことであった。

蛇骨湯を出て浅草寺にお参りしようと金龍山山門をくぐった。
すでに人影は多く集まり、忙しげに行き交う人混みで賑わっていた。

(あっ 確かにあの後ろ姿は板垣十四郎・・・・・)
良太郎は背を見せて立ち去る三人組の一人が、板垣十四郎だと確信を持った。

そしてその後ろを付かず離れずついていった。

三人が入っていった先は新鳥越町の貞岸寺横少し入ったところの藪田の中の一軒家。
遠くで暫く様子をうかがってみたが、全く動きがない、
(おそらくここがあいつのねぐらであろう)と、蛇骨長屋に戻り十兵衛に報告した。

「それは何より!あとは奴の動きを見張れば良い、その方は俺が引き受けよう」

「誠でございますか?」

「こうなったら乗りかかった船、とことん付き合うぜ良太郎さんよ、
何日でも奴が一人になるのを待つしか無い」

それから毎日十兵衛は遠くまで野中の一軒家を見張ることになる。

そのころ平蔵は、てかの者から話を聞いたと報告があり
菊川町の役宅で五郎蔵に話を聞いていた。

「何とな!もう一度申してみよ、確かに其奴は音無(おね)の喜三郎だと申すのだな!」

「はい 間違いのない所でございます」

「うむ あ奴には煮え湯を飲まされた苦い思い出が今もこうして胸の奥底でうずいておる。
わしもまだ盗賊改めのお役に付いたばかりで、
同じ御先手組弓頭の堀田帯刀殿より佐嶋忠介を借り受けたばかり、
そのおり堀田殿が持て余して居った盗賊が其奴であった。

おれも若かったせいもあり功を焦って取り逃がした、
そのあと奴はあざ笑うかのごとく市中で暴れ回り、
堀田殿は引かされわしが火付盗賊改方になった」

「左様なことがございましたので・・・・・」
大瀧の五郎蔵はこの長谷川平蔵という人の気持をよく判った。

「で、いかがした、何ぞ手は打っておるのであろうな」

「それがでございます長谷川様、こうしてお伺いいたしましたのは
そのことについて長谷川様のご指示を頂きたく・・・・・」

「うん 何だ言ってみろ」

「はぁそれがどうも妙なことで、あっしの手の者の話では、
そいつらを見張っている者がおりやすそうで、そこのところをどうすればと・・・」

「で、其奴は何者だ!」

「はい 野郎が後を追いかけて着いたところが浅草の蛇骨長屋、
ですが、どうもそっから先が読めません」

「うーむ そやつは確かに奴らを見張っているのだな」

「はい それは間違いございません」

「だとすれば奴らの一味でねぇ事だけは確か・・・・・
もう暫く奴らをそのままで張り付いてくれぬか、
何か動きがあらばすぐにでも手を打てるよう塩梅だけはしておこうからに」

「はい 承知いたしました」

この奇妙な張り込みは此処に始まったのである。

五郎蔵は平蔵の命で早速新鳥越町の貞岸寺の奥まった寺男の空き家を見張り所に借受、
墓地を挟んですぐ向かいが盗賊の盗人宿の横正面に当たり、
昼夜見張るのには絶好の場所となった。

一方十兵衛はというと、墓地の端に身を潜めていたものの(
ここはさすがに墓地があるだけに蚊が多い、こいつぁたまらん)
夕方ともなれば一斉に襲いかかってくるので団扇などで追い払えるものではない。

どこかに良いばしょは・・・・と見回すと、寺の奥に小屋が見える
(うん あそこなら何とか蚊遣りでも焚けば大丈夫であろう)
とそそくさとやってきた。

長らく人の住んでいる気配はなさそうで(よしここなら忍び込んでも良かろう)と、
ガタガタと戸を開けた。

「誰だ!!」
中から声がしたので十兵衛驚いた。

「いやっ これは失礼をいたした、まさか人がおろうとは・・・・誠にご無礼を致した!」
と平謝り。

「当方は火付盗賊改方である、お手前は昨日よりこの界隈で一体何をなされておる、
御役目によりお尋ねいたす」
声を出したのは同心山田市太郎。

「あっ盗賊改めのお方でござりますか!
私は鳥越町蛇骨長屋に住まいいたしております浜崎十兵衛と申します、じつは・・・・」
と今日までのいきさつをかいつまんで話した。

「判りました、ですがあそこに潜みおる者は極悪非道なる盗賊音無(おね)の喜三郎である、
したがってお上の御用の邪魔立ては以後慎まれよ!」
ときっぱりと釘を刺されてしまった。

「とは申せ、こちらも仇を見張らねばならず・・・・・」
十兵衛は何とか食い下がろうとするが

「ここは一旦我らに任せ、捉えたる後しかる処置をお頭に仰ぎ、
そこ元に通達いたす、早々に立ち去られよ」
とけんもほろろの厳しい態度である。

相手が火付盗賊改方となれば、黙って引き下がる他に方策はないと十兵衛、
やむなくその場は立ち去った。

帰宅して、このことを文太郎に報告したが
「文太郎さん、よりによってによって相手は火付盗賊改方、
おまけに密かな探索中ということで、こいつぁ賽の目が揃うまで動けませんなぁ」
と悲観的である。

「盗賊改めの方のお返事は捉えたる後、
然るべきお知らせをいただけるということでございますか?」
とやや不安なれど、逆に考えれば無謀なことをしなくても良い事にもなる。

「ここは一つ考えようでございますねぇ」
と、十兵衛の思いとは裏腹に悲観的ではない。

「判りました、明日からの見張り早めてください、
お上の沙汰を待つのが賢明と存じます」
ときっぱり心を決めた様子で、さすがにこの辺りは文官の素養を伺わせる。

「へ~ぇそんなもんですかねぇ」
十兵衛は少々不満が残るものの、当事者の文太郎がそう言うのだから
それ以上口を挟みこともないと腹を決めた。

「長谷川様、奴らの狙いがどこなのか、それを掴めておりません、
そこんところがちょいと」
と大滝の五郎蔵が平蔵を訪ねて菊川町役宅に現れた。

「そいつよ、俺もなそいつがどうも引っかかる、
その後の奴らの動きは山田より聞いておるが、
それらしき動きは今のところわからぬという話だなぁ」

「はい まったくその通りでございます、ただ・・・・・」

「うんっ ただ・・どうした?」

「はい いつも出かけるときは三人連れ、こいつを微行(つけ)た限りでは
これといった決め場所も定かでなく、何故か決まっていつもの道をいつものように、
そこんところが私には・・・・・」

「うむ 腑に落ちねぇと言うわけだな」
平蔵煙管に刻みを詰めながら頭を少しもたげる。

ギラギラとした日差しが降り注ぐ。
五郎蔵は木陰に身をおいてその暑さを避けている。

「五郎蔵!そ奴らどこを通るんだえ?」
何かが働いたのか平蔵はそう五郎蔵に問いかけた。

「はい ヤサから鳥越町を進み、三谷橋をわたって山谷堀沿いに進み、
山之宿町から花川戸を通って浅草寺境内で茶店により、
しばらくして元の道を戻ります、

ただ帰り道は花川戸の川べりを流して新鳥越町まで戻ってきます」

「ふ~ん ちょいと可怪しかねぇか?一つは浅草寺の茶店、
おそらくはここでつないでも人目には却ってつきにくい、
もう一つ、これはおそらくこの辺りに目星をつけているところがあると見てよかろう」

「はっ?狙い目がこの辺りとおっしゃられますので?」
五郎蔵、少々合点がいっていないふうで

「花川戸を表裏と道筋を変えると申したな・・・・・・」

「あっ!」

「うん さすがに大瀧の五郎蔵だぁ、読めたと見えるな」

「長谷川様!奴らの狙いは花川戸・・・・・」

「そういう事だなぁ」
平蔵煙管の雁首を軽く手で打ってぷいっと吹いて収める。

「早速おまさをその辺りに手配りいたせ、
どこか奴らの狙いそうな大店の有無や規模なぞ、ひと通りのことが知りたい
それから、山谷通いの猪牙以外に川筋に留船が潜んでいないか調べてくれ、
どうも引っかかっていけねぇ」

平蔵立膝で袖に渋扇を当てて風を送りながら目を閉じ、何かを瞑想する様子であった。

「おまかせくださいやし」
五郎蔵はひと声かけて裏の枝折り戸をくぐり、日差しの強い江戸の町に戻っていった。

その夜菊川町の役宅に五郎蔵が再び現れた。

「おお 待っていたぞ、で 手配は終えたな?その後の首尾は如何であった」
と渋扇をゆらゆらとくゆらせながら口元が穏やかである。

「はい 長谷川様の仰るとおり、山谷堀の葦叢の中に小舟が二艘隠されておりやした」

「で、その船の持ち主は判っておるのか?」

「そのところまでは今のところ・・・ですが、こいつを仕込んでいるとなると」

「そうさなぁ 押込みは近いと想わねばなるまい、
問題はその押し込み先が未だ判らぬ」

「おまさはなにか探って帰えりましたか?」

そこへおまさが戻ってきた。

「おう おまさ、遅くまでご苦労であった、
今ちょうど五郎蔵とお前ぇの事を話していたんだ、
どうだぃどっちかの耳が痒くはねぇかぁ、あははははは」

「長谷川様 又そのように・・・・・・」
と言いながら五郎蔵の方をチラっと見やる。
五郎蔵、ばつが悪そうに頭を掻いてごまかす。

「で、如何であった?」

「それが長谷川様、花川戸には豪商が立ち並んでおりまして、
とても絞りきれるものではございません、
お前さんの方からは何もつかめていないのかね・・・・・」
お五郎蔵を見やるおまさであった。

「うむ よし、未だ山田より繋ぎがないということは、
本日は何事も動きがねぇと見てよかろう、
ご苦労であった、身体を休めてくれ、ああ それから五郎蔵、
すまぬがあすからは浅草寺での奴らの動きに少しでも変わったことがねぇか気配りを頼むぜ」

「承知いたしました」
五郎蔵夫婦は舟形の宗平が待つ本所相生町の長屋へと屋敷を下がっていった。

翌朝五郎蔵は浅草寺境内の茶店に陣を張る、傍におまさが付いている。
目的の相手がいつも立ち寄る茶店は決まっている、
そのすぐ横に後ろ向きに五郎蔵、
おまさが正面を向いて茶と団子を横において待ち構えているとも知らず、
いつもの三人連れは腰を据えた。

茶を飲んでいると下働きの形をした女が立ち寄って浪人たちに背中を向けて座った。
五郎蔵から見ると真正面である。

女は茶を一杯頼み、手早く飲むと
「置いときますよ」
と声をかけて立ち去ろうとして、浪人の投げ出している足につまづきそうになり
「あっ ごめんなさいまし!」
と声をかけた。

浪人は
「おっと 危ねぇ!」
と手を添えるように女を支える風を見せたその瞬間をさすがに五郎蔵見逃さなかった
(繋ぎやがった)おまさに目配せした。

おまさは茶代を置いてその女の後をつけていった。
すぐ後を追うように浪人たちが立ち上がったので、
五郎蔵も茶代を置いて少し後を油断なく微行を始めた、
これはおまさに何かが起こった時の用心を平蔵から命じられていたからである。

が、何事も無く浪人たちはいつものように川沿いに歩を進め、
このたびは少し念をいれているのかゆっくりとした足取りであった。

船着場の一つに小舟が繋がれており船頭が忙しげに働いていた。
その男と二言三言言葉をかわして、又そのままいつもの帰路についた。

五郎蔵はその場に残り、先ほどの船頭に声をかけた。

「忙しそうで結構じゃァねえか、いつもそんなに忙しいのかい?」

船頭は
「今日はまだそれほどでも無いがね、
明後日荷が届くんでこの辺りの小舟を寄せておかねぇといけねぇもんで」
と汗を拭きながら真っ白に見る陽を見上げた。

五郎蔵がその船着場のもやい場の表札を見ると㋾と書かれてあった。
菊川町の平蔵が待つ役宅に二人揃って現れたのはその夕刻であった。

「おいおまさ、五郎蔵お前ぇ達の顔に目星がついたと書いてあるようだがどうだ?」

「あっ これは・・・・・恐れいります、
長谷川様の眼はあっしらの背中にでも付いているのでございましょうか?まったく」
・・・と頭を掻く。

「で、 どうであった?」

「はい 浅草寺で待っておりますと、いつもの様に三人でやって来ましたが、
今日は繋ぎと見える女が加わりました。

おまさがその後女をつけていきましたので、あっしは残った奴らの後をついていきました。
すると、川沿いに歩いた中程に小舟が止まっておりまして、
その男と何やら話しておりましたが、そのまま帰って行きましたので、
おそらく変わりはねぇと踏んで、その船頭に話を向けてみましたら
明後日に荷物が入るんで船の片付けをしているとか・・・・・・
みれば台場に㋾と札がかかっておりましたので」

「長谷川様、その㋾は生糸の大店尾張屋だと思います。
私が後をついて行きました女が戻ったのがその尾張屋でございましたので」

「でかしたぞ おい こいつぁ上出来だぁ間違いなく奴らの狙いはそこであろう、
大凡(おおよそ)日にちもこれで読めた!
いやそれにしても暑い中をよくやってくれたありがてぇ、さぁゆっくり休むが良い、
誰か!あいつを持ってきてくれ!」
と奥に向かって叫んだ。

程なくして盆に盛られたスイカが運ばれてきた。
「おい ちょうど冷えておる頃だ、さぁやってくれ、俺も一緒に馳走になるかぁ」
平蔵は二人を縁側に招き、自分も座り込んでスイカに手を伸ばした。

「うん 旨い!!」
爽やかな夏の香りが甘く三人の口元にほころんだ。

「あとは山田の報告を待つのみ!詰めておる者達もさぞかし難儀であろうよ、
御役目とはいえ動くわけにもゆかず、さりとて目を離すわけにもいかぬ、
まこときついお務めよ・・・・・」

平蔵はこの仕事の矛盾さを誰よりもよく知っていた。

「しかし長谷川様、それ以上に長谷川様はさらにご苦労をなさっておられるのを
皆よく存じております」
と、平蔵の心中を察している。

小柳安五郎と交代した山田市太郎が戻ってきた。

「おお 山田ご苦労ご苦労、さぁお前もこっちに来て冷えたスイカを食ってくれ、
で 変わりはなかったろうな?」

「はい 今日のところは別に何の動きもございませんでした、
ただ夕方後ろの方で何やら動いてはおりましたが、別に人の増員もなく、
まぁいつもと変わりございませんでした」

「五郎蔵お前はどう見る?」

「はい おそらく船の確認とか塩梅を確かめたのではないかと・・・・・」

「俺もそう思う、小柳、明日そちは奴らに気取られぬよう、小舟の場所とを確認し、
明後日夕刻を過ぎたら小柳とその小舟を解き放て、
良いか、奴らが休む前に確かめに出向くはず、その後での仕事となる、良いな判ったな!」

「ははっ!」
山田市太郎は平蔵の言葉の奥にためらいのないことを知った。

翌日は何事も無く無事に終わり、いよいよ決行当日を迎えたが、
いつものとおりに過ぎていった。

夕方近く平蔵は全員を招集した。

「一同!連日の昼夜を問わぬ張り込みにさぞや疲れておろう、
だが押込みは今夜と見た、今宵を逃すと又どのような災いを引き起こすやも知れぬ、
相手は音無(おね)の喜三郎、音もなく近づき全員皆殺しにするという兇賊、皆心して掛かれ。

佐嶋を元に一隊は花川戸の裏手の船着場に網を張れ、
おそらくそこでの合流はないと想われるが、万が一の時の手配りと想え。

残りの一隊は新鳥越町の百姓屋の山谷堀に網を張る、
必ず奴らは小舟で仕掛けてくるはずだ。

夜明けまでには決着を見るであろう、それまでは動きを気取られてはならぬ、よいな!」
こうして、網は確実に張り巡らされていった。

両手の掌から水が漏れるの例えがあることを平蔵は身にしみて知っていたのである。

その夜更け、平蔵の見込み通り新鳥越町の山谷堀川筋に百姓屋から十数名の陰が近づいてきた。
その時、
「お頭!船が見当たりやせん!」
と驚きの声が上がった。

「何だとぉ!そんな馬鹿な話があるわけがない!
昨日遅く見まわった時には確かに隠してあったのを見届けやした」
と誰かが叫んだ。

「その通り、昨日では確かにあった、だが今朝方船は流れちまった、
誠に気の毒なことをしたなぁ」

「誰だ!貴様は!」
狼狽しながらも鋭い声が暗闇に響いた。

「俺だよ音無(おね)の喜三郎、火付盗賊改方長谷川平蔵だよぉ」

「何だとぉ 野郎何しやがった!」

その言葉の終わらない内に御用提灯や高張提灯が一斉に掲げられ
、山谷堀の川面を明るく照らした。

斬り合いは四半時(15分)で終わった。

逃げ延びた残党は百姓屋で待ち構えていた木村忠吾達によって取り押さえられたのである。

捕らえられた一党は番屋で予め取り調べを受け、
それぞれの検分内容に従って大番屋に連れて行かれた者もあった。

首領の音無(おね)の喜三郎と浪人板垣十四郎は番屋で平蔵の厳しい詮議を受けていた。

そこへ山田市太郎によって平蔵からの言付けを聞いた崎森良太郎と浜崎十兵衛が駆けつけた。

「長谷川様!板垣十四郎が捕らえられたと伺い駆けつけてまいりました」

「おう これは朝早くから相済まぬ、
いやなに 山田にそこ元二人の話は聞いており申したゆえに
捕縛いたしたことをお伝えしたまでのこと、
崎森とか申されたな?敵討はご法多と存じておろう、
したがってそうさせてやりたいがそれはならぬ、許せよ、
だがなぁこ奴はわしが間違いなく千寿骨ケ原で晒してくれよう、

それだけは約束いたす、だからなぁもうここいらでこのことはすっぱり忘れ
新しき生き方を見つけるのもよいと思うがのぉ、

その二本差は何を繋ぎ止めておるのだえ?
新しい生き方の橋架けをしているのではないかえ?
小難しい生き方よりも己れの心を解き放って穏やかな生き方もあるってことを、
こころのままに生きるってぇ事は、何んにも増してかけがえのねぇものだと想うがなぁ。
のう浜崎殿」

「いやっ これは一本とられましたなぁあははははは、
私はこれしか才覚が無き故に今さらどうにも浮きませぬが、良太郎はまだ若い!
それにヤットウよりも才覚をお持ちだ、まさに長谷川様の仰る通り」

こうしてこの事件は落着を見た。



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11月第2号 おまさ誘拐(かどわかし)


大滝の五郎蔵

江戸の人口が50万人に対して、取り締まる側の南北奉行所の役人が二百五十名程度。
特に実質犯罪に関わる役は三廻りと言われる定廻り、隠密廻り、
臨時廻りこれを南北合わせても三十名ほどの与力・同心だけの構成であった。

この中で実際に見回りを行っていたのはわずかに十名ほど
これで江戸町民50万人を監督することは出来ないという方が正しかろう。

俸禄も三十表2人扶持でしかなく、手足に使う御用聞きや下っ引の給料は
自己負担であった。

ゆえに参勤交代で江戸詰めの藩士が問題を起こしたりするために、
それらの藩から付け届けもあり、又商家からも問題を見ぬふりをすることで
懐銭が入り、与力、同心三千両とうそぶかれるほどの実入りがあったのは史実。

だが実際にこれらを使うとなるとかなりきわどいものがあった。

情報通ということは、逆に考えれば裏社会に精通していることが必至であったからだ。
いきおいヤクザや博徒,テキ屋なども使われた。

この日木村忠吾は非番ということもあり浅草新吉原を冷やかしていた。
懐寂しいのは常のことで、別段上がろうという気持ちはあっても先立つ物が・・・
ということである。

(目の保養は大切である)と平蔵は言わなかったが、
「気の休まることもたまにゃぁ必要であろうよ」
と 言われたのを都合解釈しての出陣であった。

それにしてもいずれ劣らぬ賑で、良いおなごもそれそれ居るではないか!
「ねぇお兄さ~ん」
なんて・・・・・・と夢想しながら流していた。

その中の一軒の郭から吸付け煙草を差し出した女がいた。
何も言わずスィと差し出された煙管を忠吾思わず吸ってしまった。

吸いながらよく眺めると中々に美形、
ぽっちゃりとふくよかなふくらはぎを赤の蹴出しから覗かせてじっと忠吾を見た。

ブルブルブルと忠吾身震いを覚えた。
(いいおなごだなぁ、懐が寂しくなければこのまま上がって、うふふふふふ・・・・)

その夢を破るように横から割り込んだ男がいた。

「おい お前」
そう言って顎をしゃくって二階に目配せした。

(クソぉ、この野郎俺の夢を横からかすめ取るとは)と凝視した。
だが、そこまでである、女と男はさっさと引き上げていった。

取り残された忠吾、一瞬にも見たない淡き夢にぶら下がって未練タラタラ
だが、この一件が事件の発端になるから不思議なものである。

翌日忠吾はお決まりの市中見廻りに出かけた。
行く先は日本橋界隈である。
十手を懐に飲んで素浪人の姿でぶらぶらと流していた。

(ふ~ん呉服屋かぁ、こんなところにはきっといい娘がいて、
蝶よ花よと育てられ、さぞかし美形であろなぁ)
とこの妄想だけは誰にも負けない。

中から服装からもそれと判る奉行所同心が十手を肩にとんとんあてがいながら
のれんを分けて出てきた、その後を付いて出たのが番頭風の前垂れをかけた四十前後の男。

「毎度ご苦労様でございます」
と 言いつつ同心の右懐に何かを入れた、同心は素早く十手を懐に仕舞いこみ、
その腕を羽織の中に引き込み、店の者はぺこぺこ頭を下げて店に引っ込んだ。

(いいなぁ俺も一度で良いからああやって懐銭を忍ばせてもらってみたい)と眺めていた。

その後ろから御用箱を担いだ供の者と、中間が腰に木刀を下げてついて行き、
傍に御用聞きがピッタリと付き添っている。

(奉行所与力の付け届け三千両かぁ、いいいな)
忠吾は、この賂(まいない)は長官長谷川平蔵から、(決して手を染めてはならぬ)と言う
きついお達しであったから、羨ましくて仕方がなかった)

その時中から三十前後と見られる小女が出てきて後ろをゆく中間が振り返った時
前合わせに手を添えて軽い会釈をした。

それを見て中間が小さく首を縦にそのまま歩みを進めた。

(んっ!)忠吾はなんとなくその小女に目をやった。
(う~ん色っぽいいい女だなぁ)とぼんやりと見つめた。

ことはそれだけである、だがそれが結局事件の糸口につながってくるとは
想いもよらない忠吾であった。

清水御門前の火付盗賊改方役宅に戻った忠吾は同僚の沢田小平次に
「沢田さん、さすがに日本橋でございますなぁ、
見回りの同心はあのようにして行く先々で懐が肥え、
それで御用聞きや小者を養える、我らはそれさえご法度で手下(てか)を
養わねばならぬ、不条理ではござりませぬか」
と、少々不満の顔。

「忠吾、おかしらが日頃よりわれらを養うためにどれほどお心を痛めておられるか
知らぬではあるまい、時によれば奥方さまさえ・・・・・」

「判っております、判っておりますはいはい!ですが沢田様、
そこまで厳しくしなくとも、多少のことは目をつぶり・・・・・」

「馬鹿者!忠吾 盗賊改めがそのようなことをいたさば、
誰が一体盗賊どもを引っ捕らえると言うのだ!」
と語気も鋭く叱咤した。

「あっ 誠に持ってすみませぬ、私はただ・・・・・」

「ただどうした!」

「あっ その いえ何も・・・・・」

「おい忠吾 どうした、何をそのように沢田に絞られておるのだ?」
声の大きいところで聞こえてしまったらしく、平蔵が入ってきた。

「はぁ 本日は日本橋を見まわりましてございます」

「おう ご苦労であった、でいったい何があったのだえ?」
平蔵大方の察しは付いていたものの、
本人からそれを言わせるのも一興かと面白半分に水を向けた。

「はぁ 町廻同心がお店から懐銭を受け取りまして・・・・」

「それが羨ましかったと言うのではありまいなぁ」
と先回りして釘を刺す。

「いえ 決してそのような、その後小女が、これが又・・・・」

「お前ぇ好みのおなごであったかっ」
平蔵口元に笑いを貯めて忠吾を見た。

「はぁ それが三十前後の少し細身で、私の好みではございませんでしたが、
これが又仕草が色っぽくて、見送りの時、中間に地衿に片手を差し入れて
そのままスイと襟元にやって・・・・・
これがめっぽう色っぽうございましたのでついつい目に止まりましただけのことで、はい」

「何っ!」沢田と平蔵が同時に言葉を発したから忠吾ぴっくりして目玉をパチクリ。

「なななっなんでございますか、お頭ぁ・・・・・」

「忠吾そいつは繋ぎだ!」
沢田小平次が叫んだ。

「えっ そんなぁ ただ衿に手をやり・・・・・・ええっ!」

「その時女が指をいかが致した!」
平蔵の目が輝いた がそれまでであった。

「はぁ なんとも女の流し目のような眼を見ておりましたので、
切れ長の色っぽ目つきでございました」

「この大馬鹿者!お前ぇは何年同心を勤めておる、
そのとき女は指で何か合図を送ったはずだ、
むぅ 沢田、おまさを呼べ、おそらくは日にちか刻限か何かをつないだはず、
だとしたらそれを探らねばなるまい」

ほどなくしておまさがやってきた。
「長谷川様お呼びだとか」

「おう おまさすまねぇがちょいと日本橋の 、おい忠吾何と申したその店の名は!」

「はぁ 店の名でござりますか、さ~ぁ何と申しましたか・・・・・」

「おいおい忠吾おなごの顔は覚えておっても店に名前は思い出さぬか」

「はぁ なんとも面目次第も・・・」

「では行けば判るのだな!」
苦々しげに平蔵拳を握った。

「おまさご苦労だが明日忠吾とともに日本橋に出向き、
その店の周りの聞きこみに行ってはくれぬか」
とうながした。

「長谷川様それは一体どのような事を探ればよろしいのでございましょう」とおまさ

「店の位置、それから裏表の人の流れ、近くに見張り場を設けられるところがないか、
出来ればその屋の勤め人の構成などが、おうそれにだなぁ定廻りの同心の名前ぇも
判ればありがてぇ」

「承知致しました」
と、おまさは戻っていった。

翌日忠吾とおまさが向かったのは一石橋たもとの北鞘町材木問屋(肥田屋)
おまさの聞いたところでは橋の改修工事用の木材を一手に引き受けて、
蔵にはお上から近々大枚の金子が出回るようで、用心棒などを雇っているという事。

何しろ橋の架替えである、使われる材木も膨大な規模になるが、流れこむ金子も雇い人、
人足などに支払うために、これも又莫大なものになろうということであった。

主は手堅い商売で評判もよく、出入りの者も常連のようであった。
小間物を担いで回って見たところ、新しく雇った者はこのところなく、
一番新入りでももう三年にはなるという、
中に忠吾の言っていたそれらしい小女は奥向も兼ねた中々のやり手で、
主夫婦のお気に入りのようであった。

店のひと通りは向かいに本両替町が控え、夕方近くまで多くあり、
通りがかりの怪しい動きは中々見つけられないという。

「ただ・・・・」

「うん 何だ?」

「はい ただ町方地廻がこの所頻繁に訪れているようで、その度に、ふふふふ」

「おい 何だそのふふふは」
と平蔵

「はい 賄いの女が(懐も肥えるはずだ)って」

「ふむ 何かお目こぼしをしておるということだな」

「はい そのようでございます」

「一手に引き受けておるというのがどうも気に入らぬ、
お前ぇ一人では荷が重かろう、粂八に繋ぎを取りすけてもらえ、
ああそれから見張り小屋になる場所は忠吾に交渉させろ、出来れば二階が良い」

「かしこまりました」
おまさはそのまま引き上げていった。

翌日からその肥田屋は盗賊改めの監視のもとに置かれた。
その日粂八と忠吾が見張り所に詰めていた。

「あっ 木村様女が出て来ました」

「何! よし後をつけるぞ、そのことを書いて残しておけ」
と矢立と懐紙を渡した。

女の後をつけて忠吾と粂八は一石橋を渡った一町ほど先の茶店であった。
近くには呉服橋御門が見える見通しの良い所である。

店の陰に静かに身を寄せて見守っていると、
やがて向こうから男がやってきて何気ないふりをしながら女の向かいの席に座った。

お茶を飲み、その後女は立ち上がって、その瞬間何かを置いたのをおまさは見逃さなかった。

「木村様!つなぎました」
とおまさが言うのを、忠吾女に見とれていたのか気づかなかったようで、

「おまさ 何がどうしたというのだ?」
とのんきに問い返す始末。

「いま女が何かを置き、それを男が拾って立ち去りました、
すぐに男の後を追ってください」
と忠吾に促す。

「俺がかぁ 男の後を男がつけるよりも女のほうが自然であろう、
あいつはお前に任せる、俺は女の後を追って見る」

「判りました」
おまさは少々むっとしたふうであったが、
忠吾の命とあらばやむを得ない、黙って男の後を急ぎ微行して消えていった。

忠吾は女の後をふらりふらりと着流しでぶら下がるようについて北鞘町まで帰ってきた。
そこに与力の小林金也が待ち構えていて
「忠吾おまさはどうした?」と問いただした。

「はい おまさはつないだと想われる男を微行して行きました」

「で、 お前はそのまま女の後をついて帰ってきたということだな」

「はい さようでございます」
と答えたから小林の堪忍袋の緒が切れた。

「忠吾、お前は危険な微行をおまさにさせて、
お前は女の尻にくっついて戻ってきたというのか!」

「はっ いけませぬか?」

「馬鹿者、その男がおまさに気づけばどうなる、相手は男だ、
いかにおまさが修羅場をくぐっていようとも所詮はおなごだ、
叶うはずもあるまい、軽はずみなことを致したものよ」
この小林の不安は的中した。

後を微行(つけ)ていたおまさは八丁堀の白魚橋を渡り、
正面に稲荷を見るところまで姿を追ってきた。
これまでの経験で(このようなところへは誘いこむ率が高いと踏んで)
真福寺橋に曲がろうとした時、
微行ていた男が戻ってきていきなりおまさの腕を掴んで捻り上げた。

「何をなさるのでございます?」
おまさは落ち着いて男の出方を待った。

だが男のほうがそれを封じて
「お前ぇずっと俺の後をつけてきただろう」

「いえ それは何かの間違いでございますよ、
あたしはこの先の八丁堀のお店に品物を受け取りに行くところでございます」
と腕を振り解こうとした、
その時男の腕が跳ね返され袖がめくれて二の腕が一瞬あらわになった、
そこには腕の中ほどに二本の刺青が一瞬だが見て取れた。

おまさの顔色が一瞬変わったのを男は見逃してはいなかった。

「手前ぇ見たな!顔色が変わった所を見るとお前ぇ何もんだぁ
見かけは下働きの女に見えるがどうも怪しい、こっちに来な!」
と稲荷の方に引きこまれた。

「何をなさいます、無体なことを!」
抗いながら必至に男の手を解こうとするが、所詮相手は男である、
適うはずもなく抵抗しながらも稲荷社の方に引きずられてゆく。

すると三名ほどの男が稲荷社の裏手から出てきた。

「どうした、その女は・・・・・・」
見るからに博徒風の男が声を出した。

「この女、俺の後をずっとつけてきやがった、どうも臭ぇ、
もしかしたら町方か盗賊改めの狗かもしれねぇ、
まずはおかしらのおいでなさるまで閉じ込めておきな」
そういって、おまさを縛り上げ猿轡をかませて社の中に転がした。

一方小林は、このことを平蔵に知らせるように忠吾に命じ、
まずはおまさが向かったであろう方に探索しようと出かけた。

忠吾の報告を聞いた平蔵
「おいうさぎお前ぇまだ病気は治っておらぬようだのう、
情けない奴め、で、小林はおまさを追って向かったのだな!」

「ははっ その様に小林様から聞き及んでおります」

「誰か、手すきのものを急ぎ集めてくれ、おまさがかどわかされたやも知れぬ、
それから密偵たちにも繋ぎを取り急いでおまさの足取りを掴め、
振り出しは一石橋の茶店だ、ぬかるなよ!」

密偵たちは一石橋からおまさの足取りを求めて散っていった。
だがその夜のうちにはおまさの行方はようとして知れなかった。

徹夜で必至の探索をする盗賊改方を尻目に、おまさの足取りはぷつりと
糸を切り取られたかのように闇の中に消えたのである。

翌日になって北鞘町材木問屋(肥田屋)の見張り所から清水御門前の役宅に繋ぎがあった。
店の中が重苦しい雰囲気で、どうやら何か大きなことがありそうだと言うのである。

「いよいよ金が動くか・・・・・それにしてもおまさの安否が気にかかる、
生きておれよおまさ」平蔵は祈る気持ちで暗く淀んだ江戸の街の空を見上げた。

そこへ佐嶋忠介が駆けつけてきた。

「お頭!先ほど南町奉行所の方に探りを入れましたる所、
仙臺堀の政七が昨日おまさを見かけたと申しておりました」

「何!おまさを見かけただと」

「はい!」

「で 場所はどの辺りであったか判ったのであろうな!」

「はい なんでも奉行所から仙台堀に帰る途中、八丁堀の白魚屋敷のほうへ
歩いてゆくのを見かけたそうで、声をかけようかと思いましたが
何やらわけ有りのようだったので、そのまま、政七は白魚橋を渡り本所の方へ、
おまさは反対の真福寺橋の方へ曲がったそうでございます」。

「よし!夜までまだ間がある、一同手分けして八丁堀真福寺一帯から
探索を始めるよう申し伝えよ、わしも今から出張ってまいる」
平蔵は騒ぐ心を落ち着かせようとするが、それほど簡単ではないことをよく承知している。

妻女の久栄が
「殿様 おまさが行くかた知れずとか・・・・・」

「うむ 気がかりでならぬ、おまさを失いとうはない!」
それは平蔵の本心でもあった。

一時ほど後密偵や手すきの者が三々五々一石橋たもとの茶店に集まってきた。

「政七によると足取りはここから白魚屋敷の当たりかもしれぬ、
もしおまさが囚われておるならば身の危険も考えられようからそのつもりでかかってくれ!」
平蔵がそう下知し、それぞれに散っていった。

茶店の片隅に陣を取っていた平蔵の元へ半時ほど後に吉報がもたらされた
「長谷川様!おまさのかんざしが落ちておりやした」
知らせを持ってきたのはおまさの亭主大滝の五郎蔵であった。

「何!おまさのかんざしだと」

「へい間違いございやせん、こいつぁ舟形の宗平父っあんがおまさに祝として求めたもので、
見間違うことはありません」

「でかした五郎蔵!おまさはおそらくその近辺に囚われておるのであろうよ、
そのあたりをくまなく探せ、わしも行こう」
五郎蔵と平蔵は白魚橋手前にある稲荷社の朱の鳥居をくぐった当たり、

「ここで見つけやした」
五郎蔵が足元を指さしてみせたところは稲荷社を奥に眺める砂場であった。

「おい見ろ五郎蔵!ここに争ったあとが見えねぇか?」
と平蔵の指さす当たり・・・・・

「そういえば少し足あとがいくつか乱れたような・・・・・」

「五郎蔵 奥の稲荷社を覗いてまいれ、俺はその周りを調べてみよう」

平蔵と五郎蔵は二手に別れ、草木の間に身を潜めながらそっと近づいた。
(ふむ 人の気配がどうも無いなぁ・・・・・)平蔵がそうつぶやいた時
「長谷川様・・・」
と五郎蔵が戻ってきた。

「どうも外からでは何も見えません、いっそ踏み込んでみたら如何でございましょう」

「待て待て五郎蔵、万が一おまさが人質にでもなっておれば身が危うい、
そこまで俺は無理はしたくねぇ」

その時鳩がいきなりバタバタと鈍く輝く空に向かって飛び上がった。

「伏せろ!」
平蔵は低い声で五郎蔵に促しそっと草薮に身を潜めた。
数名の足音がこちらに近づいてくる。

やがて稲荷社の戸が開けられ男どもが入っていった。
奥の院の方で何やら激しい物音がして、女の叫び声が漏れてきた。

「おまさだ!」
平蔵と五郎蔵は同時に小さく叫んだ。

「おい 五郎蔵!おまさは生きておる生きておるぞありがてぇ、
今助けてやるからな待っておれ、五郎蔵、
すまぬが界隈に居る同心共を探してここに連れてきてくれ、
俺はここで何かあればいつでも飛び出せるように控えておる、頼むぞ!」

それから小半時(30分)が流れた。
中からは時々うめき声が漏れてくる、

「すまぬおまさ、絶えてくれもうすぐだから、絶えてくれ!」
平蔵も胸をかきむしられる思いでおまさのうめき声を耐えていた。

「お頭!」
五郎蔵を先頭に山崎、沢田、小林、酒井、松永、小柳、竹内それに忠吾も駆けつけた。

「よし!山崎、沢田、松永酒井、お前達は背後を断て、
残りの者はわしと正面から踏み込む、おまさが敵の手にある以上
速やかに動かねば身が危うい、良いな!、では散れ!」

後方の退路を断つ準備を見計らって平蔵が真っ先に戸を蹴破って突入した。

「なんだ!どうした!」
奥のほうで驚いたような叫び声がした。

刀を抜いて打ち入った平蔵一行を驚いた顔の男が素早く見て取り
おまさの傍に駆け寄り刀を抜いておまさの首に突きつけようとした、
その寸前平蔵は手裏剣を打ち放った!

ぎゃっ!と首筋を抑えて男がもんどり打って倒れた。

「それ!!」
一気に崩れ込んで斬り合いになったが、不意を突かれたものだから心の準備も整っておらず、
あっという間に打ち伏せられた。

「おまさ大丈夫であったか!」
平蔵は打撲で腫れ上がっているおまさの綱を切り解いた。

「長谷川様・・・・」
おまさはそのまま平蔵の腕の中に倒れこんだ。

「おい五郎蔵、こいつぁ俺の役目ではない、お前に任すぜ!」
そう言って飛び込んできた五郎蔵におまさの身を預けた。

「良かった良かった、まこと間におうてよかった」
抱きあう二人を残して平蔵稲荷社の表に出た。

すでにその場に居合わせた無頼のもの五名は手傷を負って動けない状態で捕縛されていた。
そのまま番屋に引き連れて、軽い取り調べが始まった。

「お前ぇはだれでぇ」
首領格らしき男が平蔵を見て噛みついた。

ニヤリと笑って
「おう 名乗りが遅れてすまなんだ、俺は火付盗賊改方長谷川平蔵である」

「なななっ何ぃ!平蔵ぉ!あの鬼平か!」

「お前ぇ達にゃぁそう呼ばれておるらしいのう、今日の俺は特に機嫌が悪い」

「何故だぁ!」

「俺の宝を横取りしようなんざぁ閻魔様もお許しにはならねぇ外道ども!
どいつが頭目だえ、肝っ玉据えて返答致せ!」
平蔵の毒気を含んだ語気に気負い負けしたか、頭目らしき男が口を開いた。

聞き取りによって一味の者で、左手に二の字は伏見の流ればたらき(ともずなの孝助)、
首領は黒南風(くろはえ)の音蔵、、北鞘町材木問屋(肥田屋)の女は
(かはほり・(コウモリ)のおせんと判明した。

それぞれ数珠繋ぎにつながれて大番屋に引き立てられていった。

「それにしてもおまさ、この度は危ない目に合わせた、誠にすまぬ」
平蔵は両腕に包帯を巻いた痛々しい姿のおまさに頭を下げた。

「長谷川様、どじ踏んだのは私の方でございます、つい気を抜いた一瞬のことで
どうにも・・・・」

「で かんざしを抜いたというわけだな」

「はい それくらいしか手が打てなかったものですから」

「それにしてもよくあのかんざしを落としたのが気取られなかったものだなぁ」

「はい つかまった時かんざしを抜いて、腕を振りほどかれた時
足元に落とし蹴り飛ばしたものですから・・・・・」

「まぁよくぞ無事でいてくれた五郎蔵もさぞや気をもんだであろうすまぬことを致した、
許してくれよ」

「長谷川様あっしらは皆長谷川様にこの生命お預けいたしておりやす、
ですから、どうかそのお手をお上げなすってくださいまし、
どうにもあっしらは居心地が悪うございますよ」
と五郎蔵が平蔵を促した。

「ありがとうよ、わしはお前ぇたち抜きでは何にもできぬ、
俺にとっちゃぁ誰一人欠けても俺のお役は成り立たぬ、これに懲りずすけてくれよ」

平蔵の目頭が熱くなるのを皆嬉しく、無言でかみしめていた。

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11月第1号 杉田玄白と平賀源内


杉田玄白


平賀源内

その日、平蔵はゆっくりと市中見回りに出かけた。

昨夜は本所2つ目の軍鶏鍋や五鉄に寄ったものだから、
そのまま菊川町の役宅に戻った。

何しろ五鉄では例によって相模の彦十が相手ということで
「おい彦 お前ぇちょいとフケちまったんじゃァねえのかい?」
とまぁ酒の肴のつまみという気分でちょっかいを出す。

懐盃をさり気なく出しながら彦十
「冗談いっちゃぁいけませんやぁ長谷川様、
ここんとこちょいと懐も世間様ご同様冷てぇ夜風に晒されて、
遊び銭がお留守がちなだけでホレこの通り至って丈夫なもんでござんすよ!」
と腕をまくって叩いてみせる。

「おいおい その鳥ガラみてぇな腕でかい?
ちいっとこっちの方で使い過ぎたってぇんじゃぁねえのかぃ、どうでぇい図星だろう」
と 小指を立ててみせた。

「あいたぁ さすが長谷川様にかかっちぁ相模の彦十 へいごもっともで・・・・・
でね、あんときゃぁこっちの方でちょいと稼げて」、
と壺を伏せる真似などして、
「懐もそこそこ出ござんしてね、これなら岡場所に久しぶりに潜り込もうかぁなんて、
へへへへへ」
と鬢(びん)をポリポリ掻いた。

「市ヶ谷柳町の店を覗いて冷やかしていたんでござんすがね、
どこかで聞いたような声に振り返ってみやしたら、何と木村様のお姿が・・・・・・」

「何ぃ 忠吾だぁ・・・・・」

「へい その木村様がちょいと丸っこい引込み女郎につかまって・・・・・」

「鼻の下が伸びていたと言うわけだな」

「あっ さすが長谷川様、そこまでお見通しとはおっかねぇこって、くわばらくわばら」

「おい 彦!それぐれぇは読めなけりゃぁアヤツの親父に申し訳が立たぬではないか」

「まぁ仰るとおりではござんすがね、
その時木村様の後ろからつけてきたような野郎がおりやした」

「んんっ 其奴はどのような様子であった」
平蔵少し興味が湧いてきたのか小鼻のあたりをヒクヒクさせながら膝を乗り出してきた。

「へい ありゃぁどう見ても遊び人ふうで」、

「で 、忠吾はそいつに気づいたのか?・・・・・・な わけはねぇな」

「あっ 当たり~」
彦十、平蔵の感に半ば呆れて

「その通りでござんすよ、木村様はそのまま次の店にと流されて、
それを付かず離れず付いていやしたから、まず間違いはござんせん」

「で お前ぇはどうした」

「どうしたもこうしたもござんせんよ、
あっしはそのまま後ろ向きにやり過ごして野郎の後に周りやした」

「おうおう お役が目覚めたかえ」

「へい そりゃぁもう・・・で木村様はおなご共の手を適当に触っては・・・・・」

「ますます鼻の下が伸びたと言うわけだな」

「嫌だねぁ そこまで行きやすかぁ・・・・・
まぁそのまんま柳町を抜けてお役宅の方へと向かわれました」

「奴め お前ぇと同様懐の風通しが良かったんだろうぜ、
で その後があるのだろうなぁ」
平蔵少々目つきが座った。

「へい 木村様が清水御門お役宅に入られるのを見届けて、
野郎足を返して元の市ヶ谷の方へ」

「ご苦労だったなぁ 彦十遊びも放ぉってよ」

「その通りでさぁ で、野郎の帰ぇったところが馬場下町天神裏の
百姓屋に入ぇっていきやして、暫く張ってたんでござんすがね、
動きもねぇもんで、寂しく帰ぇって来やして、おときの眼を盗んでの」・・・・・・

「燗冷めの盗み飲みと言うわけだな」

「へへへへっ図星!と言うわけで寝過ごしちまっておときにばれちまった」

「ほとほとお前ぇものんきだなぁ彦!」

「其奴の顔は見覚えがねぇんだな」

「へぇ・・・・・」

「まぁ良い お前ぇがそういうのであれば、こいつは忠吾が目的の何かであろうが、
役宅まで従けてきたなら忠吾の正体は知れたと見なければなるまい、
よし本日からお前ぇすまねぇが忠吾の尻にくっついて張ってはくれぬか、
こいつぁ脚代だとっときな」。

「ありがてぇ これで一晩(夜桜へ 巣を架けて待つ女郎蜘蛛ぉ)と、
いいねぇ銕っあん!」

「おいおい 彦十そいつぁ遊び銭ではないんだぜ」

「判っておりやす長谷川様ぁときたもんだ」

「やれやれ」・・・・・
さしもの平蔵も糸が空回りの枯葉である。

それから二日間は何事も無く過ぎ去った。
だが三日目の昼に事件は起こった。

四ツ谷を抜けて市ヶ谷へと市中見回りに出かけた忠吾が
牛込から浄泉寺谷町に歩を進めていた。

牛込に入った頃から、密かに忠吾の後ろを張り付いてゆく男があった。

相模の彦十はその男のずっと後から見え隠れに微行を続けた。

忠吾が、穴八幡前の茶店で茶と団子を一皿食べて、
さて!と腰を上げた時茶店の後陰から男が忠吾に沿うように寄った。

「おめぇさん、ちょいとそこまで面かしてくれねぇかい」

「誰だ!お前達は!」と忠吾

「来りゃぁ判るよ、なぁにちょいとそこまで付き合ってくれりゃいいんだよぉ」
と前後左右を挟むように忠吾を取り囲んだ。

やむなく忠吾は言われるままに男どものあとに従った先は天神裏手の百姓屋。

「おい!おメぇ懐に十手を飲んでいるだろう」

「何ぃ!」忠吾の顔色が変わった。

「おう やっぱりそうかい、おやじさん!やっぱりこいつでさぁ」

声をかけられて家の中から顔をのぞかせた五十過ぎと想われる渋い顔の男が、
忠吾の顔をのぞき込んだ。

「らしい顔だぜ!」
吐き捨てるように男は忠吾の顔を足の先から頭の先まで舐めるように眺め
「奥に放り込んでおけ」と命じて引っ込んだ。

彦十は事の顛末をすぐさま平蔵に伝えた。

「何ぃ 忠吾が拉致されただと!で、場所はどこだ!」

「へぇ 先の市ヶ谷馬場下町の百姓屋ございやした」

「やはりそのようなところであったか、よし、あい判った、小柳はおるか!」

「お頭 お呼びで」同心小柳安五郎が控えた。

「おお 小柳、ご苦労だが市ヶ谷の馬場下町まで行ってはくれぬか」

「ははっ で、ご用向きは」

「うむ そこの天神裏の百姓屋を見張って欲しいのじゃ、
忠吾がどうもそこに囚われておるやも知れぬ」

はぁっ?木村様がでございますか・・・・?」

「うむ どうもそのようであるらしい」

「早速に出張ってまいります」その足で小柳は出て行った。

そのあとを彦十がついていったのは言うまでもない。
昼過ぎにはくだんの百姓屋の横にある穴八幡の塀の内側に小柳の姿があった。

当然、それを彦十も見張るという念の入れようである。
百姓屋は人の気配も感じられず、
小柳は暫く時間をおいて草むらに身を低くしながら百姓屋に近づいてみた。

(物音がない・・・・・木村さんはまだここにいるのだろうか?)
それを確かめようと立ち上がろうとした時表の方で人の声がした。

慌てて身を伏せ、様子を伺っていると貫禄のある面構えの男が
手下風の男を三名ほど従えて家の中に入っていった。
まもなく中からが聞こえてきた。

小柳は日差しを避けて北側に回り込み、家の近くまで忍び寄った。
中からの声も遠目ではあるがよく聞こえる。

「お前ぇさんは盗賊改だよなぁ」

「それがどうした!」木村忠吾の声が小柳安五郎の耳まで聞こえてきた。
(木村さんはまだいきている)小柳はひとまず安心した。

「お前さん名は何と言うんだね」
柔らかいがドスの効いた低い声である。

「名前を聞いてどうするつもりだ!」
忠吾は威圧するように声を荒げた、が

「まぁまぁそんなに強がらなくてもよろしゅうございますよ、
何ね私の店の女郎を火付盗賊改方の斉藤市之輔というお侍ぇが
足抜きさせるってぇ約束を交わしたってえんで、
先夜から店を張っておりやしたらお前ぇさんが網に引っかかったてぇ訳で」

「おい!お前ぇの名前ぇは斉藤市之輔っていうんだろう!」
若いが気の荒そうな男の声がした。

「馬鹿な!俺はそのような名前ではない!」

「じゃぁ何という名前ぇなんだぁ!甘く見るんじゃぁねぇぜ、
こう見えても背中に一つや二つの名前ぇは背負っているんだ、
そんな甘っちょろい返答に、ハイ左様でございますかと
首縦に振るほど軟かぁねえんだ」と脅しともとれる語気の粗さに、

「まぁまぁ 待ちな!ねぇお侍れぇさん、
取って食おうってぇ話じゃねぇんでござんすよ、
本当のお名前を聞かせて下さりゃァそれで良うございますよ」
と丁寧だが威圧のある声である。

「俺は木村忠吾、火付盗賊改方同心だ!」

「ほれ!やっぱり火盗じゃぁございやせんか」

「お前様!嘘はよろしくございませんよ」
おやじさんと呼ばれた男が忠吾をじっと見据える。
その気迫は忠吾を圧倒するものであった。

しかし忠吾とて盗賊改めの同心、けどられまいと腹をくくり
「どうして俺が嘘をつく必要がある、俺はこの界隈が見回り区域、
確かめたければ近くの番屋の誰かに確かめればよかろう、
何なら俺の腰の印籠でも持ってゆけ、それで判るはずだ」
憮然とした顔で忠吾が噛み付いた。

「それもそうだ、よしではお腰しの物をお預かりして番屋で確かめてこい」
それから小半時あまりの時間が流れた。

慌ただしい足音がして、先ほど出かけて行った男が戻ってきた。

「おやじさん 間違いございやせん、番屋の親父にこの印籠を見せやしたら間違いなく
(こりゃぁ木村の旦那のものだ、どこで拾いなすった)と答えやぁがった。

「ぬぅ こいつは大しくじりだ、すみません木村様、
どうもこいつ共が木村様と斉藤市之輔を間違えたようで、
誠に持って申し訳もござりません、早く木村様の縄をほどかねぇか」

「それ見ろ、おいこの始末はどうつけてくれるつもりだ!えっ!!」
忠吾は烈火のごとく怒りを爆発させた。

仮にも軽輩とはいえ御家人の末裔である、
このようなときは逆らえない身分の違いと言うものがある。

「誠に誠に申し訳ございません、お前ェらも木村様に謝らねぇかバカ野郎どもが!」

「となると(おせん)が嘘をついたことになるなぁ、
早速帰っておせんを確かめねばなるまい
木村様、こう言っちゃぁなんでございますが、
この度の一件何卒水に流していただけないものでございましょうか?」
と切り出した。

「何をほざくか!俺を誰だと想って口を利いておるのだ、
痩せても枯れても火付盗賊改方同心木村忠吾であるぞ、
そうやすやすと水に流せると思うか、お上に対する愚弄、愚弄であり
、おれの立場もある、それをだなぁ・・・・・」

「おっと そのことでございますが・・・・」
山城屋吉兵衛、忠吾の耳元に何やらぼそぼそ・・・・・

次第に険しい忠吾の顔が緩んできた、無論外にいる小柳安五郎には見えない。

「よし、判った!この度はそれで矛を収めようではないかなぁ吉兵衛ははははは」

「そうとなればひとまず店に戻っておせんを詮議しなければなりませんので、
ここはひとまずお先ということで・・・・・」
と若いものを連れて山城屋吉兵衛が出て行った。

小柳安五郎はその後をつけ、それを彦十が微行して、また元の振り出しまで戻ってきた。
忠吾は何故かうきうきとした様子でそのまま市中見廻りに入った。

ひとまず市ヶ谷柳町に返った山城屋吉兵衛は、その足で女郎のおせんを呼びつけた。

「おせん、お前ぇの約束したってぇ盗賊改めの斉藤市之輔ってぇお侍は居ねぇぜ」

「えっ だって確かに火付盗賊改方の斉藤市之輔と言う人です。
十五日の夜に見回る時を狙って逃してやるって」

「十五日だぁ、今日じゃァねぇか、
よし今からそのつもりでお前ぇらぬかるんじゃぁねえぞ!いいな!!」
吉兵衛は子分どもにそう命じ

「ところでなぁおせん、お前ぇどうしてそんなことを漏らしたんだ、
仮にもお前ぇをここから出してやろうというお方をよ」

「だって旦那ぁ あたしゃぁあのお侍は好みじゃぁござんせんので、
それにもう一年もすれば年季も明けるのに、
何を今更無理して抜けることもありゃぁしませんよ」

「たしかにそうだ、だがなその斉藤とやら言う侍ぇは本気なんだろう?」

「旦那ぁ女郎の話を 真に受けるバカが居るもんですか」

「まぁいい 今夜までに判ることだ、馬鹿な気を起こさねぇようにするこったなぁ」
吉兵衛はそう言い残して出て行った。

このやりとりは小柳も彦十知らないところで終わった。
何も展開はなく、忠吾もあのまま見回りに戻ったことだし、
一応報告にと小柳安五郎は役宅に戻った。

小柳の報告を聞いた平蔵
「ううむ 妙な話だなぁその何とか申したな山城屋であったな、
そいつと忠吾の関係が今ひとつ読めぬ、それに忠吾もそのまま見回りに出かけたとは、
どうしても俺には解らぬ、あの忠吾だぜ小柳!」

「ははっ しかし私の知るかぎりでは中の様子や声から致しましても、
何やら話の決着があった模様で、木村様はその後、
何事もなかったようにウキウキと・・・・・」

「そいつよ、そいつがどうも解せぬ・・・・・」

そこへ木村忠吾が見回りから戻ってきたと報告が上がった。

「忠吾を呼べ!」

「おかしら 木村忠吾只今戻りました」

「おお 忠吾ご苦労であった、で なにか変わったことはなかったかな?」

「はっ? いえ 別に何事もなく市中見廻り相済みましてございます」

「なんとな? 何事もなかったと?」

「はぁ 別に取り立てて・・・・・・はて、何か?」

「ふーむ どうも俺の聞きちがいかのう、のう小柳」

「はぁ 左様でござりますなぁ」

「あれ 小柳さんまで・・・・・なにかございましたので?」

「おい 忠吾!お前ぇ市ヶ谷の馬場下町まで何を致しに参った!」

「ええっっ!!何故そのようなことを・・・・・」
忠吾目玉をまんまるにむいて驚きを隠せない。

「だからよぉ 何の為に出向いたかと聞いておる、
吉兵衛とはいかなる話が纏まった」
平蔵は少々苦虫を噛み潰す面持ちで忠吾の返事を促した。

「げっ!」忠吾は腰をストンと落として後ろにひっくり返った。

「おおおお おかしら それはそのぉ・・・・・・」

「おお何と致した!うさぎ!」

「ははっ!!申し訳もござりませぬ」

「何が申し訳ないか申してみよ、わしが直々判断いたしてつかわす!」

「ははっっ!!この度は誠に持って申し訳なく」

「おう 何が申し訳ないか申してみよ!」

「へへっっ!!どうかお許しを!!」
忠吾この場に居場所のないことをやっと悟った風である。

その時酒井祐助が
「お頭にお会いしたいと申しまして、
市ケ谷柳町の山城屋吉兵衛と申すものがまかり越し、参っております」
と引き継いできた。

「げっ!」忠吾はその名前を聞いてブルブル震えだした。

「おい うさぎ、何をお前ぇはそのように、どうした にわか痛風にぁ少し早ぇぜ、
それとも何か?風邪でも引いたのか?」
平蔵ニヤニヤ笑いながら

「おう お通ししろ」と応えた。

「長谷川様、市ヶ谷柳町にて商いを致しております山城屋吉兵衛でございます」

「うんっ 吉兵衛とやら何と致した」

「はい すでに木村様よりお聞き及びとは存じますが、
この度は盗賊改めの木村様に手前どもがとんでもない間違いを致しまして、
こうして山城屋吉兵衛改めて詫びに惨状いたしました」

「ほー 何のことやら、のう忠吾!」

「ははっ!ご報告が遅れ誠に申し訳もござりませぬ、実は・・・・・」

「うん? 実は?」

「ははっ そのぉ実は・・・・・」

「早う申してみよ忠吾!」

「あっ これわぁ・・・・まだご報告が済まれておりませなんだようで、
これは失態を、長谷川様、大変ご無礼を申し上げました」

「いや 構わぬ、ところで山城屋、いかようなる話かな?」

「はい 実は私どもの女を足抜けさせるというお方がございまして、
その御方は火付盗賊改方斉藤市之輔様と申されまして・・・」

「左様か、だがなぁ山城屋、盗賊改方にはそのような者は在籍いたしておらぬ」

「はい 先ほど手前どもの店に姿を現しましたるところを吟味いたしましたらば、
それはすでに判明いたしました」

「で その者は盗賊改めの名を騙ったのであろう」

「誠に左様でござりました、なんでもよくあの界隈を廻られます火付盗賊のお方の名を使い、
女の気を引こうといたしましたそうでございます」

「犯人は判明いたしたのだな!」

「はい そのまま番屋に連れて行き奉行所の方にお届けいたしました」

「おう それはご苦労、で他に何か御用かな?」

「はっ?」

「おいおい山城屋、片付いたのならそれで良いではないか、
これも我らが御役目の、やんごとなきものとでも申すか、
まぁ左様なものよ気するでない、用がそれだけなら下がっても良いぞ」

「ありがとうございました、これは誠にお恥ずかしいのではございますが、
ほんのお詫びの気持ちで・・・・」

「んっ まんじゅうならばおいてゆけ、
それ以外は受け取るわけには参らぬ黙って持ち帰れ!」

「長谷川様、それではあんまり・・・・・」

「あんまりどうした? 良いではないか、
我らとてお前達に何かと面倒をかけることもある、
お互い助けおうてこそ町の治安も守られるってっぇもんだよ、
なぁ忠吾!特に出会い茶屋などは」あははははは。
「山城屋!どのような取引があったかは知らぬが、
此奴との取引はなかったものと心得よ、よいな!」

「ははっ!!それでは何のお咎めもなく・・・・・ありがとうございます」

「うん ご苦労であった」

「ところで忠吾、何か報告はないかのぅ、おうそうであった
、明日よりお前ぇの見回りを小柳と替わって日本橋界隈といたす、しかと心得よ」

「おかしらぁ、とほほほほ・・・・・」
と まぁこのような事件であった。

したがって本日は本所菊川町の役宅からの出立であった。
供も従えず、相変わらずの気ままな見まわりであった・・・・・はずだが
両国橋を渡り広小路から郡代屋敷を左に見ながら、
ユラユラと懐手に網代笠を被って歩を進めていた。

右手には神田川を挟んで浅草の町家遠くに広がっている。
まもなく新橋にかかろうとした時

「危ねぇ暴れ馬だ!」と後ろから声が飛んできた。
それと同時にすさまじい勢いで荷を掛けたままの馬が平蔵の脇をかすめるように駆け去った。
かろうじて身をかわせた平蔵であったが、

「子供がやられた!」と後ろのほうで大声がした。

振り返ってみると大勢の人だかりができている。
平蔵は駆け寄ってその子供を抱き起こそうとしたが、
すでに意識はなくぐったりとしていた。

「誰か! おう そこの大八車を起こせ!医者はこの近くにおらぬか!?」
医者を呼んでいては手遅れになると判断してのことである。

近隣の物が慌てて大八車を起こして持って来た。

「医者はこの近くに居らぬか!」再び大声を発した。

「玄伯先生がおられるぜ!」どこからか声が聞こえた。

「そこは遠いぃか!」平蔵は子供を両腕に抱え上げて声を飛ばした。

「天真楼の先生なら近うござんす」と再び返事が戻ってきた。

「すまぬがわしをその大八車に乗せて運んでくれぬか、急がねばこの子が危うい!」
平蔵の語気に商家の中から若い者が飛び出してきて

「お引き受けいたします」と荷車を走らせた。

小半時の時間は平蔵にとって気の遠くなるほどにさえ感じられた。

「先生!大変だぁ子供が馬に蹴られて危ねぇ」
と、さきがけの若衆が飛び込んで知らせる。

バラバラと駆け寄って戸が開かれたあいだを平蔵、両腕に抱えたまま駆け込む。

「ひとまずそこへ置きなさい」
品の良い老人が白衣をかぶりながら出てきた。

手伝いの者が同じく白衣を着けて2本の天秤棒に張り渡した布の
戸板のような物を持ち出してきた。
素早く子供はそこに移され奥に運び込まれた。

「衣服を取り患部を清拭しなさい」
手短ではあるが的確に指示を出し、
また受ける方も心得たもので乱れ一つなく事が進んでゆく。

「むぅ これはひどい・・・・・・内蔵が危ういかも知れぬ、
おそらく肋骨は幾本か折れているであろう、
それにしてもよくこのままで運んで来れたものよのう、
これはお手前が運ばれて参られたか?」と平蔵を見やる。

「左様、医者を呼んでおっては間に合わぬと判断致し、
少しでも身体に余分な動きを与えぬために、身共が抱えて荷車にて運び申した」
と経緯(いきさつ)を説明した。

その間にも医師の手は休むことなく動き、手当の方策を試みているようであった。
熱い湯が運ばれ、身体はすでに清拭され、洗いざらしの浴衣に替えられていた。

「お手前の判断が的確であったためにこの子は助かりそうじゃ、
後は引き受けましたによって しばしあちらにてお待ち願えませぬかな?」
と平蔵を隣室に促した。

「よろしくお頼み申す」
平蔵はこの医者の指示が子供の命を助けてくれると確信したのか促される隣室に移った。
そこには多くの病人が詰めかけていた。
そのほとんどが怪我人のようであった。

「お武家様この玄白先生ならもう安心ですぜ、
何しろ蘭方医で瘍医(外科)の名人だから任せておきなってぇもんで、
こいつらも皆先生のお陰でこうしておれやすから、
こいつは3日前ぇに足場を踏み外して落ちやして
、足一本失くしちまうところを先生のお陰で何とか付いたまま・・・・・へへへ、
あっしは母ぁといつもの、ほれ (犬もくわねぇ)と やじが飛んできた。

そいつよ、そいつで母ぁが釜の蓋をブン投げやがって、お陰で頭が切れちまった。
先生は、(その御蔭でちったぁ悪血が流れてお前もおとなしくなるだろう)って・・・・・
そりゃぁねぇよなぁ、へへへへっ」

誰かが合いの手を入れて
「違ぇねぇ」これには居合わせた者一同大笑いに、平蔵も思わず苦笑した。

これが庶民という絆なんだなぁ、人の上下や垣根を超えて同じ気持ちが通じ合う、
人情とはこうも清々しい物なのかと荒みきっている昨今の気持ちが和らぐ思いだった。

「お武家様先生がお呼びで御座います」
と助手(すけて)の娘が平蔵を呼びに来た。

「おお 先程は・・・・・お陰でこの子は助かり申した、
後少し時が遅ければおそらくあの子の生命は危ういところでござった、
誠にかたじけない、ご貴殿の判断があの子の命を救うたのでござる」と玄白は頭を下げた。

「かたじけのうござった!しかしあちらで町衆の話を伺いましたが、
中々の名医でおられるそうで、その自慢話で時のすぎるのを忘れており申した」
平蔵はこの玄伯と呼ばれる蘭方医を驚きの目で見た。

そう言いつつふと壁にはられた絵図面が目に入った。

「おやこれは?」

「おお それは人体を腑分けした絵図でござります」と玄白が説明する。

「何と!腑分けと申さば、もしや山田浅右衛門殿をご承知ではあるまいか?」
平蔵は以前山田浅右衛門から千寿骨ケ原の斬首実見の話を聞いていた。

「またこれは!山田浅右衛門どのをご存知とは・・・・・いやはや!」
と玄白も驚いた様子である。

「申し遅れもうした、拙者長谷川平蔵ともうしまする、
火付盗賊改方を預かり致しおり、山田浅右衛門どのともご縁がござって」

「いやいやこちらこそ失礼を致しました、私は杉田玄白と申します。
もう二十年ほどになりましょうか山田どのには千寿骨ケ原にて斬首のおり、
身体実見をさせていただき、
そののち盟友と共にその三年後に腑分けの草本(解体新書)を刊行いたしました」

「いやぁ世間は狭いと申しまするが、まさかかようなところで
その御大家杉田玄白先生にお目もじ叶うとはこの長谷川平蔵恐悦至極に存じまする」
と礼を尽くした。

「いやいや これは長谷川殿お手を上げてくだされ、
私もこのような事で今をときめく火付盗賊改方の長谷川様に
お会いできて驚いておりまする、今後共よしなにお願い致します」
と平蔵の手をとって目を見た。

清水御門前役宅に辿り着いた平蔵、この日の出来事を佐嶋忠介に聞かせた。

「や 何な 以前山田浅右衛門どのと会うた折、小塚っ原で時折斬首の刑を行うが、
二十年ほど昔、お上のお声がかりにて腑分けを実見された人物があったと聞き及んでおった、
そのご本人に偶然にもお目もじが叶ぅたと言うわけだよ、こいつぁさすがの俺も驚いた、
それにしても世間は広い、あのような名医が下野でお過ごしとは・・・・・・」

平蔵は人の生き方が何であるか、その価値観を改めて考えさされていた。

「殿様、夕餉の支度が整いました」と妻女の久栄が膳を運んできた。

「うんっ こいつぁ何だ?」

「はい なんでも伊予の鴨鍋とか・・・・・」

そこへ同心の村松忠之進が酒肴を持ってやってきた。

「猫どの、今宵はまた伊予の鴨鍋とか・・・・・・
さてはまた一捻りあるのであろうのぅ」と誘い水を向けたつもりが、

「はい それはもう・・・以前おかしらが岸井様に伴われてのお出かけにて、
誠に鴨団子鍋が美味かったと申されましたそうで、忠吾より聞き呼び用意いたしました」

「おいおいちょいとそのなんだ 
言葉の端に小魚の小骨を忍ばせておるような物言いが気になるぜ」
と平蔵頭を掻き掻き村松のふくれっ面を見やった。

「どうせ私の作りし物は、料理屋には劣りまする、
しかし、日々おかしらのお体を案じつつ塩梅いたしております、
それなのに(いやぁどこそこの何やらがまた旨かった)などと聞かされましては、
この村松の立場という物が立ち行きいたしませぬ」と、かなりのおかんむり。

「あいや 猫どの、わしはそのようなつもりで申したのではないぞ」
弁解する平蔵を流し目に睨みながら

「ではいかようなるお気持ちで申されましたので」と絡んでくる。

(あのおしゃべり忠吾め、ここで猫どのの機嫌を損ねたらば
この後の飯がどうなることやら、やれやれ)と、平蔵内心穏やかではない。

「のう 猫どの、そちの腕は天下一品、格別じゃと言うことじゃぁ、
なっ!したがって比ぶる物なし、どこぞの何かが旨いというても、
こいつぁまたそれ別の世間のことでな!そのように難しい顔をいたすな、なっなっ!」
グツグツ煮立つ鍋を前に平蔵箸を持ったまま手を付けかねている。

「まぁそりゃぁおかしらがそこまで申されますならばこの村松一切の不服はござりませぬ、
本日の鴨団子鍋は四国は伊予の名物にて、少々美食に飽きたる通人が工夫いたしたるものとか・・・・・」
やっとご機嫌も治り、矛を収めての講釈が始まった。

(やれやれ)平蔵は胸を撫で下ろして目の前の鴨団子鍋に箸を伸ばした。

「アッ それでござります」と村松の注釈が伸ばした箸の間に挟まって平蔵の手を止めた。

「おいおい 猫どのまだ食ってはならぬのかえ?」平蔵もはや口元から・・・・・・

「この鴨団子、実はコノシロを用いるところがミソでござります」

「何とコノシロかえ?」平蔵、少々驚いている。

「はい 伊予ではコノシロが誠によく獲れまする、
そこで松山藩ではコノシロを三枚におろし、縦に千切りに致し、
これを更に細かく包丁にて刻み潰します。
これによりて小骨も砕け、口当たりも良くなります」

「ウンウン それで?」早く食したいものだから平蔵ヨイショを決め込む。

「さればでござります、この中に味噌・酒・醤油を混ぜあわせ、
それに卵と小麦粉を加えて更に混ぜ合わせ、
これに玉ねぎ少々をみじん切りに致しましたるものを混ぜ込み団子を作ります」

「ウンウンなるほどさすが美味そうじゃそれで?」と言いつつもうたまらんと箸を伸ばす。

「いえいえまだまだでござります」と村松、中々箸つけを許してくれそうにない。

「う~ん」平蔵はしびれを切らしてしかめ面

「そこで油を煮立てて、その中に少量づつ落としこんで揚げます。
揚げ上がりましたるものを昆布と鰹の出汁に酒・みりん・醤油で作り、
好みの野菜に長ネギ人参などを煮込み、煮立ったところで
ここにコノシロ団子を入れて頂きます」

その言葉の終わるか終わらないかに、平蔵の箸はすでにコノシロ団子を挟んでいた。

「あっ!」村松の声が挟まったが、もう平蔵聞こえませぬとばかり口に運ぶ。

「旨い!!旨い!旨いぞ猫どの!こいつぁ絶品じゃなぁ」と大満足の様子に村松

「実はおかしら、これにショウガ団子が入らば・・・・・」

「何ぃ!ショウガ団子だぁ、構わぬ!この次に致せこの次になぁへへへへへ!
嗚呼旨ぇ旨ぇ。

おい久栄!そなたも早ぅ頂かぬか!佐嶋そなたもつつかぬか!
これは体の芯から温こぅなるぜ」

平蔵大満足の様子に村松忠之進ほくほく顔でこのおかしらの満ち足りた様子を眺めている。
数日後平蔵は過日の子供のことが気になり、濱町の杉田玄白の屋敷を尋ねた。

「おお これは長谷川殿過日は大変お世話になりました、
お陰であの子は大事に至らず、手術も無事終え、今は養生を致しております」
と玄白が出迎えた。

「いや 先生には誠にお骨折り頂戴致し、一つの生命が救われ申しました、
かたじけのう御ざります」と述べた。

「しかしこの絵図はよく描けておりますなぁ」
と平蔵珍しいものを見るのも好きなものだから何にでも好奇心を持つ。

「おう それは橋本町にお住まいの平賀源内先生のお手作りにございますよ」

「平賀源内先生でござりますか?」あまり聞きなれない名前に、

「長谷川様はうなぎはお召し上がりになられませぬかな?」と玄白が問いかけた。

「いやぁ 大好物でござりますが、それが何か?」と応えを待つ。

「うなぎはいつお食べになられます?」

「左様 やはり土用でござりましょうか?」

すると玄伯、「それはまたいかようなるわけでござる?」と 問い返してきた。

「はぁまぁ世間ではうなぎは土用に限るとか申しますによって」と少々返事の語気が怪しい。

玄白は「わははは」と腹を抱えて
「それよそれ、その(土用はうなぎに限る)と 
申されたのがその平賀源内先生でござりますよ」とまたしても腹を抱えて大笑い。

「何と!」平蔵も呆れて口が開いたまま。

「うむ 実はでござる この江戸ではうなぎが獲れすぎる、
だが中々他にも旨い魚が多く捕れるのでうなぎ屋が困って
源内先生に相談したと言うわけでござるよ、
すると源内先生うなぎ屋の看板に(本日土用丑の日)と書かれたそうじゃ、
ご存知のように丑の日はウの字の付くものを食すると言われておりますから、
夏場にうなぎは食しませなんだゆえ、うなぎが大当たりであははははは」
愉快そうに大声で笑った。

呆れた平蔵「何とまたかような裏話があったとは、いやぁ恐れ入りもうした」と 兜を脱いだ。

「して、その源内先生とやらは今も橋本町にお住いで・・・・・」

「さよう 元々は木草学者でござりましたが、
地学・蘭学・医学から浄瑠璃台本に俳句から蘭画までたしなまれ、
まさに博学の権化のようなお方、私も知古を戴きました頃に
木草学者の田村藍水先生にご紹介を戴き、腑分けの絵図を引き受けて頂きもうした、
この源内先生エレキテルとか申す奇譚な物をお持ちのようで、
なんでも長崎で入手いたしたる和蘭陀(オランダ)製のエレキテルなるものを工夫されたとか、
いや中々面白きお方でござりますよ」
玄伯は平蔵の好奇心に油を注ぐような口ぶりで口元を緩める。

「エレキテルで御ざりますか、いやぁ 会ぅてみたいものでござりますなぁ」
平蔵も半ば本気でそう想った。

「ところで杉田先生、身共はお役目柄人をやむなく手に掛けることも多ぅござります、
出来うれば左様に致したくはござらぬが、やむをえぬ場合
身体の何処を断つのがよろしゅうござりましょうや」平蔵は日頃の悩みを玄伯に尋ねた。

「長谷川殿、人に不要のものも所もござりませぬ、が 
しいて申さば両腕があれば何とか生きる手立ては残されますが、
片手を失えば日常の暮らしも難しゅうござる。

願わくば片脚程度で済みますれば、暮らす手立ても皆無ではござりますまい、
だがしかし、辛いお役目でござりますなぁ」
玄伯は平蔵の苦しい心中を察すると続く言葉を見つけきれない様子である。

「少しでも厚生の光が見えれば、これを何とか活かしてやりたいと願ぅております、
身体は救えても心を救うことが難しゅうござります」

「長谷川殿はまこと仏の平蔵様でござりますな、
町方のものは仏の平蔵様と左様に呼んでおると聞き及びます」

この日の玄伯の言葉は平蔵の心の中に深くとどまってゆく。

夜叉を滅じて仏を為す、そのためにはおのが心の中の夜叉を目覚めさせ、
非情にならねば叶わぬ、罪を憎んで人を憎まず、
咎人を生み出す仕組みそのものがすでに夜叉、
佛と夜叉の彼岸を見つけることの難しさを噛みしめる平蔵であった。

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10月第4号 火の女夜叉姫




ここは根岸の一角にある旗本屋敷別宅
住人は六十前後の夫婦、それにお側御用警護の侍。

主は十五歳を迎えたばかりのにょしょうである。

老人夫婦は身の回りの世話が仕事と想われ、
主が生まれた時からの従者である。

この姫、正室に長らく子がなく、
商家より上がっていた奥女中にお手がついたいわば妾腹
だが、その後すぐに正室に子が生まれ、
これが男であったために正室の企みで側室とともに
根岸の別邸に移され時を過ごした。

根岸に隠匿され、その後の心労からお満は
玉姫が十二歳になる頃病に臥せってしまい玉姫との接触も限られてしまった。

とり残された玉姫はやり場のない思いをぶつける場所を求め荒れ放題であった。
それでもなお正室への当て付けもあったろうが、お満のしつけは厳しかった。

おなごの学ぶべきものはすべて修めさせ、
その上に政に関する政策などの基礎的な勉強を強いた、
これがせめてものお満の抵抗であったと想われる。

だが、それを受けるのは十歳にも満たない童女である、
その重圧は比べるものもないほどであったと推察される。

正室の妬みとそしりを一身に浴び、
屈辱の中で生きてゆかねばならなかったお満のはけ口は
すべてこの童女の養育に向けられた。

外部との交わりは一切遮断され、英才教育はその極限に達し、
泣くことを許されず、涙は恥と教えこまれ、
子供らしい遊びなど無用の物、
目が覚めれば茶道から華道に始まり文武両道とはよく言ったもので
その両方を幼子は血のにじむ思いで受けながら日々を過ごしていた。

日々刻限通りに入れ替わる教師の話も、
教育以外は皆無で外気に触れることはなかった。

息の抜く暇も与えられず、母親の怨念を一身に浴び火のように
激しい性格をそのまま夜叉のように育っていったのは無理からぬ話しであろう。

周りの者も出入りの者もこの苦海を知るだけに、
逆らえることも出来ず姫の傍若無人な振る舞いは
しかたのないことと諦めていた。

側室の子と言う立場上、いついかなる時に命を狙われるやも知れない、
この思いが母親お満は骨身にしみて感じていただけに、
玉姫には薙刀よりもより実践的な小太刀を習得させた。

主な稽古相手は御側御用人の高山朔太郎であった。

この高山朔太郎、長谷川平蔵と同じ高杉銀平門下で、
平蔵よりも五才年下である。

高杉道場の門弟だけに、その厳しさはまた格別であった。

「ひい様は他のお子とは違いまする、
甘えなぞという物はひい様に限っては御ざりませぬ」
と遠慮会釈なく打ち据え、
骨の髄まで身を守ることの重要性を肌で感じさせていた。

玉姫が十五歳を迎えたある時、何を間違えたのか
玉姫の寝所にミミズクが迷いこんできた。

おそらくは虫を追いかけて迷い混んできたと想われる。

明かりの中にその姿を認めるや傍にあった乗馬用のムチで叩き伏せてしまった。

騒ぎを聞きつけて飛んできた御側御用人の高山朔太郎が見たものは、
廊下の真ん中に羽根を折られて瀕死の小さなミミズクの子供であった。

「わらわの寝所に飛び込むとは警護に油断がある!」
といきなり高山朔太郎の背を持っていたムチで激しく打ち据えた。

朔太郎がミミズクを両手に包み懐に忍ばせようとしたのを見て、
「わらわに害を与えようとしたものをおまえはかばいだてするのか」
と再び激しく朔太郎を鞭打った。

このような事は日常茶飯事の出来事で、出来るなら姫様に目のつかないように・・・・・
と言うのが老夫婦を始め出入りの商人の思いでもあった。

それがまた空気で伝わるから厄介なのである。

それだけに、この度の朔太郎の行動に玉姫は怒りを爆発させたのである。
その数日後、日課の早駆けに出かける馬の支度が遅いと五助をムチで打ち据えた。

昨夜より五助は熱を出してほとんど身動きできない状態であったことを
朔太郎は聞かされていた。

あらがえないままその場に崩れる五助を更に打ち据えようと
玉姫がムチを振り上げた時、供をする予定の朔太郎が
その場に通りがかりにその光景を見て割って入り、
玉姫のムチを取り上げ逆に玉姫の背を打ち据えた。

「なにをする!」
烈火のごとく玉姫は朔太郎を見据え
「わらわに刃向かうとは気でも狂うたか朔太郎!」
と初めて味わう屈辱で火の玉のようにこみ上げる
怒りの吐出口を定めることも出来ずブルブルと身震いして顔面蒼白となった。

朔太郎はその場に座し、両肌を脱ぎ
「御覧ください、この背の傷はすべて姫様より頂きましたる夜叉の爪あと」
そこには数えきれないほどの打ち傷が無残に刻まれていた。

「人の心の中にはいつも夜叉が巣食っております、
荒ぶれた火の神と言われますスサノウも若き頃は手の付けられぬ暴れ者であったとか、
しかしこの神様 人間が生きる上で大切な物の煮炊きや
タタラを吹いて百姓の用いるスキや鎌などを作るには欠かせぬもの、
ですから人々は今も神としてあがめ親しみております。

心も要はその使いようで夜叉にも仏にもなります、
傷はあれども衣服をまとえば、このように心によりて包み込めるもの、
それを人に見せるものでもござりませぬ。

人の心の内は誰にも見せぬもの、それが武家の生まれともうす因果でござります」
この朔太郎の言葉と背中に刻まれた我が身勝手の傷は
玉姫の心を跡形もなく打ち壊してしまった。

その場を逃げるように玉姫は馬に飛び乗り荒野に駆け出していった。

身仕舞いを済ませた朔太郎がすぐ後を追ったが
何処に行ったのか姿を見ることは出来なかった。
その夕刻、馬のいななきがあり玉姫が戻ってきた。

そのまま自分の部屋に籠もり、夕餉にも手を付けず五助夫婦は気に病んでいた。
「姫さま 朔太郎で御ざります、よろしゅうございますか・・・・・」
返事はなかった。

朔太郎はそのまま返事のあるのをじっと待った。
やがてなかから、小声で「何用か!」と声が返ってきた。

「姫様にお見せいたしたき物がござります」
と朔太郎は返事をする。

「何じゃそれは」

「ご覧になればきっと姫様のお心が晴れましょう」
と言葉を続けた。

「苦しゅうない・・・・・・」

「ははっ!」
朔太郎は静かに玉姫の部屋を仕切るふすまへ静かに手をかけ、
左右に押し開き低頭した。

「何じゃその見せたいものとは・・・・・」

少し期待の掛かったような言葉に朔太郎
「過日姫様の夜叉を受けましたるミミズクでござります」
と応えて身を起こし、懐からミミズクを取り出した。

その場の空気が読み取れるのかミミズクは少し怯えながら
朔太郎の掌の上に収まっていた。

「そなたが手当を致したのか?」
と玉姫は驚いたふうに朔太郎を見た。

「はい 命の重さは獣も人も変わりませぬ、
いずれもその時を懸命に命かけて生きております」
と応えた。

「触っても良いか?」
と恐る恐る手を伸ばし、その小刻みに震えているミミズクの羽毛に触れた。

「あたたかい・・・・・・・このように温かいものだと初めて知った・・・・・・」

この事件があって暫くの後、病弱であった正室の子はあっけなく他界、
そのために後継ぎを失った上屋敷から根岸の玉姫のもとに呼び出しがあった。

まもなく元服して将軍様お目見と言うところまで来ていただけに
当家の主の落胆は想像以上であったろう。

加えて、これまで我が世の天下であった正室の権威は失墜する憂き目となるは必定、
側近共のうろたえぶりは目にも哀れなほどで、
迎えられる玉姫に媚を売らんと画策するものも久しからず。

屋敷内でも暗躍しうごめくものが眼を覆わんばかりであった。

返り咲いた姫の権勢を恐れた正室は姫に影響を及ぼしていると
想われる高山朔太郎を取り込もうとするがその画策はあっさりとかわされ、
ついに高山朔太郎の暗殺計画が持ち上がってしまった。

ここに御家騒動が勃発したのである。

正室は下屋敷に移され、替わって側室のお満の方は上屋敷に迎えられた。
数日後高杉道場の先輩であった岸井左馬之助の元へ高山朔太郎から書状が届いた。

「ご相談いたしたき儀これあり、何卒心中お察しいただきたく・・・・」

朔太郎指定の料理屋に出向いた岸井左馬之助、
最近は平蔵に似て料理の方にも少々興味を持つようになっていた。

「遅れて申し訳もござりませぬ」
と久しぶりの対面であった。

「逞しゅうなったのう朔太郎!あの頃はまだ前髪姿であった」

「そう申されます岸井様も私なぞ、そばにも近寄れぬほど輝いておられました」

「と 言うことは、今はもう・・・・・・・」

「あっ これはとんだことを、失礼いたしました」

「あははは ちょいとからこうただけよ、案ずるには及ばねぇよ」
と左馬之助

「ところで話してぇことってのは何だ?」

朔太郎はこれまでの経緯をかいつまんで話し、左馬之助に助成を願ったのである。
聞けばいきなり大所帯の中に放り込まれて戸惑いもあり
、また姫様おそば御用が一人では持ちきれないこと、
さらに敵対する者の気配もあり、気を許す者の皆無な状態で
苦慮していることを包み隠さず話した。

「う~む おれも気楽な暮らしに慣れてしもうて今更仕官は難しい、いやさはっきり言えばしたくもねぇというところさ」

「やはり左様でございますか・・・・・
さすがに姫様のお命までは狙ってはおりませぬが、
何とか我が権勢を得ようと、うごめくやからが多く、難渋いたしております」

「まぁお屋敷内でそのような振る舞いには出まいと想うが、
問題はお前が屋敷を出た時だなぁ、わしでもそこを狙って仕掛ける、うむ・・・・・」
左馬之助腕組みをしながら目を閉じて思いを巡らせる、そこへ料理が運ばれてきた。

「おっ こいつはまた何だぁ!」
ぐつぐつと煮立っている鍋を見て左馬之助が目を見張る。

「へぇ 鴨の肉団子鍋でございます」
と運んできた中居が説明する。

「鴨かい?わしは初めて口にするものだが、こいつは美味そうだ!
おい朔太郎、お前いつもこのようなものを食しておるのか?」

「とんでもござりませぬ、いつもは一汁三菜、それが普通でござります」

「そうであろうなぁ、このような贅沢を毎日致しておらば、
身が鈍ってしまうであろうなぁ」
と、言いながらもせっせと箸を動かしている。

「この鴨の団子鍋はツミレとも申しますそうで、
骨付きの鴨肉を包丁でたたき、
山椒を入れてとろとろになるまでたたき続けるのが大事だそうでござます。

出汁は昆布に酒、みりん、醤油を合わせてひと煮たてさせ、
アクを取りながらよくなじませる。

煮立ったらここに鴨団子を入れてセリや赤ネギを加えて味を広げるそうにございます」

「いやぁ 旨い旨い」
左馬之助は脇目もふらずという少々意地汚い場面である。

「ところで朔太郎先ほどの話だが、わしは仕官は考えておらぬ、
そこでお前さんが屋敷の外に出た折はわしが警護を引き受けよう、どうだな?」

「お引き受けくださりますか!かたじけない、何より心丈夫と申すもの」
朔太郎は瞳を輝かせて左馬之助を伏し拝んだ。

「おいおいやめろ 俺はまだくたばってはおらぬ、わははははは」

その翌日、本所菊川町の平蔵役宅を岸井左馬之助が訪ねてきた。

「おう 左馬!達者がなにより、で いかが致したその顔つき?」

「さすが平さん!お察しの通りよ、
なぁ平さんお前さん高山朔太郎を覚えていなさるかい?」

「高山朔太郎・・・・・おう!たしか録之助と同輩であったが、
あまり話をいたしたことはないのう」

「そうであろうよ、お前さんはまだ本所の銕で暴れまわっておった頃だからなぁ」

「そのような事もあったかのうあははっははは」

「おいおい そのようなとはまた他人の話のように聞こえるではないか、のう奥方どの」

「まぁ岸井様、私はその頃の殿様なぞ存じませぬ・・・・・」

「おっと奥方さまの前でこいつは禁句でござったなぁ」
左馬之助は頭をポリポリ掻いてはぐらかす。

平蔵の妻女久栄が平蔵の無頼時代の話を嫌がるのをすっかり忘れていたのである。

「で、何だその高山朔太郎の話は」

「うむ それだがな どうやらお家騒動の後がごたごたしておるようで、
わし仕官を致さぬかとこういうことだ」

「お前ぇまさか致しますと返事をしたのではあるまい?」

「さすが平さんお見通しかい、その通りよ、だが奴の窮状も判らんではない、
そこでまぁ手が不足する屋敷外での警護を引き受けようと思うのだが・・・・・・」

「おう それはよい!お前ぇも少しは懐が肥えようというもの・・・・・・」

「いやこいつは参ったわははははは、全くその通り、
さすればかように酒を目当てに役宅に出向く必要もなくなるという物よ」
どこまでもくったくのない左馬之助である。

高山朔太郎の務める上屋敷でも異変が起こっていた。
玉姫はさらなる姫としての素養と教育に磨きが求められ、
高山朔太郎はその分、玉姫から退けられることも多く、
中々姫の警護一本では用が済まなくなってきていた。

その分玉姫の心を慰めるものはなく、母のお満の病気勝ちが拍車をかける。
唯一の慰めは朔太郎が用意した鳥かごの中のミミズクであった。

「お前も囚われの身、わらわと同じじゃのう、
じゃがっもう少しの間辛抱いたし、わらわの話し相手になってもらえぬか?
朔太郎が戻るまでの辛抱じゃ」
と話しかける。

そうこうしている内に玉姫の縁談が持ち上がった。
画策したのは正室一派。
相手は五百石取り旗本の次男坊。

要するに自分たちの息のかかった者を迎えて、
これまで通りの権力を維持しようという策であることは
誰の眼にも想われるもので、軟弱な若殿様は恕しやすしという腹が読める。

これに反発するものは殿のご意向に反するという名目で徹底的に弾圧された。
その筆頭に担ぎ出されたのが高山朔太郎であることは当然であろう。

心をいためた朔太郎はお満の方に心情を漏らすが、
当然のことながら取り上げられることなく、忙殺される日々の連続であった。

それぞれの思惑を尻目に縁談話はトントンと進み、この婚儀が本決まりとなった。
屋敷内の争い事が我慢できなくなり、玉姫は密かに屋敷を抜けだしてしまった。

翌日このことが明るみになり、お傍御用の警護役高山朔太郎に
責を負わそうと正室方が暗躍を始めた。

一方玉姫は屋敷を抜け出たものの、行くあてもなく、
さりとて戻るところの宛もない。
自分の居場所すら判別できず、街なかを彷徨うだけであった。
(朔太郎・・・・・お前がそばに居てくれたら・・・・・)

スキ腹と不安を抱えながら両国橋界隈をさまよっていた。

この日長谷川平蔵は本所菊川町の役宅を出て清水御門前の火付盗賊改方役宅に向かい、
ぶらりと両国橋を渡り広小路に差し掛かった。
茶店の前を差し掛かった時店の横に何かうずくまっている華やかな色に目が止まった。

(こいつぁなんだ?)平蔵は近寄ってみると衣服は汚れているものの
どうやら位の高そうな者のようすがひと目でそれと判るものであった。

「おい どうした?どこか具合ぇでも悪いのかえ?」

女は無言で平蔵をじろりと眺め、俯いた。
「お前ぇひょっとして腹が空いているのではないかえ?
俺は長谷川平蔵、怪しい者んじゃぁねぇ、
おい婆さんすまぬが団子を2つ3つそれに茶だ、急いで持ってきてくれ!」

そう店の奥に声をかけ、娘に手を貸して縁台まで連れてきた。

「何も言う必要はない、先ず腹ごしらえが先だ、
なっ 遠慮無く食え、ここの団子はな、越後名物で小豆の餡をよもぎの新芽のみで包み、
い草で巻いたよもぎ団子を蒸し上げたもの、よもぎと笹の優しい香りがいたす旨いものだ、
わしも好物でな、時折通りかかるとお内儀殿に手土産にいたす、
何しろ朝帰りは家に入り辛ぇからなぁ、
あっ いかん!お前ぇのような若ぇ者にこいつは聞かせてはならねぇ話だ、
聞かぬことにしてくれよ、わはははは」
平蔵の自然体がこの娘の気を少し和ませたのか、娘に微笑みが見えてきた。

「どうだ、旨ぇだろう?婆さんすまぬが少し包んでくれぬか、
女房殿に袖の下をという下心さあははははは」

娘は白い歯を見せてこの男のぬくもりを受け止めていた。

「わしは清水御門前に戻る途中だが、その辺りまでで良ければ同道いたすが如何かな?」

平蔵はこの娘の様子から何かを感じ取ったようで、
このまま見過ごせないと想っての気配りであった。

「色々とご配慮を・・・・・私は・・・」

「おっとそこまでそこまで、その先はわしには関係のないこと、
のう娘子、近くまでじゃ近くまでと申したであろう」
平蔵の細やかな気配りを玉姫は涙の出るほど嬉しく思った。

こうして平蔵は玉姫を無事上屋敷そばまで同道して別れた。

「娘子、世の中は鬼もござるが仏もござる、それを迎えるのもまた我が身でござるぞ」
と見送った。

一方、玉姫の屋敷出奔で、責任を追求された朔太郎は姫の姿を求めて
江戸の町を駆け回っていた。
時は容赦なく過ぎ去り夕刻が迫ってきた。

警護に頼んだ岸井左馬之助と一度屋敷に戻りその後の様子を探って
、また出直そうと言うことになり、屋敷への道をたどっていた。

筋違橋御門を通りかかった時土手下から手勢が駆け上がってきた、
刀を抜き放ち、左馬之助と朔太郎が身構えるのを待たず、
手勢の間からひと張りの弓矢がのぞいた。

「半弓だ!用心されよ!」
左馬之助が声をかけたがその声の終わらぬ内にびゅっと
唸り音とともに朔太郎の胸に命中した
「己れ卑怯な!飛び道具まで持ちださねば収まらぬのか」
苦しい胸の内で朔太郎がうめいた。

手負いと見た侍がバラバラと二人を取り囲んだ、
だが左馬之助の刃で三名ほどが腕や足に怪我を負い少々戦意喪失の状態となった時

「喧嘩だ喧嘩だお侍の喧嘩だ!」
とどこかで声がした。

まだ陽は暮れておらず、人通りもまばらではあっても絶えてはいなかったのが
幸いしたと言えよう。

「引け引け引け!」
怪我を負ったものを担ぎながら集団は逃げ去った。

「朔太郎しっかり致せ、誰か、籠を呼んでくれ!」
左馬之助が叫んだ。

四半時が流れ、朔太郎は上屋敷に運び込まれた。
そばを左馬之助が護りつつ、どうにか屋敷までたどり着いたのである。
騒ぎは瞬く間に屋敷内を駆け巡り、玉姫の耳にも達した。

「朔太郎!わらわの身勝手でそなたをこのような目に合わせてしもうた、許せ!」

「姫様騒いではなりませぬ、どうか落ち着き遊ばして・・・・・・」
苦しい息の下で朔太郎は騒動が拡がって外に漏れるのを警戒した。

「朔太郎、誰がこのような卑怯な手立てでそなたを狙うたのじゃ、申してみよ!」

「姫様、それはもうよろしゅうございます、
何より姫様がこの家を護らねばならぬのでござります、
姫様お強ぅなられませ、その激しさは裏を返せば優しさに通じまする。
己の夜叉を知ってこそ、その使い道も解ると申すもの、お強ぅなられませ・・・・」
そう言い残して玉姫の腕の中に高山朔太郎は息を引き取った。

「朔太郎!!」
玉姫の絶望的な叫びが、悲しく夜の屋敷の中に響き渡るだけであった。

それから半年の月日が流れた。
菊川町の平蔵のもとに岸井左馬之助の姿が見えた。

「なぁ平さん、あれから姫様はしきたり通り婿を迎えたそうじゃ、
そうしてな、正室は髪を下ろし仏門に入ったそうな。
今は婿殿をよく支え、まれに見る才女と老中でも評判だそうな。

わしは朔太郎を護りきれなんだ、何としても虚しい!」
左馬之助は蒼く晴れ渡る空を見上げながら目頭を抑えた。

静かに雲が流れ、風が役宅の庭を横切って抜けていった。

「おい 左馬!ところでお前ぇいつになったら俺との約定を果たすつもりだえ?」

「はて なんでござったかなぁ」

「おいおい もう忘れたのかえ薄情なやつだのう、ほれ!鴨団子の鍋だよぉ」

「おっとこいつはいかん!すっかり忘れておった、そうだぜ平さん、
あの鴨鍋のだんご汁、こいつを温かい飯にかけると、
これはもう飯の甘さと汁の旨味がいやこいつはたまらん・・・・」

「おいおい 左馬之助、話だけではお前ぇ落ちもつかねぇぜ、さっさと支度をせぬか!
わしはいつでも出かけられるぜへへへへへへ」

平蔵はいつか浅草で出会った娘のことを思い出していた。

「人は何かの定めを持ってこの世に生まれ出るもの、
それを受け入れるか入れないかそこに難儀が生まれる、
風は好き吹いているように見えても気ままには吹いてはおらぬ、
人の世もまた左様であろう、
はたから見れば気ままなようでも皆見えぬ糸で操られておるのよ、
俺もお前ぇもなぁ」



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10月第3号 蓮の葉商い

本所深川北川町万徳院前に居を構える(唐物屋ええもんや)
左衛門、深川界隈に集まる材木商のお大尽相手に商売繁盛の様子であった。

「ちょいと出てくるよ、後を頼みましたよ」
気楽な格好で小脇に何やら包みを抱えて出て行った。

「今日はどちらかねぇ」
と女房のお福が誰となく問いかけた。

「さぁいつものことでございますが、
私共には何もおっしゃいませんので・・・・・・
ただ何やら箱物を抱えてお出かけになりましたから、
いつもの一草庵ではございませんかねぇ」

「一草庵って言うとあの目利きをなさる茶人の古田一閑先生かい?」

「だと思いますよ、いつものことですから」
その日の夕刻左衛門はホクホク顔で戻ってきた。

「これお福や、一閑先生が箱書きを書いてくださったよ、
まぁ少々金子はいったがね、なんでも唐物井戸茶椀とかで、
中々の名物だそうだよ」
とえびす顔で箱書きを見せた。

真新しい桐の箱に収められたその茶碗はなるほど本物だけに名物であった。

実はこの茶碗、さる大名家より質草に左衛門が引き取った物、
したがって真贋の方は間違いない。
左衛門はその茶碗を古びた箱に移している。

「旦那様、どうして別の箱に入れなおすのでございますか?」
と怪訝な顔で主の左衛門を見た。

「ああ こいつかね、これが元々入っていた箱さ」

「えっ ではこの新しい箱書きの箱はどうなさるのでございます?」
腑に落ちないお福はいぶかしそうな顔で主の返事を待った。

「この茶碗はお預かりしているもの、
だからこいつを売る訳にはいかないだろう?そこであたしゃぁ考えたのさ、
この新しい箱を茶渋で染めて、古く見せかけその中に
よく似た物を入れてどこかの欲のくらんだ金持ちに高く売りつけるのさ、

誰にもわかりゃァしないよこんなこと、
何しろ一閑先生が箱書きを描いてくださっているんだからね、
これは鬼に金棒ってもんだよ」
と声を潜めてお福に話した。

「本当に旦那様はこういうことには頭がよく回るのでございますねぇ」
半ば呆れながら感心するお福であった。

この左衛門の手口は特に茶道具においてはよく見られたやり方であった。

「豊太閤さまなぞは刀剣鑑定家本阿弥家に強要して、
無名の技物に「正宗」と折り紙をつけさせ褒美として
与えたと言うではありませんか、たかが茶道具ですよ・・・・・」
左衛門は軽口を言いながら自分のしている事を正当化しようとしていた。

その数日後左衛門は材木商の橘屋にでかけた。
この橘屋は山師上がりで、江戸の大火で一山当て、
にわかお大尽となったいわば成り上がり者、
それだけに金は唸るほどあるが、
その使い道も知らなくて、したがって当然のことながら
骨董などの目利きは全くないものだから、骨董屋の言いなりである。

そこをつけ込んでのハッタリ家業がこの左衛門の本業であった。

「橘屋のお大尽様、この度珍しい茶道具が手にはいりましたので
、このお屋敷にもふさわしいかとお持ちいたしました。
箱書きもこの通り一閑先生が目利きをして下さった折り紙つきのもの、
いかがでございましょうか?」

と、幾重にも包んだ風呂敷包みを解いてさも貴重な風に差し出した。

これは唐物の井戸茶碗・・・・・中々手に入らない名物でございますよ」
と勿体をつける。

「それはそれは左衛門さん、また良い物をお世話いただきありがとうございます。
何しろ私はそっちの方はさっぱり目利きが効きません、
材木ならばなんでも判るのですが、銅も骨董となると・・・・・
左衛門さんのお陰で良い物が手に入り私も嬉しゅうございますよ」
と手放しで喜んでいる。

「また 何かお薦めの物が出てきましたら、まずは私に回してくださいよ、
お金に糸目はつけませんから・・・・」

「はいはい 橘屋さんにお買い上げいただければ、
どこにご紹介するよりも安心でございますからなぁ」
と左衛門は揉み手を擦ってえびす顔である。

左衛門は家路を急ぎながら「あんな偽物茶碗が百両で売れるとは、
こっちは箱書きで2両使っただけ坊主丸儲けとはこのことだねぇ」
と独り合点でほくそ笑みながら本所深川の「ええもんや」ののれんをくぐった。

「おかえりなさいませ」出迎えたのは女房のお福

「はいただいま帰りましたよ」

その亭主のえびす顔を一目見て
「旦那様さぞや良いことがおありになったのでございましょうね」
と上目遣いに左衛門のしたり顔を見上げた。

「上首尾だったよ、何しろあのお大尽はこんなものには全くの素人、
そこがつけ目でこちらはよい思いをさせてもらっているんだからねぇ、あはははははは」

「まぁ旦那様はお人の悪い・・・・・」

「そのお人の悪さのお陰で贅沢しているお前さんは一体何なんだろうねぇ」

「まっ 嫌な人!うふふふふ」

ところがそこから事件が起こった。
橘屋が出入りの旗本山名家に大仕事を請け負う礼にと
「これは大変珍しい唐物の茶碗でございます」
と手土産に持参した。

「なんと、唐物とな!それはまた貴重なものを・・・・・・
どれどれ、・・・・・・ふむ 一閑の箱書きも付いておるのう、
これはまた我家の自慢の種が増えたという物、
よしよし!今後共よろしく頼むぞ橘屋!」

「恐れいります!」

こうして唐物の偽物は山名家に嫁入りを果たした。
これで収まっていれば何事もなかった、
だが事はそうおもわく通りに運ばないこともある。

城中でたまたま茶道具の自慢話に花が咲き、
その名物を観たいと言う話にまで進んでしまった。
そこはそれ、自慢したいがための暇つぶし談義、
早速お披露目の日取りも決まり、意気揚々と屋敷に戻った。

翌日その茶碗を出す前にじっくり眺めて、
相手の驚く顔を楽しもうと奥女中に命じて茶箱を持ってこさせた。

貴重な品であるために奥女中が蔵から持ち出すのを若い武士が警護していた。
上屋敷の長い廊下の角を曲がろうとした時
反対側からいきなり猫が飛び出たからたまらない

「きゃっ」
と悲鳴を上げて思わず後ろにのけぞったと同時に、
後ろからついてきていた若侍にぶつかった、
はずみで捧げていた箱を取り落としてしまった。

鈍い音がして木箱は廊下に転がった。

ブルブル震える手で包みを解いた箱のなかで無残に茶碗が割れていた・・・・・・

「榊様・・・・・・」

「みつどの・・・・・・」
ふたりとも事の重大さから言葉を見失っている。

「とにかく殿にご報告を致さねば」・・・・・・・
割れた茶碗をとりあえず元に戻し、主の前に運び込んだ。

「おう 待っておったぞ!」
自慢の茶碗をお披露目することになり、
鼻も一段と高くなるは必定の後日の茶会である。

早速包みを解き、中を検めた山名影房は、変わり果てた茶碗の姿に
動転したのは言うまでもない。

「何と致した!」

「申し訳もござりませぬ、運んでまいります途中に陰から急に猫が飛び出し、
そのはずみで・・・・」

「取り落としたということじゃな!」
壊れた茶碗のかわらけを掴んで若侍の顔に投げつけた。
若侍の額が切れ、鮮血が鼻筋を通って口元から顎へと・・・・・・・

「申し訳もござりませぬ」
と奥女中のみつが震えながら小さな声で返答した。

「殿!この度の事はいかにしても回避できぬ物にございます」
と、これまた頭を擦りつけての詫びを述べたが、
逆上してしまった頭を冷やす方法などあろうはずもない。

「たわけ!言い訳をしても茶碗は元には戻らぬわ、
此度の茶会をどう申し開きできようか、
儂の恥を天下に晒すことになるばかりではない、
嘘つき呼ばわりされても身の証しようもない!
手打ちに致してくれる!そこへなおれ!」

言うが早いか立ち上がり、
刀掛けに収めてあった大刀を鞘走らせ奥女中に詰め寄った。

「殿!しばしお待ちくださりませ!」
止めに入った若侍を足蹴に飛ばし、奥女中の襟上をひっつかんで廊下に引きずり出し
一気に切り落とした。

だが腕に覚えもない太平楽なこの時代、
一太刀で切り落とせるほどの技を極める大名旗本など皆無である、
「ぎゃっ」
と叫ぶ断末魔の声が更に油に火を注ぐ結果となり、
幾度も幾度も崩れている奥女中の首に斬りかかった。

廊下はすでに血の海と化し、血糊に足を取られて山名影房はその場に転げ、
放心したように我が身の犯した惨状を眺めていた。

「殿・・・・・・」
一瞬の出来事に言葉は続かず若侍は放心状態の主を見た。
騒ぎを聞きつけて駆けつけた家老に
「良きに計らえ」
と一言残してその場を逃げ去るように引き込んでしまった。

「ええい やんごとなき事柄にてお手打ちに相成ったと親元へ申し伝えよ、
早ぉこのむくろを始末致さぬか!」

家老は駆けつけた侍共にそう下知して、さっさと引っ込んでしまった。
事はすべて隠密裏に運ばれたが、このままでは事は済まない、
何しろお披露目に期日は迫っているのであるから・・・・・・

「橘屋 此度の唐物、殿が誠にお気に召され、
その話からどうしてもその唐物を望みたいと申される御仁があり、
殿も引くに引けず約定致してしまわれた。

何とかならぬか?多少の無理はこの度においては致し方ない、
もう一つ唐物を探してはくれまいか、無理を承知での頼みじゃ、
これこの通り」・・・・・

橘屋としてもこれを断るわけにはいかず、頭を抱えた。
「判りました何とか手を打ってみましょう」
と引き受けたものの、そう簡単に唐物が手に入るとも思えない。

だが、考えていても何も始まらないとにかく
(ええもんや)の左衛門さんに相談するしかないと、出かけてきた。

話を聞いた左衛門(こいつぁまた柳の下に二匹目のドジョウがおよいでいたわい)
と腹の底でにんまり。

「それはそれはまた難儀なお話で、・・・・・が、
まぁ私もこの商いでおまんまを頂いておりますからには、
無碍にお断りするのも心が痛みます、
殊に橘屋さんのお話とあらばなおさらでございます、
よろしゅうございます、この左衛門一肌脱がせていただきます」
と大見得を切った。

とは言うものの、同じ事を一閑先生にお願いしたのではばれてしまう、
うん 今回は別のお師匠さんにお願いするしかないなぁ。

翌日左衛門は再び例の品物を抱えて店を出、日本橋は品川町の笠原道雪を尋ねた。
うまい具合に道雪は在宅で、持ち込んだ唐物を一目見て
「ほう これはまた中々の物・・・・」
と目利き両の五両が効いたのか、ひと目で箱書きを引き受けた。

そそくさと店に戻った左衛門、早速箱の細工にとりかかった。
ススや泥を混ぜあわせて茶渋に混ぜ込み、
これを箱全体に摺りこんで内側は少し薄めた物を塗り込めるという
念の入った拵えにした。

早速翌日橘屋に持ち込み
「これは私の仲間内で大切にしていたものでございますが、訳を話し
無理をお願いして手にはいりましたもので、
先の物より少々値ははりましたが二つとない逸品物で、
まぁお買い得とは存じます」
と相手の足元を読んでふっかけた。

「で、如何ほどご用意致しましょう」
と橘屋が中身を検めながら。

「左様でございますね、このご無理な話を引き取ってくださった為に、
少々高く付いてしまいましたので・・・・」
と勿体をつける。

「重々判っております、ご無理を願いしたのはこちらの都合、
どうぞおっしゃってくださいな」

「では・・・・・二百両お願い出来ましたら
、私もあちら様にそれで収めさせていただきます」

「それはまた、それでは左衛門さんの儲けが・・・・・」

「いやぁ何、困っているときはお互い様でございます、
それにいつも橘屋さんにはご贔屓に預かり、お陰であたしの商売も
成り立っておりますので、このたびは私の橋かけ料はよろしゅうございます」
と恩を売るのも商売上手。

「誠に誠にありがとうございます、これで私の肩の荷もおりました、
ありがとうございます」
橘屋は自分の役目が無事勤められたことに胸をなでおろしている。

まぁこのような裏の作業もあって、唐物のお披露目は無事に終わったのである。
手打ちにあった奥女中のおみつの親元では、
粗相の上のお手打ちではどうすることも出来ず、
泣き寝入りのまま時は流れようとしていた。

老中への届けも
「粗相の上のやむなき手打ち」
ということで一件落着。

それから二月程の時の流れがあった。
本所深川万徳院まえの(唐物屋ええもんや)
左衛門の店に盗賊が入ったと届けがあった。

盗まれたものは古道具、それも高価なものばかりを狙ったもので、
日常お客の前に持ち出すためにさほど厳重な管理もしていなかった、
そこがつけ目であったようである。

問題はそこであった、盗品一覧の中に例の唐物が含まれていたのである。
当然本物であるから盗まれるのは当然のこと、
だが盗まれた左衛門にしてみれば、まだ請け出しが済んでいない預かり物、
これを紛失したのでは相手によっては首も飛びかねない。

「後生でございますから、お願い致します、
あの唐物を何とか無事に取り戻してくださいませ」
と奉行所に泣きついてきたという話しである。

早速失物御吟味街触(うせものごぎんみまちふれ=盗品手配書)が配られた。
その五日後、下谷の仁王門町にある道具屋から

「それらしい品物を持ち込まれた」
と番屋に届けがあった。請人は道具屋(さかい屋)である。

早速役人が左衛門を伴い取り調べに当たった結果、
盗まれた唐物に間違いないことが判明、
物が物だけに即日買い取りは難しいと訳を話して
後日代価を受け取りに来るように話をつけてあるという。

そこで南町奉行所では鉄砲町の文治郎が網をはることとなった。
清水御門前の火付盗賊改方にご機嫌伺いに立ち寄った文治郎からこの話を聞いて

「古道具をもっぱらの盗っ人がおるとはのぉ、
いやこいつはうかつ!左程に旨味があるものなのかえ?」

「それが長谷川様、こいつが中々足がつきにくい、
おまけに曰く因縁の物ほど高値を呼ぶ、
まぁこんなところで物によってては1つ2つで百や二百になるものも・・・・・」

「だが、そのような値では引き取るまい」

「はい おっしゃる通りでございますが、
そこそこの値で手が打たれます、後は売り方一つで、
そのような時は密かに一人で喜んでいるような旦那衆に
能書きをつけて売りさばくようで、外に出てくることがございません」

「なるほどなぁ 上手ぇ所に目をつけるもんだ、で どうした?」

「はい あっし一人では少々心細く、どなたかすけて下さるお方でもと、
実はこうして・・・・・」

「あい判った! 誰かある!忠吾を呼べ」

「おかしら 及びでございますか」
と木村忠吾が控えた。

「おお 忠吾御役目大義 ところでなぁこの文治郎と
ちょいと張り込みをやってはくれぬか?
お前も・・・・・・」

「どうせ暇だろうからとおっしゃりたいのでございましょう」
と少々お冠の様子である。

「おい忠吾そなた 近頃中々冴えておるではないか、あはあはははは」

「おかしら それはお戯れでございましょうか」

「ん でないでないぞぉ忠吾、そなたでなくばやれぬ仕事とおもうたが・・・・・
駄目とあらばぁ・・・・」

「参りまする、おかしらがそのように思ってくださるのならば、
この木村忠吾身命にとしても参ります」
と乗せられてしまった。

だが、これが想わぬ方向に流れていったから面白いと言えよう。
近場の茶屋で朝から団子など食いながら見張っていた。
向かいの道具屋に丁稚姿の文治郎が前垂れを外す合図を送ってよこした。

出てきたのは四十がらみの優男、主との打ち合わせ通り
「今、先様と交渉に入っておりますので、
少しでも高値の方がよろしいかと存じますのでどうかもう二~三日、
時をお貸し下さいませ」
と帰したのである。

当然高値のほうが良いに決まっているから
「それじゃぁまた」
と戻っていった。

それを微行するのが忠吾の役目。
その日遅く忠吾が役宅に戻ってきた。

「お頭木村忠吾ただいま帰りました」
と挨拶に来た。

「おお 忠ちゃんご苦労」
平蔵はニヤニヤ笑いながら忠吾を迎えた。

「で如何であった?」
忠吾の怪しげな笑顔から事の首尾がうまく行ったことを
察知しての平蔵の対応である。

「それがでございますおかしら、
奴の居場所は下谷三ノ輪町浄閑寺裏でございました、
近所で聞きこみました所、どうもこっちが専門のようで、

向かいの長屋の婆が申しますに、近所付き合いは全くなく、
どうやら一人者のようで時々朝帰りがあるとか、
また通りがかりに目にしたところ一人者には似つかわしくない
壺の入った箱などが見えたとか」

「ふむ なるほどそいつは怪しいのう、よし早速其奴のねぐらを探索致し、
場合によっては即座にひっくくれ!」

「判りました、お任せ下さい、この木村忠吾必ずや奴めを
ひっ捕らえてご覧に入れます」
と大乗り気である。

「おい 忠吾!表には出るなよ盗賊改めは此度は檜舞台ではないからな、
それと文治郎を忘れるなよ」
と釘を刺した。

翌日忠吾は文治郎を伴って下谷三ノ輪の浄閑寺裏手に向かった。
近所の聞き込みではどうやら留守ではなさそうであった。
忠吾は文治郎に命じて、近所の者をそっと家から外に出し、
万が一の時の危険を回避する措置をとった。

やがて文治郎が安全確認の合図を送ってきた。

「よし踏み込め!」
忠吾は文治郎に手柄を譲り自分は後方を固めた。
いきなりの岡っ引きの踏み込みに動揺したのか、
手当たりしだいにその周りのものを投げつけながら身をのがそうとあらがった。
だが所詮小商いの盗っ人、文治郎の十手に打ちのめされ捕縛された。
こうしてこの事件は南町奉行所の扱いとなった。

盗っ人の又吉の家にあった盗品しらべ書きと
唐物屋ええもんや左衛門の商品つき合わせで驚くことが判明した。

「なんと おかしら、あの左衛門の店の奥に同じような茶碗が幾つもありました。
主に厳しく確かめましたる所、いずれもが贓物
(ぞうぶつ=まがいもの)でございました」

「さもあらん 故買屋をやっておったのであろうよ、まぁきついお咎めは免れまい」

「それにしてもなんでまたこのようなことになったのでございましょうか?」
忠吾いささか気になる様子に。

「もともと物に価値観とか申す値はないもの、
いずれも適度な値を付けられ買われて遣われる、
それが道具というものよ、したがな、千の利休がこいつを変えた。

「利休?あの茶道の宗家と呼ばれている・・・・・」

「その通りよ、利休は目利きが金儲けになると気づいたのよ、
安価な物にも箱書き(鑑定書)をつければ、皆こぞって歓びこれを買い漁る、
俗に売僧(まいす)と申すやつだな。

我が物を利休に目利きして貰えば箔が付く、
そこで諸大名から商人まで大層な繁盛のようであったそうな、
それらのつながりから幾多の諸大名とも縁が出来
これらの大名から豊太閤さまのご意見を知る足がかりにと近づく者もおろう、
多くの言われざる情報を取るためにもこのつながりは
増していったと想わねばなるまい。

キリシタン大名の大友宗麟は大坂城を訪れた際、豊臣秀長から
「公儀のことは身共に、内々の事は宗易(利休)にお聞きなされと言われたそうじゃ」

「それはまことで!? 利休とは何と申しますか怪物でございますなぁ」

「そうだのう ここ一つで世の中を裏から動かす、
こいつはどうして中々出来るものではないわな、
何処の時代も政は裏で操るのが本道、
こうして眺めればそれもうなずけると言うものよ、

のう忠吾、たかが土くれ茶碗一つで人の生命までもやりとりするとは、
わしにはよく判らぬ、わははははは」
と平蔵は口元をさみしげに歪めた。

どうだ忠吾、久しぶりに下谷にでも出かけてみるか
、お前も此度は苦労であったが手柄にはならぬ、
まぁその辺りの褒美と想うて付いて参れ」

「えっ 下谷・・・・・まさか・・・・・」


おいおい気を回すんじゃぁねぇ提灯店は伊三次の持ち場、
そこを荒らしちゃぁお前ぇ筋が通るめぇ?」

「ご尤もでございますはい、ではどちらに?」

「何!池之端当たりまで足を伸ばそう」

「ははっ お言葉のままに」
とすでに忠吾は口元が怪しい。

不忍池南にある池之端仲町にある料理屋「繁や」二階座敷に上がった平蔵と忠吾、

「まさに驚きでございますなぁ、このようなところがあろうとは・・・・・」
忠吾いささか驚いた様子である。

遠くに弁財天を見ながら、二階から見下ろす不忍池には
蓮の花が今を盛りと紅白咲き乱れ艶やかな装いを見せていた。

「おう 来たか来たか!忠吾、こいつは蓮飯と言うてな、
巻葉を細かく刻み塩少々振りかけたもち米を炊きあげて
蓮の真新しい荷葉に包み置き、香りを移して楽しむ風流よ」

「はぁ~ 左様でございますか、たかが蓮の葉一枚に・・・・・」

「まぁお前ぇにゃぁ提灯店の方が良かったかも知れぬがのう」

「あっ またそれを持ちだされまするか」
と忠吾。

この蓮飯はな、盂蘭盆(うらぼん)にもてなす物だそうな、
十三日ともなれば夕方には門口でおがら(皮を剥いだ麻の茎)を焚いて迎え火と呼び、
十六日には送り火としておる。

十四日にはナスときゅうりの胡麻和えなぞ供え、
十五日には蓮飯や蓮粥、こいつがまた旨い、

米に一晩水につけた蓮の実の乾燥したものと塩、
それに水たったこれだけのものだがこいつがまた香りよく
、蓮の実の歯ごたえもあり中々に旨ぇもんだぜ」

「はぁそんなものでござりましょうか、私はどちらかと申せばこのぉ 
少々こってりとした脂の乗ったもののほうが」・・・・・

「そうさのう お前ぇの出入りする茶屋は皆脂が乗っておるそうだからなぁ、わはははは」

「あれっ やはりそこに行きますか、とほほほ」
と忠吾かたなしである。

「忠吾蓮の葉商いと申すものを存じておるか?」

「面目次第も・・・・・」

「うむ まぁそうでろう、わしのように放蕩無頼を過ごした者には
当たり前のものであったがなぁ。
お前ぇもよく存じておろう蓮っ葉(はすっぱ)な女なぞは・・・・・」

「またまた そこでございますか、何卒ご勘弁をくださりませ」
忠吾泣きっ面の体である。

「こいつはなぁ蓮葉女と申してな、
それ!蓮の葉の上で露玉が風に揺れるたびにころころころころ転がるであろう?
そこから落ち着きのない者のことを言ったんだな、
決してお前ぇの事を言うたのではないぞあっはっは」

朝市や縁日に蓮の葉の上に季節のものや旬の物を置いて
葉を皿代わりに売っておる、特に精霊会(しょうりょうえ=盂蘭盆)

こいつを蓮の葉商きないと呼ぶんだがな、
こいつは季節ものだけに足が速い、すぐに味が落ちる、
そこでキワモノとも呼ばれやがてそれがまがい物や偽物と言う意味になったわけだ。

そこから蓮荷買いと呼ばれる商いが生まれた、
いうなれば偽物買、此度の唐物屋左衛門もその一人よ、
一組の名物ものがある、こいつを箱と品物に分けて、
中身の品物を確たるお方に見せて目利きをしてもらう、

当然ながら本物だから本物であるという目利きの証
すなわちこれを箱書きというが、そいつが出来る、

そこに似たものを紛れ込ませて、
あまり目利きの出来ぬ亡者どもに高く売りつける。

亡者どもは人目に晒したくねぇものだから、
密かに己の部屋で悦に入っておる、とまぁこういう筋書きよ。

こいつを幾度か繰り返し、そのたびに目利きのものを変えれば、
元の中身は誰も判らぬままだ」

「それがこの度は盗賊に入られて・・・・・・と いうことでございますか」
忠吾ひとしきり関心の体。

「おう やっとおめざめかえ?」
平蔵はにやにや忠吾を眺めている。

「なんともこの美しい蓮の花にもそのような含みがあったとは・・・・・
ははははは、木村忠吾うかつでござりますなぁお頭ぁ」

目の前には艶やかに蓮の色香が饗宴している、
平蔵は盃をゆっくりと空けながら、欲が生み出した
この目利きという生業を憐れむように想っていた。

あるがまま・・・・・
それがこのようにただ美しいだけでおれるではないか、
さわやかな夕暮れの風にハラハラと蓮の花が溢れるのを飽きもせず眺めていた。



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10月第2号 よろずや彦兵衛


朝熊の伊三次


手に摺物を持ち「え~よろずやでござい」と流している五十がらみの男。
お店を覗いてはこの摺物を置いてゆく。
この便利屋、たいていの用をこなすようである。

薪割りから風呂焚き果ては買い出しから調理までこなす、
時には求められて障子の張替えからふすまの張替えまで何でもござれの
器用人のようであった。

人当たりも柔らかく、笑顔が又安心感を与えるようで、
この所日本橋界隈では評判になり
「おかみさんは居るのかしら?」
などと日本橋雀のくちばしの端々に上る昨今であった。

「彦兵衛さんちょいとお願いしますよ」
日本橋は本町三丁目の浮世小路に店を構える油問屋(大津や)

「へい!本日は又どのようなお困り事でございましょう?」
と店に入ってきた。

「孫がふすまを蹴破ってしまってねぇ、
大した仕事ではないんだが張替えというほどの大げさなものではないし
、ここは一つ彦兵衛さんにと・・・・・」

「ありがとうございます、それでは早速明日にでも伺いまして」

「おお そうしておくれかい、それなら大助かりだ、よろしくお頼みしますよ」
こうして翌日彦兵衛は襖の張替え道具を抱えてやってきた。

「旦那様ぁこいつぁ骨縛りまで破けておりますので、
下張りからやりかえねばなりません、
表紙は今から紙屋に行って仕入れてきますので、
ちょっとお時間を頂きます」
そう断わって取替紙を求めに出かけた。

小半時過ぎた頃戻ってきて「ございました、中々よいお品で、
今流行りとか、けっこう品薄だそうでございますよ」
と言いつつ奥座敷に入っていった。

初夏の風が開け放たれた部屋の中を縦横に駆け抜けて、
草花の薫りが時折部屋を横切る。

中庭の小さな池の畔に植えられた匂い菖蒲が風にゆらゆら首をなげめに揺れている。
トントン小刻みに槌音をさせて、手早く当て木の上から折れ合い釘を外して組子を出し、
破れている骨縛りを桑チリ紙で張りつけ、打ち付け貼りを施し
、重ねて石州美濃和紙を丁寧にずらしながら幾層も貼り付ける。

全体が乾いたら細川の手漉き和紙裏に全面に糊を打ち、しっかりさせる。

これが乾いたら袋貼りに石州半紙を浮け貼りし、上貼りは絹シケを張って仕上げとなる。
とまぁ一日掛かりの作業である。

「旦那様出来上がりました」
と夕刻彦兵衛が大津やの主に報告した。

「これはこれは 見事な腕だねぇ彦兵衛さん、又何かあればきっとあなたを頼みますよ」
と大満足の様子だった。

「え~よろずやでございます」

「ちょいとよろずやさん、おねがいしますよ!」

「はいはい 奥様本日はどのようなお困り事でございましょう?」

「昨夜の大風で屋根瓦が飛んでしまったのかねぇ、雨漏りがしたので、
それを調べて修繕しておくれでないか」

「はいはい お安いご用でございます。
お部屋はどちらになりますんで?」

「奥座敷の旦那様の寝所でね、大屋根だから中々大変だと思うけど
瓦職人をよぶほどのこともあるまいと旦那様がおっしゃるんでね」

「はいはい ではお部屋の方にご案内をお願い致します」

こんなわけで、けっこうあちこちの店に出入りが出来た。
何しろ元手は摺物の紙切れ1枚。
瓦版でもないので、さほどの枚数もいらないとくれば、
後は口コミと実績がものを言う商売である。

器用貧乏とよく言われるが、この彦兵衛にとっては当てはまらないようである。
自分の手に終えないものは専門家を仲介して、
きっちりと仲介料を取るのだからしっかりしている。

だが、仲介される側も、手すきの時に舞い込む仕事は正直言って助かる。

時によればそんな相手から逆に
「彦兵衛さん小せぇ仕事だけど」
と逆紹介もある。

良い意味での持ちつ持たれつの関係であろうか。
時は2度ほど桜がさいたであろうか、それほどの時間が建っているとは想えないものの、
すっかり彦兵衛のよろずやは評判を呼んで、毎日忙しく飛び回っていた。

彦兵衛には可愛い女房が居た。
これも出入りのお店の奉公人を旦那が見込んで世話してくれたもので、
中々の働き者であったそうだ。

世帯を持っても彦兵衛の評判はますます上がるばかり、毎日が天国のようであった。
「おたみ 帰ったよ!」
いつものように彦兵衛は仕事を終えて日本橋馬喰町の一端にある長屋に帰った。

この馬喰町元は馬の鑑定などや売買をする(博労)が多くおり、
それらを泊める旅籠が軒を連ねていた。

「おたみ・・・・!」
変だなぁ俺が返ってくる時刻は知っているはずなのに・・・・・・
彦兵衛は外へ出てみたり近くまで探しに出かけてみたものの見当たらない。

「おかみさん女房のおたみをみかけませんでしたか?」

あまり帰りが遅いの、彦兵衛は隣のおかみさんに聞いてみた。

「変だねぇ 居ないのかい?おたみちゃんのことだ、何かあったのかもしれないけれど、
きっと帰ってくるよ、もう少し待ってみちゃぁどうなんだい?」

「でもようおかみさん、俺はおたみが心配でどうかなっちまいそうだよぉ」

「何バカいってんだい、ちょっと長居してるだけかもしれないじゃぁないさ」
と取り合わない。
だが、結局その日はおたみの戻った気配はなく、朝がやってきた。

こうなると彦兵衛はもう仕事どころではなくなっていた。
番所に探索願いを出したものの、何の手がかりもないまま2日目の夜が来て、
3日目の朝朝を迎えた。

食べるものも喉を通らないようで隣のおかみが心配して覗きに来た。
「彦兵衛産、食べなきゃぁ身体に毒だよぉ、
しっかり食べて元気でおかみさんを迎えてやらなきゃぁね!」
と言われるものの、出るのはため息ばかり。

そこへ贔屓のお店から
「ちょいとお願いごとがあるんだけれど」と仕事の話が舞い込んだ。
「悪いんですけど、今仕事をする気がなくって、どうにもなりません、あいすみません」
と断わった。

「どうしたんだい彦兵衛さん」

「女房のおたみが家出しちまったようで、もう4日も帰ってきません」
と泣きべそをかいた。

「ヤレヤレそいつは大変だねぇ、判りましたよ、またのことに致しましょう」
と帰ってくれたものの、食事は喉を越さなくて、もうメザシのようにやつれてしまった。
その噂はとうとう長屋を出て馬喰町全体が知ることになった。

町をふらふら探し歩いていると「彦兵衛さんおかみさんはまだ帰らないのかい?」
と声をかけられる始末。
とぼとぼ歩く彦兵衛は目玉だけがぎょろぎょろして、まるで生気がない。

「ヤレヤレ女房に逃げられたそうだよ」

「どんな仕打ちをしたんだか・・・・・」

暇な雀たちは好き勝手に事情を想像して、吹聴しだした。
こうなると歯止めがない。

まさに人の口に戸は建てられないの例えのまんまである。
永久橋をわたって湊橋から霊岸島に渡った時東港一丁目で
「もし!彦兵衛さんでは?」
と声をかけられた。

見知らぬ顔に彦兵衛
「どちらさまで>」
とか細く聞き返した。

「お前さんは知らねぇが、こっちはお前ぇさんを良く知ってますぜ」
と意味ありげな返事が返ってきた。

「私をご存知の方で?」
と彦兵衛

「ウン まぁお前ぇさんを知っているというよりもおかみさんをちょいとね!」

「えっ おたみをご存知で!おたみは今どこにおりますので!
ご存知ならば教えて下さいよ五章でございますから」
と彦兵衛は這いつくばって頭を地面に擦り付けた。

「まぁあっしはちょいとおかみさんを見たって言うだけで、それ以上は、へへへへっ」

「そんなぁ 後生でございますから意地悪しないでおたみの居所を教えてやってくださいまし」

もう顔は泥とほこりが涙でどろどろグシャグシャである。

「まぁそのうち判るでござんしょう、辛抱して待つことでござんすよへへへへっ」
そう言うなり男は懸け出して行ってしまった。

「待ってくださいよ待って!!」
追いすがる彦兵衛を駆け去る男の背中が笑っている。
彦兵衛はその場にペタリとへたり込んで身動きもできないまま、
駆け去った男の曲がった角を見て泣いていた。

「どうなすったんで?」
声をかけたのは目明し風の男であった。

「あっしは鉄砲町の文治郎と言いやす、こんな所に座り込んでどうかなすったんで?」
といぶかしげに座り込んでいる男を見る。

その男、情けない涙声で
「女房が女房が!女房がもう十日も帰ってこないんです」
と、彦兵衛はおたみの家出の理由に心当たりのないことを話した。

「そいつぁ心配でござんすねぇ」
文治郎としてもそれ以上付け加える言葉が見つからない。

「とにかく番屋にも報告しておきやすから」
となだめる文治郎に、「番屋へはとっくに届けは出しました、
けど何の音沙汰もなく、こうして一人で探しに出歩いて、
それでも見つからない、神かくしにでも会ったんでございましょうかねぇ親分
文治郎の袖を掴んですがる目で見上げる。

ヤレヤレ情けねぇ・・・・・と思いながらも
「そんな馬鹿な話はござんせんよ」
とへんじをしたが、
「ああ どうせ私は馬鹿でございますよ、
後生ですからそのバカの元へ女房のおたみを返してやってくださいよ」
もうどうしようもない体に

「こいつぁ困った!とにかく家まで送りますから」
と文治郎としてもそれ以上方策が見つからなかった。

そしてその翌々日、過日出会った男が馬喰町の彦兵衛の長屋に顔を出した。

「彦兵衛さん、ちょいと話があるんですが聞いちゃくれませんかねぇ」
と意味深な目で彦兵衛の反応を盗み見た。

「おたみはおたみはどこに居るのでございましょう、
居場所をご存知なら後生だから教えてください、
おたみが返ってくるなら何でも致しますこれこの通り」
とすり減るのではないかと想うほど両手をこすりあわせて男を拝み倒す。

10日という時の長さは彦兵衛の神経を極限まですり減らすには十分な長さであった。

「判りやした、なら話は早ぇや、何ねやっけぇな話じゃァねぇんだ、
ちょいとその何だお前さんが仕事で出入りした先のお店の見取り図を
教えてくれりゃぁなぁにおかみさんはすぐに返ぇしまさぁ、
どうです、承知してくれるだろうねぇ・・・・・」
と彦兵衛の顔をのぞき込んだ。

「そそそっ そんな!それだけはご勘弁下さいませ」
彦兵衛はすがるように男を見て両手を合わせた。

「お前ぇさん、さっき何とお言いなさったので?」
いんぎんだがダメを押すような重い語気が含まれている。

「そんな!確かに何でも致しますとは申しましたが
、そのような事はとても出来ません、他のことなら何でも致します、
どうか後生ですからおたみを返してくださいませ」

「おうおう!おとなしく出りゃぁつけあがりぁがって、
お前ぇどこか思い違ぇをしていなさるんじゃァねぇのかい、
こっちにぁお前ぇのかわいいかみさんを預かっているんだぜ
、煮て食おうが焼いて食おうがどうでもなるってぇ事を忘れるんじゃぁねえっ!」

彦兵衛の胸ぐらを旧聞に掴んで、己の懐をぐいと開いて飲んでいるドスをちらっと見せた。
見る見る彦兵衛の顔が凍りつくような恐怖が包み込んだ。

「ひえっ!!」
彦兵衛は腰をぬかさんばかりに驚き、その場にへなへなと座り込んで失禁してしまった。

「どうなんでぇ、性根を入れて返事をしなよ、
さぁどうなんでぇ色よい返事を聞かせちゃぁくれねぇかい 
えっ!彦兵衛さんよ!、それとも何かぁかわいいおかみさんが
このようになっちまってもいいってぇのかい」
そう言うなり土間に水瓶を蹴り飛ばした。

ゴッツ!鈍い音とともに瓶はまっぷたつに割れ、
ドクドクと水が流れてへたり込んでいる彦兵衛を水浸しにしてしまった。

あわわわわっ うつろな眼差しで男を見上げた彦兵衛は、
もはや観念するしか無いことをやっと悟った風であった。

「わっ 判りました私は絵も字も書けません、それでもよろしいので?」

「判ってらぁな、ご同業よ、だがな話してさえくれりゃァ
その方はこっちで何とかしよう、まぁそういうことで・・・・・・
解ってるだろうがこのことは誰にもしゃべるんじゃァねぇぜ、
喋ったことが判ればその場でおかみさんは三途の川を渡ることになるんだからなぁ、
今夜もう一度来るがそれまでに日本橋は本町三丁目の浮世小路の油問屋(大津や)
の間取りを頭ン中できちんと整理しておくこったな」

「あの もし!大津屋の間取りで?・・・・・・・それは・・・・・・」

「おいおい 今さらそれは出来ません、
ハイ左様ですかと引っ込めると想うかい!たいがいにしやがれ!
判ったな!始めっからお前にぁ勝ち目がねぇんだよ!」
男は捨てぜりふを残して懸け去っていった。

どうしようどうしよう!困った困った、大津やの旦那様には大恩があるし、
かと言っておたみは捕まっていちゃぁどうしようもない、あぁ困った困った。
そんなことを言っていても時の流れは待ってはくれない、
薄情なもので暮六つの鐘がなり始めた。

遠くから彦兵衛の長屋をじっくりと眺め、危険はないと踏んだのか、
今朝ほどの男が一人の男を連れてやってきた。

「おい!彦兵衛さんよ、こいつがお前ぇさんのいうことを絵図面に描くから、
しっかり答えるんだぜ」

「判っております、判っておりますからおたみは、おたみは今どこに、
どこに居るのでございます」

「判っいらぁな、図面ができたらそいつと引き換えにおかみさんは渡そうじゃァねぇか!
それなら文句はあるめぇ、ささっ早くみんな話しちまいな」
男は急かすように彦兵衛を促した。

それからふた刻が過ぎた。

結局彦兵衛は脅されるままに合計三件のお店の間取りを喋らされてしまった。
大体の見取り図が出来たようで
「まぁ大体のところは判った!それでは約束だ!
なっ!かわした約束は違えやぁしねぇから安心しな、
明日の朝おかみさんをここまで連れてこようじゃァねぇか、なっ!
それで承知してくれねぇか」

「そそそっそんなお話ではございませんでした、約束が違います」
男の袖を掴んで必死に訴える彦兵衛

「お前ぇも物分りの悪い野郎だなぁ、
こんな時に危ねぇのを承知でのこのこ連れ歩くと想うのけぇ、
全くどじな野郎だぜ、文句があるならこうしてやらぁ!」
その言葉も終わらない内に二人がかりで殴る蹴るの袋叩き、
鼻は折れ目は腫れ上がり、あちこちアザだらけで気を失ってしまった。

その翌日、日本橋本町三丁目浮世小路油問屋(大津や)に賊が押し入り
奉公人を合わせた十三名が皆殺しになった。
奪われた金は7百両あまりであった。

皆殺しであるがために証拠は皆無で、押し込みの全容は全く掴めない。
当番であった南町はなにか手がかりを掴みたいものの為す術もなく、
火付盗賊にも加勢の依頼があった。

平蔵と南町奉行池田筑前守とはじっこんの間柄でもあり、
表立っての行動は出来ないまでも内々に密偵たちは探索に協力していた。

翌日霊岸島湊橋の端桁に女の死体が引っかかっているのを葛西船の船頭が見つけ、
引き上げて番屋に知らせた。
月番である南町奉所から与力などが出張り、
検死の結果首のあたりに指の痕跡が認められ、
絞殺されたものと断定されたが、身元を明かすものが何一つ無く、
やむを得ない処置としてひとまず無縁墓地に埋葬することになった。

身元を表すものといえばかんざし一本を残すのみである。

事件はそれで終わらなかった。
日本橋馬喰町の長屋の住人が殺されていると届けがあったからである。
身元は(よろず屋)の彦兵衛と判明した。

粂八の聞きこみで、この彦兵衛は女房と二人暮らしで、
仲の良さは傍も羨むほどのもので、
その女房がこの月に入ってから姿を見ないので、
「喧嘩でもしたのかい」
と聞くと、彦兵衛は肩を落としうつむいたままなにも喋らなかったという。

鉄砲町の文治郎がこの彦兵衛の鑑識に立ち会って、
女房のおたみが神隠しにあったという話を聞いたと報告。

もしやと霊岸島湊橋に浮かんだ死人の遺留品であるかんざしを長屋の者に見せたところが、
それは彦兵衛が世帯を持った時、彦兵衛がおたみに買い与えたものと判明。
ここに、二人の死体がつながったのである。

事の顛末を聞いた平蔵
「どうも気にいらぬなぁ・・・・・
この2件の殺しと押込みとのつながりが無いか調べる必要がありそうだのう」
いずれも犯人の特定に至っていないことが平蔵としては気がかりなのである。

「南町奉行に出向き、彦兵衛の遺留品借り受けてまいれ」
と佐嶋忠介に命じた。

「早速そのように取り計らいます」
と佐嶋が出向き、二時程後に主だったものを借り受けてきた。

「まずは彦兵衛の得意先を書き出せ、特に大店からは申すまでもない、
殺されるにはそれなりの訳がなければならぬ、そのつながりを見極めることがまずは第一」
事件解決の足がかりは必ず足元にある、これが平蔵の口癖であった。
彦兵衛の出入り先は半時ほどで判明した。

書き出しを自ら買って出た佐嶋忠介が驚きの声を上げた。
「おかしら!大店としては彦兵衛が掛帳をつけ始めてよりこれまでの中で大店が二十件、
その内今年に入って五件見られます、
また何故かそのお店の名前の所に赤丸が付きしもの四件、
その一つに例の日本橋本町浮世小路の油問屋大津やが入っております」。

「何!大津やがやはりあったか!」

「おかしらはそれを・・・・・・・」

「何 いつものカンばたらきだがな、どうにも解せねぇ、
そいつがなんだか読めなかった。
だがな 彦兵衛の売掛帳と何か関係があると考えたのさ。
おそらく彦兵衛は女房をかたに取られて大店の間取りを吐かされたのであろうよ」

「なるほど、それは大いに考えられますな」
佐嶋は平蔵の事件を嗅ぎとる鋭さに敬服させられる。

「とすると印のついた残る三件のお店も間取りは取られたと踏むのが常道だな。
その 三件のお店はどこだえ?」

「はい 一つは鉄砲洲船松町材木商三州屋、
もう一つは日本橋本銀町二丁目両替商大戸屋、
残る一つが神田明神元鳥越町海産物問屋大島屋でございます」。

「よくやった!早速南町奉行所に出向き、池田筑前守さま見お目通り願い、
今後の策を立ててまいろう」
平蔵は書き写された調書を携え、南町奉行所に出向いた。

「長谷川殿この度はご助成下さるか!南町奉行所の月番で起きたこの度の事件、
何としても解決いたしたい、よろしくお頼み申す」

「何と、これは筑前守様には日頃よりのお気配り、
この長谷川平蔵心より感謝申し上げておりまする、
こたびは押し込み強盗が再び繰り返されるやも知れぬという事が判明致し申しましたゆえ、
火付盗賊改方と致しましても面目もござりますれば、
ここは一つ筑前守様のご助成をお願いいたし、両者で何とか彼奴らをお縄に致したく、
かく参上つかまつったようなわけでござりますれば・・・・・」

「長谷川殿よくぞ申してくだされた、犯罪を取り締まるに奉行も盗賊改めもござらぬ、
人々の暮らしを守る、それこそお上より我らがお預かりいたしておる御役目でござる、
そこ元の親父殿はいつもそのように申されており申した。

「先ずこたびの事件により危惧されまするお店が三件御ざります、
それを双方で持ち場を定め警戒に当たるがよろしいかと」

「おう それはご尤もな、では当方は日本橋本銀町二丁目両替商大戸屋を
密かに見張ることと致そう、如何じゃな?」

「さすれば当方では神田明神元鳥越町海産物問屋大島屋を第一に、
あわせて鉄砲洲船松町材木商三州屋にも目を光らせようと存じます」

「では早速に・・・・・・」

こうして南町奉行所と火付盗賊改方の連携のもと、
見張所が設けられたことは言うまでもない。

「筑前守様がお引き受けくだされたから、まずは手配りも二手で済む、
されば与力、同心密偵なども少しは体を休める時がまかなえる。
それぞれ持ち場のおのは互いに身体を休めるよう取り計らってくれ」
平蔵は佐嶋忠介にそう命じて、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。

「おかしらこそ、左様に根を詰められますとお体に差し障りも・・・・・」
「うむ だがなぁ佐嶋 火付盗賊が暇を持て余すようなご時世は
いつかやってくるのであろうかのう、わしはそれまで一時足りとも気が抜けぬ、
少しでも盗みを働かなくても良い世直しが出来ぬものかと、気の休まる時は持てぬ。
犯罪をなくすこれまでのやり方ではどうにもお終ぇは来ぬと想えぬか?」

「はい 左様に存じます、何か新しい事を考え、始めねばこれまでと何も変わらぬと存じます」

「そうであろうのぉ・・・・・」
平蔵は遠くに流れる雲のたなびきを眺めながら心に描くものを模索しているようであった。

「お頭!日本橋本銀町二丁目両替商大戸屋が昨夜押込みにやられたと、
南町よりの火急のお知らせにございます」

「何としたこと!で、詳細は判明足したのか」

「ただいま町方与力が調べに入っておる模様にございます」
沢田小平次が息せき切って報告に及んだ。

「くそっ!またしても・・・・・で、見張りはどのようであった?」

「はい 当夜当直の者の話しによれば、朝まで何も変化なく、
日が昇っても表戸が開かないために不審に思い覗いてみたが返事がない、
そこでもしやと戸を蹴破って中に入りましたる所・・・」

「一家皆殺しであろう」

「まさにその通りにございましたようで、南町ではその対策が取れず
ただただ戸惑うておる様子にございます。
この責任所在を今後どのように責められるか、今のところまだ不明のようで・・・・・」

「朝まで気づかなんだと申したな!」

「ははっ そのように申されておりました」

「絵図を持ってまいれ!」
平蔵は何か心当たりがある風に急がせた。

沢田小平次が急ぎ絵図面を持って入ってきた。

「日本橋本銀町・・・・・おい、佐嶋こいつを見ろ、朝まで気づかぬはずだ!
奴らは裏の川を小舟でやってきて、押込みをはたき逃げたに違ぇねぇ、
表だけを張っておってはどうにもならぬ、ぬかったわ!」
南町奉行池田筑前守の心中を思うとやりきれなさと無念さを想うのであろうか、
平蔵は悔しさがこみ上げるのを如何ともし難いふうで、両腕をわなわなと震わせた。

「残る二件を徹底的に洗い直せ、密偵共にもそのように申し伝えよ!」
いつもとは違う平蔵の気迫に忠吾はしり込みするほどであった。

絵図面で確かめると、神田明神元鳥越町海産物問屋大島屋は鳥越川から一町と離れていない。
「鳥越川は 不忍池から忍川を流れた水が、三味線堀を経由し、
鳥越川から隅田川へと通じておる、堀には船着場があり、
下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来して来る故、
奴らがどの方向から攻めてくるかが決めかねる。

先の日本橋の大戸屋と言い、この大島屋と言い、奴らめ上手ぇ所に目をつけておる、
小憎らしいまでの手配りよ」

平蔵はこの盗賊との頭脳戦を心のなかで描いているのか、
じっと腕組みしたまま絵図面を眺めている。

これまでの探索では賊の手がかりは全くなし、
証拠を残さないために全員を抹殺する手口がどうにも我慢がならない。

こようにな極悪非道の急ぎ働きをこれまで幾度か見て来たが、
いずれも影のように姿をくらましてしまっている。

「おそらく此度も鳥越川から船で大川に逃げ、
そこから何処へと姿をくらますであろう、わしが頭目ならば左様に目論む」
鉄砲洲船松町材木商三州屋、いずれも船を使っての押込みと想える。

「さて、此度は何処を襲うであろうか・・・・・南町奉行所としても、
この失態を挽回せねばなるまいから、力も入ろうと想われる、
そこでわしとしては神田明神の大島屋と狙いを定め、徹底的に網を張り、
猫の子一匹逃さぬ陣を敷かねばなるまい、もうこれ以上の非道を許すわけにはいかぬ、
鉄砲洲の方は南町からも近かろう、故に南町奉行所にお願い致そうと思う」

「では我らは大島屋を見張ればよろしいので・・・・・・」
と佐嶋忠介

「ウム 此度は失態もゆるされぬ、皆心してかかってくれ」
その日の内に大島屋の斜向かいにある穀物問屋越前屋二階は
火付盗賊改方の見張り所となった。

泊まり込みの与力・同心が八名、大島屋の裏周りは密偵たちが水も漏らさぬ張り込みで、
この度の平蔵の決意の表れを感じ取って、いつもとは違い いずれも緊張しきっていた。
こうして三日目の夜が訪れようとしていた。

「皆様ご苦労様でございやす、なぁにもうすぐでござんすよ」
そう言って握り飯を持ってきたのは伊三次であった。

本所二つ目の軍鶏鍋や五鉄の三次郎が気配りしてくれたものである。
「長谷川様がもうしばらくの辛抱ゆえ、しゃもの煮込んだ握り飯をこさえてくれ、
とお立ち寄りになられたそうでございやす」。

「さすがはお頭!よくご存知でおられる。
あまりに張り込みが長くなれば中々うまい飯も口には出来ぬ、
いつもならばこのようなおりは村松様の梅干し入の握り飯、
それにたくあんと、アレばメザシが・・・・・」

「これ忠吾!わしはな、お前たちがうまい飯をたらふく食えば
自然と眠気を催すのが目に見えておる、それ故わざわざ心を鬼にして握っておるのじゃ、
おかしらのお気持ちを努々(ゆめゆめ)違えてはならぬぞ」

「ははっ 有難き幸せに存じます」
と忠吾、言葉が終わるか終わらない内にさっさとかしわめしを両手にひっつかんで
「アッ 皆様も遠慮のうお食べ下さい」
と言ったものだから、その場の緊張もほぐれた。

子の刻を少し回ったであろうか、外で激しい物音がした。
戸の隙間から音で争う声と激しい動きが見て取れた

「押込みだ!一人も逃すな!」
佐嶋忠介の一斉に皆仮眠状態から飛び起きて階下に駆け下りて外へでた。
そこには長谷川平蔵の姿があった。

「お頭!」

「うむ 一人として逃すでないぞ、抗えば切り捨てても構わぬ、容赦なく討ち取れ!」
抗争は四半刻で収まった。

一味十三名の内十名は絶命、残り三名はことごとく手傷を負って捕縛された。
そのまま番屋に引き連れて行き、翌日清水御門前の火付盗賊改方役宅に改めて連行され、
即日平蔵の厳しい取り調べが始まった。

首魁の血まみれ悪太郎はすでに慙死、その他浪人崩れ六名も捕縛時に抵抗して慙死している。

捕縛されたものはそれぞれ佐渡送りとなった。

「長ぇ事件であったなぁ、池田筑前守さまもこれでやっと肩の荷が下りたと
お喜びのご様子であった。
お前ぇたちにもずいぶんと苦労をかけたなぁ、
盗っ人は想いもよらねぇところからでも仕掛けて来おる、
一日でもそんなことが起こらぬよう我らは心を一つにしてこの町を護らねばならぬ、
この長谷川平蔵の命あるかぎりお前ぇ達もすけてくれ、
それが俺のたった一つの願い事だ、なぁおまさ,五郎蔵、伊三次それに彦よぉ・・・・・
粂はまだ来ぬか・・・・・

おう 来た来た、これでやっと俺の宝が集まったなぁ、
いや有り難ぇさぁまずは一杯固めの杯と洒落込もうじゃァねぇか、
みんなありがとうよ・・・・・・・」

「長谷川様と言うお方は・・・・・・」

ただ軍鶏鍋が熱々と煮たぎって湯気が部屋中にあふれていた。

後に平蔵が語った所によると、南町奉行所の取り調べにより獄門と決まり、
斬首された血まみれ悪太郎の親父権三郎の敵を討ちたいと南町の当番を狙っての犯行だった。

「ただ、その頃はまだ筑前守様は奉行ではなかったそうな、
げに恐ろしきは人の怨念、足を踏んだものは忘れても、
踏まれた方はいつまでも覚えておる物・・・・・・
その痛みの重さ分妬みや執念になるものであろうな」。

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10月第1号 人斬り浅右衛門

 
山田浅右衛門といえばこの方 栗塚 旭 でしょうねぇ


最後の 山田浅右衛門吉亮 明治36年50歳

この日平蔵は内藤新宿の正受院まで足を伸ばし、
久しく回っていなかったこの界隈を歩いた。
吉宗の享保の改革で一度は取り潰された宿場ではあったが、
明和元年に再復興し、この度は飯盛女を150人抱える賑いを見せている。

飯盛女とは形ばかりで中身は言わずと知れた岡場所と同じである。

文化5年(1808年)には旅籠50軒、引手茶屋80軒と記されており、
品川宿につぐ賑いでもあった。

仲町の北側内藤新宿中央にある太宗寺には江戸六地蔵
(一番は東海道の品川寺、二番は奥州街道の東禅寺、四番は中山道の真性寺、
五番目が水戸街道の霊厳寺、六番目が千葉街道の永大寺で、
三番目にこの甲州街道の太宗寺があり、飯盛女達からは
「しょうづかの婆さん」と呼ばれる疫病よけと咳止めに効き目があると言うが、
奴楼たちは、衣服を剥ぐというので商売の神様になっている閻魔大王に仕えている
奪衣婆像が知られていた。

この奪衣婆(だつえば)は、三途の川の渡し賃を持たずにやってきた亡者の衣服を
剥ぎ取る鬼で、剥ぎ取られた衣服は懸衣翁(けんえおう)という老爺が
衣領樹(えりょうじゅ)と言う樹の枝に懸け、
その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを量ると言われている。

三途の川は流れが早く深瀬を通る決まりなので衣は濡れて重くなるので、
罪の重さも決まるという、又着衣していない者は衣の代わりに
生皮を剥ぎとって掛けたという。

又ここは四ツ谷から甲州街道に連なる要所でもある。
それだけに江戸から逃げ延びる盗賊や、逆に江戸に入ってくるそれらの者達が立ち寄リ、
逃げる際の拠点にもなる重要なところでも在る。

信州高遠藩内藤家初代内藤清成が徳川家康から
「馬で一息で回れる土地を与える」
と言われ南の千駄ヶ谷から北の大久保、代々木、四ツ谷と走りぬきこの地を得た。

この内藤家の中屋敷があったところから名付けられた
人馬の休憩所であった内藤宿より新しい宿という意味合いがこもっている。

この大宗寺門前町にさしかかった時、
「だつえば」
と言う一杯飲み屋の看板が目に入った。
(面白い)平蔵の好奇心をそそるには十分な仕掛けであった。

使い込んだ縄のれんは手垢と埃で変色している、
又それがこれから起こる予測不可能な展開に油を注ぐほどの興味があった。

網代笠でのれんを分け一歩中へ入る・・・・・・・
4間間口ほどの中は旅人や宿場の様々な住人がたむろする風であった。

「旦那!飯ですかい、それともこっち?」
と席に座っている駕籠かき風体の日焼けした顔が盃を空ける仕草をしてみせ、
親しげに声をかけてきた。

「おう こっちをもらおうか」
平蔵は盃を空ける仕草をして見せながらその男の隣の席に座った。

その男は奥に向かって
「こちらの旦那に酒だよ!」
と注文した。

「お前ぇまさかココの・・・・・・」

「へっ とんでもねぇ、あっしはお見かけ通りの駕籠かきでござんすよ」

「ほう だが・・・・・」

「どうしてっとおっしゃりてぇんでござんしょう」

「うっ まぁな」

「へへへへ そこなんでござんすよ、何しろこの店は女将一人で賄っておりやすんで、
こんな時ぁ猫の手でも間に合わねぇ、で勝手に客が口を挟むのが
普通になってしまいやしてね」

「なるほどなぁ ところで表の看板を見て入ぇって来たんだが・・・・・」

「旦那もその口で、あははははぁ、一見の客はたいてぇそうなんでござんすよ」
そう言っているところに酒肴が運ばれてきた。

女将は50を半ば回ったと想えるものの、顔立ちは整っており所作も
どことなく品を感じさせる
「どうです旦那?ベッピンでござんしょう?」
男は平蔵の反応を楽しむかのように覗きこむ。

「ウム 若ぇ時ぁ中々の美形であったと思えるが何か?」
と水を向ける。

案の定男は待ってましたと言わんばかりに口を開いた。

「おしまさんは昔は吉原でも名の通った花魁だったそうでね、
年季が明けてそのお店の板さんとこの宿場に落ち着いて
小さな小料理屋をやっていなすったんでさぁ、
ところがそれもわずかの間で、無理がたたったのかあっけなく旦那が逝っちまった。

そんとき宿場の世話役が気の毒がって店を売るように
手配りなさって、
そのあとおしまさんはこの店を出したってわけで」
「なるほどなぁ、人の定めは一寸先も見えねぇってわけだ」

「なんせあの器量でござんしょう、宿場の野郎どもが黙っちゃぁいませんや、
押すな押すなの賑で、何しろ元が花魁ということもありで、
この辺りの食売女たぁわけがちがいまさぁね、垢抜けしていてそりゃぁもう、
お判りでござんしょう旦那」
と平蔵の返る言葉を読んでいる様子である。

「うむ だがなぁ この店の屋号が面白ぇ、何かいわくがあるのかい?」
平蔵はさらりと交わしながら確信を突いた。

「それそれそれ!奪衣婆でござんしょう?、ありゃぁね洒落でござんすよ、
こんな宿場だ!金のねぇ奴もいまさぁね、そんな時でもおしまさんは飯を出してくれる、
そのために金を払えねぇ奴らが汚ねぇ着物を脱いでおいて行くこともありましたのさ、
それでいつの間にか奪衣婆ってぇ洒落が生まれちまって、
いっその事看板にしちまおうって事で へへへへへ」

「なるほどここは奪衣婆や閻魔様も居座っておるからのう」
と平蔵

「さすが旦那よくお判りで嬉しくなってしまいやすね」
男は心の底からそう思っている様子が伝わる笑顔を平蔵は嬉しく想えた。

「ところでこの肴だが、こいつはナマズだな?それにしても山椒の薫りがなんとも清々しい」

「で ござんしょう?」
男はココぞとばかり目を輝かせて身を乗り出さんばかりの力の入れようである。

「こいつはね甚助って野郎が近くの川で獲ったやつを裏のいけすに
3~4日泳がせて泥吐かせやす、それから頭に目打ちをくれてやり 
生きを締めやして、ぬめりがなくなるまで塩で洗うんでさぁ。

水で洗いながらはらわたを出して頭を落とし3枚におろし、
程よく切り分けて、砂糖、醤油、みりん、酒、山椒の実で炊き上げやす」。

「お前ぇ馬鹿に詳しいじゃぁねぇか ええっ!、
お前ぇもしかしてこの女将におっぽれているんじゃぁねぇのかい?」
平蔵はこの男の肩の入れようを軽口で誘ってみた。

「じょじょじょ冗談じゃぁねぇですよ旦那、おしまさんはこの宿場の野郎ども
みんなの観音様みてぇなもんだよ」

「わはははは こいつは参った、観音様とはなぁ恐れ入り谷の鬼子母神たぁわけが違うか」
平蔵は楽しげにこの男のやりとりにも舌鼓をうった。

「美味かったぜ、」
と2朱を出した。

「あっ これでは戴き過ぎで」
と困った表情を見て平蔵

「あいつらの楽しそうな姿の褒美よ収めておきな、
それにしてもお前ぇ中々出来るもんじゃァねえぜ、観音様はよ あはははははは」
平蔵のこの言葉におしまは

「人に情けをかけるより、情けをかけられる者のほうが人として深うございます、
あたしはそれを宿場の皆様から頂きました」

と静かなほほ笑みで平蔵を見た。

(ウム この微笑みこそまさに観音様だなぁ)
久しぶりに満たされた思いで内藤新宿を後に平蔵は清水御門役宅に足を向けた。

ゆらゆらと麹町まで戻ってきた。

うなぎ屋(秋本)の看板が目に入った。
優雅な数寄屋造りに心が落ち着くようで、平蔵は格子戸を開けた。

懐の深い居すまいは周りの武家屋敷からも伺えるように客も上客ばかりと見えた。
「生憎でございますが相席でもよろしゅうございましょうか?」
前掛けをした若い男が出迎えた。

「俺は構わぬが、お相手の意向も訪ねてくれ」
と平蔵
「承知いたしました」と引っ込んで
「相席のお許しが出ましたのでご案内いたします」
と近場の間仕切りした小部屋の方へ案内した。

中庭は手入れの行き届いた草木と岩の阿吽の呼吸が見事で、
さすが武家屋敷のそばは違うものだと感心しながら小部屋に入った。

「相席をご承知くだされかたじけない」
と平蔵は丁寧に会釈した。
相手の男は軽く会釈を返して盃を干した。

見れば身なりは整えられて、月代も綺麗に揃えられている、
(ただの浪人にしてはこれは・・・・・)
平蔵はこの見知らぬ相席の男に少しばかり興味がわいた。

「この店はうなぎが得意のようだが、今日は昼にナマズを戴きもうした、
魚の他に何かおすすめのものでもないかのぅ」
注文を取る男に平蔵はそう告げた。

「筍にホタルイカの酢味噌和えを頼まれればよろしかろう」
と相席の男が薦めた。

「おお それは又美味そうじゃ、そいつを頼む、それと酒だ」
そう言いながら平蔵は太刀をぬいて脇においた。

「御貴殿中々の業物をお持ちのようだな」
平蔵の刀を一瞥したその男が中庭の岩にかかる小草が風に揺れるのを
眺めつつつぶやくように言った。

「おお お目に止まり申したか、これは親父の形見にござるよ」
と刀を持ち上げてみせた。

「拝見させていただけますかな?」
物腰も柔らかく男が言葉をつないだ。

「無論のこと 喜んで・・・・・・ところでご貴殿は目利きをなされるので?」
平蔵の言葉を聞き流しながら刀を受け取り、
懐紙をくわえ両手で目の高さに捧げ軽く一礼し、礼節を尽くした。
無論これは武士の魂と言われる刀を拝見するとき
、直接刀に息を吐きかけない配慮からの当然の作法である。

柄口を手元にこじりを向こうに構え鯉口を切り、すらっ と鞘を払った。
上下に目を移し、刃を返してもう一度眺め、刃を上にして反りや肌の沸など
じっくりと眺め、静かに鞘に戻し、

「鍛えは板目肌は強く,刃文も直刃で焼き高く小乱れを交えた小沸の微塵に厚きもの
となると粟田口国綱と見たが・・・・・しかし・・・・・」
と言葉を遠慮がちに残した。

「おう これは恐れ入りまし、まさにその通り親父より譲り受けし業物にござります」
平蔵は刀を受け取りながら、
「申し遅れました、身共は長谷川平蔵と申します」
と名乗った。

「いやいや失礼をいたしたのはこちらの方、私は山田浅右衛門と申します」

「ううんっ もしや御様御用の山田様で?」
あまりの出会いに驚きながら平蔵は確かめた。

「いかにもその山田浅右衛門でござる」
男は少し気を許したのか笑顔で答えた。

「いやまさに奇遇ともうしますか、このような場所でお目にかかれるとは・・・・・」

「長谷川殿と申されたが、そこもとは盗賊改めの長谷川殿か?」

「仰せの通り、今は火付盗賊のお役を勤めております」

「さようであったか、ならば国綱を所有されておられてもおかしゅうはない、
いや出会いとは妙なところでも起こるものでござるなぁ」
浅右衛門は愉快そうにカラカラと声を上げて笑った。

「ところで山田殿、先ほど(しかし)と言葉を残されましたが・・・・」
と平蔵

「あ いや さほどの意味はござらぬ」

「んっ もしかしてこの刀が国綱ではないかも知れぬと・・・・」

「ウムそこまで申されるならば身共の思いをお聞かせいたそう、
元々粟田口は京の洛外にて発したものの、足利将軍家御用達ともうしまするか、
代々を将軍様御用刀としてのみ継がれて参り申した、ゆえに・・・・・」

「いやまさに身共も左様に心得ておりまする、幾ふりも打ちたる中から献上されしゆえ、
残りのものが流出したやも知れませぬ、また似通ぅた業物に銘を似せて打ったものも
ござりましょう、その一つと身共は想い、気軽に手挟みておりまする」

「なんと そこまで承知でござるか、これはまた豪気な長谷川殿でござるな、
いや愉快ですなぁ」

そこへ酒肴が運ばれてきた。

「どれどれ早速頂戴仕る」
美食に目のない平蔵の緩んだ目元を楽しげに眺めながら浅右衛門

「この店も、うなぎは又格別なれど、この炙り筍とホタルイカの酢味噌が又美味い。
塩を入れて少しイカを茹でておく。

ホタルイカは何せ小さい、目玉やくちばしなどを指でつまみ出すように
取り除いて背板をつまみ出し、塩水で痛めぬように軽く洗いぬめりを取る。

軽く水で塩気を流してザルにあけて水気を切る。
それから酢味噌を作る。

白味噌と砂糖、それに酢を混ぜて酢味噌を作る。
この時酢を入れるのに少々好みが出るので、味を確かめながら酢を足してゆく
、これがコツと申すか・・・・。

筍は湯がいたものをゆっくり炙り、水気をしっかりと飛ばすのが肝でござる。
炙り上がった筍の表に格子状に切り目を入れて、白味噌と味醂、
砂糖と卵黄のよく練ったものを軽く塗りこみ器に並べ、ホタルイカを飾り付け、
酢味噌を添えこれに季節の香の物、山椒の葉を飾り付ければ出来上がりでござる」

「いやいや こいつも旨うござるが山田殿の講釈で更に旨味が上がり申す、
これはなかなか、おそれいりましてござります」。

平蔵はほくほく顔でこの炙り筍とホタルイカの酢味噌を口に運ぶのが忙しいようである。

私はこの近くの平川町に住まいおり申す、時には遠慮のう立ち寄られよ、
酒のもてなし程度ならばいつでも歓迎でござる」
浅右衛門は平蔵のくったくのない笑顔が気に入った様子であった。

「お言葉嬉しく頂戴つかまつります」
平蔵丁寧に頭を下げて浅右衛門の申し出を心から喜んだ。

これ以後お互いに近くを通りかかれば声を掛け合うような
付き合いが続いたのは言うまでもあるまい。

それから半月ほど時が過ぎたころ、清水御門火付盗賊改方役宅に
門前に山田浅右衛門が平蔵を訪ねてきた。

「急ぎ座敷にお通し申せ」
平蔵は丁重に招き入れた。

「長谷川殿 先日、千鳥ヶ淵で辻斬がござったのはすでにお聞き及びか?」
と問いかけてきた。

「いえ 身共は火付盗賊なれば辻斬などは町方に回されます故、詳しきことは・・・・・・」

「なるほどなぁ いや 実は過日ある武家屋敷より刀の目利きを依頼されもうした、
その後すぐの出来事ゆえ、少々気になり申して」
と浅右衛門は意味ありげな口ぶりである。

「まさかその刀の試し切りと・・・・・」

「さようには思いたくないのだが、切れ具合が鋭すぎる、
骨まで切り捌かれたところでは余程の業物であろうし、
手練のものでなければあぁも見事に切り裂かれぬ」

「と申されると、その刀の出処が・・・・・・」

「私もそれを心配いたしてこうして参上致した次第」

「あい判り申しました、早速奉行所に問い合わせ致しましょう」
平蔵はこの浅右衛門の助言でこの後幾度も事件の糸口を見つけている。

「おかしら!本日のご来客はあの首切り浅右衛門でございますか!?」

「さすがうさぎの耳は早耳じゃのう」
忠吾の素っ頓狂な返事は決まっている。

「ままままっ まさかと思いましたが、やはりあの御様御用の山田浅右衛門で・・・・・
いつのまにおかしらは浅右衛門とじっこんになられましたので?」

「うさぎ 人の出会いは糸のもつれと同じようなもの、
解けるまでは誰にも判らぬ、解けた時にやっ こいつは!と 驚くものもある。

だがなぁこれもそれぞれが内に育んでおる、秘めたる力と申すか
思いというかそのような物が引きおうて出会うとわしは思うておう」

この辻斬事件はこの後数日の間に3件勃発し、いずれも同じ切り口であった。

それから半月ほど後、刀剣磨師の孫七から浅右衛門に目利きの依頼があり、
過日浅右衛門が目利きをした業物と判明した。

刃こぼれも無く、血溝に残された脂ののり方から、かなりの血を吸った業物と想われた。
浅右衛門の話から依頼人の身元も判明し、ご大身の旗本の子息であることも判明したが、
証拠不十分で取り押さえることも出来ないままこの事件は終わってしまった。

だが、それから数日後再び千鳥ヶ淵に辻斬が出た。

そして幾晩目かに再び夜鷹を襲った辻斬が現れたが、この度は返り討ちにあった。
切り倒したのは奉行所への届け出によると山田浅右衛門と名乗った。

検視した南町奉行所の所見によれば、見事というほかなく、
関節の間を切り裂いて骨には傷ひとつついていなかったと調書に記されていた。

無論のこと、即日何処かの家中の者が遺体を引き取りに出向き、事はそれで終わった。
数日後、とある家中から嫡子病死の届け出がなされたと平蔵は聞かされた。


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9月第4号  身代わり盗賊

”みよしや”のおよねちゃん

「義賊だぁ 義賊だぁ世直し小僧が現れたぜぇ!」
 このところ大掛かりな盗賊騒ぎもなく、
少し落ち着いていたかと想われた矢先に飛び込んできた瓦版。

しかし被害届が出ていないという奇妙な事件である。

何でもばらまかれた場所も特定ではなく、
無作為にばらまかれているようで、その金額も1両小判のみ。

全く手がかりがないまま、そんな瓦版の報道が続いた。

被害届が出ない場合、探索のやりようもなく
江戸の町は義賊世直し小僧の話題のみが駆け抜けていった。

別に盗賊が世直し小僧と名乗った形跡もなく、
屋根の上を千両箱を担いで駆け去ったとか、
まるでねずみのように素早かったとか、
まことしやかなうわさ話が膨れ上がって義賊騒ぎになったようであった。

事が露見したのは小判を身なりの貧しい者が複数
両替屋に持ち込んだことから発覚したようであった。

小判1枚なぞ普通町人の間でそう簡単に流通する代物ではない。
長屋の家賃が500文(12500円)1両小判は4000文

その日暮らしの生活が多かったこの時代、
まとまって金を手にすることは少ない。

買い物をするには2朱でさえ釣り銭に困る時代に、
1両出されても魚一匹買うことは出来ない。

結局両替商に持ち込むことがしごく普通であった。
だが、両替商とてそう簡単に交換はしてくれない、
何しろ相手の身なりが気になる、と言う事でお上に届け出る。

こうして事件が表に出たわけである。

店賃を溜め込んだ店子はこの時とばかり大家に借金払いと、
これを持込み、大家も困り果てて両替商に持ち込む。
しかし、両替は手数料が発生する、これは大家の負担となる。

まぁこんなことが繰り返されたわけであろうか。

瓦版もこれを面白おかしく刷り上げたものだから、
アッという間に義賊世直し小僧の話題が江戸の町に広まった。

「困ったもんだ、店賃をまとめてはらってくれるは良いけど
、そいつを持って両替屋にゆけば金の出処はどこか確かめられる、
挙句に手数料を取られて目減りするばかり」
大家の嘆く顔が目に浮かぶ。

江戸中期小口取引の小商いの銭両替屋で1両変えるのに40文取られた。1
0万円に対して千円である。
所帯を持ってもプー太郎の多かった江戸の町、
其の日その日で暮らしもたった。

仕事さえ選ばなければ困ることはない、
「日暮しゼミも悪かぁねぇや、宵越しの銭は持たねぇ」
と啖呵を切ったものだ。

こうして 世直し小僧の奉行所や盗賊改めをあざ笑うかのような事件が
次々と引き起こされた。

義賊騒ぎが話題に登る一方、町の治安を預かる奉行所、
町方や火付盗賊改方に対するお上の非難の声は増大するばかり。

ついには老中より非難の声が立ち上り、
ことに火付盗賊改方にはさらに厳しい圧力がかかってきた。

「平蔵! このまま捨て置くわけにも、聞き逃すわけにもいかぬ事態となった、
何としても此奴を捕縛してくれ」。
老中若年寄の京極備前守の呼び出しを受け、
平蔵は切羽詰まっている備前守の窮地を察するにあまりあった。

これまでの急ぎ働きは主に商家が的になった。
だが、この度は全く違い、被害届が出てこないので対処のやり方が定まらない。

時は容赦なく流れ、モンモンとした日々のとある日、
「名を明かせぬが・・・・」
と大身の旗本用人らしき武士が平蔵を訪ねてきた。

「長谷川殿 恥を忍んでのお願いに参上つかまつった、
お家の恥故名を出すわけには参らぬが、
そこを汲み取って頂いてのお願いでござる」

「ほほぉ 一体どのようなお話でござろうや?」

「さらば この所市中を騒がしておる世直し小僧なる者を
ご承知なさっておられるであろうか?」

「いかにも承知いたしてはおりまするが、
なにせ被害届が出ておらぬ故、まったくもって手の打ちようがござらぬ」
と応えた。

「そこでござります、近頃密かに大名家に盗賊が入るとの噂話で・・・・・」

「何と!大名屋敷でござったか!」
平蔵は事の真相がやっと見えてきたことに少々安堵の色を見せながら

「で、どのような様子でござろうか」
と膝をのりだした。

「身共が相談を受けましたるご家中では、奥向きにある長局(ながつぼね)で、
深夜に押し込み、寝所を避けて金のありそうなたんすや文庫を物色し、
それを掠め取るために、気がついた時はいつ盗まれたのかさえ判らぬ始末、
それと判明致しますまでに中々時が経ちまして・・・・・

こたび御金蔵が破られるに至り、やっと事の次第が判明いたしました。

上屋敷にでも聞こえようものならば御留守居役としては
お腹を召さねばならぬやも知れぬ恥辱、何卒長谷川殿のお力をもって・・・・・」

「なるほど!早速、手をうち申そう」
と平蔵は応えた。

用人が立ち去った後を、密かに微行て行ったのは沢田小平次であった。
「どうであった?」
帰宅した沢田に平蔵は早速用人が立ち戻った屋敷の持ち主を尋ねた。

「驚きました、御用人の立ち戻りましたる先は小石川の松平織部様下屋敷」

「何!  あの菖蒲屋敷か!」

「はい 間違いございません」

「何としたものか・・・・・」

少なくとも譜代大名家下屋敷である。

相手が大名屋敷となれば、これでは町奉行所も管轄外、
寺社奉行では実戦力に乏しくどうにも対応ができない・・・・・

結局火付盗賊改方にその矛先は集まるのも必定であった。

困り果てた平蔵は京極備前守の力を借りる決心を固め密かに下屋敷を尋ねた。

平蔵の話を静かに聞いていた備前守が
「まこと、こ度は難儀なことよのう、被害も出ておるであろうが
体面から申し出ておるものはない、あいわかった!わしが手を回して見よう」
備前守は老中の立場からもこの事件を無視することは出来ない。

数日後平蔵は備前守に呼び出しを受けた。

「平蔵 困り事があるならば密かに相談にも乗ろうと
留守居役に持ちかけたらば、何と八件もの相談が舞い込んで来おった」。

「まこと 八件も被害に遭ぅておりましたか・・・・・
直ちに探索にかかりまする」
平蔵は備前守の助力に心服し、屋敷を辞した。

「お頭、この度の押し込みはご大身のところばかり、
これはいかなる理由にございましょうや?」

側近の筆頭与力佐嶋忠介が膝を乗り出して詰め寄る勢いである。

平蔵は自分よりも四ツ五ツ年上のこの男を、
火付盗賊改方を受ける際に同役組頭の堀帯刀秀隆より借り受けた切れ者である。

「のう佐嶋 江戸に住まいおる者の半分が侍だ、
その大半が参勤交代で居住する独り者。
これは諸藩倹約の為からもやむをえぬ、
それゆえ大名屋敷を警護するものも限られていよう、
下屋敷ともなると更に其の数は少ないと想わねばなるまい」。

「なるほど 左様なことでございますか、さすれば屋敷は広く、
その割には警護は少ないという盲点が見えてまいりますなぁ」

「さすが剃刀と言われる佐嶋!まさにその通りよ。
商家は金にあかして厳重な用心も出来ようし
、所によっては用心棒を置く始末だ、こいつらがまた揉め事を起こす元でもあるが、
我らにとっては少なくとも敵にはなるまい。

だとすれば何処が狙いやすい?」

「まさに 武家屋敷でございますなぁ」

「その通りよ、武家屋敷は広ぇが、一旦入ぇっちまえば警護の手配りは薄い。
金蔵の警護と言っても、そこまで手の届くほど金もかけられまい。
まぁ決まった時刻に巡回する程度が関の山じゃァねぇのかい?」

「なるほどお頭の申される通り、責めるに易く護るに難しでございますか」

当時の金蔵は個別に立てるものと、商家などでは、
住居を共にする見世蔵の二種類があった。

見世蔵は厳重な警備体制の物もあり、同じように作りは漆喰であったが
入り口が広い、このために重厚は扉が遣われており、中々破ることは難しい。

別蔵はアリの入りこむ隙間もないほど漆喰で固められており、
たやすく入り込むことは出来ない。

壁は厚さ一尺あまり、(33センチ)内部は竹で編んだ小舞壁で、
穴を開けるなんて時間がかかりすぎて無理。

屋根は二重構造で、こちらも土で固めた屋根の上にもう一つ屋根を重ねる形で、
屋根を破ることもほとんど不可能。

結局錠前一つがまさに鍵であった。

だが、この錠前、半端なものではない、錠前を破るのはまず不可能と考えるべきもの。
その蔵が破られたのである。

用人の話によると、問題は錠前はそのままで、
錠前を取り付けている丁番が破壊されていることで、これは新たな手口であった。

「しかしお頭、それにしても大胆な賊でございますなぁ」
佐嶋が重い口を開いた。

「そいつよ! 大名屋敷なぞは表向きは男どももそれなりにおろう、
だが人を増やせば謀反の疑いと痛くもねぇ腹を探られ、
増やそうにも何処も台所事情は楽ではないはず、

とすると蔵のある奥向きはお女中のみの警護となり、
定刻の火の用心見回りしかあるまい。
こいつぁ判れば時間が読める」

「まさに・・・・・・」

しかし遠回しに内情を探ろうにも何処の家中も面目を保つために
口は貝のごとく固く結ばれたままで得るものは皆無であった。

ところが事件は想わぬ所からほころびを見せた。

密偵の伊三次が根城にしている上野山下二丁目のけころ茶屋
提灯店のおよねが妙な話を聞いたと言うのである。

「ねぇねぇ伊三さん、この前さぁ世直し小僧が出たじゃァない、
丁度金を撒いているとを見たって客が居たんだって!」

「誰でぇそいつは」
伊三次がおよねに問い返した。

「あたしゃじゃぁないからさぁ よくは知らないけれど、
おそのちゃんの客がそう言っていたって、ねぇ ホント可笑しいわよねぇ」
と言うのであった。

「まことか!伊三次でかした、そいつはまたとねぇネタだぜ、
で、そいつの身元は判ったのかえ?」

平蔵の輝いた眼を嬉しそうに見上げて伊三次
「そりゃぁもう長谷川様!奴の居場所は上野霊厳寺そばの長屋でして、
大工の留ってぇ野郎でござんすが、
たまたまふるまい酒でしこたま飲んだもんですから、

夜中に厠へ行きたくなって用を済ませて家に入ろうとしたところに
世直し小僧が銭を撒いたところを見ちまったそうで、
野郎の後をそっとつけていったそうでござんす」

「おうおう それでどうした!」
もう平蔵先が知りたくてそわそわしている。

「へぃ 上手ぇ具合に月明かりもあり、
後をつけるにゃぁさほどの苦労はなかったようで、
着いた先が下谷池之端仲町の正智院長屋だってんでさぁ」

「それじゃぁお前ぇどちらも近ぇ訳だ」

「その通りで・・・・・」

「で、そいつの名は?仕事は?」
もう平蔵じっとしておれない様子が伊三次にはよく判った。

「早速聞きこみしやしたら、野郎の名前は豊松、植木職人でございやした。
中々腕が良いそうで、大店や時には旗本屋敷などへも
出入りしているという話でございやす」

「なるほど これで話がつながった、植木の手入れは何処も植木屋に頼む、
出入りの植木屋ともなれば出入りは厳重でも中ではさほど警戒もあるまい。

しかも屋敷が広ければ時間もかかるであろうし、
下調べにゃぁ十分だなぁ、植木屋かぁ上手ぇところにもぐりこみゃぁがったもんだ」
平蔵は半ば呆れながらも目の付け所に感心している。

「よし!本日からそいつを見張れ!おまさと彦十にもつなぎを取って食らいついておけ」

その日から下谷池之端仲町の正智院屋は猫の子一匹出入りしても平蔵の手の内となった。
向かいに手頃な空き家があり、そこにおまさと五郎蔵夫婦が住み着いた。
早速おまさが引越しの挨拶にと卵を一つ丼に入れて敵情視察を行った。

出てきたのはまだ四十前の骨格のがっしりした
男で
「こりゃぁまたご丁寧に、卵とはありがてぇ、
あっしは上野寛永寺そばにある植木職緑松園の親方のところに
出入りしておりやす豊松と言いますんで、」
と答えた。

「あたしはおまさ、亭主は五郎蔵といいます、
かざり職が本業なんだけど、越したばかりなんでしばらくそっちの方はおやすみさ」
と言いながら素早く部屋の中を読み取った。

「おや そいつぁまた・・・・・
あっしの親父が錺職人でガキの頃からタガネを持たされて、
そいつが嫌で十五の時に家をおん出てしまってそれっきり、そうでござんすか」
そう言って目元が緩んだ

五郎蔵からこの話を聞いた平蔵
「読めた!五郎蔵読めたぜ!」

「なんでございましょう長谷川様?」

「そいつは確かに親父が錺職人だと申したな」

「はい さよう申したそうで」

「そいつだ それですべてが解けた」

「えっ と申されますと野郎が犯人だってぇことが・・・・・・」

「おうおう そうともさ、大名蔵の閂の丁番が外されておった、
こいつぁどうやったかと中々考えが及ばなかった、
だがなぁ錺職人と聞いてピンときた。
そいつぁ丁番の釘をタガネで切りおったのよ、
丁番さえ外せばどんな錠前でもただの金具の塊だ」

「ですが長谷川様タガネを打つにゃぁ槌の音が・・・・・」

「おそらくそ奴のヤサを探せば何か音の出ねぇ当て物が見つかるこったろうぜ。
よし引き続きそやつの動きを張り続けるよう、おまさ五郎蔵につないでくれ!」 

それから何事も無く十日の時が流れた時それは起こった。
「お前さん豊松が出かけましたよ!」
おまさが交代で休んでいた五郎蔵を起こした。

五郎蔵は距離をおいて後を微行てゆく。
下谷の松平大蔵大輔下屋敷の周りをぐるっとひと回り。

「なんと、そのまま帰ぇったか?」

「はい 屋敷に入る手順などを読んだ様子でございました」

「松平大蔵大輔と言えば、古銭の収集でよく知られておるお方、
奴めそこまで調べての下見とは・・・・・
いやご苦労であった、おそらく近いうちに動きがあると想われる
、引き続き用心するように、あぁそれからおまさにも伝えてくれ、
日夜を問わず大変であろうが、もうしばらくの辛抱をこの平蔵が頼んでいたとな」

「長谷川様・・・・・・」
五郎蔵はこのお頭の心の深さを思い知った。

その翌日には下谷の松平大蔵大輔の屋敷は火付盗賊改方の網の中に
すっかり収まっていた。
当然かねてより京極備前守より下付されたしたため状を携えて、
屋敷内への立ち入りを許されていたからに他ならない。

狙いをつけたであろう蔵に仕掛けが施されていた。

元は闇将軍と呼ばれた大盗賊八鹿(はじかみ)の治助の仕掛けある、
気づかれることは萬に一つもない。

時は子の刻(十二時)を少し回った頃であろうか、
盗賊改めが詰めている部屋の小鈴がチリチリと鳴った。

「出口を固めよ!」平蔵の合図で、賊が侵入したであろうと想われる
場所を中心に塀の外も山崎以下三名の同心が固め、
本命と想える蔵の陰に平蔵と佐嶋忠介それに沢田の姿が潜んだ。

月もなく漆黒の闇の中での作業は手探り状態であろうが、
すでに確かめられておるはずで、さほどまごつくことはない様子であった。
耳をそば立てると微かに鈍い音が聞こえる程度で、
部屋の中まではとても聞こえるほどの音ではない。

(これでは判るはずがない)平蔵も感心するばかりである。
四半時も過ぎたであろうか、油を引かれた蔵の大戸が静かに開いた気配がした。
用意していたガンドウに火がつけられ、ばらばらと蔵の前に走り出た。

「火付盗賊改方長谷川平蔵である!豊松!神妙に縛につけ」
と蔵の中に駆け込んだ。

バタバタと音がしてガラガラ物が倒れる音とともに何かが平蔵の背後へ飛び出していった。
だが、外に待ち構えていた佐嶋忠介に叩き伏せられてしまった。

足元に金槌と何か黒いものが落ちていた。
拾い上げた平蔵 「革か!」なるほど厚い革なら音は吸収しても力は伝わる、
(うまく考ぇたものだなぁ)と半ば関心したものであった。

一行が近くの番屋に引き上げた後、
平蔵は事の次第を留守居役に首尾よく捕らえたことと、
協力いただいた礼を述べ引き上げた。

翌日番屋から引き立てられて豊松が清水御門前の盗賊改方役宅に引き出された。

「おい 豊松、お前も大した度胸よのう、
旗本屋敷とは上手ぇところに目をつけたもんだ、
だがどうして小判は貧乏長屋に放り込んだのだえ?」

一番ひっかかっていたことを先ず問いただした。

「あんな物ぁさばくにも手間がかかり足もつきまさぁ、
小銭ならその心配もありやせん、
で小銭だけは残して後は気持よくばら撒いたってぇところでございやす」

「お前ぇ小判は欲しくねぇと言うのだな」

「へい そんなものはたいがい博打で消えまさぁ、
でもね!貧乏長屋にばら撒きゃぁ、ちったぁ暮らしの役にも立てる、
有る所から無ぇ所に移し替えて役立てる、それだけの仕事でさぁ、
そうじゃぁござんせんか?」

「うむ 盗人にも三分の理かぁ、だがな、
結局そいつらは失くなっちまうまで働きもせず暮らすんじゃぁねぇのかえ?
それが江戸っ子だってぇことを知らねぇお前ぇでもあるめぇに」

「そいつぁおおきにお世話ってもんで、使い道までは、
あっしには関係のねぇこって」

「そうだよなぁ つまりお前ぇは盗っ人で義賊でも何でもねぇ、
世の中を引っ掻き回して楽しんでいただけの盗っ人よ!
まぁ鳥も通わぬ八丈島でゆっくり骨休めでもするんだなぁ、
最もそうは問屋がおろさぬであろうが、お前の腕がありゃぁ島でも役立つと想うぜ」

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9月第一号 なんでも屋  2-1


栗塚旭

 
九代目 山田浅右衛門吉亮(1854~1911年)

「今日も早くから精が出ますねぇ」


「はい 何しろ品物は新しい内が何より、
それで安いのが手前どもの信条でございますから」



腰を低くして愛想をするのは「なんでも屋」の主、幸兵衛



このなんでも屋、まさに何でもありときている。



特に日々の暮らしに必要なものはほとんどこの店1軒でまかなえるほどである。



「近頃長屋の近くに出来やしたお店が評判でござんして」
と粂八



「ほう、そいつは一体ぇどういうお店なんだえ」



「何しろその日その日に入り用の野菜・味噌・醤油・酒・砂糖・米・ヒモノ
・端布・小間物なんぞが揃っておりやして、野菜なんぞは近くの百姓と
契約しておりやすそうで、そのために間を通さないので安く出来るとか・・・・・」



「なるほど そいつぁ考ぇたものだなぁ」



平蔵はこの新しい商いのやり方を面白いと思った。



「だがなぁ、そうなると仲買や問屋が黙っちゃぁいねぇんじゃぁねえのかい?」



「そこなんでございやすよ、何でも製造元に直接掛けあって現金で仕入れるもんで、
先方も金回りがよく助かるということのようでございやす。




まぁ出回る商品の数が知れておりやすので大店あたりは気にもならねぇ
というのが本音のようで。



主は五十過ぎのいかにも商人ふう。



奉公人は番頭と想える四十代の男、それに小間物など女子衆を相手の下女、
他に小僧が二人。



それにしては店構えもそこそこの広さで、
品物も分別がきっちりとなされて選びやすく、
自分の手にとって品物を確かめた上で納得して買い求められるところが
受けているようでございやす」。



押し売り掛売一切なしの毎日ニコニコ現金払いと申しておりやす」。



「なるほどなるほど、聞けば聞くほど面白ぇ・・・・・」
平蔵は腕組みしながら粂八を振り返った。



「なぁ粂、商いは商品を並べ、やってくる客に商品を薦め、
挙句買う時ぁつけというのが普通だよのう」



「へぇさようで・・・・・」



「そこだ そこがどうも気になる、何かあるような気がしてならねぇ、
現金払いとくりゃぁお前ぇそれなりの蓄えが常に店にある問いうことだぜ、
それにしちゃぁ不用心だと想わねぇかえ」



「左様でございますねぇ、米にしても小分けとはいえ
日々の量を賄うにやぁそれ相当の置き場所も必要でございます、
ところがよく考えておりまして、それぞれ個別に商品を保管しており、

毎日夕方翌日必要な物を書き出して、その日の内にそれらを手配いたしまして、
翌日朝には品物が店に並べられるような塩梅で、
こいつは中々よく出来ております。



地産地消とか言うそうで、出来る限り近場のものをなるべく早く
回す事で皆が助かるという事だそうでございます」



魚などは日本橋あたりにいけすを持っており、
そこから上げて配達したとのことでございます。



「なるほどのう 専門店との集まりと言うわけだな」



「へい そのようで・・・・・・」



「ところでなぁ 売れ残りというものはでねぇのかえ?」



「へい あっしもそこんところが気になりやして聞いてみやしたら、
それなりに調節して仕入れるそうでございますが、それでの残る者も有り、
まぁそれを見越しての掛け値もあるのが普通でございます。



ところが驚くじゃぁございませんか、売れ残った野菜や魚は調理して
(暮れ市)と称して置くと、勤め帰りにお武家様や夜勤をする当番のもの、
お酒を召された後の手土産とか、
中にぁ博打の現場に持ち込んでなんてのもあるそうでございます」



「へへへっ! 考ぇたものだのう、そいつは手間いらずで独り身にゃぁ良いわな。



では繁盛いたしておるであろうのう」



そりゃぁもう、女房も亭主も稼ぎに出かける者にとっちゃぁ
便利な仕掛けでございますよ」



「そうさなぁ毎日根深汁にメザシと梅干しじゃぁお前ぇ
飽きもこよってぇもんだからなぁ、
だがよ粂!味はいま一つじゃぁねぇのかえ?」



「ところがどっこいと来やして、味も中々の腕前で、
元は築地の板前がまかないをこなしているそうで、
こっちのほうも中々評判でございますよ」



「おいおい そいつは聞き逃せねぇぜ」
平蔵の虫が目を覚ましかけたようである。



「よし! 俺も一度検分にまいろう」



「長谷川様が・・・・・へへっ こいつはどうも へへへへっ」



「おい 粂!そのへへへっは余計だ」



「へい こりゃぁどうも へい!」



というわけで、早速平蔵翌日には早速の出陣と相成った。



お供はおなじみのウサ忠こと木村忠吾。



「お頭本日は又どのようなところへお供致せばよろしいので?」



「忠吾、あ~本日はな、お前ぇの好きな者を求めてちょいとなぁ」



「と申されますと・・・・・うふふふふ」



「おい 忠吾、出会い茶屋ではないぜ」



「はっ?違うておりますので?な~んだ」



「な~んだとは何だ、お前ぇはなっからそう想ぅておったのか?」



「はぁ何とも、私の好きなものと仰せられましたので・・・・・・」



「違ェねぇ そいつは悪かったなぁ わぁははは」



目指すは日本橋小網町の「なんでも屋」



「なるほど本所も浅草も築地も程々の場所、こいつぁ美味ぇところに構えたもんだ、
近くは商いの町を控えそこの奉公人なども、色々と便利が良かろう、
なるほどなるほどうんうん」



「いらっしゃいませ!どうぞご自由に手にとって眺めてくださいませ」



腰を折って笑顔で対応するこのなんでも屋の奉公人の眼を確かめるように

「他所のお店より求めやすいのだが、この店の品物はどこから仕入れるのだえ?」
と平蔵は棚に並んだ酒に眼を流す。



「はい、私どもは大抵のものを赤間関で直接仕入れ、足の早い自前の小船に積み、
上方で荷降ろしするものと積み込むものの仕入れを済ませ
南海航路で江戸に運んでおりますので、
他所よりも安く早くお客様にお届け出来るのでございます、
従いまして全国の銘酒もご覧のとおり揃っております」
とにこやかな返事が戻ってきた。

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9月第1号  なんでも屋  2-2


江戸の物価高騰の原因は株仲間の市場独占ばかりではなく
需要が追いつかないところであった。



これは吉宗が行った享保の改革で株仲間の解散により
流通が混乱してしまったためである。



あらゆる物資は一旦大坂に集まりそれを百石の菱垣廻船で江戸まで送っていたが、
それぞれの生産地にある廻船屋が自分の船で直接売りさばく
内海船の南海航路を築いた。



これまでは蝦夷や松前からの荷も日本海廻りで赤間関(下関)で一旦潮待ちする。



ここに内海船が待ち受けて、大坂の商人が江戸の商人とかわした通常の銀高より
高値で買い取り
江戸に運んだ。



しかしこれもある程度の荷がまとまらなければ動かなかった。



その隙間をうまく立ちまわったのが足の早い酒などを主に扱う樽廻船による輸送であった。



瀬戸内は潮待ち、風待ちで止まるところも多く、
そこでもこの商売は成り立っているという。



この時の平蔵の体験が、後に石川島加役方人足寄場を造るさいの
授産施設の考え方の基本になった。



つまり、一箇所に集められた人々に対して社会復帰のための施設として
それぞれ能力に応じて適材適所の仕事を習わせ、出
所後の生活自立の道をつけたわけである。



清水御門前火付盗賊改方役宅に忠吾を残し、本所菊川町の役宅への帰り道を、
平蔵は永代橋を渡り久方ぶりに深川へと足を向けた。



同心村松忠之進より「深川法禅寺傍に(科野庵)という
美味い白傍を出す店があると聞いていたからである。



本所深川法禅寺近くの蕎麦屋はすぐに判った。



小粋な数寄屋造りに店構えもあまり欲張らず、
3間ほどの入り口には小庭をしつらえてあり、三石に小草、黒竹、冠り松を配し、
景気をよく心得て配られた景色は入る前から客の心をつかむに十分な気配りが伺え、
店主の心意気が感じられた。



中は表からは見えないが広々とした中に部屋をゆったりと塩梅しており、
質の高さを覚える。



丸窓を開けると路地庭が隣の土壁を隠すように竹壁が配され
小石や草花のあしらいも見事という他ないほどに気配りも行き届いている。



なるほど材木商が出入りするこの深川ならではの洒脱なのびやかさを
平蔵は感じていた。



見上げれば、西の空が紅葉を敷き詰めたように真っ赤に染まり
その中をすじ雲が刷毛で引いたように流れていた。



あないされるままに通された部屋は、小さいながらも床が仕切られて
北山の杉絞り丸太に床框には高価な紫檀を使っている。



掛け物も、おおぶりな月に雁の二つ3つ、さり気なく振り込まれた床の花も
糸芒に不如帰があしらわれ、静けさの中にも風を想わす気持ちが読めてとれる。



「おまたせを致しました」
亭主らしき五十過ぎと見える男が静かに膳を持って入ってきた。



「初めてと思い受け致しますが、今後共よろしくお願いいたします」
と手をついた。



「俺は昔この界隈に住みおったものでなぁ、いや懐かしくあの頃を思い出される」



「左様でございますか、まだこの店は日も浅く少しでもおくつろぎいただければと、
余計なものを排しました」。



「ところで名前ぇから察するに信濃の出であろうかの?」



「はい 主の先祖が保科様のおそばに仕えていたそうでございます」



「おいおい お前ぇが主ではないの変え?」
平蔵はこの落ち着いた所作の男が主と思っていただけに、
この言葉は少々意外であった。



「するとご亭主は・・・・・・」



「はい めったに顔を出されません。



旅がお好きのようで、店は私どもに任せ全国あちこちと食べる気とか」



「へへっ そいつはまた豪気な、だがそんなものが生かされておるのであろうな。



ところでこの白湯はなんだえ?」



「はい 手前共の故郷では蕎麦はいたみやすい物と言われ、
食当たりしやすいので、毒消しに茹でたそば湯を仕上げに頂く風習がございまして、
元々は豆腐の味噌煮を頂居たようでございますが、
土地柄も貧しくいつからかそば湯を頂くようになったようにございます」。



「ふむ さっぱりとした中に何とも言えぬ甘さ、
それに薫りが名残の気持ちを誘うものよのう、
ウム細打ちの白蕎麦に満足させられるしかけだのう」



この一時が平蔵はいたく気に入った様子である。



役宅に戻った平蔵は早速村松松忠之進を呼び出し
「いやぁ猫どの、あの深川の蕎麦屋は実に美味かった!構えも見事という他無く、
さすが猫どのご推薦のことだけはある」
と報告した。



「あっ お頭はお一人で?」



「うむ、ゆっくりと味おうてみたくてのう」



「お一人とは・・・・・・」
と恨めしそうな顔之猫どのの顔を察して。



「おお こいつはすまぬ、いずれ又猫どのと同道いたそう」
と繕った。



「まぁお頭が然様に申されますなら・・・・・」
と先ほどのおかんむり顔は何処へやら消えて、目尻が緩んでいる。



その数日後、日本橋の「なんでも屋」が火を出し丸焼けになる家事騒ぎがあった。



火事の知らせを受けて清水御門前の役宅から急ぎ駆けつけた平蔵の
目に写ったものは、見る影もないほどに焼けた無残な火事場であった。



火元が主の寝室からで、奉行所の所見では寝煙草の不始末ということであった。



証拠に枕元にはうつ伏せの主の死体と煙管や煙草盆が焼け焦げた状態で
残っていたからである。



平蔵はその焼け具合がどうにも気に入らなかった。



あまりに焼けすぎていたことや燃え方に不自然な所見が見られたこと。



与力筆頭の佐嶋忠介が
「おかしら 何やら菜種油のような匂いが感じられますが」
と。



「佐嶋 おまえもそう想うか、俺はどうにも気に食わねぇ。



つい先日立ち寄った際にはこのような事が起こる前触れは感じなかった」。



残された柱にも不自然な焼け方が見られる。



途中から燃え広がったような燃え方は普通しないはずである。



「こいつは油をかけて日をつけたように思えるがどうじゃ?」
と佐嶋の意見を正してみた。



「全くそのようにしか想えませぬなぁ」



「ふむ すると火付け見るか」



「はぁ そのほうが自然かと存じます」



「とすれば物盗りということになろうが、その方はいかがであった?」



「奉行所の調書を読みます限りでは、物盗りのようではございません、
何しろ金子箱にはおよそ三百両ほどの金が残されておりましたよし」



「ただ・・・・」



「ただ?何とした」



「はぁ ただ箱は鍵がかけられておらず、錠前は開いたままで
傍に落ちていたそうにございます。



「と言うことなると物盗りと見せかけたことも考えられるわけだな」



「ははっ 仰せのとおりかと」



「死体はいくつあった?」



「検視の調書では五体とあります」



「うむ 俺が知っている人数もそうであった、で、
それぞれの遺体はどのような場所度と格好であった」



「少しお待ちを・・・・・主は寝間でうつ伏せのまま、番頭は自分の部屋で・・・・・



全員それぞれの寝間ではございますが一様に乱れた様子もなき状態でございます」



「なぁ佐嶋、人は寝る時うつ伏せで休むかえ?うつ伏せは赤子の時のみ、
こいつぁ背中で汗をかくからだとよ、大人はそうはするまえ?
おまけに火の中で乱れもないとはこいつはどう見ても妙ではないか」



「確かに・・・・・・・妙でございますなぁ」



「誰か!小林はおらぬか!」



「お頭 これに、何か御用でございましょうか?」



「おう 小林、すまぬが麹町平川町の山田浅右衛門殿に、
長谷川平蔵がここにお越し願えまいかと申しておる故伝えてきてはくれぬか」



「あの 御様御用(おためしごよう)の山田浅右衛門様でございますか?」



「うむ 過日知りおうてのう、是非にお力をお貸し願えまいかとさよう・・・」



「早速出向いてまいります」
と小林金也は出かけていった



その日の昼過ぎ小林とともに山田浅右衛門がやってきた。



「山田殿ご足労をかたじけのう存じまする」



「道中こちらの御仁よりあらかたは伺い申したが、
長谷川殿又いかようなことでござろう?」
と浅右衛門が焼け跡に入ってきた。



すでに遺体は道に出され、火事場の片付けも始まっていた。



何しろ焼け方が激しく類焼の家が今にも倒れそうで、
その引き倒しが安全を確保する上でも必要との判断からであった。



「山田殿、この遺体にどうも不自然なところを感じまして、
ご貴殿のお考えをお聞かせ願えればとご足労をお願い申しました」



「判り申した・・・・・」
浅右衛門は亡骸に軽く両手を合わせて検視にかかった。



すでに腐敗が始まりかけた異様な異臭の中での検視は生半可なことではない。



次々と検めた後

「長谷川殿、いずれも鋭い刃物のようなもので殺害されていますな」



「何と!やはり殺害でござったか」



「見事という他ござらぬが、これは相当の手練ものと想われます、
まず口を塞がれ、その状態で心の臓を一突き、
絶命するまでその状態を維持できるところなぞ並みの器量ではでき申さぬ」



「山田殿 何故そのようなことがお判りなされるので?」
平蔵は山田浅右衛門の知識と実践に裏打ちされた経験からだとは理解が出来たが、
それが一体何なのか合点がいかなかった。



「長谷川殿 普通であれば心の臓を一刺ししても、
ましてや火で囲まれればじっとしてはおりませぬ。
人はまだ息を吸おうと口を開け申す、だがこの遺体いずれも口は閉じたまま、
さすれば口をふさぎて絶命するのを待った残忍なやり口と
見るのがまっとうでござろう」



「なるほど 左様なことが‥‥‥‥‥それにしても酷いやり方でござりまするなぁ」
平蔵は犯人の手口の凄まじさにますます怒りが燃え上がった。



だが、この事件はその後の調べでも全く証拠が残されておらず、
迷宮入りのままである。



平蔵にとって痛恨の事件の一つでもある。



あの日なんでも屋を出る前に主が言った言葉が平蔵の耳に残っている。


「千代田のお城の東西南北に出店を構え、その店から東西に二十町先に
又出店を構え、江戸の町をこれらで網をかぶせるように覆い尽くせば、
皆様に安くて新鮮なものをいつでも召し上がっていただける事が出来る、
これが私の夢でございます」

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8月第5号  一寸の虫 2-1




四ツ谷南寺町戒行寺門前の茶店で、
商家の娘とその下女と思しき二人連れが休んでいた。



隣の置縁に腰を下ろした浪人が
「親父酒をくれ」
と冷酒を注文して、
「おっ これは又美しきお女中、どうだな1杯酌をしてはくれぬか?」
と絡んできた。



「どうぞお構いなく」
付き女中が慇懃(いんぎん)に断ると

「まぁ良いではないか、何も取って食おうなぞと言っておるのではない、
一杯だけでも美しきお女中に酌をして頂ければ、
酒も又いっそう美味というだけのこと」
と盃を差し出した。



「お許しくださいませ」
女中はそう断りを入れて
「お代はここに置きますから」
と茶代を置き立ち上がってその場を離れようとした。



「待て待て!ただの1杯だけ、それならばよかろう!」
と娘の袖を掴んだ。



「お許しを!」
と袖を引いたその袖先に徳利が触れて酒がこぼれた。



「おのれ何を致す!」
とこれを機に言いがかりをつける。



「ご無礼を致しました、これでお許しを」
といくばくかの小銭を差し出した。



「無礼な!落ちぶれ果てても武士の身、施しとはいかなる所存!」
と語気も鋭く立ち上がった。



険悪な空気が廻りを包み、遠巻きに人々が怖いもの見たさで成り行きを見守った。



「もっ 申し訳ござりません」
蚊の鳴くようなか細い声で娘が詫びる。



「俺はなぁ、ゆすりタカリをしようと思っているのではないぞ、
こぼされた酒の始末をどうしてくれるかと、それを申しておる」
言葉は穏やかだが、そこに更なる含みを意図していることは明らかである。



「ではいかようにすればよろしいのでございましょう?」
と女中が言葉を継いだ。



「だから先程から申しておるではないか、1杯だけ酌をしてくれと」



「そのお申し出だけはお断り申し上げます」
きっぱりと言い切った女中に

「無礼者!」
男は刀を抜き脅しに掛かった。



「ご無体な!」
女中は娘を後ろにかばいながらわなわなと震えている。



「そこまでになされてはいかがでござろう」
と、奥から声が聞こえてきた。



「何ぃ 誰だ、出てこい!」
男は奥に向かって大声を上げた。



「下手な芝居に旨い酒がまずくなった」
その声の持ち主は刀を落し差しに手挟みながら店先に現れた。



「余計な真似を!」

「おう して悪かったかのう」
静かに微笑を浮かべながら娘のほうをチラと見やり、
「早く行かれよ!」
と表の道を顎で指した。



「相済みません!」
女と女中は軽く会釈をしてその場を立ち去った。



「余計な事をしおって!」
浪人は刀の柄に手をかけながら威嚇した。



「抜かれればその腕の一本も頂けねばならぬが、それでもよろしいか?」
ゆっくりと腰を落としながら仲裁に入った浪人が鯉口を引き出してぐっと押さえた。



「ぬぅ 覚えておれ!」
と立ち去ろうとするのへ「

待った!酒代ははらっておけ」



バラバラと小銭を放り出して浪人は足早に立ち去った。



「やれやれ、騒がしいやつだ、ゆっくり酒も飲めぬ、
亭主、すまぬが飲み直しにもう一本つけてくれぬか」
今度は表の置縁に腰を下ろし、立ち去ってゆく人の流れに目を向けていた。



「これはあっしのほんの気持ちで」
と亭主が酒を持ってきた。



「あっ そのようなお気遣い無用だ」



「へぇ ですが、先ほどのお武家様のやりとりに、
こう 胸ん中がスッキリいたしやしたものでございやすから、どうぞお口直しに」
首に巻いた手ぬぐいで首を拭き拭き頭を下げた。



「さようか、ならば遠慮無く頂戴する」



その数日後、又同じ場所で浪人が酒を飲んでいた。



このたびは店前である。



「まぁ お武家様は先日の・・・・・・」
と親子らしき商家の者が声をかけてきた。



「うっ? おお あの時の、無事で何より何より、で?本日は又」



「はい お父様と戒行寺にお参りに行った帰りでございます。



お父様 この方が先日私どもを難儀からお助けくださったおぶけさまですわ」
とそばの主に告げた。



「これはこれは、その節は娘が危ういところをお助けいただいたそうで、
誠にありがとう存じます」



「何の何の、たまたま居合わせていたまでのこと礼には及びません」
と手を振った。



「何を申されますやら、手前は四谷御門前、四谷伝馬町の小間物問屋
鈴屋重兵衛と申します、この娘は菊と申します」。



「菊どのか、この辺りは武家屋敷も多くしたがって浪人も又多い、
過日のようなこともしばし起こりかねぬ、出来るなら父御殿と
同道されたほうがよろしいかと」
と忠告した。



「最もな事でございますなぁ、丁度あの日は手前が多用にて、
女中に任せてたもので、今後は気をつけると致します。
ところでお武家様はいずれかのご家中でお勤めであったとか?」



「何故だな?」
いぶかる浪人に
「聞きましたるところでは剣の方も中々のようでございますね」



「どうしてそのようなことを?」



「私どもの店に出入りしておりますものが、丁度あの場に居あわせておりまして、
その後のことを聞きました。



それで、もしやと、こうして日々お寺に参っておりました」



「何と!呆れた御仁じゃなぁあははははは、身共は鈴木大志郎と申す、元
はさる小藩の納戸役を勤めておりましたが、何処も同じで身共もお役御免になり、
それ以来浪々の身、時折腕に覚えのそろばんで商家などの帳簿の手助けで
何とか糊口をしのいでおるという有り様、お笑いくだされ、あははははは」



「さようでございましたか、で 今は何処かのお店に?」



「この所口入れ屋からの話もなく日暮しゼミでござるよ」



「おお それは丁度よかった、どうか手前どもの相談に乗っては頂けませんか?」



「うむ どのような商いをされておられる」



「はい 手前どもの商いは小間物でございまして、場所が伝馬町ということもあり、
町家の方々から武家屋敷の奥向きからお女中までおかげを持ちまして
賑わっております。」



「それはそれは 繁盛が何より、まぁ一度店を覗かせていただこう」



「はい ぜひにそのように・・・・・・お待ち申しております」



そう言って別れた。



数日後大志郎の姿が伝馬町の鈴屋の前にあった。



「ごめん!主どのはおられるか?拙者鈴木大志郎と申す者」
と取次を願った。



番頭の知らせに大急ぎで主の重兵衛が急ぎ出てきた。



「これはこれは鈴木様!どうぞどうぞ奥の方へ」
と奥座敷に案内し
「菊はおらぬか!鈴木様がお見えになられたぞ」
と奥に声をかけた。



出かける支度を終えた菊がいそいそと出てきた。



「おや、本日も何処へかお出かけですか?」
と、姿を見て聞いた。



「はい、本日は麹町の成瀬様のお屋敷までお父様とご挨拶に」



「いつも成瀬様の奥向きに色々と小間物を収めさせて頂いておりますもので」



「それは又ご苦労でございますな」



「おお ちょうどよいところで、いかがでございましょう鈴木様、
道中の警護をお願いできればこれほど心強いことはございません」



「そうですわお父様!お願いいいたしましょうよ、
ねっお引き受け下さいましな鈴木様」



「んっ まぁ立ち寄ったついでと想えば・・・・・判りました、
お供を引き受けましょう」



「まぁ良かった、嬉しい!では早速参りましょう!」
と菊ははしゃいでいる。



こうして大志郎と鈴屋の関わりが始まった。



「重兵衛どの、店の物を少し並び替えなぞなされば、
更に買い求める客にも見やすくなると思うが・・・・・」



「あっ さようなことがございましょうか?」



「うむ 店構えというものは、先ず入りやすいということから始めるが第一歩、そ
こから品数や色違え、更に奥には高価なものと、
まぁ魚で申せば定置網の様に想えば良いかなぁ」



「これは又面白いたとえでございますねぇ」



「うむ 人というものはそれと知らずに流れを持つもの、
無駄な動きを整理して導く、これも商いの気配りと思うが」



「はぁ全く鈴木様の才覚にはこの商い専門の重兵衛も舌を巻きますわい」
と手離しの様子である。



事実商売には呼び込み用のものや見世物、
それから本命と水の流れのような動線を考慮するのが無駄を省き、
客層を見定めるにも適した配置といえる。



それぞれに得意な者を手配りすれば、買う方も安心して相談もできる。



おかげか、鈴屋の商売も繁盛している。



こういう時の月日は流れるのも早い、
あっという間に半年が流れてゆこうとしていた。



「お父様京は浅草の掛け小屋へ行きたいのですが、
大志郎様に連れて行ってもらってもいいでしょう?」



「これ お菊!鈴木様をそのようなところへ・・・・・」



「ねぇいいでしょう大志郎さまぁ」
菊の訴えるような眼に大志郎



「さても困った菊どので・・・・・」
と笑いながら
「いかがかなぁ鈴屋どの、拙者っも退屈しのぎになりますから」



「おお お引き受け下さるか、かたじけのうございます、それなれば大安心、
ぜひともよろしくお願いいたします、では早速籠の用意を致しましょう」
と、籠を手配した。



「うれしい!大志郎様と出かけられるのは菊の何よりのたのしみでございます」
とウキウキしている。



「鈴木様今月の収支でございますが・・・・・」
と重兵衛が売掛帳を出してきた。



帳簿を調べ、売掛や取り立ての様子を調べ、
この後の方針を見定めるのも大志郎の仕事であった。



「重兵衛どの、この掛け売りは何時頃から支払いがとどこおっておるので?」



「はい この一年、催促は致しておりのでございますが、
なかなかお家の事情とかで・・・・・」



「ちと様子を探ってみましょう、焦げ付かせてもいきませんのでなぁ」



「そう願えれば私も助かります、なにとぞよろしく」



取り付け騒ぎはこの頃常套手段であったために、大志郎は少し気になった。



商家からの多額の借り入れが露見して、
その監視役であった大志郎が責任を取らされて苦い思い出があったからであろう。

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8月第5号  一寸の虫 2-2

 

数日後
「重兵衛どの、この貸付はこれ以上はされぬほうがよろしかろう」



「えっ 何故でございます?」



「うむ どうも他のところにも探りを入れてみたが、何処も未払いが続いておる、
これ以上は危ないと」



「判りました、鈴木様が左様仰せられるのでれば、
これ以上の掛けはなしに致します」



その翌月、その貸付先は責任者が逃亡し、借受帳簿が行方不明という理由で
借金の支払いを拒否してきた。



「鈴木様の仰るとおりになりましたなぁ、
こちらは大した被害もなく済みましたが、
米などを収めておりましたお蔵はかなりの被害とか、
いやはやお武家様も昨今信用がございませんなぁ」



このようなことも度々で、
鈴屋にとって大志郎は無くてはならない立場になっていった。



それと同時に娘、菊のまなざしが、大志郎に徐々に傾いてきたことを
大志郎も主の重兵衛も気付き始めていた。



「大志郎さま!今日はお芝居見物に連れて行って下さいませんか?
ねぇいいでしょうお父様」



「おやおや 又菊のわがままが始まりましたぞ大志郎様」



「私は一向に構いませんが、それにしても菊どのはお出かけがお好きなようで」



「私は大志郎様と出かけるのが好きなだけ!お
芝居なんかその口実でございますわ」
と言ってはばからないようになり、
店の者も もう当たり前のことのように黙認されている。



その帰り道、まもなく鈴屋戸いうところまで来た時、
店の横から浪人が少しだけ顔をのぞかせ、



大志郎に目配せした。



大志郎は軽くうなずき、菊を送り届けて横手に回った。



それはいつかの浪人であった。



「ちょっとそこいらまで・・・・・・」



「俺に何のようだ」
大志郎は男に問いかけた。



「うまくやっているようで・・・・・」



「まだ十分ではない!」



「そうは見えませんがねぇ、毎日毎日、今日は芝居に昨日は見世物小屋にと
ご発展のご様子」
と少々嫌味も混ぜての言葉に。



「さほど奥のほうまで出入りが叶わず、もうしばらくは時がほしい」



「のう鈴木 我らとて十分余裕があるわけではないことは
お主が一番良く存じておろう」



「判っておる!だが十分調べて無理をせず成し遂げたい、
殺しなぞは避けたいからなぁ」



「まぁ時と場合に寄るであろうが、我らとてそこまで荒っぽい事は避けたい」



「ならば今しばらく時をかけねば」



「判った、又連絡する、だが忘れなさんなお前ぇさんも同類だってことをな、
妙な仏心は身の破滅というからなぁ」



それからひと月ほど過ぎた頃、鈴屋の主人重兵衛が
「大志郎様、元はお武家様なれど、今は浪々の身の上、
されば娘の菊を嫁に貰ぅていただくわけにはいきませぬか?」
とたずねてきた。



「なんと!、いやその儀ばかりはなりませぬ!」



「何故でございましょう!やはり身分が違ぅてはなりませんか?
娘は大志郎様を好いておるようで、傍から見て痛い程でございます、
まさか大志郎はそれにお気づきにはなっておられないとか?」



「あ、いや、それは又別な気持ちでござろう、危ういところを救われた、
そのような一時の思いが残っておるだけで、
それを思い込んでおられるのではないかと・・・・・」



「まさか、それならば菊に真の気持ちを確かめればよろしいことで」



「いやいや、それだけではござらぬ、身共を保証するものとてなく、
これは難しいお話故、お断りいたしたい」



何と!欲のないお方ですねぇ、判りました、
そう云う事なればこの鈴屋が身元保証人になりましょう、
そしてこの店の裏に別棟を立ててお住まいいただき、それからという事で、
店のあとは菊と大志郎の間に生まれる子を継がせれば、何の問題もございません、
なっ!左様に致しましょう、



早速明日からこの話進めてまいりますよ、どんなに菊が喜ぶか、こ
れは良かったよかった!」



強引に重兵衛に押し切られる形で成り行きが変わってしまった。



翌日の菊の嬉しそうな顔を大志郎は生涯忘れないと想った。



それから数日が立った夕方、またしても浪人が待ち伏せしていた。



「おいちょっと顔をかせ」
それはいつぞやの茶店事件の浪人であった。



「その後の事を聞きたい、皆が待っておる、後から例の場所に来い!」
と言い残して去っていった。



その夕刻、大志郎が牛込高田の元國

寺裏の空き家、そこにはすでに浪人が四名集まって酒を飲みつつ巣食っていた。



「おお来たか、待ちかねて居ったぞ!首尾はどうだ?」



大志郎は懐から絵図を取り出した。



「うんこいつはよく出来ているではないか、これがあって引き込みがあれば、
後は赤子の手をひねるよりもやさしいではないか、のう!」



「で、決行はいつにする?」



「もう待てぬぞ、俺は懐がすかんぴんだ!」



「まぁ待て、大志郎の意見も聞かねばなるまい、何しろ胴元だからなぁ」



「それはそれとして、どうだ大志郎早いほうが良いと想うぜ」



「鈴家も月末とあらば、取り立てもまとまろうし、
売掛も期限であろう?ならばやはりこの2~3日が山場だと踏んだほうが良かろう」



「まさにそのとおりだ、大志郎、明日決行ということにして、
時は子の刻三ツあたりでどうだ、されば家人もぐっすりと寝込んでいよう」



「・・・・・・・やむをえん、あい判った」



「よし、そうと決まれば今夜は大いに飲み、かつ酔い羽目をはずそうではないか!」



「馬鹿を言え!事が終わるまでは慎重の上にも慎重に気を引き締め
構えねばならぬ!」



「そう堅いことを言うな、貴様は鈴屋の娘とよろしくやれようが、
我らは、徳利を抱き寝のわびしき日々だぞ」



「勝手にしろ!だがそのためにヘマだけは致すなよ」



翌日大志郎は菊屋に呼ばれ、月末の売掛などの帳簿を見ることになった。



「鈴木様のお知恵を頂いて、店の方もお客様が以前に増して、
多くお出かけ下さるようになりました、誠にありがとう存じます。



本日は日頃のご苦労をねぎらう用意を致しておりますので、
何卒ごゆっくりお過ごしいただき、
おおそうじゃ!出来ますればお泊りなぞ戴ければ、菊もさぞや歓びましょうし、
集金いたしました金子も用心できると言うもの、何卒お引き受けくださりませ」



「左様にござりますか、相判りました、ではそのように心づもりを致しましょう、
誠にかたじけのうござります」



「何を今更鈴木様こちらこそいずれは我が家の娘婿どの、
何のお気遣いがございましょうや」



こうして、大志郎、鈴屋の娘菊と三人で遅くまで談笑しあった。



その夜遅く、時は子の刻を回り始めた。



すでに店の者はいずれもぐっすり寝込んでおり、
空気は床に張り付いたように静まっている。



与えられた部屋の障子をわずかに開けると、
真夜中の月が一筋部屋の中に差し込んできた。



そろりと障子を開け、廊下に歩を進め入り口の潜戸を慎重に開ける。



「おお、待っていたぜ!」
と低い声がして、浪人が四名中に入ろうとした。



「まて!」
大志郎は声をかけながら、ぬっ!と、外へ出た。




「どうした!?」



「どうもこうもしない、俺はこの話辞めた!」
と言い終わらない内に、一気に抜刀して払い腰に目の前の一人を切り倒した。



「ゲッ!」
一声で終わった、見事に胴は上下に分かれてその場に血を吹き出しながら転がった。



「おのれ!寝返ったか!かまわぬ、こうなったら此奴から先に血祭りりにあげろ!」



三人が左右と正面から大志郎を一気に襲った。



大志郎は正面の男の右脇をすり抜けるように足を左にさばき、
返す刀で胴を切り倒して向こうに抜けた。



正面の男は
「ギャッ」
とうめき声を発して落とし戸に激突した。



ドンと大きな音がして、大戸が揺れた。



身を起したが、刀を構え直す余裕がなかった、
そのまままっすぐに立ちふさがった一人に突きをくれると
深々と白刃が腹に突き刺さった。



びゅっ と血潮が大志郎の顔に振りかかる、



刀を抜こうとしたが、相手が刀を掴んで離さない。



「くくくっ!大志郎は、男を足で蹴り飛ばして白刃を引きぬいた、
そこに残りの男が体当たりで突っこんできたからたまらず大志郎
「ぐへっ!!」
と腹を抑えてよろめいた、その刀を素手で掴んだまま、
脇差しを引き抜いて相手の腹に刺し違え、そのまままっすぐにかき切った。



「うぎゃっ!!」
腹を二つに引き切られて大量の血を流しながらズルズルと大志郎の足元へ
ずり落ちた。



その上に折り重なるように大志郎も崩れ落ちた。



表の物音に、大戸に近い部屋で休んでいた番頭が中から明かりを捧げて出てきた。



「ぎゃ~~~~!!」
番頭は悲鳴を上げてその場に腰を抜かして座り込んだ。



騒々しい物音と大声に近所からも明かりが集まったその中で、
五名の男の死体が辺り一面を血の海にして転がっていた。



明かりを持って一人一人の顔を照らした鈴屋重兵衛
「すすすっ鈴木様ぁ!」



大声を張り上げて大志郎を抱き起こした。



「すっすまぬ・・・・」
それが大志郎の最後の声であった。



表に駆け出してきた菊は、この光景を見ると、半狂乱のように泣き叫び
「大志郎様大志郎様」
と大志郎の亡骸を抱きしめた。



真っ白な寝衣がみるみる真っ赤な花が咲いたように染まり、
闇の中に浮かび上がり、菊の哀しい
叫び声を月が照らすだけであった。



「長谷川様どうも妙なことになっちまいましてね」



仙台堀の政七が平蔵の役宅に、やってきて首をかしげた。



「如何が致した政七」



「へい 先日の四谷伝馬町の小間物問屋鈴屋重兵衛の一件でございますが・・・・・」



「うむ てぇへんな斬り合いであったそうだのう」



「へぇ 何しろ店の前で真夜中に斬り合いでございやすから、
こいつぁ並の話じゃぁございやせん」



「うむ 、確かに妙だのう」



「後で色々と調べて判ったことでござんすが、あの鈴屋の娘菊と、
殺しあった浪人鈴木大志郎ってぇ浪人は恋仲で、
近々祝言をあげる所まで来ていたってえぇ話で」



「何と浪人とかえ?」

「へぇ それが鈴屋の主に見込まれての事だそうで・・・・・ま
ぁここいらは今どきよくある話でござんすがね、
野郎どもは五人連れで小石川あたりをゴロ巻いてつるんでいた奴らだってぇ話で、
何でも言いがかりをつけ、それを仲裁して小遣いを稼ぐ小悪党だそうでござんすよ」



「それが此度は押し込みでも企んだのであろうが、その何とか申す・・・・」

「たしか鈴木・・・・・」



「それそれ、其奴が鈴屋の娘と、まぁ瓢箪から駒であったろうが、
想えばゴミ溜めから這い出る良き頃合いと目論んだのであろうよ。



解からぬでもない、考えても見よ、長ぇ間の浪々の身は傍で見るより辛ぇもんだ」



「さようでござんすねぇ」



「で、お奉行はどのように始末をつけたんだえ?」



「へぇ お奉行様は浪人同士の単なる斬り合いという形でお収めなさいやした」



「ウムそれで良い、さすが筑後守様先を見据えたお裁きじゃ、
のう!綺麗ぇな花に泥をかける事ぁねぇじゃぁねぇか、
思い出は時に哀しみから生まれることもある。



その菊とやらも又良き思い出をでぇじに心の奥にしまっておけばよいのさ」






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8月第4号 忠吾父親になる  之 1



本日も下谷三丁目にある提灯店(みよしや)に伊三次の姿があった。



馴染みの(およね)は伊三次が二歳から十歳まで
岡崎の油屋に奉公に出されるまで育ててくれた関宿の宿場女郎(お市)の娘である。



本人同士はそれを知らないが、ふたりとも何故かウマが合い、
半ば夫婦同然の間柄で、平蔵が「お前ぇおよねに惚れてるな?何なら女房にしろ。



おれが世話を焼いてやってもいいぞ」・・・・・



「女房かぁ・・・・・およねをねぇ、そらぁ出来ねえ相談じゃねえが、
とても俺一人じゃ持ちきれねえやな」



まぁそんなわけで、この二人一体どうなるのか・・・・・・・



そのおよねが「ねえねえ伊三さん、
この所しょっちゅう上がっているチュウさんだけどさぁ」



「チュウさん?誰でぇそいつぁ?」



「ほら!よく伊三さんとも会っているあのお武家さん!じゃぁないのよぉ」



「木村の旦那?」



「そうそうそれそれ、そのチュウさんじゃぁないかなぁ」



「それがどうかしたのか?」



「相方のおたみちゃんに出来ちまったようでさぁ、
あたしに相談があったんだよぅ」



「出来ちまったって、あのあれかぁ?」



「そうその アレよぉ」



「そいつぁ嘘じゃぁあるめぇな!」



「だって伊三さんに嘘ついたってなァンにも得なんかありゃしないもん」



「だよなぁ」



「ウン だよ!」



「けどよぉ、相手が木村様だってぇどうして分かるんあぁ」



「だってこの所ずっと通い続けてるしさぁ、
それにおたみちゃんがちゅうさんって、そう言うんだもの・・・・」



「そうだよなぁ・・・・・・



よし判ったそれとなく木村様のお耳に入れておこう」



まぁそんなわけでこの話はいつのまにやら密偵たちの耳にも・・・・・



さすがと言えばさすが地獄耳の粒ぞろいだけの事はある、が



当の忠吾こと、木村忠吾にはまだ届いていないから当事者の忠吾、
本日も市中見廻りにかこつけてのお忍び。



「おいおたみ、今日は又ずいぶんと愛想が良いなぁ、
そんなお前が好きでたまらぬ」



「あれ 本気に取りますよぉ」



「おお 本気で取れ取れ、お前のためなら親も要らぬ名誉も要らぬ、
お前だけが居てくれればそれで良い」



「あれ 本当で?」



「当たり前だ、俺とお前の仲ではないか!むふふふふふふ、
だからもう一度・・・」



「あれまぁ チュウさんも(も、である)お好きですねぇ、
アレぇいやぁぁぁぁ・・・・・」



夕方近く菊川町の火付盗賊改方役宅に戻った忠吾に
「おい忠吾このたびは命中したそうだのう」
と同心の一人がニヤニヤ笑いながら耳打ちした。



「何がでございましょう?」



狐につままれた顔で忠吾きょとんとしている。



「またまたおとぼけ忠吾どの、そうやってこれまで何人泣かせたことやら、
さすが捕物よりもそちらのほうが上手うござるなぁ」



「何ですかその、そちらのほうとは、この木村忠吾一向に解せませぬ」
と少々お冠の様子に



「密偵共も風のうわさでお前の行状はお頭にも筒抜けだと想うがなぁ」
と今度は意味深な言葉に忠吾

「誰がそのようなわけのわからぬ噂を聞いてお頭に告げ口したのでございます?」と、ものすごい剣幕である。



「木村さん、下谷の提灯店(みよしや)をご存知で?・・・・・・」
と、同心の小柳安五郎



「あっ あぁあぁ 見回りの中にそのような場所もあったと
記憶いたしておりますが?」



「あっ さようで、ところでそこには
(おたみ)と申すおなごがおるそうですが、ご存知ではございませんか?」



「うっ そういえば伊三次の馴染みの何とかと申す女は存じておりますが、
はてさて・・・・」



「あはぁ さようでござりますか」



「それが何か?」



「まぁこれはあくまでも風のうわさと言うやつで、
真偽の程は定かではござらぬ、が」



「が?」



「左様 が、でござる」



「何ですかその歯に物の挟まったような物の言いようは」
忠吾、かなりかっちんと来た様子に



「おい その辺りでやめておけ」
と沢田小平次が口を挟む。



「何ですか沢田さんまで・・・・・面白くもござりませぬなぁ」



「忠吾 本当にお前には何も心当たりはないのだな!」
沢田の毅然とした言葉に忠吾



「ない・・・・・とは申しませぬが、はぁまぁ在るような無いような・・・・・」



「忠吾!お前も男ならば少しは己のやったことに責任を考えても
良いのではないか!」



「はぁ?責任でございますか?一体何の責任でございましょうや?」



「なぁ忠吾、このことはすでにお頭もご存知のこと、
知らぬはお前だけかも知れぬぞ」



「沢田さん、それは又一体どのようなことをお頭はご存知だと申されますので?」



「忠吾、お前その下谷のけころ茶屋(みよしや)のおたみをまこと知らぬのか!」



「はぁ、まぁ幾度かは伊三次に誘われて・・・・・」



「要するに知っておるということだなその(おたみ)を」



「その事が何か?」



「お頭が案じておられる」



「えっ おかしらがぁ・・・・・・・」
忠吾言葉を失いほどの驚きようである。



谷中いろは茶屋事件以来、平蔵には全く信用のない忠吾にとって、
再びのこの降って湧いた話は
心中穏やかではない。



そこへ
「忠吾は戻ったか?」
と言う平蔵の言葉が流れてきた。



忠吾真っ青になりながら
「おかしら 木村忠吾ただいま町廻りより戻ってまいりました」
と報告を上げた。



「忠吾、ご苦労であった、でその後どうじゃな?」



「はっ その後でございますか?何のその後でございましょうか?」



「チュウちゃんちょいと耳を貸してはくれぬか」
平蔵の意味深な笑顔に忠吾尻の方が何やらムズムズ・・・・・・



「あっ はぁ・・・・・そのぉ 何とも・・・・・・」



「忠吾 此度は目出度い、とは申せ、お前も御家人の末裔、
右から左とはゆくまい、
まぁ親戚一同の手前、どこかに住まいなぞ構えて、
まずは相手を住まわせてはどうじゃ?
聞けばまもなく年季も開けると言うではないか」



「はぁ 年季でございますか?一体どこの誰の・・・・・・
で、ございましょうか?」



「忠吾!」
突然の平蔵の激しい語気に忠吾は這いつくばって後ずさりを始めた。



「忠吾!そちは下谷の茶屋おんな(おたみ)を存じおろう!」



「ははっ!」



「そちがお役めを抜けだして茶屋にしけこんでおることは皆承知じゃ、
だがなぁそれだけなら良い、時には気晴らしも必要だからなぁ、
だがな、事がそれ以上進んじまった今、先の手当を講じねばなるまい、
お前ぇは一体どう致す所存なのだぇ?」



「はぁ 一体私は何をどのように致せばよろしいので?」



「馬鹿者!(おたみ)の事に決まっておろうが」



「はぁ ですから、その(おたみ)と
この木村忠吾とどのような関わりがござりますので?」



「おい うさぎ いい加減観念しろよええっ!
聞けば(おたみ)は出来ちまったってぇ話ではないか、
さすればこの始末如何がするつもりか、それを聞いておる」



平蔵は半ば呆れ顔で忠吾を見つめるが、忠吾も話の中身がまるで空っぽ。



(お頭は一体何のお話をなさっておられるので)
とその場の空気が読めず戸惑っている。



「なぁうさぎ お前は(おたみ)に心当たりはないと言うのかえ?」



平蔵の言葉に忠吾

「いえ 無いとは申しませぬが、それが・・・・・」



「おいおい まこと知らぬは亭主ばかりなりかぁ、
のぅチュウさんや!その(おたみ)は腹に子ができたそうな」



「はぁさようでございますか、それは又目出とうございますなぁ、
この後如何するのでございましょうか」・・・・・・



「チュウさまや、その相方はそちだそうじゃが?」



「えええええっっ!!まさかまさかぁ」



「そのまさかだから皆も案じておるのよ、それがまだ解らぬのか?」



「そそそそっ それは困りまする」



「おうおう 困るのはそちだけではないわなぁ、
この話を聞けばおまえぇの親戚の者共が何と言い出すか、
覚悟の上のしでかしであろうなぁ」



「めめめっ滅相もござりませぬ、(おたみ)とは、ただ客と言うだけの」



「この大馬鹿者!何事であれ、やれば出来るのも当たり前ぇのこと、
それを承知で通うたのではないのかえ?」



「滅相もござりませぬ、ただ行きずりの・・・・・」



「手慰みと申すか!」



「あっ いえ そのぉ・・・・・・」



「ええぃ はっきり致せ!」



「ははぁっ!誠に持って申しわけもござりませぬ」
忠吾、機織りバッタよろしく頭をぺこぺこさげるばかりである。



「まぁ嫁を持つ前に手前ぇの跡取りをこさえちまったんだ、
痩せても枯れても御家人のお家柄、捨てるわけにもいくまいし、
さりとて囲い者にするほどお前ぇの俸禄は余裕もなし、フム。



まぁこの広いお江戸におなごは僅かしかおらぬ、
その気になれば働くところもあろうよ、
その辺りはわしが手を貸さんでもない。



(おたみ)の年季が明けるのをまって、どこぞの長屋でも見つけ、
まぁそれから考えればよかろう。



どうじゃぁ 親父になった気分は?」



「はぁ 手前が父親でござりますか?はぁ 何ともこう・・・・・」



「でも まだ私にはその(おたみ)の腹の中の子が私の子であるという
確信がござりませぬ」



「うむ まぁ初めはそのようなものよ、何しろ己にはその確信がないからのう。



その点おなごは己の子と言う確信がある、こいつぁ大きな開きだよのう」



「忠吾どの、おなごは殿方次第で変わるもの・・・・・・
とはいえ、忠吾殿はおなごでお変わりになられるかも・・・・・おほほほほほ」



「奥方さま!それはあまりなお言葉、この木村忠吾も男でござります」



「おお よくぞ申した、それでこそ男じゃぁ、が しかしいかがいたすか、
ここが思案のしどころじゃぁのう久栄」



「はい 殿様」

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